蜻蛉日記 下巻 (190) 2017.5.18
「さくねりても又の日、『助の君、今日人々のがりものせんとするを、もろともに寮にときこえになん』とて、門にものしたり。例の硯乞へば紙置きて出だしたり。入れたるを見れば、あやしうわななきたる手にて、『むかしの世にいかなる罪をつくり侍りて、かう妨げさせ給ふ身となり侍りけん。あやしきさまにのみなりまさり侍るは、なり侍らんこともいとかたし。さらにさらにきこえさせじ。今は高き峰になんのぼり侍るべき』などふさに書きたり。」
◆◆そのように恨みをこぼしても次の日、「助の君、今日あちらこちらを訪問しようと思いますので、ご一緒に役所まで、と申し上げに」と言って、門口まで来ています。先日のように硯を所望するので紙を添えて出しました。書いてよこしてのをみますと、変にふるえた筆跡で、「前世でどんな罪を犯したために、このようなお扱いを受けるのでしょう。ますます事がこじれていくようでこの分では事の成就(結婚)することもむずかしいように思います。もう決して決して何も申し上げますまい。今は高い峰にでものぼるつもりでございます。」などと、たくさん書いてあります。◆◆
「返りごと、『あなおそろしや、なだかうのたまはすらん。うらみきこえ給ふべき人は、ことにこそ侍るべかまれ。峰は知り侍らず、谷のしるべはしも』と書きて出だしたれば、助ひとつに乗りてものしぬ。助の、給はり馬いとうつくしげなるを取りて帰りたり。」
◆◆返事には「まあ、なんということを仰るのでしょう。おうらみになるべき方は私ではなく別の(兼家)人でございましょう。峰のことは存じません。谷の方のご案内なら」と書いて出したところ、右馬頭は助と同乗して出かけて行きました。助は下されもののたいそう立派な馬をもらって帰ってきました。◆◆
「その暮れに又ものして、『一夜のいとかしこきまできこえさせ侍りしを思ひ給ふれば、さらにいとかしこし。いまはただ、殿よりおほせあらんほどを、さぶらはんなどきこえさせになん、今宵は生ひ直りしてまゐり侍りつる。〈な死にそ〉とおほせ侍りしは、千年の命堪ふまじき心ちなんしはべる。手を折り侍れば指三つばかりはいとよう臥し起きし侍れど、おもひやりのはるかに侍れば、つれづれとすごし侍らん月日を、宿直ばかりを竹簀の端わたり許され侍りなんや』と、いとたとしへなくけざやかに言へば、それにしたがひたる返りごとなどものして、今宵はいととく帰りぬ。」
◆◆その夕暮れにまた右馬頭が訪れてきて、「先夜の恐れ多いまでに申し上げましたことを思い起こしますと、恐縮の至りでございます。今はただただ、殿より仰られた、あのときの仰せにあるまで控えているつもりでございますと、申し上げに参りました。『死んではいけない』と仰せがございまいしたが、千年の寿命がありましても、こんな状態ではとても耐えられそうにもありません。指を折って数えますと、指三本折る三ヶ月の間はなんとか過ごせそうですが、これから先はずいぶん長く八月は考えても先のことなので、その月日の間、せめて宿直なりとも、すのこの端あたりでお許しくださいませんでしょうか」と先夜とは打って変わってはきはきと言うので、それに応じた返事などをしますと、その夜はさっさと帰って行きました。◆◆
「さくねりても又の日、『助の君、今日人々のがりものせんとするを、もろともに寮にときこえになん』とて、門にものしたり。例の硯乞へば紙置きて出だしたり。入れたるを見れば、あやしうわななきたる手にて、『むかしの世にいかなる罪をつくり侍りて、かう妨げさせ給ふ身となり侍りけん。あやしきさまにのみなりまさり侍るは、なり侍らんこともいとかたし。さらにさらにきこえさせじ。今は高き峰になんのぼり侍るべき』などふさに書きたり。」
◆◆そのように恨みをこぼしても次の日、「助の君、今日あちらこちらを訪問しようと思いますので、ご一緒に役所まで、と申し上げに」と言って、門口まで来ています。先日のように硯を所望するので紙を添えて出しました。書いてよこしてのをみますと、変にふるえた筆跡で、「前世でどんな罪を犯したために、このようなお扱いを受けるのでしょう。ますます事がこじれていくようでこの分では事の成就(結婚)することもむずかしいように思います。もう決して決して何も申し上げますまい。今は高い峰にでものぼるつもりでございます。」などと、たくさん書いてあります。◆◆
「返りごと、『あなおそろしや、なだかうのたまはすらん。うらみきこえ給ふべき人は、ことにこそ侍るべかまれ。峰は知り侍らず、谷のしるべはしも』と書きて出だしたれば、助ひとつに乗りてものしぬ。助の、給はり馬いとうつくしげなるを取りて帰りたり。」
◆◆返事には「まあ、なんということを仰るのでしょう。おうらみになるべき方は私ではなく別の(兼家)人でございましょう。峰のことは存じません。谷の方のご案内なら」と書いて出したところ、右馬頭は助と同乗して出かけて行きました。助は下されもののたいそう立派な馬をもらって帰ってきました。◆◆
「その暮れに又ものして、『一夜のいとかしこきまできこえさせ侍りしを思ひ給ふれば、さらにいとかしこし。いまはただ、殿よりおほせあらんほどを、さぶらはんなどきこえさせになん、今宵は生ひ直りしてまゐり侍りつる。〈な死にそ〉とおほせ侍りしは、千年の命堪ふまじき心ちなんしはべる。手を折り侍れば指三つばかりはいとよう臥し起きし侍れど、おもひやりのはるかに侍れば、つれづれとすごし侍らん月日を、宿直ばかりを竹簀の端わたり許され侍りなんや』と、いとたとしへなくけざやかに言へば、それにしたがひたる返りごとなどものして、今宵はいととく帰りぬ。」
◆◆その夕暮れにまた右馬頭が訪れてきて、「先夜の恐れ多いまでに申し上げましたことを思い起こしますと、恐縮の至りでございます。今はただただ、殿より仰られた、あのときの仰せにあるまで控えているつもりでございますと、申し上げに参りました。『死んではいけない』と仰せがございまいしたが、千年の寿命がありましても、こんな状態ではとても耐えられそうにもありません。指を折って数えますと、指三本折る三ヶ月の間はなんとか過ごせそうですが、これから先はずいぶん長く八月は考えても先のことなので、その月日の間、せめて宿直なりとも、すのこの端あたりでお許しくださいませんでしょうか」と先夜とは打って変わってはきはきと言うので、それに応じた返事などをしますと、その夜はさっさと帰って行きました。◆◆