ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

北朝鮮キムジョンイルの軍事独裁体制

2009年04月11日 | 時事問題
朝日新聞 2009年4月11日4時58分
国防委に金総書記の側近ぞくぞく 北朝鮮最高人民会議
 【ソウル=箱田哲也】9日開かれた北朝鮮の国会にあたる第12期最高人民会議で、国防委員会の委員に「特別な存在」とされる金正日(キム・ジョンイル)総書記の義弟、張成沢(チャン・ソンテク)氏が初めて選ばれ、委員数も4人から倍増した。いずれも金総書記側近の実力者で、国防委は北朝鮮の動向を決める上でこれまで以上に中心的な役割を果たすとみられている。

「先軍体制」とは

 北朝鮮の体制の特徴は首領唯一支配体制である。先軍体制になっていまや朝鮮労働党の立場も薄くなった。党中央委員会も1993年以来開かれていない。キム・ジョンイルの官僚政策は、忠誠心が強い者の中から実力のある者を選んで、体制や政権に反抗しない限り一生地位と生活を保障するものである。したがって、現在の北朝鮮にはいかなる政治勢力も存在しない。キム・ジョンイルと仲間達というグループしか生存を許されていないのだ。北朝鮮が体制を維持できるかどうかは、キム・ジョンイルの組織掌握力一つにかかっている。支配力は粛清というムチと地位と食糧というアメに頼っている。キム・イルソンが主唱した「主体思想」は骨董品となって、1990年代の危機的状況から生まれたのがキム・ジョンイルの「先軍思想」(思想というほどのものではないが)である。1995年ごろからいわれるようになった先軍政治とは「軍事先行の原則により、革命と建設から生じるすべての問題を解決し、軍隊を革命の柱として社会主義事業を推し進める政治である」と。ようするに、軍隊方式の「命令の貫徹精神」高揚運動であり、絶対忠誠と犠牲を要求する支配者に都合のいいデマゴーグである。党もいらない、政治化された軍隊のみが体制を守るという親衛隊方式である。この方式の欠点は、カリスマの映像が墜ちた時と死んだ時であるが、後継者を血の論理に頼っていては社会主義も驚く「皇帝制」である。いまさら馬鹿馬鹿しくて論議にもならない。


大盤振る舞いの借金は次世代へ先送り

2009年04月11日 | 時事問題
朝日新聞 2009年4月11日7時54分
いいのかな 国債44兆円、税収上回るかも 戦後初 
 与謝野財務相は10日の記者会見で、09年度補正予算案で「10兆円を超える国債を追加発行することになる」と明言した。当初予算の新規国債発行額約33兆円と合わせ、今年度の発行額は44兆円を超えそうだ。税収見通し(46.1兆円)は景気後退に伴う法人税の減少などで大幅に減り、戦後初めて国債発行額が税収を上回る可能性が高い。

不況対策なのか、自民党救済策なのか 不況はいずれ収まる。愚民策に終始する大盤振る舞いのツケは重い。麻生バカ殿と与謝野財無相の罪は重い 麻生とキム・ジョンイルの醜悪な顔をテレビで見ると嫌な気がする。

読書ノート 古田隆彦著 「日本人はどこまで減るか」 幻冬舎新書

2009年04月11日 | 書評
人口減少社会のパラダイムシフト 日本の人口の反転は可能か 第2回

序(2)
 著者古田隆彦氏の略歴を記す。1939年生まれ。名古屋大学法学部卒業、新日本製鉄を経て社会工学研究所、現代社会研究所長、青森大学社会学部教授だそうである。現代社会工学研究所というのは、公的機関ではなく、古田隆彦氏(応用社会学者・青森大学教授)の個人的シンクタンクです。専門は応用社会学、消費社会学、人口社会学、未来社会学である。最近の著書では 「人口減少逆転ビジネス」日本経営合理化協会(2005年6月刊)、「人口減少社会のマーケティング」 生産性出版(2003年7月刊) がある。「人口減少 日本はこう変わる」PHP研究所、「凝縮社会をどう生きるか」NHKブックス、「人口波動で未来を読む」日本経済新聞社などがある。

