狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「慰霊の日」、集団発狂の沖縄メディア!

2013-06-23 07:13:27 | 援護法と歴史捏造

  ■那覇市立中央図書館の言論封殺に、断乎抗議する (抗議文例はこちらで)

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毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが恒例行事として集団発狂する。

沖縄戦の記憶の継承という建前に異論はないが、沖縄メディアが戦争を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道だ。

沖縄戦の真実を追究するといつも行く手に立ちふさがる大きな壁に行き当たる。

「援護法」のことだ。

本来軍人・軍属にしか適用できない同法を当時の厚生省が「拡大解釈」で無理やり沖縄の民間人に適用した。

その善意が逆に「残虐非道な日本軍」と言う神話を捏造した。 軍の命令による民間人の戦争被害は準軍属扱いで同法の適用可としたのだ。 「壕を追い出した」のも日本軍の命令であり、「食糧強奪」も日本軍の命令と政府は「指導」した。

その結果沖縄だけは民間人も援護法の適用を受けるという恩恵に浴した。 大田海軍司令官の「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ長い電文を知る世論の沖縄に対する同情もあってのことと思われる。

沖縄戦史が歪曲・捏造された原因が「援護法」の「拡大解釈」にあることは、少しでも援護法と沖縄戦の関係を知るものにとってはよく知られた事実である。

本日が「慰霊の日」であることにちなんで「援護法と歴史捏造」について触れた過去記事から選んで引用する。

           ★

「援護法」と「特段の配慮」のカラクリ

2008-06-06

 63年前の今日、昭和20年6月6日。

大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍濠から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

<沖縄県民斯く戦えり。

県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、多田武雄海軍次官は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 

これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の

沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍であることは間違いのない事実。

ところが何故か、戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の艦砲射撃で県民を爆撃した下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住民を日本人から分断する占領方針から、沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさし、住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていないのだ。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、

そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だった、

と言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍。

「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

参考⇒県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

                  *

大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、

「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」

と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

意味は全く違うが、最近でもこんな例もある。

「沖縄に特段の配慮」 唯一県名挙げる 国民保護方針(2005.3.27)

                      ◇

■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。

日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。

そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 

54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。

慶良間島の「集団自決」に関しても,村役場の総務課が地元の窓口となり,

総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、

親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり心中で生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

 

■本土と沖縄の齟齬■

本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。

一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。

静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、

沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。

[戦闘参加者とは誰か](18)
日本戦災遺族会
一般戦災者に補償なし
被害の規模が実現阻む

太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。
 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。
 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。
 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。
 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。
 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」
 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。

 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。
 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。

 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」
 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)              

【おまけ】

【動画】【外患誘致】 沖縄異常事態~日米同盟を壊す"賊"を許すな Part2[桜H25/6/20]

【動画】【外患誘致】沖縄異常事態~日米同盟を壊す"賊"を許すな[桜H25/5/2]

 

【おまけ】2

■八重山日報 2013年6月23日

 

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チーム沖縄のブログ

 

■■第三回「島守・防人に感謝する集い」■■

 

6月23日(日)の慰霊の日に、沖縄県護国神社にて、「殉国沖縄学徒慰霊祭」という慰霊祭を斎行いたします。

 

沖縄戦で亡くなられた学徒隊は郷土を守るため自らの意志で戦ったのであります。 しかし現在の平和教育ではこれら学徒隊の方々を犬死などと貶める教育がなされているの残念なことです。

 

来る6月23日、私たち沖縄の大学生が主催し、沖縄戦で郷土防衛のため散華された学徒隊の御霊に、「感謝する」お祭りを、私共沖縄の大学生の義務だと考えます。

 

当日はお誘い併せの上ご参加くださいますようご案内申しあげます・

以下、詳細でございます。

 



第三回「島守・防人に感謝する集い」

6月23日(日) 13:30開会 沖縄県護国神社・大ホール

「殉国沖縄学徒顕彰祭」
   同日    14:30開始 沖縄県護国神社・本殿

 

主催:サークル「 沖縄から日本を考える学生の会 」

 

代表: 琉球大学法文部 三年次 外間 完信
お問い合わせ:tj.from.okinawa@gmail.com

 

お気軽にメール下さい

 

 

 

 

『正論』7月号は、沖縄特集第2弾です

 

筆者も寄稿しました。

 

沖縄での発売は6日頃とのことです。

 

月刊正論2013年7月号6月1日発売 定価740円

 

 

 

 

沖縄異常事態 第二弾

 

重大資料発掘!

 

地元メディア反日偏向報道の淵源

 

ジャーナリスト 井上和彦

 

緊急報告!

 

尖閣領海で中国公船に包囲された緊迫の6時間

 

八重山日報編集長 仲新城誠

 

【新連載】対中最前線 国境の島からの報告①

 

中国領海侵犯と教科書採択事件の深い関係

 

仲新城誠

 


 

ついに牙を剥き出した中国-沖縄併呑計画の先兵は誰だ

 

琉球独立論の空虚

 

ジャーナリスト 大高未貴

 

「天皇メッセージ」の悪用に反駁せよ

 

ライター・ブログ「狼魔人日記」管理人 江崎孝

 


 

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宮城晴美氏の回顧、世にも不思議な論文 自著で論破される!

2012-06-30 07:25:53 | 援護法と歴史捏造

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宮城晴美氏の回顧と宮城能彦著「沖縄道」の続編を書く予定だが、先ず冒頭に亮太さんのコメントを紹介します。

奥様と愛犬を実家に送り届けた際の土産の干物やするめを肴に狼魔人人日記を読んでいる・・・拙ブログを楽しんでおられる情景が髣髴として、ブロガー冥利に尽きるコメントです。ありがとうございます。 同時に「パンドラ訴訟」のカンパ金もこの場を借りて御礼申しあげます。

<最近は週末は愚妻を実家に送る日々です。
愚妻の母上が体調を崩し、その看護のため帰るからです。それと母上が飼っていた愛犬も預かっていまして、その犬が週末になると実家に送り届けないと機嫌が悪いのです。
というわけで、本日も愚妻と犬を送り届けその帰りに、パンドラの箱訴訟のカンパ金を振り込みました。土産に貰った干物とかするめを肴に狼魔人日記を読んでいます。

宮城教授は、数年前までブログを持っていらっしゃいましたが、私も欠かさず読んでいました。遠まわしながら沖縄の全体主義を非難されていました。その文章からかなり気を使いながら文章を書いているとの印象は受けましたが、ある筋からの圧力で突然ブログを閉鎖され心配しましたが元気な様子で何よりです。

確かに集団自決裁判では、前言を翻す人達が多く出ましたが、裏に共通する人物がいますね。
そう沖縄戦の死亡者に満州事変の死亡者をプラスして沖縄戦の住民犠牲は15万人とも20万人とも主張する人です。
沖縄史編纂所で、一緒に仕事をした星さんがそのA教授の言葉として「日本軍を徹底的に貶めろ。」と発言したことを証言しています。
私は思うのですが、沖縄の不幸は戦後沖縄の指導者たちに、A教授や沖縄初の女性県会議員とか脛に傷のある人たちが就いたことですね。>

>沖縄史編纂所で、一緒に仕事をした星さんがそのA教授の言葉として「日本軍を徹底的に貶めろ。」と発言したことを証言しています。

確か以前の文章ではジェントルマンの星さんは名前を伏して遠慮がちに「A氏」と書いていました。 最近の星さんは覚悟を決めたのか、それともジェントルマンに決別したのか(失礼)、最新の「うらそえ文藝」第17号の宮城能彦沖縄大学教授との対談で、次のように「A氏」の正体を暴いている。

<星: 実は40年ほど前に、私は沖縄戦の聞き書きをしたとき、米軍が4月1日に上陸した地点から南部一帯をずっと調査したんですよ。区長の「家に数人の戦争体験者を集めて、証言を聞いたわけです。 その中には本当にウチナーンチュを助けた日本兵もいたのですよ。 勿論、日本兵を死に追いやった日本兵もいたが、日本兵の誘導で命拾いした話もあった。 それもテープお越ししているわけだから、それらをそのまま文章化した。 戦争とはこういうものだと心を痛めながら、資料編集所に文章化したものを提出した。 1週間して、当時、県職員だった安仁屋政昭が尋ねてきた。 まだ彼は名嘉正八郎のの下で働く職員だったけど、私のところに来て、「なんで日本兵の善行をもっともらしく書くのか、あんなのは必要ないよ」と、私に忠告してきたのです。 「いや、あれは僕1人じゃなくて名嘉正八郎も一緒に録音取ったものだ、ありのままのものだから、そんなふうに言われる筋合いはない」と言い返して喧嘩別れした>(「うらそえ文藝」第17号)

※注)安仁屋政昭⇒現在沖縄国際大学名誉教授

    名嘉正八郎⇒当時の県資料編集所所長

           ☆

又しても脱線しそうなので、宮城晴美氏の回顧を。


女性史研究家・宮城晴美氏

「うらそえ文藝」への反論として琉球新報に掲載された宮城晴美氏の長ったらしい駄文は、当時のエントリー世にも不思議な宮城晴美の論文 自著で論破される!では縁側さんの書き起こしにリンクさせてもらいましたが、本稿では保存資料としてコピペさせてもらいました。縁側さんに感謝です。

以下は過去エントリーに一部加筆したものです。

■世にもふしぎな宮城晴美の論文■

宮城晴美氏の琉球新報掲載の論文「検証「集団自決」 ジェンダーの視点から」は、逆風って気持ちがいい縁側さんのサイトで全文読むことが出来ます。

太文字は新報記事の見出しです。

宮城晴美の論考その1
権力による“殺人” 犠牲者の83% 女性・子ども
 
宮城晴美の論考その2
絶対的な「兵隊さん」 捕まる前に「玉砕」促す
 
宮城晴美の論考その3
犠牲者 座間味部落のみ 組織の指導者ら全員死亡
 

宮城晴美の論考その4
痛ましい父と子の関係 
戦時下、国家権力が「利用」

                  *

検証「集団自決」 ジェンダーの視点から 宮城晴美■
(琉球新報 6月19日~24日 ①~④の四回連載)

