ダウン症の次男の子育てで気づいた、小さな成長を喜ぶ心
http://voicee.jp/2015032010857
不安性の私
私は、人から「趣味は何ですか?」と聞かれると、「子育てです。」と答えます。
子育ては大変なことも多いけれど、母親でいられることは本当に幸せなこと――。
そう思えるようになったのは、K(小2)とH(2歳)の2人の子どものおかげです。
結婚7年目にしてようやく授かった長男・Kが生まれたときは、何もかもが不安でした。
湿疹が出るとオロオロし、洗濯済みのおしめの枚数が少なくなると、「すぐ洗わんと」と焦りが募ります。眠っているKのもとに何度も足を運んでは、「ああ、息をしている。よかった」と確認しないではいられないものでした。
遠足の日の出来事
Kが小学生になり、遠足の日を迎えた朝のことです。
支度が遅れ、集合時間に遅れそうな時間に家を出たKが、なぜか泣きながら帰ってきました。
「K、どうしたと?」
「ランドセルいらんやろか?」
昨日、担任の先生から、「雨が降りそうだったら、授業をする。」と言われたらしいのです。でもその日は、雲ひとつない快晴でした。
「晴れとるから、ランドセルなんかいらんよ」
「でも雨、降ったらどうすると……」
「降らんから、大丈夫よ」
私は、小学校に連絡を入れ、不安がるKを、途中まで送っていきました。
その晩、この出来事を主人に話しました。
「何でそんなことで不安に思うんやろな」
「そういえばこの間も、ご飯を食べ終わったのに、何もせんでジーッとしてた。私が『片付けんね』って言ったら片付け始めて……。ちゃんと自分ができるかどうかも心配みたいだし、何か言われないと不安みたいなんよ。何か関係あるんかねえ?」
幸福の科学の法友に相談したところ、私が先回りをして何でも指示するので、それを待つ癖がついたのかもしれないとアドバイスをもらいました。
「やっぱり、私に問題があるんかなあ……」
いろいろ考えてみても、何が原因なのかは分かりません。私の心の問題がはっきりと見えてきたのは、次男・Hがきっかけでした。
ダウン症の次男
生まれてきたHは、生後、すぐに「ダウン症」の疑いがあると言われました。
1カ月後、検査の末、「ダウン症」だと診断されたときには、涙が止まりませんでした。
私は、仏法真理で「肉体はどうであれ、魂はみな健全」と学んでいたので、「この子もしっかり育てていかなきゃ。きっと大丈夫――」と何度も自分に言い聞かせました。
Hは哺乳の際に吸引する力が弱く、体重がなかなか増えません。少しずつ増えた体重も、夏になると痩せてしまったり、便が3、4日でないこともあり、心配のし通しです。
そんな私をよそに、Kは、弟ができたことが本当に嬉しいようでした。
「ねえ、お母さん、Hちゃんは宇宙一かわいいねえ。ダウン症だから、かわいいんかなー?」
「ああ、そっか……。そんな見方もあるのか」と、Kの言葉に、心が軽くなった気がしました。
小さな成長を発見して喜ぶ心
Hは毎週一回、発達に課題のある子どもたちの集いに参加しています。
あるとき、Hよりも後に生まれたダウン症の女の子が入ってきました。その子は体も大きく、今にもハイハイしそうです。
「え!? こんなに成長の早い子もいるんだ……」
体の小さいHが、弱々しく見えました。
会うごとに、自分から動こうとしたり、物を取ろうとするその子の成長を見て、心の中は穏やかではいられません。
「Hはまだ、一人できちんと座れないのに……」
何とも言えない不安と焦りに襲われました。
それからしばらくしたある日の夕方。
「お母さん。作文の宿題みてー」
Kがそう言ってきました。
作文のテーマは、「家族の自慢」です。
「何書くの?」
「うーん。Hちゃんのこと書く。Hちゃんの自慢はいっぱいあるもんね」
『おとうとは、さいきん手をつかないですわれるようになりました。』
内心、「Hはもう10カ月だもん……。普通の子だったらとっくにできるから、担任の先生が読んだら『あれ?』って思うだろうなあ」と思いながら、作文を書くKを見ていました。
『まだゼロさいなんですよ! じまんです。』
私は、ハッとしました。
Kは、昨日のHよりも今日のHはすごいと、素直に思っていました。「ダウン症だから」という同情もなく、ただ目の前にいる弟の小さな成長を発見して、喜んでいたのです。
このとき、自分がHの成長を、他の子と比較して見ていたことに初めて気づきました。
健常児と比べても仕方ない――。でも同じダウン症の子と比べて、できないことが目にとまると、心が揺れていたのです。
その晩、私は御本尊の前で、これまでの子育てを振り返ってみました。思い返してみると、Hだけでなく、Kに対しても、他のお子さんと比べて、「できる」「できない」で一喜一憂してきた自分がいました。
「私の不安が、Kにも伝染していたんだ……」
細かいことに口を出したり、手を貸したり、おせっかいを焼いてきたのも、他のお子さんよりも、Kが「できない」と見られたくないという親の見栄からだったのです。
「K、H、ごめんね。KはK、HはHなんだよね。他の誰とも変えられない――」
そんな当たり前のことが、胸の内に広がり、子どもたちへの愛しさでいっぱいになりました。
他の誰とも比べる必要はない
Hも2歳になる頃には、しっかり座れるようになり、物をもてるようになってきました。
食事のときにスプーンを口元に持っていくとアーンと口をあけ、食べます。
ある日、Kが言いました。
「ねえ、お母さん。Hちゃんにやらせてみて。こぼしてもいいやん」
「え?」
「Hちゃん、自分で食べられるっちゃない」
(あ、私また、手を出しすぎていたんだ!)
Kの言うとおり、やらせてみないと、Hはいつまでたってもできないままです。
初めは、ご飯を口に入れた途端、スプーンを投げてしまいました。
「落としても、服や絨毯を汚してもいい。やらせてみよう!」
半月もすると、スプーンを投げたりせずに、上手にパクッと食べられるようになりました。
Kに対しても、「○○をしなさい」と言う代わりに「次に何したらいいと思う?」とか「何時に寝ると?」と自主性を育むようにしました。
先日、登校前にKが言いました。
「お母さん。今日からね、学校に行くとき、外までお見送りせんでもいいよ」
(ああ。私が口を出さなくても、この子も自分の力で成長しているんだなあ……)
人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を歩んでいる。――そのことを、私はKの素直な目から、そしてHの小さいながらも一生懸命に成長する姿から、教えてもらいました。
当たり前のことの中の喜びが、幸せを運んできてくれたのです。何よりそうしたゆっくりとした成長であっても、仏様は温かいまなざしで待ってくださっていると思うと、心の中の不安が消え、ありがたい気持ちがあふれてきます。
K、H、私をお母さんに選んでくれてありがとう。これからも、一緒に成長していこうね。