ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月22日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第12回

第5部 ではどうしたらよいのかー私の9条強化策(その2)

 戦後の国際組織「国連」には3つの使命がありました。
①平和維持の国際組織、
②戦勝国連合をそのまま国連の中核に置く事、
③原爆の国際管理組織の設立です。
1946年国連原子力委員会の設置を決めましたが、米ソの対立のまま冷戦が始まり機能停止に陥りました。1955年アインシュタインら科学者側から世界連邦運動が起きますが、その絶対平和主義は現実の政治を動かすには至りませんでした。米国主導によって1957年国際原子力機関IAEAの設立、次に1970年核拡散防止条約NPTの締結(62か国)がなされました。核兵器の廃棄を最終目的とする初の国際条約でしたが、1967年1月1日時点で核保有国と非核保有国に分け、核保有国には核兵器の譲渡禁止と核軍縮の履行を義務付け、非核保有国には核兵器の製造と取引を禁止しIAEAの保障受けながら核の平和利用を認めるというもので、国連安全保障会議常任理事国5か国(米英仏ソ中)が核兵器所有国であったなど、問題含みの条約でした。理由の一つは敗戦国である日本・ドイツの経済力をもってしては核兵器所有は容易なことでありそれを防止することが目的でした。日本では1967年佐藤首相が非核三原則(製造せず、保有せず、持ち込まない)を明言します。米国の核の傘が有効であることを確認して1970年にNPTに加盟しました。つまり日本ではNPTと非核三原則は表裏一体の関係にあったわけです。2013年8月NTP委員会提出の「核兵器の非人道性を訴える共同声明」には日本政府は米国と歩調を合わせて署名しなかった。何故なら日本政府の立場は核保有による核抑止政策の上の立つものであったからです。核の有効性を認めながら、核兵器を非難することはできないという理由です。2011年の東電福島原発事故のあと、2012年ドーアが「日本の転換」と題する書物を著し、新しい核国際管理案を提案します。2009年4月オバマ大統領はプラハ演説で「核のない世界をめざす」と述べました。核のない世界とはどのようなものであるかは不明ですが、反核活動家ジョナサン・シェルの著書「核廃絶」によると、1980年代の米ソ戦略核兵器削減交渉(START)では、核兵器ゼロとは米ソがいつでも核兵器を再製造し再武装できる態勢を持ちながら核兵器保有をゼロすることでした。ところが今や核保有国は9か国になり、シェルが考えた限定された5大国の約束では収拾がつかない状態です。他方非核国が目指している核廃絶のロードマップも核保有国のそれと変わりません。スウェーデン政府案や科学者側のキャンベル会議の提案、そして反核NGOのロードマップなどがありました。核エネルギーというパンドラの箱は開かれてしまいました。「核のない世界」の戻ることは不可能です。ドーアは「核兵器のない世界」から「核兵器行使のない世界」を実現するために、核抑止力を無効にするという考えを示しました。逆転の発想で核拡散防止ではなく、核拡散の平等化によって通常兵器化することです。