永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(六条院・秋の御殿)

2008年11月12日 | Weblog
◆未申の町

 南西に面し、秋の御殿と呼ばれて、秋好中宮(あきこのむ中宮)のお里の御住いとなる。元々は母の六条御息所が住んでおられた。

 寝殿はすべて南面に造られており、庭を配して泉を引き、季節の植物を楽しんだ。正門は西になる。(「六条院とは」の図、左下)

源氏物語を読んできて(218)

2008年11月11日 | Weblog
11/11  218回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(28)

 夜が更けましたが、この折に大后(朱雀院の御母で、元右大臣の一の姫君の弘徽殿女御と言われた方)の宮の御住いを素通りしては、つれないことと冷泉帝はお思いになって、お帰りの折にお立ちよりになります。太政大臣もご一緒にお供申し上げます。帝は亡くなられた母宮(藤壺宮)を思い出され、このように長くこの世にいらっしゃる方もあるのにと、残念でなりません。

 大后はお喜びになって、それぞれが、その場にふさわしいご挨拶をなさったのでした。

みながお帰りになって、大后(おおきさい)は、
「のどやかならで帰らせ給ふ響きにも、后は、なほ胸うち騒ぎて、いかに思し出づらむ、世をたもち給ふべき御宿世は、けたれぬものにこそ、と、いにしへを悔い思す。」
――なにやら忙しそうに帰られる源氏のご威勢を拝見させられるにつけて、后は、胸のうち穏やかではなく、源氏という方は、昔の事をどう思い出されているのでしょう。今のように天下を掌握される御宿世は、やはりどうすることもできないものだったと、昔の自分の仕打ちを悔やまれるのでした。――

 后は、このごろ帝にさまざまなことをご奏上申し上げても、なかなかお聞きいれ下さらないことが多く、長生きしたためにこんなにつまらない目に逢う事よ、と朱雀院の御代に戻せるものならば、と万事に不機嫌な日々を送っていらっしゃる。

「老いもておはするままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しく堪へがたくぞ、思ひ聞こえ給ひける。」
――年をとられるにつれて、大后はやかましさもひどくおなりで、朱雀院もお相手しにくく、困ったことにお思い申されていらっしゃいます。――

 かくして、大学の君(夕霧)は、その日立派に作詩をされて、進士になられ、秋の司召しには、五位に叙せられて侍従になったのでした。かの雲井の雁を忘れることはないのですが、内大臣がしっかり姫君を監視しておられるのも辛く、無理をしてまで逢おうとはお思いにはなりません。

「大殿、静かなる御住いを、同じくは広く見所ありて、(……)六条京極のわたりに、中宮の御旧き宮の辺を、四町を占めて造らせ給ふ。」
――源氏は、落ち着いた御住いをとかねてからお思いで、同じことならば、広くて眺めの良い所に、(別れて暮らしている、気がかりな明石の御方のような方を、一所に集めて暮らそう)と、六条京極のあたりに、今の梅壺中宮の旧いお屋敷の近くに、四町ほどの土地を占めてお造らせになります。――

◆一町(ひとまち)=今の換算で120メートル四方の区画。二条院も、二条院の東の院も、六条御息所の御屋敷も、一町と思われます。

ではまた。

源氏物語を読んできて(六条院とは)

2008年11月11日 | Weblog
六条院

 六条院は、六条京極あたりに四町を占める源氏の大邸宅である。一町(ひとまち)は40丈(約120メートル)四方、したがってこの敷地は中に小路を含むので、約252メートル四方、総面積63,500㎡となる。それをほぼ4等分した各町に、それぞれ春夏秋冬の趣向をこらした庭園をつくり、その季節にゆかりのある女性たちが住んだ。東南の町(右下)は春の御殿とも呼び、源氏と紫の上の住まいである。

 内裏からは南に下がって当時の都の中では東よりで、鴨川の近くにあったことになります。

源氏物語を読んできて(217)

2008年11月10日 | Weblog
11/10  217回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(27)

 『春鶯囀(しゅんおうでん)』が始まりますと、昔の花の宴の頃を思い出されて、朱雀院は、
「またさばかりの事見てむや」
――あれほどの事をいつみることか。(もう二度とあれほどの見事な舞は見られないだろう)――

と、仰せられますにつけて、源氏もその時代のことがあわれ深く思いつづけられます。

舞が終わるころに、源氏は朱雀院へ盃を差し上げられます。

そして源氏の(歌)、
「鶯のさへづる声はむかしにてむつれし花のかげぞかはれる」
――春鶯囀の楽は昔のままですが、慣れ親しんだあの御代は変わってしまいました――

朱雀院の(歌)
「九重をかすみ隔つるすみかにも春とつげくるうぐいすの声」
――すでに退位して、霞が隔てるように宮中を離れた私の御所にも、今日は春鶯囀の楽が響いて、春になったことを思わせます――

