まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝カール4世妃 エリーザベト

2011-01-20 22:32:40 | ドイツ系王妃
お若いのにしっかりしていらっしゃる
カール4世妃 エリーザベト・フォン・ポンメルン


1347~1393/在位 (神聖ローマ皇后)1363~1378 (ボヘミア王妃)1363~1378

二人目、三人目の妃を若くして亡くしたカール4世は、またまた若い妃を迎えました。

お相手はポメラニア公ボギスワフ5世の公女エリーザベトです。
母親はポーランド王カジミェシュ3世の王女エルジェーベトです。

         

前妃アンナの死から10ヶ月後にクラクフで式を挙げました。
けっこう素早い再婚でしたね。
三度の結婚で皇子が一人しか残っていないということに焦っていたと思われます。

エリーザベトは16歳、カールは47歳でした。
カール4世はただの若い娘好き…というわけではないんですよ(と思ふ)
この結婚は、オーストリア公ルドルフ4世・ハンガリー王ラヨシュ1世と
カジミェシュ3世による反チェコ連合に亀裂を与えるための政略結婚でした。
ちなみにルドルフ4世は次女カトリーヌのお婿さんですけどね…

祖父の敵陣に乗り込んで来たエリーザベトは、年は若かったですけれども
精力的で自信に充ち満ちた女性だったようです。

夫婦の仲は睦まじかったということで、カール4世が重い病にかかった時には
大聖堂まで徒歩で赴き、供え物をしたり祈りを捧げたりしたそうです。

エリーザベトはカール4世に四男二女を授けました(皇子二人は1歳で夭逝)
でもカール4世は前妃たちが生んだ子供たちの方を好んでいたみたいで
つらい思いをしたようです。

1378年、カール4世が亡くなりました。
エリーザベトは12歳を筆頭にまだまだ幼い4人の子の育児に専念します。
特に長男ジギスムントがハンガリー王になれるように心血を注ぎました。
ジギスムントはハンガリー女王マリアと結婚してハンガリー王になり
兄ヴェンツェルの後を継いでボヘミア王になり、ついに神聖ローマ皇帝になります。

エリーザベトは1393年に亡くなり、ヴィート大聖堂のカール4世の隣に葬られました。
前も書いたけど、ここには4人の妃がカール4世と眠っているのよね。
どうやって並び順が決まったのか気にかかるんだわ。

ジギスムントのボヘミア王、神聖ローマ皇帝即位には立ち会えませんでしたが
ハンガリー王即位だけでも目にすることができてよかったですね。

しかし、せっかくふたつの王座と皇帝の座まで手に入れたジギスムントだったのに
子供が王女エリーザベトしか生まれず(皇子は死産)紆余曲折の末
娘婿アルブレヒトの実家ハプスブルク家に何もかも持っていかれることになります。

ハンガリーの続きはこちらから
神聖ローマ帝国の続きはこちらから見てみて下さいな

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝カール4世妃 アンナ

2011-01-20 01:33:44 | ドイツ系王妃
またまた若くして亡くなる
カール4世妃 アンナ・フォン・シュヴァイトニッツ


1339年~1362年/在位 (神聖ローマ皇后)1355~1362 (ボヘミア王妃)1353~1362

カールの3人目の妃は、ピアスト家のシフィドニツァ公ヘンリク2世の公女アンナです。
ヘンリク2世はアンナが4歳の時に亡くなってしまいました。

アンナの母カタリンはハンガリー王カーロイ1世とマリア・ピアスト
エルジェーベト・ピアスト、どっちかの王女でした。
王女なのに誰の子かはっきりしないってどうよ?
そんなわけで、アンナも母の故郷ハンガリーで育ちました。
     

アンナは最初、カール4世と二人目の妃アンナ・ダー・フォン・プファルツ
王子ヴェンツェルと婚約していました。
ヴェンツェルは生まれたばかりの0歳で、アンナは11歳でした。
しかし、ヴェンツェルは1歳で亡くなってしまいました。

その2年後にアンナ(プファルツ)が亡くなると、カールはアンナ(シュヴァイトニッツ)を
自分のお妃にしようと考えます。

若い子好きってわけじゃないの。
ボヘミア近隣で郡を成す、ピアスト家の公国、シュレージェン(シロンスク)地方を
コントロールするための政略結婚なんですよ!