それで本当に人類が滅亡するかどうかは賭けになります。日本の科学者(核物理学者)の湯川秀樹氏、豊田利幸氏らは「核抑止力」を否定し、核絶対悪論(核違法論)を取りますが、ゼロに向かう削減過程で、核抑止論のバランスを利用することは否めません。この移行過程における国連の管理は永久に続くかもしれません。ドーアの、現在の核拡散防止条約に代わる新しい国連を中心とした核兵器管理体制について述べてゆきましょう。アインシュタインらは核を廃絶することができないなら、戦争を廃絶するしかにと考えました。冷戦後の「核兵器の国際管理」は核抑止論に立っています。抑止論は核を相手に使わせないために自分も持つという考え方です。すると核兵器をなくするためには全員で核を持たなければならないという逆立ちした論理が生まれることは先に示しました。あきらかに核抑止論は内部矛盾を持っています。米国を始めとした核兵器所有国は、NPTを一層徹底的に管理することで、自分たちの核独占の下で平和を維持しようという考えです。ドーアはNPTにはもはや期待できないといいます。ドーアは米国のケネス・ウオルツの、中東平和のためにはイスラエルが核を独占する現体制は危険であり、イランも核を持たなければ安定しないという論を採用します。またケネス・ウオルツは「広島・長崎以来、核兵器が使用されていないのは、核兵器は事実上使えない兵器だからだ」という仮説に立っています。つまり究極の核抑止論です。そしてここからドーアは米ソ冷戦時代の「相互確認破壊MAD」の普遍化を主張します。米ソは核先制攻撃を始めても「報復の確実性」によってどちらも灰燼に帰すことは承知していました。ドーアは「外国からの攻撃を抑止してくれる報復の確実性を、現在の核保有国及びその同盟国ばかりでなく、世界のあらゆる国に与えることにある」と言明します。大国中心の核の傘による「核不拡散」ではなく、「核拡散」による一本化された核国際管理という提案です。その骨子は、
①新システムの加盟国は、核保有国または被保護国のいずれを選択する、
②核保有国は求めに応じて被保護国に核の傘を提供する、
③被保護国は三カ国の核保有国と「代行確証復讐条約」を結ぶ、
④「代行確証復讐関係」が結べない国にはl国連が斡旋する、
⑤IAEAの検査権を強化するというものです。
米ソ2か国が「代行確証復讐条約」に選ばれ、あと一国は中国や英仏となるでしょう。これは抑止力による「核全廃論」です。著者は原子力の平和利用は軍事利用と分かち難く結びついてきたという。使用済み核燃料サイクルはプルトニウム備蓄策に過ぎず極めて危険である。日本では「プルトニウム抑止力」ということさえ言われています。したがって現行のNPT核技術抑止政策を放棄し、核燃料サイクル政策を停止し、高速増殖炉の閉鎖・廃炉、現存のプルトニウムをすべてIAEAの国際管理に移管することが必要です。ここで憲法9条と非核政策の関係ですが、日本政府はかって行ったアジア諸国への侵略という過ちについて、アジア諸国にしっかりと謝罪して、日本政府は原爆投下という誰の目から見ても非人道的な行為について、米国政府に抗議し、謝罪を要求しなければなりません。ここで何も反米の立場に立つことはありません、日米社会の友好信頼関係に基づいて行うことです。

