十二単(じゅうにひとえ)
正式名は五衣唐衣裳(いつつぎぬ、からぎぬ、も)、または女房装束(にょうぼうしょうぞく)という。実際は12枚衣を重ねるわけではないため俗語であるが、一般的にこちらの名称で呼ばれることが多い。「十二単」という言葉が書物に初めて現れたのは、『源平盛衰記』である。源平盛衰記の建礼門院入水の段で「弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され」と書かれている。
女性の「直衣」に当たるのが「十二単」であった。
十二単は二十キロ程あり春用夏用秋用冬用があったとされる。
襲(かさね)
袿の上下に重ねることを「襲(かさね)」といい、その色の取り合わせを襲の色目という。一方、袷の表地と裏地で色を違えることは「重ね(かさね)」といい、下につけた衣の色がすかして上に映るところに見所がある。
襲は袖口・裾などに衣がすこしずつ覗き、十二単の着こなしの工夫が多くなされたところでもある。ある女房は襲に凝り、通常よりも多くの衣を重ねたが衣の重さのために歩けなくなったとある。このように平安時代は袿の枚数に定めがなかったが、室町時代には五枚となり、五衣と呼ばれるようになった。
重ねの色目には裏と表の取り合わせで固有の呼び名があり、春夏秋冬に分類されていた。古典でしばしば言及される代表的な重ねとして、服喪の際の青鈍(あをにび:表裏とも濃い縹色)、春の紅梅(表は紅、裏は紫または蘇芳)などがある。
襲も同様で、色の重ね方に決まりがあり、それぞれに固有の呼び名があった。但し、重ねと襲には同じ名称のものが見受けられ、古典研究の際の混乱の元にもなっている。
十二単では季節ごとに対応する色目の襲を着用したが、通年使われるものもあった。また弔事にも決まった色目が使われた。また天皇妃が出産する際には、妃はもちろんその世話をする女房も白づくめの十二単をまとう慣例になっていた(『紫式部日記』)。
◆写真は、風俗博物館より十二単
正式名は五衣唐衣裳(いつつぎぬ、からぎぬ、も)、または女房装束(にょうぼうしょうぞく)という。実際は12枚衣を重ねるわけではないため俗語であるが、一般的にこちらの名称で呼ばれることが多い。「十二単」という言葉が書物に初めて現れたのは、『源平盛衰記』である。源平盛衰記の建礼門院入水の段で「弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され」と書かれている。
女性の「直衣」に当たるのが「十二単」であった。
十二単は二十キロ程あり春用夏用秋用冬用があったとされる。
襲(かさね)
袿の上下に重ねることを「襲(かさね)」といい、その色の取り合わせを襲の色目という。一方、袷の表地と裏地で色を違えることは「重ね(かさね)」といい、下につけた衣の色がすかして上に映るところに見所がある。
襲は袖口・裾などに衣がすこしずつ覗き、十二単の着こなしの工夫が多くなされたところでもある。ある女房は襲に凝り、通常よりも多くの衣を重ねたが衣の重さのために歩けなくなったとある。このように平安時代は袿の枚数に定めがなかったが、室町時代には五枚となり、五衣と呼ばれるようになった。
重ねの色目には裏と表の取り合わせで固有の呼び名があり、春夏秋冬に分類されていた。古典でしばしば言及される代表的な重ねとして、服喪の際の青鈍(あをにび:表裏とも濃い縹色)、春の紅梅(表は紅、裏は紫または蘇芳)などがある。
襲も同様で、色の重ね方に決まりがあり、それぞれに固有の呼び名があった。但し、重ねと襲には同じ名称のものが見受けられ、古典研究の際の混乱の元にもなっている。
十二単では季節ごとに対応する色目の襲を着用したが、通年使われるものもあった。また弔事にも決まった色目が使われた。また天皇妃が出産する際には、妃はもちろんその世話をする女房も白づくめの十二単をまとう慣例になっていた(『紫式部日記』)。
◆写真は、風俗博物館より十二単