まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『脂肪の塊・テリエ館』驚嘆のデビュー作!

2009-01-31 02:05:51 | フランスの作家

ギィ・ド・モーパッサン

私は、この物語の素晴らしさをうまく説明する術を持ち合せていないことを
とてもじれったく感じています。

モーパッサンが作家となった初期に書かれた2作品ですが
デビュー早々こんなに円熟していていいのでしょうか?

『脂肪の塊(Boule de Suif)/1880年』
時はプロシア占領下のフランス、ルーアンからル・アーブルに向かう馬車に
10人の客が乗り合わせたことから始まる物語。
客は3組の町の名士夫妻と2人の修道女、そして民主主義者コルニュデと
“ 脂肪の塊 ” というあだ名の人気者の娼婦でした。

細かいあらすじを書いてもはじまらないのですが、読み終わった時
私たちは名士夫妻たちや修道女に怒りを覚え、“ 脂肪の塊 ” に
おおいに同情をよせるでしょう。

だいたい、妻は分かるとして夫たち!
“ 脂肪の塊 ” を汚らわしいもののようにあしらいますが、妻が側にいなきゃ
真っ先に言い寄るのはあんたたちだろうが!って言いたいわ

ただ同じ立場に自分がおかれたら・・・と思うと悩みますね。
虚栄心、優越感、羞恥心が邪魔をして可哀想な娼婦に温かく接することなど
できないかもしれません。
集団心理の怖さってこういうところに潜んでいるのかもしれませんね。

『テリエ館(La Maison Tellier)/1881年』
優雅なマダム・テリエが営む娼館テリエ館の物語。
町の名士の社交場であるサロン、労働者たちの憩いの場カフェを併せ持つ
堂々たる人気店が、ある日突然お休みします。
マダム・テリエは5人の娼婦たちを引き連れて、姪の聖なる儀式に出向いていました。

こちらはあっけらかんとしてていいですね。
聖体拝受式に出席して厳かな心になった女たちも、夕方にはお店に出て商売に精をだし、
マダム・テリエも気前のいいところをみせて、なんだか娼館賛美のようにも思える結末。
日本で娼婦を扱うとどうしてもしめっぽくなりがちですから・・・
さすがフランスって感じです。

2篇とも娼婦を主人公にした物語ですが、印象がまったく違います。
もっとも、あくまでも彼女たちのある一部分を切り取った物語ですから
どちらが幸せでどちらが不幸だなんて言えないのですけれどもね。
『脂肪の塊』の彼女もふだんはおもしろおかしく暮らしているかもしれないし
『テリエ館』の女たちも悔しくてやりきれないことがあるかもしれません。

とにかく、新人とは思えない表現力と落ち着いた筆運び… 名作です。
そして、この2話がセットになってるのが面白さを倍増してる!
これから先、何度読んでもあきないと思います。

脂肪の塊・テリエ館 新潮社


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フランス王ロベール2世妃 コンスタンス

2009-01-29 22:28:43 | フランス王妃・王女
猛女現わる!
ロベール2世妃 コンスタンス・ダルル


986~1034/在位 1001 or 1003~1031

ロベール2世はベルタと離婚後、プロヴァンス伯ギョーム1世の娘コンスタンスと再々婚。
これが波瀾万丈の始まりでした。

      

この結婚には先妻ベルタの実家バーガンディー公家も猛反発し
その上、コンスタンスの親族さえも彼女に白い目を向けました。
ロベール2世の友人ユーグ・ド・ボーヴェは王に離婚を進言しますが
コンスタンスは親族の騎士にユーグを殺させるという仕打ちに出ます。

さすがにロベール2世も愛想を尽かしたのか、1010年には前妻ベルタを連れてローマを訪れ
教皇にコンスタンスとの離婚とベルタとの復縁を願い出ます。
これはどうやら受理されなかったようですが
怒りに燃えたコンスタンスは次男、三男の2人を父王に反抗するよう焚き付けます。

次男アンリと三男ロベールは母の言う通りに父王の領土を攻撃し始め
ロベール2世は劣勢にたたされます。
最終的には父子は和解し、王がなくなるまで戦闘は行われませんでしたが
ロベール2世の死後、今度はコンスタンスと息子たちに不和が訪れます。

コンスタンスは自分の領土の、アンリとロベールへの分割と譲渡を拒みます。
アンリは弟の援助を受けて母がいるポワシー城を包囲しました。
さすがのコンスタンスも領土を譲るしかありませんでした。

ところでコンスタンスは諍いの中、王に刺客を差し向けられたこともあったようで
その時には教会の前に仁王立ちになり、ステファン(刺客か?)の両目を
自らえぐり出したと言われています
この中世的な悪行にコンスタンス自身が手をくだしたとは考えられませんが
そう言われかねないほど激しい女性だったと思わせるエピソードですね

1034年、コンスタンスが亡くなるとロベール2世の側に埋葬されましたが
ロベール2世は、せっかくの静かな眠りを3年で妨げられて・・・
本当はベルタが良かったんじゃないでしょうかね?

