狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄人の四人に一人は独立希望?

2006-05-31 15:07:28 | 未分類

今朝の琉球新報は「台湾の中国時報は台湾政府が事実上、沖縄を日本の領土と認めた」という内容の記事を誇らしげに報じた。

◆琉球新報<2006年5月31日> 社会

中琉協会の名称変更 中国時報「沖縄は日本の領土」

 台湾政府は30日午前、台北で記者会見し沖縄にある台湾の出先機関「中琉文化経済協会駐琉球弁事処」の名称を「台北駐日経済文化代表処駐琉球弁事処」に変更すると発表した。台湾の中国時報は台湾政府が事実上、沖縄を日本の領土と認めたものと報じた。
 台湾政府は、琉球が中国の明、清時代の属国だったことから、沖縄を領土や属国とする認識は公表していないものの日本とは区別してきた。

 中国時報によると30日の記者会見で台湾外交部日本事務会の羅坤燦(らこんさん)執行長が発表。記者から「沖縄を日本の領土と認めたのか」という質問に羅執行長は「沖縄の本土復帰以降、主権が日本に属していることを否定していない」と答えたという。また同政府が、沖縄に関する主権問題を避け、実務的な方向で国家間の交流を深めたいもの―と伝えている。
 日本と台湾が国交断絶した1972年、沖縄には「中琉―」、本土には現在の台北駐日経済文化代表処の前身となる亜東関係協会を東京、横浜、大阪、福岡に設立した。同じく72年にアメリカが台湾との事前協議なしに沖縄を本土復帰させたことに不満をもったことから、名称を統一せず、「中琉―」は台湾外交部直轄の組織としていた。
 「中琉―」の陳桎宏(ちんしこう)代表は「名称を変更しても、ビザ発行などのこれまでの業務に変更はない」と話している。(5/31 10:24)

 
中国時報がこのように大胆な報道をするのには実は伏線があった。

去年の12月20日の琉球新報が「4人に1人(25%)が『沖縄独立を要望』―。琉球大学法文学部の林泉忠助教授が実施した『沖縄住民のアイデンティティー調査』で、こんな結果が出た。独立を望む理由としては『沖縄の政治、社会的状況が本土とは違う』が最も多かった」という内容の記事を報じた。

地元メディアの沖縄独立を煽る論調には必ず、台湾、香港、マカオ、在日朝鮮人そしてアイヌ人との連携が付随してくる。

 そしてその背後には常に沖縄に潜在主権を主張する中国の存在がある。

台湾は中国に併合されないように頑張っており、香港、マカオは既に宗主国だったイギリス、ポルトガルから中国に返還されている。

また在日朝鮮人、及び韓国人はそれぞれの母国に帰国するわけでもなく、日本に帰化するのも拒否している人が大部分だ。

それにアイヌ人は過去はとも角今ではまぎれも無い日本人だ。

にもかかわらず、沖縄が彼らと連帯して独立を考えるなんて一部の変わり者以外には考えられないことだ。

筆者の周囲を見渡しても「四人に一人が沖縄独立希望」なんて、とても考えられない数字だ。

だがこの数字は卑しくも国立大学の先生が調査し発表した数字なのだ。

ここにも「統計によるウソ」があるのか。

しかし、沖縄のように一握りのインテリに占領された地元メディアを見た中国は沖縄人は反日で独立ないしは中国に属することを望んでいると誤解している恐れが有る。

沖縄は紛れも無く、中国などとは比べ物にならないほど恵まれた日本の一県なのだ。

地元メディアが誤解を招く、「民意」とかけ離れた誤報を発信を続けるのはこの辺で勘弁して欲しいものだ。

因みにアンケート調査をし林泉忠琉球大学助教授は当初、林という名前からヤマトンチュかと思ったが調べたらアモイ生まれの中国人であった。(林助教授 http://ps.ll.u-ryukyu.ac.jp/~lim/johnlim/profile.htm)
又林助教授の調査は、有効回答率が50%を割る44・7%の極めて信頼度の低いアンケート調査であったにも関わらずメディアは「沖縄人の四人に一人が独立を望んでいる」と沖縄在住県人ならとても信じられないような数字を強調した。

更に国立大学助教授の信頼性を楯にミスリードに近い報道をしたのだ。

この辺りの地元メディアの雰囲気は沖縄タイムスの今年1月3日のコラムに良く現れている。

◆沖縄タイムス コラム

<2006年1月9日>[大弦小弦]

 沖縄が25%で台湾は60%、香港22%でマカオ9%。この数値はそれぞれの地域で「独立すべき」と答えた人の比率だ。沖縄の値を多いと感じるか、少ないと見るのか。受け止め方はそれぞれの立場で微妙に違ってくるだろう▼琉球大学の林泉忠助教授のチームが昨年十一月に四地域で行った住民の意識調査の結果だ(元日号第一集七面)。沖縄での「独立すべき」の理由は「沖縄の政治的・経済的・社会的状況が日本本土と同じでないから」が42%で最も多い▼昨年の衆議院選の比例代表政党別得票(県)を見ると、自民党が35%で民主党26%。社民党16%と続く。安易な比較なのは分かるが、それでも「沖縄は独立すべき」と考える25%は一大勢力ではないだろうか▼もう一つ。「独立すべきではない」理由の最大のものは「沖縄住民は自立する能力をもっていないから」が28%。自身に「自立する能力がない」と三割弱の人が信じる辺りに同化の歴史を感じてしまうが、これは反転する意識でもある▼近代の国民国家の縁で、格闘してきた地域の位置で見れば、沖縄も孤立しているのではなく、その経験や苦悩に共感できる社会も特別なものではない。林助教授の調査研究は、沖縄の「仲間」を教えてくれる▼これまでニシに気を取られ過ぎてきたようだ。躍動するアイデンティティー。それは噴出直前のマグマかもしれない。西や南の友人の経験や試みも共有したい。(後田多敦)

「反基地運動」も「平和運動」結構だろう。

他所の国と仲良くするのも結構だろう。

だが、それが過激に走り自分が拠って立つ軸足の場所まで間違えるようになったら、これらの運動は沖縄が中国に併呑される先棒を担ぐ運動に成り果てたことになる。

 

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「統計でウソをつく法」 沖縄の米軍基地

2006-05-30 08:02:46 | 未分類

今太閤といわれた田中角栄元首相は、数字に強くコンピューター付きブルドーザーとも呼ばれた。

大蔵官僚に対し抜群の記憶力で覚えた数字を並べて、高学歴エリート集団を手玉に取ったという逸話が残っている。

適当に統計数字を塗(まぶ)して話す論敵に対抗するのは誰でも苦労をする。

かの有名な英国の政治家ディズレーリはこう言ったという。
「ウソには3種類ある。ウソ、みえすいたウソ、そして統計数字だ」と。

                ◇

 19世紀に米国とスペインが戦火を交えた米西戦争の間、米国海軍の死亡率は1000人につき9人の割合だった。

同じ期間、ニューヨーク市における死亡率は1000人につき16人であったという

◆海軍の徴募官は二つの数字をもとに、「海軍に入隊するほうが安全だ」と宣伝した…。

統計学者ダレル・ハフが「統計でウソをつく法」(講談社)に引いた事例である

◆海軍の分母が壮健な者ばかりであるのに対し、ニューヨーク市の分母には病人も高齢者もいる。

分母の中身に目を凝らさないとうっかりだまされるから、分数は油断がならない

◆大阪などの社会保険事務所が、本人に無断で国民年金の保険料を免除していた。

納付率を算出する分母、支払うべき人の数がそれだけ減るわけで、納付率は上がる。

保険事務所の“成績”も上がる

◆数字を操作したがるのが役人の習性とはいえ、国庫に納まるべき金を不正に免除するのは、国民の財布に手を差し入れるのと結果において大差はない。

組織が芯まで腐りきると理非の見境もなくなるらしい

◆分子が分母よりも大きい頭でっかちの分数を「仮分数」という。

俗に大頭のたとえでもある。社保庁官僚の大頭も、役人根性と浅知恵でさぞかし重たかろう。

無用のみならず有害な長物ならば、漬物石の代わりに拝借したいところである。
(2006年5月25日1時39分  読売新聞)

上記読売新聞・「編集手帳」で引用されている「統計でウソをつく法」(講談社)の著者である統計学者ダレル・ハフは次のように言っている。http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061177206/249-9080934-4878720?v=glance&n=465392

統計数字やグラフは、必ずしも示されている通りのものではない」。

「統計でだまされないためには、まず『統計でだます方法』を・・知ることが必要なのである」と。

                   ◇

社会保険庁が行った統計による嘘は「分母増やし」と言う手法だという。

同じように、長年事実として言い続けられきた言葉にも「統計による嘘」がかなり有る。

「日本の75%の米軍基地が僅か0・6%の面積の沖縄に集中している」。

これは沖縄の各メディア、大学教授等の「反基地・平和団体」が長年文章や演説の枕詞に使い続けてきた常套句の一つだ。

在日米軍基地は沖縄以外の22都道県に98施設がある。

その中でも沖縄の米軍基地が群を抜いて一番大きいのも事実である。

そういった状況で、このフレーズは幾度となく新聞の社説や地元大学の教授たちの論文にも引用されてきた。

沖縄在住の評論家恵隆之介氏によると、「75%は数字のマジックで分母の全在日米軍基地の面積に米軍と自衛隊との共用米軍施設(佐世保・横須賀・厚木・岩国・三沢)が含まれていない。 これを加えると実際は沖縄には23,5%しか存在していない。」と言う。

地元では恵氏の論評はトンデモ本のようなものだと無視されており、彼の論文が地元のメディアに掲載されたのを見たことは無い。

恵氏の論文発表の場は地元メディアには無く、主として本土の「産経新聞」や雑誌「文芸春秋」、「諸君」、「正論」、「中央公論」、「VOICE」等のオピニオン雑誌を意見発表の場としているようだ。http://www.cosmos.ne.jp/~ryunosuk/

そこで、ネット上に公表されたデータから「75%か23・5%か」を計算・検証をしてみた。

その結果は、沖縄県に存在する米軍基地の米軍基地の割合は、23・41%であった。
 
端数を切り上げた恵氏の23・5%が信頼に足る数字だと言う事がわかったのだ。

「75%」は社会保険庁と同じ分母を減らしてパーセントの数字を操作する「分母減らし」の手口で捏造した統計のマジックであった。

計算の根拠となる在日米軍基地のデータは下記に拠った。

◆在日米軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

都道府県別の米軍施設

平成16年(2004年)現在で27都道県に置かれている。

北海道 18施設 合計面積:344,634,000㎡
青森県 6施設 合計面積:31,948,000㎡
岩手県 1施設 合計面積:23,265,000㎡
宮城県 3施設 合計面積:45,699,000㎡
山形県 1施設 合計面積:1,310,000㎡
茨城県 1施設 合計面積:1,078,000㎡
群馬県 1施設 合計面積:5,802,000㎡
埼玉県 4施設 合計面積:2,036,000㎡
千葉県 1施設 合計面積:2,102,000㎡
東京都 8施設 合計面積:16,030,000㎡
神奈川県 16施設 合計面積:21,421,000㎡
山梨県 1施設 合計面積:45,967,000㎡(静岡県にまたがる)
静岡県 4施設 合計面積:89,163,000㎡(一部が山梨県にまたがる)
新潟県 1施設 合計面積:14,087,000㎡
石川県 1施設 合計面積:1,606,000㎡
岐阜県 1施設 合計面積:1,626,000㎡
滋賀県 1施設 合計面積:24,538,000㎡
兵庫県 1施設 合計面積:10,000㎡
広島県 7施設 合計面積:5,227,000㎡
山口県 2施設 合計面積:5,731,000㎡
福岡県 2施設 合計面積:1,415,000㎡
佐賀県 1施設 合計面積:13,000㎡
長崎県 13施設 合計面積:4,594,000㎡
熊本県 3施設 合計面積:16,242,000㎡
大分県 2施設 合計面積:56,384,000㎡(一部が宮崎県にまたがる)
宮崎県 2施設 合計面積:9,195,000㎡(一部が大分県にまたがる)

★沖縄県 37施設 合計面積:236,812,000㎡


★日本全国合計
135施設        1,011,359,000㎡

①面積⇒ 236,812,000㎡(沖縄)÷1,011,359,000㎡(全国)=0・2342

②施設数⇒ 37施設(沖縄)÷135施設(全国)=0・274


いずれにせよ沖縄にある米軍基地がダントツで日本一多いのは紛れも無い事実ではある。

だからと言って、75%と24%ではあまりにも誤差が多すぎる。

誤差に誤差が重なって一人歩きを始めると「沖縄の真摯な訴え」も中国式「白髪三千丈」と同じでマユツバの誹りを受けかねない

その外の沖縄の訴えの信憑性を全て疑われかねない。

                   ◇

日本の75%の米軍基地が僅か0・6%の面積の沖縄に集中している」を使用した地元二紙の例は枚挙に暇が無いが、最近の両紙の社説を例として示そう。


沖縄タイムス <2006年3月6日> [社説]/3・5県民総決起大会/「沖縄の思い」受け止めよ   3万5千人は一定の成功

 日米が合意した米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設案に反対する県民総決起大会(主催・同実行委員会)が五日、宜野湾市の海浜公園で開かれ、約三万五千人(主催者発表)が参加した。 (略)
 日米安保条約の要になっているのは、在日米軍基地の75%が集中する沖縄であり、沖縄でマグマが爆発することは日米両政府も望ましいとは思っているまい。 (略)

琉球新報 2006年5月15日 社説

本土復帰34年・「人間の尊厳」取り戻そう/脱・基地で真に豊かな沖縄を

 沖縄は15日、祖国に復帰して満34年を迎えた。復帰に伴い日本国憲法の下で新生・沖縄県がスタートしたが、戦後27年間に及んだ軍事優先の米国統治は、多くのひずみを生んだ。復帰後、それを「負の遺産」として引き継ぎ、今なお県民は基地の重圧にあえいでいる。(略)
 国土の0・6%という県域に、在日米軍専用施設の75%が集中する状況は尋常でない。主権回復とは名ばかりで、基地周辺住民は人間らしい暮らしを実感できずにいる。
(5/15 9:43)

