永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(772)

2010年06月21日 | Weblog
2010.6/21  772回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(33)

 匂宮が、ご自分が自由な振る舞いの許されない高貴な身分であることを、今更ながらつまらないとお思いになっておられるらしく、いらいらしていらっしゃるご様子を薫はちらっとお見上げして、なおもじらすように、

「いでや、よしなくぞ侍る。しばし世の中に心とどめじ、と、思う給ふるやうある身にて、なほざりごともつつましう侍るを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違うべき事なむ侍るべき」
――いや何も、女なんてつまらないものですよ。私などは片時も憂き世に執着を持つまいと考えねばならぬ身で、気まぐれの恋などからは遠ざかるよう慎んでおりますのに、
どうにもならないほどの思いが募りますようでは、それこそ私の頼みとする道に背くことになりましょうから――

 と申し上げますと、匂宮は、

「いで、あな、ことごとし。例のおどろおどろしき聖詞、見はててしがな」
――何とまあ、大袈裟な。いつもながらの分別くさいお話ようですね。そのように行くかどうか見届けたいものよ――

 とお笑いになります。薫は実はそれどころではなく、お心の中で、

「かの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり」
あの宇治の老女(弁の君)がちらっと洩らした一言が、胸に突き刺さって、ものあわれでならず、誰が美しいとか、難のない方だことか見ても聞いても、女のことについては、大してお心に止まることはないのでした――

 十月の五、六日頃になって、薫は宇治にお出かけにまりました。今が丁度網代の見頃でございます、と申し上げる人々もいましたが、

「何かはその蜉蝣(ひきむし)にあらそふ心にて、網代にもよらむ」
――何で蜉蝣(ひきむし)にも似たはかない身で、網代に寄って見物など――

と苦笑なさって、氷魚見物ではなく例のように人目を避けるようにして、お出掛けなります。

◆蜉蝣(ひきむし)=朝に生まれ夕べには死ぬ、はかない虫か

ではまた。


源氏物語を読んできて(771)

2010年06月20日 | Weblog
2010.6/20  771回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(32)

 薫はさらに、

「かやすき程こそ、すかまほしくは、いとよく好きぬべき世に侍りけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。さる方に見所ありぬべき女の、物思はしき、うち忍びたる住処ども、山里めいたる隈などに、おのづからはべべかめり」
――この世の中では、軽い身分の者こそ恋は気ままにできるものです。人目につかない辺りに、こうした面白い話があるようですね。それ相当に見所のある女が、もの思わしげにひっそりと山里などに住んでいるとは、ままある事のようですね――

 薫はもうひと押しと言葉をつないで、

「この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむと、年頃思ひあなづり侍りて、耳をだにこそとどめ侍らざりけれ。ほのかなりし月影の見おとりせずば、まほならむはや。けはひ有様はた、然ばかりならむをぞ、あらまほしき程とは覚え侍るべき」
――今申し上げました宇治の姫君達は、御父の八の宮がまったく世間離れなさっている聖のような御方なので、ご成長の程も、さぞかし無風流で興ざめでもあろうかと、この年月馬鹿にして、ご様子を見聞きしようとも思わずにおりましたが、月影に仄かに拝見しましたとおりの御器量ならば、昼にご覧になっても見劣りはしないでしょう。ご器量もご性格もあれほどの御方をこそ、これ以上は望めないご立派な姫君とは申すのでしょうね――

 と、ついつい力の入る物言いをなさいます。

「はたはては、まめだちていとねたく、おぼろげの人に心移るまじき人の、かく深く思へるを、疎かならじ、と、ゆかしう思すこと限りなくなり給ひぬ」
――終いには、匂宮も本心から実に妬ましく、ちょっとやそっとの女には心を動かしそうにない薫が、これ程深く思っているのだから、余程の姫君たちに違いないと、早くも宇治へのあこがれが募っていくのでした――

◆かやすき程=か(接頭語)易きほど=軽い身分であれば

◆すかまほしく=好かまほしく=浮気がしたい

◆はべべかめり=侍べべかめり=あるようでございます。

◆こちごちしう=骨骨しき=ごつごつしていて、柔らかみやなめらかさがないさま。無骨なさま。

ではまた。

源氏物語を読んできて(770)