で、この結婚にはローマ教皇インノケンティウス6世の特免状が出されたっていうんだけれども
なんで? そんなに濃ゆ~く血がつながっているようには見えないんだが…
          
         
どうこれ? 繋がってないよね?
それとも他で濃い~い繋がりがあるんでしょうか? たどりきれませんでした

たぶん、アンナが14歳になるのを待って1353年に結婚、カールは37歳でした。

王女エリーザベトに続き、待望の皇子ヴェンツェルが生まれました。
(前妃アンナとの間に生まれて1歳で亡くなった皇子もヴェンツェルでしたけど…
 よっぽどこの名前がつけたかったと思える)
アンナは、結婚から10年目、第三子出産の際に亡くなりました。
またまた23歳という若さでした。
          
カール4世、お祓いかなにかすればよかったんじゃないのぉ?
あ、神聖ローマ皇帝だから教会で何かやっていたかもしれませんね

アンナはヴィート大聖堂に葬られました。
ここにはカール4世の前妃二人ブランカとアンナがすでに眠っていました。
後にカール4世も、四人目の妃エリーザベトも葬られています。
どういう順番で並んでいるのでしょうね?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝カール4世妃 ブランカ

2011-01-19 22:17:58 | ドイツ系王妃
最初の王妃
カール4世妃 ブランカ・マルガレーテ・フォン・ヴァロア


1316年頃~1348/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ボヘミア王妃)1346~1348

カールの父ボヘミア王ヨハンは、ドイツ王になれず、神聖ローマ皇帝の座は
ヴィッテルスバハ家のルートヴィヒ4世に奪われていました。

1346年、ヨハンの画策でルートヴィヒ4世の対立王に選ばれたカールは
翌年ルートヴィヒの事故死によって単独王になり、1355年に晴れて皇帝に即位しました。

そんなカール4世の妃ブランカはフランス王フィリプ3世とイザベル・ダラゴンの王子
ヴァロワ伯シャルルの娘でした。

姉のイザベラはブルボン公ピエール1世に嫁ぎ、その娘、つまりブランカの姪が
シャルル5世妃ジャンヌです。

けっこう華々しい家系なんですけど、ブランカ自身のエピソードはあまり無し…
ブランカが十代前半だと思われる1328年に
12歳のボヘミア王子カレル(カール)と結婚しました。

1346年にカレルがボヘミア王に即位し、ブランカも王妃になりました。

        
カールは単独のドイツ王にはなったといっても、聖職選帝侯の支援を受け
教皇の言いなりのように思われていて貴族たちの嘲笑の的でした。

ブランカはカールが皇帝に即位する前に亡くなっていますので
後に金印勅書を定めたりして力を発揮する姿は見ておらず
夫のみじめな姿だけを見ていたことになりますね。
もしかしたら、妻の前では力強く未来の構想を語っていたかもしれないですね。

王女がふたり生まれまして、姉マルガレータはハンガリー王ラヨシュ1世妃になりましたが
14歳で亡くなっています。

次女カタリーナは最初ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世に嫁ぎました。
この人は後に舅のカールに歯向かいます。
死別して翌年バイエルン公オットー5世と再婚しています。



                 
ふたりめの王妃
カール4世妃 アンナ・ダー・フォン・プファルツ


1329~1352/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ボヘミア王妃)1349~1353

前妃ブランカの死から9ヶ月後、ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)は
新しい妃アンナを迎えました。

アンナはバイエルン公ルドルフ2世の公女でした。
          
1350年、待望の王子ヴェンツェルが生まれますが1年で夭逝します。
アンナはその後子供ができませんで、23歳の若さで亡くなりました。

カール4世はお妃運があまり良くないのよね。
皆若くして亡くなっちゃって…次の王妃もそうなんですよ。 つづく

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世妃 マルガレーテ2世

2011-01-16 02:21:52 | ドイツ系王妃
領主も楽じゃない・・・
ルートヴィヒ4世妃 ホラント伯マルガレーテ1世


1311~1356/在位 1328~1347

マルガレーテはエノー伯ギョーム1世の娘で
ルートヴィヒが前妃ベアトリクスを亡くした2年後の1324年に嫁ぎました。

       
1328年、長年対立してきたハプスブルク家のフリードリヒ1世に打ち勝ったルートヴィヒは
いよいよローマ皇帝に即位しようとしますが、フランスの支配下にあった
ローマ教皇ヨハネス22世は戴冠を拒否します。