                    ◇

今朝の「琉球新報」一面トップは「年金・不正免除ー26都府県11万人余」という大きな見出しが踊った。

年金の不正免除の件数が新たに13県で判明したとの事。

記事によると

不正免除を犯した自治体は全国で26都府県で、件数(人分)にして113,975件(人分)だという。

その中で沖縄県の不正免除は4,577件(人分)だという。

このデータを、戯れに利用(悪用?)して悪意有る文言をでっち上げて見た。

人口僅か全国の1%の沖縄県で、40%の不正免除を犯すなんて沖縄は不正の巣窟だ!」。

 
【追記】2008年5月24日

基地78%は大嘘、沖縄の実態 3-1

基地78%は大嘘、沖縄の実態 3-2

基地78%は大嘘、沖縄の実態 3-3

 

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狼魔人流・沖縄語講座 「ニタカマンタ」は「割れ鍋に綴じ蓋」

2006-05-29 07:48:56 | 沖縄語講座

◆「ニタカマンタ」は「割れ鍋にとじ蓋」

沖縄語を初めて聞く県外の人が「外国語のようで全く理解出来ない」と驚くのは良く理解できる。
しかし沖縄語は地理的に隔絶されているため訛りの程度が他県に比べてがかなり強いということはあっても、言葉の成り立ち文法から言って日本語の一地方方言であることは紛れも無い事実。

いや、むしろ現代日本語が失った日本の古語を今でも使っている例もかなり有るくらいだ。

これについては前に書いた。(「沖縄語は候文」http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/aaf0578f7954
c7cf73dd5d905d0e38a9
http)

「ニタカマンタ」という沖縄語は、今では使われなくなっており、沖縄でもおそらくは四十代以上の人でやっと判る程だろう。
これが理解できるかどうかが40歳以下か上かを判別するリトマス試験紙にもなり得る。

さてその意味だが、沖縄語の「ニタカマンタ」は、標準語では「似た者同士」の意味になる。 そして「似た者同士」はうまくいくと言った意味も言外に含まれる。
「ニタ」が「似た」なのは判るが、「カマンタ」がどうして「者同士」になるのか解き明かすのは一苦労だ。

「カマンタ」には「大鍋の蓋」の意味がある。

大なべといっても農家でさつまいもを煮る円錐状の丸底の「シンメーナビ」と言う大型なべで、沖縄では大きな行事の料理をつくるのに用いられる。

この大型なべのふたで、かや・わらなどを編んで作られているものを「カマンタ」と言う。鍋釜のフタが訛って釜のフタから「カマンタ」に転化したと考えられる。

ついでに言うと魚の「エイ」の事を沖縄語では「カマンタ」と云うが、これは形がなべのふた似ているからそう呼ばれている。

ここまで来ても「似たカマンタ」が「似た者同士」になる説明にはなっていない。

似たもの同士が良いことのたとえには「割れ鍋にとじ蓋」と言う諺がある。
どんな欠点の有る人にもぴったり合う相手があるということだ。

つまりこの「似た者同士はうまくいく」と言う鍋と蓋の諺を沖縄方言にそのまま転用したのが「ニタカマンタ」であり、同じような意味を持つ。

因みに割れ鍋にとじ蓋の「割れ鍋」とは、割れて壊れた鍋のことだが、「とじ蓋」は「閉じ蓋」と書くのは良くある間違いで、正確には「綴じ蓋」と書く。

つまり壊れた部分を繕って修繕した蓋のこと。


                   ◇

◆「カマジー」と「ドンゴロス」

小学校4年生の頃、僅かな期間ではあったが「カマジー」というアダ名の男が同じクラスにいた。
 
本名は「かまじろう」(釜次郎?)と云ったが誰も本名で呼ぶものはいなかった。

姓は記憶が曖昧だが確か渡辺?とヤマトゥ風の名前だった事と、方言が使えなかったので、きっとヤマトゥンチュだったのだろう。
数ヶ月で何処かへ転校して消えてしまい、記憶からも消えてしまっていた。
 
沖縄方言の語源を調べて「カマジー」に行き当たり、ふと「カマジー」と言う名の古い同級生がいたことを想いだしたのだ。
 
カマジーは釜次郎の郎を省略して釜次と云ったわけではない。

カマジーとは沖縄のご同輩なら先刻承知の麻で出来た袋の沖縄語で、元々何か物が入っていたのを当時は廃物利用していた。
 
だから少なくともカマジーと言うアダナは良いイメージではなかった。
 
そのカマジー君がいた頃、父にカマジーを標準語ではなんと言うか聞いたら「ドンゴロス」と教わった。
 
その後、東京で10年近く住んだがドンゴロスという言葉は一度も聞くことも使う事も無く過ごした。
 
聞くところによるとドンゴロスを知っている人は昭和40年以前に生まれて、しかも田舎出身者に多いらしい。
 
だから古いナツメロを歌っているオヤジグループにたずねれば知っているが者が一人くらいは必ずいると言う。
 
が、知っていながら知らない振りをする人もいるとか。
 
しかしドンゴロスとは何所から来た名前だろう。

「ドン殺す」はマフィアの殺し屋用語?

調べて見たら次のようなことが判った。

ドンゴロスは「dungarees・ダンガリース」からの転用で麻袋、また麻袋を作る目の粗い厚手の布のことで梱包・天幕などにも用いる。

ここでやっと本題に入るが、この外国語の「ダンガリース」から転用された「ドンゴロス」がどのようにして「カマジー」と言う沖縄語に転化したのか。

叺(かます)と言う単語は漢字ではない日本で作られた古い国字がある。
これは蒲簀(かます)の意で、古くは蒲(かま)を、あらく編んで簀(むしろ)を造ったが、その藁(むしろ)を二つ折りにして作った袋のことを叺(かます)といった。
主に穀物・塩・石炭などを入れるのに用いていた。

沖縄では戦前まで米や穀類は「かます」に入れていたが、戦後「dungarees・ダンガリース」に入ったメリケン粉や穀類が入ってきてもアメリカ語転化の「ドンゴロス」とは云わなかった。

日本古語の「かます」を敢えて転化させ「カマジー」としたのも、今と違って純粋に「祖国復帰」を祈念していた当時の世相が重なり興味深い。

アメリカ訛りの「ドンゴロス」も古い国字・叺(かます)訛りの「カマジー」も今では既に死語になりつつある。              
 
当時は思いも付かなかったが今考えると、カマを掘られてジになる名前なんて「釜痔ろう君」の親も随分罪な名前をつけたものだ。

 

※尋ね人

半世紀ほど昔、米軍占領下の沖縄那覇市の壷屋小学校に暫く通っていた当時四年生の「わたなべ かまじろう」(渡辺釜次郎?)君(或いは同君をご存知の方)、お元気でしたらコメントください。
 

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曽野綾子氏への反論 地元より

2006-05-28 09:14:59 | ★集団自決

沖縄、座間味島、渡嘉敷島の軍命令による「集団自決」については再三当日記でも触れてきたが、作家曽野綾子氏の問題提起に対しては地元沖縄国際大学、琉球大学、沖縄大学の教授陣を中心に反論が繰り返されてきた。

当然、地元二紙はその意見の絶好の発表場所。

沖縄タイムスを中心にその反論記事を紹介したい。

曽野綾子包囲陣の一番打者は安仁屋政昭・沖縄国際大学名誉教授。

因みに安仁屋教授は狼魔人の高校時代の恩師で日本史を担当しておられた。

 
◆沖縄タイムス <2005年7月2日> 朝刊 1版 社会26面(土曜日) カラー
 
[戦後60年]/[「集団自決」を考える](18)
 
/識者に聞く(1)/安仁屋政昭沖国大名誉教授
 
/すべてが軍の統制下に/足手まとい恐れ死選ぶ

 沖縄戦の最中、軍民が混在する状況下で住民が犠牲となった「集団自決」。史実を塗り替えようとする動きが再燃する中、その問題点と「集団自決」の実態を四人の識者に聞いた。

 -沖縄戦で起きた「集団自決」とは。

 「天皇の軍隊と、それに追随する市町村役場の管理職や徴兵事務を扱う兵事係らの強制と誘導によって、肉親同士の殺し合いを強いられたのが『集団自決』の実態である」

 「日本語で『自決』とは自らの意思で、責めを負って命を絶つこと。自殺の任意性や自発性が前提となるので、言葉本来の意味において、沖縄戦では『集団自決』はなかった」

 -どのような状況下で起きたのか。

 「『集団自決』は日本軍と住民が混在していた極限状態で起きている。沖縄戦は、南西諸島が米軍によって制海権も制空権も完全に握られ、民政の機能しない戒厳令に似た『合囲地境』だった。その状況下では、駐留する日本軍の上官が全権を握り、すべてが軍の統制下にあった。地域住民への命令や指示は、たとえ市町村職員が伝えたとしてもすべて『軍命』として住民が受け取るような状況があった」

 「地域の指導者や住民たちは、日ごろから軍の命令は天皇の命令だと教えられてきた。皇民化教育によって魂まで身命を投げ打った。軍の足手まといになるなら、死を選ぶことが軍の手助けになるという考えが徹底的に植え付けられていた」

 「米軍の捕虜になることは結果として、軍の情報が漏れることになるので、死を選ぶことが『臣民の道』だと信じていた。それらの状況下で『集団自決』は起きた」

 -国や自由主義史観研の主張する「集団自決」とは。

 「たとえば日本兵によるガマからの追い出し、食糧の強奪、住民殺害など皇軍の残虐行為を免罪しようとする意図がある。住民が犠牲的な精神によって『集団自決』を遂げ、皇国に殉じたという主張を浸透させたいのだ。これは、一九八八年二月の教科書裁判沖縄出張法廷でも明らかになっている。自由主義史観研の主張もこのような流れを受けてのものだろう」

 「自由主義史観研は渡嘉敷島と座間味島の『集団自決』だけをみて、部隊長命令がなかった。だから軍命がないとしている。だが、重要なのは軍による直接の命令の有無でなく、大局的に当時の沖縄の社会状況や支配構造をみる必要がある」

 -戦後六十年目にして「集団自決」の史実を書き換える動きをどう見るか。

 「体験者や研究者、マスコミなどが長年にわたって実証的に記録してきた県民被害の実態を無視し、歴史の真実を否定している。有事法制の制定、自衛隊のイラク派遣、憲法九条の改正議論が起きている中、歴史を塗り替えようとする動きに警戒する必要がある」(社会部・平良吉弥)

 あにや・まさあき 1934年生まれ。広島大学文学部卒。沖縄国際大学名誉教授。著書に「裁かれた沖縄戦」「沖縄の無産運動」などがある。

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東条英機の銅像

2006-05-27 10:17:37 | 歴史

ブッシュ米大統領がイラク、イラン、北朝鮮三国を「悪の枢軸国」と名指ししたのは未だ記憶に新しい。


「他国を悪と名指しするの怪しからん」とか、「あんな国なら悪と呼ばれても仕方ない」とか「ブッシュなら言いかねないし、云われても当然」と色んな意見があった。

仮に「悪の枢軸国」から「悪」の一文字を削除したとしても日本人なら既に「枢軸国」の文字に「悪」のイメージを刷り込まれている。

第二次大戦は「正義の連合国」対「悪の枢軸国」の戦い。或いは「民主主義国家」対「独裁主義国家」の戦いと学校時代に教え込まれた残影が大人になっても脳裏を過ぎるのだ。

歴史に「もしも」は無いと言うが、確かに枢軸国連盟と呼ばれた「日独伊三国同盟」は日本にとって歴史の大きな過ちであった。

三国同盟は悪玉の役者が揃い過ぎた。

ファッシズムの語源ともなるファシスト党を作った独裁者ムッソリーニ。

そして云わずと知れた独裁者と悪の代名詞ヒットラーが登場するとどうしてももう一人の悪役の登場を観客は期待する。

かくして「悪の独裁者3人男」の登場となる。

ヒットラー、ムッソリーニ、東条英機の三役揃い踏みだ。

が、判断ミスと「悪」とは別の次元の問題だ。

東条が宰相としては二流だったか、三流だったかの論議と彼が「悪事」を犯したとは別の論議だ。

政治・外交史は試行錯誤の歴史だ。

錯誤を悪と捉えたら世界史は悪の歴史と書き換えられねばならぬ。

                  ◇

東条英機は「日米戦争」開戦時の首相である。

その意味では日本を敗戦の惨禍に導いた総責任者として責任を問われても左右の立場を問わず異論は無いだろう。

が、東条はヒットラーやムッソリーニに並ぶ独裁者では無かった。

何よりも東条が首相に就任したのは第三次近衛内閣が日中・日米関係を悪化させ内閣を投げ出した直後で、日米開戦(1941年12月8日)直前の僅か一ヶ月と二十日前(1941年10月22日)に過ぎない。

もはや日米関係は東条一人ではいかんともしがたいほど悪化していたのだ。

日本が独裁国家でなかった証拠は4年足らずの日米戦争の間日本の総理大臣は東条→小磯国昭→鈴木貫太郎と目まぐるしく変わっていた事でも判る。

ミズーリ号上の降伏調印時の東久邇宮稔彦王内閣を加えると日本の舵取りは実に4人の指導者にバトンタッチされている。

沖縄の「反戦歴史家」によると第二次大戦は日中の「十五年戦争」にまで辿らなければならぬと言う。

因みに沖縄平和祈念資料館によると「『平和の礎』に刻銘された沖縄戦戦没者は沖縄県出身者以外は昭和19年3月22日台三軍創設から昭和20年9月7日までをカウントし、沖縄県出身者は昭和6年8月18日の満州事変から昭和20年9月7日までをカウントする」と言う。

これでは他府県出身者は日本の歴史観で戦没者をカウントして、沖縄県出身者は中国の歴史観である「十五年戦争」でカウントした事になる。(沖縄平和祈念資料館http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/htmls/senbotsu/SN01EXPL040.htm)

話を東条英機に戻そう。

一歩譲ってその意見「十五年戦争」に従ったとしても満州事変の起きた1931年、職業軍人の東条英機は国政を動かすような地位にはおらず、その当時参謀本部の課長(47歳)に過ぎなかった。

日中戦争開戦といわれる盧溝橋事件の1937年に陸軍中将であり未だ国政には参加していない。(当時は近衛内閣)