2010年06月19日 | Weblog
2010.6/19  770回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(31)

 さて、薫はまた宇治に参上しようとお思いになって、

「三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの、見まさりせむこそをかしかるべけれ、と、あらましごとにだに宣ふものを、聞こえはげまして、御心騒がし奉らむ、と思して、のどやかなる夕暮れに参り給へり」
――そういえば、三の宮(匂宮)が常日頃「こんな奥深いと思うような山家で、思いがけない美しい女に巡りあったら、さぞかし趣深いだろうに」と、想像をたくましくしておっしゃったことがありましたっけ。これは好い機会だ。匂宮をおだてて、大げさに作り話もつけて、お気を揉ませて差し上げよう、とお考えになって、のどかな夕暮れ時に、匂宮の御殿に参上なさいました――

 いつものようによもやま話にうち興じたついでに、薫は宇治の八の宮のお話を持ち出して、あの明け方にちらっと御覧ななった姫君たちのご様子を詳しく申し上げますと、

「宮いと切にをかしと思いたり。さればよ、と御気色を見て、いとど御心動きぬべく言ひ続け給ふ」
――匂宮はご興味を持たれたようで、ひと膝乗り出されます。やはり案の定だ、と薫は匂宮のお顔色を見て取って、いよいよお心が傾くように宇治のご様子を語り続けられます――

匂宮が、

「さてそのありけむ返り事は、などか見せ給はざりし。まろならましかば」
――それで、その大君のお返事とやらを、なぜ私にお見せにくださらなかったのですか。私なら、勿体ぶって隠したりはしないのに――

 と恨みがちにおっしゃいます。薫は、

「さかし。いとさまざまご覧ずべかめる端をだに、見せさせ給はぬ。かのわたりは、かくいともうもれたる身に、ひき籠めて止むべきけはひにも侍らねば、必ずご覧ぜさせばやと思ひ給へれど、いかでか尋ねよらせ給ふべき……」
――そうでしょうか。宮も随分ご覧になるらしい女文の片端さえ私にはお見せになりませんね。あの宇治の姫君達は、私のような華やかさのない男が一人占めして済ませれるような方々ではありませんから、必ず貴方にお目にかけたいとは思いますが、貴方のような御身分の方が、どうして宇治までお出でになれましょうか……――

ではまた。


源氏物語を読んできて(769)

2010年06月18日 | Weblog
2010.6/18  769回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(30)

 また薫は、八の宮が籠られていらっしゃる御寺にも使いをお出しになります。

「山籠りの僧ども、この頃の嵐には、いと心細く苦しからむを、さておはします程の布施賜ふべからむ、と、思しやりて、絹、綿など多かりけり。御行果てて出で給ふ朝なりければ、行人どもに、綿・絹・袈裟・衣など、すべて一領の程づつ、ある限りの大徳たちにたまふ」
――山に籠られる僧たちも、この頃の寒さにはひどく御苦労なさる筈で、宮からも御布施をお与えになられるであろうと薫はお思いになって、絹や綿など沢山お持たせになったのでした。丁度八の宮が勤行をお済ませになって下山なさる朝に使いが到着しましたので、修行者たちに一重ねづつ、全部の僧たちにお与えになられたのでした――

 あの宿直人は、薫が脱ぎ捨てられた狩衣を頂いて、その優美で柔らかなご衣裳の何ともいえない匂いを身につけてみたものの、いかつい身体にはなじまない上に、袖の香の遠くまで匂うので、人にも怪しまれ、どうにも落ち着かないので、

「失ひたばや、と思へど、ところせき人の御移り香にて、えもすすぎ棄てぬぞ、あまりなるや」
――その香を消してしまいたいと思うのですが、なにしろたっぷりとした薫の移り香なので、洗い棄ても出来ないとは、余りと言えばあまりな話ですこと――

 大君からのお返事が気を利かせた今風なものではなく、ゆったりと大様に書かれておりましたのを、薫はたいそう好ましくご覧になります。一方薫から八の宮へのお手紙を侍女が取り次いで差し上げますと、

