ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

大枝の柿

2007-10-14 | Weblog
 京都の柿の産地は、大枝(おおえ)が有名です。国道9号線を亀岡に向かうと、老(おい)の坂の手前、京都市立芸術大学を過ぎ、最初の信号を左に曲がる。農家が玄関先で柿や野菜などを直売する小さな店が10軒ほど並んでいます。
 今日、車で行ってきましたが、早稲の小さなひねた柿が並ぶばかり。「富有柿はまだちょっと早いです。今月下旬にまた来てください」。店のかわいいお嬢さんにいわれました。店の前を南北に走る街道の名を教えてもらいましたが、「大山崎街道」。別名、柿街道ともいうらしい。ちょっと眉唾の気もしないわけではないが、この季節、柿街道は粋な名とも思う。
 大枝は明治期に3村が合併して、大枝村になったそうです。塚原、沓掛、長野新田。明治十年代の物産記録をみると、塚原は筍二万貫、製茶千斤、菜種二十石、大根三石。沓掛では、菜種十石、筍五千五百貫、竹六百束余。長野新田は、甘藷七百三十貫、筍八千貫、大根五石、竹四百束以上。筍は特産品としてよく知られていますが、意外と柿がみられない。
 昭和13年の記録では、大枝村では、富有柿十八町歩、六千二百貫、四千数百円。
栗は六十町歩、二万三千三百貫、二万二千二百円。また筍は百六十町歩、百十二万四百貫、七万四千三百六十円。
 大枝はかつて山陰街道の峠(老の坂)入口としてそれなりに栄えたが、鉄道の開通のために衰える。山陰線に汽車が走ったのは明治32年のことであった。
 そして昭和初期の恐慌で、この地区は悲惨な貧農地帯になってしまった。米もほとんど作れない地域である。
 当時、地元で力を入れたのが、筍の缶詰加工、栗と柿の栽培である。栗はいまではあまり栽培されてないが、大枝の柿と筍は高い評価を得た。
 筍は孟宗竹だが、江戸期1736年に薩摩藩の島津吉貴が中国から輸入。1800年頃、朝田文二郎が洛南八幡から洛西の長野新田にもってきて植えたといわれています。
 柿も筍も、意外と歴史は浅いようです。いずれにしろ、どちらもおいしい。今月末が大枝富有柿の旬。ぜひ、訪れてください。
(追記:新しい道路が開通し、今では近くの様子が一変してしまいました。9号線を左に曲がって、3番目の信号を左斜めに入っての旧道沿いです。2013年11月7日)
<2007年10月14日>



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