               
             王妃、お怒りのご様子ですね。
          「離婚してやんないわよっ!」とか言ってるのでしょうか?
                  王の迷惑そうな顔・・・


(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ロベール2世妃 ロザーラ

2009-01-29 22:26:53 | フランス王妃・王女
                肖像画は2人目の王妃ベルタ

たった数日の王妃の座
ロベール2世妃 ロザーラ(シュザンヌ)・ディタリー


937~1003/在位 996

ロザーラはイタリア王ベレンガール2世の娘で、カール大帝の7代子孫にあたります。
最初の夫はフランドル伯アルヌルフ2世でしたが51歳の時死別します。
彼女は息子の摂政になりましたが、同年あるいは翌年
35歳年下 のロベールと再婚します。

これは、フランス王座の世襲を夢見る父王ユーグ・カペーが勢力拡大を狙ってまとめた縁談で
ロベールはまっっったく乗り気ではありませんでした。
だって十代の若者ですもの・・・女性に対していろいろ夢や希望もありましょうに
35歳年上の女性と結婚させられるんじゃ・・・ 気持ちは分かります。

けれどもロザーラにはモントルイユとポンテュウが持参金としてついてきます。
ロベールはロザーラとの結婚を承諾します。
ロザーラはこの結婚にともなってシュザンヌに改名しました。

はたして二人が夫婦として生活したのか? ちょっと計り知れませんが
結婚から6年、ユーグ・カペーが亡くなりロベールが王として即位すると
彼はただちにベルタ・ド・バーガンディと結婚するためロザーラを絶縁します。

ロザーラは離婚後フランドルに戻りましたが、どんな気持ちだったかしら?
まわりから後ろ指とかさされなかったのかしら?
「あんな若い男と再婚するからよぉ」なんて意地悪を言うばあさまがいそう

      

1003年にロザーラは亡くなりましたが、ロベール2世は彼女が持参した領地を
息子のフランドル伯に返却することなく、フランス王国領として保持し続けました。

ちなみにですが、ロベール2世と3番目の王妃の間に生まれたアデルの結婚相手は
ロザーラと最初の夫との間に生まれた息子の息子でした。
わかりませんねぇ・・・ 当時の結婚って




神の怒りにふれたか?
ロベール2世妃 ベルタ・ド・ブルゴーニュ


964 or 967~1016/在位 966~1000

ロベール2世が即位するやいなや再婚したベルタは西フランク王ルイ4世の孫でした。
彼女との結婚は西フランク王位を争っていたカペー家とカロリング家が結びつくことを意味し
カペー家の王権を強化する上で重要なものでした。

       
ベルタも再婚で、最初の夫はブロワ伯ウードで983年頃に結婚しましたが996年に死別。

好都合なことにロベールも王となり、自由にロザーラと離婚することができます。
普通は父王だったり、夫だったりの死後1年ぐらい喪に服すものだと思うんですが
二人は即再婚します。

しかし、ロベール2世とベルタはいとこ関係にあり
この結婚によって教皇グレゴリー5世から破門を言い渡されてしまいます。
999年、子供が生まれてすぐ亡くなったことで
ロベール2世は破門の恐ろしさが身にしみたのか、教皇シルヴェスタ2世に許しを請い
1000年ベルタとの結婚を解消します。

『カノッサの屈辱』とかありましたけど、教皇の破門てそんなに恐ろしいのかしら?
奥様だって子供を亡くして悲しんでいるだろうに、神を怖れて離婚しちゃうって
人としてどうなんでしょう?

いとこ同士の結婚は他にもかなりあると思うのですが
(なにしろいくつかの家同士があっちで結婚、こっちで結婚している状態で
 家系図グチャグチャ~、です)
教皇が与える特免状の基準も曖昧な気がします。 家の力かしら? 献金の金額かしら?

ベルタは再婚せず余生を過ごしたようです。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ユーグ・カペー妃 アデライード

2009-01-28 22:44:52 | フランス王妃・王女
伝統を誇る家系の源
ユーグ・カペー妃 アデライード・ダキテーヌ


945 or 952~1004/在位 987~996

やっちまいました…フランス

フランス王妃に関する文献は、手に入りやすい日本語のものだと
ほぼマリー・アントワネットカトリーヌ・ド・メディシスに集中していて
他の女性のエピソードは皆目手がかりがないのですが、家系図作っちゃったし…
Wikipediaを頼りに頑張ります(フランス語はわかりませんのでね)

さて、フランスですが、フランク帝国の一部である西フランク王国が
後のフランスになっていくので、西フランクをフランスとするものもあるのですが
ちょいとめんどくさいので、カペー家が王になったところから始めます。

