まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ14世妃 フランソワーズ

2009-03-31 00:22:11 | フランス王妃・王女
享楽王を変えた無冠の王妃
ルイ14世妃 マントノン侯爵 フランソワーズ・ドービニエ


1635~1719/在位せず

もとは愛妾で結婚も極秘に挙げられ、王妃という称号は得られませんでした。
けれども宮廷では妻として振る舞い、時の宰相は王妃として彼女に接していました。

フランソワーズの父コンスタンは貴族ですがユグノーで宰相リシュリューに反旗を掲げたため
一家は1629年からニオールに軟禁されていました。
フランソワーズもその地で生まれています。

    

母ジャンヌは大変信心深く、フランソワーズの敬虔さにも影響していると思いますが
これが…かなりこみいってまして、信心一つとっても大変な時代だったようです。

ユグノーというのは宗教改革派でプロテスタントです。
父方の祖父アグリッパは詩人、プロテスタントの総長で、アンリ4世の親友でした。
しかし母ジャンヌならびに彼女の親族は熱心なカトリックでした。
ジャンヌは後妻ですが、なぜふたりが結婚したかは謎です。

フランソワーズはまず母親によってカトリックの洗礼を受けさせられています。
1639年に軟禁が解かれマルティニークに移り住むとプロテスタントで教育されました。
1647年、フランスへ帰国して父親が亡くなと最愛の伯母で
熱烈なプロテスタント信者ヴィレット夫人に預けられ新教の学校に行かされます。
しかし名づけ親である熱烈なカソリック信者ロシュフーコーに知られると
カトリックの学校に変えられます。(伯母と名づけ親ってどちらが強いんですか?)

いったいどうしろっていうんじゃい って感じですよね。
どちらを信じたらいいのか子供なら戸惑ってしまいそうです。
フランソワーズも転校は嫌だったようですが、新しい学校で出会った
シスター・セレストを敬愛するようになり、
「言葉では言えないほど愛している、彼女のためなら犠牲になってもいい」
などと言いだします。 子供の信心なんてそんなもの。
いずれにしてもフランソワーズは信心深い女性になりました。

年頃になり社交界に紹介されたフランソワーズはポール・スカロンに出会います。
ふたりは意気投合したようでしたが、彼は25歳年上で酷いリューマチ持ちでした。
誰もがまさか!と思いましたが、フランソワーズは16歳の時に最初の結婚をして
スカロン夫人になりました。
なんでもスカロンは持参金なしでいいと求婚したそうです。
また、作家であるスカロンのサロンには王侯貴族なども集っていたので
華やかな社交界に少し憧れを抱いたのかもしれません。

            
               若い頃のマントノン夫人です

その後9年間、フランソワーズはスカロンの妻、看護婦、サロンの女主人として尽くし
スカロンを看取りました。

スカロンの死後もパトロンであったルイ13世妃アンヌはフランソワーズに
年金を与え続けますが、彼女が亡くなると息子ルイ14世は年金を停止します。

一時は侍女となってリスボンに向かおうとしたフランソワーズの窮状を救ったのは
ルイ14世の新しい愛妾モンテスパン候夫人でした。
王を説き伏せてフランソワーズの年金を復活させた彼女は
その後自分の子供の養育係にフランソワーズをとりたてました。
(王の好みじゃないと思ったんだって!ところがそうはいかないの)

フランソワーズは献身的に子供たちを世話しました。
その優しさと働きぶりに感動したルイ14世は(下心もあって)
1678年に彼女にマントノン侯爵の称号と城を与えました。
さすがのルイ14世も年をとったのか、落ち着いた恋愛がしたかったのかもしれません。
フランソワーズに愛妾になるようせまりましたが、彼女は宗教を盾に拒み続けます。

けれど王はあきらめません。戦術を変えます。
時間があれば彼女を訪ねて政治や経済について議論を交わすようになりました。
この間のモンテスパン夫人の嫉妬はすごかったそうです。

フランソワーズがとうとう熱意に負けて愛妾になったのは1680年です。
モンテスパン夫人は宮廷を去り、ないがしろにされてきた王妃マリー・テレーズ
今までにないほど手厚く扱われ、フランソワーズに看取られて亡くなりました。

王はすっかり敬虔で質素な人柄になり、ヴェルサイユは様変わりします。
結婚は1685年頃と言われています。

結婚後も王に信頼され政治を助け、良家の貧しい少女たちのために
サン・シール女学校を創設しました。

1715年に王が亡くなると女学校に隠退し4年後に亡くなりましたが
王と同じ墓所には葬られませんでした。

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版
      SONY世界遺産スペシャル)

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フランス王ルイ14世妃 マリー・テレーズ

2009-03-28 00:18:19 | フランス王妃・王女
ヴェルサイユの初代女主人
ルイ14世妃 マリー・テレーズ・ドートリッシュ


1638~1683/在位 1660~1683

スペインがフランスに破れ、政略結婚でルイ14世に嫁ぐことになったマリー・テレーズは
ルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュの姪にあたります。
母はアンリ4世の娘イザベルですが、6歳の時に亡くなりました。

         

王妃イサベルを深く愛していた父王フェリペ4世でしたが、危機感を覚えたのか
1649年、死亡した息子バルタザールの婚約者だったマリアナと再婚します。
これがマリー・テレーズの不幸の始まり…マリアナは15歳でマリー・テレーズは11歳、
母娘というよりライバルにしか思えなかったんでしょうね?

マリアナはマリー・テレーズの身分や、フェリペ4世から与えられる愛情に嫉妬して
仲良くしようとはしませんでした。(同じハプスブルク家なんですけどね)

1659年にルイ14世の婚約がととのった時、マリー・テレーズより年長だった兄弟は
生き残っておらず、弟がひとりいましたがあまり強い子には見えませんでした。
フランスはマリー・テレーズのスペイン女王即位とスペイン併合の野望が
ムクムクと湧いてきたはずです。
渋るスペインに対して、ルイ14世と他の女性との婚約を偽装して婚約を急がせました。

1660年、涙にかきくれながらスペインを後にしたマリー・テレーズは
2日後フランスでルイ14世と式をあげました…けれど、さすがは好色漢ルイ14世!
式が終わるや否や寝室に行くと言いだしてマリー・テレーズを戸惑わせます。
マリー・テレーズも22歳ですからそんなに幼くはないのですが、必死に拒んで
結局逆らえず、何を着ればいいのかなどとパニクった挙げ句やっと寝室に向かいました。