(つづく)
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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月21日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第11回

第5部 ではどうしたらよいのかー私の9条強化策(その1)

 第6部では憲法9条を強化するため、
①国連中心主義を貫く事、
②核の廃絶に向けて憲法に非核条項を入れる事、
③対米独立のため憲法に基地撤廃条項を入れる事、
の3つの案について検討します。
1945年8月9日の最高戦争指導者会議及び同夜の御前会議において、ポツダム宣言受諾が決定されたのですが、誰も占領期間や外国軍の撤退時期については明確な降伏条件とはならずに、「皇室の安泰」だけを条件とすることになった。近代国家間の戦争では植民地化はあり得ないので、占領はそれほど長引かないというのが一般的でした。再び日本が完全な独立国家に戻ることは誰の眼にも当然と見なされたのです。ところが連合軍の占領は1951年のサンフランシスコ講和条約後に終わりましたが、同時に日米安全保障条約が発足し米軍はそのまま日本に駐留し(特に沖縄に)、外国人基地は常態化し戦後70年も続くとは誰一人予測できた人はいませんでした。それは東西冷戦によって米国の日本占領目的が民主化・非軍事化から大共産主義戦略に重点を置いた日本再建にシフトしたからです。1949年吉田首相はソ連を除く片面康和の実現と平和条約締結後の米軍駐留の継続希望を表明しました。これに対して南原茂東大総長は全面講和論を述べ、また安部能成、和辻哲郎、高木八尺、矢内原忠雄、都留重人、桑原武男、丸山眞男、久野収らリベラリストは「平和問題談話会」によって全面講和を主張しました。あわせていかなる国にも軍事基地を与えることに絶対反対し、国連中心主義による対米独立の考えを表明しました。革新側の反対は60年代初頭まで各地で基地反対闘争と訴訟が展開されました。1955年に保守合同がなされ、自民党保守派から吉田体制への反対がおこります。鳩山一郎の自主外交、岸信介のタカ派からの安保条約改正論が巻き起こりますが、吉田路線を対米従属度が過ぎるとして、ほぼ国家主義ナショナリズムによる反対でした。著者は憲法9条に関しては「平和問題談話会」声明に強い共感を示しています。その理由は対米独立についてはナショナリズムに立脚していては成功はおぼつかないことです。それは反米に結び付き、国際秩序から離反し孤立する恐れがあるからです。国際主義に徹すること、そのために国連中心主義を選ぶという点にあります。これが米国と敵対関係に入ることなしに米国から独立し、友好関係に移行する唯一無二の方法だからです。憲法9条がこの国際主義の最重要根拠になるからです。自衛権を含む戦争の放棄案はいわば国連と一体化するほかに生きる道はありません。
ここに憲法9条の戦争放棄条項に関して3つの方向が考えられます。
①スイスのような局外中立策
②対米従属策
③国連中心主義による平和主義