カロリング家最後の王ルイ5世の死にともない、領封君主たちから選出されたのが
カペー王朝の始祖ユーグ・カペーでした。
父のパリ伯ユーグは西フランク王ロベール1世を父に持ち
同じく西フランク王ウードを叔父に持っていました。
祖父や父などはロベール家とも言われます。

      

当時は国といっても、アキテーヌ公、ブルゴーニュ公、ノルマンディ公、
プロヴァンス候、フランドル伯などの大領主が自分たちの領土を支配していて
カペー家もたんなる領主の一家系にすぎませんでした。

そりゃあもう各家入り乱れての戦いが繰り広げられていて
カペー家が王家として確立するのはずっと後になります。

ユーグ・カペーは王になる前の970年、アキテーヌ公の娘アデライードと結婚します。
これは両家の休戦の担保として結ばれた婚姻でした。
アデライードの母もノルマンディ公ロロの娘ですから
たぶんアキテーヌ公家とノルマンディ公家の和解のために嫁いだのではないでしょうか?

ユーグ・カペーはせっかく手に入れた王位を息子に譲ろうと奔走し
生前に息子ロベールへの継承を確実にします。

これが後にヴァロア家、ブルボン家へとつながり
ヨーロッパ中に家系をはりめぐらせるカペー家の一歩となりました。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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『分別と多感』世間は狭かったのだ

2009-01-28 22:17:33 | イギリス・アイルランドの作家
SENSE AND SENSIBILITY 
1811年 ジェーン・オースティン

訳者(真野明裕氏)によるところが大きいのかもしれませんが
他作と比べて、会話にあまりもってまわった感がなく、ちょっと現代風かな? と
思わないでもないですが、テンポがあって読みやすかったです。

オースティンの作品にでてくる登場人物はだいたい構成が決まっていますね?
知的で分別のある主人公女性と、寡黙だけど教養豊かな男性
(だいたい主人公の恋のお相手ですね オースティンの好みでしょうか?)
ハンサムだけど軽薄な男性、意地が悪い恋敵の女性、おバカな娘たち
思慮深い友人、おしゃべりな老人、退屈な婦人連、といったところでしょうか。

『分別と多感』でもお決まりの分かりやすい面々が顔をそろえているわけですが
相変わらず各人の性格描写が細かくて、それだけでも面白く読めてしまいました。

物語は、まさにオースティン型主人公ともいえるエリナと
彼女の妹で、感受性が強く熱烈な性格を持つマリアンの恋の成り行きを
対比させて進んでいきます。

デボンシャーで幸福だったマリアンはロンドンで深く傷つき
エリナは不安だらけの恋の成り行きを静かに受け入れようと努めます。

他の登場人物もオースティンン作品らしい以下の面々。
エリナに好意を寄せていると思われるのにハッキリ態度を示さないエドワード
マリアンをもてあそんだ浪費家の好青年ウィロビーに加え
慈愛に富んでいながら詮索好きなジェニングズ夫人や
嫉妬に燃えながら親友ぶってくるルーシィと姉のアン
エリナの良き相談相手ブランドン大佐、利己的な義兄夫婦などなど…

会いたい人だけでなく会いたくない人にもなぜだか会わずにおかない当時の事情
うざったいわぁ。

同じ時期に田舎で過ごし、同じシーズンをロンドンで迎える社交家たちは
だんごのようになって移動して、同じ顔ぶれで集まってばかりで飽きないか?
こういう中の上流、上流のサークルは、はいて捨てるほど存在したと思われますが
イギリスにおける(当時の)階級社会の根深さを感じましたね。

物語はオースティンらしく、幸せになるべき人たちは幸せになって
幸せになってほしくない人たちも(皮肉たっぷりですが)幸せになった様子が紹介されて
終わりを迎えます。

本当は不幸になってほしいなぁ、と思う人物も数人いるのですが
そんな凡庸なことを、オースティンが書くわけないですね

分別と多感 筑摩書房


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文庫にすれば良かった…

余談です
たぶん映画かドラマになったのでしょうが、この表紙、大嫌いなんですけど…
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スコットランド女王 メアリー

2009-01-25 01:18:53 | スコットランド王妃・王女
天国と地獄をみた
スコットランド女王 メアリー・ステュワート


1542~1587/在位 (スコットランド女王)1542~1567
           (フランス王妃)1559~1560

あまりにも有名な女王メアリーは、イングランド女王エリザベス1世
比較されることが多いのですが、どちらサイドにたって書かれたのかで
かなり印象が違う女性です。(歴史って、えてしてそんなものですけどね)

メアリーは父王の死によって生後6日で女王に即位しますが
なにしろ赤ちゃんですからね、もちろん何もできるわけではありません。
しかし幼い女王には花婿候補がぞくぞく現れます。
ヨーロッパはカトリック、プロテスタント入り乱れて覇権争いのまっただ中で
スコットランドを手中におさめたい国は数多ありました。