その後1年ほどはふたりはとても仲睦まじく、ルイ14世は毎晩王妃の寝室に泊まり
朝はそこから儀式に向かうほどで、マリー・テレーズは9ヶ月ほどで身籠りました。
ルイ14世は「王妃と自分を隔てるものは何もない」的なことをのたまったそうですが
ご存知のように次々と愛妾をつくりはじめます。

きらびやかなフランス流に馴染めなかったマリー・テレーズは、スペイン訛も抜けず
ボーとしてて洗練されてない人ということでバカにされたらしいのね。
マリー・テレーズもだんだん自信をなくすでしょうし
ルイ14世もなんだか退屈だと思いはじめたところへきて
これぞフランス!っていう貴婦人がゴロゴロいるんだもの。
よりどりみどりですよ、そりゃあもう…

有名どころはルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールモンテスパン夫人ですね。
人の良いマリー・テレーズは、控えめなルイーズのことは気に入ったらしいのですが
出しゃばりなモンテスパン夫人のことは嫌いだったということです。

マリー・テレーズの心のよりどころは、里が同じ義母で叔母のアンヌ・ドートリッシュで
おしゃべりをしたり、手仕事をしたりと彼女べったりで過ごすようになりました。
スペイン語で故郷の話しをするほうが、宮廷でウィットに富んだ会話を交わしたり
スキャンダルを噂し合うより楽しかったのでしょう
ほとんど宮廷には顔を見せませんでした。

1665年、もともとは狩猟場だったヴェルサイユに華麗な宮殿が完成します。
ルイ14世は「ヴェルサイユ宮殿を母后アンヌと王妃マリー・テレーズに捧げる」と
たからかに宣言しましたが、実際の女主人は愛妾たちでした。
しかも1666年には義母アンヌも亡くなって、さらに寂しい日々を送るようになります。

             
              フランス式になったマリー・テレーズ
                    どことなく寂しそうですね


1683年、ヴェルサイユ宮殿に新しくできたスペイン式噴水を楽しんでいた
マリー・テレーズは元気そうに見えましたが、数日後脇の下に腫瘍が見つかり
みるみるうちに悪化して1ヶ月後に亡くなりました。
死の床でもらした言葉は「王妃になってから1日でも幸せな日があったかしら?」

結局、結婚から1年後には弟が生まれてスペイン女王にはなれなかったマリー・テレーズ。
スペインでの評判は上々だったというのですが、フランス王家へ嫁いだことが
彼女の人生だけではなく性格まで変えてしまったのでしょうか?
スペイン王女からフランス王妃になったというのに、ひっそりとした哀しい人生でした。

彼女の死に際してルイ14世が涙を流した…というのがせめてもの慰めでしょうか?

余談です
当時のスペインの貴婦人はみなさん肖像画のようなヘアスタイルをしているのですが
どういう仕組みなの?

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』『王たちのセックス』
      Wikipedia英語版)

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フランス王ルイ13世妃 アンヌ

2009-03-26 00:26:27 | フランス王妃・王女
名宰相に睨まれた王妃
ルイ13世妃 アンヌ・ドートリシュ


1601~1666/在位 1615~1643

当時ヨーロッパはカトリック国と新教の国が入り乱れ争いが頻発していましたが
そんな中でカトリック国同士のフランスとスペインの同盟を強化するため
ルイ13世とスペイン王フェリペ3世王女アンヌの縁談がまとまったのは
アンヌが10歳の時でした。

アンヌが14歳になった時に結婚、
同時にアンヌの弟フェリペ(後の4世)とルイ13世の妹エリザベートも結婚しました。
しかしフランスには反ハプスブルク家派が多く
摂政マリー・ド・メディシスが押し切る形で無理やりまとめた結婚は
アンヌに寂しい結婚生活をもたらすことになります。

        

夫であるルイ13世はアンヌと同じ年でしたが、ちょっと奥手だったのか
式が終わると自分の部屋に閉じこもってしまって
その後もアンヌの寝室を訪れませんでした。
14歳だからねぇ、無理にそんなことさせたって…と思うんですけど。

宮廷では義母のマリー・ド・メディシスがファーストレディのアンヌを差し置いて
女王然と君臨していました。
ルイ13世にもマリーにもないがしろにされているような状態の中
アンヌ自身もフランス式を拒み(流行についていけなかったという説もあります)
ドレスもマナーも万事スペイン流で通します。溝は深まる一方です。

それでもアンヌの美しさは皆から賞賛されていましたし
4年もするとフランス流の洗練されたドレスやマナーを取り入れて
美しさに磨きがかかりました。

そんなわけで結婚から4年後、ルイ13世は家臣に強く言われてアンヌの寝室に向かいます。
彼は泣きながら引きずられていったそうですよ。
なんとか義務をはたしたものの、その後もなかなか足を向けなかったということです。
美しい王妃だったというのに、何が気に入らなかったんでしょうね?
でも女好き揃いのフランス王の中にあって、ルイ13世のような王がいるというのも
面白いですね…子供のルイ14世は誰の血をひいたのかな?

アンヌが相次いで流産し、ふたりの間のすきま風がさらに強まった頃
ルイ13世がリシュリューを重用し始め、夫婦仲は悪化の一途をたどっていきます。

ハプスブルク家に対して憎しみに近い反感を抱いていたリシュリューとアンヌの間には
もちろん緊張が高まりますが、万事リシュリュー頼みのルイ13世も
一緒になって妻を毛嫌いしはじめ、もはやアンヌに近づこうとしません。

その上アンヌは手痛いミスを犯します。
1635年、フランスはスペインに宣戦布告をしましたが
アンヌは弟であるスペイン王フェリペ4世と秘密裏に文通を続けました。
姉弟の文通なんですけどね、書いちゃいけないことを書いちゃったんじゃないの?
2年後にリシュリューに見つかり、以後アンヌの手紙は検閲を受けることになりました。

こんな四面楚歌状態の中、なんとっ アンヌが身ごもります。
結婚から23年です。
でも王は王妃に近寄らなかったんじゃ…? 人々は色めきたちます。

実はある夜、旅の途中でルイ13世がアンヌがいるサン・モーの城に立ち寄った時
嵐がやってきて旅を続けられなくなったんですって!
そこには王妃の部屋にしか良いベッドがなくて
王はしぶしぶ王妃と一夜をすごしたということなんですが…
そんなバカなねぇ  お城にいいベッドがひとつしかないなんてさ。
当時の人たちもたぶん同じように思ったはずなんですけど、さらに2年後に王子が生まれます。