新報が四回連載で「集団自決」の論文を掲載するのだから、当然『うらそえ文藝』の「集団自決特集」に対する論理的な反論を期待して読んだ。

だが、その期待は見事に裏切られた。

新聞にしては例外的な大きなスペースの割りに論点ずらしに終始。

『うらそえ文藝』に対する反論らしき部分は次に引用する①の冒頭部分と、④の結語部分だと思われる。

①<法廷における元戦隊長らを擁護する立場から歪んだ「証言の再構築」(隊長は命令しなかったという新証言なるものなど)が浮上したり、「集団自決」の用語を封じる手段として、援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)と「靖国思想」をからませた論理で、その当事者を糾弾するような言説が見られることなど、立場こそ違え、モノ言わぬ島の人々や死者を鞭打つような暴力的論調に強い懸念を抱くものである。>

④<その人たち(証言者)がいま最も懸念していることは、「靖国」を賛美する人たちによって、「集団自決」の悲惨さが美化されだしたことや、援護法適用のために「集団自決」の軍命が「方便」であったとして、元戦隊長らを擁護する動きが出ていることである。
住民の心に負った傷口をさらに鋭利な刃物でえぐるようなこうした言動があればこそ、“告発”の意味を含めて、弱者の視点から「集団自決」を記録し、継承することが、体験者の二世、三世、そして戦後世代の大きな役割りだと思っている。>

論文の①~④まで読んで、全般的にいえることは、宮城氏は元来シンプルなはずの「集団自決」論争をあえて避け、これに強引にもジェンダー論議を持ち込んで、論点をずらしに懸命の様子がが見て取れた。

元々この問題は「隊長命令の有無」が争点であったはず。 

係争中の裁判でも「隊長命令があった」という被告側の主張は証明されず、原告敗訴ではあったが事実上宮城氏の「軍命あり」の主張は退けられ原告の名誉は回復されている。

従って宮城氏が母の遺言を踏みにじってまで主張する「軍命あり論」は、今後よっぽど確定的な証言や証拠でも出てこない限り主張する根拠を既に失っている。 

つまり彼女はジェンダーという得意の土俵に論争持ち込み、それによって争点を曖昧にし、読者を煙に巻く手法をとっている。

そうでもしなければ、「集団自決」を論じることが出来ない程追い詰められた立場なのである。

論点をぼかすようなジェンダー論へのお付き合いは勘弁して欲しいところだが、あえて付き合わえてもらう。

内容は集団自決に関係ないような生硬い文言の羅列が続く。

①からざっと拾っただけでもこの通り。

「弱者切り捨ての視点」、「権力者(軍隊)の思想」、「住民を「死」へと追い込んでいった「力」、女・男の「不平等な力関係」、階級的差異、家父長制下の家族構成、階層秩序・・・・・等々。(「男・女」としないで敢えて「女・男」とするところには思わず失笑)

そしてどさくさ紛れに自論の「軍隊の命令」を次のような強引な筆致で押し進めていく。

<家族を守らんとする家父長制下の男性の論理があり、その「守り」は、日本軍に隷属させられたことで体現されたものだった。>

 <つまり、「敵に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」、敵への投降、スパイ行為の絶対禁止、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)など、軍民が混在するなか、日本軍からの憎悪発話がくり返し住民にもたらされ、現実に敵を目前にしたとき、先に妻子を、男手のないところは母親が子どもを手にかけ、自らは最後に「自決」することで日本軍の要求に応ずるという、権力への隷属的構図に巻き込まれた人々の姿があった。>

そして、何の客観的根拠も示すことなく、次のように結論付けている。

最後に「自決」することで日本軍の要求に応ずるという、権力への隷属的構図に巻き込まれた人々の姿があった>と。

そう、この「『自決』することで日本軍の要求に応ずる」という部分こそ、集団自決論争のキモであり争点である「軍命による自決」そのものではないのか。 

この肝心な論点をジェンダー用語の羅列でごまかした後、突然根拠も示さず断定しているところにこの論のいかがわしさがある。

「軍命令があった」と根拠なしに断定する箇所は他にもある。

最終回の④の冒頭でも、これまでの論調と何の脈絡もなく「『玉砕」命令は、日本軍からもたらされたものだ」と断定している。

再三繰り返すが「集団自決」論争は「隊長命令の有無」という事実の解明であったはず。 

そして係争中の裁判でも一審、二審とも「隊長命令」は証明出来なかったではないか。 それを宮城氏は何を根拠に「軍命があった」と断定できるのか。

■集団自決はパニックの結果起きた■

人間でも野生の動物でも何かの原因でパニック状態になると常時では考えられない行動を取る。

島中を米艦船に取り囲まれ、軍民無差別の艦砲射撃を受けて逃げ場を失った住民は鬼畜米英と思われていた米兵の上陸を目の当たりにしてパニックに陥る。

集団自決の惨劇はそのような状況でが起きたのであり、その際「軍命の有無」など関係なかったのだ。

同じような状況は米軍の攻撃を受けた地域は座間味以外の本島各地でも起きていた。 ただ、座間味に比べて集団自決が少なかった理由は、陸続きのため慶良間のような袋のネズミの心理状態でなかったからだと容易に推測できる。

慰霊の日の琉球新報コラムに次のようなくだりがある。

64年前の6月21日、本島南部で砲弾の雨の中をさまよっていたひめゆり学徒の北城良子さん(82)は、至る所に散らばる死体を眺めながらこう願っていた。「一発で、一瞬で死にたい」と>金口木舌 2009年6月23日

これと同じ心境で慶良間島の住民は集団自決をしたのであり、この際「軍の命令の有無」は関係なかった。そう、恐怖を逃れるため「一発で、一瞬で死にたい」・・・・・・・・これが、集団自決の真相である。

ひめゆり学徒も慶良間住民も「砲弾の中をさまよった」のは同じだったが、慶良間島の住民の場合は離島であるため、袋のネズミの心境になったためパニックになる度合い強かった。

そのために「自決決行者」が多かったと想像できる。

■宮城氏も認めるパニックによる自決■

集団自決がパニックによるものだということは、この論文の宮城氏自身の記述にも見られる。

6月22日付け②に住民がパニックになる様子が次のように描かれている。

空襲は翌日も続き、さらに25日には艦砲射撃が加わった。空襲後の艦砲射撃は、敵の上陸の前触れであることを住民は知っている。

真っ赤に飛んでくる艦砲弾で壕の周りは火の海と化し、途切れることのない炸裂音におびえる住民の元へ、夕刻、村当局から非常米の配給が告げられた。さらにその日夜遅く、今度は、毎日のように集合を呼びかけてきた役場職員の伝令から、忠魂碑前での「玉砕」命令がもたらされた。ただ、いずれもすべての防空壕に届いたわけではなかった。「米の配給だ」 「いや玉砕だ」と住民の情報が錯綜し、危機感をもった子連れの女性たちの一部が、阿佐集落の裏海岸にある大きなガマ(洞窟)への移動をはじめた。その一方で、直接、「玉砕」命令を聞いた人たちは、最後の食糧を口にし、晴れ着に着替えて忠魂碑に向かった

歴史をひも解けば大事件や大事故に遭遇した住民が流言蜚語により、正常な判断を失いパニックになった結果正常では考えられない行動を起こした例が数多くある。

慶良間の場合もまさにこの状況であり、『「米の配給だ」 「いや玉砕だ」と住民の情報が錯綜し・・・』というくだりがまさに流言蜚語のパニック状態を表しており、この中から宮城氏の言う「軍の命令による集団自決」は、戦後の後付け説明であることが明白である。

今回の宮城氏の論文の③にも、パニックよる自決の例が次のように記述されている。 ここでも軍の命令無関係であることが分かる。

壕の前で銃剣をかまえて立ちはだかった大勢の米軍を見てパニックになり、40代の男性が妻をはじめ子どもたちの首をかみそりで次々と切っていった。 男性も最後に「自決」をはかったが、男児一人が死亡し、残りは米軍に救出された

ついでに言うと、少なくとも本人自身や愛する家族の命を絶つような重大な命令が「いずれもすべての防空壕に届いたわけではなかった」というのも不可解である。

さらにもう一つ付け加えると、宮城氏が強引に推し進めるジェンダー論による「家父長制云々」を認めるとするなら、

「家父長制云々」は何も慶良間島に限ったことではなかったはずだ。

本島各地にもあったし、当時の日本全体が「家父長制度」であった。

これだけでもジェンダーで慶良間の「集団自決」を検証すること自体が木に竹を接ぐような無理な話であることが分かる。

現在の価値観で過去を判断すると歴史の判断を誤る。

宮城氏は現在の価値観でも行き過ぎだとして意見の別れる「ジェンダー」の視点で歴史を判断し、そして歴史を歪曲した。

続く

           ★

【追記】

たかじんのそこまでいって委員会に惠隆之介氏がゲスト出演の予定です、視聴可能地域の方はご注目下さい。(沖縄では不可です)

2012年7月1日放送(予定)
夕方4時25分~5時20分

 

桜坂劇場特別企画 

シンポジウム「教育とは!」

日 時:   2012年7月8日(日)午後1時30分開場

午後2時より「スパルタの海」上映開始

午後4時より シンポジウム「教育とは」開始

午後6時終了

場 所: 桜坂劇場

〒900-0013 沖縄県那覇市牧志3-6-10  電話 098-860-9555

登壇者: 南出喜久治(弁護士)

伊藤玲子(「建て直そう日本・女性塾」幹事長)

戸塚 宏(戸塚ヨットスクール校長)

金城テル(沖縄県婦人平和懇話会会長、元はなぞの保育園園長)

       手登根安則(FM21パーソナリティー、前県立高校PTA会長)

       稲垣純一(沖縄県専修学校各種学校協会副会長)コーディネーター

チケット代: 前売り2,000円(無くなり次第終了)

主 催: 桜坂劇場

共 催: 体罰を考える会、全国勝手連連合会

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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タイムスを恫喝した男

2012-06-27 07:52:20 | 援護法と歴史捏造

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沖縄タイムスがいま、一番発言してほしくない人物。

かつて「識者」としてタイム紙の紙面を飾った男。

その人は、富村順一氏のことである。

         *

当日記が扱う話題は総じて沖縄に関するものだが、一時は今政局の中心になっている小沢一郎氏についてもしつこく追求したときもあったが、見かけの強面(こわおもて)とは似ても似つかぬ張子の虎で、敵前逃亡を得意とする臆病者だとわかり最近は無視してきた。

小沢夫人人の離婚暴露メールで、夫の小沢一郎氏は原発事故騒動のとき、真っ先に敵前逃亡していたと知り、さもありなんと1人納得していた。

小沢氏は敵前逃亡をする

やはり小沢は敵前逃亡!三権分立?笑わせるな!

