永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(767)

2010年06月16日 | Weblog
2010.6/16  767回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(28)

 薫のお姿は、都の人々でさえうっとりしますものを、ましてこの土地の人々はただもう夢を見ているようにお見上げしているばかりで、女房達はこのお歌のお取り次ぎにも恥ずかしがってうろうろしていますので、大君が例によって落ち着いてつつましやかに返歌をされます。

大君の(歌)

「雲のゐる峯のかけぢを秋霧のいとどへだつる頃にもあるかな」
――雲がかかっています山の道を秋の霧まで立ち込めて、父上との隔たりが余計に感じられるこの頃でございます――

 と、寂しげなご様子に、薫はあわれなこととお思いになっていらっしゃる。

「何ばかりをかしき節は見えぬあたりなれど、げに心苦しきこと多かるにも、あかうなり行けば、さすがにひたおもてなる心地して、『なかなかなる程に、うけたまはりさしつること多かる残りは、今少し面馴れてこそは、うらみ聞こえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいてもてなし給ふべくは、思はずに物おぼしわかざりけり、とうらめしうなむ』とて、宿直人がしつらひたる西面におはしてながめ給ふ」
――なるほど、これと言って風情もない処で、大君の歌のように侘びしいことが多いことだと思っているうちにも、こうあたりが明るくなってきては、やはり顔を見られるのは恥ずかしく「なまじ(大君)とお話できましたのが、かえって物思いの種ともなりそうです。いろいろ伺い洩らしたことはもう少しお馴染になってからの、恨みごとともいたしましょう。それにしましても、この私を世の好色者並みにお扱いになろうとは、案外なお仕打ちと恨めしく存じております」とおっしゃって、あの宿直人が用意した西面にお出になって物思わしげに外を眺めていらっしゃる。

 お供の中には網代の魚漁(いさり)に詳しい者がいて、

「網代は人騒がしげなり。されど氷魚も寄らぬにやあらむ、すさまじげなる気色なり」
――網代は大分騒がしいが、氷魚も寄ってこないのだろうか、どうも不興のようだ――

 などと、言い合っています。宇治川を、みすぼらしい船に柴を積み込み、めいめいがささやかな稼業に追われながら、寄るべない川の流れに浮かんで行き来する姿はいかにもあわれなようですが、薫はお心の内で、

「誰も、思へば同じ如なる世の常なさなり、われは浮かばず、玉の台に静けき身と思ふべき世かは」
――思えば、誰でも同じく無常な世の習いではある。自分は水に浮かぶ身ではないが、どうして自分だけは、金殿玉楼に一生暮らせる身だといえるだろうか――

 と、つくづく思い入っていらっしゃるのでした。

◆薫と大君とは、もちろん直接の対面はありません。お話も御簾の内にあっても几帳などで隔てられています。声や文字や衣ずれの音で姿を想像するのです。

ではまた。

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