永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(姫君の教育)

2008年05月12日 | Weblog
貴族の姫君
 
 平安時代の貴族の家に生まれた女の子は、政略結婚の担い手として大切に育てられました。教育や身の回りの世話、外部との取次ぎは「女房」とよばれる女性が何人かで行っていました。(たとえ天皇のお妃になったとしても、皇后の座を巡って激しい争いが繰り広げられたため、とりわけこの女房の果たす役割は大きく、お妃の教育係の女房には、源氏物語の作者の「紫式部」や、同じ頃に活躍した枕草子の作者の「清少納言」のように、中流貴族の見識のある才女が多く選ばれました。)
 
 外出は滅多にすることがなく部屋の中にひきこもり、座るのは几帳の陰、部屋の中を動くこともあまりなく、動いたとしても膝行(膝で歩く)し、いつも扇で顔を隠していため、家族にさえ顔を見せることはあまりなかったと言います。
 そんな姫君たちに求愛する男性は、姫君の弾く琴の音を聴いたり筆跡、あるいは覗き見したときに見えた黒髪を見て、その容姿や人柄を想像していたそうです。


子女の教育の変遷

 702年(大宝2年)に施行された大宝律令による大学寮には女子は入学できなかったが、典薬寮、雅楽寮で学び、女医、楽士になることはできた。平安時代、万葉仮名から女文字ができ、詩文を書くことから仮名交じり文に発展した。貴族の女子については、習字、絵画、琴と琵琶、読書に及び教育、特に和歌の修練は大切にされた。鎌倉時代になると尼僧になる子供は寺子屋に入り、室町時代には、庶民の子女も寺子屋へ入学するようになった。16~17世紀にはキリシタン宗門が九州を中心として各地に学校を設け、男女の区別なく教育を施すようになった。教科は、国語、ポルトガル語、算数、修身、音楽、作法であった。

◆写真 袿姿 風俗博物館より

源氏物語を読んできて(障屏具・几帳)

2008年05月12日 | Weblog
◆障屏具(しょうへいぐ)

 基本的に間仕切りのない、板の間に丸柱が並 ぶだけの寝殿造(しんでんづくり)では、利用の仕方により適宜さ まざまな障屏具(仕切り具)を用いた。儀式や 饗宴(きょうえん)のように広い空間が必要なときは、障屏具 を取り払い、プライベートな場合には、御簾(みす)や几帳(きちょう)を用いて空間を仕切るのである。ここでは、 寝殿に設置された戸類を含めて、こうした障屏 具の種類と用い方についてみてみよう。

◆几 帳(きちょう)
移動可能な室内障屏具のひとつで、土居(つちい)(木 製の四角い台)の中央に二本の細い円柱を立て、 その上に横木を渡し、帳(とばり)を垂らしたものである。 帳は幅が縫い合わされたもので、縫い合わせる 時に真中を縫わずに風穴(かざあな)としてあけておき、そこから外が垣間見(かいまみ)られるようになっていた。

 帳の一幅ごとに幅筋(のすじ)という布の帯が付けられ、裏 で折り返して、表に二条になるように下げられ る。下部の台から上部の横木までの高さによっ て「四尺几帳(よんしゃくきちょう) 」「三尺几帳さんじゃくきちょう」とよばれ、帳の長さもそれによって長短があった。女性が人と対面する場合には、親しい間柄であっても几帳を隔てることが多かった。

◆ 写真は 几帳  風俗博物館より

源氏物語を読んできて(47)

2008年05月12日 | Weblog
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【葵】の巻 (10)
 
 故葵の上の母君(大宮)は、袖に包んだ玉が砕けたのよりも情けなく、悲嘆のあまりあの日から起き上がることができません。

 源氏はといえば、二条院にもお出でにならず、仏前のお勤めをきちんきちんとされながら、日を送っていらっしゃいます。方々のご婦人へは、文のみとして、ましてや六條御息所には、斎宮という斎(いつき)のことにかこつけて、お便りをなさいません。
何もかも憂いがちに、いっそ出家ができたら…と思うにつけても心をよぎるのは、紫の上の「さうざうしくてものし賜ふらむ有様ぞ」――きっとさびしく過ごしておられる様子では――です。

 念仏を唱える僧たちの明け方などは、源氏は独り寝の寂しさに、寝覚めがちなのでした。

 秋も深まって風の音にもあはれが身に染みて、なれない独り寝に、夜を明かしかねる朝の霧が渡るそのころ、咲き初めた菊の枝に、濃い青鈍(あおにび)色の紙に文をつけて、使いの者が置いていきます。見れば、六條御息所の筆跡です。
うた「人の世をあはれときくも露けきにおくるる袖を思ひこそやれ」「ただ今の空に思ひ給へあまりてなむ」
――奥様のご逝去をお気の毒に伺うにつけても涙が出ますのに、あとにお残りのあなたのお嘆きはさぞかしと拝察いたします。――ただ、今のもの哀れな空に思いあまりまして、こんなお便りを――

 源氏は、常よりも優雅な筆跡の文であると関心もし、捨て置けずお読みになるものの
「つれなの御とぶらひや、と心憂し」
――なんだ、自分で祟り殺しておきながら、知らぬ振りの御弔問よ、と、恨めしい――

あの生霊にあれほど嫌な思いがしたのは、自分の心のどこかに御息所を疎んじる気持ちがあればこそともお思いになるのでした。
とはいうものの、これきりお尋ね申さぬのも、六條御息所のお名を汚すことになると思い直されて、お返事をなさいます。

文はこのような内容でした。
「ひどくご無沙汰をいたしましたが、喪中のことなのでとお察しくださると思いまして。残るわが身も亡くなった妻も無常の世の中のこと故、この世に執着するのはつまらないことです。(私への執着をお忘れください…か)喪中の文はお読みになるまいと存じまして、
こちらからはご遠慮しておりました」

◆写真 喪中の服装  風俗博物館より