永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(55)

2008年05月20日 | Weblog
5/20  

【賢木】の巻 (3)
 
 御息所も斎宮もゆかしく風雅な方との評判に、この日の参内には、ご見物の車が多うございます。
御息所の感慨
「父大臣のかぎりなき筋に思し志して、いつき奉り給ひし有様かはりて……十六にて故宮に参り給ひて、二十にて後れ奉り給ふ。三十にてぞ、今日また九重を見給ひける」
――父大臣が、将来はわたしを皇后へものぼらせたいとのご希望で、大切に育ててくださったことに引き替え、晩年のこの有様は……、十六歳で故宮に嫁ぎまして、二十歳で未亡人になりました。今三十歳でこの内裏に伺うのは、何と申し上げてよいか――

 斎宮は十四歳でございます。大層可愛らしくいらっしゃるのを、御息所がきちんと装い立てて上げられましたご様子は並大抵のご立派さではございません。

発遣の儀式
「帝、御こころ動きて、別れの櫛奉り給ふ程、いとあはれにて、しほたれさせ給ひぬ」
――帝の朱雀院は、(大極殿の東の御座=儀式をするところ)で、別れの櫛を斎宮の額にお挿しになって、京へお帰りにならぬようにとおっしゃいます(お役目が長くあることは、在位が長いこと)――

 いよいよ、斎宮が内裏より退出されますのを、八省院に立て続けてお待ちになっていましたお供の出車(いだしぐるま)が、袖口の色合いも上品に並んでいます。殿上人たちは
だれかれと言わず、別れを惜しまれたのでした。

 二条通りを折れて、源氏の二条院前を過ぎますとき、源氏は榊の枝に添えて、うた一首を差し出されます。

 うた「私を振り捨てて行かれますが、後悔の涙をながされませんか」夜なので、翌朝の御息所の返しのうたは
「鈴鹿川八十瀬の浪にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせむ」
――鈴鹿川の八十瀬の浪に私の袖がぬれてもぬれなくても、はるばる伊勢まで誰が私をおもいやってくださるでしょう――

 ご筆跡も大層趣があって優美であるものの、もう少し情緒があってもよさそうなものだ、と、源氏は、霧の深く立ちこめている、明け切らぬ空を眺めて独りつぶやいておられます。

十月に入って、桐壺院のご病気は一層重くなられました。

ではまた。

源氏物語を読んできて(斎王の群行)

2008年05月20日 | Weblog
斎王の群行(ぐんこう)
 
 発遣の儀の後、斎宮は葱華輦(通常は天皇・皇后だけしか乗れない特別な輿)に乗り、いよいよ伊勢へ出発する。一行は斎宮以下長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)を始め、官人・官女以下およそ五百人に及ぶ大行列であった。

 平安時代には都から伊勢までの行程を「群行(ぐんこう)」と呼び、平安京から勢多(ここで発遣の儀の時に挿した櫛を外す)、甲賀、垂水、鈴鹿、一志の五つの頓宮(とんぐう)で禊を重ねながら、五泊六日の旅程で伊勢に到着する。

 特に垂水頓宮と鈴鹿頓宮の間の鈴鹿峠は厳しい山越えで、道中最大の難所であった。

◆写真  群行  風俗博物館より


源氏物語を読んできて(発遣の儀)

2008年05月20日 | Weblog
発遣の儀

 いよいよ伊勢へ出発となると、宮中で『発遣の儀』が行われました。ここで天皇は「都の方に赴きたもうな」とお声をかけられ、斎王の髪に「別れのお櫛」をさされたとか。斎王も決して振り向いてはいけないというしきたりだったそうです。
 これにより、天皇の祭祀権を斎王に分け与えました。
 
 小さなお櫛に多くの涙と責任の重さが込められた、悲しい儀式だったことでしょう。

◆写真 京都御苑 平安時代の内裏を忍ばせる

源氏物語を読んできて(出車)

2008年05月19日 | Weblog
出車(いだしぐるま)

出衣(いだしぎぬ)をした車を出車(いだしぐるま)といった。
牛車の簾の下から、女房装束の裾先を出して見せる装飾。乗っている本人の衣の裾を出すのではなく、最初から飾り用の装束を準備しておく。

男性の場合でも身分を隠すために出衣をすることもあった。

◆写真は 風俗博物館より
     拡大して見て下さい、



源氏物語を読んできて(54)

2008年05月19日 | Weblog
5/19  

【賢木】の巻 (2)

 ようよう明け初める空の色は格別です。
後朝(きぬぎぬ)のうた
源氏「暁の別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな」
――暁の別れはいつも涙がちで悲しいのを、今朝は特別世に比類無いほど、あわれな秋の空です――

 御息所「大かたの秋のわかれもかなしきに鳴くねな添へそ野辺の松虫」
――おおかたの秋の別れは悲しいものなのに、野辺の松虫よ、この上鳴く音を添えて悲しみを増さないでほしい――

 源氏の愛情の示し方はお上手で、御息所としても下向のことの決心がまたまたお付きにならない。世の人々は母君同伴の下向を前例のないことと非難したり、同情したり噂申すようですが、一段と高い身分の方々は、かえって窮屈なことが多いものです。