ルートヴィヒはローマへ乗り込み、ローマ市民の推挙という形をとって戴冠を受けます。
また、ヨハネス22世の対立教皇にニコラウス5世を選びました。

これでルートヴィヒは一時ドイツ諸候から拍手喝采を受けます。
しかし、これが後々ルートヴィヒに痛い目をもたらすことに…

マルガレーテは、1345年、兄ギョーム2世が嫡子無しで亡くなったので
エノーを含むホラント・ゼーラント・フリースラントなどの領地を継承しました。
エノー伯としてはマルガレーテ2世になります。

この時、イングランド王エドワード3世妃フィリッパをはじめ
ユーリッヒ公ヴィルヘルム5世妃ヨハンナ、ナミュール伯子ロバート妃エリザベスなど
妹たちも生きていたんですけど、マルガレーテが独り占めして
騒ぎはおきなかったんでしょうかね?
さしあたってエドワード3世がクレームを出さなくて良かったですよね。

1346年、ルートヴィヒ4世はヨハネス22世を継いだ教皇クレメンス6世から
破門&廃位を言い渡されルクセンブルク家のカールを対立王に立てられてしまいました。
カールは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の孫にあたります。
(対立王とか対立教皇とかわかりずらいですよね
 ここではあまりスペースがないので…詳しくはなにか専門書を読んで下され

またまた国内大混乱か? という時に、ルートヴィヒ4世が狩猟中の事故で亡くなりました。

長男ルートヴィヒが父のバイエルン公領やブランデングルク辺境伯領を継ぎました。
1350年、マルガレーテは自分の主権を次男ヴィルヘルムに譲って引退することにします。

ところがヴィルヘルムが手当を払わないもんで争うことになってしまいます。
ヴィルヘルム支持のコッド派と、マルガレーテ支持のフック派が結成され
両者が母子を擁立したりして、戦いは数年に及びます。

ここでは妹フィリッパの夫であるエドワード3世がマルガレーテを救いにやってきて
フック派の勝利に終わったのですが、あらら、エドワード3世が寝返ったもので
母子は和解することにいたしました。
ホラントとゼーラントはヴィルヘルムが、エノーはマルガレーテが手に入れました。

2年後の1356年、マルガレーテは亡くなり、ヴィルヘルムがエノー伯領を継ぎます。

どうせ後々継ぐんだから、年老いた母親と争わなくたっていいと思わない?
「母さんの言いなりじゃないやい!」というところが見せたかったのかしら?
それとも単なる強欲息子なんでしょうか?
中世の親子兄弟入り乱れての争いはなかなか奥深いところがありますのでね…

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipeida英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世妃 ベアトリクス

2011-01-16 02:20:10 | ドイツ系王妃
ふたり王時代の王妃
ルートヴィヒ4世妃 ベアトリクス・フォン・シュレージエン=グローガウ


1290~1322/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ドイツ王妃)1314~1322

ルートヴィヒ4世はヴィッテルスバハ家出身の神聖ローマ皇帝です。
なにかと皇帝にからんできたヴィッテルスバハ家にやっと皇帝の座が!
しかし平坦な道のりではなかったんですけれどもね…

そんなルートヴィヒが上バイエルン公時代に結婚したのが
ポーランドの王室ピアスト家に属するルヴヴェク公およびヤヴォル=シフィドニツァ公
ボルコ1世の公女ベアトリクスでした。

しかし実父は早くに亡くなり、母のベアトリクス・フォン・ブランデンブルクは
ビトム公ヴワディスワフと再婚しています。 こちらもピアスト家。
        
ベアトリクスの結婚は、バイエルンと確かな同盟を結びたかった
弟のヤヴォル=シフィドニツァ公ベルナルトにアレンジされました。
1308年に結婚しています。

ルートヴィヒは1314年にドイツ王に選出されましたが、なんと!
実はその前日に別派がハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ1世を選出していました。
立候補した本人たちのみならず各家の利権が絡み合い、教皇まで口をはさむこの戦いは
(どちらかというとルートヴィヒ優勢でしたが)長々と決着がつきませんでした。

結局ベアトリクスの生存中、ルートヴィヒは神聖ローマ皇帝に即位しませんでした。
ベアトリクスは1322年に亡くなっています。
夫の晴れ姿を見たかったでしょうね。

ちなみに、ルートヴィヒとハプスブルク家のフリードリヒは従兄弟同士です。
家系図のしとくね。
      
フリードリヒ1世の妃はエリーザベト・フォン・アラゴンで
こちらは1330年に亡くなっています。
その前にルートヴィヒの神聖ローマ皇帝即位(1328年)を見ているはずですね。
悔しかったろぉ…

