ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 今野真二著 「北原白秋ー言葉の魔術師」 (岩波新書 2017年2月)

2017年11月20日 | 書評
童謡から短歌・詩など様々なジャンルで活躍した白秋の言語空間の秘密 第6回

5) 童謡の世界   「意気なホテルの煙出に けふも粉雪のちりかかり 青い灯が点きや、わが心何時もちらちら泣きいだす」 「白秋小唄集」より

大正7年3月白秋は小田原市お花畑に移転した。7月には鈴木三重吉が主宰する児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊に参画して、児童自由詩を担当した。大正8年「トンボの眼玉」を発刊した。「山火事焼けるな ホウホケキ」で始まる「トンボの眼玉」には、教訓的な、学校唱歌的な、西洋詩集の翻訳歌蝶を批判している。「芸術教育」論においては、児童の言葉と声、すなわち児童による児童のための詩と音楽でなければならないとして、児童自身によって美的淘汰を行わしめるという「児童自由詩運動」になって広がった。「雨」、「赤い鳥小鳥」、「あわて床屋」と言った今日でも残っている唱歌が収められている。白鳥は「トンボの眼玉」と一緒に「白秋小唄集」をアルス社から発刊した。これまで数多く作った詩歌の中から、民謡調の風を帯びた歌いやすいものだけを選んだという。「私の詩風の基調をなす」という民謡は、江戸時代の俚謡にもとずく、江戸趣味といってもいい。「白秋小唄集」の冒頭には「城ヶ島の雨」が置かれている。大正9年、章子と離婚した年に洋館3階建ての家を新築した。白秋に未練があったのか、章子との離婚話を進めた谷崎潤一郎とは交際を断ったと言われる。この辺りの事情については中河与一氏や佐藤春夫氏が小説を書いている。白秋は大正10年佐藤菊子と結婚した。この年に童謡集「兎の電報」、散文集「童心」、歌話集「洗心雑話」、歌集「雀の卵」刊行し、大正11年には歌謡集「日本の笛」を出した。同年1月には斎藤茂吉との互選歌集「白秋茂吉互選歌」、童謡集「祭の笛」、長歌集「観想の秋」、童謡「羊とむじな」を次々とアルス社から出版した。大正12年に詩集「水墨集」、童謡集「花咲爺さん」をアルスから刊行する。この年関東大震災が起り、アルス社は焼失した。大正13年短歌雑誌「日光」を創刊する。同人には前田夕暮、釈迢空(折口信夫)、土岐善麿、木下利玄、古泉千樫らがいた。小唄集「あしの葉」、「白秋童話集」第1巻、「お話・日本の童謡」をアルス社から刊行した。「水墨集」は純粋に詩集として発刊したもので口絵や挿絵、カットの類が一切ない。「水墨集」の冒頭に「詩論」が展開され、「詩の香気、気品、気韻」というキーワードが繰り返され、「詩においては内容即形式であり、このデリカシーを感じ得ない人は詩人ではない」と述べた。大正14年に白秋は随筆集「季節の窓」、童話集「子供の村」をアルス社より刊行した。8月に樺太観光団に加わり、この旅行記を「フレップ・フリップ」として寄稿した。「心は安く、気はかろし、揺れ揺れ、帆綱よ、空高く・・・」という浮き浮きした文体で綴られていた。樺太旅行から帰って大正15年(昭和元年)に小田原の生活を終えて、東京谷中天王寺に居を構えた。童謡集「二重虹」、「からたちの花」、随筆集「風景は動く」、童話集「象の子」を刊行し、芸術雑誌「近代風景」を創刊した。ここから都会生活、東京の風景を描く時代になった。

(つづく)



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