 九月十六日、斎宮は群行(ぐんこう)前のご潔斎を桂川でなされます。桐壺院のお心添えもあったのでしょう、常に勝って勅使もお供もすぐれた者をお選びになります。
源氏は斎宮と、お便りを交します。内容は「(国つ神として)母上との仲を上手く計らってください。」
返しは
「あなた様の実意のないお心を、国つ神はまづ、正されるでしょう」もちろん、女官にお書かせになったものです。

 源氏は「……ほほゑみて見居給へり。御年の程よりはをかしうもおはすべきかな、とただならず。
――斎宮のお返事の大人びておられるのを、ほほえんでごらんになります。お年よりなかなか風流でいらっしゃるなと、あやしくお心が動くのでした――

源氏の心
 十分に拝見できたご幼少の頃を、見ずじまいになったのは残念だが、御世はいつどう変わるか分からないから、いつか対面できる事もあろうよ。

◆見る、対面=いずれも関係をもつ、結婚する、を暗示する。

 作者のことば。
このような、普通でない面倒な関わり合いには、必ずご執心のお癖なのです。

ではまた。



源氏物語を読んできて(葱華輦)

2008年05月19日 | Weblog
葱華輦(そうかれん)

 天皇が神事や臨時の行幸に用いる輿で、皇后と斎王も乗用が許されていた。
天皇は牛車には乗りません。屋上の葱坊主形の吉祥飾りから葱華輦と呼ばれる。

輦(れん)=てぐるま

◆写真は 葱華輦の模型:斎宮歴史博物館より

源氏物語を読んできて(53)

2008年05月18日 | Weblog
5/18  

【賢木(さかき)】の巻 (1)

源氏    23歳9月~25歳夏
藤壺    28歳~30歳
紫の上   15歳~17歳
六條御息所 30歳~32歳
斎宮    14歳~16歳
夕霧     2歳~4歳

 六條御息所の御娘の斎宮の伊勢御下向のときが近づいて参りました。
御息所は、源氏の正妻として高貴なご身分でいらっしゃると気遣っていました葵の上が亡くなられ、世間では、今度は御息所が正妻になられるのではとお噂もし、当方の人々も、もしやと期待しておりましたが、それどころか源氏の一層冷淡なお振る舞いに、やはり一切の愛着を断ち切って伊勢への下向を決心されます。
 
 そのことをお聞きになった源氏は、やはりこれきりで別れるのは残念な気になられ、お便りを、思い入れたっぷりにお書きになります。

 このところ桐壺院はお具合が悪く、源氏もお気持ちに余裕がないものの、御息所が自分を無情者と思い、世間からも情け知らずと思われてはと、進まぬ心を励ましてお出でになります。

「遙けき野辺を分け入り給ふより、いとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹き合わせて、そのこととも聞き分かれぬ程に、物の音ども絶えだえ聞えたる、いとえんなり」
――はるかにも嵯峨野の奥へ参りますに、まことに風情のある気色でございます。秋の花々はみな萎たれて、浅茅が原も枯れ、虫の音も涸れ涸れに、松の木を吹き渡る風の音に、何の曲とも聞き分けられぬくらいに楽の音が途切れ途切れに聞えて参りますのは、大層趣深いことでございます――

 こうして、野宮(ののみや)にお着きになります。お義理の訪問のつもりですし、潔斎としての宮内に、こうした色めいた訪問は気が引けるものの、源氏は気持ちが募っていかれて、御息所の拒まれるのを、再三再四ご機嫌を取りながら嘆願されて、簀子、御簾、長押へと進み入ります。

 御息所は、以前はお互いに思い焦がれていましたのに、何の欠点があってなのか、愛情もさめて、疎くなってしまいました。が、今回のご面会は昔に似て、やはりお逢いしたい。

「……さればよ、と、なかなか心動きて思し乱る」
「思ほし残すことなき御中らひに、聞えかはし給ふ事ども、まねびやらむ方なし」
――源氏との関係もそろそろ終わりと断念されたはずなのに、ほらごらんなさい、今になって心がぐらついてお悩みになる。――
――もの思いの限りをつくされた間柄でいらっしゃるので、語り合われる事なども(いろいろで)ここに書きようがありません――

◆写真は 京都嵯峨野


ではまた。


源氏物語を読んできて(紫野斎院跡)

2008年05月18日 | Weblog
紫野斎院跡(むらさきのさいいんあと)
 
 紫野斎院は、弘仁元年(810)に創設され、建暦2年(1212)に廃絶します。その間約400年間に斎王は35人を数えました。伊勢の斎王が天皇の代替わりごとに交替するのに対し、賀茂の斎王は必ずしもそうではありませんでした。
 
 紫野斎院は、応仁の乱後その所在を失いました。しかし角田文衞先生の研究により、上京区大宮通西、廬山寺通北に位置する社横町の一画(檪谷七野神社をふくむ50丈四方)と推定されました。 

◆写真 賀茂斎院跡石碑

源氏物語を読んできて(遊び・双六)

2008年05月17日 | Weblog
双六(すごろく)

 双六は現在にもみられるが、現在の双六とは異なり、六盤の区画の上に黒白各十五個の駒を置き、二人が交互にサイコロを振ってその目数によって駒を進める。サイコロは現在と同じく各面に一個から六個の点を打つ。

◆写真は風俗博物館より