 

最近は専ら「沖縄問題」に話題が集中しているが、沖縄問題と言っても、「PTA会費流用裏給与問題」、「八重山教科書問題」など、古くは「集団自決」等々と多岐に渡る。

特にこの数日、コメント欄が過熱した。 地元紙が黙殺している「ゼロ校時問題」(「PTA会費流用裏給与問題]に対し、読者が並々ならぬ関心を持っていると言うことである。 

その点当日記は沖縄2紙が地元紙としての責務を放棄したその穴埋めのいくらかは果たしていると自負する次第である。(一寸オーバー?笑い)

当日記の読者の意識が高いことは常々感じており、筆者もコメント欄から多くを学ばせてもらっている。

昨日のエントリーで数多い「集団自決」論争の登場人物のなかから、久しぶりに宮城晴美氏を回顧してみたら、コメント欄に珍しい登場人物の名前を見付けた。

現在も大阪でご存命の富村順一氏のことである。

宜野湾市よりさんのコメントです。

波乱の人・富村順一さんを思い出します。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/9a156cfdf90ff1669ff827f1f8f2edba

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/8129fdffddce65897665bd677bdf5ed2

その富村順一さんの口述の書き起こしです。
初めて読まれる方は、長いし途中で別な記事やコメントが挟まりますが、上方の「次のメッセージ」をひたすら辿ってください。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1143582&tid=a4a4a4ha4a4a4h4z9qbe
clga4xa5aba5a6a5sa5ha5c0a5a6a5sa1aa&sid=1143582&mid=68190


この口述の細かい時系列を突いて反論することで却下、遮断しようとする人もあるかと思いますが、手に入るあらゆる違う記録を地道に突き合わせることこそが、一次史料がない中で史実を探る方法。

慰霊の日にも当然働いている人々があり、国道から見えるパチンコ店の駐車場にはいつものように車がたくさんあり、スポーツの試合や地域の行事があり。
だからと言ってその人たちが皆、先人を思わないわけでもなく。
忘れずとも人生は続いていく、と思う。
実相がまだよく判っていない恨みつらみに縁取られた「沖縄戦を忘れない」が、恒久平和を担保するものでも、拡張の意図を持った他国を抑えることを担保するものでもない、とも思う。

当日記の古いエントリーをリンクして下さったのも嬉しいが、さらに驚くのは今では絶版となっている富村氏の著書を読んだというコメントである。 涼太さんのような古くから支援して下さっている意識の高い読者の存在や安仁屋正昭さんのようにデタラメな公的刊行物を自分の眼で確かめるような熱心な読者の存在には、そのうち狼魔人日記は「本文よりコメント欄の方が勉強になる」と噂が立ちそうである。(涙)

その亮太さんのコメントです。

<安仁屋正昭様
宜野湾より様

私も富村順一氏の「隠された沖縄戦記」は読みました。

「手に入るあらゆる違う記録を地道に突き合わせることこそが、一次史料がない中で史実を探る方法。」

仰るとおりです。
私もいろいろな沖縄関係の本を読んでいるうちに、たどり着いた結論は「集団自決に軍の命令は無かった」です。
それ以外にも、久米島のスパイ処刑の真実など、沖縄のマスコミが発狂すればするほど真実が炙り出されます。
戦場売春婦が、日本軍の強制だ。補償しろ。と叫べば叫ぶほどぼろが出ます。>
同じことですね。

          ☆

そこで本日は沖縄戦史の裏の登場人物・富村順一氏について回顧してみる。

現在「うらそえ文藝」第17号が県内外の話題を呼んでいるが、3年前の同誌第3号で、富村氏に触れた部分があるので、抜粋して引用する。

うらそえ文藝」(14号2009.5より)

星雅彦  上原正稔との一問一答   
 

 ―― 集団自決をめぐって ――  

(略)   

 星 そう、『鉄の暴風』の間違いに対しては、訴えるべきだろうし、抗議して謝罪させることだってできるはずだったのに…。

 上原 それについては次のような裏話がある。ある悪い奴がいて―― 富村という男が沖縄タイムスに何度も訪れ、執拗に賠償金を要求して夕イムスから金を受け取つたという。そのことを僕は八〇年頃にタイムスのある記者から聞きましたよ。

 星 悪いウチナーンチュ?

 上原 そういう奴が、沖縄タイムスを脅迫したんです。彼は梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけて、それをネタに沖縄タイムスを脅迫して、賠償金を要求したんです。

 星 そんなでたらめなことを。

 上原 でたらめじやなくて事実です。「梅澤さんは生きている。これを書いたのは君たちの間違いだろう」というふうに沖縄タイムスに抗議したわけです。それでお金を要求して、士方なく五〇万円を沖縄タイムスは渡したわけです。これは有名な裏話ですよ。


 星 その男に渡したんですか。それ本当の話ですか。立証できますか。

 上原 間違いない。彼はあくどい点でも有名な男ですから。

 星 生きているのに、慰安婦と一緒に死亡とは、悪意さえ感じられる。

 上原 梅澤さんは要求など、そんなことはしない。タイムスの昔の記者だったらたいてい知ってしいますよ。宮村という男がタイムスに抗議して、梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせたのです。この削除にはそういう背景があったということです。

 星 そうすると、一九七○年に東京タワー事件を起こして、アメリカ人の神父を人質にして昭和天皇を処刑台に送れ!と叫んだあの富村順一ですね。それにしても彼がタイムスへの謝罪要求をしたとは・・・。

 上原 とにかくはっきりしてるのは、梅澤さんは現在も九一歳でとても元気だということですよ。

 星 それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたこりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
 
 また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。(略)

             ☆

星雅彦氏は、若いころ誰よりも早い時期に集団自決の聞き取り調査をした。 その経験を雑誌に書いたが、「(隊長命令がなかったことは)ある程度の確信はあったが」「わざとぼかしたて書いた」ことを次のように反省している。

「あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。」と。

そしていま、歴史捏造を企てる勢力に対し「村八分」を覚悟で敢然と立ち上がった星雅彦。

そして琉球新報に対し「言論封殺」の戦いを挑んでいる上原正稔氏。

お2人の勇気ある言動に、最近とんと見かけなくなった侍(サムライ)の面影を見ることが出来る。

上記の「うらそえ文藝」の対談を見た芥川賞作家の目取真俊氏が自分のブログでいちゃもんをつけた。

相変わらずの無知丸出しのコメント対し、からかう意味のエントリーをしたのがこれ。

富村証言の衝撃!沖縄タイムスを恐喝!

以下は過去エントリーに一部加筆したものである。

■恐喝された沖縄タイムス■

沖縄在住の芥川賞作家目取真俊氏が自ブログで、係争中の裁判の判決文を誇らしげに引用し、「うらそえ文藝」の上原氏の発言を批判して「裏事情を知っているだけで、判決文も読まないものが口出しをするな」といったニュアンスの文を書いている。

『鉄の暴風』を訴えなかった理由

ところが判決文では触れていない「裏事情」を、これ以上発言されると一番困るのは沖縄タイムスであり、その意味では同じ立場に立つ目取真氏が沖縄タイムスの意を受けて星、上原両氏に、判決文全文を読んでいないことを盾に、発言を封じようと画策していることは容易に想像できる。

目取真氏は、沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50万円支払ったことを、大した問題ではないといった書き方をしているが、これは読者の目を欺くためのごまかしに過ぎない。

富村氏の恐喝は沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点、いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃である。

先ず恐喝した富村氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をしていたタイムスにとっては重宝な左翼作家であること。

つまり富村氏沖縄タイムスの紙面をにぎわす「識者の1人」だったのである。

そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除であり、沖縄タイムスは実際削除に応じたこと。

しかも恫喝された事実を沖縄タイムスは闇から闇へ葬ろうとした。

恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、「うらそえ文藝」の当該記事を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていたが、結局この事件には沖縄タイムスOBを含む複数のの証言があるというので、問題化することを諦めたと聞く。

そして脅し取った50万円は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」とした、という生々しい証言もある。

さらに恐喝した当人の富村氏が78歳の高齢ながら現在も大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だという。

目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのではないか。

そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という「うらそえ文藝」の告発を、「矮小化」(左翼の得意の表現)し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとしているのではないか。

まさに、沖縄版・言論封殺魔の面目躍如である。

■証言の信憑性■

「集団自決訴訟」の特徴は、60数年前の体験者の証言と、

数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、

という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われているという点である。

しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、

彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。

いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが.、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。

証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。

■証言者のバックグラウンド■

アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。

ここで「集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。

①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人

②「援護金」とは無関係な証人

この二種類の証人は夫々同じような証言をするという特徴を持つ。

①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、

②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。

通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。

だが、奇怪なことに「集団自決訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。

その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。

■証言者のプラス派とマイナス派■

裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。

①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など

②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔

外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、

中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得て、

その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めていると聞く。 

更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。

おっと、教科書執筆者の高校教師・坂本昇氏なども①の【プラス派】の代表だろう。この方も沖縄では有名人になって沖縄の大学のポストを狙っているとか。

 