中でもイングランドのヘンリー8世は、王太子エドワードとの結婚を
しつこくしつこくせまります。
スコットランドは国力も低下していてイングランドと闘う力はありません。
イングランド支配は逃れたいものの、面と向かって断る勇気もありません。
結局、王太后メアリー・オブ・ギーズの意向で、5歳の時にフランスに留学させられます。

ゆくゆくはフランス王太子フランソワとの結婚がみえみえなこの留学、
スコットランドはイングランドを警戒し、影武者を2、3人たてるほどの用心をします。
メアリーは無事フランスに到着しました。

フランスでのメアリーについては、“ フランス王妃篇 ”
やる気か?私は)でふれるとして
未亡人となってイングランドに帰国してからのメアリーを簡単にご紹介。

フランス宮廷において、屈指のラグジュアリー&ゴージャスな生活を送ってきたメアリーは
即座にスコットランドの宮廷に退屈しはじめ虚しさを募らせていきます。

スコットランドにとって、若き未亡人メアリーは最大の外交手段だったのですが
彼女はそんなことおかまいなしに、手近なところで婿を見つけ再婚してしまいました。

相手は彼女の従兄弟にあたるダーンリー卿ヘンリー・ステュワートで
イングランド仕込みの小粋な青年でした。
メアリーはすぐに心奪われ4ヶ月で結婚しますが、この結婚は半年で破綻します。

ちなみにメアリー同様、ダーンリー卿も
ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーの孫にあたり
二人の息子ジェイムズ6世がイングランド王位を継ぐ要因になります。

       

嫉妬深い夫に寵臣リッチオを殺され、軟禁されたメアリーは
脱走に手を貸してくれたボスウェル伯ジェイムズを愛するようになります。
翌年、ダーンリー卿が変死しますが、付近にボスウェル伯がいて疑われたこと
さらにはそのボスウェル伯とメアリーが結婚したことで
スコットランドはメアリーを廃位し、幼い息子(またですか?)を即位させます。

抵抗を試みたものの失敗し、ボスウェル伯も失ったメアリーは
エリザベス1世を頼ってイングランドに逃走します。
これはかなり厚顔無恥な行動です。

自らにイングランドの王位継承権があるメアリーは
かねがねエリザベス1世の王位継承の不当性を訴えていて
自分の紋章にイングランド王の紋まで入れていました。

エリザベス1世だって困ります。
一応親族ではあるし、人目もあるしで無下に扱う訳にもいきません。
そんなわけで(かなり自由な)軟禁状態におくわけですが
メアリーは助けてもらっていながらその後もイングランド王位を主張したり
反エリザベス派と会ったりして全く反省する様子がありませんでした。
軟禁から19年後、とうとうクーデターの首謀者として処刑されることになります。
(無実だという説もありますが)

なんていうのでしょう、生まれながらの女王ですから
人の上に君臨していない自分というのが理解できなかったのでしょうね?
一度味わったら忘れられない権力者の蜜の味・・・返り咲きたかったのでしょうか?
ただ、生まれながらの女王にしてはかなり思慮に欠ける女性であったような気がします。

この後、スコットランド王ジェイムズ6世は、母親があんなに欲しがっていた王位を継承して
イングランド王ジェイムズ1世となります。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』『英国王室史話』)
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スコットランド王ジェイムズ5世妃 メアリー

2009-01-25 01:16:08 | スコットランド王妃・王女
常に実家頼みだった王妃
ジェイムズ5世妃 メアリー・オブ・ギーズ


1515~1560/在位 1538~1542

先妻マデリーン・オブ・ヴァロアを亡くしたジェイムズ5世は、再びフランスを訪れます。

マデリーンが亡くなる1ヶ月前、メアリー・ド・ギーズは夫のロングヴィル公を亡くし
未亡人になっていました。

思いおこせば、マデリーンへの最初の求婚が断られた時
ジェイムズ5世はメアリーにうつつをぬかしたものでしたね。
今ふたたび未亡人になったメアリーに俄然熱い視線を注ぎます。

    

ところがジェイムズ5世の叔父にあたるイングランド王ヘンリー8世は
この動きに警戒心を抱きます。
フランスとスコットランドの同盟関係が強まることを怖れたヘンリー8世は
3人目の妻を亡くしたばかりでしたので、急いでメアリーに求婚します。
しかしヘンリー8世の、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン
2人目の妻アン・ブーリンへの仕打ちを知っていたメアリーは
まったく相手にしようとしませんでした。

フランソワ1世は、ジェイムズ1世の申し入れを容認し、メアリーの父に伝えますが
彼女は息子ルイを亡くしたばかりで、家族の側を離れたくないと悩みます。
結局、ジェイムズ5世の一生懸命な説得に負けてスコットランドに嫁ぎました。

二人の王子を生んだメアリーでしたが、王子は幼くして同時に夭逝します。
その翌年、長女メアリー(後の女王)を生みました。
その時ジェイムズ5世はイングランドに敗れた失意で病床にいましたが
報告を受けてただひと言「女か…」と言ったそうです。
病状は悪化し、メアリー誕生から6日後に亡くなりました。

