ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

「丸に十の字」続編

2010-08-28 | Weblog
 島津製作所は明治初年の創業から、つねに時代の先端を行く京都の代表的な企業のひとつです。ノーベル賞受賞者の田中耕一さんも、先端社員のおひとり。
 ところで前回、このブログで、製作所の社章「丸に十の字」(くつわ)のことを書きました。1600年の関ヶ原合戦に敗れた西軍の島津義弘が帰国の途次、「世話になった」と、播州の井上惣兵衛尉茂一に家紋と姓を与えた。以降、井上氏は島津姓を名乗る。製作所創業者の島津源蔵はその11代目の子孫である。
 そのようなことを書きました。参考にしたのは『島津製作所史』、昭和42年に同社が発行した社史です。

 ところが後刻、島津製作所のホームページをみましたら、驚いたことに以下のように記されています。
 「島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州に住んでいました。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は、領地の検分などに誠心誠意お世話をしました。その誠意に対する感謝の印として、義弘公から“島津の姓”と“丸に十の字の家紋”を贈られたと伝えられています。」

 社史と同社ホームページの記載が、まったく異なるのです。後からの記載、ホームページが正しいのでしょうが、木屋町二条の同社創業の地にある「島津創業資料館」に問い合わせてみました。
 社史刊行後の調べから、いろいろ新事実が分かってきたと言われます。まず島津義弘の乗る船は関ヶ原合戦後、明石には寄らずに西に向かっているようだ。井上茂一は黒田家の家老の一族で、豊臣秀吉の時代、確かに播州に居住していた。島津義弘は太閤から播州に飛び地・新領地を拝領したとき、その地に立ち寄っている。このときに、井上氏に姓と家紋を与えたと考えられる。このことを証明する新文書が発見されたわけではないが、事実関係を整理しての解釈だそうです。
 「関ヶ原合戦の帰路の話しは、劇的で面白いのですが、史実とは異なります。また12日間もの明石滞在は、長すぎますね。社史発行後の調査から、記述を変更しました」。

 わたしは資料館の方から新解釈のお話しを聞きながら思いました。「やはり島津製作所はすごい。定説に疑義があれば固執せず、とことん調べる。そして過去の解釈にとらわれず、あたらしい説をたてる」
 この姿勢に感心し、前回の記述を訂正します。

※蛇足ですが、資料館の方との話しのなかで、明治期の旅館「常盤別館」のことが出ました。インターネットでみますと、「京都ホテル100年ものがたり」に記載があります。資料館のみなさんは、とっくにご存じと思いますが、蛇足まで。
 http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no09.html
<2010年8月28日>
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