09.10/18 534回
三十六帖【柏木(かしわぎ)の巻】 その(16)
後夜(ごや)の御加持に、御物の怪出て来て、
「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いと妬かりしかば、このわたりにさりげなくてなむ、日頃侍ひつる。今は帰りなむ」
――それ見るがいい。うまく紫の上を私の手から取り戻したと得意になっていらしたのが、口惜しくて、今度はこちらにそれとなく毎日憑いていたのですよ。今は宮も出家されたのですから、もう帰りましょうか――
と言って笑っています。
「いとあさましう、さはこの物の怪の、ここにも離れざりけるにやあらむと思すに、いとほしう悔しく思さる」
――(源氏は)何と情けないことだ。さては六条御息所の亡霊が女三宮にも憑いていたのかと思いますと、お可哀そうにと残念に思うのでした――
宮も人心地おつきになりましたが、侍女たちは宮のご出家にすっかり気落ちしてしまったものの、とにかくご平癒一心に念じています。源氏ももちろん万端手落ちなく、加持祈祷も行わせ続けております。
「かの衛門の督は、かかる御事を聞き給ふに、いとど消え入るやうにし給ひて、無下に頼む方少なうなり給ひにたり」
――あの柏木は、女三宮ご出家の由を聞かれてからは、一層消え入るようにがっかりなさって、もう再起の気力も薄れてしまわれました――
「女宮のあはれに覚え給へば、ここに渡り給ふことは、今更にかるがるしきやうにもあらむを、上も大臣もかくつと添ひおはすれば、おのづからとりはづして、見奉り給ふやうもあらむに、あぢきなしとおぼして、『かの宮に、とかくして今一度参うでむ』と宣を、さらにゆるし聞こえ給はず」
――(柏木は)妻の落葉の宮を可哀そうに思われて、こちらへ来られる事は軽々しいであろうし、母君も父大臣もこうして付ききりでおられますので、何かの拍子に落葉の宮をご覧になっては、面白くないであろうとお思いになって、「落葉の宮の所へ何とかしてもう一度参りたいのです」とおっしゃいますが、どうしてもお許しになりません。――
◆後夜(ごや)の御加持=一夜を、初夜(そや)・中夜・後夜の三つに区分したうちの一つ。夜半から早朝前まで。午前三時ごろから午前五時ごろまで。ここでは、女三宮の平癒祈願のための後夜。
ではまた。
三十六帖【柏木(かしわぎ)の巻】 その(16)
後夜(ごや)の御加持に、御物の怪出て来て、
「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いと妬かりしかば、このわたりにさりげなくてなむ、日頃侍ひつる。今は帰りなむ」
――それ見るがいい。うまく紫の上を私の手から取り戻したと得意になっていらしたのが、口惜しくて、今度はこちらにそれとなく毎日憑いていたのですよ。今は宮も出家されたのですから、もう帰りましょうか――
と言って笑っています。
「いとあさましう、さはこの物の怪の、ここにも離れざりけるにやあらむと思すに、いとほしう悔しく思さる」
――(源氏は)何と情けないことだ。さては六条御息所の亡霊が女三宮にも憑いていたのかと思いますと、お可哀そうにと残念に思うのでした――
宮も人心地おつきになりましたが、侍女たちは宮のご出家にすっかり気落ちしてしまったものの、とにかくご平癒一心に念じています。源氏ももちろん万端手落ちなく、加持祈祷も行わせ続けております。
「かの衛門の督は、かかる御事を聞き給ふに、いとど消え入るやうにし給ひて、無下に頼む方少なうなり給ひにたり」
――あの柏木は、女三宮ご出家の由を聞かれてからは、一層消え入るようにがっかりなさって、もう再起の気力も薄れてしまわれました――
「女宮のあはれに覚え給へば、ここに渡り給ふことは、今更にかるがるしきやうにもあらむを、上も大臣もかくつと添ひおはすれば、おのづからとりはづして、見奉り給ふやうもあらむに、あぢきなしとおぼして、『かの宮に、とかくして今一度参うでむ』と宣を、さらにゆるし聞こえ給はず」
――(柏木は)妻の落葉の宮を可哀そうに思われて、こちらへ来られる事は軽々しいであろうし、母君も父大臣もこうして付ききりでおられますので、何かの拍子に落葉の宮をご覧になっては、面白くないであろうとお思いになって、「落葉の宮の所へ何とかしてもう一度参りたいのです」とおっしゃいますが、どうしてもお許しになりません。――
◆後夜(ごや)の御加持=一夜を、初夜(そや)・中夜・後夜の三つに区分したうちの一つ。夜半から早朝前まで。午前三時ごろから午前五時ごろまで。ここでは、女三宮の平癒祈願のための後夜。
ではまた。