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世妃 マルガレーテ

2011-01-16 02:19:46 | ドイツ系王妃
久々にいい夫婦の話し
ハインリヒ7世妃 マルガレーテ・フォン・ブラバント


1276~1311/在位 (神聖ローマ皇后)せず (ドイツ王妃)1308~1311
  
ハインリヒ7世は、フリードリヒ2世の死後続いていた “ 大空位時代 ” 中
不気味に力をつけてきたハプスブルク家の台頭を押さえようとした貴族諸候たちから
選挙で選ばれたドイツ王です。
ハインリヒ自身も反ハプスブルクの急先鋒でありました。

ブラバント公ヨハン1世の公女マルガレーテとは、ルクセンブルク伯時代の
1292年に結婚しています。

ふたりの結婚は長年に渡って両家に諍いををもたらしていた
リンブルクの領土の問題を解決するためのものでした。
      

完全に政略結婚のおふたりですが、仲はとてもよかったそうです。

ハインリヒは、1310年、教皇をフランスの支配下から奪回してローマで戴冠するために
イタリア遠征に向かいます。
この遠征にはマルガレーテも同行しました。

ところがマルガレータはブレシアの包囲中に病気になり
半年もしないうちにジェノヴァで亡くなってしまいました。
結局、当地のサンフランチェスコ教会に葬られました。

ハインリヒは、戴冠を果たした翌年の1313年に、高名な彫刻家ピサーノに命じて
彼女のためのモニュメントを制作しています。

政略結婚で哀しい目にあう王妃が多い中
夫婦が仲睦まじかったという話しを聞くとホッとしますね。
特に時代が古くなればなるほど、横暴な王様は多かったようだし…

マルガレーテのお子様のうち、王子ヨハンはボヘミア王になり
その息子が神聖ローマ皇帝カール4世に即位します。
ふたりの王女のうち姉のマリーはフランス王シャルル4世妃になり
妹のベアトリクスはハンガリー王カーロイ1世妃になりました。
ふたりともあまり幸せな結婚ではないようでしたが…

ところで、あまり関係ないかもしれませんがブラバント公家がとてもアクティブに
イングランドにもフランスにも絡んでいっているのがすごいので
家系図のせときます。
      

(参考文献 池田良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世妃 イザベラ

2011-01-16 02:17:03 | ドイツ系王妃
ハーレムに入っちゃうってどういうこと?
フリードリヒ2世妃 イザベラ・フォン・エンゲランド


1214~1241/在位 1235~1241

二人目の妃を亡くしたフリードリヒ2世が次のお妃に選んだのは
イングランド王ジョンとイザベラ・オブ・アングレームの王女イザベラでした。


        

フランスの領土を失ったフリードリヒは、反撃の時にイングランドの援助が欲しくて
教皇グレゴリウス9世が持ってきた縁談に飛びつきます。
よくよく考えたらフリードリヒにはすでにビアンカ・ランチアという
最愛の女性がいたんですもの、政治的にOKなら相手は誰でもよかったのかもね…

でもイザベラは美しい女性だったそうですよ。
結婚のためにケルンへ向かう道すがら、イザベラはヴェールを上げ
ドイツの皆さんにお顔を見せてあげてたいそう喜ばれたそうです。
イザベラは21歳、フリードリヒは40歳でした。

結婚するとイザベラは、フリードリヒにモンテサンタンジェロ城を贈られました。
ふつう「ここにお住まいなさい」ということだと思いますよね?

ところがです
イザベラは人々からは隔離されたハーレムでの生活をしなければなりませんでした。

ハーレムと書いてあるけど、イタリアですからねぇ…
オスマン帝国みたいなのでなくて、男子禁制という意味ですかね?
なんでもイザベラの兄コーンウォール伯リチャードが十字軍の帰りに彼女を訪ねた時
兄妹だっていうんで特別に会うことが許されたみたいですよ。

いずれにしても、イザベラがイングランドから連れて来た従者たちは
二人の女性を除いて皆帰国させられてしまいました。
異国で頼りになる同胞がいないとは…心細かったでしょうね

イザベラはノヴェンタに引っ込んで暮らし
フリードリヒが定期的に訪れるという生活だったようです。
定期的というのがどれぐらいのスパンかわかりませんけどね…

皇后だというのにすごく地味な生活じゃない?
そんな生活の末、4人目の王女を出産する時に27歳という若さで亡くなりました。
アンドリア大聖堂の、前妃イザベラ2世の隣に葬られました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世妃 イザベラ2世

