ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

戦国の十字架「丸に十の字」

2010-08-22 | Weblog
 フランシスコ・ザビエルが日本に上陸したのは、1549年8月15日でした。宣教活動を開始した鹿児島の地で、彼は驚いた。この町のいたるところに十字架が描かれていたからです。
 すでにだれか、自分より先に宣教師がこの地で布教したのであろうか? しかしそのような風聞、記録や報告はヨーロッパにはない。異端キリスト教の仕業であろうか?
 しかしザビエルの心配は、誤解であった。十字架「白地に丸の十字」は、薩摩島津家の紋である。キリスト教とは無縁。

 1600年、関ヶ原の合戦で西軍についた島津軍であったが、戦闘の終了する最後まで、戦場に踏みとどまった。最初は西軍有利だった戦況はその後、劇的に逆転し西軍は一気に崩れる。そして完敗を見届けた島津軍は、やっと退却を開始する。
 千名だった軍勢は、すでに六百人ほどに減っていた。彼らは驚くべきことに、後ろに退くのではない。敵軍数万がひしめく戦場を目指して、正面突破の退却を開始した。唖然とする東軍。本営の徳川家康の眼前を、平然と駆け抜けていく丸に十字の旗であった。

 退却集合地の堺にたどり着いた薩摩の将兵は、太守の島津義弘とわずか80余名であった。参戦者の1割足らずである。彼らは堺から船で薩摩に向かう。しかし帰路の大阪湾、嵐にみまわれ一行は明石の港に退避した。
 このとき島津の一行を明石の自邸に迎え、歓待したのが井上惣兵衛尉茂一である。井上は黒田官兵衛が九州福岡に移る前、姫路城主であったころからの黒田家家臣の一党であった。
 茂一の島津家接待は、12日間にも及んだといわれる。あまりにも長すぎると思うのだが、関ヶ原戦後の大坂の政治情勢を見定めるためであったのか。
 島津義弘は井上のもてなしに感謝し、島津の苗字と家紋「丸に十字」などを与えた。
 その後、井上(島津)茂一は勝軍の将、黒田長政の凱旋に従い、筑前福岡の黒崎(北九州市)に移る。彼が黒崎・島津家の家祖である。

 1813年、「つとに大志を抱き、辺境に老するを、潔しとせず」。黒崎島津家10代の島津利作(清兵衛)は、故郷を後にし京に出る。
 そして息子の島津源蔵が「木屋町島津家」初代となり、島津製作所がはじまる。わたしたちが現在、京の町でみかける「丸に十字」は、だいたいが島津製作所の社章です。関ヶ原の合戦の直後、島津義弘が恩人の井上茂一に与えた家紋です。

 ザビエルがもし現代、京の町で「丸に十字」紋を見たら、仰天してこう言うのではないでしょうか。「この十字は、薩摩の紋ではないか? ついに島津の殿が都を制圧され、この国にやっと平和が訪れたのであろう。ならば、わたしも気張って布教に努めねば」
※ところで、この一文を書いた後、大幅な書き直しが必要だと判明しました。情けないですが、数日の猶予をお願いします。続編でご紹介します。20100823
<2010年8月22日>
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