2011. 8/31 996
四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(57)
中の君は、
「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは、きこえ侍るべくや。年ごろこなたかなたにつけつつ、見知る事どもの侍しかばこそ、さま異なるたのもし人にて、今はこれよりなど、おどろかしきこゆれ」
――もし私が、あなたを不安に思いますならば、こうして人が変だと思うに違いない程親しくお話するでしょうか。長の年月、あなたのご好意を存じておりますからこそ、格別な御後見にもなっていただき、今ではこちらからご相談申し上げている位ではございませんか――
と、おっしゃいますと、薫は、
「さやうなる折も覚え侍らぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。この御山里いでたちいそぎに、からうじて召し使はせ給ふべき、それもげにご覧じ知る方ありてこそは、と、おろかにやは思ひ侍る」
――私は、そのような折がありましたとは覚えておりませんが、たいそう大袈裟なおっしゃりようですね。この度の宇治行きのご準備に、やっと私をお召使いくださるとか、これも私の意をお汲みとりくださっての上のことと、嬉しく存じております――
などと仰って、まだ何か物足りなく恨めしげではありますが、さすがに側に聞いている人がいますので、思いのままにはお話が進みません。
「外の方をながめいだしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかりまぎれなくて、山の方をぐらく、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄り居給へるも、わづらはし、とのみ内にはおぼさる」
――外の方を眺めてみますと、ようよう日も暮れかかって、虫の声だけがはっきりと聞こえ、庭の築山の方は暗くなってきて、物の見分けもつかなくなってきていますのに、薫がたいそうしんみりとしたご様子で、物に寄りかかっておられて、すぐにもお帰りになれそうもありませんのを、中の君は御簾の内で、まったく面倒なことよ、とお思いになっています――
「『限りだにある』など、いと忍びやかにうち誦じて、『思う給へわびにて侍り。音なしの里ももとめまほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、昔覚ゆる人形をもつくり、絵にも書きとりて、行ひ侍らむとなむ、思う給へなりにたる』とのたまへば」
――(薫は古歌の)「恋しき限りだにある世なりせば…」などと忍びやかに口ずさんで、
「つくづくつまらなくてなりません。泣いても声の聞こえない音無しの里へでも尋ねて行きたいものです。宇治の山荘の辺りに、わざわざの寺などではなくても、亡き大君に似せた人形(ひとがた)を作るなり、絵に描き取るなどして、勤行をしたいと、こう思うようになりました」とおっしゃいますと。
◆限りだにある=古今集「恋しさの限りだにある世なりせば年経て物は思はざらまし」
◆音なしの里=古今集「恋わびぬねをだに泣かむ声立てていづれなるらむ音無の里」
◆昔覚ゆる人形(ひとがた)=故人(大君)に似た人がた
◎都合で、9/1~9/10までお休みします。では9/11に。
四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(57)
中の君は、
「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは、きこえ侍るべくや。年ごろこなたかなたにつけつつ、見知る事どもの侍しかばこそ、さま異なるたのもし人にて、今はこれよりなど、おどろかしきこゆれ」
――もし私が、あなたを不安に思いますならば、こうして人が変だと思うに違いない程親しくお話するでしょうか。長の年月、あなたのご好意を存じておりますからこそ、格別な御後見にもなっていただき、今ではこちらからご相談申し上げている位ではございませんか――
と、おっしゃいますと、薫は、
「さやうなる折も覚え侍らぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。この御山里いでたちいそぎに、からうじて召し使はせ給ふべき、それもげにご覧じ知る方ありてこそは、と、おろかにやは思ひ侍る」
――私は、そのような折がありましたとは覚えておりませんが、たいそう大袈裟なおっしゃりようですね。この度の宇治行きのご準備に、やっと私をお召使いくださるとか、これも私の意をお汲みとりくださっての上のことと、嬉しく存じております――
などと仰って、まだ何か物足りなく恨めしげではありますが、さすがに側に聞いている人がいますので、思いのままにはお話が進みません。
「外の方をながめいだしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかりまぎれなくて、山の方をぐらく、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄り居給へるも、わづらはし、とのみ内にはおぼさる」
――外の方を眺めてみますと、ようよう日も暮れかかって、虫の声だけがはっきりと聞こえ、庭の築山の方は暗くなってきて、物の見分けもつかなくなってきていますのに、薫がたいそうしんみりとしたご様子で、物に寄りかかっておられて、すぐにもお帰りになれそうもありませんのを、中の君は御簾の内で、まったく面倒なことよ、とお思いになっています――
「『限りだにある』など、いと忍びやかにうち誦じて、『思う給へわびにて侍り。音なしの里ももとめまほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、昔覚ゆる人形をもつくり、絵にも書きとりて、行ひ侍らむとなむ、思う給へなりにたる』とのたまへば」
――(薫は古歌の)「恋しき限りだにある世なりせば…」などと忍びやかに口ずさんで、
「つくづくつまらなくてなりません。泣いても声の聞こえない音無しの里へでも尋ねて行きたいものです。宇治の山荘の辺りに、わざわざの寺などではなくても、亡き大君に似せた人形(ひとがた)を作るなり、絵に描き取るなどして、勤行をしたいと、こう思うようになりました」とおっしゃいますと。
◆限りだにある=古今集「恋しさの限りだにある世なりせば年経て物は思はざらまし」
◆音なしの里=古今集「恋わびぬねをだに泣かむ声立てていづれなるらむ音無の里」
◆昔覚ゆる人形(ひとがた)=故人(大君)に似た人がた
◎都合で、9/1~9/10までお休みします。では9/11に。