ですが、自民党は②を選択し、革新陣営の③は政党の支持が得られず消滅しました。しかしなお著者は第3の道に活路を見出そうとします。国連中心外交に関して著者はロナルド・ドーアの著作に影響を受けたといいます。それは1993年の「こうしようと言える日本」という本です。冷戦が終わった時点で、日本のとるべき世界戦略を提言しています。今こそ日本は国連の平和構築の理想を実現すべく、過去の挫折を経験にして国連改革の中心的存在になって世界に貢献すべきだと語ります。ドーアが根拠とするのは憲法9条と国際連合の初期の理想追及の行為にあります。国連憲章第43条を実行に移す際の軍事行動から見た基本原則です。国連常備軍を持つことの可能性検討を行った軍事参謀委員会の構想を思い出すべきだということです。1989年に石原慎太郎による「NOと言える日本」の反動性にあきれ果て、ドーアは日本に名誉回復のプライドをもって今こそ国連中心主義をとるべきだとはっぱを掛けました。著者は対米独立のためには日米同盟から国連中心主義への転換が唯一の方法になると主張します。ドーアは憲法前文にある「平和を維持しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」から日本人の誇りを大切にします。著者は2012年2月以降の自民党政権の徹底した対米従属主義の外装の下での復古型国家主義的な政策は、きっと日本を誤った方向へ導くという信念のもとにこれを阻止したいという意気込みで本書を書いたという。ドーアの「こうしようと言える日本」が書かれた1993年以降の20年間は「失われた20年」と言われる経済成長の鈍化とデフレの進行に悩まされた(今も同じ)時代でした。閉塞した社会に活路を求める市民の感情を捉えて安倍内閣は今も支持率が反支持率を上回っています(2015年夏以降安保法制整備法案、アベノミクスの成果?を見て現在は不支持率が高まり、支持率と拮抗しています)。この政権が表向きは対米協調(従属)を基調としながら、その実、復古的で国家主義的政策によって、「美しい日本を取り戻す」という意味不明の言葉で日本人の誇りを刺激してきたことによります。今安倍政権の別動隊として幅を利かせている「日本会議」は国会議員の右翼化の精神的支柱となっています。そこでは民族差別、ヘイトスピーチ、大東亜共栄圏、歴史修正主義、平和憲法を放棄する憲法改悪などが大手を振って横行しています。まるで日本帝国が再興した感があります。庶民の感覚からは遊離して、昭和維新の軍将校のように威張っています。このような時代錯誤的集団を放置していては、日本の国際的孤立化は免れません。安倍政権はかってな憲法解釈で集団的自衛権容認の閣議決定を行い、なりふり構わない米国へのすり寄りで政権基盤を強化しています。しかしこの露骨な対米従属路線は、そもそも「日本会議」の対米独立の復古型国家主義と両立しません。いずれ安倍政権は自己崩壊を遂げるでしょう。ドーアは憲法9条の改正案を次のように示しています。
「日本が保持する陸海空軍その他の戦力は次の目的外にはこれを発動しない。
①国境に侵入するものに対する防衛
②国内外の災害救援
③国連雄平和維持活動と、国連憲章第7条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加」 
これに対して著者は憲法9条改定の試案を次のように示します。戦争放棄と日本は軍隊を持たないことを基本とします。そのために自衛隊の組織を他国の軍隊と連携作戦行動をとる軍事組織(国際聯合待機軍として国連の直接指揮下におく)と、国の防衛と国内・国際災害救助に当たる国土防衛隊に再編する。そして国民に向けた治安出動を禁じる。国の交戦権は国連に委譲する。

