「お国のために」、「家族のために」。ともに意味合いは変遷している。戦前戦中は「お国のために尽くし、命を捨てる」だったのが、戦後は「家族のため」に変化した。大家族制が解体した核家族では父母と子どもである。しかし最近では、父が抜け落ちてしまう。母親は「家族は大切です。ただ夫は別ですけど」。家族の中心は母親と子どもであり、父親は排除されつつある。そのようなエッセイを山折哲雄先生が新聞に書いておられた。いつのどこの新聞なのか、記憶はさだかではありませんが。
山折説には説得力があります。利己的遺伝子理論ではないですが、子持ちの主婦にとって、頼りない稼ぎのうっとうしい夫は重要な一員ではない。父は、母子核周辺の軽いあるいは不要な存在に位置づけられつつある。すべての夫がそのような軽い存在でないことは当然ですが、子どもの成人社会人化とともに、傾向として父親の重さが減りつつあるように思えます。カマキリは交尾の後、夫を蛋白源として食します。蛇足ですが、今日は全国で成人式が行われていますね。
嵐山の南、松尾大社近くに北川さん一家がお住まいです。室内で犬夫婦と同居しておられるのだが、昨夏に子犬が5匹も産まれました。秋に訪問しましたが、7匹と3人の大家族は壮観でした。
そのときに思ったのですが、父犬の存在は実に軽い。授乳は母、食事のドッグフードと離乳食は飼主の役目です。赤子たちは何の働きも当然しませんが、残念なのが父親です。家族にとって、まったく無用の存在に近い。せいぜい見知らぬ他人が訪問すると、玄関で吠えるくらいで、身を挺して家族を必死に護ろうとするのは母犬だけです。父犬の遠吠えでしたね。わたしは彼と同性の男として、悲しい気持ちになってしまいました。やはり家族の核は母親と子どもであって、父親なぞどうでもいい存在かもしれません。
ところでお国のためですが、「お国はどちらですか?」と国内で聞かれて「日本です」と答えるひとは少ない。現代なら、大阪府や兵庫県、あるいは「高槻です」「亀岡です」。しかしもともとは「摂津です」「丹波です」と答えたはずです。山城国、丹後国、播磨国、近江国です。
大日本帝国を国と考えたことは、おそらくなかろうと思います。それは国家です。国に家が付くのも変ですが、同郷者同士の会話なら、広域のムラが故郷のクニだったであろうと思います。ふつうの兵隊が「大日本帝国」を言うのは「バンザーイ」と叫ぶときだけだったのではないでしょうか。
そのような兵卒が「お国のために」と身命を賭したのは、故郷のひとたちのことで、政府軍部のいう帝国や国家ではないはずです。それらはあまりにも抽象的に過ぎます。たとえば関西人が東北や北海道、四国や九州のひとびとにまで「尽くし犠牲になる」とは確信しにくい。あくまで故郷やムラ、大家族や親戚や同郷人であったはずです。
戦後、帝国がまず崩壊し、ムラやイエが解体していきます。かわりに登場したのが会社と核家族です。父親は会社と家族の為に尽くす。「お国のため」が「御会社&御家族のために」なわけです。実態は「会社イノチ」、家族二の次です。
ところがその大切な、帝国のごとき存在の会社は社員を裏切り、最後の拠り所であるはずの家族、妻と子どもまでもが、父なり夫を家族の枠から排除しようとしています。これを「父親の遠吠え」と呼ぶのでしょうか。
<2013年1月14日>
山折説には説得力があります。利己的遺伝子理論ではないですが、子持ちの主婦にとって、頼りない稼ぎのうっとうしい夫は重要な一員ではない。父は、母子核周辺の軽いあるいは不要な存在に位置づけられつつある。すべての夫がそのような軽い存在でないことは当然ですが、子どもの成人社会人化とともに、傾向として父親の重さが減りつつあるように思えます。カマキリは交尾の後、夫を蛋白源として食します。蛇足ですが、今日は全国で成人式が行われていますね。
嵐山の南、松尾大社近くに北川さん一家がお住まいです。室内で犬夫婦と同居しておられるのだが、昨夏に子犬が5匹も産まれました。秋に訪問しましたが、7匹と3人の大家族は壮観でした。
そのときに思ったのですが、父犬の存在は実に軽い。授乳は母、食事のドッグフードと離乳食は飼主の役目です。赤子たちは何の働きも当然しませんが、残念なのが父親です。家族にとって、まったく無用の存在に近い。せいぜい見知らぬ他人が訪問すると、玄関で吠えるくらいで、身を挺して家族を必死に護ろうとするのは母犬だけです。父犬の遠吠えでしたね。わたしは彼と同性の男として、悲しい気持ちになってしまいました。やはり家族の核は母親と子どもであって、父親なぞどうでもいい存在かもしれません。
ところでお国のためですが、「お国はどちらですか?」と国内で聞かれて「日本です」と答えるひとは少ない。現代なら、大阪府や兵庫県、あるいは「高槻です」「亀岡です」。しかしもともとは「摂津です」「丹波です」と答えたはずです。山城国、丹後国、播磨国、近江国です。
大日本帝国を国と考えたことは、おそらくなかろうと思います。それは国家です。国に家が付くのも変ですが、同郷者同士の会話なら、広域のムラが故郷のクニだったであろうと思います。ふつうの兵隊が「大日本帝国」を言うのは「バンザーイ」と叫ぶときだけだったのではないでしょうか。
そのような兵卒が「お国のために」と身命を賭したのは、故郷のひとたちのことで、政府軍部のいう帝国や国家ではないはずです。それらはあまりにも抽象的に過ぎます。たとえば関西人が東北や北海道、四国や九州のひとびとにまで「尽くし犠牲になる」とは確信しにくい。あくまで故郷やムラ、大家族や親戚や同郷人であったはずです。
戦後、帝国がまず崩壊し、ムラやイエが解体していきます。かわりに登場したのが会社と核家族です。父親は会社と家族の為に尽くす。「お国のため」が「御会社&御家族のために」なわけです。実態は「会社イノチ」、家族二の次です。
ところがその大切な、帝国のごとき存在の会社は社員を裏切り、最後の拠り所であるはずの家族、妻と子どもまでもが、父なり夫を家族の枠から排除しようとしています。これを「父親の遠吠え」と呼ぶのでしょうか。
<2013年1月14日>
しかし彼の存在感もそれなりにありますよ。
子どもたちの遊び相手は父親がいちばんです。
遊び好きのイクメン君。教育者かもしれませんね。