「なにかは。懸想だちてもてな給はむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、さやうにて心ぞ留めたらむ」
――何の、薫中将を懸想人のようにお扱いなど、とんでもない。あの御方は普通の青年とはどこか異なった御気性でいらっしゃるので、私が死んだ後もよろしくなどと、一言それとなく申し上げたことを、そのお積りでお心に留めていらっしゃるのでしょうから――

 と、たしなめられます。宮も薫にお見舞い品の御礼をおっしゃいましたのは、勿論のことです。

◆行人(おこないびと)=仏道を修業する人。行者。

◆一領(ひとくだり)=衣類などの一そろい。

◆大徳(だいとこ)=徳の高い僧。高僧。ここでは僧の敬称。

ではまた。


源氏物語を読んできて(768)

2010年06月17日 | Weblog
2010.6/17  768回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(29)

 大君からのお歌の筆跡もお見事で、ほんとうに疵のないご立派な御方だと、薫は、ますますお心から離れないのですが、お供が「都からお車を持って参りました」とお帰りを催促していますので、あの宿直人に濡れたご衣裳を脱ぎ与えられ、ご自分は直衣に着替えられて、

「帰り渡らせ給はむ程に、必ず参るべし」
――(八の宮)が御寺からお帰りの頃に、必ずまた参上しますから――

 とおっしゃって、京にお発ちになったのでした。

さて、京にお帰りになった薫は、

「老人の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりはこよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども、面影に添ひて、なほ思ひ離れ難き世なりけり」
――あの弁の君という老女の話が、気懸りであれからずっと物思いを続けております。また姫君達はといえば、想像していた以上にご立派で美しかったご様子が目の前にちらついて、やはり道心への道はそう簡単ではなさそうだ――

 と、お心も弱って行かれるようです。

 薫は宇治の姫君達に御文を差し上げます。好色がましさを極力避けて、厚手の白い紙に筆を念入りに選んで、墨の具合にもお気を配られてお書きになります。お手紙に、

「うちつけなるさまにや、とあいなくとどめ侍りて、残り多かるも苦しきわざになむ。かたはし聞こえ置きつるやうに、今よりは御簾の前も心やすく思しゆるすべくなむ。御山ごもり果て侍らむ日数も承りおきて、いぶせかりし霧のまよひもはるけ侍らむ」
――ぶしつけではないかと、何となく差し控えまして、申し上げたいことも沢山残して参りましたことが気になっております。あの時も申し上げましたように、今後は御簾の御前にも気軽にお許しくださいますようにお願い致します。八の宮の御参籠が終わる日をお待ちして、また霧を分けてお尋ねしながら、あの時残念にもお目にかかれませんでした宮にお会いいたしたいものです――

 と、真面目にしたためられて、左近の将監(さこんのぞう)を使いとして、「あの弁の君を尋ねてこの文を渡せ」とお言い付けになります。あの寒そうにしていた宿直人をあはれに思われて、何やかやと土産をに持たせます。

◆左近の将監(さこんのぞう)=左近衛府の三等官で、六位相当。

◆いぶせかりし霧のまよひもはるけ侍らむ=鬱陶しい霧に迷ったことも晴らしたい(
  お目にかかれなかった憂さを晴らしたいです) 

ではまた。


源氏物語を読んできて(767)

2010年06月16日 | Weblog
2010.6/16  767回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(28)

 薫のお姿は、都の人々でさえうっとりしますものを、ましてこの土地の人々はただもう夢を見ているようにお見上げしているばかりで、女房達はこのお歌のお取り次ぎにも恥ずかしがってうろうろしていますので、大君が例によって落ち着いてつつましやかに返歌をされます。

大君の(歌)

「雲のゐる峯のかけぢを秋霧のいとどへだつる頃にもあるかな」
――雲がかかっています山の道を秋の霧まで立ち込めて、父上との隔たりが余計に感じられるこの頃でございます――

