永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(塗籠)

2008年05月27日 | Weblog
塗籠(ぬりごめ)  

昼の御座の西側の、土壁で囲まれた二間の部屋である。

ここは寝殿で最も神聖な場所とされ、先祖伝来の宝物を収納したり、寝所にあてたりした。

後期になると神聖視が薄れ、物置きとしても使われだした。

◆写真 風俗博物館より

源氏物語を読んできて(昼の御座)

2008年05月27日 | Weblog
昼の御座(ひのおまし)

寝殿の母屋、東西五間(柱間)・南北二間のうち、東側三間を昼の御座と呼び主人の御座とする。

奥に御帳台(みちょうだい)を構え、前方に二帖の畳を敷き茵(しとね)を置いて座を設える。

背後には屏風(びょうぶ)を立て、二階厨子(にかいずし)や二階棚(にかいだな)など、調度の品々を並べた。

◆写真 風俗博物館より

源氏物語を読んできて(58)

2008年05月26日 | Weblog
5/26  

【賢木】の巻 (6)

源氏はこの時とばかり、

 五檀の御修法で帝が謹慎をしておられる隙を窺って、朧月夜の君付の女房中納言の手引きで、逢われます。

「女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる。重りかなる方はいかがあらむ、をかしうなまめき若びたる心地して、……」
――源氏は、朧月夜の君の魅力的で今が女盛りに、でもちょっと重々しさには欠けるものの、美しく若さの匂うさまを好ましくお思いになり、朧月夜の君は源氏の立派さに夢のような心地でした。――

程なく夜が明けるころに、すぐ傍で
「宿直(とのい)申し侍ふ、と声づくるなり……」
――宿直申しでございます、と、ことさら大声で言うようです。(どうも自分以外にもこの辺に隠れている近衛の者がいるのだろう。午前4時の交替をそれとなく知らせている。これに出会うとはなんと面倒な…)――

 慌ただしく後朝(きぬぎぬ)のうたを交して、源氏は急ぎお帰りになります。籐少将という方が蔀(しとみ)の下で源氏のお姿をご覧になっていたことは、
「もどき聞ゆるやうもありなむかし」
――源氏のこの行動を誹謗申すこともきっとあるでしょう――
(物語の先を暗示させる作者の筆)

 源氏はこのような朧月夜の君との逢瀬につけても、
「もて離れつれなき人の御心を、かつはめでたしと思ひ聞え給ふものから、わが心のひくかたにては、なほつらう心憂しと覚え給ふ折り多かり」
――私に取り合ってくださらない藤壺のお心を、一方ではご立派だと思うものの、やはり自分としてはつらく面白くないこととお悩みになることがおおいのでした――

 藤壺中宮は御子の東宮のお力になってくださる方は、源氏をおいて他にないとは承知しているものの、源氏のお心が煩わしく世間に知られる恐ろしさに、思い止まられるようあれこれと悩まれておられましたのに、

「いかなる折りにかあらむ、あさましうて近づき参りたり。心深くたばかり給ひけむことを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける」
――どのような折りであったのでしょうか。源氏が思いがけなく寝所にお入りになりました。用意周到に計画されたようで、誰も気づかないことでしたので、藤壺はまるで夢のようにお思いになります――

◆五檀の御修法(ごだんのみずほう)=五大尊の御修法ともいい、帝または国の重大事のときにおこなう。

◆宿直申し(とのいもうし)=内裏に宿直する近衛の役人が、夜中の定刻に上官の人に対して、その由を名乗り、時刻を報告すること。

ではまた。


源氏物語を読んできて(障子)

2008年05月26日 | Weblog
障 子(しょうじ)

 襖(ふすま)・衝立(ついたて)・屏風(びょうぶ)などの総称ですが、『源氏物語』 では、ほとんど「襖障子(ふすましょうじ)」のことをさします。「襖 障子」は今日でいう襖に当たるもので、左右引き違い戸になっていて、鹿皮( しかがわ)の取っ手がついています。

 ふつう、母屋(もや)と廂(ひさし)の間などに隔てとして用いられましたが、柱間に嵌(は)め込み、不用時にはずす立障子もありました。
 
 そのほかに下に台がついている移動可能な襖張りの「衝立障子(ついたてしょうじ)」があります。

 現在の障子は「明障子(あかりしょうじ) 」といわれ、平安時代末期に現われました。

◆写真は 風俗博物館より

源氏物語を読んできて(屏風)

