2010.6/2 753回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(14)
阿闇梨は、薫の信仰深そうな御様子を、八の宮に、
「法文などの心得まほしき志なむ、いはけなかりし齢より深く思ひながら、えさらず世にあり経る程、公私に暇なく明けくらし、わざととぢ籠り習ひ読み、大方はかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも、憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛らはしくてなむ過ぐし来るを、いとあり難き御有様を承り伝へしより、かく心にかけてなむ頼み聞こえさする、など、ねんごろに申し給ひし」
―(薫という御方は)経文などの真意を知りたいというご希望がご幼少から深かったのですが、余儀なく俗世に暮らしていらっしゃるために、公私ともに多忙でいらっしゃるなかで、殊更に引き籠もって経を読み習い、大体これという事も特にない御身として、世捨て人のようなお顔をしていてもご遠慮はいらないわけですが、それも自然と怠けがちで、用事に紛れて過ごして来られたこの時に、世にも稀な宮の御生活を拝承なさって以来、とても熱心にお目にかかりたがっておいでです――
と、申し上げます。八の宮は、
「世の中をかりそめのことと思ひ取り、いとはしき心のつきそむる事も、わが身に憂へある時、なべての世もうらめしう思ひ知る初めありてなむ、道心も起こるわざなめるを、歳若く世の中思ふにかなひ、何事も飽かぬことはあらじと覚ゆる身の程に、然はた後の世さへ、たどり知り給ふらむがあり難さ」
――この世を仮の世と悟り、世を厭う心が起こりはじめますのも、身に悩みが生じてきて、世の中すべてが恨めしく思われる動機があってこそ、道心もおこってくる訳のようですのに、薫の君は歳もお若く、世の中は意のままで、万事ご不足はないと思われる御身分ながら、そのように後世のことまでお心にかけておられますとは、なんという奇特な方でしょう――
宮はさらにつづけて、「私などは、それだけの運命でしょうか、この世を厭離せよと仏さまから促されて、自然に道心へと向かっていくのですが、余命いくばくもなく、過去も未来も結局は探る事も出来ないままに終わるのではないかと。薫の君にはこちらが恥ずかしくなるほどの御方のようですね」
などと、おっしゃって、それからはお互いに御文などを交わされて、薫も自ら宇治へ
参上なさいます。
◆うちたゆみ=怠けがち
ではまた。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(14)
阿闇梨は、薫の信仰深そうな御様子を、八の宮に、
「法文などの心得まほしき志なむ、いはけなかりし齢より深く思ひながら、えさらず世にあり経る程、公私に暇なく明けくらし、わざととぢ籠り習ひ読み、大方はかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも、憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛らはしくてなむ過ぐし来るを、いとあり難き御有様を承り伝へしより、かく心にかけてなむ頼み聞こえさする、など、ねんごろに申し給ひし」
―(薫という御方は)経文などの真意を知りたいというご希望がご幼少から深かったのですが、余儀なく俗世に暮らしていらっしゃるために、公私ともに多忙でいらっしゃるなかで、殊更に引き籠もって経を読み習い、大体これという事も特にない御身として、世捨て人のようなお顔をしていてもご遠慮はいらないわけですが、それも自然と怠けがちで、用事に紛れて過ごして来られたこの時に、世にも稀な宮の御生活を拝承なさって以来、とても熱心にお目にかかりたがっておいでです――
と、申し上げます。八の宮は、
「世の中をかりそめのことと思ひ取り、いとはしき心のつきそむる事も、わが身に憂へある時、なべての世もうらめしう思ひ知る初めありてなむ、道心も起こるわざなめるを、歳若く世の中思ふにかなひ、何事も飽かぬことはあらじと覚ゆる身の程に、然はた後の世さへ、たどり知り給ふらむがあり難さ」
――この世を仮の世と悟り、世を厭う心が起こりはじめますのも、身に悩みが生じてきて、世の中すべてが恨めしく思われる動機があってこそ、道心もおこってくる訳のようですのに、薫の君は歳もお若く、世の中は意のままで、万事ご不足はないと思われる御身分ながら、そのように後世のことまでお心にかけておられますとは、なんという奇特な方でしょう――
宮はさらにつづけて、「私などは、それだけの運命でしょうか、この世を厭離せよと仏さまから促されて、自然に道心へと向かっていくのですが、余命いくばくもなく、過去も未来も結局は探る事も出来ないままに終わるのではないかと。薫の君にはこちらが恥ずかしくなるほどの御方のようですね」
などと、おっしゃって、それからはお互いに御文などを交わされて、薫も自ら宇治へ
参上なさいます。
◆うちたゆみ=怠けがち
ではまた。