日中戦争開始後三年目の1940年にして第二次近衛内閣の陸軍大臣としてやっと国政の一端をになうようになる。

つまり職業軍人の東条英機が近衛内閣の閣僚として大臣になるのは日米開戦の一年前のことなのだ。

                  ◇

こうして開戦前後の日本史の概略を一瞥しただけでも、戦後刷り込まれた「マッカーサー史観」の亡霊が現代でも彷徨っているのが判る。

事を複雑にしているのは「マッカーサー史観」を引き継いでる人達が親米主義者ではなく冷戦時で云えば「親ソ主義」、現在で云えば「親中・親北朝鮮主義」の人達だと言う日本の摩訶不思議さである。

今や東条英機といえば「靖国参拝のネック」とさえなってしまい参拝強硬派の小泉首相でさえ「靖国参拝はA級戦犯を参拝しているわけではない」と言い出す始末である。

A級戦犯と言えば即、東条英機の顔が浮かぶほどマスコミの刷り込みが行き届いた国民は、国内親中メディアの「東条=独裁者・極悪人」説を信じ込んでしまう。

これは結局、ひたすら東条を悪の権化のように糾弾する中国の情報戦への敗北を意味する。

A級戦犯とは連合軍が便宜上作ったクラス分けであり、A、B、Cがそのまま罪の重さを繁栄するわけではない。

A級戦犯でありながら戦後、外務大臣(刑期年・重光葵)や法務大臣(終身刑・賀屋興宣 )になった人もおるしC級戦犯で死刑になった人は実数を掴めないほど多数いる

何よりもA級戦犯に指定されながら裁判を免れ、戦後日本の総理大臣になった人(岸信介)もいるくらいだから、東条英機のみを悪と糾弾する「日本人が刷り込まれたA級戦犯」が如何にいい加減な言葉かが判る。

日本人的感情としては、「東条は日米戦争を指導した責任者だから責任を取れ」と言う気持ちは判る。

が、同時に日本には彼を悪の権化のように罵り死者に鞭打つ文化はない。

東条は、兎にも角にも、絞首刑と言う東京裁判の判決で罪を償ったのだ。

日本には絞首刑以上の極刑は無い。

                 ◇

日本では「銅像が建つ」と云うと故人の偉業を称える像と相場は決まっている。

勿論、日本国内に東条英機の銅像が建ったと言う話は聞かない。

以前にも触れた記憶があるが、その東条英機の銅像が中国に建っていると言うと大方想像はつくだろう。

中国人は死人の墓を暴いても死者に鞭を打ち続け、日本人が考えるような罪の償いではけして人を許す事は無い。

今でも東条英機の後ろ手に縛られ膝まずかされた像は中国の地で唾を吐きつけられている。

◆東条英機の銅像
http://j.people.com.cn/2004/01/10/jp20040110_35732.html

以下はメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成18年(2006年)5月26日よりの転載ですが「中国人がいう 「日本の謝罪」”について」の読者の卓見にうなずかされる。

                    ◇

≪(読者の声1)“中国人がいう 「日本の謝罪」”について。

中国人は「日本人は心の底から謝罪していない」という。日本人は「総
理や天皇が何度も公式謝罪したではないか。ODAも3兆円も供与した
ではないか。いいかげんにしてくれ。」という。

中国人がいまだに「日本人は心の底から謝罪していない」と言うのは、
日本人がまだ中国人が心の底で考えているような形の謝罪をしていない
からである。それでは中国人が考える謝罪とはどのようなものか?

その謎を解くためには、中国人が「心の底から謝罪している」と挙げる
事例を見なければならない。

私は3人の事例を紹介する。 

私は日本人がこのような形の謝罪をすれば、中国人は「日本人はきちん
と謝罪した」と言うことを保証する。

(1) 汪兆銘の例

汪兆銘は清朝の国費留学生として法政大学に学び、孫文が日本で活動し
ていた頃、中国同盟会の設立に参画、その機関紙 「民報」の編集を行う
など日本での生活が長かった。
蒋介石の下で行政院長兼外交部長として第二位の立場にあったが、「一
面抵抗、一面交渉」 の方針を打ち出し、対日交渉の道を探り続けたため
「売国奴」と言われ、1935年、狙撃された。

蒋介石が毛沢東と抗日民族統一戦線を樹立すると、蒋介石と袂を分けた。
 
南京戦で蒋介石が重慶に逃れると、汪兆銘は1938年、南京国民政府
を樹立し、国家主席となった。

日本政府は、汪兆銘の政権を、唯一の中国を代表する政権として承認し
た。 

だが体内に残った銃弾により症状が悪化し、1944年、名古屋の病院
にて死去した。汪兆銘の遺体は、南京に搬送され、南京市郊外の梅花山
に埋葬された。

夫の墓の将来を案じた夫人は5トンの鉄粉を混ぜたコンクリートにより
遺体の周囲を防護したが、終戦後、中国政府は汪兆銘を漢奸であるとし
て、その墓を爆破して遺体を暴き、遺体を引きずり出して暴行を加えた。

現在、墓があった場所には、汪兆銘が後ろ手に縛られ、跪いている像が
ある。頭を垂れている先は、孫文の墓 (中山陵) の方向である。

汪兆銘の下で働いた周仏海と陳壁君は奸漢裁判にかけられ牢獄のなかで
死亡した。

陳公博、堵民諠、梅思平、林栢生は奸漢裁判で死刑判決を受け、処刑さ
れた。

(2) 秦檜の例

檻のなかで縄に繋がれ、膝を屈服する像として有名なのは、南宋の宰相
であった秦檜とその妻である王妃の像である。

金との和平交渉を主張したため売国奴とされた。兵飛廟のなかで跪いて
いる夫妻の像に、唾をかけるのが今でも習慣になっている。

政権争いが起きたり、王朝が興亡を繰り返すたびに残忍かつ大量の虐殺
が行われてきた中国では、王朝を裏切ったり、王朝に反逆するなど、王
朝の体制を揺るがす行為に対しては、日本人には想像も出来ないほど重
い処罰を与える。 

その死体や霊に対しても、恨みや憎しみをぶつけるが如く、繰り返し虐
待が行われている。

先の大戦後、日本に近い立場だった人々を「漢奸」と呼び、漢奸裁判で
処刑した。

中国には世界的にも珍しい、国を裏切った者を罰するため、特別な漢奸
刑法が存在していたのである。

(3) ブラント首相の例

中国人が「ドイツは謝罪した」というとき、彼らの念頭にあるのは19
70年12月、ワルシャワのゲットー跡記念碑の前で、跪いて頭を垂れ
ているブラント首相の姿である。 謝罪しない日本と謝罪したドイツを
比較する材料として、その写真がよく中国の雑誌や新聞に掲載される。

この3人の例に示されるように日本人の誰かが、北京に向かって、頭を
垂れ、後ろ手に鎖で縛られて、永遠に跪いている姿があって始めて、中
国人は「本気で謝罪している」 と感じるのである。

そのようなA級戦犯らの銅像を建てるのか、日本の総理大臣が毎日、国
会の庭で北京に向かって跪き頭を垂れるのか(小泉総理も、その次の総
理も、その次も永久的に)、それとも国民の祭日を設けて日本国民全員
が北京に向かって跪き頭を垂れるのか、そのいずれかであろう。

中国大陸の漢民族は、死者の霊に対する恨みや憎しみが世代を超えて続
く民族である。 汪兆銘や秦檜の如く、罪人は遺体であれ魂であれ、永
久的に罪を受け続けなければならないと考える民族である。だからこそ
心から信頼できる血縁で団結するのである。

A級戦犯やBC級戦犯を絞首刑にしたり、総理や天皇が謝罪したり、O
DAを供与した程度では心から満足しないのである。

最近、日本国内に「いつまで謝罪を続ければ気が済むのか」という声が
挙がっているが、漢民族は「永久に謝罪を求める」民族なのだ。 

中国の歴史教科書には「あの惨劇を永遠に忘れてはならない」という記
述が至るところに見られる。

中国歴史教師教学書には南京事件の項目に「この項目は、鮮血したたる
事実をもって日本帝国が行なった中国侵略戦争の残虐性と野蛮性を暴露
している。教師は生徒をして、日本帝国主義に対する深い恨みを心に植
えつけるようにしなくてはならない」、また「授業に望むときは教師自
身が日本帝国主義を心より恨み、教えなくてはならない」とある。
    (SN生)

(宮崎正弘のコメント)まことにおっしゃる通りのこと、ついでに言え
ば、人を食う(カーニバリズム)習慣が残るので、虐殺の方法があれほ
ど残酷、中国人が日本にきて犯した福岡一家四人惨殺事件に象徴される
幾多の惨劇を目撃し、多くの日本人が「なぜ中国人はあれほど残虐なの
か」と不審におもったことも、以上の歴史を踏まえれば分かります。

中国人とあるとき、日本のSM映画の話しになったことがあります。後
ろ手に縛られて歓喜にむせぶ被虐趣味。あれは中国人には理解のそと、
と断言されましたね。中国では後ろ手に縛られると、つぎは処刑を待つ
身ですから。


「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成18年(2006年)5月26日(金曜日)
通巻第1471号  

より転載。

 

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同病相ハゲまし合おう

2006-05-26 07:50:09 | 県知事選

昨日は「ハゲタカ・ファンド」の事に触れたが、元々鷹は日本では大名の鷹狩などでも見られる通り日本人にとってその精悍さ故好感のもてる鳥類として愛されてきた。

ところが、その鷹の頭部がハゲて「ハゲタカ」となると、とたんにイメージが急降下する。

ハゲタカとは死肉、・・いや、腐肉に群がるキタナイ生き物の代名詞となりその道では悪名高いハイエナさえ尻尾を巻いて逃げ出す昨今の悪名ぶりだ。

死肉に群がるのは生きるためでありハゲタカだけの専売ではない筈だ。

この云われ無き差別は偏(ひとえ)に単に頭頂部がハゲているそれだけの理由なのだ。

これを差別と云わずに何と言おう。

丹頂鶴も頭頂部がハゲておまけに露出した地肌が赤い色をしているというのに日本国中であの愛され様だ。

丹頂鶴の立ち寄る国立公園の話を聞いたことがあるが、「ハゲタカの群がる国立公園」の話は寡聞にして聞かない。

ハゲが差別されるのは動物だけではない。

中学生の頃ディズニーの「ファンタジア」という映画を見た。 クラシックの名曲をカラーのアニメと当時の人気指揮者・ストコフスキー指揮するフィラデルフィア管弦楽団の音楽が評判の音楽映画だった。

その中にムソルグスキーの「ハゲ山の一夜」があったのを今でも鮮明に覚えている。

夜な夜な「ハゲ山」に集まる魑魅魍魎、それをディズニーが見事なアニメで表現し、悪や恐怖をムソルグスキーの音楽が増幅させていた。

当時クラシック音楽に興味を持ちはじめていた筆者にはかなり恐ろしげに見えた。

やはり山もハゲるとムソルグスキーやディズニーにも差別されるのか。

ハゲてなく木がうっそうと茂った深山だったら出てくるのもきれいな「妖精」だったり「眠れる森の美女」だったりするのだろう。

鳥も山もただハゲていると言うだけの理由で斯くも差別されるのである。

                  ◇

まだ20代の紅顔の美青年の頃、何時もの酒席で怪しげな「学説」を披露したことがある。
 
「老いて髪のフサフサした者はガンになる。 ハゲた者は脳卒中になる」。
 
若い頃は平気で放言していたこの「学説」も齢60半ばにもなると妙に真実味を帯びるので気軽に放言し辛くなった。
 
事実、図らずも三年前、筆者は「脳卒中」でその「学説」の一部を身を持って証明する羽目に陥った。
 
商売がら毛生薬、発毛剤のたぐいをこれまで数多く売って来た。
 
その宣伝文句だけは立派だが、無責任にもその商品を買って髪が生えた人間を一人も見たことがない。

かく言う私自身、親の遺伝と諦めて、そのたぐいの毛生薬を使った事が無い。
 
プライバシー保護の為特に名を秘すが、友人のT君(バレバレ?)などは日本製では飽き足らず、「中国4千年の歴史が造った」とか「中国人民解放軍が開発した」とかの怪しい文言に惑わされて「中国製毛生薬」を試していた。
 
同君の使用結果は本人の頭部を見て確認するとして、作家の故遠藤周作さんが同じ中国・毛生薬の使用経過を雑誌に掲載しているのを昔読んだことがある。
 
これも結論は晩年の遠藤先生の頭部の様子で一目瞭然だが、雑誌での先生の嘆き節が笑わしてくれた。
 
何しろ大分昔の事ゆえ正確な記述は覚えていないが、大体次のような顛末だったと思う。
 
いわく「例え効果は無くとも、水のように無臭・無刺激であればまだ許せる」。
 
「毎日塗布する際の、悪臭、それに初め痒くて、掻くとそこに薬が染みて痛くなる」。
 
「遂には傷が出来てそこが化膿してしまい、更に薬がそれを悪化させる悪循環」。
 
「頭部から発する異臭に、家族は側に寄り付かなくなった」。
 
「最後はカサブタが取れて残り少ない毛まで抜け落ちる始末」。
 
「水道水でも塗っていたほうが無害なだけ、まだましだった」。
 
友人のT君も大同小異の使い心地であっただろう。
 
ハゲに悪い人はいないとか、ハゲにガンなしなどと慰められても、ハゲてない方がいいに決まっている。
 
親の因果が子に報いではないが、親の遺伝子を正直に受け継いだ人間にとって歳相応に年々進化、いや退化する現象であり、ごく自然な生物学的現象である。

人間往生際が肝心で、去る髪を追わずの心境で悟りの境地に至り、神、いや髪のみぞ知る天命と甘受し、従容と脱毛の行方を見守るしかない。


「滅び行く大草原」と言うディズニー映画が昔あったが、半ば砂漠化した頭髪を見るたび「砂漠は生きている」と強がってみたり、なまじ中途半端な枯草が茂るより、いっそツルッパゲになったほうがよっぽど清々すると思ったりする時もある。
 
