享楽王を変えた無冠の王妃
ルイ14世妃 マントノン侯爵 フランソワーズ・ドービニエ
1635~1719/在位せず
もとは愛妾で結婚も極秘に挙げられ、王妃という称号は得られませんでした。
けれども宮廷では妻として振る舞い、時の宰相は王妃として彼女に接していました。
フランソワーズの父コンスタンは貴族ですがユグノーで宰相リシュリューに反旗を掲げたため
一家は1629年からニオールに軟禁されていました。
フランソワーズもその地で生まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/54/f76cd25009001fea17ab34cd42ffe438.jpg)
母ジャンヌは大変信心深く、フランソワーズの敬虔さにも影響していると思いますが
これが…かなりこみいってまして、信心一つとっても大変な時代だったようです。
ユグノーというのは宗教改革派でプロテスタントです。
父方の祖父アグリッパは詩人、プロテスタントの総長で、アンリ4世の親友でした。
しかし母ジャンヌならびに彼女の親族は熱心なカトリックでした。
ジャンヌは後妻ですが、なぜふたりが結婚したかは謎です。
フランソワーズはまず母親によってカトリックの洗礼を受けさせられています。
1639年に軟禁が解かれマルティニークに移り住むとプロテスタントで教育されました。
1647年、フランスへ帰国して父親が亡くなと最愛の伯母で
熱烈なプロテスタント信者ヴィレット夫人に預けられ新教の学校に行かされます。
しかし名づけ親である熱烈なカソリック信者ロシュフーコーに知られると
カトリックの学校に変えられます。(伯母と名づけ親ってどちらが強いんですか?)
いったいどうしろっていうんじゃい
って感じですよね。
どちらを信じたらいいのか子供なら戸惑ってしまいそうです。
フランソワーズも転校は嫌だったようですが、新しい学校で出会った
シスター・セレストを敬愛するようになり、
「言葉では言えないほど愛している、彼女のためなら犠牲になってもいい」
などと言いだします。 子供の信心なんてそんなもの。
いずれにしてもフランソワーズは信心深い女性になりました。
年頃になり社交界に紹介されたフランソワーズはポール・スカロンに出会います。
ふたりは意気投合したようでしたが、彼は25歳年上で酷いリューマチ持ちでした。
誰もがまさか!と思いましたが、フランソワーズは16歳の時に最初の結婚をして
スカロン夫人になりました。
なんでもスカロンは持参金なしでいいと求婚したそうです。
また、作家であるスカロンのサロンには王侯貴族なども集っていたので
華やかな社交界に少し憧れを抱いたのかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/11/6416b569eff0abf866b451a634f64fa8.jpg)
若い頃のマントノン夫人です
その後9年間、フランソワーズはスカロンの妻、看護婦、サロンの女主人として尽くし
スカロンを看取りました。
スカロンの死後もパトロンであったルイ13世妃アンヌはフランソワーズに
年金を与え続けますが、彼女が亡くなると息子ルイ14世は年金を停止します。
一時は侍女となってリスボンに向かおうとしたフランソワーズの窮状を救ったのは
ルイ14世の新しい愛妾モンテスパン候夫人でした。
王を説き伏せてフランソワーズの年金を復活させた彼女は
その後自分の子供の養育係にフランソワーズをとりたてました。
(王の好みじゃないと思ったんだって!ところがそうはいかないの)
フランソワーズは献身的に子供たちを世話しました。
その優しさと働きぶりに感動したルイ14世は(下心もあって)
1678年に彼女にマントノン侯爵の称号と城を与えました。
さすがのルイ14世も年をとったのか、落ち着いた恋愛がしたかったのかもしれません。
フランソワーズに愛妾になるようせまりましたが、彼女は宗教を盾に拒み続けます。
けれど王はあきらめません。戦術を変えます。
時間があれば彼女を訪ねて政治や経済について議論を交わすようになりました。
この間のモンテスパン夫人の嫉妬はすごかったそうです。
フランソワーズがとうとう熱意に負けて愛妾になったのは1680年です。
モンテスパン夫人は宮廷を去り、ないがしろにされてきた王妃マリー・テレーズは
今までにないほど手厚く扱われ、フランソワーズに看取られて亡くなりました。
王はすっかり敬虔で質素な人柄になり、ヴェルサイユは様変わりします。
結婚は1685年頃と言われています。
結婚後も王に信頼され政治を助け、良家の貧しい少女たちのために
サン・シール女学校を創設しました。
1715年に王が亡くなると女学校に隠退し4年後に亡くなりましたが
王と同じ墓所には葬られませんでした。
(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版
SONY世界遺産スペシャル)
ルイ14世妃 マントノン侯爵 フランソワーズ・ドービニエ
1635~1719/在位せず