2011-01-16 02:16:33 | ドイツ系王妃
女系家族出身の女王
フリードリヒ2世妃 イェルサレム女王 イザベラ2世


1212~1228/在位 (神聖ローマ皇后)1225~1228 (シチリア王妃)1225~1228
          (イェルサレム女王)1212~1228

フリードリヒ2世は、最初にハンガリー王イムレの未亡人だった
コンスタンツェ・フォン・アラゴンと結婚しています。

コンスタンツェが亡くなった3年後の1225年、フリードリヒ2世は
イェルサレム女王イザベラ2世(ヨランダ・フォン・ブリエンヌ)と再婚します。

         
ものすごく簡単に言っちゃうと、イェルサレム王国は十字軍の際に
キリスト教側の中継地みたいな感じで建国された王国です。
なんか女系みたいで、夫の家系に王家が移っているパターンが多い気がします。
イザベラの母も祖母も女王です。

母マリアはイザベラを産んですぐ亡くなりました。
イザベラはすぐに女王に即位し、父のジャン・ド・ブリエンヌが摂政になります。

1223年、教皇ホノリウス3世、フリードリヒ2世、父ジャンの三者会談が開かれ
イザベラとフリードリヒの結婚が決められました。

なぜかというと…実は摂政だった教皇インノケンティウス3世は
シチリア王フェデリーコ2世(フリードリヒ)をドイツ王にしたくありませんでした。
それであの手この手を打っていたのですが、教皇の裏をかいたフリードリヒは
まずオットー4世を敗ってドイツ王になると十字軍遠征を誓って
1220年に神聖ローマ皇帝に即位しました。

だのに、第5回十字軍の時、フリードリヒは軍は出したものの自分は参加しなかったので
インノケンティウス3世の後を継いだホノリウス3世が大激怒!
「破門するぞ!」と脅して、イェルサレム王として戴冠し十字軍に参加するように言い渡し
フリードリヒも(しぶしぶ)同意しました。
でもそのためにはイザベラと結婚しなければなりませんね?

そんなわけで1225年、ふたりはイタリアのブリンディジ大聖堂で結婚しました。
その席でフリードリヒはイェルサレム王の宣言をして、父ジャンの摂政職を解き
全ての権利を自分に移譲しましたが、実際にイェルサレムに向かったのは数年後です。

フリードリヒはもともと十字軍に乗り気じゃなかったらしいのね。
その上国を離れられなかったり、病気になって途中で引き返したりしていました。
そこで怒ったのが教皇グレゴリウス9世です。
「病気なんて嘘だろ~よ」と1227年にとうとう破門を言い渡しました。

イザベラはというと1226年に(たぶん)王女を出産しましたが1年で夭逝します。
1228年に待望の王子コンラートを生みますが、この時に亡くなりました。

フリードリヒはイェルサレムに向かっていましたが途中で(また)病気になり
オトラントで静養中でした。

イザベラはアンドリア大聖堂に葬られました。

フリードリヒ2世はその後めでたく十字軍に参加して、その上(無血で)勝利し
イェルサレムに入ると王の宣言をしました。
破門中で誰も戴冠してくれなかったので、自分で王冠を頭に載せたそうです。
その後イェルサレムに進軍してきた教皇軍に勝利して破門は解かれました。
めでたし、めでたし…

生まれた時から女王というとスコットランド女王メアリーなど
華やかな経歴の人もおりますけど…

イザベラにはあまりエピソードがありませんね。
13歳までは父ジャンの、その後はフリードリヒ2世の影で過ごして…という印象です。

たった16年の人生です。
せめて父ジャンもフリードリヒも、彼女をちゃんと愛してくれていたと願いたいですね。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝オットー4世妃 マリア

2011-01-10 02:01:57 | ドイツ系王妃
ホーエンシュタウフェン家を怒らせた再婚
オットー4世妃 マリア・フォン・ブラバント


1190~1260/在位 1214~1215

オットー4世、ダメじゃ~ん

なにか得になることでもあったんでしょうけど、前妃ベアトリクスが亡くなって2年、
1214年にオットーはブラバント公ハインリヒ1世の公女マリアと婚約しました。

       
この婚約に前妃ベアトリクスの実家であるホーエンシュタウフェン家大激怒!