一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもあるが、

経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。

例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さんなどは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、

「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。 いや現在も受けているときく。

照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。

最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。

■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■

もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。

自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。

富村氏については改めて詳しくエントリーしたい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。

富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された。 服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。 

勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げたせいか、

『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。 

沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。 

そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。

ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、流石の極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。 

特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命、という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。

元隊員や多くの人を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。

富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979年)から判断して1978年ごろのことである。 

その後30年経って梅澤氏は「集団自決訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。

梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。

そのとき梅沢氏はこう語った。

「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。 またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」

「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995年』)

富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受け、沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。

通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。

だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。

従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいないし、富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)

何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、

新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。

だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。

それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも干されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。

おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。

富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。

従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。

『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30年経過した1980年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。

それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。

富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50万円を脅し取ったのか。 

おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50万円を支払ったのであろう。

だが、富山氏は50万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。

ちなみに当時の50万円は現在の500万円に相当するという。

富村氏も良くやるね。

■カンパ協力のお願い■

琉球新報の言論封殺戦いを挑んでいる上原さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。

--------------------------------------------------------------------------------
ゆうちょ銀行からの振込の場合
【金融機関】ゆうちょ銀行
【口座番号】記号:17010 口座番号:10347971
【名  義】サンゼンカイ.
--------------------------------------------------------------------------------
ゆうちょ銀行以外の金融機関からの振込の場合
【金融機関】ゆうちょ銀行
【店  名】七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店  番】708
【口座番号】普通:1034797
【名  義】サンゼンカイ.


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慰霊の日に、決まって出没する宮城晴美氏

2012-06-26 08:17:46 | 援護法と歴史捏造

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毎年夏が来ると沖縄のメディアは集団発狂をする。

6月23日の慰の日から8月15日の終戦記念日にいたる数ヶ月間、沖縄の新聞から沖縄戦関連の記事が消えることは無い。

記事とはいっても、粛々と沖縄戦の事実を戦没者の鎮魂記事として報道するならともかく、一連の沖縄戦の記事は「発狂」といういささか下品な表現でしか、その狂乱報道を言い表すことは出来ない。

一面トップや社会面トップ、時としては2ページに渡る狂ったような大見出しを、当日記のような個人ブログが表現するとしたら、「発狂」という下品な言葉でも使わなければ仕様が無い、・・・いや「発狂」でも言い足りないくらいだ。

そして慰霊の日前後になると必ず登場し、講演会などでメディアに顔をみせるのが宮城晴美氏である。

最近しばらくその名を聞かないと思っていたら、24日のQABテレビでお仲間の高嶋伸欣琉球大学名誉教授と2人の顔を見たので、調べたらこんな催しに参加していたようだ。

沖縄大学 教養講座で平和教育を考える QABテレビ
これからの平和教育のあり方について考える教養講座が、6月24日、沖縄大学で開かれました。基調講演で、沖縄大学の加藤彰彦学長は、戦争の本質が国家に服従し、自分の判断力を失くしていくことにあると指摘。

「受験戦争」や「就職戦線」という言葉など、日常生活にも戦争の論理が浸透しているとして、自分自身で考え、一緒に語り合えることが保障される社会をつくることが、これからの平和教育を考えていく上で、重要だと訴えました。

また、沖縄固有の文化や歴史が、廃藩置県やアメリカ統治によって奪われ続けてきたとして、それらをどのように取り戻し、次の世代に継承していくかが今後の沖縄の課題だと話しました。

            ☆

「受験戦争」や「就職戦線」という言葉など、日常生活にも戦争の論理が浸透しているとして

本土で食い詰めた左翼学者の掃き溜めが沖縄の大学と相場が決まっているが、加藤学長は「平和学習」の一環として戦前のように言葉狩りでもするつもりなのか。

「受験戦争」⇒「お受験の争い」

「就職戦線」⇒「お就職の争い」

とか。(爆)

沖縄大学の土曜教養講座には筆者も何度か参加した事があるが、今回は多忙に紛れてビッグトゥーが参加する500回記念講座だとは知らず参加できなかった。

沖縄大学のHPから内容を拾うと、こんなことを行ったようである。

*********************第497回沖縄大学土曜教養講座********************

           土曜教養講座500回記念〈復帰40年〉シリーズ  
          日本平和学会2012年度春季研究大会開催校企画 
             「沖縄における平和教育の課題と展望」



【日 時】6月24日(日)14:30~17:00(14:00会場)

※当初6月23日(土)を予定しておりましたが、諸事情により6月24日(日)に日程を変更して開催いたします。
 急な変更でご迷惑をお掛けいたしますがご了承下さいますよう宜しくお願いいたします。

【会 場】沖縄大学 本館 1階 102教室

【第一部】記念講演

     「沖縄の平和と子ども」 加藤 彰彦(沖縄大学学長)

【第二部】シンポジウム

     「沖縄平和教育の新地平」 高嶋 伸欣(琉球大学)

     
     司 会:里井 洋一(琉球大学)

     パネリスト:北上田 源(アメラジアンスクール沖縄)
         普天間 朝佳(ひめゆり平和祈念資料館)
         宮城 晴美(沖縄大学)  


【聴講料】300円(予約不要)

【Ustream】http://goo.gl/SI0i1

     インターネット上のUstreamにて生放送で配信いたします。会場に足を運べない皆様に、ご覧頂ければ幸いです。

【主 催】沖縄大学地域研究所

【共 催】日本平和学会
    

-----------------------------------------------------------
 <お問い合わせ先>
    沖縄大学地域研究所
      電 話:098-832-5599
      F A X :098-832-3220
      e-mail:chiken@okinawa-u.ac.jp

― 趣 旨 ―

岐路に立つ沖縄の平和教育。
 沖縄戦や米軍統治の歴史、基地問題等について、どのように教え、どのように伝えることができるのか――沖縄の未来像をどのように描き、どのような平和を想像/創造するのか、それは、未来を担う子どもたちをどのように育てるのか、という課題に深く関連している。
 の節目に、沖縄の平和教育を振り返り、実践の最前線を学び、ともに語り合おう。今こそ、平和教育に真正面から向き合うとき!

           ☆

参加しそこなったのを悔やんでも仕方が無いので、久しぶりに宮城晴美氏と援護法の関係を回顧して書いてみる。

ここでひと言いわせてもらうと、沖縄戦関連で集団自決の証言者である宮城晴美氏や援護法について書こうとしたら当然過去に引用した資料について言及せざるを得ない。 場合によっては過去に自分の書いたエントリーを再現する事だってありうること。
 
これを否定し全く新しい資料をもとに書けといっても、それは無いものねだりと言うものである。
 
そう、現在係争中の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」のキモはここにあるのである。
 
つまり、琉球新報は同紙に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱が開く時」を、掲載日の直前になって掲載拒否した理由を、以前と同じ資料を引用したからと主張しているのである。
 
琉球新報の主張がいかに馬鹿げているかは、一番の当事者である前泊博盛沖国大教授(当時の担当記者)が証人決定の直前になって出廷をドタキャンしたことだけでも自明である。
 
 
さて、宮城晴美氏だが、「11万人集会」の行われた2007年にも講演会を行っていた。

「集団自決」の証言者  宮城晴美さん講演

以下は当時(2007年)のエントリーを編集したものである。

 

6月23日の慰霊の日の地元紙のフィーバーは例年を上回る異常ぶりだった。

「集団自決」で「教科書検定意見撤回」を叫ぶプロ市民運動と地元サヨク学者は強力タッグを組んだ。

それを地元マスコミが後押し、と言うよりむしろ主導した。

マスコミに煽られて、県内の各市町村議会が次々と「検定意見書撤回」が議決され、

ついには県議会まで反対決議をするという前代未聞の事態にまで発展した。

教科書問題と慰霊の日を結びつけたサヨク・メディアの思惑通りの結果だった。

慰霊の日の報道で、地元マスコミは得意満面で電子号外まで出した。→電子号外(PDF、1.4MB)

                    *

同じ日に「沖縄集団自決冤罪訴訟」の証拠にもなっている『母の遺したもの』を出版した宮城晴美氏も講演会を開いた。

それを報道する琉球新報の大見出しは次のとおり。

宮城晴美さん講演

<自著「誤解されている」>  

連合、平和オキナワ集会

惨劇を 事実を 次代へ

「岩波書店と大江健三郎さんが訴えられている裁判があります。それは私の書いた本がもとになりました」。

座間味村出身で座間味島の「集団自決」について記した『母が遺したもの』の著者、宮城晴美さんが23日、那覇市民会館で開かれた2007平和オキナワ集会(日本労働組合総連合主催)で講演した。

この中で、宮城さんは、「本が誤解された面がある」と切り出し、「集団自決」への軍命の有無にかんして「助役に関しては家族に『軍命が下った』とはっきり言っている」と注目される発言をした。

「集団自決」軍命 訴え継続を強調

宮城さんは「役場職員をしていた母は、助役、学校長、収入役、伝令と五人で梅沢隊長のところへ行った。 助役が『これから住民を玉砕させるので爆弾を下さい』と言ったら(隊長は)しばらく考えて『一応帰ってくれ』と言った。 母の目の前では帰ってくれ言ったけど、実際に助役は家族の所に行って『隊長から命令がきた、これから死ぬよ』と述べた。

「戦後、梅沢元隊長が自分の名誉挽回のためいろんな行動を取ってきて住民が二分された。 母も亡くなる前に『目の前に彼が立っている』と苦しんでなくなった。 私は、母は最期まで戦争で殺されたと思っている」と深い悲しみの表情を浮かべた。(以下略)(琉球新報 2007年6月24日)

