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■石垣市長暴行疑惑の余波
「石垣市長暴行疑惑」の影響が「県民大会」にも及び始めた。
来月、宜野湾海浜公園で開催予定の「基地外県民大会」の実行委員会代表を辞退した人物が出たのだ。
代わりに無名の平議員が代表の座に着いた・・・と、当初は思われた。
沖縄では大規模な政治がらみの県民大会の実行委員長は県議会議長がなるのが慣例だ。
二年前の「11万人集会」の時は当時の県議会議長仲里利信氏が委員長になった。
あの「毒おむすび」の仲里議長である。
だが、今回の「基地外県民大会」の代表、玉城義和氏の肩書きは、タイムスも新報も「県議」とだけ記して、何故か副議長の肩書きは省略してある。
全国報道の共同通信や産経新聞には省略せずに「県議会副議長」と明記しているのに、である。
政治家なら「県議副議長」という肩書は是非とも付けて欲しいはず。
全国紙が肩書きを明確に報道し、本来なら詳細を記すべき沖縄に紙が揃って「副議長」を省略したのには訳がある。
本来なら大会実行委員長になるべきはずの高嶺善伸県会議長が大会直前になって辞退した。
それで急遽、異例の四人の共同代表になったのだ。
高嶺議長は、先月の「10・29県民大会」でも、壇上で大演説をぶっていたし、集会のあるところには必ず顔を出すといういわれる人物。
「基地外県民大会」の代表にならないのが不思議である。
辞退の理由は「石垣市長暴行疑惑」が己に類が及ぶのを恐れたからだ。
■「石垣市長疑惑」から逃げた高嶺県議会議長
石垣市長の婦女暴行疑惑の被害者サラさんが、精神的にパニック状態にあるとき初めて相談したのは、当時石垣市議であった高嶺善伸氏であった。
以前からサラさんの実家と縁続きである高嶺市議とは旧知の間柄。
先ず最初に、高嶺市議に事件の相談をしたのは、事件の性質上当然の成り行きであった。
その時の高嶺市議の対応にサラさんは我が耳を疑った。
市民の代表であり旧知の仲でもある高嶺市議なら当然、市長への抗議なり警察への手配など、適切に支援してくれると思ったのだが、
期待は見事に裏切られた。
「公的立場の市長の一寸した間違いを騒ぎ立てて何のメリットがあるのか」と、逆にたしなめられ、高嶺市議は事件のすべてを知りながら結局握りつぶす態度を取った。
■「ここは北朝鮮か!私は喜び組みか!」
そのときサラさんは悔しさのあまり口にこそ出さなかったが、
「ここは北朝鮮か!私は喜び組みか!」と胸中密かに叫んだという。
サラさんが15日に告発を決行する前、サラさんは、それとなく高嶺氏と市長の動向を問い合わせるメールの交換をしている。
その後のサラさんの決行を知った高嶺氏は、本能的にマスコミに名前や顔を晒すことを避けようと決心する。
サラさんのブログを見て、その並々ならぬ決意を読み取り、石垣市長と親しい自分に騒動が飛び火する危険を感じ取ったのだ。
次は国会議員をも狙おうという野心家の高嶺氏が、石垣市長の婦女暴行疑惑に巻き込まれるのを恐れ、しばらくはマスコミから遠ざかろうと考えるのも自然の成り行きである。
高嶺氏は、「基地外県民大会」実行委員会の代表に就任の予定であったが、
直前のサラさんの「決行」により、マスコミに晒される代表の役を急遽副議長に譲った。
だが、県民大会の代表が「副議長」では疑念を呼ぶ。
そこで代表交代の条件にマスコミに「副議長」を省略するように頼んで、四人の共同代表で目くらましをしたのだ。
■「石垣市長婦女暴行疑惑」
話が前後するが、「事件」は2002年9月15日の「敬老の日」から翌16日の早朝にかけて起きた。
サラさんの告白によるよると当日の経緯はこうだ。
敬老の日には、石垣市主催の「敬老会」が市民会館で行われ、担当したのはサラさんが主査を勤める長寿課である。
予定行事が終了して市内の居酒屋で慰労会が行われたが、異変はそのときから始まっていた。