(つづく)

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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月20日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論  第10回

第4部 戦後日本の構造 (その2)

 日本の戦後社会を規定したものは、親米・軽武装・経済中心主義の吉田ドクトリン(55体制)でした。GHQの憲法草案をもとに憲法を制定しなければならなかった幣原喜重郎及び吉田茂内閣は、非武装平和主義を掲げざるを得ませんでした。ある意味では面従腹背路線でしたが、憲法9条が国民の支持を得るようなることを見た吉田首相は、これを自分の政策に取り込み経済優先・軽武装の路線を重視し、東西冷戦下米国の再軍備要請に答えられない口実に使いました。ダレスが日本再軍備と軍事費の分担を要請すると、吉田は憲法9条を盾にこれを拒みました。吉田は護憲勢力としての社会党と組んで、憲法9条が対米抑止力として機能したのです。講和条約終結後吉田内閣は退陣しますが、後を継いだ自民党保守派の政策が、自主憲法制定・対米自立・どこか古い日本の再建を目指しますが、戦後のねじれの自覚に乏しく効を奏しません。平和憲法を利用して経済優先・軽武装の路線の経済ナショナリズムが吉田ドクトリンの後継者に受け継がれ、日本を高度経済成長に乗せました。こうして日本は建前と実質という2枚舌路線(ねじれ)を国是としました。これを55体制といいます。これに野党(特に社会党)が呼応したことは明白です。このことは伊藤博文が確立した明治時代の建前である絶対天皇制(顕教)、実質権力の立憲君主制(密教)という2枚舌路線と同じ構造です。昭和に入って軍部が明治国家システムを破壊してしまうのです。吉田が作り、池田、佐藤の政権担当者を通じてできた政治システムは明治時代の顕教・密教システムに酷似しています。吉田はちょっとまやかしであることは分っていたのですが、戦後の急激な変化に国民がついてゆけないことを見越して緩衝材として発明した政治システムです。建前(顕教)とは、日本と米国はよきパートナーで、日本は三条件降伏によって戦前とは違う価値体系の上に立ち、憲法9条の平和主義を信奉しているという政治システム、本音(密教)とは、日本は米国の従属下にあり。戦前と戦後の支配者は継続しており、しかも憲法9条の下で自衛隊と米軍基地(米軍基地は沖縄に集中させ、本土国民には見えにくくさせている)をおく政治システムを意味している。こうして軍事的負担を最小限にして、もっぱら経済大国化をめざすのです。対米従属からくる政治的ストレスを経済大国化による自尊心の醸成によって緩和するという狙いでした。1960-1972年の高度経済成長を可能にした最大の要件が、憲法9条でした。すぐ折れやすいタカ派的ナショナリズムに比べて、吉田ドクトリンはなんという粘り腰、したたかな戦略だったことだろうか。しかし吉田路線・保守本流は自民党綱領(対米独立・憲法改正)に反しています。江藤淳が指摘したように「ナショナリズムを実現するには米国の撤退を求めなければならず、安全保障のためには米国の核の傘の下に居なければならない」という二律背反があります。アメリカを怒らさせないで退場を願うのはかなりの高等戦術が必要です。怒らせてしまうとたとえ独立できても米国との友好関係はなくなり、安全保障は期待できません。現在日本が対米従属の下にあり、政治的自由を持っていないことは明白です。吉田ドクトリンが有効なのは、経済成長が順調であり、そして平和主義が社会を安定させていることが必要です。この経済優先システムの魔法が解ければ、すぐにでも対米従属という現実が露出してきます。このことを最初に明らかにしたのは、政治学者高坂正尭でした。日本の経済成長が日米間の経済摩擦を引き起こし、1970年代以降日本経済が米国を脅かし始めると、「対米従属」という対立点が顕在化しました。江藤淳が1978年に「日本は無条件降伏などしていない」と主張するのはこの時期です。1982年中曽根康弘が総理になり「戦後政治の総決算」をさけび、2000年小泉首相が「自民党をぶっ潰す」と吼え、2006年安倍第1次内閣、2012年第2次安倍内閣が「アンシャンレジームから日本を取り戻す」を政治スローガンとするのは、新自由主義の主張というよりこの「ねじれ」に自民党タカ派による解決策を求める主張にっほかありません。吉田ドクトリンは政治の相対における「政経分離」にあります。主権回復という政治課題を封印し先送りすることで、高度経済成長を優先し社会の安定と繁栄を実現しました。政治システムのねじれの起源は、実は自民党の保守合同劇の中に内蔵されていました。自民党タカ派(岸、安倍、中曽根ら)は、政治主体が戦前と戦後のつながりの上に「安保条約」があることに我慢がならないのです。戦前の誤りを認めることに後ろ向きで、いまだに敗北に向き合わないのです。そういう意味では自民党ハト派(保守本流 2000年以降は影もなくなりましたが)はタカ派と袂を分かち、分党し、しっかり戦前の価値の否定と戦後の平和・民主原則の価値の提言に踏みこむべきでした。野党(社会党)の急速な退潮は国民意識の変化とも密接に関係していました。それは1990年代以降のバブル崩壊からデフレという「失われた20年」の進行の下、経済成長が止まり追い風が無くなって失速した社会の構造改革(改革はいつもいいとは限らない)によって、格差の助長、社会保障や社会システムの後退、グローバル企業の海外移転にょる労働環境の悪化という激烈な変化によって国民の意識が閉塞感を強くしたためです。自民党内の穏健親米派、良識派、ハト派の解体が始まり、「加藤の乱」の挫折が決定的に自民党タカ派(小泉・安倍・福田・麻生)の時代到来となりました。高度経済成長を背景とした吉田ドクトリン(日米安保、経済大国、平和主義)はすっかり消えてしまいました。1960年以来の対米従属の姿が露見することになったのです。