                     ◆

県内で9月出張法廷 岩波集団自決訴訟
 沖縄戦で「日本軍の指揮官の命令で慶良間諸島の住民が集団自決した」とする本の記述は誤りで、名誉を傷つけられたとして、当時の指揮官と遺族が、出版元の岩波書店と作家の大江健三郎さんに本の出版差し止めと損害賠償などを求めている訴訟の第9回口頭弁論が25日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。今回も被告、原告双方が「集団自決」に対する「軍命」の有無について主張を展開。9月10日に沖縄で出張法廷を開き、当時「集団自決」を目の当たりにした金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授の証人尋問を行うことが決まった。
 次回7月27日には、座間味島での「集団自決」について原告、被告双方が主張の根拠として引用している「母の遺したもの」の著者で女性史研究家の宮城晴美さんと、当時渡嘉敷島の守備隊中隊長だった皆本義博氏、同隊副官だった知念朝睦氏の3人の証人尋問を行うことも決まった。
 弁論で岩波書店側は、原告が座間味島での「集団自決」は村の助役の命令だったと主張していることに反論。当時の助役の家族の証言などを新たに証拠として提出し「日本軍から米軍上陸時には自決するようあらかじめ命令されていた助役が、自決のため忠魂碑前に集合するよう住民に軍の命令を伝えた」などと当時の様子を明らかにした。
 元指揮官ら原告側は「これまでの被告の主張は、防衛隊などが住民に手りゅう弾を渡したから命令があったと評価するにすぎないものや、命令の主体を特定しない『広義の命令』説であり、原告らが命令を出した張本人とする立証から逃げている」などと主張した。

(5/26 9:59)

                     ◇

「本が誤解された面がある」

母が遺した「真実の証言」を出版し、それが「反対派」の裁判証拠とされた。

これがもとで「集団自決に軍の命令は無かった」と立証されては困るのが県内メディアで活動する宮城晴美氏の苦しい立場。

義理と人情の板ばさみならぬ、「母の遺言」と「平和運動」の板ばさみに悩む宮城氏の立場にはご同情を申し上げる。

「本が誤解された面がある」というのが精一杯。

実は本の内容は「集団自決生き残った母の証言で、『軍命令は無かった』というのが真実です」と記述されている。

だが講演では、どうしてもそうは言えない。

それを言ったら「平和運動」に水をさすことになる。

 母の遺したもの【立ち読みコーナー】 http://www.koubunken.co.jp/0250/0249sr.html
著者
宮城 晴美(みやぎ・はるみ)
1949年、座間味村に生まれる。『沖縄思潮』編集委員会、沖縄の総合月刊誌『青い海』の記者、編集者を経て、フリーランスライターに。県内外の新聞、雑誌に寄稿する傍ら、『座間味村史』(上・中・下巻)の執筆・編集に携わる。現在、那覇市総務部女性室に勤務し、『那覇女性史』の編纂事業を担当。沖縄の基地問題に取り組む「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」会員。


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■「約束」から一〇年(まえがき)

 私の母・宮城初枝は、一九二一(大正一〇)年七月、慶良間諸島の一つ、座間味島に生まれました。太平洋戦争末期の沖縄戦でいち早く米軍に上陸され、住民の「集団自決」が起こった島です。当時二四歳で、村の役場に勤めていた母は、女子青年団員の一人として座間味島駐留の日本軍と行動をともにし、米軍との銃撃戦に巻き込まれた経験をもちますが、さらに「集団自決」の“当事者”でもあったと言えます。

 一〇年前、母は、「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノートを私に託し、その半年後、六九年の生涯を閉じてしまいました。字数にして四百字詰め原稿用紙で約百枚、自らの戦争体験を日を追って具体的につづったものでした。
 実は母は、このノートに書いた大部分のことはすでに発表していました。まず一九六二年、雑誌『家の光』の懸賞募集に応募した手記が入選し、翌年、同誌四月号に掲載されました。さらにその手記は、それから五年後に出版された『沖縄敗戦秘録──悲劇の座間味島』という本(私家版)に、「血ぬられた座間味島」と題してそのまま収録されていたのです。
 母はこの『悲劇の座間味島』と、ノートを私の目の前に開き、どこがどう違うのか説明をはじめました。事実と違う、あるいは書けなかったことを、今回は書いたという部分が八カ所ありました。村の指導者の行動や、自らが米軍の「捕虜」となったときの取り調べの内容など、本には載ってないことが具体的につけ加えられていました。
 とりわけ、本に収録された手記にあった、当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」の箇所の削除を指示する母の表情には、険しさが感じられました。「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令によるもの」という根拠の一つとされ、母の戦後の人生を翻弄した数行だったのです。

 事実はそうではなかった。母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と〝告白〟しました。しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。
 改めて事実を記した手記を出版することで、母は“証言”をくつがえそうとしました。しかしそれだけでは、また別の意味で誤解を生じさせかねません。そこで母は、私にノートを手渡しながら、「これはあくまでも個人の体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表してね」と言い、私も軽く引き受けたのです。でもその時は、そんなに早く母が逝ってしまうとは、夢にも思いませんでした。

 それにしても、なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。また事実を〝告白〟したことで母に何があったのか──。それを調べていくうちにわかったことは、「国家」の戦争責任は不問に付され、戦後の何十年もの間、〝当事者〟同士が傷つけあってきたということでした。
 結果的に母は、「事実はこうだった」と明確にせず、ある意味で責任を果たさないまま鬼籍に入ってしまいました。しかし、戦後なお“終わらない戦争”を引きずって生きた母の遺したものを、戦後世代の私が“追体験”し、ここに「新しい証言」として公刊することで、「母の償い」に代えられるのではないかと思っています。
 一二月六日は母の命日です。今年でちょうど一〇年、やっと母との約束を果たせそうです。そしてなによりも、座間味島における日米の戦いで尊い生命を奪われ、中途で人生を断たれた多くの人々の供養になればと願っております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                    

自分の虚偽の証言が梅沢元隊長の人生を破壊してしまったことを知り故宮城初江さんはことの重大さに気づく。

そして自分の“証言”を悔いた。

真実の告白を決意するが「反対勢力」との狭間で悩んだ。

「真実の告白」を自筆のノートに遺して娘の宮城晴美氏に託して他界する。

 

>なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。また事実を〝告白〟したことで母に何があったのか─

違うことを書かなければならなかった」というのはノートに書き遺した「真実」のことでは無い。

文学少女だった初江さんが、後世こんな大事(おおごと)になるとは考えもせず、ローカル誌「家の光」の懸賞文に自分の「戦争体験記」として応募した「(口裏あわせした)“違うこと”」のことをさす。

本人にとっても梅沢元隊長にとっても不幸なことに、応募した「戦争体験記」は入選し、同誌に掲載されてしまった。

それから“違うこと”が本人の意思とは関係なく独り歩きを始める。

この辺の事情を『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏は次のように説明している。

≪母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。まず、1963年発行のの『家の光』4月号に体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の目」が掲載されたこと。それから5年後の1968年に発行された『悲劇の座間味島-沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。
ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとつては“不本意”な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
「“不本意”な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであつた。≫

◆母の遺したものhttp://www.zamami.net/miyagi.htm

 

亡き母が良心の呵責に耐えかねて書き遺した手書きの遺書とも言うべき手記。

母の遺志を継いで『母の遺したもの』としてこれを出版した宮城晴美氏。

だが、沖縄の異常な言論空間は、宮城氏を県内の対立意見の狭間に立たされることになる。

県内メディアで生きる宮城氏は、皮肉にも母と同じ苦しい立場を辿ることになる。

宮城氏が「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の『証拠』を出版していながら、一方では被告側の「証言者」になると言う「ねじれ現象」を本人が一番苦にしていると推察する。

この「ねじれ現象」こそ「集団自決」問題の象徴でもある。

座間味島の集団自決から33回忌(32年後)に当たる昭和52年3月25日、宮城初枝さんは娘に「梅澤隊長の自決命令はなかった」ことを初めて告白した。 事実は、梅澤隊長のもとに自決用の弾薬をもらいに行ったが断わられ追い返されていたのである。集団自決の命令を下したのは、梅澤隊長ではなく、村の助役だった。

では、なぜ村の長老たちは宮城さんにウソの証言をさせたかといえば、厚生省の方針で、非戦闘員が遺族年金など各種の補償を受けるには単なる自決では足りなく、軍の命令があった場合にだけ認められるという事情があったからだ。座間味村(そん)の遺族が国から補償を受けるためには、ウソでも軍の命令で集団自決したという証言が必要だったのだ。

その後、宮城初枝さんは梅澤隊長に面会して謝罪し、命令を下した助役の弟も梅澤隊長が無実であることを証言する念書を梅澤氏に手渡した。こうして座間味島では、住民側の証言によって梅澤隊長の命令はなかったことが証明されたのである。(「沖縄の集団自決『軍命令」』は創作だった」より抜粋)http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_fujioka.html

            ☆

1995年(平成7年)6月23日付沖縄タイムスは宮城晴美氏の手記を「母の遺言」として3回に渡り掲載した。



母の遺言(上) 母の遺言(中) 母の遺言(下)
母の遺言 (上)    母の遺言 (中)    母の遺言 (下)

 

そのなかの「母の遺言(中)」で、宮城晴美氏は、集団自決における軍命と援護法の関係について赤裸々に真相を語っている。」


切り取られた"自決命令"

「玉砕」は島民の申し出

援護法意識した「軍命」証言

宮城 晴美

母は、どうして座間味島の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったにか、その真相について私に語りだしたのは、確か一九七七牢(昭和五十二)だったと思う。

戦没者の三十三回忌、いわゆる「ウワイスーコー」と呼ばれる死者のお祝いを意味した最後の法事があると私は聞き、「島の人は何を孝えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。

「援護法」とのはざまで

話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。

沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから二年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。

この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。

それを村当局は、隊長の命令でで「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。

つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるといういう論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。

その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。

母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小きな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。

島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。


それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の"目"を意識せざるを得なかった。

軍と運命を共に

(省略)

一九四四年(昭和十九)九月、この島に日本軍か駐屯するようになったころから、住民は兵隊たちと運命を共にすることになる。

(省略)

忠魂碑の前に

一九四五年(阻和二十)三月ニ十五日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包みこまれる。方々で火の手かあがり、住民は壕の中に隠れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。

そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令が届いたのである。

伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している。

有力者の一人から一緒に来るようにいわれ、意味もわからないまま、四人についていったのである。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最後のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。

母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

(沖縄女性史研究家)

            ☆

 援護法が絡む沖縄戦関連の訴訟である「沖縄靖国(合祀取り消し)訴訟」で、原告側の敗訴が確定した。 同訴訟には原告側証人として石原昌家沖国大名誉教授が証言台に立ち、「(軍の命令が理解できるとは思われない)6歳児以下の幼児が援護金の対象になっているのは。国が軍命を捏造して歴史を書き換えたから」と言う趣旨の証言をし、事実上「集団自決における軍命は援護法受給のための方便だった」と法廷で証言してしまったのだ。

石原教授は大江・岩波を被告とする「集団自決訴訟」では逆に被告側の応援団として、「軍命はあった」と証言していた.