その後アンヌは王子たちを連れてルーヴルに引き蘢っていましたが
1643年にルイ13世が亡くなると、幼いルイ14世の摂政になりました。
ルイ13世は生前、なんとかアンヌが摂政に就かないように試みたそうですが失敗しました。
しかも前年にリシュリューも亡くなっていて、もう怖いものなしです。

アンヌが賢明だったのは、愛人といわれる枢機卿マザランに政治を任せたことですかね?
同じような境遇だった義母マリー・ド・メディシスが表舞台にしゃしゃり出て
無茶苦茶な余生を送ったことが教訓になっていたのかもしれません。

アンヌは1656年に摂政の座を退きますが、実際はマザランが亡くなる1661年まで
ルイ14世に影響力を持っていました。
1666年に亡くなりましたが、乳癌でかなり壮絶な最期だったようです。

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

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フランス王アンリ4世妃 マリー

2009-03-21 10:55:10 | フランス王妃・王女
マルゴの気持ちがよく分かる
アンリ4世妃 マリー・ド・メディシス


1575~1642/在位 1600~1610

マリーはメディチ家の出身ですが、彼女の母ジョヴァンナは
シャルル9世妃エリザベートの父マクシミリアン2世の妹で
カトリーヌ・ド・メディシスよりエリザベートの方が近親かと思われます。
けれどもさすがメディチ家、マリーには60万クラウンという莫大な持参金がついていました。

        

アンリ4世には、長年妻のように暮らしていてアンリの子供も3人生んだ
愛妾ガブリエル・デストレがいて、マルゴと離婚したら彼女と結婚するつもりでした。
けれどもガブリエルはアンリ4世がマルゴと離婚した年に急死してしまいました。

ただアンリ4世は生涯に50人 の愛妾を持っていたと言われる王ですので
その時もちゃんと後がまのカトリーヌ・ド・バルザックという愛妾が控えていました。
王はガブリエルが死んだらカトリーヌと結婚すると約束していたようです。

なんとかカトリーヌをなだめることに成功したのか
1600年にアンリ4世とマリーは結婚します。
ふたりの間には6人の子供が生まれていますが、仲の方は新婚当初から悪かったみたいです。
なぜって…アンリ4世は結婚後も愛妾を遠ざけることはせず
それまでのように堂々とおつき合いをしていたからです。 それは怒るわよね?
(上の肖像画かどうかはわかりませんが、マリーはかなり細めに描かれていたらしく
 アンリ4世は初めてマリーを見た時「騙された!」と叫んだそうですよ)

喧嘩が絶えず、夫への不信感が募る一方のマリーは、前妻マルゴに共感を覚えます。
相談相手が欲しかったのかもしれません。
マリーはアンリ4世を強く促してマルゴのフランスへの帰国をとりつけました。

1610年、アンリ4世が暗殺されると、マリーは幼王ルイ13世の摂政になります。
彼女はまずアンリ4世の愛妾たちを宮廷から追い出しました(そりゃそうね!)。
政治の方はめちゃくちゃで、メイドのレオノーラの夫である
イタリア人コンチーニの影響を強く受け始めて
せっかく名君と言われたアンリ4世が丸く収めてきた宗教間の争いを再燃させます。
彼女のいかげんな政治は、貴族たちのみならず子供たちの反発を招きます。

              
               こちら、貫禄充分になったマリー
                   ルーヴル展で日本にきてましたね


ルイ13世が親政を始めると、マリーの生涯の宿敵、枢機卿リシュリューが登場します。
コンチーニは処刑され、彼女の政策はことごとく覆されて
ブロワ城に軟禁されてしまいました。
その後、マリーはブロワの城を脱走し、王弟オルレアン公を旗印に反乱を企てたり
せっかく和解したのにリシュリュー追放キャンペーンなどを展開したりして
1630年にはとうとうフランスから逃げ出すハメに陥ります。

その後はブリュッセルやアムステルダムを転々とする生活を送り、1642年に
旅先のケルンで息を引きとりました。

もともと政治に興味がある女性だったみたいですけど
アンリ4世の存命中はなかなか口がだせなかったんでしょうね。
好き勝手ができるようになったら、弾けちゃったという感じかしら?

賢明な側近がついていたら良かったかもしれないけど
肖像画を見ているとおとなしく言うことを聞きそうなタイプにも思えなかったりして…
(ルーヴル展のHPによると、ルイ13世と和解している間に描かれたそうです)

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 
      エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

フランス史10講 岩波書店


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フランス王アンリ4世妃 マルグリート

2009-03-18 00:46:57 | フランス王妃・王女
ニックネームはマルゴ
アンリ4世妃 マルグリート・ド・ヴァロア


1553~1615/在位 1589~1599

アレクサンドル・デュマ・ペールの小説もあり、映画もあって有名なマルゴですが
いったいどんな王妃だったのでしょう?

アンリ2世の娘に生まれ、3人の兄も王になるという輝かしいバックボーンを持つマルゴは
愛する人と結ばれなかったり夫に愛されなかったりして、悲劇の王妃といわれる一方
生まれついての淫蕩ぶりで悪評名高い王妃にもなっています。

マルゴは11歳で既に3人の情人がいたといわれていますが、それでは飽きたらなかったのか
10代前半から露出が多いスケスケのドレスで男の気を惹いていたそうですよ
いったい賢母カトリーヌ・ド・メディシスは何してたんでしょうね?

              
              10歳前後のマルゴです。このころすでに…

マルゴは “ パリ王 ” と呼ばれ人気絶大だったギーズ公アンリを愛するようになり
ふたりは結婚の約束をしたのですが、これはギーズ公家がさらなる力を持ち、
カトリックとプロテスタントの争いが激化することを怖れた
母后カトリーヌの大反対にあい成就しませんでした。

マルゴにはスペイン王フェリペ2世の王子カルロスや、ポルトガル王セバスチャンとの
縁談が持ち上がりますが、いずれも上手くいきませんでした。
そこでナヴァール女王ファナ3世王子アンリ・ド・ブルボンとの結婚が検討されます。
ファナ(フランス名ジャンヌ・ダルブレ)はプロテスタントで
フランス国内のプロテスタントを擁護していました。
カトリーヌは旧教と新教の融和を画策していてふたりの結婚を思いついたのです。

       