冷泉帝の(歌)
「うぐいすの昔を恋ひてさへづるは木伝ふ花の色やあせたる」
――春鶯囀の楽につけて昔を慕うのは、今の花の色が薄いからでしょうか。(わが御代が昔に劣っているからでしょうか)――

と、詠われますご様子は、まことに奥ゆかしくていらっしゃいます。

 この度は、内輪の催しですので、省略のことのあったのでしょうか、それとも記録漏らしだったでしょうか。(作者の弁)
 
 奏楽所が遠くで音がよく聞こえませんので、帝は御前に楽器をお取り寄せになります。
 兵部卿宮(昔、帥の宮と申し上げた、朱雀院の御弟宮)は琵琶、内大臣は和琴、十三弦の筝の琴は朱雀院、琴はいつものように太政大臣がお引受けになります。
この名手のお揃いになりました奏楽の見事さはたとえようもなく、趣深いものです。

「さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、つくし給へる音はたとえむ方なし。唱歌の殿上人あまた侍ふ。『安名尊』遊びて、次に『桜人』、月朧ろにさし出でてをかしき程に、中島のわたりに、ここかしこ篝火どもともして、大御遊びはやみぬ。」
――歌を謡う役の殿上人が多く控えております。催馬楽の「安名尊(あなたふと)」を謡い、次に「桜人(さくらびと)」を謡います。月がおぼろに浮かび出て、いっそう趣を添える頃には、中島のあたりにあちこち篝火(かがりび)が焚かれて、この御遊びは終わりました。――

◆御遊び=合奏によりひと時を過ごすこと。

ではまた。


源氏物語を読んできて(催馬楽)

2008年11月10日 | Weblog
催馬楽

 合奏を伴奏に、数名で斉唱する声楽曲。名称は馬子歌の意、あるいは前張(さいばり)の転などとも言われるが定説はない。

◆『安名尊(あなたふと)』=催馬楽の曲名
 「あなたふと あなたふと 今日の尊さや 古へも はれ 古へもかくやありけむや 今日のたふとさ あはれ そこやしや 今日の尊さ」

◆『桜人(さくらびと)』=催馬楽の曲名
 「桜人 その舟とどめ 島つ田を 十町作れる 見て帰りこむや そよや あす帰りこむや そよや」

源氏物語を読んできて(216)

2008年11月09日 | Weblog
11/9  216回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(26)

 朔日(ついたち)には、大殿(太政大臣=源氏)は、参賀されませんので、くつろいでお過ごしになっておられます。源氏は、昔の良房という大臣の例に倣って、白馬の節会の日は、二条院に白馬(あおうま)を引いて来て、内裏の儀式そのままにおさせになります。それも多分、帝のご内意によることでしょうが、なんともご威勢の厳めしいことです。

 二月の二十日ほどに、帝は朱雀院へ行幸なさいました。桜の盛りにはまだ早いのですが、三月は故藤壺宮の忌月でもあり、早められたのでした。

 朱雀院の御方でも、格別なご準備をなさってお待ちになります。
「帝は赤色の御衣たてまつれり。召しありて太政大臣参り給ふ。おなじ赤色着給へれば、いよいよひとつものと輝きて見えまがはせ給ふ。」
――冷泉帝は赤色の袍をお召しになっています。特にお召しがあって、太政大臣の源氏も参上なさいます。帝とご一緒の赤色の袍をお召しなので、いよいよそっくり、そのままで、輝くばかりにお美しく、見紛うばかりです。――

 冷泉帝もお歳と増すにつれて、ご様子も、ご態度もいっそう優雅にお見えになります。

 この日は、専門の詩人はお召しにならず、詩才の抜きんでた大学の学生十人をお召しになって、式部省の試験の題になぞらえて、勅題を賜ります。

「大殿の太郎君の試み賜り給ふべきゆゑなめり。臆だかき者どもは、物も覚えず。つながぬ船に乗りて池に離れ出でて、いと術なげなり。」
――太政大臣のご長男の夕霧が、試験していただくためでしょう。臆しがちな学生たちは、気おくれがして、心も空の有様です。一人ずつ舟に乗って池に浮かべられ、ひどく途方にくれているようにみえます。――

 日も次第に傾きはじめるころ、楽人を乗せた船が漕ぎまわり、音楽を奏すうちに、折から山風が吹き下ろして、面白く楽の音と交ざり合うのを聞かれても、夕霧は、

「かう苦しき道ならで交らひ遊びぬべきものを」
――こんな苦しい思いをして学問をしなくても、皆と睦み合って、楽しく遊ぶ道もあるものを――

と、世の中を恨めしくお思いになるのでした。

◆朔日(ついたち):元旦には太政大臣は必ずしも節会などに出仕しません。

◆行幸(ぎょうこう・みゆき)=帝が内裏から他所へ移動すること。天子の行くところ、万民が幸を受ける意という。

◆同じ赤色の袍=こういう晴れの日は、第一位の公卿は帝と同色の袍を着用できるという例。

ではまた。

源氏物語を読んできて(睦月・子の日遊び)