幼い女王を抱えたメアリーは万事をフランスの実家に頼り
娘を幼いうちにフランスへ渡らせたりして、女王の人生に多大な影響を与えます。
45歳でエディンバラで他界し、なぜかフランスに埋葬されました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジェイムズ5世妃 マデリーン

2009-01-25 01:14:59 | スコットランド王妃・王女
命を縮めた結婚
ジェイムズ5世妃 マデリーン・オブ・ヴァロア


1520~1537/在位 1537

ジェイムズ5世は、1歳5ヶ月で即位しましたが
王太后マーガレット・テューダーがほどなくイングランドに追放され
摂政オールバニー公を始めとする親仏派に囲まれて育ったせいか
自らもフランスびいきになっていきました。

なにしろ幼い王、戦乱に陥っていたヨーロッパで少しでも同盟国を増やしたい各国の王は
ジェイムズ5世に熱い視線を向けました。
後のイングランド女王メアリー・テューダー
後のフランス摂政カテリーナ・ディ・メディチなど
婚姻の申し入れは山のようにありました。

そんな中、お年ごろになったジェイムズ5世は、同盟関係の強化や莫大な持参金を考え
フランス王フランソワ1世の娘マデリーンに求婚します。

     

マデリーンは生まれたときからか弱く、フランソワ1世は彼女を
パリより暖かい地方で大事に大事に育てていました。
ですから、スコットランドの過酷な気候には娘が耐えられないと思い
健康を理由に申し出を断りました。

するとジェイムズ5世はとっととマリー・ド・ギーズに目を向けます。
ただ、当時マリー・ド・ギーズは既婚ですから、不倫か
あるいは、すでに夫の病状が危なかったのかもしれません。

けれどもジェイムズ5世は宮廷でマデリーンを見かけると
自分の行いが恥ずべきことに思えてきました。
なんか・・・ラブ・ストーリーっぽくなってきましたねっ
そして再びフランソワ1世に結婚を申し入れます。

フランソワ1世はあきらかに嬉しそうなマデリーンを見て断りきれず
しぶしぶ結婚を認めました。
あぁ、娘可愛さが裏目にでてしまうのですね。

1937年1月、フランスで式を挙げた二人は5月にスコットランドへ向かいますが
その2ヶ月後、マデリーンはエディンバラで17年の短い生涯を終えます。

私利私欲のためなら娘の幸せや人生なんか顧みない父親が多いこの時代、
身体を心配してくれた父王の反対をおしきってまで果たした結婚は
数ヶ月の儚いものでしたが、マデリーンは幸せだったかもしれないですね。
いやな相手と結婚させられるよりも、自分が望んだ相手と結ばれたのですものね。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジェイムズ4世妃 マーガレット

2009-01-24 21:18:00 | スコットランド王妃・王女
後に大英帝国をもたらす結婚と再婚
ジェイムズ4世妃 マーガレット・テューダー


1489~1541/在位 1503~1513

15歳で即位したジェイムズ4世は、父王とは違って果断な性格でした。
国内の反乱は徐々におさまり、また、王権に属さない氏族などの鎮圧にも
力を注いでいましたが、イングランドとの関係は相変わらず不穏なままでした。
ヘンリー7世はなんとかフランスとスコットランドの結びつきを緩めようと
娘マーガレットとの婚姻を、ジェイムズ4世にしつこく申し入れます。

     

実はジェイムズ4世はマーガレット・ドゥラモンドと
事実上の結婚生活を送っていて、娘もいました。
マーガレットはデイヴィッド2世妃マーガレットの4代隔てた姪にあたります。
けれども、自分のためにスコットランド王が結婚を躊躇していると知ったマーガレットが
身を引くために、妹2人と服毒自殺してしまいました。
(自殺かそれとも・・・それは永遠の謎ですね)

ジェイムズ4世はマーガレット・テューダーとの結婚を承諾します。
ジェイムズ4世30歳、マーガレットは13歳でした。

マーガレット姉妹の死があったからなのか、ジェイムズ4世は贖罪のため
腰回り(もちろん衣服の下)に鎖を巻いていたといいますす。
13歳の少女がそれを見てどう思ったかを考えると・・・王女というのもつらいものですね。

しかし、事態はマーガレットの父ヘンリー7世の死後急変します。
ヘンリー7世の後を継いだヘンリー8世は、フランスとの争いを激化させていきます。
義弟ヘンリー8世が君臨するイングランドと、同盟国フランスの仲介役をかって出た
ジェイムズ4世でしたがうまくいかず、逆にフランス王ルイ12世の要請で
イングランドに兵をさしむけることになります。
そして1513年、名高い激戦フロドゥンにおいて戦死してしまいます。

ちなみにルイ12世はその翌年、イングランドと和解してヘンリー8世、そして
マーガレットの妹メアリー・テューダーと結婚しました。
いったいなんのためにジェイムズ4世は死ななければならなかったのでしょうね?