1572年、19歳のマルゴは17歳のアンリと挙式します。
ふたりは最初から最後まで1回も目を合わせなかったそうです。
すでに暗雲が立ちこめていますね。

しかし宗教間の融和を図ったはずの結婚式の直後、サン・バルテルミーの虐殺があり
プロテスタントのアンリは捕えられます。
アンリはカトリックに改宗してナヴァールに戻り、3年後にシャルル9世が亡くなると
マルゴを残してパリに向かいます。
その後ふたりはお互いおおっぴらに愛人をつくりスキャンダラスな生活を送りました。

1582年、マルゴはナヴァールに嫌気がさしフランスに帰りますが
兄アンリ3世は彼女のふしだらな評判を嫌い、すぐに宮廷から出ていくよう言い渡します。
渋々ナヴァールに戻ると、今度は夫アンリから「出ていけ」と言いたげな
冷たい仕打ちを受けました。

ヤケクソになったマルゴは愛人とクーデターを謀り、再びフランスに足を踏み入れましたが
激怒したアンリ3世に捕えられ幽閉されてしまいました。
夫アンリ4世の即位後幽閉は解かれましたが、即離婚を宣告されます。

マルゴはその後も派手な男関係をくりひろげて死の間際まで麗しい男性を侍らせていました。

しかし後年は、前夫アンリ4世と王妃マリーと和解するためフランス宮廷に戻り、
王一家の良き相談相手になりました。
また、宝石の全てを売り払い芸術院を設立したり、貧しい人々に慈善を施したそうです。

もともと淫乱だったというのは置いといて…本気で愛したとされるギーズ公と結婚していたら
彼女の人生も大きく変わったかもしれないし
フランス王家の行く末も違っていたかもしれないですね。
(ギーズ公の母方の祖父はルイ12世です。アンリ4世とはどちらが優位だったのでしょう?
 ややこしくって…
ふたりの間に生まれた子供が王になったら、パリ市民も大喜び! だったかもしれません。
そしたら革命もねぇ、もう少しお手やわらかなものになったかもしれないのに…

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 桐生操氏『世界悪女大全』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』 Wikipedia英語版)

世界悪女大全 文藝春秋


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フランス王アンリ3世妃 ルイーズ

2009-03-14 01:41:38 | フランス王妃・王女
まさにシンデレラ…なのに
アンリ3世妃 ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン


1553~1601/在位 1575~1589

虚弱続きのカトリーヌの息子たちの三男アンリは、母后の力添えもあって
1573年にポーランド王に選出されてその座についていました。
その際先王ジグムント2世王女アンナと結婚するいう話しが持ち上がっていたのですが
なにしろアンナは28歳年上で…それが原因かどうかわかりませんが交渉は難航します。
実はアンリはフランスにいたころ、コンデ公妃マリー・ド・クレーヴを愛していて
彼女に未練があったのかもしれません。(でも人妻なんですけどね)

そんな中兄シャルル9世の死亡を聞いたアンリは夜の闇にまぎれてポーランドを脱出、
ポーランド王位は失効となりフランスに戻って即位します。

さて、お妃をどうしましょう? ということになりました。
アンリ3世は以前からマリー・ド・クレーヴを離婚させて妃にしようとしていましたが
ポーランドから戻ってくると、マリーは出産の時に亡くなってしまったと知ります。
兄のシャルル9世の未亡人エリザベートには断られてしまうし…

そこでアンリが思いついたのがロレーヌ公の姪にあたるルイーズです。
王に選ばれポーランドに向かう途中、ロレーヌ公の妃になっていた
妹のクロードを訪ねたアンリは、ちょうど滞在していたルイーズに会って
憎からず思っていました。
      

ルイーズは、父や継母に愛されず孤独な少女時代を送っていました。
彼女は静かで大人びたところがあって、生意気そうに見られたといわれています。
けれどその思慮深そうな瞳に人を惹きつける魅力がありました。
母后カトリーヌ・ド・メディシスは、彼女の家柄や性格が王妃に相応しくないと反対しますが
アンリはめずらしく母親に反抗してルイーズに求婚しました。

1575年、晴れてふたりは結婚しました。
結婚式って女性があれやこれやと考えて、男性はボーっとしているのが常ですが
アンリ3世は、自らイベントスケジュールを考えたり
ふたりの衣装のデザインをするほど張り切ります。
なんでもアンリはルイーズのヘアスタイルにもこだわりがあったようで
髪結いの時間までたっぷりとっていたため、結婚式はとても長びいてしまいました。
女心がよく分かる…というか女らしい王様ですね。

アンリ3世とルイーズの間に嫡子が生まれないと
ヴァロア家直系が途絶えることになるのですが、なかなか子供に恵まれませんでした。
ルイーズの痩せ過ぎが原因とも言われています。

嫡子が生まれないと王位がブルボン家のナヴァール王アンリに移ってしまうという焦りと
当時市民に絶大な人気があり “ パリ王 ” と呼ばれていたギーズ公アンリへの嫉妬から、
1588年、アンリ3世はとんでもない行動に出ます。

相変わらず旧教徒と新教徒の争いがおさまらないフランスでしたが
アンリ3世は話し合いを持つという名目で、旧教徒の有力者ギーズ公兄弟を招き
暗殺してしまったのです。

アンリ3世は有頂天になっていましたが、これは大変危険なことでした。
母后カトリーヌはこの報を聞いてショックを受け寝込んでしまい、
翌年亡くなりましたが、パリ市民の怒りをかったアンリ3世は
カトリーヌの葬儀をパリであげることさえできませんでした。
1589年、アンリ3世は狂信的な旧教徒との謁見中に暗殺されてしまいます。

ルイーズはその後鬱状態に陥ります。
彼女が引き蘢ったシュノンソー城の部屋は白と黒に塗られました。
常に寝間着姿で無言のまま過ごし、アンリ3世のことを思い出すだけの日々を送り
1601年に亡くなりました。

継母にいじめられていた少女が王妃へ…まさにシンデレラ状態なんですけど
Happy ever after...といかないのが現実なんですね。

 余談です
もしかして、マリー・ド・クレーヴって『クレーヴの奥方』のモデルですかね?
時代やストーリーにちょっと違いはありますけど…

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)
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フランス王シャルル9世妃 エリザベート

2009-03-13 01:19:13 | フランス王妃・王女
敬虔すぎるのが玉にキズ
シャルル9世妃 エリザベート・ドートリッシュ


1554~1592/在位 1570~1574

フランソワ2世の死で弟シャルル9世が即位して再び摂政になった母后カトリーヌ
旧教と新教の融和を図ろうと、シャルル9世をイングランド女王エリザベス1世
結婚させようとしましたが、17歳も年上のエリザベスに相手にされませんでした。
エリザベス1世は、自分が旧教徒か新教徒か立場をはっきりしていませんでしたが
両方に寛容で、教徒間の争いはおさまっていました。