 と、寂しげなご様子に、薫はあわれなこととお思いになっていらっしゃる。

「何ばかりをかしき節は見えぬあたりなれど、げに心苦しきこと多かるにも、あかうなり行けば、さすがにひたおもてなる心地して、『なかなかなる程に、うけたまはりさしつること多かる残りは、今少し面馴れてこそは、うらみ聞こえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいてもてなし給ふべくは、思はずに物おぼしわかざりけり、とうらめしうなむ』とて、宿直人がしつらひたる西面におはしてながめ給ふ」
――なるほど、これと言って風情もない処で、大君の歌のように侘びしいことが多いことだと思っているうちにも、こうあたりが明るくなってきては、やはり顔を見られるのは恥ずかしく「なまじ(大君)とお話できましたのが、かえって物思いの種ともなりそうです。いろいろ伺い洩らしたことはもう少しお馴染になってからの、恨みごとともいたしましょう。それにしましても、この私を世の好色者並みにお扱いになろうとは、案外なお仕打ちと恨めしく存じております」とおっしゃって、あの宿直人が用意した西面にお出になって物思わしげに外を眺めていらっしゃる。

 お供の中には網代の魚漁(いさり)に詳しい者がいて、

「網代は人騒がしげなり。されど氷魚も寄らぬにやあらむ、すさまじげなる気色なり」
――網代は大分騒がしいが、氷魚も寄ってこないのだろうか、どうも不興のようだ――

 などと、言い合っています。宇治川を、みすぼらしい船に柴を積み込み、めいめいがささやかな稼業に追われながら、寄るべない川の流れに浮かんで行き来する姿はいかにもあわれなようですが、薫はお心の内で、

「誰も、思へば同じ如なる世の常なさなり、われは浮かばず、玉の台に静けき身と思ふべき世かは」
――思えば、誰でも同じく無常な世の習いではある。自分は水に浮かぶ身ではないが、どうして自分だけは、金殿玉楼に一生暮らせる身だといえるだろうか――

 と、つくづく思い入っていらっしゃるのでした。

◆薫と大君とは、もちろん直接の対面はありません。お話も御簾の内にあっても几帳などで隔てられています。声や文字や衣ずれの音で姿を想像するのです。

ではまた。

源氏物語を読んできて(766)

2010年06月15日 | Weblog
2010.6/15  766回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(27)

 薫は、いましがたの弁の君(べんのきみ)の話に怪しくお心が騒いで、夢の中の話か、巫女の類の問わず語りを聞いているようなお心持ではありますが、その一方では、

「あはれにおぼつかなく思し渡ることの筋を聞こゆれば、いとおくやかしけれど、げに人目も繁し、さしぐみに古物語にかかづらひて、夜を明かしはてむも、こちごちしかるべければ」
――前々から何となくはっきりとしたことが分からないあのことを、弁の君が話しているようなので、その先も聞きたいけれど、なるほど辺りに人も多く、出会った早々に昔話にかかずらわって、夜を明かしてしまうのも気が重いので――

「そこはかと思ひわく事はなきものから、いにしへの事と聞き侍るも、ものあはれになむ。さらば必ずこの残り聞かせ給へ。霧晴れゆかばはしたなかるべきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば、思う給ふる心の程よりは、口惜しうなむ」
――何がどうなのかはっきり分かりませんが、昔の事と聞きますと、なつかしく思われます。ではいずれ必ずこの続きをお聞かせください。霧が晴れては極まり悪いような忍び姿を、厚かましくも姫君方から見咎められそうな有様ですから、残念ながら、長居も出来ませんし――

 と言って立ち上がられますと、折から、八の宮がお籠りになっていらっしゃる寺の鐘の音が、かすかに聞こえてきて、あたりは一面霧が深く立ち込めてきました。はるかに峯の八重雲を見るにつけ、寺の八の宮との隔たりがあわれに思いやられて、薫の心の内では、

「この姫君達の御心の中ども心苦しう、何事をおぼし残すらむ、かくいと奥まり給へるも道理ぞかし」
――やはりこの姫君たちの御心中がお気の毒で、これではきっと様々に物思いの多いご生活であろう。こうした内気でいらっしゃるのも尤もなことだ――

薫の(歌)