床屋にいくたび、「髪の量が少ないのだから、料金を負けてくれ」と哀願する。
 
だが、「切るべき毛を探すのに苦労する」といつも却下される。

人生、諸行無情で、髪もホソ毛,・・・じゃない、神も仏も無いのがこの世の常と悟るべし。

K君などは悟ってしまたのか、ゴルフをするのにも帽子を被らずにプレーしたらしい。

結果は悲惨で、沖縄の強烈な太陽は陽射、・・いや、容赦なく保護毛無き彼の頭皮を直撃し脳ミソが沸騰する危機に瀕したとの事。

それでも雨が降る時は防護毛が無い分だけ人よりいち早く水滴の頭皮への到着を感知できる利点があると豪語していた。
 
ハゲは男性ホルモンが多いためになるので、男にとってこれは勲章のはず。
 
大体昔から精力的な男性はハゲと相場が決まっている。
 
ハゲは大いに誇るべきことであって、なんら後ろめたいことはない筈である。
 
とは云っても同年代でありながら、いまだに頭髪がふさふさしている嘉味田や新里のような男を見ると、なんで髪様、いや神様はこんな不公平なことをされるのかと思うモノは私だけではない筈だ。
 
最近、若い人の間にスキンヘッドが流行するのは「偽装若ハゲ」と云うそれなりの根拠がある。
同時に、精力的に見せたい、たくましくみせたいという願望もあるのだろう。
 
その点ダンディー彦麻呂のスキンヘッドによる変身は大正解だった。
 
これ以上の「偽装ハゲ」は無いからもう見破られる恐れは無い。
 
世の光頭族よ、自信をもってハゲまし合おう。

そういえば羽毛田・宮内庁長官はお元気だろうか。
お顔を見たい方は→http://d.hatena.ne.jp/kouji96/20060113


 


 

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義理と人情の男・星野仙一がハゲタカ退治

2006-05-25 13:21:05 | 県知事選

テレビワイドショーで星野仙一氏は記者の質問に答えて「(村上には)天罰が下る」と一喝した。

義理と人情の男・星野仙一が資本の亡者・村上某に宣戦布告をしたのだ。

昨年来の「ホリエモン騒動」以来、村上氏は頻繁にテレビに露出して「会社は株主のものだ」とか「乗っ取られたくない会社は上場するな」とハゲタカファンド丸出しの主張をしていた。
当時のマスコミは堀江氏や村上氏を資本主義社会のリーダーと持ち上げていた。

が、当時から筆者は≪義理と人情が資本の論理に打ち勝つこともある≫と予言して来た。

その理由として「日本型資本主義」について次のように論じていた。

≪◆Date:  2005年3月25日(金) 午後2時26分
Subject:  ホリエモン騒動其の2

<略>
もともと日本にはアメリカ型資本主義、アメリカ型民主主義は育っていない。  
日本独自の「社会主義的、資本主義」或いは「社会主義的、民主主義」が根強く育った。
だから日本は議論とか会議と言ったようなことには不毛の地域だ。  
会社でも中堅社員以下の会議では多少変わってきたが,役員会、取締役会ともなると依然として議論は不毛でその場の「空気」が全てを決める。
   
では何が「空気」を決めるか。
会議前の「根回し」が空気を決める。
それが株主総会ともなると、議論を仕掛けると大変な事になる。
神聖な株主総会を議論の場所と勘違いする不逞の輩は,会社から嫌がられ社会からは抹殺される。
この会社の嫌がることを生業としているのが「総会屋」である。
ちなみに総会屋と言う単語は英語には無い。

ホリエモンや村上某がいくら会社は株主のモノだとアメリカ型資本主義の論理を吠え立てても「現在」の日本では馬の耳に念仏のようなものだ。

20年程前山本七平という人が「空気の研究」という著書でこの日本型資本主義を見事に解明して見せた。
ホリエモンは本を余り読まないと豪語していたが、そのへんに彼の弱点を見た。
しかしだからといって彼が日本社会に与えた「衝撃」は計り知れぬほど大きい!

ホリエモンの功績
①古い体質のプロ野球界に風穴を開け,其の余波でライオンズの親会社に揺さぶりがかかり西武グループの崩壊につながった。

②会社は誰のものか、と言う命題を議論させた。
その結果日本型資本主義社会では「義理と人情が資本の論理に打ち勝つこともある」という例を示した。

③言論の自由、電波の公共性等の美名の上に胡坐をかき,俗悪愚劣な番組を垂れ流していたメディアに衝撃を与え、改めてメディアの公共性について議論させた。

④ワイドショーの話題を連日独占し「暇人」を楽しませた。

他にも沢山評価する点はあると思うが、ホリエモンがもっと本を読み空っぽな頭の隙間部分を充填し,捲土重来リベンジを期待する。(2005年3月25日記) ≫

                   ◇

ホリエモンが3ヶ月にも及ぶ拘置所生活から保釈になった時の姿には誰もが驚いた。

その別人のように痩せた頬のコケ具合もそうだが、何より単なるダイエットではない何かある変化を彼の表情に感じ取ったのは狼魔人だけだったのか。

案の定彼の取った行動は大方の予想を裏切った。

先月27日の保釈以来、初めて自宅のある六本木ヒルズからの遠出で、日航機墜落の御巣鷹で慰霊をしたと言う。

21日午前4時過ぎに知人らと計5人で1台の車に乗り込み、自宅を出発。

同7時半ごろ御巣鷹に到着し、約2時間半かけて尾根の山道を歩き、犠牲者の「昇魂之碑」の前で合掌したという。

日航機事故を取り上げた山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」を拘置所に拘置中で読破し、「泣けてきちゃった」と感想を漏らしていたと言う。

嘗て彼は本を読まないことを自慢げに公表していた。

上記引用にある通り、昨年の3月、当日記は既に「ホリエモンが本を読まないこと」が彼の弱点と見抜いていた。

                ◇         


今度の「星野対村上」と言う対立構造は日本的「義理と人情」対アメリカ的「資本の論理」の全面対決でもある。

アメリカ型資本主義社会は自分なりに理解していたつもりだったが、昨年来の村上氏の発言を振り返ってみて、どうしても彼の主張が日本型社会に受け入れられるとは思えなかった。

その総決算が今度の「星野対村上」の全面対決である。

日本社会ではまだまだ理屈ではアメリカ型合理主義をわかったつもりでいても、古いタイプの義理と人情のDNAは未だ抜けきっていない。

星野仙一はまさにこの古き良き日本の義理と人情を代表する人物だ。

星野氏は資本の論理で会社乗っ取りを狙う村上に対して、資本の論理と言う相手の土俵には乗らず、自分の土俵である日本的感性で勝負に出たのだ。

だが、名監督であった星野が勝算も無く闇雲に感情論で勝負に出るはずは無い。

熱狂的な阪神ファン、阪神電鉄の社会性、そして世論、それらの動向を綿密に計算し尽くした末の昨日の記者会見であろう。

小賢(ざか)しい村上は状況を察知していたのか、事前に本拠をシンガポールに移している。
シンガポールの永住権を取るという話さえある。
まさか敵前逃亡でもあるまいが・・・。

昨年ホリエモンのニッポン放送株買占め騒動の際、村上は再三テレビに登場して、次のような趣旨の発言を繰り返していた。

いわく「何処の馬の骨とも解からぬ奴に会社を買われたくなかったら、株を公開するな!」とも。

村上は日本の国立大学(東大)を出て経済官僚(通産省)時代の豊富な人脈・情報を利用し,日本社会の恩恵を充分享受している。
それでいてアメリカ型の資本の論理を武器に日本の会社乗っ取りを生業とする。

彼が主唱する村上ファンドの資金は大部分が外資でありこのようなファンドの事を世間では「ハゲタカファンド」と言う。

星野の怒りの宣戦布告の前に恐れをなした村上は所有する阪神株を売り逃げるであろう。

                   
                  ◇

◆阪神の星野SD、村上氏退治に辞任カード!!
「個人的に戦う。気持ちでは負けない」

村上ファンドが経営権握った場合、辞職を明言した阪神の星野シニア・ディレクター
 プロ野球・阪神タイガースの星野仙一シニア・ディレクター(59)が24日、兵庫県芦屋市内のホテルで会見し、球団の親会社・阪神電鉄の株主総会(6月29日開催予定)で、筆頭株主である村上世彰氏(47)率いる投資ファンド(通称・村上ファンド)が推す取締役候補が取締役会の過半数を占めるような事態になった場合、球団を辞めることを明らかにした。

 星野氏は「村上ファンド側が役員9人を送り込んだ場合、経営権を握られるのは明らか。自分だけが資本主義であると思っている人の下では絶対にできない。その時点で(SD職を)降ろさせてもらう」と断言した。

 阪神電鉄の質問状に対する村上ファンドからの回答は23日までに届いたが、役員派遣については従来通り「経営監視が目的」とした。しかし、22日に関東財務局へ出された訂正報告書には、阪神株保有の目的に「経営参加」が追加された。このことについて「マスコミ各社から質問が相次ぎ、まとめて答えたほうがいいと思った」(星野氏)ため会見を設定した。

 今月15日にも、村上氏に対して「天罰が下る」と怒りをあらわにしていた星野氏は、村上ファンド側が推す9人の取締役候補が選ばれた時点で、「即」辞めると断言した上で、次のように心境を語った。

 「阪神は好きですよ。愛してますよ。でも電鉄経営の何も分かっていない人に経営権を牛耳られて、あーでもない、こーでもないといわれるのであれば、辞めざるを得ない。(残って一緒に戦ってほしいという)ファンの人たちには『申し訳ない』との思いはあるが、どうしようもない」

 辞意は、牧田俊洋球団社長にのみ伝えたとし、「社長は『うーん』と考え込んでいたが、『ぼくの決断ですから』と伝えた」という。

 さらに、「辞めたあとも個人的に戦っていく。金と法律では負けてるけど、気持ちとしては負けない」などと述べた。

 昨年11月に一度だけ会ったことのある村上氏について、「タイガースという関西文化に手を突っ込んで、牛耳ろうとしている。日本をよくするためとかいいながら、シンガポールに拠点を移している」などと批判。「後悔してると思うけどね。後戻りできない状況なんじゃないの」と村上氏の心中を推しはかりながらも、「一生、あの男にはファンや阪神の社員や関西の人たちの恨み辛みがつきまとうよな」と哀れんだ。

 村上ファンドは阪神株の46.82%を保有し、6月29日開催予定の定時株主総会で、取締役16人のうち改選される9人について、村上氏らファンド側の候補を選任するよう求めている。

 阪神側はあす25日にも開く定時取締役会で、総会に諮る議案などについて協議する予定だが、開催日程などを含めて流動的な情勢だ。

ZAKZAK 2006/05/24

 

 


 

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西銀座駅前 いかす野郎ども

2006-05-25 09:13:24 | 身辺雑感

昭和33年。
東京では戦後の暗い世相はすっかり忘れ去られていた。
銀座は華やかな東京の象徴のような街だった。

新宿、原宿、渋谷。
若者の街は時代と共に変わっていく。
その頃の銀座は若者の躍動が感じられる町だった。
その年、東京タワーが建設され東京観光の目玉となった。
日本中の若者は東京に憧れ銀座に夢を見た。
渋谷、原宿はまだ静かな街だった。

少し前に鮮烈な銀幕デビューを飾った石原裕次郎の「いかす」という言葉が若者の流行語となって街に飛び交っていた。
それまでは渋谷と浅草を結ぶ銀座線しかなかった地下鉄にその年に丸の内線が新設された。
銀座は若者の街に変わりつつあった。
新設地下鉄の駅界隈は、四丁目を中心とした大人の街に対して若者の街として活気に満ちていた。

新しい地下鉄の駅名を西銀座といった。
西銀座を起点とする高速道路の下を利用した二階建ての細長い西銀座デパートが話題を呼んだ。
その中の「有楽フードセンター」はいわばグルメ街のはしりだった。

その頃街には奇妙な野郎がゴロゴロしていた。
Aもその中の1人だった。
年はまだ二十歳前だったろうか。
リーゼントの髪をチックで固め何時も口癖のように何かを呟(つぶや)いていた。
世間の大人たちが見るといかれた野郎だった。
街にネオンがつく頃になると地下鉄の階段を上って来るのをよく見た。
一度、何の用事で毎日この街に来るのかと尋ねたことがあった。
「いや~別に・・・ただ刺激が欲しいだけさ」だって。
キザな野郎だったが何故か憎めないヤツだった。
その時もAのブツブツ呟く言葉は良く聞き取れなかった。
何か英語のようにも聞こえた。
歌の歌詞に英語を混ぜるとかっこよく聞こえた時代だった。
その後人気者になった飯田久彦が歌う「ルイジアナママ」のオニオリ~ンという意味が判ったのはかなり後になってからだった。(from New Olreans)

Aは開店前のあるクラブによく出入りしていた。
そこのバーテンBとは幼馴染だったらしい。
そいつはカクテルは作るくせに酒は一滴も飲めなかった。
酔って陥る恋は本物の恋ではないとキザな台詞が口説き文句だった。
女には不自由しないと何時も豪語していたっけ。
そのくせ何かあると、すぐ泣き出す泣き虫夜野郎だった。 
コイツも何故か憎めないヤツだった。 
今ごろ何処でキザな文句を垂れているのやら。

当時の銀座の若者のデイトコースは何と言ってもジャズ喫茶だった。
銀座では「銀座ABC(アシベ)」と言うジャズ喫茶が時代の先端だった。
ジャズ喫茶といっても今の感覚とは一寸違う。 
アメリカンポップスを日本の歌手が日本語で歌ういわばライブ喫茶だ。
ジャズ喫茶なのに歌い手はジャズ歌手とは言わず何故かロカビリー歌手と言った。
そういえば何時も1人でジャズ喫茶に現れたCも変な野郎だった。
寂しげに1人で店を出るとき、その後姿にふと尋ねてみたことがあった。
「今夜これから何処へ行くの」
これに対する返事も又キザだった。
「行く先だって?・・・・ 信号灯だけが知ってるサ」だって。
「何時も1人だが、彼女はいないの?」と話し掛けたら、
「俺・・恋には弱いんだ」と寂しげに答えた。
でもコイツも憎めないヤツだった。

みんな何処へ消えてしまったのだろう。
みんなキザな野郎だったが憎めないヤツばかりだった。
そういえばみんな同じようなことをブツブツ呟く癖があった。
最後まで良く判らなかったが、あの口癖の意味は一体何だったのだろう。
今でも謎だ。
「ABCXYZ・・・・・?」
でも皆「いかれて」なんかいなかった。
「いかす」野郎だったぜ。


◆西銀座駅前 昭和33年 歌 フランク永井

♪ABCXYZ これはおいらの口癖さ♪・・・・(以下略) 