そこでカトリーヌは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇女エリザベートに注目します。
神聖ローマ帝国は旧教国でしたが、マクシミリアン2世は新教徒に寛大だったからです。

         

カトリーヌは後年のサン・バルテルミーの虐殺のせいで
日頃から新教徒に対して弾圧を与えていたような印象がありますが
イングランドのメアリ-1世などと違って
新教と旧教の争いの平和的な解決を模索していたと言われています。

縁談はまとまり、1570年、シャルル9世とエリザベートは結婚しました。
エリザベートは平穏で敬虔で心優しい純真無垢な淑女でした。
また、白い肌と美しいブロンド、非のうちどころのないプロポーションで
当時もっとも美しい女性と言われていました。

シャルル9世はエリザベートの肖像画を見て「頭痛をおこさせない顔だ」と
素っ気なく言い放ったそうですが、実は気に入ったとみえます。 素直じゃないんだから
シャルル9世には長年の愛人マリー・トゥーシェがいましたが
エリザベートにも愛をそそぎ、ふたりは信頼しあう良き夫婦となったそうです。

いいところだらけのようなエリザベートですが、ただひとつだけ責められる点があるとしたら
それはあまりにも純粋に神を信じていたことでしょうか。
エリザベートはカトリックでしたが、新教徒の家臣や政治家を嫌ってまったく顧みず
臣従の礼である手への口づけも拒否していました。
カトリーヌがなんとか旧教徒と新教徒の争いを治めようとしている中
嫁として浅はかな振る舞いではありますね。

ところで、平和主義者という説もあるカトリーヌは
なぜシャルル9世にサン・バルテルミーの虐殺の令をだすよう、執拗に説得したのでしょう?

息子シャルル9世が父親のように慕っていた新教徒コリニー提督を殺害することが
大きな目的でしたが、その理由には諸説あります。

擁護派は、大きな力を持ったコリニーがスペインに戦争を仕掛けようとしていて
カトリーヌは国際的な宗教戦争が勃発するのを阻止したかった、と言います。
一方、シャルル9世へのコリニーの影響力が大きくなりすぎて
自分の権力が衰えるのを阻止するために思いついたのだ、という人もいます。
いずれにしても、大虐殺をすることはなかったんじゃないのかしら?

このサン・バルテルミーの虐殺のことを聞いたイングランド女王エリザベス1世は喪に服し
ローマ教皇やスペイン王フェリペ2世は祝杯をあげたそうですが
シャルル9世は気に病んで酒浸りになり、2年後の1574年亡くなりました。

エリザベートには、シャルル9世の弟アンリ3世との再婚話ももちあがりましたが
彼女はこれを断り故郷に戻りました。
1592年、エリザベートはこの世を去りますが
その年は奇しくもヴァロア王家が終わりを告げた年でもありました。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

ヨーロッパ中世を変えた女たち 日本放送出版協会



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フランス王フランソワ2世妃 マリー

2009-03-10 07:45:49 | フランス王妃・王女
またの名をメアリー・スチュアート
フランソワ2世妃 マリー・デコッセ


1542~1587/在位 (スコットランド女王)1542~1567  
          (フランス王妃)1559~1560

スコットランド編でご説明したとおり、イングランドのヘンリー8世から
息子のエドワードと結婚するようせまられていた幼いスコットランド女王メアリー
フランスに教育に出され、そのまま王太子フランソワの妃になりました。

5歳でフランスに渡ったマリーは可愛らしく才気煥発でたちまち宮廷の人気者になりました。
その上最高の教育を与えられ美しさと優雅さに磨きがかかり申し分ないレディに成長します。
王太子フランソワはマリーに夢中です。

華美なことが好きなマリーは、彼女の教育にあたった
アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエの影響を受けていて
義母になる王妃カトリーヌ・ド・メディシスとはあまりウマが合わなかったようです。

それはギーズ公フランソワの思うつぼでした。
ギーズ公は当時宮廷の有力者でしたが、もうひとつの有力者であるモンモランシー家より
大きな力を持ちたいと機会を狙っていました。
そんな時姉のスコットランド王ジェイムズ5世妃マリーから
娘を預かってほしいという依頼が…願ってもいないチャンスです。

        

ギーズ公の思惑どおり婚約をしたふたりは、1559年に結婚しました。
マリーは17歳、フランソワは15歳でした。
その上、同年アンリ2世が急死しフランソワが王位について、マリーは王妃になります。
当然未成年のフランソワ2世には摂政が必要で、母后カトリーヌがその任に就いたのですが
マリーの言いなりになっていたフランソワ2世はカトリーヌのいうことなど聞かず
ギーズ一族と行動を共にして、とうとうアンボワーズ城に引き蘢ってしまいました。

さて、若くしてスコットランド女王とフランス王妃の2つの冠を手にしたマリーでしたが
彼女は満足できませんでした。
マリーがさらに手にしたかったのはイングランド女王の座です。

イングランドは、ヘンリー8世の死後王位についたエドワード6世が早世したため
メアリ-1世が即位しましたが、メアリーの母キャサリン・オブ・アラゴン
ヘンリー8世が結婚の無効を言い渡していたので正当な後継者ではないというのが
マリーの言い分です。
これはマリーというより、義父のアンリ2世が言いだしたことなのですが
マリーはその考えに強く惹かれ、自分が正当な後継者であることを主張したのです。

1558年に即位したエリザベス1世も、ヘンリー8世が嫡出子ではないと宣言していたので
マリーからみれば正当な後継者ではありませんでした。
ご存知のとおり、彼女は自分が正当なイングランド女王であると死ぬまで言い続けます。

結婚当時に話しを戻すと、叔父であるギーズ公に言われるまま
フランソワ2世を操っていたマリーでしたが、そんな好き放題は1年ほどで終わりを迎えます。
もともと虚弱だったフランソワ2世が脳炎で急死したのです。

この時、母后カトリーヌがフランソワ2世の手術を強硬に拒んだことから
彼女は「息子殺し」などと言われて、評判はさらに悪くなります。
カトリーヌいわく「占いによるもの」なのですが、息子が親政を摂るようになると
自分の権力が衰えるので見殺しにした、という人もいました。
彼女の擁護派は、ギーズ公の政治によってフランスが混乱に陥るのを防いだというのですが
さてさて、どうなのでしょうね?