(つづく)
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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月19日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論 第9回

第4部 戦後日本の構造 (その1)

 日本国憲法の格調高い前文には1941年8月の大西洋憲章、1942年1月の連合国共同宣言、1943年10月のモスクワ宣言、1944年10月のダンバートン・オークス提案、1945年6月の国連憲章と続いてきた「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想の実現を目指す」第1次世界大戦以来の国際社会の平和理念の流れが結晶しています。そして憲法9条に戦争の放棄がうたわれました。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国産紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」 新憲法の策定を指示された1945年10月の時点では日米の認識には大きな隔たりがった。GHQは東久米内閣副総理近衛文麿(国務相松本烝治委員会)と幣原喜重郎首相に指示を与え、日本政府として2本立ての検討が始まりました。いずれの案も、日本の非武装、戦争放棄などは一顧だにしていませんでした。この状態を察したGHQは急きょ自分で草案の準備にかかりました。1946年2月末に予定されるソ連を含む極東委員会の前に憲法草案を作るべく、2月12日に完成させ13日に日本政府に開示された。2月3日に作業チームに示したマッカーサーの指示書は3項目からなっていました。①国民と憲法の下での天皇制の維持、②戦争の放棄、③封建制の廃止です。日本側の見込み違いは③の戦争の放棄に在りました。マッカーサーは戦争の放棄に関して「紛争解決の手段としての戦争の放棄のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する。防衛と保全はいま世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」と考えていました。つまり進行しつつあった国連構想に合体させて日本の防衛を任せる考えです。2月13日のGHQ憲法草案の日本政府への開示検討時間は15分でした。これは大西洋憲章の最期の項目に述べられているように、侵略を試みた国(枢軸国)は、一般的安全保障制度(国連安全保障)が確立されるまでこれらの国に対する武装解除(非軍事化)は欠くことができないということです。1946年1月にうぶ声をあげた国連は、多くの難題を前にしていました。安全保障理事会が国連の共同軍事行動を検討し、原子力委員会の設置が決まったばかりでした。この意義を理解したのは当時の日本では、東洋経済新聞主筆の石橋湛山氏一人でした。憲法草案は日本政府の憲法改正草案要綱として1946年3月6日に公表されました。4月17日国民に憲法改正案が提示されました。世論調査では賛成70%、反対28%という戦争放棄条項への圧倒的支持が得られた。この戦争放棄を支持した勢力は、①GHQ、マッカーサーらの占領軍、②敗戦国日本の指導層の保革ニ様の考え(自衛権だけは否定されていないだろう)、③世界で唯一の戦争放棄条項を含む自衛権の放棄を全面的に支持する絶対平和主義知識人層であった。この憲法9条への支持はその後、安保闘争を経た60年代以降、いわゆる「護憲論」の形成母体になった。憲法制定後10年ほどは再軍備・軍隊保有のための憲法改正の賛否を巡って、世論は二つに割れました。この状況が変わったのは、1955年11月の保守合同で自民党が党綱領に憲法改正を掲げると、護憲勢力(9条改正反対)が多数を占める様になりました。憲法9条を支えた勢力の内、GHQの考えが冷戦のために急速に変質しました。1947年トルーマンドクトリン発表、1949年中華人民共和国の成立、1950年朝鮮戦争と続いたため、GHQは日本の再軍備へとかじを切りました。日本政府の保守層がこの流れに同調しましたが、対米従属派だった吉田茂の路線(吉田ドクトリン)が再び主流となり、国民の戦争体験にねざす平和主義を組み込むことで、安定した戦後政治の正統的経済優先ナショナリズム路線(保守本流)をつくりあげました。自主外交を目指す鳩山一郎氏、対米対等を目指す岸信介氏らの路線は、岸氏の強引な非民主的手法が60年安保で破綻し、吉田・池田・佐藤の路線が国民の支持を得て憲法擁護の流れも取り組んで、安定な保守本流の55体制をつくりあげました。それが高度経済成長路線に乗って豊かな国民生活の向上になりました。

(続く)
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読書ノート 加藤典洋著 「戦後入門」 (ちくま新書2015年10月)

2017年06月18日 | 書評
安倍首相の復古的国家主義の矛盾を批判し、対米従属と憲法9条の板挟みであえぐ日本の戦後を終わらせる試論  第8回

第3部 原子爆弾と戦後の起源(その3)