 日本人口は2004年末、1億2760万人でピークを超えた。これは厚生労働省のピーク予測2007年より3年早かった。100年後には日本人口は4000万人を切ると予測されている。とすれば暫くは(恐らく30年間)人口減少は避けようがない。この事態を受けて政・財・官・マスメディアは次のような見解を公表してしている。誤った見解や見解の相違があるがまとめると次の9項目であろうか。
①少子高齢化で人口が減った。
②出生率が上がれば、子供の数は増える。
③年金保険料を負担する世代が減って、年金制度が崩壊する。
④労働力が減ってGDPが低下する。
⑤消費者人口が減って消費市場が縮小する。
⑥GDPが伸びないから個人所得も伸びない。
⑦少子化の原因は結婚・出産形態の変化である。
⑧少子化対策で人口は回復できる。
⑨日本人は900年後滅亡する。
人口は出生数ー死亡数±移動数であるので、現在は出生数が死亡数より少なくなったということである(移動数は取るに足らない)。出生数は出産適齢女性人口(15歳-49歳)に合計特殊出産率をかけた数値である。いくら出産環境を整えても肝心の出産適齢女性が減少しているのだから容易ではない。出生率低下の原因には文化的時代的配慮が働いて、結婚が遅れ子供を生まない、一人しか生まない人が多くなっていることだ。これを心理的に説明することはできるが、本書は生物的言語を使って人口容量という「キャリング・キャパシティ」で説明する。人口容量が狭くなったと感じて日本人は人口抑制段階に入ったのである。「人口容量」はその時代の「富の総体」を人間一人の「棲息水準(生活水準)」で割った値であるという。したがって人口が減り続けると、逆に棲息水準(生活レベル)は高くなる。つまり余裕が出てくるのである。したがって21世紀後半あたりから、ふたたび人口は増加に転じるのではないかという推測も成り立つ。それともよりよい生活水準の確保のため、子供を生まない傾向は続くかもしれない。適正な日本の人口はいかほどかは見解によって大きく異なるし、これを誘導する事も不可能であろう。欧州並みに4000-7000万人で落ち着くかもしれない。過密列島日本を住みよくしたいという人も多い。さてどうなるか、上に挙げた世の中の人口減少社会に対する見解に一つずつ答えてゆく本書にしたがって考えてゆこう。
(続く)


文藝散歩 戦記文学 「信長公記」 第15回

2009年04月11日 | 書評
信長公記 卷8(天正3年 1575年)

 国々に道路を作る命を出し、坂井・高野・篠岡・山田を御奉行とした。3月2日信長上洛、相国寺に寄宿。4月1日、禁中の修理は終了したが公家方の困窮は目に余ったので、村井・丹羽を奉行として公家への徳政令、本領還附を行わしめた。4月6日信長大阪へ出兵し、高屋にこもる三好笑岩を攻め、十万の兵で天王寺に陣を置いた。三好笑岩は降参したので4月21日信長は都に戻り同28日に岐阜へ帰国した。5月13日信長は三河長篠の高松山に三万の軍をおいて、武田勝頼軍1万5千と対峙した。武田騎馬軍に対しては馬防の柵を設け、鉄砲千挺で戦った。武田軍は崩れて鳳来寺へ向け撤退した。敵一万人の兵を討ち取りここに甲斐・信濃の雄武田家を滅ぼした。徳川家康は三河と遠州を得た。

 6月26日信長入洛。7月3日禁中で誠仁親王らの蹴鞠の儀を見学した。同日信長は官位を進めることを断り、部下には官位の授与があった。7月12日瀬田の橋の改修を開始した。8月12日越州加賀一揆鎮圧のため3万の兵を敦賀に派遣した。越州・賀州の一万2千人を切り捨てた。信長は一万余騎で府中竜門寺を攻め、下間一族の首を取り、生け捕りした数は3,4万人にも及んだと云う。ここに越州の平定は終了し、越前に柴田修理、敦賀に明智日向守、丹後に一色殿、丹波に細川を入れた。9月越前国には掟を出して領国経営の指針を柴田修理に与えた。

 10月12日信長入洛、二条妙覚寺に寄宿。10月28日、二条妙覚寺にて京と堺の茶人を集めて茶会を催す。11月4日信長に官位が授与され、大納言、「右大将」を拝任した。11月14日、武田の残党武田四郎が岩村に攻め入ったので、信長子息織田菅九郎が制圧に出兵し、11月21日残党を悉く切り殺した。この功績で織田菅九郎は秋田城介に任じられ、11月28日信長は家督を秋田城介に譲った。
(続く)