この歌を歌っていたフランク永井は今でも熱海の施設でご存命との事。
彼のABCXYZの発音はカッコよく当時としては新鮮に聞こえたのを想い出す。


 

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曽野綾子 沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄

2006-05-24 12:18:35 | ★集団自決

「鉄の暴風」(沖縄タイムス社)やそれを元ネタにした大江健三郎氏の「沖縄ノート」(岩波新書)で、沖縄の「集団自決」は軍命令だった云われたことに疑問を持った作家の曽野綾子氏が沖縄取材の経緯を雑誌「正論」に書いている。

その後曽野氏の指摘により「鉄の暴風」は間違い部分を削除したが、誤報は一人歩きを始め「軍命令による集団自決」は教科書にも載った。

誤報が一人歩きをして教科書にまで載った例は「強制連行による従軍慰安婦」と全く同じケースである。

「鉄の暴風」と言うタイトルは「日本軍の住民虐殺」を印象つける言葉だという沖縄県民もいるくらいだ。

が、住民と軍に「鉄の暴風」とも言うべき無差別攻撃をかけたのは日本軍ではなくアメリカ軍である

そんな自明の事実さえ、「日本軍は県民を虐殺したがアメリカ軍は助けてくれた」と言う「平和運動家」の言葉には陰が薄くなる。

直接の加害者に非難の目を向けるのではなく、日本軍を批判すると言う点では「広島・長崎の原爆被爆」と全く同じである。

                   ◇

沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄 

作家 曽野綾子

「正論」平成15年9月号掲載

 終戦直前の1945年春、沖縄本島への攻撃の直前に慶良間列島の島々が攻撃された。攻撃は主に艦砲射撃によって行われたが、その激しさは想像を絶するものであったという。

 そうした激しい戦火のただ中にほうりこまれた慶良間列島のあちこちで、追い詰められた村民が集団自決をしたケースがあった。この人たちが、古い日本の教育と思想を受けた人々であったことは間違いない。

 島民だけではない。当時まだ子供だった私をも含めて日本人のすべてが「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けていた。そうした軍国教育の片棒を担いだ大きな力は、文部省と教師たち、大手の新聞社であったことをここに明記して置かねばならない。

 1971年の10月から、1972年の8月まで、私は文芸春秋社から発行されている月刊誌『諸君!』に、この慶良間列島中の渡嘉敷島で起きた村民の集団自決の調査報告を『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』と題して連載した。

 私がこの事件に関心を持ったのは、戦後四半世紀経ってからなのである。私はそれまでにも沖縄の旧女学生たちが、終戦間近の戦乱の沖縄で、軍と運命を共に けなげに働いていた状況に焦点をおいた『生贄の島』などを書いていたが、その取材の途中で、この島の悲劇のことも耳にしたのである。

 渡嘉敷島は沖縄本島から30キロの沖合いに浮かぶ島である。1945年終戦の直前に、その島には陸軍の海上挺身第三戦隊の海上特攻部隊130人が駐屯していた。彼らの武器はおもちゃのような船であった。

 先頃、北朝鮮の工作船が公開され、見る人は一様に「こんなオンボロ船で、ろくろく寝るところもなく乗組員を載せて・・・・・」と言ったが、工作船はまだしも鉄船である。

 こちらはベニヤ板でできた長さ5メートル、幅1.5メートル、深さ0.8メートルの舟に、75馬力の自動車用エンジンを載せ、速力20ノットで夜陰に乗じて敵の艦船に接近し体当たりし、120キロの爆雷二個を爆発(三秒瞬発信管使用)させて沈没させるのが目的であった。

 「三艇を一組として敵船腹にて爆破せしむるもので、隊員の生還は不可能である」となっていたのである。

 この海上挺身第三戦隊を指揮する赤松嘉次元大尉はその時まだ25歳であった。私は1970年9月17日、大阪ではじめて氏に会ったが、氏はその後、1980年に逝去されている

 私が渡嘉敷島の事件に興味を持ったのは、その年の春に見たいくつかの記事がきっかけだったと記憶している。

 つまり赤松元隊長とその部下たちが島の慰霊祭のために渡嘉敷島に渡ろうとして抗議団に阻止されたのである。結局、部下たちだけが慰霊祭に出席し、懐かしさを示す村人たちと歓談したが、赤松元隊長だけは島へ行くことを諦めた。

 抗議団というのは、平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会科教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部、の連合体であった。

 当時のジャーナリズムの中には赤松元隊長を悪の権化のように書くものが少なくなかった。その先鋒の一人が大江健三郎氏であった。1970年9月の奥付で、岩波新書から出版された氏の『沖縄ノート』には、赤松元隊長について次のような記述がある。

 「・・・・・ その人間が可能な限り早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる『沖縄戦記』のたぐいを満たしていることか

 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊の前で、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう

 私は当時この文章を読んで、二つの感慨を持ったことを記憶する。

 一つは人の罪をこのような明確さでなじり、信念を持って断罪する神の如き裁きの口調に恐怖を感じたということである。

 もう一つの感慨は極めて通俗的なものであった。私はこの赤松元隊長という実在の人物がもしほんとうに告発されているような人物なら、ぜひ一度会っておきたい、と思ったのである。<略>

  私は、自然にその関係の記事や書物を読むようになった。その代表の一冊は沖縄タイムズ社によって発行された『沖縄戦記・鉄の暴風』で、その中には、赤松元隊長がいったんは住民に向かって軍陣地に避難せよ、と言いながら、住民がその通りにすると、自分たちだけは安全な豪の中にあって住民を追い払い、翌日には自決命令を出したというものである。

 『鉄の暴風』は次のように描く。

 「轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頚部をきったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた

 間もなく私は、第二資料とでも言うべき『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』のコピイをもらった。事件の中心の部分は、次のように書かれていた。

 「瞬間、手榴弾がそこここに爆発したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」

 「(死に損なった者は)剃刀で自らの頚部を切り、鍬や刀で親しい者の頭をたたき割るなど、世にもおそろしい情景がくり拡げられた。谷川の清水は、またたく間に血の流れと化し」

 文章を長年書き続けて来た者の体験から言うと、これだけよく似ている表現は、必ずどちらかがどちらかを下敷きにして書いているものである。

 そのうちに私は、第三資料にぶつかった。那覇在住の作家・星雅彦氏のエッセイによると、資料となるものは三つ年代順と思われる順に並べると、次のようになる、という。

 第一が『渡嘉敷における戦争の様相』(渡嘉敷村、座間味村共編)で、当時の村長・古波蔵惟好氏と役所吏員防衛隊長・屋比久孟祥氏の記憶を辿って書いたもの、となっている。資料は琉球大学図書館にあるガリ版刷りで、書かれた日時の明記はなく、赤松元隊長が自決命令を出したという記録もない。

 第二が『鉄の暴風』(沖縄タイムズ社編)。1950年(昭和25年)8月の日付があり、「自決命令が赤松からもたらされた」とある。

 第三が『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷島村遺族会著)で、出版は1953年(昭和28年)3月。「赤松隊長から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」となっている。


 この三つの資料には、どれかを模写したような共通の文体と内容があることを炯眼の星氏は看破していたのである。

 第一資料『渡嘉敷における戦争の様相』と第3資料の『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』は、その自決の場面などには、偶然とはとうてい思えない多くの同一表現が見られる。

 とりわけ私にとって決定的に思えたのは、この三つの資料が、米軍上陸の日、1945年3月27日を、どれも3月26日と一日間違って記載していることであった。

 何しろ悲劇の始まった日なのだ。生き残った村民にとっては父母兄弟たちの命日の日である。それを三つの資料とも書き違って平気でいるということはないだろう。

 これは、三つの資料共、直接体験者でない人々が、後年、伝聞証拠を元にして、前の資料を下敷きにしながら書いて行ったと言う証拠であろう。

 私はその当時39歳であった。体力だけは充分であった。私は軍と村民側双方から話を聞くことにしたのである。<略>

  敵の艦砲射撃が始まったとき、軍陣地内に逃げよ、という命令を聞いて集まった村民を、赤松元隊長が民間人を軍陣地内には入れられないとして追い返し、自分たちだけ安全な壕にいた、という一つの話を例に取ろう。

 このことについて『鉄の暴風』は、赤松元隊長の副官であった知念朝睦氏がその時「悲憤のあまり、慟哭し」たと書いている。知念氏がその苗字が示す通り沖縄県人であったので、非常によく筋が通って読めたのである。

 しかし赤松隊側に聞くと「軍陣地は攻撃目標になる危険なところでありますから、最初から民間人を入れるという考えはありません」と言い、知念氏は『鉄の暴風』の記載のでたらめさに憤慨し、かつまともに聞いて来ようともしない沖縄のマスコミに怒って、私に会うまで口を閉ざしたままであったという。

 知念氏によると3月25日に特攻舟艇の出撃が不可能になり、初めて赤松隊は心ならずも「島を死守する」ことになった。その二日後の27日に、『鉄の暴風』の書くような「将校会議ができるような壕など全くありえない」と言う。

 当時、村の有力者といえば、校長、村長、駐在巡査の三役だったが、私の幸運は当時の村長も、駐在巡査も健在だったことだった

 村長が「自分は自決命令を聞いていないが、駐在がそれを伝えて来た」言明したので、私とすれば駐在巡査に会えばよかったのである。

 幸いにも元巡査の安里喜順氏は快く私に会ってくれ、赤松元隊長が自決命令を出したことを否定した。むしろ「あんたたちは非戦闘員だから、生きられる限り生きてくれ」と言ったと証言したのである

 その時に私は驚いたのだが、知念元副官と言い、安里元巡査といい、鍵を握る人物が現存していて、少しも面会を拒否していないのに、取材のために会いにきた沖縄側のジャーナリストは一人もなく、私より前に取材に来たのは「週刊朝日」の中西記者だけだという事実だった。

 ついでに言うと、大江氏も渡嘉敷島にさえ取材に来てはいなかった。当時渡嘉敷島には民宿が一軒しかなかったが、私が当然のように大江氏の名前を出しても宿の人はぽかんとしていた。

 結論を言うと、私ができる限りの当事者にあたっても、赤松元隊長が自決命令を出したという証拠はどこからも上がってはこなかったのである

 混乱は少なからずあった。もう少しこうすればよかった、という反省は赤松隊側からも出た。しかし西山の玉砕地と呼ばれる悲劇の土地に300人を越す遺体が集まっていたのを見た人はいなかった。

 しかしそれを敢えて言わなかったのは、玉砕ということで遺族が年金をもらえれば、それでいいではないか、と思ったという

 私がこの調査をし終わって得た結論は、「赤松隊が自決命令を出さなかったという証拠はない。しかし出したという確実な証拠も全く見つからなかった」ということである。

 赤松元隊長を糾弾しようとする多くのマスコミや作家たちは、私が私費でできた基本的調査さえせずに、事件の日にちさえも取り違えた記録を一つの日本史、あるいは日本人の精神史として定着させようとした。その怠慢か欺瞞かが、やっとはっきりしたのである。

 人間は間違えるものだ、ということが、私の常日頃からの一つの思いでありこの事件の調査を終わった後も、それは変わらなかった。もし私があの渡嘉敷島の戦中戦後の困難の中におかれたら、私は考えられる限りの感情的な行動を取ったろう。そういう自覚の中では、渡嘉敷島の戦闘に生きたすべての人々は限りなく自然であった。

 調査が終わった後、私は生涯沖縄に行くのをやめようと思っていた。この問題に関して、沖縄で発行されている二つの新聞が徹底して私を叩き続けたことを、私は忘れたかったのである。

 沖縄の人たちは、この二つの新聞だけが地域を独占している限り、自由で公正な思想とニュースを受けることはないだろう、と感じたが、それも人のことだから、どうでもいい。

 しかし何年か経った時、私はやむを得ぬ仕事で沖縄に行くことになり、新聞記者に会った。その中の一人が「赤松神話は曽野さんの調査で覆されましたが」と言った時、私は彼に答えた。

 「あなたはどうしてそんなことを言えるのですか。明日にでも渡嘉敷島の土の中から、赤松隊の自決命令書が出てくるかもしれないではないですか。私たちはただ、今日までのところ自決命令が出たという証拠はなかった、ということを知っているだけです。どんなにどちらかに片づけたい事件でも、私たちは歴史の曖昧さに耐える勇気を持たなければならないんです。」

 教科書にこの事件が日本軍の残忍さを証拠立てる事件として何の証拠もなく記載されることの恐ろしさは言うまでもないが、私はもう一つの側面を見落としてはならない、と思い続けて来た。

 当時沖縄では「この類を見ない残酷な事件、強制された自決」は、日本人の恥の記録とすべきものだ、というふうに話す人がたくさんいたし、おそらく教科書の記載もそうなっているのであろう。<略>

 自決した人たちの死は軍から強制されたものとすることに狂奔した。それは死者たちの選択と死をおとしめるものであろう。イスラエルと日本のこの違いはどこから来るのか。私はそのことの方に関心が深いのである。


≪編集部註≫

 本稿に関係する歴史教科書の記述例は以下の通り(いずれも来春から使用される高校教科書)。

≪日本軍によって集団自決を強いられた人々・・・≫(実教出版・世界史B)

≪犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって「集団自決」を強要された住民や虐殺された住民も含まれており・・・≫(桐原書店・日本史B)

≪日本軍に「集団自決」を強いられたり・・・≫(三省堂・日本史A)

≪戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり・・・≫(東京書籍・日本史B)


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別れは突然 「銀の雨」

2006-05-24 07:12:56 | 身辺雑感

カラオケ・ドラマ 「銀の雨」

目指すアパートの玄関に入ったところで雨は本降りに変わった。
ずぶ濡れになるのは免れたが、それでもシャツは先ほどからの小雨で濡れていた。
男はゆっくり階段を上ると奥の部屋のドアの前に立って大きなため息をついた。
辺りは見慣れた何時もの光景だったが、今日の男はドアにノックをするのに躊躇(ためら)いがあった。
男はある重大な決意を持って今日この場所に立ったのだ。
今日こそ話をしなければならない。曖昧な別れ話は2年間も支えてくれた女に対して申し訳ないと思った。
聞きなれた合図のノックで何時ものようにドアが開きにこやかな女の笑顔が男を部屋に招きいれた。
過去に何度も繰り返された慣れ親しんだ動作だった。
唯一つだけ何時もと違うのは男の顔がこわばって暗い表情をしていることだった。