2008年05月26日 | Weblog
屏風(びょうぶ)

 室内に立てて物の隔(へだて)として使われました。室内装飾としての役割も高く、表面には山水(せんずい)などの絵が描かれ、色紙形という空白部に詩歌が書かれることもありました。

使用しない時は畳み寄せたり、袋に入れて保管しました。

◆写真 風俗博物館より

源氏物語を読んできて(57)

2008年05月25日 | Weblog
5/25  

【賢木】の巻 (5)

 御四十九日まで、女御、御息所たちもおられましたが、過ぎますと、みな散り散りに院を去ります。十二月も二十日になりまして、世間もさびしい年末の空模様に、心の晴れない藤壺でいらっしゃいます。弘徴殿大后のご気性もご気性で、これからその方面に変わっていく世の中を住みづらくお思いになりますが、それにしても、こんなに急に皆、余所へ余所へと移って行かれるので、限りもなくお悲しみになります。

やがて、藤壺も三條の里(自邸)にお移りになります。

 年が替わりましたが、源氏は心の晴れぬ日々でございます。かつては春の除目の時は、桐壺院がご在位の時もご退位なされても、源氏の勢力に劣ることはなく、ご門前に隙間も無いくらいに立て込んでいました馬や車が、今年は数が少なくなって、家司が手持ちぶさたに居ますのを見るにつけても、

「今よりはかくこそはと思ひやられて、ものすさまじくなむ。」
――今からこんなことではと思いやられて、もの寂しくお感じになります――

それぞれの方々のご様子がつづきます。

「御櫛笥殿(みくしげどの)は、二月に尚侍(ないしのかみ)になり給ひぬ」
――御櫛笥殿(朧月夜の君)は二月に尚侍になられました――

 内裏での朧月夜の君は、高貴で品格もおありで、大勢の宮仕えの中でも特別に羽振りがおよろしい。ごく内密に源氏と文を交しておいでのようです。源氏は例のお癖で、危険であればあるほどかえって突き進まれるようです。

 弘徴殿大后は、ご気性がきつく、今までのことに何とか復讐をしたいと思われています。というのは、左大臣の姫君でいらした故葵の上をわが東宮(現朱雀院)へと所望いたしましたのを、左大臣は辞退されて、姫を源氏に差し上げたことなど、いまだに根に持っておいでです。

 左大臣はといえば、すっかり気落ちなさって内裏にも参内されません。桐壺院の在世には何事も意のままでしたが、時勢が変わって右大臣が得意顔でおられるので、面白くないのも当然です。

 源氏はかつては桐壺院のご寵愛のため、ご多忙でございましたが、今ではお通いになる女のところへも絶え絶えに、お忍び歩きもつまらない風でございます。


 紫の上のお幸せを、乳母の少納言、御父君もご満足ですが、北の方(継母)は、妬む心がおありで、まるで「継子の出世物語」のように気に入らないご様子です。

 朝顔の姫君が賀茂の斎院にお決まりになりました。源氏は昔から、この姫君をお忘れになることはなかったのですが、このようなご身分になられては、なお隔てられ、口惜しいものの、どうにもなりません。

 源氏はあれやこれやと気の紛れることなく悩みの多いことでした。

 朱雀院(今帝)は故桐壺院の遺言を違えずにと思われるものの、お若くて気質もお優しすぎて、母の大后や祖父大臣(右大臣)のなさることに背くこともおできになれず、政もご自分の思うようにならないようでございます。

 源氏としては、面倒な事ばかり重なる中ではありますが、朧月夜尚侍とは、密かに心を通わせておられるので、無理にでもお逢いできないことはないとお考えになります。

◆尚侍(ないしのかみ、しょうじ、かんのきみ)=尚侍司(ないしのつかさ)の長官。常に帝の側近にあって、取り次ぎなどをつかさどった。妃となる場合もあり、その時には、更衣に次ぐ地位として遇された。

◆写真は  葡萄染(えびぞめ)の小袿姿の紫の上
 風俗博物館より

ではまた。


源氏物語を読んできて(京都御所)

2008年05月24日 | Weblog
京都御所の正面

 平安時代の内裏は、現在の京都御所より西へ2キロほど行ったところにあった。その後、度々の火災によって焼け、天皇は里内裏と呼ばれる仮の御所を点々とする。結局南北朝時代に、東洞院土御門の里内裏が御所として定着し、現在の京都御所に至る。

源氏物語を読んできて(56)