もとは愛妾で結婚も極秘に挙げられ、王妃という称号は得られませんでした。
けれども宮廷では妻として振る舞い、時の宰相は王妃として彼女に接していました。
フランソワーズの父コンスタンは貴族ですがユグノーで宰相リシュリューに反旗を掲げたため
一家は1629年からニオールに軟禁されていました。
フランソワーズもその地で生まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/54/f76cd25009001fea17ab34cd42ffe438.jpg)
母ジャンヌは大変信心深く、フランソワーズの敬虔さにも影響していると思いますが
これが…かなりこみいってまして、信心一つとっても大変な時代だったようです。
ユグノーというのは宗教改革派でプロテスタントです。
父方の祖父アグリッパは詩人、プロテスタントの総長で、アンリ4世の親友でした。
しかし母ジャンヌならびに彼女の親族は熱心なカトリックでした。
ジャンヌは後妻ですが、なぜふたりが結婚したかは謎です。
フランソワーズはまず母親によってカトリックの洗礼を受けさせられています。
1639年に軟禁が解かれマルティニークに移り住むとプロテスタントで教育されました。
1647年、フランスへ帰国して父親が亡くなと最愛の伯母で
熱烈なプロテスタント信者ヴィレット夫人に預けられ新教の学校に行かされます。
しかし名づけ親である熱烈なカソリック信者ロシュフーコーに知られると
カトリックの学校に変えられます。(伯母と名づけ親ってどちらが強いんですか?)
いったいどうしろっていうんじゃい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0158.gif)
どちらを信じたらいいのか子供なら戸惑ってしまいそうです。
フランソワーズも転校は嫌だったようですが、新しい学校で出会った
シスター・セレストを敬愛するようになり、
「言葉では言えないほど愛している、彼女のためなら犠牲になってもいい」
などと言いだします。 子供の信心なんてそんなもの。
いずれにしてもフランソワーズは信心深い女性になりました。
年頃になり社交界に紹介されたフランソワーズはポール・スカロンに出会います。
ふたりは意気投合したようでしたが、彼は25歳年上で酷いリューマチ持ちでした。
誰もがまさか!と思いましたが、フランソワーズは16歳の時に最初の結婚をして
スカロン夫人になりました。
なんでもスカロンは持参金なしでいいと求婚したそうです。
また、作家であるスカロンのサロンには王侯貴族なども集っていたので
華やかな社交界に少し憧れを抱いたのかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/11/6416b569eff0abf866b451a634f64fa8.jpg)
若い頃のマントノン夫人です
その後9年間、フランソワーズはスカロンの妻、看護婦、サロンの女主人として尽くし
スカロンを看取りました。
スカロンの死後もパトロンであったルイ13世妃アンヌはフランソワーズに
年金を与え続けますが、彼女が亡くなると息子ルイ14世は年金を停止します。
一時は侍女となってリスボンに向かおうとしたフランソワーズの窮状を救ったのは
ルイ14世の新しい愛妾モンテスパン候夫人でした。
王を説き伏せてフランソワーズの年金を復活させた彼女は
その後自分の子供の養育係にフランソワーズをとりたてました。
(王の好みじゃないと思ったんだって!ところがそうはいかないの)
フランソワーズは献身的に子供たちを世話しました。
その優しさと働きぶりに感動したルイ14世は(下心もあって)
1678年に彼女にマントノン侯爵の称号と城を与えました。
さすがのルイ14世も年をとったのか、落ち着いた恋愛がしたかったのかもしれません。
フランソワーズに愛妾になるようせまりましたが、彼女は宗教を盾に拒み続けます。
けれど王はあきらめません。戦術を変えます。
時間があれば彼女を訪ねて政治や経済について議論を交わすようになりました。
この間のモンテスパン夫人の嫉妬はすごかったそうです。
フランソワーズがとうとう熱意に負けて愛妾になったのは1680年です。
モンテスパン夫人は宮廷を去り、ないがしろにされてきた王妃マリー・テレーズは
今までにないほど手厚く扱われ、フランソワーズに看取られて亡くなりました。
王はすっかり敬虔で質素な人柄になり、ヴェルサイユは様変わりします。
結婚は1685年頃と言われています。
結婚後も王に信頼され政治を助け、良家の貧しい少女たちのために
サン・シール女学校を創設しました。
1715年に王が亡くなると女学校に隠退し4年後に亡くなりましたが
王と同じ墓所には葬られませんでした。
(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版
SONY世界遺産スペシャル)
![]() | 王たちのセックス ベストセラーズ このアイテムの詳細を見る |