女の何時もと変わらぬ明るい仕草に耐えられず男は座ると直ぐに話を切り出した。

「今日は大事な話があって来たんだ」。

「何の話?」。

「・・・・」。

男の答えは沈黙だった。

女は男のいつもと違う雰囲気をドアを開けた時から気がついていた。
若しかしたらという不安に脅えながらも務めて明るく振舞っていたのだ。

男は21歳、路上ライブをしながら音大に通う苦学生だった。
女は25歳、デパートの店員をしている離婚経験者だった。
男の駅前でのライブに女がカンパをするようになったのが親しくなった始めだった。
男が女のアパートに通うようになった頃から、女は昼も夜も働いて男を支えた。

女は自分が年上で離婚経験者なのを気にしていた。
何時かは別れの時が来るのを密かに予感していた。
今日がその日ではない事を願いながら精一杯明るく言った。

「如何したの。 黙っていたら判らないは。 好きな子でも出来たの」。

否定してくれるのを願いながら、「好きな子」のところは務めて明るく笑いながら言った。

男は答えた。
「そうなんだ」。

「ナ~ンだ、そうだったの」。 
「でも若いんだから浮気の一つや二つ、一々白状する事無いワ」。

これで男が笑ってごめんと言ってくれたら女が恐れていたことは中断される。

「浮気ではない。 本気なんだ。本気で好きな人が出来たんだ」。

男の真剣な態度に女は逆上した。

それから二人の間で行われた痴話喧嘩については良くある話なので省略しよう。

騒ぎが一段落したところで女がポツリと呟いた。

「取り乱してごめんなさい」。
「実はいずれ二人はこうなると判っていたわ」。
「私の方もそろそろ別れ話をしなければと思って居た所なの」。
「突然貴方のほうから持ち出されので取り乱してしまったわ」。
「貴方の話良く判ったから、綺麗に分かれましよう」。
「でも別れる前に一つだけお願いがあるわ」。
「貴方の思い出の曲をかけるから最後に私と踊って」。

しぶしぶ頷く男に女は思い出の曲をかけて男の手を取った。
先ほどからの雨は窓のガラスを打ち続けていた。

                  ◇

銀の雨  (1977)  作詞、作曲/松山千春  歌/松山千春

♪貴方と暮らした♪、・・・・・・・

・・・・・銀の雨が降る

・・・・・銀の雨が降る 

 

  

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沖縄に忍び寄る北朝鮮の「チュチェ思想」

2006-05-23 08:19:25 | 未分類

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「米国人は悪魔でなかった」脱北6人、亡命の心境語るhttp://j.people.com.cn/2004/01/10/jp20040110_35732.html

 【ワシントン=坂元隆】米国に今月亡命した北朝鮮の脱出住民(脱北者)6人が、ワシントンで読売新聞と会見し、「(北朝鮮で)悪魔だと教えられてきた米国人は、本当は親切だ」「もう、逃げ隠れしなくて済む」など、現在の心境を明らかにした。

 6人は、米国で2004年に施行された北朝鮮人権法に沿った初の亡命認定者。全員で報道機関と会見するのは初めて。

 男性2人と女性4人で、20~30歳代。いずれも北朝鮮の金正日政権の抑圧や食糧難を逃れて中国に密入国。ほとんどが北朝鮮または中国の拘置施設の収容経験がある。女性は中国で人身売買や性的虐待の被害を受けたという。<略>

 ほかの脱北者からも口々に、「国民を飢えさせている金正日政権は許せない」と、金正日政権の人権弾圧を糾弾する声が上がった。(2006年5月22日3時7分  読売新聞)

                    ◇


この国の主要産業は「麻薬・偽札・誘拐」の三点セット。
おまけに自国民は飢えさせる。

北朝鮮が世界でも名だたる人権無視国家である事は最早誰も疑う事のできない事実となった。
最後まで北朝鮮を擁護した社民党党首・土井たか子も既に政界を去り、北朝鮮のチュチェ思想を擁護する日生主義者の最後の聖地は沖縄になった。

沖縄の「反基地運動」が一連の「平和運動」と連動している事は県民なら誰でも承知している。

そして、それが多少左傾していても、ある程度はやむを得ないと思う県民も多い。

だが、これらの運動のリーダーが「平和運動」の領域を越えて極左思想に偏り、遂には北朝鮮のチュチェ思想にまで取り込まれ、金正日に操られる形で「基地全面撤去」や「沖縄独立」を唱えている事実を、果たして何人の「平和運動家」が知っているだろうか。

                   ◇

2002 年6月 24 日。
 
那覇市内の某所でラテンアメリカ・チュチェ思想研究所書記長・アルバ・チャベス氏を囲む会合が行われた。

心かよわすチュチェのなかま―エクアドルと沖縄を結ぶ自主の志向―」と題するこの会合の出席者は、

佐久川政一(沖縄大学教授・チュチェ思想研究会全国連絡会会長・「沖縄県平和資料館」建設委員長)
米盛 裕二(沖縄大学教授)
吉元 政矩(沖縄県元副知事)
石川 元平(沖縄県教組元委員長)
仲村 芳信(沖縄大学教授)
尾上 健一(チュチェ思想国際研究所事務局長)
(司会)玉城 勉(連合沖縄事務局次長)

と,何れも沖縄の「反基地」及び「平和運動」のリーダーだが単なる反基地・平和運動ではなく北朝鮮のチュチェ思想の信奉者という極左グループだ。

金正日が拉致を認めて以来、日本でチュチェ思想を標榜し難くなったチュチェ主義者達は沖縄を活動の本拠にしつつある。

当日の主役アルバ・チャベス氏はスリランカから12時間かけてそ日の昼、成田に到着。
東京を経ないでそのまま沖縄に直行した。

僅かな日本滞在日の半分を沖縄に来て基地をみたり、交流したと云う。

それほど現在の沖縄は極左勢力にとって日本最後の聖地になっている。

これは昨日触れたドゥドゥ・ディエン氏の沖縄講演とその招聘者がチュチェ思想主義者・武者小路公秀だったことと構図が重なってくる。

当日の会談の中から沖縄側出席者と発言を拾ってみよう。

佐久川:アルバ・チャベス先生の論文を読んでまいりました。長い論文で、私より何倍も勉強しておられると思いました。しかも私は共和国(筆者注:北朝鮮)には七回しか行っていませんが、先生は倍の一四回も行かれていますキムイルソン主席とキムジョンイル総書記の著作もかなり深く読んでおられるようで敬意を表したいと思います。
<中略>・・その後沖縄の説明ガ続く・・・。

日本に併合されたのが明治12 年(1879 年)ですが、沖縄はそのときから日本の一部になりました。琉球王国は昔、東南アジア諸国、中国、朝鮮との交易が盛んで、軍隊のない、戦争をしない平和な国だったと言われています。

しかし日本に併合されてからは、国内における植民地のように処遇されてきました。いわゆる日本に同化する政策がとられ、琉球の言語や文化は差別をうけました。
とくに天皇中心の皇民化教育により、天皇の臣民として教育されてきました。
<中略>
1972 年に沖縄は復帰し、日本の一県にもどりました。しかし復帰したにもかかわらず、米軍基地はそのまま残り今日に至っています。
沖縄県の面積は日本全国の0.6%ですが、全国の米軍基地の 75%が存在します。
一番大きい島は沖縄本島ですが、その20%を米軍基地が占めています。
アメリカ兵が2万6千人駐留しており、そのために事件、事故がひじょうに多く起こっています。婦女子にたいする暴行事件がたびたび起こります。

私がチュチェ思想に関心をもつようになったのは、チュチェ思想が人間中心の哲学であるからです。
チュチェ思想は、人間の本性が自主性、創造性、意識性であることを明らかにし、自分の足場をしっかりかためて自立して生きていくことを求める思想です。

そういう意味ではチュチェ思想は沖縄の自立化のためにも思想、理論、実践において活用すべきものだと思います。
沖縄には訪朝者がたくさんいます。吉元先生が副知事のときには、大田知事を団長にして125 人が訪朝し、日朝友好を促進するうえで大きな意義がありました。

若い人たちも沖縄の自主を求めています。また日本の沖縄政策にたいして独立した方が良いという人も少なからずいます。<中略>
・・・・・・・・・・・

沖縄が日本に復帰していなければ、沖縄は独自の権限と立場で、直接アメリカと交渉することができたでしょう。

アメリカの占領下にあっても、復帰前の沖縄がそうであったように、沖縄が独自の政府をもって、自主的に内政・外交を行うことができたなら、沖縄は日本の犠牲にならずに、自らが進むべき道を、自らが望む方向へ歩むことができたはずです。
<中略>
今日ここに沖縄県の元副知事が参加しておられますが、元副知事がよく承知しておられるように、沖縄からアメリカに行って、直接アメリカと交渉しようとしても、なぜ日本の外務省を通してこないのかと言われるだけで、アメリカ政府は沖縄を交渉相手とは考えていません。
沖縄は経済的には少々苦しくても、自主自立の精神をもって、日本から独立すべきであったと思います。
沖縄が独立国であったら、沖縄は日本とアジア近隣諸国との平和友好の架け橋にもなり得たと思います。

チュチェ思想を学び信念をもって生きる

米盛:アルバ・チャベス先生の朝鮮民主主義人民共和国の印象記を読みましたが、たいへん参考になりました。<略>

 佐久川チュチェ思想、チュチェ哲学を大学でどういう形で教えているのですか。チュチェ哲学という一つの学科目があるのですか。そのなかでチュチェ思想を教えているのですか。それともチュチェ思想に関心のある教授がチュチェ思想の本をつかってチュチェ思想を教えているのですか。

チャベス:いま私が中心になって7名の訪朝経験者と、どのようなカリキュラムをつくるのか相談しています。グアヤキル大学には哲学科があり、そこでどのようにチュチェ思想を教えるのかについて7名でプログラムをつくります。

最初はチュチェ思想ということばを使いません。
教材として『哲学の使命』を使用しています。哲学の使命とは何ぞやから教えます。
そしてだんだん理解を深めていくにつれて、ディスカッションしながらチュチェ思想、チュチェ哲学ということばを伝えていくのです
哲学の使命とは何かという項目のなかに
マルクス・レーニン主義の使命とは何か、チュチェ思想の使命とは何かという項目もあり、これらを対比しながら教えています。哲学の歴史を簡単に述べてから哲学の使命に入るようにしています。
<以下略>

当ブログが常日頃警鐘を鳴らしている通り、沖縄は地元二紙が独占し、それを一握りの極左インテリが動かしている。

こうして見ると沖縄の大学がチュチェ思想の巣窟と化しつつあるのが判る。

上記会談でも沖縄側のリーダー的発言をしていた佐久川氏の言動は特に注目すべきだ。

佐久川氏は沖縄大学の学長も経験した沖縄の著名人であり、沖縄県内で展開される反基地運動の思想的リーダーでもある。

その同じ人物が、チュチェ思想を確立した黄書記の“沖縄版”と言っても過言ではない程の北朝鮮・金正日崇拝者だと言う事を何人の「平和運動家」が知って彼に従っているだろうか。

ところで「チュチェ思想」って何?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E4%BD%93%E6%80%9D%E6%83%B3