それはさておき・・・
幼い王を抱えた摂政マーガレットは、強力な後ろ盾を探しダグラス家にロック・オン!
親英派のアンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚します。
ジェイムズ4世の生前から関係があったとも言われていますけれども
ともかく王の死後1年で、しかもこっそり結婚したとあって
たちまち親仏派の反撥をまねきます。

マーガレットは摂政の座をおわれ、新たに摂政となったジェイムズ4世の従兄弟にあたる
親仏派オールバニー公ジョンによってイングランドに追放されてしまいました。
しかしこれには親英派も黙っておらず、国内は(簡単に言えば)混乱に陥ります。

国内を大わらわしたマーガレットとアンガス伯の結婚生活はまったくうまくいかず
アンガス伯がジェイムズ5世をとりこもうと軟禁したことで不仲が決定的になり離婚します。

その後、終始親英派だったメスヴァン卿ヘンリー・ステュワートと再々婚しますが
彼も殺害され、ひとり寂しい老後を過ごしてこの世を去りました。

ところで、後年イングランド王として即位するジェイムズ6世は
ジェイムズ4世とマーガレットの孫、スコットランド女王メアリーを母に持ち
マーガレットとアンガス伯の孫、ダーンリー卿ヘンリーを父に持っていたことから
ヘンリー7世に繋がり、王位継承者としてエリザベス1世に指名されます。

本当に中世の王位継承って複雑怪奇で、いったい誰がちゃんと把握してたのか
不思議でたまりません

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジェイムズ3世妃 マーガレット

2009-01-24 21:17:47 | スコットランド王妃・王女
イングランドに新しい領土をもたらした
ジェイムズ3世妃 マーガレット・オブ・デンマーク


1456~1486/在位 1469~1486

またまた父王の早世によって即位したジェイムズ3世は8歳でした。
王太后であるマリーも11歳の時に亡くし
hとり残された幼王は、またもや大人たちの野心の餌食になってしまいます。

17歳の時、13歳のマーガレット・オブ・デンマークを妃に迎えますが
この結婚はスコットランドにオークニ諸島とシェトランド諸島をもたらします。

      

マーガレットの父クリスティアン1世が君臨する
カルマル同盟下のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの大連合に
北からの脅威を防ごうと組まれた婚姻だったと思うのですが
なぜかクリスティアン1世は大変困窮していたご様子で
持参金が用意できなかったそうです。

ジェイムズ3世は結婚と同時に親政に乗り出し
父王を見習って傲慢な貴族を一掃しようと考えます。
しかし父王と違って気が優しかったジェイムズ3世の処断はあまくなってしまい
かえって不満の種を増やしていってしまいます。

厳しきゃ不満を言うし、あまけりゃあまいでブツブツ言って・・・
いったいどうしろというのかね? 貴族ってワガママね

反ジェイムズ3世の急先鋒は、なんと弟のオールバニー公アレグザンダーで
イングランド王エドワード4世の援助を受けたアレグザンダーのもとに不満貴族が終結して
戦闘が始まります。

この件に関してもジェイムズ3世の対応はあまく、味方であった貴族まで敵に回す始末
その中には王太子ジェイムズも加わっていました。
王太子にその気はなかったようですが、反乱軍は粉引き小屋に隠れていたジェイムズ3世を
引きずり出してその場で殺害してしまいました。

マーガレットは王の死に先立つこと2年前、1486年に亡くなっています。
夫の死に息子が一役かっていたことを知らずにすんで幸せだったかもしれないですね。

             
            肖像画がかなりリアルになってきましたね
                   こちらは今までのタイプです


(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジェイムズ2世妃 メアリー

2009-01-24 21:17:33 | スコットランド王妃・王女
大砲に夫を奪われた
ジェイムズ2世妃 メアリー・オブ・グェルダー


1434~1463/在位 1449~1460

父王の死によって6歳で即位したジェイムズ2世は、野心満々の大人たちに囲まれて
まったく存在感を示せないまま成長しますが
虎視眈々と親政を摂った時の構想を練っていました。

18歳でその時がやってくると、まずは自らの結婚問題に手をつけます。
当時であれば、野心家に自分の娘をおしつけられても不思議ではなかったのですが
よくぞ18歳まで独身でいられました。
(スコットランド王という地位はあまりオイシくなかったのでしょうか? )

ジェイムズ2世は対外的にプラスになるという一点に絞ってお妃選びをします。
こうして選ばれたのがブルゴーニュ公の姪にあたるメアリー・オブ・グェルダーでした。

      

しかし前王の妃はイングランドから、今回はフランスから、と
敵対する国から交互に妃を迎えるあたり、スコットランドはいったい
どうしたかったのでしょうね?
とりあえずはイングランドに寄りかけていた方針を
フランス寄りに修正したかったみたいです。

ジェイムズ2世は1455年、念願だったブラック・ダグラス家一掃を成し遂げますが
そのためにオランダから輸入したといわれる大砲モンス・メグの事故で30歳で他界します。

メアリーはその3年後29歳で亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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『おばあさん』善人に幸多かれ!

