ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

容保桜 <かたもり桜>

2010-04-18 | Weblog
「花の命は短くて…」。林芙美子が好み、色紙などによく書いた言葉だそうです。ところがこの春、桜は狂を発したかのごとく、延々と咲き続けている。
 二日前の金曜日、所用で訪れた京都ノートルダム女子大正門脇の染井吉野の桜樹なぞ、八分咲きである。守衛さんに聞いてみました。「寒い毎日が続きますので、九分ほど咲いたころ、残りのツボミが開かなくなってしまいました。いくらか散り、葉桜になりましたが、いまも八分咲きのままです」
 17日は、東京でも41年ぶりの降雪記録。やはり、地球は寒冷化に向かっているのではないでしょうか。温暖化の心配は、不要かもしれません。
 アイスランドでは火山の大噴火が続き、たくさんの空港が使用不可になっています。このまま噴煙を吐き続けると、地球の広汎な地域は日照不足のために、農作物は不作で高騰し、輸入力の弱い国では飢饉がおきる…。杞憂であればいいのですが、そのような思いが走る今日このごろです。

 桜といえば、京都府庁の正門を入ったところに、旧本館があります。明治37年(1904)に建てられた洋館で、国の重要文化財に指定されている。中庭には古い桜樹が幾本かあり、狭い庭ですが、京桜の隠れた名所です。
 たとえば、円山公園に有名な枝垂れ桜があります。騒がしい夜桜宴客のいなくなるころ合い、ライトアップされたこの桜を訪ねると、体表に寒イボがたち、妖気に圧倒される。恐ろしい大老樹です。この妖木は二代目ですが、初代の孫木も府庁中庭に健在です。
 そして今年、京都で最大の桜の話題は、中庭のもう一本、「容保桜」と命名された山桜の突然変異種です。花が山桜より大ぶりで、樹皮がめくれた変種。16代目桜守、佐野藤右衛さん(81歳)は、前々からこの桜が気になっていたそうですが、ヤマザクラとオオシマザクラとの混交種と判断された。推定樹齢は80歳以上。藤右衛さんと同級生ほどの歳です。
 ところで名の「容保」<かたもり>は、幕末に京都守護職だった、会津藩主第9代の松平容保からとった。京都府庁のこの場所は、彼の屋敷のあった地です。
 幕府から京都守護職就任を依頼された彼は、何度も固辞しました。病弱でもあったのですが、藩がたいへんな危機を迎え、最悪はつぶれることを覚悟せねばならなかったからです。しかし容保が就任を受けてしまったと聞いたその日、江戸藩邸の会津藩士たちは、藩の決して遠くない日の破綻破滅を予感し、全員が号泣慟哭したといいます。死地に飛び込むことに決したのです。
 容保は藩祖である保科正之の遺訓を引き、みなに話しました。徳川の恩顧に報ゆるべし、「徳川宗家と盛衰存亡を共にすべし」。君臣一体、京を死地とする覚悟で就任したのです。そして会津藩の滅びの美は、文久2年(1862)にはじまりました。
 その後、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽伏見の戦いから戊申戦争がはじまります。会津若松は新政府軍により、執拗で非情な徹底攻撃を受け、破壊されつくします。同年9月22日、会津藩は降伏。新政府は同月に、慶応を明治に改元しました。
 容保が京を去って36年。彼が居住した邸宅跡に建てられたのが、京都府庁です。彼は当然、後世の容保桜をみたわけではないのですが、容保と会津の兵や民のことを思うと、適地の桜に、いい名をつけられたものだと、わたしもしみじみ賛同いたします。なおこの命名には、松平家14代の現当主、松平保久さんもご了解されている。
 慶応3年春、容保は京の最後の桜花を楽しんだ。同じ年の11月、河原町の近江屋で絶命した坂本龍馬と中岡慎太郎も、この春が最後の桜華であった。龍馬年表から、最後の花見をみてみます。