実はこの時期オットーは、ドイツ王(ひいては神聖ローマ皇帝)の座をかけて
フリードリヒ(フェデリーコ)2世と争っていました。

いくらイタリアに行ったきりだからってフリードリヒはホーエンシュタウフェン家だし
ベアトリクスの従兄弟にもあたります。

そんなわけでホーエンシュタウフェン家はフリードリヒ支援にまわりました。
けれどもオットーは婚約を撤回せずその年のうちにマリアと再婚します。

結婚からわずか1ヶ月後、同じくフリードリヒを支援するフランスのフィリプ2世と
争っていたオットーは大敗し、翌年には廃位されてしまいました。

マリアはたった1年の神聖ローマ皇后でした。
その3年後にはオットーも亡くなります。

未亡人と言ってもまだ28歳です。
2年後には20歳年上のホラント伯ヴィルヘルム1世と再婚しました。
しかし彼も2年後に亡くなってしまいました。

その後は再婚しなかったマリアですが、オットー4世ともヴィルヘルム1世とも
お子さんが生まれていないので実家に帰ったのかしら?
それとも修道院に入ったのかしら?

Wikipediaのオランダ語版を(オランダ語解らないけど)ちょいと見てみたら
どうやらルーヴァンに葬られたくさい…
ということは、実家で亡くなった可能性が大きいです。

この後しばらく、ドイツ王はいても神聖ローマ皇帝には誰も即位しないという
“ 大空位時代 ” に入ります。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝オットー4世妃 ベアトリクス

2011-01-08 00:59:16 | ドイツ系王妃
              こちらベアトリクスのご両親、踊ってんの?

完全に政治目的の幼な妻
オットー4世妃 ベアトリクス・フォン・シュヴァーベン


1198~1212/在位 1212

イタリア王フェデリーコ2世の摂政だった教皇インノケンティウス3世が
フェデリーコの(神聖ローマ皇帝予備軍的な)ドイツ王即位を阻止しようとして
前ドイツ王シュヴァーベン公フィリップの対立王を皇帝に強行指名したのが
ヴェルフェン家のオットー4世です。

ひどいわね コンスタンツェが息子を助けてほしいと指名した摂政なのに。

ホーエンシュタウフェン家 VS ヴェルフェン家の争いは激しくなっていきます。

そんなオットー4世の妃は、なんと! 宿敵ドイツ王フィリップの娘ベアトリクスです。
ベアトリクスの父方の祖父は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、
母方の祖父はビザンツ皇帝イサキオス2世という、東西の皇帝の血をひいておりました。

         
ベアトリクスの父シュヴァーベン公フィリップは1198年にドイツ王に選ばれました。
その約20日後にヴィッテルスバハ伯オットー8世が対立王に選ばれます。
ふたりの対立は1208年にフィリップが暗殺されるまで続きます。

オットーは自分の地位を確固たるものにするためか、フィリップにベアトリクスを含む
4人の娘のうちの誰かを嫁にちょうだいと申し入れたんですけど断られてしまい
強行手段に出たようです。
ちなみにフィリップの子どもは4姉妹だけで、継承する男子がおりませんでした。

しかしさすがに、求婚を断られたからってその父親を殺すっていうのは…というわけで
オットーは、インノケンティウス3世とイングランドのジョン王という
強力な援護者を失います。

代々の領土まで失ったオットーですが唯一のドイツ王になりましたので
ホーエンシュタウフェン家に同盟を申し入れ、その証しとして
長女ベアトリクスと結婚することになりました。
とりあえず、32歳のオットーと10歳のベアトリクスはすぐに婚約しました。

1209年にオットーが神聖ローマ皇帝に即位しましたが、結婚はまだ先です。
ベアトリクスは、14歳になった1212年にオットーに嫁ぎましたが
結婚からわずか19日後に病で亡くなりました。

なんかすごく怪しくない?
オットーは1208年のドイツ王選挙で、ホーエンシュタウフェン家の全面的援助のもと
再びドイツ王に選ばれています。
ここを乗り切りたかっただけじゃないのか…なんてね

とにかく、完全に政治的な駒でしかなかった14年の人生でした。
こんな一生なら、もし彼女が贅沢三昧でわがまま一杯の生活を送っていたとしても
許してやっていい気になりますね。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世妃 コンスタンツェ