2009-01-22 22:58:02 | その他の国の作家
BABICKA 
1855年 ボジェナ・ニェムツォヴァー

主人公の “ おばあさん ” がどんなに良い人かということが延々と書き綴られている物語。
これがけっこうしんみり面白いのです。

公爵夫人に仕える娘夫婦を手伝うために
チェコの山中からボヘミアにやってきたおばあさんと、孫たちや村人、
ご主人である公爵夫人とのふれあいがテーマです。
ほとんど悪い人が登場しないという、小説として成り立つのだろうか?と思わせる内容ながら
退屈することなく読み進めました。

ボヘミア地方の言い伝えや古い風習も盛り込まれ、四季の移り変わりや日々の行いが
みずみずしく描かれていますし、恋ややきもちなどもほどよくちりばめられて
決して道徳一辺倒ではないのですね。

おばあさんはたぶん100歳近くまで生きて静かな臨終をむかえるのですが
良い人たちは皆幸せになりましたとさ・・・という、ハッピーな内容。
確かに100年以上読み継がれた国民的な本なだけあります。

おばあさんは磯野フネさん的な女性で、優しいだけではなく
厳しいことや耳が痛いことも率直に言ってくれる、側に居たら頼りになりそうな人です。

物語の中ではキリスト教の祭りごとや、収穫祭とか結婚式とか
村人総出で祝うことが多々あって、なにかしら顔をあわせているんですから。
じい様やばあ様の知恵も役立つってものです。

公爵夫人がおばあさんのことを「幸せな人だこと」という場面が2回あって
そのうちの1回はおばあさんの葬送を見ていた時です。
こんな人生が送れたら本当に幸せでしょうが
人びとの繋がりが希薄になっている現代では難しいでしょうね・・・

しかし、こんな幸せな物語の中でも戦争が至る所に暗い影をおとしています。
兵役が14年ってあなた・・・青春だいなし。
チェコやハンガリー、ボヘミアなどは当時ハプスブルク家の勢力下にあり
いろいろな紛争に巻き込まれていたんですよね。

この物語の登場人物にはモデルがいたようです。
“ おばあさん ” は作家の祖母で、バルンカという年長の孫が作者だったようです。
巻末に実際はどうだったか書かれているのですが、これが・・・
人生って甘くないわね、と思わされ少し凹みます
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『夢の女・恐怖のベッド 他六篇』劇場型・・・ですかね?

2009-01-22 01:05:52 | イギリス・アイルランドの作家

ウィルキー・コリンズ

ウィルキー・コリンズは『白衣の女』の作家でしたね。
劇作家でしょうか? お父様は有名な風景画家らしいです。
だからなのか、読んでいて脳裏に舞台装置や台詞のやりとりが浮かんできました。
日常に潜む謎や心理的な恐怖というよりは、ストーリーを練って練り上げたような・・・
ビジュアル型っていうのかしら?
背景を見られることを意識したお話しという感じを受けました。

『家族の秘密(The Family Secret)/1857年』
優しかった叔父さんが失踪した理由を追い続け、やっと外国の墓地で手に入れた真実。
叔父がイギリスを去ったのは、幼い頃亡くなった姉の首の腫瘍が関係していました。
医師だった叔父は姉の手術の執刀をしますが、手術は失敗に終わったのです。

『夢の女(The Dream Woman)/1855年』
自分が女に殺されそうになる夢を何度も見ていたアイザックは、
その内容を克明に母親に語っていました。
7年後に美しい女性と恋に落ちたアイザックですが
息子の夢の話しを覚えていた母親は、その女が夢の女だと気付きます。

『狂気の結婚(A Mad Marriage)/1874年』
メアリーの結婚相手は父親の手で精神病院に入れられていました。
しかしそれは莫大な財産を渡さないための策略だったのです。
二人はアメリカで幸せに暮らしているという手紙を友人に送ります。

以上、家族を題材にしたものを3篇あげてみました。

最後の『狂気の結婚』では、当時の精神病院のあり方や法律を非難していますが
これは『白衣の女』でも少しふれられていましたね。
彼のライフワークだったのでしょうか?

ちなみにこの精神病に関しては、今は知りませんが “ 精神を病んだ配偶者とは離婚できない ”
という法律があったようで、割と物語に登場していますね?
『ジェイン・エア』のロチェスター氏もそうでしたし
アガサ・クリスティーのミステリーにもそういうものがいくつかあった気がします。
なんの根拠でそんな法律があったのか知りませんが、悪法ですよね?