2008年11月09日 | Weblog
子の日遊び(ねのひあそび)

最初の子(ね)の日。

正月の子の日、人々は野に出て、小松を根から引き抜いて健康と長寿を祈った。「ねのび」(「根延び」を掛ける)とも言う。またこの日、若菜をともに摘んで食した。

◆写真:子の日遊び  風俗博物館

源氏物語を読んできて(睦月・白馬の節会)

2008年11月09日 | Weblog
白馬(あおうま)の節会

正月7日

 帝が庭に引き出される白馬をご覧になり、群臣と宴を催す行事。中国の陰陽五行説に基づき、春に陽のものを見るとその年の邪気を避けることができるとされた。(ちなみに、夏は赤、秋は白、冬は黒)。馬は陽のもので、春に青馬を見るようになったと考えられる。

 天暦のころ、「青馬」は文献の上で「白馬」と書かれはじめ、「あおうま」と読む。

 ここでは、先例に倣って、源氏の私邸で白馬節会を行ったとされるが、当時貴族の私邸で行われていたかどうかは、分からない。現在は、京都の上賀茂神社や大阪の住吉大社などの神社で、神事として行われている。

源氏物語を読んできて(平安時代の「あお」)

2008年11月09日 | Weblog
平安時代の「あお」

 平安時代の人々が概念としてもっている色の種類は、現代のわたしたちに比べてかなり少ない。そのなかでも特徴的なのがアオである。アオはアカ(赤)とクロ(黒)の中間にある幅広い色を指したらしい。黄・緑・茶・灰などの色がすべてアオと表現される可能性をもっていた。

 さらに、白に灰色が混ざった色の状態もアオとよばれている。「白馬の節会」の「白馬」を「あおうま」とか「あおま」と訓むのは、一般に白馬といわれる馬が、実際は灰と白の混ざり合った色をもっていたからである。

 現代でも川沼などでよく見かける大形の鳥、アオサギ(青鷺)をアオと表現するのも、同じ色の感覚が伝わっているからであろう。
 
◆参考と写真:アオサギ(青鷺) 風俗博物館

源氏物語を読んできて(215)

2008年11月08日 | Weblog
11/8  215回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(25)

 年の暮には、正月のご装束などと、大宮はただこの夕霧にだけ、かかりっきりになっていらっしゃいます。幾組もまことにお見事に御仕立てになりましたが、それが皆、六位の官服ですので、夕霧にはもの憂くて、

「朔日などには、必ずしも内裏へ参るまじう思ひ給ふるに、何にかく急がせ給ふらむ」
――元旦などには、とても参内するつもりはございませんのに、どうしてこうも沢山ご用意なさるのでしょうか。――

 大宮は、「どうしてそんなことがありましょう。男というものは、卑しい分際の者でさえ、気位だけは高く持つと言います。あまり沈み込んでいるのは、良くないですよ。縁起でもないこと。」

夕霧は、
「何かは。六位など人のあなづり侍るめれば、しばしの事とは思う給ふれど、内裏は参るももの憂くてなむ。(……)対の御方こそあはれにものし給へ。親今一所おはしまさましかば、何事を思ひ侍らまし」
――いいえ、そんなことではないのです。六位などと人が蔑んでいるようですが、それも当分のこととは思いますが、参内するのは気が進まないのです。(父君は、遠慮のないはずの実の親ですが、私を無愛想に遠ざけておられ、ご座所近くには、たやすく伺えません。花散里のところへいらした時だけ、お側に伺えます。)花散里という御方は、優しくしてくださいますが、母上(葵の上)が生きておいででしたら、このようにくよくよすることもなかったでしょうと思いますと…。――

と言って、涙の落ちるのを何とか紛らわしていらっしゃるのをご覧になるにつけ、大宮も一緒にほろほろと涙を流されて、

「母に後るる人は、程々につけて、さのみこそあはれなれど、自ずから宿世宿世に、人と成りたちぬれば、おろかに思ふ人もなきわざなるを、思ひ入れぬさまにてをものし給へ。(……)」
――母親に先立たれた人は、どのような身分でもそれぞれに辛い思いをするものですが、自然に宿縁のおもむくままに成人さえなされば、軽んずる人もいないでしょう。くよくよしないでいらっしゃいね。(故太政大臣が生きていましたら、あなたの良い後ろ盾になれたでしょうに。内大臣のご気性も、世間では褒めてくださいますが、私へのご態度も以前とは違って、長生していることも悔やまれます。若いあなたが、世をはかなんでいらっしゃるのを見ますと、本当に何もかも嫌な世の中ですこと。――

と、仰っては泣いておられます。

ではまた。