「あさぼらけ家路も見えずたづねこし槇の尾山はきりこめてけり」
――夜が明けても家路さえ見えぬ程、はるばる尋ねてきた槇の尾山(まきのおやま)には霧が深く立ち込めていることだ――

◆槇の尾山(まきのおやま)=宇治で名高い山

ではまた。


源氏物語を読んできて(765)

2010年06月14日 | Weblog
2010.6/14  765回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(26)
 
老女はつづけて、

「この頃、藤大納言と申すなる御兄の、右衛門の督にてかくれ給ひしは、物のついでなどにや、かの御上とて聞し召し伝ふる事も侍らむ、すぎ給ひて、いくばくも隔たらぬ心地のみしはべる、その折の悲しさも、まだ袖のかわく折はべらず思う給へらるるを、かくおとなしくならせ給ひにける御歳の程も、夢のやうになむ」
――近頃では藤大納言(紅梅大納言)とおっしゃる方の御兄君で、右衛門の督(故柏木)とおっしゃる御方がお亡くなりになりましたことは、何かのついでに、お身の上のお噂など、お聞き及びのこともございましたでしょうか。亡くなられて幾らも経たない気がいたしますが、その時の悲しさがまざまざと目に浮かんで参りまして、未だに袖の乾く折とてもございませんのに、あなたさまがこの様にご立派に成人なさった御歳からの年月を思いますと、全く夢のようでございます――

「かの権大納言の御乳母に侍りしは、弁が母になむ侍りし。朝夕に仕うまつり馴れ侍りしに、人数にも侍らぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余りけることを、折々うちかすめ宣ひしを、今は限りになり給ひにし御病の末つ方に、召し寄せて、いささか宣ひ置くことなむ侍りしを、聞こし召すべきゆゑなむ一事侍れど…」
――その亡くなられた権大納言(柏木=死後の加階によって権大納言となった)の御乳母という人が、弁(べん=この老女の名)の母でございました。そのような次第で私も明け暮れお側近くにお仕え申しておりましたが、督の君(かんのきみ=柏木)は人にもお話になれず、といって御自分のお胸ひとつにも包みかねる御事などを、折にふれて数ならぬこの私に、それとなくお洩らしくださるのでした。ご病気が重くなられて、いよいよご臨終近いときにも、私をお召し寄せになりまして、いささかご遺言がございました。そのことで、是非あなた様のお耳にお入れしたいことが一つございまして…――

「かばかり聞こえ出で侍るに、残りを、と思召す御心侍らば、のどかになむ聞し召し果て侍るべき。若き人々も、かたはらいたく、さし過ぎたりと、つきじろひ侍るも道理になむ」
――これだけ申し上げました上で、さらに後の話も、とのお望みになりますならば、いずれゆっくり、全部お話しいたしましょう。ほら、若い女房たちが私のことを苦々しく、出過ぎているとかげ口し合っていますのも尤もでございましょうから――

 と言って、そのまま口をつぐんでしまいました。

◆おとなしく=大人しく=大人びて。思慮分別がある。しっかりする。

◆薫の年齢=22歳。柏木が亡くなって22年経ったことになる。

◆つきじろひ=突きしろふ=互いに膝などをそっとつつき合う。

ではまた。


源氏物語を読んできて(764)

2010年06月13日 | Weblog
2010.6/13  764回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(25)

 老女は涙を流しながら話しますには、

「いかならむついでに、うち出で聞こえさせ、片端をもほのめかし、しろしめさせむと、年頃念誦のついでにも、うちまぜ思う給へわたるしるしにや、うれしき折に侍るを、まだきにおぼほれ侍る涙にくれて、えこそ聞こえさせず侍りけれ」
――何かの機会にお話し申し、その一端でもお伝え申そうと、これまで念仏の折にも併せて祈願して参りました霊験でしょうか、こんなうれしい機会を得ておりますのに、まだ何も申し上げませんうちから、あふれ出る涙に目も塞がって、急にも言葉が出て参りません――

