ふろむ播州山麓

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マッカーサーの厚木到着、宝島社 写真の謎 3

2011-10-04 | Weblog
1941年12月8日、日米英開戦とともに日本軍は破竹の進撃を開始した。そのときマッカーサーは、フィリピン駐在のアメリカ極東軍司令官であった。
 米極東軍は10万人にも満たない兵力であった。米国フィリピン軍は圧倒的多数の日本軍に押され続け、コレヒドール島バターン半島に籠城を余儀なくされる。米本土では、徹底抗戦のマッカーサーを希代の英雄として、たいへんな人気であった。しかしヨーロッパ戦線でも闘う米軍には、彼らを救援する余力がなかった。
 ルーズベルト大統領は、マッカーサーが戦死したり、日本軍の捕虜になることを恐れた。もしそうなれば、大統領は国民からたいへんな非難を浴び、また国民と全軍の士気も低下してしまうであろう。
 大統領はマッカーサーに命令を下した。「オーストラリアのメルボルンに脱出せよ」。将兵たちと踏みとどまる決意を交わしていたマッカーサーだが、命令には従わざるを得なかった。たくさんの将兵を残したまま、制海権を失った海を魚雷艇で脱出した。
 しかし彼は「わたしは必ず戻る」<I shall return.>と約束した。捕虜になる何万もの部下たち、そしてフィリピン国民への誓いであった。

 1944年10月23日、約束通りマッカーサーはフィリピンに帰って来た。レイテ湾に再度、戻って来た。大統領命令とはいえ、全軍を見捨てた敵前逃亡ともいえる屈辱の脱出から、3年近くがたっていた。
 上陸用舟艇を着地の直前に降り、幕僚たちとともに膝まで海水につかりながら、レイテの地に向かって堂々と踏みしめて歩く。そのときだれかがカメラマンに叫んだ。「下から撮れ!」。ローアングルで見上げるように将軍を写せという命令である。仰角から撮った人物写真は確かに、被写体に威厳を感じさせる。
 彼を高所から撮った写真は、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリー号の艦上での降伏文書調印式だけのように思う。このとき、カメラマンには上方のデッキにしか撮影のための立ち位置がなかったはずだ。世界中が見守ったこの日、9月2日は第2次大戦が終結した「VJデー」。アメリカは「対日戦勝利の日」とよぶ。

 マッカーサーの写真について、工藤美代子氏の指摘が鋭い。ダイジェストで紹介します。
 厚木飛行場への無防備で大胆不敵ともいえる着陸。8月30日午後2時5分、タラップを降りるときに「マッカーサー伝説」ができあがった。
 伝説をつくるため、マッカーサー自身が周到に計算し準備した。彼は何をも恐れぬ勇敢な人間であり、そのうえ近寄りがたい存在であるという認識を、占領地の人々に植えつけなければならなかった。そのためには日本のみならず、世界中に自分の人物像を披露する必要があった。彼は連合国軍の総司令官である。
 厚木到着はマッカーサーにとって最高の舞台だった。これから先、占領軍の最高司令官として、自分がどのように振舞ったらよいか、その綿密な設計図はすでにしっかり頭のなかに描かれていた。
 彼が優秀な役者であることを示す証拠としては、天皇以外に、占領中の2000日ほどの間に、日本人と一緒に写した写真が一枚も残されていない事実があげられる。マッカーサーは意図的に、日本人とともに写真に撮られるのを避けた。アメリカ人、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人などと撮った写真は数多く現存している。ところが日本人とは、あの吉田茂とさえ一緒に写した写真はない。
 これは何を意味しているのだろう。自分と同格で写真におさまることができるのは、日本人のなかでは天皇だけなのだという強烈なメッセージが含まれているのであろう。かつて日本人が天皇を直視するのを許されなかったように、マッカーサーもまた同じほどの高所に立って、肉体的に自分を日本国民から隔離させた。
 グレーの瞳を持つこの最高権力者、大君すなわちショーグンはまず占領の手始めの仕事として、自分のイメージを定着させる作業を開始したのだった。厚木のタラップから始まるその作業は、大成功をおさめ見事なほどのマッカーサー伝説が生み出されたのである。

○参考書:『マッカーサー伝説』工藤美代子著 恒文社 2001年刊
<2011年10月4日 わたしたちはそろそろマッカーサーの呪縛と決別すべきではないか? 南浦邦仁記>

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