2008年05月20日 | Weblog
5/21分  

【賢木】の巻 (4)

 院のご病気に世の中の皆、心配なさらない方はおりません。朱雀院が行幸されますと、桐壺院はご衰弱の中で、東宮のこと、大将(源氏)のことを、繰り返し頼まれます。
「侍りつる世にかはらず、大小の事を隔てず、何事も御後見と思せ……」
――私の在世中と同様に、大小につけ隔たりなく、何事もあの方(源氏)を補佐役と思われるように……年齢の割に国政を執るにしてもさほど支障はない、必ず立派に世を治め得る相の人です。そう思って面倒ゆえ親王にせず、臣下として天子の補佐をさせようと思ってきたのです。決してこのことを違えないようにせよ――

 と、他にもご遺言が多くございましたが、

ここで急に作者の言葉らしいもの
「女のまねぶべき事にしあらねば、この片端だにかたはらいたし」
――女などの筆にすべき事ではないので、ほんのこれだけの事を書いても気がひけることです――(作者が女性であることを自ら言っています)

 東宮をはじめ、次々とお見舞いに上がるなかで、大后(弘徴殿大后)は、藤壺が添われていらっしゃるので躊躇なさっていらっしゃるうちに、桐壺院は格別ひどいご容態でもありませんでしたのに、「崩れさせ給ひぬ」――お崩れ(おかくれ)になっていまわれました――
「足を空に思ひ惑ふ人多かり」――足が地につかず、あわててあちこち飛び回り、思い惑う人が多うございました――

 故桐壺院は退位されてからも、実際の世のまつりごとについては、ご在世と同じようにされておいででした。今上の朱雀院はまだ若く、
「祖父大臣(おほじおとど)、いとど急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を、いかならむと、上達部、殿上人みな思ひ嘆く」
――外祖父の右大臣は、大層性急で意地が悪く、天下がそのご自由になることを、上達部、殿上人らはみな嘆いておられます――

 中宮藤壺と源氏はなおのこと、お悲しみでご気分がすぐれませんが、ご崩御後のご法事など丁重にご供養されます。源氏は、昨年(葵の上)今年(桐壺院)と悲しいことがうち続き、人生をはかなくお思いになって、出家をも思い立たれますが、それはそれでいろいろと断ちがたい絆の多いことがあって…と思われます。

◆写真は、京都御所の築地塀(ついじべい)宮内庁より。

◎数日お休みして、京都、宇治、奈良を旅してきます。ではまた。

源氏物語を読んできて(殿上人・上達部)

2008年05月20日 | Weblog
◆殿上人(てんじょうびと・でんじょうびと)

4、5位で昇殿を許された人。
ただし蔵人は6位でも許された。
清涼殿の南廂や院の御所に控えの間(殿上の間)がある。

◆上達部(かんだちめ)、
この殿上人よりもっと偉い人を,上達部(かんだちめ)と 呼びます。大臣・大納言・中納言・大将などです。

◆殿上の間
現在でいえば国会議事堂にあたります。ここで重要な会議が行われたり,天皇からお言葉をいただきます。半円の窓があります。ここから天皇が会議の様子をご覧になっていました。この部屋に入ることができる人たちを殿上人(てんじょうびと)と呼びます。殿上人とは四位・五位と六位の蔵人(くろうど)です。有名な官職としては,少納言・中将・少将などがあります。

◆仕事
平安時代の役所は原則として大内裏(だいだいり)の中にありました。この他にも大内裏の東側に役所がありました。官人の多くは朝早くに出勤し、日没までに帰宅していました。上達部(かんだちめ)といった上級貴族は牛車で通っていましたが、それ以下は馬か徒歩でした。

官人の出勤日を上日、宿直を十夜(とおや)といい、休日も決められていました。官人には月にだいたい二十日以上の上日と数日の十夜が課せられていました。実務官僚(官人)は毎日規則正しいスケジュールを送っていましたが、参議以上の上達部は政務の他に夜の政(まつりごと)と呼ばれた儀式に加え饗宴もあり、不規則な生活でした。

こうして上達部から下級の官人に至るまで勤務状況が重視され、給与や勤務評定の基準とされたのです。当時は物忌み(ものいみ)、方違え(かたたがえ)に代表される禁忌の日もあったので、二十日以上の出勤な辛い面もあったと思われますが、逆にずる休みをする不届き者もいたようです。


◆写真 束帯(文官)風俗博物館より