その一方で石原教授は、先日原告の敗訴が確定した沖縄靖国(合祀取り消し)訴訟で「軍命を否定」する証言をした。

石原教授が「援護法の適用のため国が拡大解釈して軍命を捏造した」と証言した意味は大きい。

石原教授は「援護法研究の第一人者」として、県公文書館などで、一般人には閲覧不可能(個人情報として)な援護法関連の資料を独占し、それを基に沖縄靖国訴訟でも長大な援護法関連の意見書を法廷に提出していると聞く。

訴訟が終結した現在、法廷に提出した資料は原則として公開のはずである。

集団自決の真相解明には、援護法が沖縄でどのように実施されてきたかを解明すことが不可欠である。

沖縄靖国訴訟の結審は思わぬ所で援護法解明の絶好の機会を一般に公開することになる。

沖縄靖国訴訟の結審が「援護法と歴史捏造」の新たな論戦の出発点である、という所以である。

 ⇒援護法と歴史捏造、新たな論戦の出発点

 

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琉球新報の言論封殺戦いを挑んでいる上原さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。

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援護法と歴史捏造、新たな論戦の出発点

2012-06-17 07:42:43 | 援護法と歴史捏造

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沖縄タイムスは、沖縄靖国訴訟の敗訴確定の報道以来本日に至るも、社説などによる最高裁批判の論説が見当たらないのは寂しい。

せめて「識者の談話」として、この裁判に深く関わってきた石原昌家沖国大名誉教授のコメントくらい掲載しても良いと思うのだが、本日現在「黙して語らず」を貫いている。

代わりに社会面の最下部のベタ記事にこんな見出しが。

戦いの実相圧殺」

上告棄却に抗議

沖縄靖国訴訟談

16日、原告団が記者会見をして、最高裁の上告棄却に抗議の声明文を出した。

声明では、援護法の適用で被害住民も「積極的戦闘協力者」に仕立て上げ、沖縄戦の実相を捏造して合祀に結び付けていると指摘。合祀を容認する司法の判断は、憲法が保障する人権を無視し、民主主義を根本から否定する暴論だと批判した。2歳の弟ら家族4人が合祀されている原告の安谷屋昌一さん(72)は「合祀を強制され、個人の信仰心は受け入れられないなんておかしい」と批判。母親が合祀されている崎原盛秀さん(78)は「沖縄戦の実相を無視した沖縄差別だ」と談じ、今回の裁判で得た資料を分析して「靖国の本質を暴き。合祀取り消しに向けた運動につなげていきたい」と語った。>

ここでも「ゆすりたかり」の常套句である「沖縄差別だ」がでてくるのは爆笑もの。

民間人の援護金受給は、沖縄県民のみであり、東京空襲などによる膨大な数の民間人戦没者は援護金の対象外である。

家族四人分の援護金を受給していながら、どの面下げて「沖縄差別だ」などと発言できるのだろう。

いつもならマイクに向かって「不当判決」などと蛮声を張り上げる原告団代表の金城実氏の怒りのコメントがないのが寂しいが、そもそも金城氏と上記の安谷、崎原両氏とは同じ原告でも立場が違う。


父親の戦死を「犬死」と罵る金城実氏

安谷屋、崎原両氏は軍属でない母親や幼い弟が合祀されているので、石原教授が主張する「国の歴史捏造による不適格者の合祀」に相当するが、金城氏の父親は兵隊として招集され戦死しているので、本来靖国に祭られるべき適格者ある。

金城氏は戦死した父親の援護金を受け、京都にある私立の美術大学を卒業している。 

美術大学が文系大学のなかで一番金のかかる大学であることはよく知られたこと。

援護金のおかげで金城氏は恵まれた学生生活を送ったことになる。

金城実氏はその父親の援護金を享受しながら、一方では父親の戦死を「犬死だ」と罵って原告団の先頭に立ったわけだから、両親とも草葉の陰で「親不孝もの」と嘆いていることだろう。

関連して、安仁屋正昭さんのコメントを引用する。

先ずは、名前に恥じない働きで、老人たちを焚きつけ訴訟を起してくれた金城実氏と
学者魂で援護法のカラクリを暴露してくれた石原先生に感謝しながら
「御愁傷様です」と御礼を述べたい

沖縄靖国訴訟についての新聞論調が見られないので、テレビ報道を資料として「保存しておく。

沖縄靖国合祀訴訟 遺族の敗訴が確定

NHKニュース 6月15日 16時42分

太平洋戦争の沖縄戦などで犠牲になった肉親が無断で靖国神社にまつられ、精神的な苦痛を受けたとして遺族が神社への「合祀」の取り消しなどを求めた裁判は、最高裁判所で遺族の上告が退けられ、敗訴が確定しました。

この裁判は、昭和20年の沖縄戦などで亡くなった戦没者の遺族5人が「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」と主張して、靖国神社のほか、神社に戦没者の名前を提供した国に、合祀の取り消しと慰謝料の支払いを求めたものです。
1審と2審はいずれも、「合祀を受け入れられないこと自体は理解できるが、悼を妨げられたり、神社の信仰を強制されたりしておらず、権利の侵害とはいえないなどとして訴えを退け、遺族が上告していました。
これについて最高裁判所第2小法廷の竹内行夫裁判長は、15日までに上告を退ける決定をし、遺族の敗訴が確定しました

              ☆

原告:「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」

判決:「追悼を妨げられたり、神社の信仰を強制されたりしておらず、権利の侵害とはいえない」


靖国合祀取り消し訴訟 上告棄却・遺族の敗訴確定 QABテレビ

家族が靖国神社に無断で祭られているのは精神的苦痛だとして、遺族らが合祀取消などを求めている裁判で、最高裁判所は、2012年6月13日付けで遺族らの上告を棄却しました。

遺族の敗訴が確定です。遺族側は裁判で、無断で合祀したことは追悼の自由の侵害であり、国の情報提供は政教分離の原則に反すると主張。しかし2011年の控訴審判決で遺族の主張は、「神社の教義及び宗教的行為そのものを否定することに繋がりかねない」として棄却され原告が上告していました。

原告側弁護団によりますと、「上告理由に該当しない」として上告を棄却する決定書が14日、届いたということです。弁護団の山城圭事務局長は、「最高裁は靖国神社による遺族の苦しみを是認し、合祀に協力した国の責任を認めなかった」と強く抗議しています

              ☆

原告:「追悼の自由の侵害であり、国の情報提供は政教分離の原則に反する」

判決:「神社の教義及び宗教的行為そのものを否定することに繋がりかねない」

              ☆

最高裁の上告棄却で原告の敗訴が確定し、沖縄タイムスや石原教授、金城実氏などが戦意喪失した様子だが、沖縄靖国訴訟は終結しても石原教授が火を点けた「援護法のカラクリ」の解明は終わったわけではない。

援護法に絡む「集団自決」の軍命論争は、終結どころか新たな出発点に立ったばかりである。

石原教授の論戦への復活を期待したい。

【追記】

石垣市の読者より、昨日(16日)付け八重山毎日が、沖縄靖国訴訟の上告棄却のアリバイ記事を、ベタ記事で掲載されている旨報告がありましたので紹介します。

昨日のエントリーブログに関する「八重山毎日新聞」記事をご紹介します。
本来の「八重山毎日新聞」の報道ぶりからすれば、「勝訴」ならば大騒ぎの
報道であろうところ、「敗訴確定」の記事、卑怯にも「不都合な事実は」、
目立たぬように、そっと掲載していますね。(添付PDFファイル)

> 6月23日の「沖縄慰霊の日」を目前にして、
> クザの言い掛かりともとれる沖縄靖国訴訟で原告側の敗訴が確定した。

> 法律論はともかく、常識のある国民なら誰でも納得のできる真っ当な最高裁判断である。

↑狼魔人様が仰せのとおり、
「常識のある国民なら誰でも納得のできる真っ当な最高裁判断である。」に同感です。
判決内容を読んでいませんが、報道の範囲から思うに、沖縄県民の事実を捻じ曲げた自分勝手な
我がままな歴史観は、もう通用しないことを知るべき時がきているように思います。



最高裁判決のあった13日(水)、いつもの日めくりカレンダー、奇しくも

「時は偉大なるまで多くのことを正しく裁く」(コルネーユ1606~1684 フランスの劇作家)


また、日めくりカレンダーには次の言葉もありましたね。

「事実はみずから語り出す」
(プラウトゥス BC250~BC184頃 ローマの喜劇作家)


嘘で塗り固めた歴史、論理を主張する者は、そのうち事実により自ら崩壊の道を辿る、
言い得て重い言葉ですね。


【追記】
地元「八重山日報」紙に、「寸鉄直言」、惠隆之介先生の「住民投票は防衛政策にそぐわない」の
論考昨日(上)、本日(中)が掲載されています。具体的に中、台、日の戦後史、現代史を紐解きながら、
防衛政策と住民投票について、簡潔明瞭に説く優れた論考、地元「八重山日報」で読める
「自由な言論空間」の幸せを読者の一人として実感しています