フランソワ2世の死後、マリーはスコットランドにもどり波瀾万丈の半生を送るのですが
そちらはスコットランド王妃篇で…

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』 桐生操氏『世界悪女大全』
      森護氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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フランス王アンリ2世妃 カトリーヌ

2009-03-08 00:41:50 | フランス王妃・王女
フランス版 “ 黒衣の王妃 ”
アンリ2世妃 カトリーヌ・ド・メディシス


1519~1589/在位 1547~1559

カトリーヌがフランス王子アンリと結婚した理由は
ひとえにフランス王室がお手元不如意だったことにあります。

カトリーヌの父ウルビーノ公ロレンツォと母マデリーンは
彼女が生まれて数日で相次いで亡くなっていました。
後見人になったメディチ一族の教皇クレメンス7世が
カトリーヌをフランス王家に嫁がせるべく奔走しアンリとの婚約をとりまとめました。

        

この時アンリには兄の王太子フランソワがいたのですが
さすがに王太子の妃に商人の娘じゃね~ってことでアンリの妃になったわけです。
カトリーヌの持参金は莫大で、フランソワ1世はどうしてもどうしても
彼女の持参金が欲しかったのです。

14歳の時フランスに嫁いできたカトリーヌですが
宮廷生活のスタートは彼女にとって厳しいものだったと思われます。

まず嘲りや陰口、特に、いくら大富豪でトスカーナ大公女といっても
もとは商人じゃないのというあてこすりが酷かったようです。
それでも絶世の美女なんかであれば少しは状況も違ったのでしょうが
カトリーヌはお世辞にも美しいと言いがたい容貌をしていました。

それにアンリにはすでに19歳年上の意中の人ディアーヌ・ド・ポワティエがいました。
アンリはカトリーヌと同じ14歳なんですけど
大人の魅力にメロメロになっていたんですかね?
カトリーヌにはたいして興味を示しませんでした。

それから後ろ楯を失ったことも大きかったようです。
結婚から1年あまりで後見人のクレメンス7世が亡くなりますが
その後を継いだパウル3世がフランスとの同盟関係を破棄したために
カトリーヌの持参金が払われなくなります。
フランソワ1世は「何ももたずに来やがって」と嫌みタラタラです。

さらに、結婚から3年後、王太子フランソワが急死してアンリが王太子になると
カトリーヌがフランソワを毒殺したという噂が流れ始めます。
これはフランソワ1世が介入しなんとかおさまりましたが、十代でこの針のムシロ状態、
普通の娘ならまいってしまうところですよね。

結婚後10年ほどしてから次々と王子を生み、なんとかメンツを保ちますが
相変わらずアンリはディアーヌに夢中だし、1547年にアンリが即位してからも
宮廷での主役はディアーヌでした。
生まれた子供たちもディアーヌの手で育てられたほどです。
有名な話しでは、アンリ2世が戴冠式の際ディアーヌの頭文字を組み合わせたデザインの
紋を纏っていたということでしょうか。 食器にもついていたらしいです。

カトリーヌの歯ぎしりが聞こえてきそうですが、彼女の前途は突然開けます。
アンリ2世が騎馬試合の事故で急死してしまったのです。
カトリーヌはアンリ2世の瀕死の訴えも無視してディアーヌを枕元に呼ぶことを拒み
自分がずっと付き添っていました。 最後ぐらい…と思うけど積年の恨みですからね。

本当に残虐な女性であればディアーヌをどうすることもできたでしょうが
カトリーヌはアンリ2世がディアーヌに贈ったとされるシュノンソー城から彼女を追い出し
二度と顔を見せないよう警告しただけでした。

カトリーヌはその後ずっと喪服を着続けることになるのですが
英国のヴィクトリア女王の場合と違ってすこぶる不評でした。

カトリーヌはアンリ2世を愛していて、彼の死は甚く悲しんだようですが
王の死後はご存知のように摂政として権勢をふるいました。
詳しくは彼女の子供たちのところへ… つづく

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

息子を国王にした女たち 講談社


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フランス王フランソワ1世妃 アリエノール

2009-03-05 01:22:02 | フランス王妃・王女
静かなる平和の使者
フランソワ1世妃 アリエノール・ドートリッシュ


1498~1558/在位 1530~1547

フランソワ1世には数人の愛妾がいたので再婚しなくても…なんて思いますが
それはそれ、ということで前妃クロードの死から6年後に
カスティーリャ王女でポルトガル王マヌエル1世の未亡人アリエノールと再婚します。

カスティーリャ王フェリペ1世の王女たちは神聖ローマ、ハンガリー、デンマークに
それぞれ王妃として嫁いでいます。
アリエノールの母は有名なカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカ
母方の祖母はスペイン統一で教科書にも登場するイサベル1世です。

       

アリエノールももちろん王妃として嫁がせるべくイングランドのヘンリー7世、次いで8世
フランスのルイ12世、ポーランド王ジグムント1世などとの縁談をまとめようとしましたが
うまくいかずやっと(といっても20歳)1518年ポルトガル王マヌエル1世の
3人目の妃として嫁ぎました。

3年後にマヌエル1世が亡くなり未亡人となっていたアリエノールは
32歳でフランソワ1世と再婚します。
これは当時険悪だったフランス王と神聖ローマ皇帝(アリエノールの弟カール5世)の
和平工作だったと思われます。

フランソワ1世はカール5世とローマ皇帝の座を争ったこともあり
またイタリアの覇権をかけて戦ってもいました。
統一されたばかりのスペインを含むハプスブルク家の強大な領土や権力に
嫉妬もしたでしょうし怖れを感じていたかもしれません。

アリエノールもクロード同様宮廷ではなんら力を持ちませんでしたが
(まだ義母も義姉も元気だったんですよぉ
度々フランスと神聖ローマ帝国の仲介役をかってでました。
アリエノールはカール5世のお気に入りの姉だったのです。
きっと優しいお姉さんだったんでしょうね。

1558年、アリエノールは和平のために訪れていた
スペインのバダホスからの帰途で亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王フランソワ1世妃 クロード

2009-03-04 01:07:12 | フランス王妃・王女
逆玉の輿王妃
フランソワ1世妃 クロード・ド・フランス


1499~1524/在位 1515~1524

後継ぎの王子がいなかったルイ12世が、最も警戒していた娘婿フランソワは
ルイ12世の大甥でクロードのいとこにあたり、まんまとフランス王に即位します。

         

いずれはクロードの息子に王位がまわるということで
彼女には幼い頃からたくさんの求婚が舞い込んでいました。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とは結婚秒読みまでいきますが
ハプスブルク側のフランスを見下したような条件は受け入れがたく、また
外国人との結婚に対する反論も大きかったことから成立しませんでした。

貴族からの他国に王位を持っていかれたくないという不満は
ルイ12世をクロードとフランソワとの結婚に駆り立てました。
理由は「少なくとも生粋のフランス人だから…」ということで
最初からあまりフランソワのことが好きではなかったみたいですね。

ふたりは1514年に結婚、翌年フランソワが即位し宮廷に入ります。
宮廷はクロードにとって幸せとは言いがたい場所だったのではないでしょうか?