 と、すっかり泣きくれて、たいそう悲痛な様子でおります。薫は、いったいどういうことなのかと、心の内で、

「大方、さだすぎたる人は、涙もろなるものとは見聞き給へど、いとかうしも思へるも、あやしう」
――だいたい、年寄りは涙もろく、すぐ泣きだしたりするとは聞いているが、これ程まで深く思っての様子が不気味だ――

 と、お思いになりながら、老女の言葉をひき取って、

「ここに、かく参るをば、度重なりぬるを、かくあはれ知り給へる人もなくてこそ、露けき道の程に、一人のみそぼちつれ。うれしきついでなめるを、言な残い給ひそかし」
――まあまあ、私がこちらに参上いたしますことも度重なりますが、今までは、あなたのように物の道理をわきまえた方にお会いも出来ず、露の深い道中も一人で濡れておりました。こんな好い機会はまたとありますまい。どうか何もかも残らずお話ください――

 との、薫のお言葉に、老女は、

「かかるついでしも侍らじかし。また侍りとも、夜の間の程しらぬ命の、頼むべきにも侍らぬを、さらばただ、かかる古者世に侍りけりとばかり、しろしめされ侍らなむ。三條の宮に侍りし小侍従、はかなくなり侍りにけると、ほの聞き侍りし、そのかみ睦まじう思う給へし、おなじ程の人、多く亡せ侍りにける世の末に、遥かなる世界よりつたはり参うできて、この五年六年の程なむ、これにかくさぶらひ侍る」
――ほんとうに、このような機会はまたとありませんでしょう。たとえありましても、今夜にも死ぬかも知れない私の命は、当てになるものではありませんから。それではただこんな年寄りが世に居たとだけ、ご記憶になってくださいまし。昔、三條の宮(女三宮の御殿)にお仕えしていました小侍従(こじじゅう)は、もう亡くなったとほのかに伝え聞きました。その当時睦まじく思っておりました同じ年輩の人も、大方亡くなってしまいました。私はこのような晩年になって、遠い田舎から伝手(つて)をたどって京にまいりまして、五、六年ほど、こちらの八の宮邸にご奉公させていただいております――

◆さだすぎたる人=さだ過ぎたる人=盛りの歳が過ぎる、老いた

◆写真:角度を変えての宇治平等院

ではまた。


源氏物語を読んできて(763)

2010年06月12日 | Weblog
2010.6/12  763回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(24)

 この老女は辺りを憚ることなく、

「あなかたじけなや。かたはらいたき御座のさまにもはべるかな。御簾の内にこそ。若き人々は、ものの程知らぬやうに侍るこそ」
――まあ、勿体ないこと。失礼なお席の設け方ですこと。御簾の中へどうぞ。若い人たちは物の分別がありませんでね――

 などと、きつい調子で叱るような声が、年寄りくさいのも、姫君達には気まり悪く恥ずかしい思いでおりますが、老女は年来の薫の御厚意を八の宮に代わって御礼申し上げますにも、無遠慮で馴れなれしくてちょっと小憎らしいものの、人柄の感じはなかなか品があって、このような場合の応対にそつがなく、薫は、

「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき御けはひにこそ。何事も、げに思ひ知り給ひける頼み、こよなかりけり」
――まったくよりどころもない気持ちでおりましたところ、ご厚意の程嬉しくおもいます。(あなた方の方で)何事もご存知でいらしたと思えば、この上なく頼もしい次第です――

 と物に寄りかかりながらおっしゃる御方のお姿を、老女が几帳の陰からそっと拝見しますと、

「曙のやうやうものの色わかるるに、げにやつし給へると見ゆる、狩衣姿のいと濡れしめりたる程、うたてこの世の外のにほひにや、と、あやしきまで、薫り満ちたり」
――次第にものの見分けがついてくる曙の時とて、なるほど忍び歩きの狩衣姿がひどく
濡れてはいらっしゃいますが、なんとまあ、この世ではない(極楽世界)匂いなのかと怪しい位に、薫りが満ちているのでした――

 この老女は、薫であると知って、わなわなと泣き出して、「こんな事を申し上げては出過ぎているとお咎めを蒙りそうで、我慢しておりましたが」と、昔の事を話し出すのでした。

◆たづき=方便、手段、手掛かり