 原爆投下に対する批判は孤立した戦いでした。1955年に始まる原爆訴訟(下田判決)です。1963年東京地裁で結審しました。原告側は米国の原爆投下は国際法違反と認定し損害賠償を求めましたが、地裁は損害賠償は棄却しましたが原爆投下は国サウ法に違反すると判決しました。日本政府は米国の立場を擁護し弁解に終始しました。本来、国際法違反を訴えることは個人ではなく日本政府がなすべきことです。世界で唯一の国際法違反の判決例となりながら、国内でも国際社会でも孤立しています。日本側の無力と沈黙が支配していたからです。この判決には1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」の平和主義の論理が影響しています。1954年に米国は原爆より3桁殺傷力が大きい「水爆」(原爆+重水素核融合)実験をビキニ環島で行いました。このビキニ水爆実験によるり危険水域外で操業していた第5福竜丸の乗船員が死の灰を受けて死亡しました。ラッセル・アインシュタイン宣言のは11人の科学者が署名し核兵器廃絶に向けて各国の協定を勧告しました。この宣言を支えているのは「世界連邦運動」と異理想主義的な精神です。世界連邦の基本6原則を見ると①全世界加入、②世界連邦への主権一部委譲、③個人を対象、④軍備全廃、世界警察軍、⑤原子力管理、⑥経費は個人負担という理想主義で貫かれていました。1947年に設立された国連が第2次世界大戦の戦勝国連合に過ぎなくなり、東西冷戦の闘争の場でしかなかったことへの失望が現れていますが、世界連邦構想は結局は淡い夢で、幻滅の彼方に消え去りました。原爆慰霊碑も世界連邦運動も現実に世界を動かす力を持っていません。というより当初からそういう権力から逃避しています。1957年イギリスのアスコムが「トルーマンの学位授与」という題で、数理論理学よりラッセル流の絶対的平和主義運動の矛盾を批判しました。論理の展開は長くなるので省略しますが、トルーマンの原爆投下の罪を批判する道徳論理哲学を構成するためには絶対平和主義は無力だということの証明です。戦争、殺人はいかなる場合も悪という論理でこの社会は動いていません。なぜ原爆投下への批判が孤立するのかという問い理由には、現在の戦後の国際秩序が原爆投下を否定しないという合意の上に立っているからです。国連自体が原爆の使用を違法とはしていません。ここで1994年国連総会は「核兵器の使用は国際法上許されるのか、国際司法裁判所ン判断を求める」という決議を可決し、1996年国際司法裁判所は「核兵器の威嚇・使用は国際法特に国際人道法に違反する」という決議を採決しました。しかし「国家存亡がかかる自衛のためには、合法か違法か判断できない」という但し書きが付きました。もしいかなる場合でも核兵器の使用が違法なら、核兵器の国際管理が必要となり、NPT(核拡散防止条約)体制が否定され、国際秩序の基礎が崩壊するからだとしています。「原爆は最終的にはあらゆる非搾取階級と人民から悉く反逆の力を奪った。2,3のスーパー国家の支配者の仲間内の協定で世界を支配するようになろう。我々の社会は古代の奴隷帝国のような恐怖に基づく安定お時代に向かっているのかもしれない。」というジェームス・バーナムの理論があります。そこからでてくる結論は、科学のさらなる進歩によって、原爆程度なら市民が作ろうとすれば誰でも作れる時代になれば、中央集権警察国家は終末を迎えるとジョージ・オーウェルは1945年10月に「あなたと原爆」という本に書いた。原爆が容易に作れないほど高度な科学的秘密からできているからこそ威力があるので、その独占が世界を支配できると当時の米国政府は考えた。その独占体制が戦後の国際秩序を作った。しかし2000年初頭の現在、核兵器を持つ国は米国、英国、フランス、ロシア、中国、イスラエル、スイス、インド、パキスタン、北朝鮮であり、開発中の国はイラン、潜在プルトニウム保有大国日本(核兵器の製造は政治的判断のみのスタンドバイ状態)など核は随分拡散した。そのうち核兵器製造技術のレベルが低下し、半導体の製造技術と同じように核兵器は製造設備さえ導入すれば開発途上国ならどこでも作れる時代は目の前にある。製造する製造しないは政治的見解による。そんな時代になるだろう。ジョージ・オーウェルが言う野蛮状態(自然状態)となり、スーパー国家による奴隷支配よりはましだということになるのか、世界の壊滅になるのかは分からない。国家主体に考える人は国際協調主義の創設を叡智というだろうが、国家ではもう解決は不可能という人は個人主体の絶対平和主義をめざすだろう。小田実は広島の慰霊碑の絶対平和主義を、戦後日本の無条件降伏政策に抵抗しない、疑似的・絶対的平和主義の特徴なのであると言います。絶対平和主義は核兵器に基づく国際秩序にとっては痛くもかゆくもない主張であり、むしろ国際秩序の補完物に過ぎないと見なしています。戦前の国家主義と戦後の国家主義の違いは、戦前の国家主義が天皇が普遍的原理で会ったのに対して、戦後は民主原則が普遍的原理となった。日本には戦前、国際社会で通用する普遍原理というものはなかった。今日、自由と民主主義という普遍原理を共通の原則として社会が構成されています。これは連合国が自分たちの戦争獲得目的とした基礎原理=国家原理としていたものです。この戦後の事実は、普遍原理が個人の体験をくぐらないで手にしたものは、容易に国家原理に吸収されてしまうのです。理念から大義に変質するのです。民主原則を信じていても、イラク戦争に手を貸す(自衛隊を派遣する)ことに何の抵抗も感じていない。これが日本の戦後社会の現実です。

(つづく)
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