2011-01-04 01:11:55 | ドイツ系王妃
俗世に連れ戻された皇后
ハインリヒ6世妃 シチリア女王 コンスタンツェ・フォン・シシリエン


1154~1198/在位 (神聖ローマ皇后)1191~1197 (シチリア女王)1194~1198

名君の誉れも高いハインリヒ6世の妃コンスタンツェは
ナポリ・シチリア王ルッジェーロ2世の王女です。
ハインリヒによるイタリア抱え込み作戦のための政略結婚でした。

ルッジェーロ2世には生存していた子どもがコンスタンツェしかいませんでした。
後継者の甥グリエルモ(2世)は未婚で世継ぎの期待薄でした。
ゆくゆくコンスタンツェが女王になる可能性大! です。

また、グリエルモもイタリアに進出しつつあったノルマン家の勢力に対抗するため
ドイツとの同盟を強化しようと考えていました。

両者の利害が一致して、ハインリヒとコンスタンツェは1186年に結婚しました。

       

コンスタンツェこの時32歳 当時の王女としてはかなりの晩婚です。
ハインリヒは11歳年下でしたから21歳ですね。

どうやらコンスタンツェは修道女になっていたらしいんですれど
結婚のためにやめさせられたという説があります。
この時コンスタンツェは大激怒したという話しもありますが定かではありません。

王女様で、未婚のまま修道女や女子修道院長になってる人は結構いるのよね。
勝手な想像なんですけど、一般の修道女にくらべて楽しい世界だったに違いない…
クヴェートリンベルク修道院なんて城みたいですもんね。

さてさて、この結婚は、ドイツ側とグリエルモには好都合でも
皇帝と敵対する教皇や、ノルマン系の貴族たちにとっては危機以外のなにものでもなく
まったく歓迎されませんでした。

しかも、グリエルモ2世は後継者にコンスタンツェを約束していたのに
いざ亡くなると彼の従兄弟のタンクレーディ王が即位しました。
タンクレーディは庶子ですが、王国の大半が彼を支持しました。

「くっそ~!」と思ったに違いないハインリヒ6世はイタリアに遠征します。
この遠征にはコンスタンツェも同行しました。
これが功を奏したのか、カプア・サレルモ・アヴェルサなどはふたりを歓迎しました。

しかしナポリで反撃にあった皇帝軍はマラリアにも見舞われ、各都市で敗戦しました。
結局シチリアを掌中に収めたのは、タンクレーディが亡くなって
4歳の息子グリエルモ3世が即位した後です。

ハインリヒ6世が晴れてシチリア王エンリコとして戴冠した翌日
コンスタンツェは40歳で待望の皇子フリードリヒを生みます。
ダブルのおめでた! 物語みたいです。

けれども喜びも束の間… 3年後にハインリヒ6世が急死しました。
ハインリヒはシチリアの反乱を鎮めるための出兵前で毒殺説もあります。

コンスタンツェはシチリア王に即位した3歳の息子フェデリーコ(フリードリヒ)2世の
摂政になりましたが、神聖ローマ皇帝の座を狙うものたちが蠢き始めます。
筆頭はハインリヒ6世の弟で息子の公権人のシュヴァーベン公フィリップでした。
フィリップはフェデリーコをお飾りの王にしてイタリアを支配する気でした。

教皇インノケンティウス3世を頼り、なんとか息子の戴冠までこぎつけた
コンスタンツェでしたが、疲れがどっとでたのか病に罹って翌年亡くなりました。

30歳まで過ごした清らかな修道院から連れ戻され、策謀渦巻くどろどろの政治の世界に
投げ入れられて、身も心もクタクタになっちゃんたんじゃないかしら。
そっとしておいてあげればよかったものを…

コンスタンツェは次の摂政に教皇インノケンティウス3世を指名しましたが
この人のせいで息子は一時窮地に陥ることになります。
次の皇后のところを読んでくださいね。

フリードリヒ2世はたくましく育ってそれなりに立派な皇帝になったんですけど
ホーエンシュタウフェン家による皇帝の座は終焉へと向かいます。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ロタール3世妃 リヒェンツァ

2010-12-27 23:15:54 | ドイツ系王妃
ワンポイント皇后
ロタール3世妃 リヒェンツァ・フォン・ノルトハイム


1087~1141/在位 1133~1137

ここから3人、あんまりエピソードはないのよ。

ハインリヒ5世が継承者に選んだのはフリードリヒでしたが
貴族たちはシュタウフェン家が力を持つことを嫌ってロタールを王に選出しました。

なもんだから、案の定内乱が起こってドイツ国内はわやくちゃになっていきます。

リヒェンツァは、ロタールがまだザクセン公だった1100年頃に嫁いでいます。
1141年に亡くなってます。
54歳と、王妃にしては長生きした方だと思うんですがエピソードは無し…
ロタール3世のワンポイントぶりが皇后にまで及んでいたのかも。