慶応3年(1867)1月、龍馬は下関の阿弥陀寺町本陣の伊藤助太夫方に居住。このころ、自然堂と号す。
1月5日、京都より来訪した中岡新太郎と下関で対面。
1月9日、龍馬は下関を発し、11日に長崎に上陸。
12日ころ、龍馬は溝淵、松井周助の周旋で長崎榎津町の清風亭で土佐藩参政の後藤象二郎と会見し、意気投合する。
14日、龍馬は、木戸孝允あて書状に後藤との会見を報じ、「余程夜の明け候気色」、「昔の薩長土に相成り申すべく相楽しみ居り」
1月29日、朝廷は岩倉具視に入洛を許可。
2月10日、龍馬は1ヶ月ぶりに下関に帰る。長崎からお龍を伴い、以降は彼女を伊藤家に預ける。
2月16日、西郷隆盛は高知を訪れ、山内容堂に四候会議の必要を説く。また龍馬の実家・坂本家才谷屋の家族に会う。
2月、福岡藤次らの計らいで、龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪赦免の藩議決定。
3月5日、上洛中の徳川慶喜は兵庫開港の勅許を奏請したが、朝廷は不許可。
3月14日、土佐藩参政の福岡藤次が、同藩士の門田為之助・岩崎弥太郎らとともに、藩船「胡蝶丸」で長崎に来着。龍馬と会談。
3月17日、慎太郎は大宰府に三条実美を訪う。
3月20日、中岡慎太郎は鹿児島より下関に立ち寄り、龍馬を訪う。
4月初旬、龍馬は脱藩罪赦免となり、土佐海援隊長に任じられる。
4月14日、下関で高杉晋作没。28歳。
4月19日、宇和島藩船「いろは丸」を借り、武器商品を満載し龍馬の指揮で長崎出港。出港に際し、後藤象二郎の計らいで、土佐商会の責任者・岩崎弥太郎より社中へ百円、龍馬に五十円が贈られる。
4月21日、中岡慎太郎ははじめて岩倉具視に京都で会う。
4月23日、瀬戸内海の備後、鞆の津沖で紀州藩船「明光丸」に衝突され、龍馬らが乗る「いろは丸」は沈没。
4月29日、龍馬は下関到着。
5月7日、「信友のものといへども自然堂まで不参よふ」と、龍馬は伊藤家に数カ条の依頼書を発し、万一の場合は「愚妻儀本国(土佐)ニ送り返」すよう三吉慎蔵に託し、非常な決心で8日に下関を出港。
5月13日、龍馬は長崎着。
5月15日、龍馬は紀州藩の高柳らと談判開始。
5月21日夜、京都御花畑の薩摩藩・小松帯刀邸で、薩摩土佐の要人、小松・西郷隆盛・吉井幸輔、板垣退助・谷守部(干城)・毛利恭助が集まり、薩土倒幕密約が成立。中岡慎太郎は同席し、紹介の労をとる。
5月22日、土佐藩参政の後藤象二郎と、紀州藩代表の茂田一次郎と、長崎聖徳寺で再会談。同日午後、龍馬は、後藤、由井、松井、岩崎弥太郎らと大浦英商オルト―に行き会飲。
5月23日、徳川慶喜が参内。
5月28日、龍馬は下関のお龍あて手紙に、「紀州もたまらんことになり」「やりつけ候」
5月29日、薩摩藩代表の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩より賠償金8万3千両支弁を約し、いろは丸沈没事件は解決した(後に7万両に減額)
5月、龍馬の姪・春猪の婿養子、坂本清次郎(後の三好賜)が脱藩して、龍馬を訪ね海援隊に入る。
5月、龍馬は、後藤とともに「万国公法」の刊行を計画し、活字も揃えた。

 この年の花見は龍馬と慎太郎は多忙すぎて、さてどこで見たか? 容保は丸太町通川端東入ルの会津藩邸、守護職屋敷だった現府庁や、二条城や黒谷の桜などを愛でているはずです。西暦1867年4月1日は、慶応3年2月27日でした。
 ちなみに林芙美子の好きだった言葉は「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
<2010年4月18日 南浦邦仁> [ 223 ]
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