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続・五番街のマリーへ 「青春はモカの香り」

2006-05-23 07:16:04 | 身辺雑感

カラオケドラマ「青春はモカの香り」

◆香しいコーヒーの香りを求めてその古い町並みを歩いてみた。

表通りのビルの中の喫茶店は避けて通った。

裏通りにひっそり構える古いコーヒー専門店を探した。

学生時代からのコーヒー好きは今も変わらない。

バーボンにジャズというよりコーヒーにクラシックは至福の時だった。

地方へ出張で訪れた時など仕事を終えた後、コーヒーの旨い店を探すのが楽しみだった。

私の好みに合わせたのか妻も最近カルチャーセンターのコーヒー教室に通っているようだ。

そこは黒瓦の甍と木造の町並みが続く北陸の古い町だった。

その店は路地の角に遠慮深げに看板を出していた。

椅子に腰掛け店内を見回しながら予感が現実に変わったのを悟った。

50前後の女がカウンターの中でコーヒー豆を炒っていた。

私は飲みかけのコーヒーカップをテーブルに残しゆっくりカウンターの前に立った。

顔を上げた女に小声で尋ねた。

「覚えていますか」。

女はカウンターの席を促した。

「始めから貴方とわかっていましたわ」。

「コーヒーが冷めてしまいますわ」。

カウンター席に座りなおした。

聞きなれた懐かしい声であった。

入れなおしたコーヒーが目の前で香りを立てていた。

「10年一昔といいますわね」

「あれから幾つの昔を見送ったのかしら」

30年の時の流れは女の髪に行く筋かの白いものを目立たしていた。

微笑む目尻には苦労の跡が刻まれていた。

しかし目の前に立つ女は30年の時を越えて紛れもなくあのマリーだった。

その店の前に立ったときから予感はあった。

その喫茶店は古い作りの木造だった。
 
ライトグリーンに塗られた壁はそ五番館と同じ色だった。

何よりも「喫茶五番館」と言う看板に足を止められた。

入り口の両側には鉢植えのサボテンが飾られていた。

外に漏れるふくよかなモカの香りを嗅いだとき予感は確信に変わっていた。

香りに誘われるようにその店のドアを開けていた。

「君には一度詫びなければいけないと思っていた」。

「およしになって下さい。 お詫びだなんて」。

「そんな言葉は貴方に似合わないわ」。

「でも・・・あの時君に・・・」。

言いよどむ言葉を女は微笑みながら遮った。

「青春だったんですよ」。

「あの時の二人に弁解は」いりませんわ」。

そして遠くを見つめるようにポツリと言った。

「若かったんですわ・・ 二人とも」。

その一言で何かがはじけた。

それからよどみなく話し始めた。

「若いと言うことは・・・迷いと過ちの・・繰り返しだとは思いません?」。

「あの時貴方は貴方の道を選んだのですわ。 私も私の道を選んできました」。

「あの時・・別の道を選んだら後悔しませんでしたか?」。

「あの時、あの街で、貴方と過ごした青春。 あれが無かったら今の私はありませんわ」。

「貴方との時間は短かったけれど私にとって密度の濃い時間でしたわ」。

「あの時間の一コマ一コマ、あの街、五番街そして五番館と言いましたね、あのアパート」。

「中目黒の街の光景の一つ一つが私の宝物です」。

「私今幸せです。 今でも青春の真っ盛りです」。

マリーの「今は幸せ」の一言に全身から呪縛が取れた。

その瞬間、苦い青春の蹉跌から解放された気がした。

入れなおしたモカの香をりをゆっくり楽しんだ。

「コーヒーとおでん・・・あの頃の貴方の好みはミスマッチでしたね」」。

「駅前の屋台によくおでんを買いに走ったね」。

「この店、喫茶店には不似合いだけど来月からおでんも始めるのよ」。

壁には見覚えのあるマリーの筆跡。

≪お待ちかねのおでん!10月から始めます。 店主≫

と告知文が張られていた。

この店を大事にしているマリーの気持が感じられた。

店を出た時心のモヤモヤはすっかり消え去っていた。

マリーの笑顔に生活の喜びと店を育てる生命力を感じ取ったのだ。

「今も青春、今も幸せ」と言う言葉に嘘は無いと思った。

「五番街の青春が無かったら今の幸せは無かった」

マリーの言葉に勇気ずけられた。

駅へ向う道を歩きかけて「喫茶五番館」を振り返って見た。

鉢植えのサボテンの緑が目にしみた。

束の間の30年の時間旅行は今終わろうとしていた。

帰りの駅に向う一歩一歩で遠い五番街の記憶が消えていくのを感じた。

「これで俺の青春も終わった」

小さく呟いた。

駅に着いた時には、長い間心の奥で燻っていた「五番街のマリーへ」の伝言は今終わったことに気が付いた。

そしてあの頃マリーと一緒におでんを食べに行った「赤ちょうちん」。

永く想い出の中に灯っていた「赤ちょうちん」の灯も消えていた。

胸の中はこれから彼を待つ青春が光を放っていた。

それは妻とお土産を待つ子供の笑顔だった。

「俺も頑張らなくっちゃ」。

「さー子供たちと女房に何かお土産を買って帰ろう」。

「帰ったらサルスベリの生えた庭で女房に美味しいモカでも入れてもらおうか」。

                   ◇

赤ちょうちん  詞:喜多条 忠 曲:南こうせつ

あのころ二人のアパートは 裸電球まぶしくて

貨物電車が通ると揺れる・・・・  

・・・赤ちょうちんも揺れている 屋台にあなたがいるよな気がします
   背中丸めてサンダルはいて一人でいるよな気がします 

 http://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/28685/Y003182                    

 

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カラオケ・ドラマ 「五番街のマリーへ」

2006-05-22 07:00:20 | 身辺雑感

駅の近くには目黒川が流れていた。

ガード下には食べ物屋が店を連ねていた。

まだ古い東京の街が駅前に広がっている頃だった。

東横線中目黒駅。

麻理絵と一緒にそこに住むようになったのは何時の頃からだったか。

4畳一間のボロアパート。

だがそこには幸せが満ちていた。

夢の大きさだけは誰にも負けなかった。

他に家電製品は何もなかったが、アイロンだけは麻理絵の自慢だった。
折り目のついた洗濯物をたたむ麻理枝の背中は幸せに満ちていた。

隣で爪を切りながらその横顔を見るのが好きだった。

小雨がそぼ降る師走の夜だった。

些細な諍(いさか)いで麻理絵は家を飛び出していった。

何時もの小さな口喧嘩だった。

そのうち戻ってくるのは判っていた。

しかしその夜私も其処を出た。 

「さよなら」の手紙を残して・・・・・・。

                  ◇

五 番 街 の マ リ ー へ

作詩 阿久 悠  作曲 都倉俊一  昭和48年 

 ♪五番街へ行ったならば マリーの家へ行き
どんな暮ししているのか 見て来てほしい
五番街は古い街で 昔からの人が
きっと住んでいると思う たずねて欲しい・・・♪

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/
gobangainomary.html
 

出張で東京に行ってもあの街に立ち寄ることは無かった。

山手線の輪の中から外に出ることは無かった。

あの街は今でも変わっていないのか。

目黒川の近くの駅前商店街。

五番街へ行ったならば見て来て欲しい。

遠い昔のあの古いアパートを。

そこで噂を聞いて欲しい。

もしも其処が変わっていたら、其処に昔住んでた娘のことを。


「報告書」
東京に出張の用事がありましたのでご依頼の街を訪ねて見ました。
五番街はすっかり近代的な街に様変わりしていました。
街は大きなテナントビルの波に飲み込まれていました。
夕暮れの街をお洒落なボブヘアの娘達が明るく闊歩していました。
古い酒屋で五番館を尋ねて見ました。

驚いてはいけません。
街外れの裏通りに五番館は今でもありました。
ビルの谷間にひっそりと昔のままで残っていました。
バブルの置き忘れだと酒屋は教えてくれました。
マリーが住んでいた角部屋の窓には明かりは有りません。
アパートの前の小さな庭にサボテンが大きく育っていました。
きっと麻理絵が育っていた鉢植えのサボテンでしょうか。

もう五番館に棲む人の気配はありませんでした。
あの時と同じように小雨が頬を濡らし始めました。
長い髪の娘の行方は誰も知りませんでした。
報告は以上です。

 

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チュチェ思想の武者小路公秀とドゥドゥ・ディエン

2006-05-21 08:54:56 | 未分類

在日朝鮮人が日本に来たのは「大部分は自分の意志(職を求めて等)或いは徴兵・徴用」だったという事は既に検証された事実だが、そうではないと言う「思想」に洗脳された人は多数いる。

こうなると最早「事実」より「思想」が優先する。

その例を示す動画を発見した。

事実を主張する在日朝鮮人の息子とで年代的にありえない「思想」を主張する母の間の溝は埋まらないのか。

★事実を知る息子と北朝 鮮思想で生きてきた母 の「思想」
http://www.youtube.com/watch?v=lCbB1BAcN3w&search=korea

                ◇

日本では「国連」と聞いただけで盲目的に権威としてとらえる人が多いし、メディアもそのように煽り立てる。
国連は正義の館でも無ければ良識の府でもない。
国連は、安保常任理事国のメンバーを見ても判るように、戦勝国の為のクラブである。
日本もそろそろ「国連幻想」から目ざめる時期に来たようだ。

さもないと人権を無視する中国が人権理事国を勤める「国連人権委員会」で「日本は差別主義国」の烙印を貼り付けられかねない。

一昨日の産経が国連について書いている。


≪◆産経抄 (「産経」06/05/19)

 三十五年前の佐藤栄作政権末期に、「国連は田舎の信用組合のようなもの」と発言してクビになった大臣がいたが、確かに「失言」ではあった。

 田舎の信用組合にはなはだ失礼だったことが、来日したアナン国連事務総長の発言でよくわかる。

 一足先に訪問した韓国で盧武鉉大統領からよほど吹き込まれたらしく、公明党の神崎武法代表に「アジアで日本がドイツと同じような対応をすれば(中韓と)関係改善はできるのではないか」とお説教をたれた。

 「日本が反省とか遺憾の意を表明すればいいんじゃないか」と提案までしてくれたそうだが、笑わせちゃあいけない。

 十年近く事務総長をやっても国連改革が遅々として進まなかったのも、むべなるかな。さきの大戦に関する反省とやらは、歴代の首相が数え切れないほど繰り返してきた。

 とくに十一年前の八月十五日、当時の村山富市首相は阪神大震災発生直後とは別人のようなリーダーシップを発揮して、日本の「侵略」や「植民地支配」を謝罪する談話を発表した。

 だが中国や韓国は納得せず、事あるごとに「歴史認識」カードを持ち出しているのはご承知の通り。

 疑問なのは、このような日本に関する基礎的情報がなぜアナン氏に伝わっていないかだ。

 「安全保障理事会の常任理事国に日本もなれる」という幻想を振りまいてきた外務省は、いったい何をやってきたのか。むろん、責任は外務省だけではない。

 米要人との会談内容を聞かれて「よもやま話」ともったいぶる元高官や、中国から内政干渉まがいのことを言われてもろくに反論できない元首相といった政治の側も問題だ。

 外交は国益を守るための戦いの場だ。その武器は、気合と言葉であることを肝に銘じてほしい。


国連の中でも特に良識の府のように勘違いされている「人権委員会」が最近「ブラック・ユーモア」を演じた。

人権問題で最も問題を含む中国が国連の人権常任理事国だというからこれはアメリカン・ジョーク、・・・じゃない、チャイニーズ・ジョークだ!

≪産経新聞
人権理事会初選挙 日本、中国など当選 イラン落選
 
 【ニューヨーク=長戸雅子】国連総会は9日、新たに創設する人権理事会(47カ国、6月発足)の理事国選挙を行い、63カ国の立候補国のうち、日本、中国、英、独、仏などが当選した。核問題を抱えるイランは落選したが、国際人権団体が人権面で問題があるとして、反対投票を呼びかけた7カ国中、イランを除いたロシアやキューバ、中国など6カ国が当選するなど、「新生・人権理」の今後の運営に疑問を抱かせるような結果となった。
 人権理設立後初めてとなる今回の選挙には、日本など計63カ国が立候補。国際人権団体「ヒューマンライツ・ウオッチ」は、このうち「人権問題を抱える国」として7カ国を名指しして反対票を投じるよう呼びかけていた。

 しかし、投票の結果、イランを除いて、中国、キューバ、ロシア、サウジアラビアなど6カ国が当選。中国、キューバなどが理事国入りしたのは、130カ国以上で構成する開発途上国グループによる相互支援があったためとみられる。

 一方、欧州・その他グループでは7つの議席に9カ国が立候補、ポルトガル、ギリシャと国際的な人権基準を満たしている国が落選した

 前身の人権委員会は地域グループごとに事前に候補が調整されたため、人権問題で国際的に批判されるジンバブエなどが無投票でメンバー入りするなど、「人権侵害国家の聖域」(米国)と指摘されてきた。理事会への改組はこうした問題国家のメンバー入りを阻止するのが目的だったが、完全には排除できず課題を残すことになった。

 人権理事会への改組を推進しながら選出条件をめぐる対立から出馬を見送った米国のシルバーバーグ国務次官補(国際機関担当)は「改善されたとは思うが、いくつかのメンバー国はわれわれが決めた高い基準を満たしていない」と指摘した。 (05/10 12:04)≫


                   ◇


日本人が国連、特に国連人権委員会の名前を出されるとその前に平伏す特性を利用した武者小路公秀とそのグループに招聘されたドゥドゥ・ディエン氏について書いた。

武者小路公秀が北朝鮮チュチェ思想国際研究所理事であることは周知の事実だが、ドゥドゥ・ディエン氏と武者小路公秀との関係を示す朝鮮日報を書きに引用する。


≪「ディエン報告書」提出で日本のNGOが会見、マイノリティの連帯強化呼びかけ 日本政府は勧告の履行を(朝鮮新報・2006年3/11)


 日本における人種差別、外国人嫌悪などの状況について国連人権委員会の特別報告者ドゥドゥ・ディエン氏がまとめた報告書が国連人権委員会に提出されたことを受け、日本のNGO団体は7日、日本外国人特派員協会(FCCJ、東京、有楽町)と参議院議員会館(東京、永田町)で会見と集会を開き、日本政府に対し勧告履行のためのあらゆる措置を講じるよう求めるとともに、マイノリティ(少数者)当事者、NGO間の連帯強化を呼びかけた。

 報告書は、ディエン氏が昨年7月に日本を訪問し、各地で当事者らから聞き取りを行いまとめたもの。人種差別を禁止する法の制定や朝鮮学校への差別的処遇の根絶など24項目について日本政府に勧告している。

 反差別国際運動日本委員会の武者小路公秀理事長は「報告書は、人種差別、外国人嫌悪の問題を社会的、歴史的文脈にまで踏み込んで包括的に捉えた初めての国連文書」と評価。「今まで隠ぺいされてきた日本の差別構造を明らかにする運動を、さまざまな人たちが力を合わせ、活発に推し進めていかなければならない」と述べた。≫

このような人物が参議院議員会館会見や集会が出来るという事に日本の国連に対する幻想を垣間見れる。

おそらくは、もう一人の北朝鮮・チェチェ思想崇拝者である大田昌秀参議院議員の口利きと考えられる。

議員会館までチェチェ思想で染めるつもりなのか大田さん。


                  ◇

ドゥドゥ・ディエン氏といういかがわしい人物に昨年日本のメディアが引っ掻き回されたことを昨日書いた。

その後、産経新聞が署名入りの反省・自省の記事を書いた。


≪◆平成17(2005)年11月13日[日]付 産経新聞朝刊文化面「妙」

「報告の陰に連携」

 国連人権委員会のディエヌ特別報告者(セネガル)が七日、国連総会第三委員会(人権)で、日本に存在する差別を指摘、それを受けて中国、韓国、北朝鮮の代表が日本を批判したという記事が目に留まった。「差別」の存在は厳粛に受け止め、解消に向けて努力すべきだが、あまりに見事な連携ではないか。「仕組まれた」という思いがぬぐいきれない。近年、日本に「悪意」をいだくグループが「人権」を武器に、国連を利用して日本に”言いがかり”をつけることがよくあるが、今回もそうではなかったか。
 そもそもディエヌ氏とはどういった経歴の持ち主なのか。そして、日本のどこをどれほどの期間調査したのか。また、彼をアテンドしたのはどういう団体だったのか。疑問は次々とわいてきた。
 国連広報センターに問い合わせてみた。明らかになった事実を記す
ディエヌ氏は一九九三年から二〇〇二年にかけて国連教育科学文化機関(ユネスコ)の文化間・宗教間対話部長を務め、〇二年に国連人権委員会により現代的形態の人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に関する特別報告者に任命された。今年の七月三日から十二日まで日本を訪れ、大阪、京都、北海道で被差別部落、在日韓国・朝鮮人、アイヌ民族などのグループと面会調査した。訪日は初めてだった。
ディエヌ氏の調査をアレンジしたのは、反差別国際運動というNGO。この団体の理事長は武者小路公秀氏。ピースおおさか(大阪市)の会長であり、金日成の思想を普及しようとするチュチェ思想国際研究所と関係の深い人物である
。 (桑原聡)≫


 

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基地は差別か ドゥドゥ・ディエンって何モノ?

