『蜻蛉日記』上村悦子著 巻末の解説から
一、 作者および近親者たち
(5) 夫兼家
兼家はやはり藤原北家の系統で右大臣師輔(もろすけ)の三年で延長七年(929)の生誕である。母は武蔵守藤原経邦の娘、贈正一位盛子で、同腹には村上天皇の后安子や尚侍登子、伊尹(これまさ)、兼通などがある。
四歳年長の兄兼通より器量が秀れ、陽の当たる出世街道を驀進していたが、途中兼通が弟兼家に追い越されることを予想していたのか妹安子皇后に「関白は次第のままにせさせ給へ、ゆめゆめたがへさせ給ふな」のお墨付きをもらっておき、伊尹(これまさ)薨去の際に持ち出し孝心厚い円融天皇の御心を動かし、一躍して関白に、やがて太政大臣にもなり、陰に陽に兼家を圧迫し、薨去直前、関白に頼忠を推挙し、兼家を治部卿に落としたという。
兼通生存中は苦境に呻吟したが、頼忠のもとに右大臣になり、次女詮子(せんし)腹の皇子懐仁(かねひと)親王が花山天皇譲位出家(このとき道兼を指図してかなり悪辣なことをしたと言われる)のあと践祚されると摂政太政大臣となり我が世の春を謳歌したが、正暦元年五月五日、摂政から関白に転じ、病のため関白を道隆に譲り、やがて七月二日薨じた。享年六十二歳。
彼を一言で評すると器量抜群の男性で、豪放、磊落で明朗闊達な人物であった。
(6) 子息道綱
天暦九年冬の出生で兼家の次男(『大鏡』による)。長じて道長室倫子妹を正室に迎え、兼経をもうけたが、この北の方は早逝。他に能読歌人の道命阿闍梨、斉祇、兼宗、兼綱、豊子(彰子に出仕宰相の君と呼ばれる。大江清通の妻となる)などの子女がある。
道綱は正二位大納言右大将になったが、東宮傳にもなったことから、傳大納言(ふのだいなごん)と呼ばれた。寛仁四年十月十六日薨じた。享年六十六歳。
このように作者の縁故者には歌人作歌が輩出し、文学史上に輝かしい名を連ねている。
私のブログ「蜻蛉日記を読んできて」は、これで終わります。みなさま有難うございました。
2018年1月頃から『枕草子』を、またご一緒に読んでいきましょう。
一、 作者および近親者たち
(5) 夫兼家
兼家はやはり藤原北家の系統で右大臣師輔(もろすけ)の三年で延長七年(929)の生誕である。母は武蔵守藤原経邦の娘、贈正一位盛子で、同腹には村上天皇の后安子や尚侍登子、伊尹(これまさ)、兼通などがある。
四歳年長の兄兼通より器量が秀れ、陽の当たる出世街道を驀進していたが、途中兼通が弟兼家に追い越されることを予想していたのか妹安子皇后に「関白は次第のままにせさせ給へ、ゆめゆめたがへさせ給ふな」のお墨付きをもらっておき、伊尹(これまさ)薨去の際に持ち出し孝心厚い円融天皇の御心を動かし、一躍して関白に、やがて太政大臣にもなり、陰に陽に兼家を圧迫し、薨去直前、関白に頼忠を推挙し、兼家を治部卿に落としたという。
兼通生存中は苦境に呻吟したが、頼忠のもとに右大臣になり、次女詮子(せんし)腹の皇子懐仁(かねひと)親王が花山天皇譲位出家(このとき道兼を指図してかなり悪辣なことをしたと言われる)のあと践祚されると摂政太政大臣となり我が世の春を謳歌したが、正暦元年五月五日、摂政から関白に転じ、病のため関白を道隆に譲り、やがて七月二日薨じた。享年六十二歳。
彼を一言で評すると器量抜群の男性で、豪放、磊落で明朗闊達な人物であった。
(6) 子息道綱
天暦九年冬の出生で兼家の次男(『大鏡』による)。長じて道長室倫子妹を正室に迎え、兼経をもうけたが、この北の方は早逝。他に能読歌人の道命阿闍梨、斉祇、兼宗、兼綱、豊子(彰子に出仕宰相の君と呼ばれる。大江清通の妻となる)などの子女がある。
道綱は正二位大納言右大将になったが、東宮傳にもなったことから、傳大納言(ふのだいなごん)と呼ばれた。寛仁四年十月十六日薨じた。享年六十六歳。
このように作者の縁故者には歌人作歌が輩出し、文学史上に輝かしい名を連ねている。
私のブログ「蜻蛉日記を読んできて」は、これで終わります。みなさま有難うございました。
2018年1月頃から『枕草子』を、またご一緒に読んでいきましょう。