■「パンドラの箱掲載拒否訴訟」
第八回口頭弁論

  日時 :6月19日(火) 午前十一時より

  場所: 那覇地方裁判所

■報告会

  日時: 同日      午前11時半より

  会場 :沖縄県護国神 社社務所内会議室

尚、7月17日(火)の午後には、いよいよ証人尋問が行われます。

上原正稔を支援する三善会にご協力をお願いします。

現在、琉球新報の言論封殺に対し、徒手空拳で戦いを挑んでいるドキュメンタリー作家上原正稔氏の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」はこれまで皆様のカンパにより戦いを継続してきましたが、沖縄のマスコミから村八分状況の上原氏は現在闘争資金に不足をきたしています。
担当弁護士の先生も手弁当で支援して下さっていますが、打ち合わせ等をするにも交通費等の出費を無視できません

沖縄の閉塞した言論空間に戦いを挑んでいる上原さんの訴訟にカンパ協力をお願いしております。

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石原教授の致命的証言!援護法申請で

2012-01-29 08:33:23 | 援護法と歴史捏造

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 昨日述べた「援護法」に絡んで「沖縄靖国訴訟」で原告住民側の証人として証言台に立った、石原昌家沖国大名誉教授の「致命的証言」について、報告する。

先ず援護法の概略を知る参考に、古い沖縄タイムスの記事を引用する。

<沖縄タイムス 2005年3月4日 朝刊30面>

戦闘参加者とは誰か](6)
申請
「救えるものは救おう」
役場職員も事務研究

 一九五七年、厚生省は、沖縄戦で亡くなった一般住民のどのような行動が「戦闘協力者」として、該当するかを調査した。その後、実際の受け付け業務は、琉球政府から委託され、各市町村役所が担当した。

 申請の過程でも、援護法が「軍への協力」を前提としていたため、そのことが、強調されていくこととなった。

 長嶺秋子さん(70)=糸満市=は五三年、兼城村役場(当時)の初代の援護係に着任し、その後八年間担当した。

 援護法の申請手続きは、兵隊や現地召集の防衛隊など軍人軍属が先だった。

 「軍人の場合は、政府から一次名簿というのが届いていた。しかし、戸籍がなく、仮戸籍で受け付けた。防衛隊の場合は名簿もないので、各字を回って、誰が隊員なのかを申告してもらった」

 地域の公民館に机を置き、住民が申請に来るのを待った。「援護金の支給があると言っても、なかなか信用してもらえなかった。『戦争のことは思い出したくない。辛いことを思い出すからやりたくない』。そんな声が聞こえてきた」と振り返る。

 その後に、一般住民が対象となる「戦闘参加者」の申請が続いた。

 申請には、戦没者氏名、生年月日、死亡月日、死亡場所に加え、どのようにして亡くなったかを記した「戦闘参加概況書」を添付する必要があった。

 職員は、概況書を基に、「戦闘参加者」の基準となる二十項目、「義勇隊」「直接戦闘」「弾薬運搬」「戦闘協力者」などの、どれに当たるのかを判断した。

 申請は、琉球政府を通して、厚生省援護局未帰還調査部に送付。厚生省は、添付資料を基に、「戦闘参加者」に「該当」するのか、否かの審査をした。その結果を「戦闘参加該当予定者名簿」として、市町村に送り返され、該当遺族に通知が送られた。

 厚生省へ送付される「戦闘参加概況書」では、住民が協力した、軍隊の部隊名も特定する必要があった。住民の立場からすると、混乱した戦場での正確な記憶が求められるのは、土台無理な話だった。しかし、書類はそれを要求していた。

 結局、申請を受け付けた役場職員が、日本軍の作戦状況を把握して、日時場所から、部隊名を記入することもあった。

 市町村の援護課職員は事務研究の連絡会をつくり「戦闘概況」について、どう記せばいいのかを検討し、連携したという。長嶺さんは「琉球政府の方針も、沖縄は復帰できるかも分からない、援助できるものは援助しようということでした」と振り返る。

 同村役場三代目の援護課担当だった大城美根子さん(62)は六五年に着任。当時の業務は、「戦闘参加該当予定者名簿」の中から、「『非該当』の人を『該当』となるように救うことだった」と振り返る。「沖縄戦で亡くなった人たちが、救えないのはおかしい。亡くなった人たちは、皆『戦闘協力者』だと思っています」と語る。(社会部・謝花直美)

                          ☆

裁判所に提出した上原さんの陳述書見れば自明だが、琉球新報の「言論封殺」は慶良間島の集団自決の真相にターゲット絞っており、集団自決は「援護法」に大きく絡んでいる。

簡単に言えば本来軍属にのみ適用されるはずの「援護法」を政府主導で強引に沖縄住民に適用するように政令を発して特例を設け、住民の中の「戦闘参加者」を適用対象としたのである。

「援護法」の申請の流れはこうだ。

住民(遺族)⇒各市町村の援護課⇒琉球政府⇒厚生省援護局

そして各担当部門で出来るだけ「『非該当者』を『該当者』となるように救う」という思惑が働いた。 昨日紹介したように厚生省側でも祝嶺さんのような沖縄出身者を担当職員に配置転換し出来るだけ「援護法』の適用させるように指導した。

当初は市町村の窓口でも申請書の記入などに不慣れな職員が多く、多くの申請書が厚生省側から突きき返されたという。 だがそれには厚生省側の「受理されるノウハウ」の指導が付いており、結局要領を掴めば簡単に「戦闘参加者」として受理れ援護金支給の対象となった。

政府(厚生省)、琉球政府、各市町村の三者が「出来るだけ受理する」という思惑で動けば、その申請手続きの過程で、どうしても該当しない申請者に虚偽の申請をするものが出てきても、見て見ぬふりをするどころ積極的に「偽造申請書」に加担する者も多かった。 組織ぐるみで加担した場合も多かったと聞く。

「援護法」の研究者を自認する石原昌家沖国大名誉教授は、申請書を書けない住民に代わって申請書を書く手伝いをしたと語っている。 この石原氏、援護法の研究だけやっておればそれなりの評価をされたのだろうが、沖縄で名声を得るには反日左翼複合体に迎合する必要を感じたのか、イデオロギー丸出しの論調で新聞紙上を賑わし「集団自決」訴訟では被告の大江・岩波側の弁護に回り、「軍命派」の論陣を張った。

その一方で「沖縄靖国訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷で証言をした際、イデオロギーと研究の狭間でついうっかり自分の現在の立ち位置を見失ってしまい致命的発言をしてしまった。

石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などの「戦闘参加者」を作って援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出し、証言台では次のような趣旨の証言を行った。

被告側弁護士:石原先生の説明ですと、沖縄の遺族の中で援護金を貰っている人の中には本来、もらう資格が無い方々が多く含まれているということですか?」 

石原証人:   「いえいえそうではありません。ほとんどです」

被告側弁護士と石原証人との尋問で、石原証人は次のことを証言したことになる。

■石原証言のポイント

1)戦闘参加者という受理条件を与えるために、日本政府がその基準に合うように暗に指導していた。

2)日本軍が住民に命令や要請を受けた時点で国と住民に雇用関係が発生すると考えで、積極的な戦闘協力をした、と指導した。

3)壕の提供は、軍事行動であり、現認承認があれば軍属と認める。

4)厚生省から付き返されることは、結果的に書き換えて受理となった。

5)援護法の実態を解明することは、沖縄戦の事実を引き出すことになる。

               ☆

この証人尋問が、極悪複合体(反日左翼複合体)にとって何ゆえ致命的なのか。

石原氏は別の裁判である「集団自決訴訟」では大江・岩波側を支援し「軍命あり派」の論陣を張ったが、「沖縄靖国訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であり、国がそれを指導したと主張した。 ということは法廷で軍命は虚偽だったと証言したことになる。

石原氏の証言に関しては反日左翼複合体の側からも批判の矢が飛んでいると聞くが、結局、石原氏法廷での宣誓の通り、真実を語ったことになる。

真実を語ったため「集団自決」は軍命であるという持論を結果的に否定してしまったのだ。

もっともこの石原氏の致命的証言は、「不都合な真実」は徹底的に隠蔽する琉球新報、沖縄タイムスが報道するはずもなく、法廷記録として残っているだけである。

結局、石原氏の証言を要約すると、援護法と靖国合祀は、住民を死に追いやった戦争責任を回避するための口封じという「恨み辛みの歴史観」になる。

【おまけ】

<沖縄タイムス 2005年3月6日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](8)
東京の目
援護法での救済に腐心
「生かされた」責任感じ

 沖縄戦で看護隊として亡くなった女子学徒は、援護法で「準軍属」にあたる。一九五五年、女子師範学徒八十八人に、死亡公報が発せられた。それに基づき、援護法申請の手続きが取られていった。

 申請書類をめくると、女子師範、一高女、寮で一緒だった同級生や下級生の名前が記されていた。審査にあたった厚生省職員の祝嶺和子さん(77)=静岡県=は「寮で枕を並べた友達が、死んでいるんだから。絶対救わなくちゃいけない。そんな気持ちがありました」。当時の悲しみが再び込み上げて、言葉を詰まらせた。

 「でも、それだけやったから、私はね、自分が生きてもね、みんなには『お前は来なかったな』と言われないで済むと思っていました」

 夫、正献さんの生前の口癖は「特攻隊で自分の友達も皆、死んだ。自分らは生き残ったから、国のために何かやれということなんだ」。名護にいた幼少時から空手を学んでいた正献さんは、六三年に空手を基にした武術「躰道」を本土で広めることに努めた。

 「自分は生き残った」という思いを持ち続けた祝嶺さんは、沖縄戦で犠牲になった人々を援護法の対象として救うことに、心を傾けていった。

 一般の住民は逃げ回っていたのではないか。軍人が住民にも一緒に戦えと命令したのか。軍人が「自分たちが使うから、おまえたちは出て行け」と言って、住民を壕から追い出した―。

