ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ルソー著 桑原武夫ら訳 「社会契約論」 (岩波文庫)

2016年06月28日 | 書評
徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第2回

序(その2)

本書ルソー著「社会契約論」(岩波文庫)は、1954年京都大学人文科学研究所他の13名の共訳によるもので、訳者の中で著名な人をあげておくと、桑原武夫、前川貞次郎、河野健二、鶴見俊輔、多田美知太郎らがおられる。若き俊英が揃った良き時代の仕事である。なお京大人文科学研究所は1951年「ルソー研究」(岩波書店)を先に刊行していた。桑原先生は「ルソーの考え方そのもののむつかしさは、どうにもならない。考えながら読んでほしい」と言われる。生身の人間でありながら個人は、個別と一般に分離し、一般の考えをすべきだという。公私を峻別し公の考えに真実があるというのだ。この本の巻末に河野氏の解説があり、そこでルソーの思想形成の過程を論じている。(余談だが、私は京大教養部時代に河野先生の「社会学」を受講したので、なぜか親近感がある。) ルソーが道徳や宗教の問題から進んで、社会や政治の問題に関心を移しはじめたのは彼が31歳のころからだと言われている。「告白」で彼は「あらゆる事物は結局、政治によってさゆうされる。国民はその政府の性質によって限定されざるを得ないのである」という。政治への関心は1753年になって「不平等起源論」や1755年「政治経済論」(「百科全書」に発表)に結実した。フランスの百科全書派(ディドロ、ダランベールらの啓蒙家)戸は次第に不和となって交際を断った。1761年「新エロイーズ」という小説を完成したのを機に、書き溜めていた「政治制度論」の草稿を再検討した。しかしこの仕事は何年かかるか分からないので、この仕事を放棄して、書き溜めた原稿から捨てられない部分を集めて「社会契約論」という形で仕上げようとした。1762年「エミール」と同時に「社会契約論」は発刊されたという。個々の彼の名前を不朽にした2冊の名著が誕生したのである。10年以上かかってなお完成しなかった政治体制論は「社会契約論」に変身した。これがルソーの思想の到達点であることは間違いない。「不平等起源論」ではルソーは、自由で平等な孤立人である自然状態を構想し、この原始自然状態から社会状態に移行すると、財産の不平等が起き私有財産が生まれたとした。現状の社会がいかに矛盾に満ちた救いがたいものであるかを描いたのだ。鋭い社会批判となるのは当然であった。これに対して「政治経済論」は政治の問題を取り上げ、「社会契約論」で論じる理論のすべてはこの「政治経済論」に含まれていた。しかし「政治経済論」では政治体制または国家組織論としては未完成であった。主権在民の非拘束性、絶対性は「社会契約論」で初めて確立された。ルソーが革命的民主主義の国家理論をとなえた初めの人となったのはこの点である。人は生まれた自然状態では自由であるのに、社会状態では奴隷になるのはなぜだろうかという「社会不平等起源論」の問いは、社会契約論において約束することで自由と平等を取り戻すことができるという革命的展開を遂げた。それには個人的な意思ではなく「一般意思」という観点で約束することであるというのが社会契約論のミソである。この人民の一般意思は、絶対的であり、誤まることもない普遍的原理である。主権は他人に譲り渡したり分割したりすることはできない。一般意思の行使が主権であるとする主権の絶対性理論はルソー独自というよりホッブスを引き継いだものであるが、ホッブスが絶対君主でもいいとしたのに対して、ルソーは人民権力の絶対性を主張した。権力の絶対性は無制限ではなく、あくまで共同利益の範囲内である。こうしてルソーが構想した国家は、権力分割の上に立つブルジョワ的な立憲君主制ないしは議会主義的国家ではなく、全人民を主権者とする直接民主制、人民独裁制の国家構想であった。そうすると革命や、人民の抵抗権を理論上正当化するものにならざるを得ない。自然権としての自由と平等を最大限確保できる約束(契約)をする以外に政治体形成のみちは考えられない。社会契約論の流れの中でルソーの著しい特徴は、従来の支配者との服従契約説を全面的に退け、社会契約を主権者たる個々人相互の間の結合解約として捉えたことです。現状の権力と一切の妥協を排して、一般意思が最高の指導者であるということだ。ルソーが直接批判の対象としたのは、百科全書派の政治思想であったといわれる。ルソーは1755年ごろから百科全書派から離れたが、その政治思想は人間の自然状態の自由と平等を認めると同時に、人間尾自然的性質として「社交性」から国家の形成を説くものであった。この契約は主権者(当時の絶対君主制)と人民の間の服従契約として捉えられている。これによって自然権としての人民の財産所有権が保障され、国家統治の基本法が定められたとされる。百科全書派の思想を発展させたのはジョン・ロックの自然法理論であった。ホッブスは自然状態を個人間の敵対関係として、奪われ殺されるよりは絶対権力の下で統治される方がましだと考えた。ルソーはホッブスの主権論を覆して人民主権論に転化したのである。「エミール」と「社会契約論」の出版後のルソーは苦難に陥った。エミールの宗教論が断罪され逮捕状が出された。2つの書物は禁書とされ、スイスからロシアに亡命せざるを得なかった。「社会契約論」はこのような迫害を受け、その上多くの人々に受け入れられなかった。ところが、社会契約論の公刊後27年後(1790年)フランス革命がおこり、革命議会は「エミール」と「社会契約論」を讃えて銅像を建て、ロベスピエールはルソーに革命の栄誉を与えた。

(つづく)