ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

河村官房長官 あなたは政府のスポークスマンでしょう

2009年04月23日 | 時事問題
朝日新聞 2009年4月23日1時0分
「公明党から警告」官房長官発言、与野党に困惑と反発
 衆院選の時期の決定をめぐり河村官房長官が22日、7月12日投開票の東京都議選との近接を避けたい公明党の意向に配慮する姿勢を示したことに対し、与野党から戸惑いと反発が相次いだ。
 河村長官は22日の講演で「公明党からは『7月の都議選の時に解散すれば自民党を応援する暇がない』と警告をいただいている。公明党がそう言うのだから無視はできないだろう」と発言した。

解散時期をちらつかせるのは自民党の野党への消耗作戦である。 
衆議院選挙をして自民が2/3をとる事は不可能 負けないにしても、もうねじれ国会では予算と首相しか決まらない。どちらにしても政界の再編は必死!


介護疲れか 父の墓前で自殺 母は横に

2009年04月23日 | 時事問題
朝日新聞 2009年4月23日8時12分
自殺の清水さん 母介護、調査員に「何とかやれてます」
 静岡県の霊園で21日に亡くなっているのが見つかった清水由貴子さん(49)は、歌手や女優時代そのままに周囲に明るさを振りまく一方、妹とともに80代の母親の介護を続けていた。なぜ自ら命を絶ったのか。彼女を知る介護関係者は「自分を追い込んでしまったのでは」と悔やむ。
 清水さんは90年代に東京都武蔵野市に購入した一戸建てに母と妹と住んでいた。  「何とかやれています」。要介護認定のための調査に訪れた調査員に先月、明るい表情で語った。調査員は「お母さんをとても大事にしている印象で、悲観的な様子はうかがえなかった」。

要介護度5では家族だけで面倒を見るのは難しい ヘルパーや施設の利用は? ケアーマネージャのアドバイスは? 母より早く逝く不孝はお許しくださいといったのだろう  とにかくお疲れ様でした。

読書ノート 茂木健一郎著 「欲望する脳」 集英社新書

2009年04月23日 | 書評
今や茂木さんは哲学者 脳から人間存在の本質に迫る 第5回

第5回  個別と普遍
「すべての生物的事実は、進化論の枠組みの中で始めて意味を持つ」という考えは、生物学的事実の関係を変異の偶然性と淘汰という進化の中で考えようということである。「進化心理学」という概念は進化の因果関係を心理学的な言葉で表現している。ちょっと頂けない論だと私は思う。世界は一人ひとりまで分解される「個別化の原理」で、普遍性とはどういう関係にあるのだろうか。弱者には厳しい態度で接するという「タフ・ラブ」といういかにもアングロサクソン系アメリカ人の新保守主義の考えがあるが、反発する人は多い。個々の利益追求が進化の原動力で、普遍的愛なぞくそ食らえということは正しいのだろうか。プラトンは一人ひとりの人間の個別に、普遍が宿るという。普遍の気配が感じられるとはどういうことであろうか。

第6回  現代の野獣たち
「野獣化」は格好いいのか。体制や倫理、知識や論理、価値観などを無視して、自分の欲望を絶対視して行動に走る傾向は、フィードバック機構の外れた脳活動の現われだろうか。経済的行為の結果を金という価値で量る資本主義の論理は、汗水流して稼いだ1万円もワンクリックで稼いだ1万円という価値しかないのである。遺伝子は過程は問わず残る事にすべての価値があると云う論理と同じである。音楽を聴いた感動も、食べ物やセックスの喜びと同じ部位の脳報酬系にある。音楽という回りくどい快楽の迂回路的存在に過ぎないというのか。世界のヒーロは野獣なのだろうか。
(続く)


文藝散歩 戦記文学 「信長公記」 第27回

2009年04月23日 | 書評
信長公記 卷15(天正10年 1582年 最後の年)  その2

 2月1日信州の木曽義政と苗木又兵衛が武田方から信長方に寝返ったので、信忠卿は人質をとって菅屋に預けた。2月2日武田勝頼は木曽謀反を知って兵をあげ、新府の館から諏訪上原に移動した。2月3日信長公は武田包囲の陣営を決め、家康は駿河より、北条は関東より、金森を飛騨より、信長と信忠は伊那より攻めることになった。武田勢は伊那口に要害を構えた。2月9日信長公は信濃へ出陣する時、大和の筒井順慶・三好・池田・中川・多田・惟任日向を出陣させる命を出して、あとの守りを指示した。10日信忠卿は岐阜土田に陣を取った。2月14日信州松尾城の小笠原掃部が信長公方に寝返ったので、団平八・盛勝蔵らは木曽峠を越えた。14日武田方飯田城の星名弾正・ばんざいは高遠城へ逃げ込んだ。2月16日武田方の今福筑前が鳥居峠に兵を出したところ、木曽と苗木らと織田源太が戦ってこれを討ち取り、鳥居峠を占拠した。三位信忠卿は飯田に陣を取って大島上を攻め、武田方の日向玄徳は城を捨てて逃亡したので、飯島へ兵を進めた。2月25日駿河江尻城の武田の重臣穴山玄蕃が寝返って信長公方についた。28日これに動揺した武田勝頼は諏訪上原を引き払いもとの新府館に移動した。3月1日三位中将信忠卿は飯島から移動して、2日仁科五郎が守る高遠城を攻め、400の首を取る勝利となった。3月3日信忠卿は新府館へ攻め入り新府を焼いた。武田勝頼勢は散々に逃亡し、勝頼一人小諸へ逃げ込んだ。3月7日信忠卿は甲府へ移動して武田一門の残党を征伐した。木曽口のふかし城を守っていた馬場美濃守も降参した。家康公は穴山玄蕃を案内者として駿河河内口から甲府へ乱入した。信長公は3月5日岐阜から犬山へ、9日金山へ、10日高野へ、11日岩村と兵を進めた。そして3月11日こがつ山の田子において、武田勝頼一族侍41名と女50名は自害しここに武田家は滅亡した。3月13日飯田において勝頼の首は滝川左近から信長公へ渡され、検分。3月16日武田の親族である典廐も小諸で討ち死に。勝頼親子、武田典廐、仁科五郎の四人の首は都で獄門の懸けるべく搬送された。ここに武田家滅亡を記す記事が名文なので記載する。「国主に生まるる人は、他国を奪取らんと欲するによって、人数を殺す事常の習いなり。信虎より信玄、信玄より勝頼まで三代、人を殺す事数千人という員を知らず。世間の盛衰、時節の転変ふせぐべくもあらず。闇より闇道に迷い、苦より苦に沈む。ああ哀れなる勝頼哉」勝頼親子、武田典廐、仁科五郎の四人の首は都で獄門の懸けるべく搬送された。
(続く)