 「戦闘参加者」として、一般住民の申請書類が上がってきた時に、厚生省で批判的にみる人もいた。

 祝嶺さんは振り返る。「逃げ回っていた人もいたと思う。でも、そういうと沖縄の人が救われない。『戦闘参加者』として参加したんだと、はっきり言った」

 沖縄戦では、住民と軍隊が混在した。三カ月にも及ぶ戦闘の中で、一人の人間の死に至る過酷な体験は問題にされることはない。援護法の適用で、注目されるのは「軍への協力」、その一点だ。

 書類の審査で難しいケースについては、最終的には沖縄戦体験者の祝嶺さんのところに、回ってくるようになった。

 「軍への協力」が必要と、入り口を絞られた書類の上の沖縄戦。戦場で同じような行動をしていても、書き方一つで住民は「戦闘参加者」か、そうでないかに分けられる。

 「事実を書いてあるのだが、書類では通すことが難しい事例がある。だから、ほかはこのようにして通っているのだから、これと同じような書き方でと、そうちらっと教えた覚えはあります」

 「今からいうとおかしいかもしれないが、自分は生かされた。死んだ人はどうしても救わないといけないという、責任みたいなもんがあった。私はただ、沖縄の人を救えばいいという気持ちだった」(社会部・謝花直美)(毎週木―日曜日に掲載)

 

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「援護法」、住民ぐるみの公金詐取!

2012-01-28 07:19:29 | 援護法と歴史捏造

 

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最近、沖縄戦がらみで三つの裁判が行われた。

一つは昨年4月に最高裁判断が出た「集団自決訴訟」。 そして係争中の「沖縄靖国訴訟」と「パンドラの箱掲載訴訟」である。

三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の訴因は違っているが、実質の争点が沖縄戦であり、さらに論点を絞ると「集団自決と援護法の関係」になるという点では大きな共通項を持つ。

慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴しているので、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われている。

だが、これは沖縄2紙による印象操作による大きな誤解である。

たしかに最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定したが、最大の争点である「軍命」については被告大江・岩波側は立証することが出来ず、事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。 

ただ名誉毀損が訴因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、あたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を沖縄2紙が垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。

この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。

「パンドラ・・訴訟」でも原告上原さんが陳述書で強調されているように、集団自決には「援護法」が大きく関わっている。 集団自決の真相を解明しようとすると、その適用を受けるため申請書を偽造したという点に触れねばならず、この「秘密」を隠蔽しようとする勢力との壮絶な戦いが裁判という舞台で争われることになるのである。

沖縄2紙を筆頭に反日左翼勢力は、「援護法」の」カラクリを必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと故赤松さんということになる。

上原正稔さんが昨年1月、琉球新報を提訴した記者会見の冒頭で、梅澤さんと故赤松さんに沖縄人として謝罪した理由は、すべて「援護法と集団自決」の複雑な関係にある。

読者の中には集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着き、詐欺行為の疑いを持つ人も多い。

より直裁的にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している。

■石原教授のトンデモ発言

反日左翼の急先鋒であるOABテレビに、石原昌家沖国大教授が出演し、靖国訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。

「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映された。 

だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

News Photo

 

 

 

 

 

 

■政府主導の「公金横領詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用したときの当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

 申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

■石原昌家氏の二枚舌■

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなので立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する一方、「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなどの徹底した「軍命派」である。

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」といった自己矛盾の発言をしている。

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆したというのだ。

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆)

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

 

【おまけ】

石原教授は、沖縄靖国訴訟の原告側証人として法廷に立ち、原告側にとって致命的ともいえる発言をしているが、これについては稿を改めて述べてみたい。

 

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政府主導の公金横領!集団自決の軍命

2011-07-12 20:47:11 | 援護法と歴史捏造

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朝のエントリーで、次のように書いた。 

元々沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用したときの当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) > (沖縄タイムス 2005年3月5日付朝刊)

集団自決における「軍命」は援護金支給のための方便であり、それを指導した援護課の行為は、政府主導の公金横領といわれても仕方がないが、結局一連の政府の指導は「集団自決に軍命はなかった」という証明に他ならない。

           ☆

「沖縄集団自決冤罪訴訟」は20058月5日に大阪地方裁判所に提訴されるが、その5ヶ月前の沖縄タイムスには、「政府主導の公金横領」という「軍命有り派」にとっては不利になるような記事でも正直に掲載していた。

しかもその記事は、後に「軍命のためなら白でも黒と書く」と揶揄される謝花直美記者が書いているのだ。 

当時の謝花記者は、後に集団自決に関わる訴訟が起きようとは夢想もせず、ただ「日本軍が住民を戦闘に巻き込んだ」というイデオロギーを書くため、結果的には軍命論を否定するような記事をかいているのだから皮肉なものである。

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

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援護法のからくり?、悪意の解釈と善意の拡大解釈

2011-04-06 06:50:24 | 援護法と歴史捏造

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当日記が唯一誇れるのは読者のレベルが高いこと。 これは何度か自慢したが、昨日のエントリーで沖縄タイムスのテレビ案内文を紹介し、「変だ」と疑問を呈しておいたら、早速読者から的を射たコメントを頂いた。 次の紹介する。、
 
■  安仁屋正昭さんのコメント遺族年金はそろそろ

戦後66年、そろそろ遺族会は援護金の受領を辞退してはどうか。
出来ないので、あれば正当な軍人軍属とこれに順ずる戦斗協力者のみに限るべきです。

今回の靖国合祀取り消し訴訟で明確になったことは、援護法の適応を受けるため、申請書を捏造したという事実です。
嘘をついて貰うわけだから、他人に知られては、ばれてしまう。
だから、申請書に記載した内容(どのような理由で何処で戦死したのか)を、家族にすら知らせていないというトンデモ無い事実です。
援護金を貰っている遺族に、「戦死されたご家族は、何時何処でどのように亡くなられましたか?」と聞き取りをし、これを「靖国神社に問い合わせてください」と頼み、照合すれば、

恐らく2万件前後の不合は明らかになるはずです。

場合によっては、詐欺行為の疑いがあるので、援護金不当受領者に対する裁判を起こしてもよいと思います。

金城 実氏率いる、原告人5人中、3人(戦没者8人)は、この対象です。 

 ■ヒロシさんのコメント 不都合な真実 
「チビチリガマに軍人はいなかった」という事を多くの県民が知っていることだと思いますが読谷村史http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm
>「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
>避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」
>真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した

どこにも軍の命令と書いていませんね。
「思い出」として日本の教育が悪かったと書いてあってミスリードさせようという意図がかくれていますけど。

 もう一つ  ヒロシ   
>「援護法」による年金をもらう代わりに民間人が「準軍属」にされるというからくりがあった。
これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。
付け加えるならば「沖縄以外ではこのような虚偽の申請は受理されていない」わけですから
靖国訴訟は前提からしておかしい訳で最高裁まで行くでしょうけれど「裁判官には真っ当な判決」を望みます

            ★

> 場合によっては、詐欺行為の疑いが(安仁屋さん)

安仁屋正昭さんは「詐欺行為の疑い」と控え目な表現にしているが、より直截的にいえば「公文書偽造による「公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者は3年前に「国主導の公金詐取」と指摘しておいた。

>これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
>年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。(ヒロシさん)

OABテレビの当該番組では、終始「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映され。 だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

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■政府主導の「公金横領詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないといおう。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

■援護金業務での宮村幸延氏の功績■

座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。

そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。

現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。

当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。 

つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、座間味村役所の援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。

そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。

ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで得た余裕からなのか、

座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。

「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、

村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

【おまけ】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大名誉教授の論文はこれ。

 ⇒政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

 

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「援護法」と「特段の配慮」のカラクリ

2008-06-06 07:15:44 | 援護法と歴史捏造

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 63年前の今日、昭和20年6月6日。

大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍濠から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

<沖縄県民斯く戦えり。

県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、多田武雄海軍次官は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 

これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の

沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍であることは間違いのない事実。

ところが何故か、戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の艦砲射撃で県民を爆撃した下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住民を日本人から分断する占領方針から、沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさし、住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていないのだ。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、

そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だった、

と言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍。

「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

参考⇒県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

                  *

大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、

「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」

と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

意味は全く違うが、最近でもこんな例もある。

「沖縄に特段の配慮」 唯一県名挙げる 国民保護方針(2005.3.27)

                      ◇

■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。

日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。

そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 

54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。

慶良間島の「集団自決」に関しても,村役場の総務課が地元の窓口となり,

総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、

親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり心中で生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

 

■本土と沖縄の齟齬■

本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。

一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。

静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、

沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。

[戦闘参加者とは誰か](18)
日本戦災遺族会
一般戦災者に補償なし
被害の規模が実現阻む

太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。
 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。
 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。
 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。
 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。
 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」
 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。
 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。
 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。
 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」
 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)              

              ◇

                 ◆お知らせ◆

『沖縄と日本の未来を考える講演会』

「沖縄集団自決冤罪訴訟」原告弁護団の

徳永 信一弁護士沖縄に来る!



【日時】 平成20年6月7日(土)午後6時会場 6時30分開演(明日ですよ!)

【場所】 エッカホテル沖縄 14階ヒルトップ

那覇市天久1068-9 867-5111
 地図

【会費】 1,000円


=追記=に徳永弁護士の記事を掲載しました。

「不当判決にみる山崎行太郎のお粗末と大江健三郎の黄昏」


= 追記 =

「 沖縄県民斯ク戦ヘリ」よりの引用です。

参考:

『沖縄戦を考える』(嶋 津与志・83年・ひるぎ社)

『石原昌家 沖縄国際大学教授 ー不実の記録 政府が書き換え     指導  援護法認定、「軍命」基準に』(琉球新報 2006年12月7日付け記事)

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