好きか嫌いかと問われたら、あまり好きではないですね。
けっして面白くないわけではないのですけれども
「物語にしよう!」という意気込みがありすぎて・・・

夢の女・恐怖のベッド―他六篇 岩波書店


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スコットランド王ジェイムズ1世妃 ジョアン

2009-01-21 02:29:35 | スコットランド王妃・王女
からだをはって王を守ろうとした
ジェイムズ1世妃 ジョアン・ボーフォート


1404~1445/在位 1424~1437

ジェイムズ1世は、1406年に12歳で即位したものの
18年後の1424年までイングランドで囚われの身になったままでした。

とはいえ、なんだか不思議な関係のスコットランドとイングランドなわけで
ジェイムズ1世もかなり厚遇され、宮殿の催しや舞踏会などに参加して
囚われ生活をエンジョイしていたようです。

ジェイムズ1世は宮廷でジョアンを見初めて恋いこがれるようになりました。
なんとジョアンへの想いを『 王の献辞 』という詩にしたためています。
今で言うラブソングですかね こっぱずかしい~

ジョアンの祖父はエドワード3世の息子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントで
イングランド王ヘンリー5世とは従妹にあたります。

      

相変わらずフランスと一進一退の戦いを続けていたイングランドは
スコットランドがフランス側につかぬよう
ジェイムズ1世をジョアンと結婚させて国に帰すことにしました。
かくして1424年、二人は結婚しスコットランドヘ向かいました。

ジェイムズ1世は、自分がいない間に好き放題やっていた貴族の一掃に乗り出します。
まず槍玉にあげられたのはオールバニー公ロバートから摂政を引き継いでいた息子で
ジェイムズ1世の従兄弟にあたるマードックでした。
マードックはジェイムズ1世の帰国交渉をイングランドと行っていた人物ですが
そんなこと知ったこっちゃない!とばかりに処刑します。

ジェイムズ1世は不正を許さず
公正で庶民の生活向上に努めた国民にとってはいい王様だった一方で
あまりにも強引な統治と貴族への厳しい処断などが不満を招き
1437年、とうとう叔父にあたるアサル伯らを中心とする不満貴族たちに
暗殺されてしまいます。

ジョアンはその時王と一緒にいて、刺客と王の間に立ちはだかり
王を守ろうとしたといいますが、王は目の前で殺され自らも怪我をおいます。
弱々しく思われる淑女たちですが、いざとなると勇ましいものですね

間もなくアサル伯らが捕えられると凄まじい拷問を与えたと言われていますが
どうなんでしょうね? こういう噂はけっこう中世時代には多いですけど。

             
            美人の誉れ高いジョアン・ボーフォートなんですが…

王の死から2年後、ジョアンはサー・ジェイムズ・ステュワートと再婚します。
名前こそ王と同じですが、彼は一介の騎士で、結婚はかなり身分違いでした。
“ ローンの黒騎士 ” と呼ばれてますから、英雄だったのかもしれません。

再婚から6年後の1437年に、幼い息子3人を残し亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ロバート3世妃 アナベラ

2009-01-21 02:03:33 | スコットランド王妃・王女
放蕩息子に悩まされた
ロバート3世妃 アナベラ・ドゥラモンド


1650~1401/在位 1390~1401

ロバート2世の後を継いで王になったロバート3世は、父王の晩年には摂政をしていました。
しかし、母エリザベス・ミュアの結婚が正当でないとされる時期に生まれていたことと
摂政時代に重傷を負い身体が不自由になったことから、即位が危ぶまれたこともありました。

本名はジョンといいましたが、即位する際にロバートに改名しています。
そのため、度々摂政となって兄王を助けた弟のオールバニー公ロバートと
同名になってしまいました。

      

アナベラとは摂政時代の1367年に結婚しました。
彼女はデイヴィッド2世妃マーガレットの弟ジョンの娘にあたります。
ロバート(ジョン)は30歳、アナベラは16歳でした。
             
             ちょっとだけリアルなアナベラです

二男のデイヴィッドがどうしようもない不道徳者で(長男は早世)
いくら皇太子でも見過ごせなくなってきたことから
ロバート3世は弟のロバートに息子を預けることにします。
デイヴィッドはフォークランド城に軟禁されたのですが
アナベラはそのことがひびいたのか同年の10月に亡くなってしまいました。

翌年3月にデイヴィッドがフォークランドで変死します。
餓死という噂や毒殺説が流れましたが、結局は自然死で落ち着きました。

ロバート3世はというと、弟ロバートを疑いながらも強い態度に出れず
悶々とした日々を送りますが、三男ジェイムズを守らねば!と思い立ち
1406年にフランスへ留学させることにします。

ところがジェイムズも航海中病気になり、イングランドに上陸して
逮捕・監禁されてしましました。
ここでも弟ロバートがイングランドに密告したと疑われました。
ロバート3世はショックを受けたのか寝込んでしまい、3ヶ月後に亡くなります。

弟ロバートは不在の王に代わって、摂政として国を治めていくことになります。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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