そこには先王妃マリーが残していったブーリン姉妹がいて
フランソワ1世は早速姉メアリーを愛妾にします。(一説にはアンも…ってな噂も)
また身体が弱く骨が曲がる病を持っていたクロードは影が薄く引き蘢りがちで
宮廷では義母ルイーズ・ド・サヴォワや、義姉で後のナヴァール王妃マルグリートが
実権を握っていました。
私だったら「誰のおかげでここにいられると思ってんだ!」って言っちゃうね。

けれどもクロードは家族の中では厳格で、道徳にうるさかったらしいですよ。
フランソワ1世はそんな雰囲気が耐えられなかったのでしょうかね?
愛妾は何人かいましたが、他の王に比べるとコソコソしてたみたいです。
やはり入り婿、尻に敷かれていたのかもしれません。
「私の旦那じゃなきゃ王にはなれなかったんだからね!」なんて言われて…

クロードは1524年に24歳の若さで亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世妃 マリー

2009-03-03 02:01:58 | フランス王妃・王女
お望みどおりの短い結婚生活
ルイ12世妃 マリー・ダングルテール


1496~1533/在位 1514~1515

イングランド名はメアリー・テューダーです。
マリーは、当時ヨーロッパで最も美しい王女のひとりと言われていました。
11歳の時にはスペイン王カルロス1世と婚約もしたのですが
政治的な理由で結婚には至りませんでした。

マリーが18歳になると兄であるイングランド王ヘンリー8世は目先を変え
フランスとの和解のため、妹をルイ12世に嫁がせることにします。

        

その時ルイ12世は52歳、マリーは激しく抵抗します。
彼女はサフォーク公チャールズ・ブランドンと密かに愛し合っていたのです。
チャールズは既に2人の妃と死別していました。
けれども相手は暴君ヘンリー8世ですもの、聞き入れてくれるわけありません。
結局、ルイ12世が死んだら好きな人を選んでもいいという約束をとりつけ
しぶしぶ結婚に承諾します。
(この時マリーの侍女としてフランスへ渡ったのが、あのブーリン家の姉妹です)

ところが結婚から3ヶ月もたたない1515年1月1日、ルイ12世は急死します。
マリーが王に早く死んでほしくて、毎晩へとへとになるまでダンスをさせたり
外へ連れ出したりしたと言われていますが、巷間では毎晩お床で頑張りすぎたとも囁かれ…
マドンナの『BODY』みたいですな。
王には跡継ぎの王子がいませんでしたから、身体に鞭打ったのかもしれないですね。

晴れて未亡人となったマリーでしたが、ヘンリー8世が約束を守る気など更々ないことを知って
フランスでさっさと再婚してしまいました。
相手はマリーを連れ戻すためにフランスに遣わされたサフォーク公でした。
ヘンリー8世は彼に、マリーに求婚などしないと誓わせたそうですが…そんなのねぇ
会ったら忘れちゃうに決まってるじゃない! ヘンリー8世もあまいね!

ヘンリー8世の怒りをかったふたりは、しばらく故国に戻れませんでしたが
24,000ポンドを支払ってやっと許してもらえました。
イングランドに戻ったマリーは、宮廷に顔をだすとサフォーク公妃としてより
フランス王妃として扱われていたみたいです。

このマリーとサフォーク公の娘フランシーズの娘が、九日女王として有名な
ジェイン・グレイです。

1520年代後半、ヘンリー8世が王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し
アン・ブーリンと再婚しようと画策していることを知ったマリーは再び兄と対立します。
マリーはアンが大っっっ嫌いでした。
侍女が義理の姉になるっていうのも誇り高い彼女には許せなかったのかもね。

1533年、マリーはその憎たらしいアンと兄の結婚から1ヶ月後に亡くなります、が
なんてこと 夫チャールズはマリーが亡くなってから約1年後、50歳で
息子の婚約者である14歳のキャサリン・ウィロビーと4度目の結婚をします。
息子と結婚させりゃいいじゃないの…と思ったら半年前に亡くなっていました。
寂しい者同士ってことで許してあげましょう。

ところで、死んでほしいからって激しい運動をさせたら死ぬものなの?
もともと心臓か何処かが悪かったのですかね? そうじゃなければ…
自分が望むもののためならなんでもしちゃう人っていますからねぇ。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世妃 アンヌ

2009-03-02 01:03:42 | フランス王妃・王女
生まれ変わった王妃
ルイ12世妃 アンヌ・ド・ブルターニュ


1477~1514/在位 (シャルル8世妃)1491~1498 (ルイ12世妃)1499~1514

シャルル8世の死亡でルイ12世と再婚しなければならなくなったアンヌですが
ルイ12世の離婚がごたついたため、故郷のブルターニュに帰る機会に恵まれます。

      

14歳でフランスに嫁いだアンヌには訪れることができなかった領地の所々に凱旋し
各地で熱烈な歓迎をうけます。
ふたたびフランスに戻って15歳も上のルイ12世との生活を始める前に
羽をのばしたかったのでしょうが、美しい郷里と領民の歓喜に沸く顔を見ているうちに
彼女の心には領主としての何かが芽生えたのではないでしょうか(勝手な想像です

1499年、フランスに戻ったアンヌはルイ12世と3回目の結婚式を挙げますが
シャルル8世の時とは違い、前王妃として毅然とした態度で臨みました。
また、王に “ ブルターニュ公の配偶者 ” という称号を与え
ブルターニュ領主たる自身の権利と、ブルターニュの独立自治を強く主張します。

アンヌはかなり才知に長けていたということで、フランスにいながら
多くの時間をブルターニュの管理にあてていました。
また、イタリアでの勢力拡大を狙いスペインと同盟を結ぶため
娘クロードとスペイン王カルロス1世を結婚させようと奔走しました(これは失敗します)。
芸術にも理解が深く、タペストリーの蒐集家としても有名だそうです。