通常、課の慰労会に参加するお偉方は課長どまりなのだが、その日はサラさんが居酒屋に着いたときは大浜市長と腰ぎんちゃくの部長等取り巻きの面々が既に会場に鎮座していた。
市長が課の慰労会に出席することは異例の出来事だった。
普段は雲の上の市長と部長の臨席を見て、その場の雰囲気は緊張気味だった。
だが、市長がサラさんを自分の隣に座るように指名してから座の雰囲気も和み始めた。 絶対権力者の指名に逆らうことは失職を意味するほど絶対的。 正にパワハラそのものである。
そして慰労会は二次会のビヤホールから、さらに三次会の割烹「はなき」に場所を移す。
その時は職員はほとんど逃げており、残ったのは部長と長寿課職員とサラさんを含む四人になっていた。
サラさんも何度か逃亡を試みたが絶対権力者のパワハラともいえる命令に逆らうことは出来なかった。
割烹の女将はサラさんの同級生だが、既に日付けが16日に変わっていた深夜の割烹の奥座敷に一行が着いたとき、そこには女将夫婦と高校を出て求職中の息子が待機していた。
そこで市長への求職の直訴は簡単に受理された。
その頃の市役所への就職は難関を極め、よっぽどの成績有秀者でなければ一発合格は困難とされていた。
ところが深夜の、しかも酒席での求職でも、相手が独裁市長とあれば一発で採用即決である。
その時は気がつかなかったが、同級生の女将は、市長がサラさんを狙っている情報を得て、息子の就職を頼むべく市の幹部達と計らってすべてを根回ししていたのだ。
つまり女将は息子の就職と交換条件で、友人を市長に「売った」ことになる。
これではまるで悪代官と越後屋ではないか。
いや、それでは越後屋に失礼だ。やり手ババーと言い換えておこう。
就職が即決するや、女将夫婦と息子はたちまちその席を去った。
ここで一行は市長と職員の三人になったが、何とか退去しようとしても市長の命令と職員が退室を妨害し、それもままならなかった。
パワハラが時間と共にセクハラに変わり、やがてご乱行に発展するのは市長の予定の行動だったのだろう。
午前四時ごろ、突然職員が姿を消した。
満を持したように市長が襲いかかってきた。
この続きはサラさんご本人の記述に譲る。
なお、このとき最後まで残って独裁者に忠誠を示した職員は、その後直ぐに係長に昇進したという。
恐るべき市長の専横、暴政ぶりである。
(被害者の証言)
2002年9月15日~16日、
16日、午前4時事件発生
場所 割烹 「はなき」 現在、オーナー死去のため閉店
事件内容 大浜長照現石垣市長が、介護長寿課主査 だった私を、はなきの奥の座敷に閉じ込め乱暴をはたらいた。
ドアは鍵つきではなかったが、仲里オーナー夫婦が外からドアを押さえ、出れないようにしていた。足が見えるつくり。
そのあと病院へ受診。ドクター側は警察へ通報しようとしたが、その時点では決心がつかなかった。
病院の帰り、仲里オーナー夫婦に抗議に行く。
二人は何度も謝りにきたが面会に応じなかった。オーナー夫婦の息子が数日後、私の部下として配属された。最後まで残っていた職員は係長へ昇進した。
高嶺善伸現県議長に相談する。
まあ、まあとかわされる。
市長本人から、話し合い、示談でと申し出がある。
市長夫人が健康増進センターの窓口に、富里八重子市議を伴い、脅しに来る。
「ここから出て行け。ここに住めると思うな」と言われる。
県立八重山病院の窓口で、私の事件当日のカルテを出せと市長夫人が職員を脅す。
ドクターから連絡が入る。
患者さんの側にたつのが僕達だから、市長だろうとできないと返した。エスカレートすると思うが警察に通報しtほうがいいのではないかとアドバイスを頂く。
母子家庭で日々に忙殺せれている。メンタルも弱くなり、もう少し待ってくださいと答える。
実家に公用車で来て市長が上がり込み、三時間以上帰らないと近隣の人から電話をもらう。
息子を呼び出して電話口に出てもらう。ばあちゃんと二人どうしていいかわからないと。
すみません。
また体調が厳しくなりました。休んで書きます。》
◇