2006-05-20 08:51:43 | 未分類
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沖縄お悔やみ情報局

昨日の琉球新報は、当ブログが日頃苦言を呈している愚行そのままの記事を、誇らしげに囲みを入れて掲載した。

この記事は18日に行われた大田昌秀社民党議員の質問に答えた麻生外相の答弁に対する怒りの記事である。

先ずその記事の引用から始めたい。

外相「基地集中、差別ではない」 県内から批判

 【東京】国連人権委員会の特別報告者・ドゥドゥ・ディエン氏が那覇市の講演で「狭い県土に米軍基地が集中する実態が差別を物語る」と指摘したことに麻生太郎外相は18日、参院外交防衛委員会で、「米軍専用施設の75%が沖縄に存在していることは事実だが、地政学的な需要、もしくは事実上の要請に基づくものであり、差別的な意図に基づくものではない」と反論した。ディエン氏が調査報告書を国連人権理事会に提出する意向に対しても、「日本として事前に反論書を提出したい」と述べた。大田昌秀氏(社民)への答弁。
 これに対し琉球大学の島袋純助教授(政治学)は「地政学上の理由を根拠に、特定地域の住民に極端な負担を強いる政策や差別的な扱いは許されない、という考え方が国連の原則。日本の常識は世界の非常識だ」と指摘。「日本は人権後進国だ。外務省が反論書を提出しても人権理事会では通用しない」と強く批判した。
 ドゥドゥ・ディエン氏沖縄調査&講演をすすめる世話人会の高里鈴代さんは「米軍基地の集中は歴史的な根深い差別が根底にある。政府は基地を置く状況が厳しくなると、知事の権限を奪う法律整備もしてきた。単純な地政学上の問題ではない」と憤慨した。
 麻生外相が「(ディエン氏の)個人的見解であり、国連の見解ではない。法的拘束力も持っていない」と発言したことについても高里さんは「訪問は非公式とはいえ、特別報告者の立場で現地調査した。国連組織への認識があまりにも欠けている」と批判した。
 ディエン氏は、日本での調査に協力する反差別国際運動日本委員会を介し、「国連人権理事会に調査結果を報告する」と述べ、外相発言へのコメントは控えた。琉球新報(5/19 9:54)≫

この大田議員の質問に対する答弁に対する地元メディアの反応が冒頭に引用した「県内から批判の声」という独り善がりの記事になる。

上記引用記事では印象が薄いが、実際の記事は「県内から批判」の見出しを目立つように編集してある。

ここで云う「県内」とは「反日」を叫ぶ一握りのインテリである事は言うまでも無い。

そもそも、このセネガルのドゥドゥ・ディエン氏なる人物が16日夜、那覇市内の男女共同参画センター「てぃるる」で「沖縄差別の実態を考えるには(1)日本による植民地主義・同化政策など歴史的な背景(2)沖縄戦(3)米軍基地の異常な集中―からの多角的な分析が重要と強調」・・と講演したこと、を報道した新聞は琉球新報と沖縄タイムスニ紙だけだった。

少なくともグーグルで検索した限りでは、全国五紙は勿論日本全国の新聞でこれを報じたのは地元ニ紙以外には一紙も無かった。

この情報化時代にこのニュースを他紙が知らなかったはずは無い

地元ニ紙と一部インテリ以外のメディアは、このドゥドゥ・ディエン氏なる人物のいかがわしさを事前に学習していたから敢えてこのニュースをパスしたのだ。

ドゥドゥ・ディエン氏の沖縄講演から外相答弁に至る一連の動きは、どのメディアも相手にしない程のいかがわしい人物の沖縄での講演を前沖縄県知事である大田社民党議員がメディアに載せるため敢えて質問した情報作戦だった。

沖縄での講演は沖縄二紙以外のメディアに無視されたが大田議員の質問に麻生外相が答えた事で各紙はこれを報道し、一応大田議員の作戦は成功した。

が、やはり元ネタ(沖縄での講演)がいかわしいので外相答弁をフォローしたのは、元の木阿弥でやはり地元メディアしかなかったと言うのが、琉球大学教授の怒りの談話を載せた昨日の新報記事の実体である。

順序が前後するが上記新報記事が批判する外相答弁の記事を下記に引用する。
 
基地集中「差別でない」/外相

 麻生太郎外相は十八日の参院外交防衛委員会で、沖縄を視察した国連特別報告者のドゥドゥ・ディエン氏が「米軍基地の集中は沖縄に対する差別だ」と発言したことに対し、「差別的な意図に基づくものではないことだけははっきりしている」と反論した。ディエン氏が九月に国連人権理事会に報告する意向を示していることには「事前に反論書を提出したい」と述べ、政府として正式にディエン氏の見解に文書で反論する考えを明らかにした。
 麻生氏は沖縄に在日米軍専用施設の75%が集中していることについて「これは地政学的な理由、(米側の)事実上の要請に基づくものだ」と差別でないとの認識を説明。

 「ディエン氏は私的に訪日した際に沖縄を訪問した。(差別発言は)この人の個人的な見解であろうと思うし、国連の見解ではないので法的な拘束力は持っていない」と述べ、国連の公式見解ではないことを強調した。

 大田昌秀氏(社民)の質問に答えた。

 ディエン氏は十五、十六の両日、米軍普天間飛行場移設先の名護市キャンプ・シュワブなど、沖縄の米軍基地を視察していた。(沖縄タイムス  2006年5月18日(木) 夕刊 1面)  ≫


                  ◇


このドゥドゥ・ディエン氏なる人物、昨年の7月にも来日しており、そのときは国連だの人権委員会だのに弱い日本のメディアはすっかり彼の、いや彼を招聘した人物(武者小路公秀)のペースに巻き込まれて彼の行動は逐一報道された。

人種差別問題で日本を調査 国連特別報告者が初訪問

 【ジュネーブ30日共同】国連人権委員会の人種差別問題に関する特別報告者が、日本の人権状況を調査するため、7月初めから10日間にわたって日本を訪問する。人種問題担当の特別報告者の訪日調査は初めて。
 経済のグローバル化に伴って増加している外国人を日本社会がどのように受け入れているか調査するとともに、同和問題、在日韓国・朝鮮人問題、アイヌ民族問題という日本固有の少数者問題も調査対象とする。
 特別報告者はセネガル出身のドゥドゥ・ディエン氏(53)で、7月2日にジュネーブを出発、日本滞在中に総務省、厚生労働省、法務省などの当局者らと会談するほか、大阪、京都、札幌で同和地区などを視察、少数者問題に取り組む人々と意見交換する。
(河北新報社 2005年06月30日木曜日)
   

ウトロにショック」国連人権委特別報告官、京都朝鮮学校も訪問

(前略) 京都朝鮮中高級学校では、金允善(キムユンソン)校長が「学校と認められず補助金もないため運営は厳しい。父母の教育費負担も大変」と訴えた。ディエン氏は「歴史的に関係の深い隣国との問題で、日本のマイノリティ(少数派)がどんな状況にあるのか報告したい」とした。
(京都新聞 2005年7月6日(水))
   

宇治・ウトロ地区:見えぬ先行き、不安訴え /京都

 京都軍事飛行場建設に従事した朝鮮人労働者らが形成した宇治市伊勢田町の在日コリアン集住地域、ウトロ地区。強制執行の不安のなか、約200人が暮らすこの地を5日、国連人権委員会の特別報告者、ドゥドゥ・ディエン氏が訪問した。
 絡みつくような暑さのなか、ディエン氏は地域を視察した。今も下水道が整備されておらず、時折、汚水のにおいが鼻を突く。飯場の跡、大雨が降れば水が逆流する水路。水道整備の遅れを示す井戸の数々…。ウトロの形成史と、劣悪な生活環境。ディエン氏は、「差別は生活環境に表れる。ここには差別が集積している」と述べた。
 その後は住民らと意見交換し、在日外国人の無年金問題についても説明を受けた。地権者が立ち退き訴訟を起こしたと知った時、ショックで耳が聞こえなくなったことや、苦労の末、人生の晩年を迎えた一世たちが、年金を得る権利すら認められない現実。真剣な表情で耳を傾けていたディエン氏は「私の報告書と勧告が皆さんに有益となることを願っている」と語った。【写真・懸尾公治、文・中村一成】
(毎日新聞 2005年7月10日)
   

不法滞在のメール通報制度、「外国人排斥の風土を助長」

 法務省入国管理局が不法滞在外国人の情報を電子メールで募っていることについて、来日中の国連人権委員会の特別報告者、ドゥドゥ・ディエン氏(63)は11日、東京都内で記者会見し、「外国人を排斥する風土を助長するもので、即刻撤廃すべきだ」と述べた。「メール通報制度」をめぐっては、日本弁護士連合会が3月、「市民の密告を奨励する」として、中止を求める意見書を法相へ出している。
 法務省によると、昨年2月の制度開始以降、「あの店の従業員はビザなしのようだ」といった情報提供は約6400件。情報をもとに約330人の強制送還手続きが取られている。
 ディエン氏はセネガル国籍。日本国内の外国人労働者や少数民族、被差別部落などの実態調査のため来日した。実態について今秋の国連総会で中間報告し、差別があると判断されれば日本政府へ是正勧告する方針。
 メール通報制度について、入管総務課は「端緒を得るためで手紙や電話と同じ」としている。
(朝日新聞 2005年 7月11日21:01)
   

日本の差別解消へ歴史教科書改善求める・国連人権委

 来日中のドゥドゥ・ディエン国連人権委員会特別報告者は11日、都内で記者会見し、アイヌ民族や朝鮮半島出身者らへの差別解消策として、日本政府に歴史教科書の改善を求めた。「差別をなくす意識は幼少時から根づかせなくてはならない」「政府として差別撲滅の意思を表明すべきだ」などと述べた。
 教科書改善を求める理由としては、日本の差別が歴史や文化を背景としていると説明した。具体的には、少数民族(マイノリティー)の記述を増やすよう提言した。
(NIKKEI NET 2005/7/11 21:00)

                    ◇

 

この男の日本での活動のいかがわしさの詳細を書く余裕は無いが、要するにウトロ問題とは在日朝鮮人同士の立ち退き問題であり、日本における差別問題とは全然関係の無い事だ。

彼を日本に招待し各地を案内したグループの「反日洗脳」そのままに「ここには差別が集積している」なんて言うディエン氏に日本のメディアは当初は報道を続けたがその後彼を取り巻くグループのいかがわしさが判り呆れ返った。

不法滞在のメール通報制度に関しても「不法滞在」は日本では犯罪である事をこのセネガルのオジサン知らないのか。

法律破ってる奴を通報する自由も日本人では当たり前の事。

それを「外国人を排斥する風土を助長するもので、即刻撤廃すべきだ」なんて言ってるディエン氏のいかがわしさをまともに相手にするのは日本全国で琉球新報と沖縄タイムスそれに地元大学の学者先生達くらいのものだろう。

昨年このドゥドゥ・ディエン氏を日本に招聘した人物と団体名を挙げるとこのオジサンのいかがわしさが更に浮き彫りになる。

ドゥドゥ・ディエン氏を日本に招聘した男。

武者小路公秀は名門の家系に生まれながら有名な反米主義者にして北朝鮮・金正日の崇拝者。大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長。チュチェ思想国際研究理事。
反差別国際運動日本委員会  人権フォーラム21  ニューメディア人権機構
専門は、平和学。国際政治学。

このような男に招聘されその取り巻き団体に洗脳されたセネガルのオジサンも受け入れてくれるところは今では沖縄だけ。

そしてもう一人のチュチェ思想崇拝者・大田昌秀議員の登場となる。

太田議員の沖縄県知事時代の言動を見ると、ドゥドゥ・ディエン氏、武者小路公秀氏、大田昌秀氏の発言が同じ文脈になるのが良く判る。

大田氏は知事時代「沖縄人は本土から差別されてきた」と決まり文句を繰り返し、反戦運動家は北朝鮮のチュチェ(主体)思想に沖縄独立の見果てぬ夢を託していると指摘していた。

2000年5月には大田氏自ら団長となって「沖縄平和友好訪問団」(125人)を率いて北朝鮮を訪問している。

大田団長は琉球新報のインタビューに答え「強く印象に残っているのは、(北朝鮮が)子供を大事にし、働く人々、女性を大事にしていることだ。マスコミから伝えられる印象とは異なる。国交樹立はまだだが、これを機会にますます友好関係を深めていきたい」と述べている。


≪<琉球新報 2000年5月7日>

日朝交渉に好影響」/最高人民会議幹部が表明/沖縄訪問団

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪れている「沖縄平和友好訪問団」(125人)の大田昌秀団長(前知事)ら役員七人は6日午後、平壌市内の万寿台議事堂で、北朝鮮の国会に当たる最高人民会議常任委員会の金永大副委員長と会談した。

 大田団長は「強く印象に残っているのは、(北朝鮮が)子供を大事にし、働く人々、女性を大事にしていることだ。マスコミから伝えられる印象とは異なる。国交樹立はまだだが、これを機会にますます友好関係を深めていきたい」と述べた。≫

知事選敗退後、参議院銀室に老後の安住の地を見出したと思われていた大田昌秀参議院議員が地元二紙しか報道しなかった「ドゥドゥ・ディエン氏の沖縄講演」について政府に質問したらしい。(この事実も麻生外務大臣の答弁ではじめて報道された)。

北朝鮮のチュチェ思想崇拝者である武者小路公秀大田昌秀のラインの上で件のドゥドゥ・ディエン氏が踊りまくって社民党最後の聖地沖縄で代パフォーマンスを演じた。

これを昨年の参院外交防衛委員会来日時に振り回されたメディアだ学習して相手にしなかった。

これを大田社民党議員が参院外交防衛委員会で質問して外相答弁を引き出しメディアに掲載させた。

が、地元メディア以外には(ミエミエのパフォーマンスなので)相手にされなかった。

沖縄に基地が集中しているのは紛れも無い事実だ。

が、これがドゥドゥ・ディエン氏の云う「沖縄差別」とは全く別の次元で論議されるべきことはものの判る人なら自明の事であろう。

何よりもそんな「差別」の集中する地域に本土復帰後、人口が減るどころか他県からの永住希望者が集中し約30%の人口増加を記録している。

今後も団塊の世代が大量定年になったら沖縄永住者が大量に増えると見込まれている。

差別の集中する地域に人は集まらない。

 

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