高慢で尊大なところもあったといいますが献身的な母親で
子供といる時間をなるべくたくさんとるようにしていました。
けれどもシャルル8世の時同様、ルイ12世との間にも9人の子をさずかりながら
成人したのは王女2人のみで、他は死産、夭逝しています。

アンヌは1年ほど腎臓結石を煩った末1514年に亡くなりますが
その葬儀はなんと 40日にもおよんだそうで
その後の王族の葬儀に影響を与えました。

アンヌの希望で心臓は金でコーティングされナントに供えられました。
現在はスイスのサン・ピエール大聖堂にあるそうです。

運命に翻弄され、子供を生む役目しか与えられず無為で空虚な人生を送る王妃が多い中
自分の進むべき道を見いだして主張できた数少ない王妃かもしれません。
国政に口を出して混乱を招いたりするのではなく、自分の領分を守って王を支えた
賢明な王妃と言えましょう。

ルイ12世は、イタリアを巡る神聖ローマとの戦いには敗れましたが
減税や政府の改革など進歩的な考を持っていて、政治に安定を与えた人物だそうで
こういう王と王妃が続いていたらフランス革命はおこらなかったかも…しれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ12世妃 聖ジャンヌ

2009-03-01 11:05:56 | フランス王妃・王女
信じた神の使者に裏切られ・・・
ルイ12世妃 聖ジャンヌ・ド・フランス


1464~1505/在位 1498

ベリー公ジャンヌはルイ11世の娘で、つまり先王シャルル8世の姉です。
ルイ12世はまたいとこにあたります。
12歳の時にオルレアン公だったルイと結婚しましたが、22年後に思わぬことで
離婚することになりました。

         

シャルル8世が亡くなり、夫がルイ12世として即位したまでは良かったが
なんと、弟の未亡人アンヌと結婚しなければならないというじゃありませんか!
ルイ12世がそんな条項を退け、ジャンヌと離れないということもできたのでしょうが
逆にホイホイその条項を受け入れようとしました。

ブルターニュを手放したくないというのはもちろんあったと思いますが
ジャンヌ34歳、アンヌ21歳 … なんかそういうのもあるんじゃなくって?

かくして “ その時代最も下劣な訴訟 ” といわれた裁判がはじまります。
まずルイ12世は、お決まりの『同族結婚』を持ち出します。
あらゆる方面からみてふたりの血が近すぎるというのです。
しかしこれには説得力がなく(またいとこはOKみたいですね)再三(12回!)の
申し立ても却下され、王は卑劣な理由を持ち出します。

ジャンヌが一種の畸形でそのため夫婦関係が結べなかったと言いだしたのです。
たしかに結婚から22年たっても子供はいなかったのですが
これにはジャンヌも、もちろん!激しく反論しました。

ルイ12世は自分の性的能力がアンヌのせいで発揮できないと言いますが
ジャンヌは「できるって自分で分かってるじゃないの」と
(もちろんもっと上品な言葉で)応酬します。

また中立的な議会も開かれ、裁判はジャンヌに有利に展開していました。
それなのに、教皇アレクサンドル6世は政治的な理由から王の言い分を聞き入れ
結婚の無効を宣言してしまいました。 ひっど~い 教皇なのに。

なんでもジャンヌはとても敬虔なカトリック教徒だったそうで
教皇のそんな仕打ちで離婚させられるなんて、悔しさはいかばかりだったでしょうね。
だからといって信心深さは変わらなかったようです。

病気がちだったジャンヌは処女マリアに心酔していて、まるで尼僧のような暮らしぶりで
1505年ブールジェで亡くなりますが、死に際しては奇跡も起こったなどと言われました。
20世紀になって、教皇ピウス12世により聖人に序列されました。

              
               聖人なのでこんな肖像画もあります

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王シャルル8世妃 アンヌ

2009-03-01 02:08:04 | フランス王妃・王女
略奪された王妃
シャルル8世妃 アンヌ・ド・ブルターニュ


1477~1514/在位 (シャルル8世妃)1491~1498 (ルイ12世妃)1499~1514

ブルターニュ公国は当時戦いの要所として各国から注目され、相続人のアンヌは
(一説には美しくなかったというけれど)小さな頃から求婚が絶えませんでした。
13歳の時、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と婚約し、代理人と式を挙げ
(当時は)立派に結婚したことになっていました。
ところが攻め込んできたシャルル8世に結婚をせまられ
フランス勢に包囲されてしまったアンヌは不承不承承諾します。

        

ウィーンの戦地にいたマクシミリアン1世は、アンヌと自分が結婚しているばかりか
シャルル8世も自分の娘であるマルグリートと婚約しているではないか!と
意義を申し立てますが後の祭り…既に式を挙げてしまっていました。
(ちなみにシャルル8世も自分の城で養育していたマルグリートと式を挙げていたそうで
 結婚していたという解釈のものもあります)

マルグリートは親元へ帰されるのですが、一説によるとフランスでとても人気があったらしく
あとから来たアンヌへの風当たりは強かったそうです。
好きで来たんじゃないのにね。

どうしてもブルターニュを手放したくないフランスは
シャルル8世が嫡子を残さずに他界した場合 “アンヌは次王と再婚しなければならない”
という、とんでもない条項を加えています。 おいおいおい

14歳のアンヌにとって結婚生活は憂鬱でした。
アンヌの輿入れ道具の中には2つのベッドもあったらしいのですが
それは当時王と王妃は別々の寝室で寝るもので、アンヌも当分ひとりで寝るんだとばかり
思っていたからなのです。
が、しかし、シャルル8世はアンヌにそのベッドを使わせませんでした。
てぇことは…アンヌ14歳なのに… ふたりはこの件でよく喧嘩をしたそうですが
相手は男だし、王様だしね。

そんなわけでアンヌは15歳から毎年のように子供を生んでいます(年に2人の時も!)
けれど7人のうち6人までが死産か生後間もなく死亡しています。
かろうじてシャルルという子が3歳まで生きていました。
母体にも子供にもいいことではないですよね。
中世には出産時に死亡する母親や死産、夭折などがすごく多いのですけれど
出産も早けりゃいいってもんじゃないと思うが…

結婚から7年、シャルル8世が急死しますが、これはテニスの最中
ドアの横木に頭をぶつけたからだそうで、数時間後に亡くなっています。
どれだけ強くぶつけたんだか

アンヌは21歳で未亡人になりましたが、そこには結婚の時に結んだ条約が…

To be continued...

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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