       
ロタール3世に嫡子がいなかったので、またまた
ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家入り乱れての内乱がおこります。



いいがかりのような離婚劇
フリードリヒ1世妃 アーデルハイド・フォン・ボーブルク


1122~1190/在位せず

入り乱れる中ドイツ王についたのはホーエンシュタウフェン家のコンラート3世でした。
コンラート3世を大叔父に持っていたのがバルバロッサとして有名なフリードリヒ1世です。

フリードリヒ1世が1157年に帝国を “ 神聖帝国 ” と命名ました。

生まれつき君主のオーラを持っていたと言われるフリードリヒの妃アーデルハイドは
25歳になる前に嫁いでいます。

         

しかしフリードリヒがドイツ王になる前に、同族結婚だということで
結婚の無効を申し立てられました。
でも本当の理由は子どもができなかったかららしい…当時よく使われた離婚の理由です。

だってさんざんぱら親戚同士で結婚しているくせにねぇ



             
かかあ天下皇后
フリードリヒ1世妃 ブルグント伯ベアトリクス1世


1143~1184/在位 (神聖ローマ皇后)1156~1184 (ブルグント王妃)1156~1184

フリードリヒ1世の二人目の妃は、ブルグント伯ラインハルト3世の娘で相続人の
ベアトリクス1世でした。
前妃アーデルハイドとの離婚から2年ほどで再婚しています。

           

とってもアクティブな方だったらしく、文学をおおいに奨励したり
フリードリヒ1世の遠征や外遊にも付き添ったそうです。
その上お子様も12人生んでます。 かなり忙しい毎日だったろう…

フリードリヒ1世に強い影響力をもっていたと言われていますが
具体的な逸話が見つかりません。

             
             こちらは尻に敷いてた感が漂ってますね

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世妃 マティルダ

2010-12-22 00:41:05 | ドイツ系王妃
初代イングランド女王を名乗った皇后
ハインイヒ5世妃 マティルダ


1102~1167/在位 1114~1125

マティルダはイングランド王ヘンリー1世とマティルダ・オブ・スコットランドの王女で
王子がいなかった父王の後継者になるためにブロワ家のスティーヴンと争った女傑です。
ちなみにスティーヴン王妃マティルダ・オブ・ブローニュもかなりの女傑でした。

初代イングランド女王としている文献もあるみたいですが
ここでは森譲先生の参考文献どおり対立女王としておきます。

        
マティルダは8歳の時にハインリヒ5世と婚約し、ローマ王妃として戴冠され
ドイツに渡って皇后になるための教育を受けました。
4年の準備期間を経て、皇帝に即位していたハインリヒと結婚しました。

政治向きの女性だったようで、ハインリヒのローマ訪問に同行し
ハインリヒの不在中は摂政も務めています。

ハインリヒ5世はローマ教皇との争いを一時終結させた皇帝ですが
叙任権闘争は教皇側の勝利終わり、皇帝権は失墜します。

1125年、マティルダとの間に嫡子を残さないままハインリヒ5世が亡くなって
ザリエル朝は終わりを迎えました。
ドイツはシュタウフェン家とズップリンゲンブルク家の内乱に入ります。

で、23歳で未亡人になったマティルダは新王家に関係ないじゃない?
摂政をするわけにもいかずイングランドに戻ります。

イングランドでは王太子ウィリアムがホワイトシップ号の事故で亡くなり
父王ヘンリー1世は甥のスティーヴンを後継者に指名した後でした。
ヘンリー1世はマティルダが帰国したことで彼女を後継者に…と考えましたが
1135年、決着がつく前に亡くなりました。

その時マティルダは再婚したアンジュー伯ジョアフリーとアンジューにいて
素早く行動をおこしたスティーヴンに先を越されます。
その後の継承戦争は一進一退でした。
結局、スティーヴンの後はマティルダの息子ヘンリーに王位を継承するということで
継承戦争は終結しました。

なんでもマティルダは、幼い頃から皇后として生きていただけあって
尊大で気取ってて、イングランドでは不人気だったそうです。
一度は女王の宣言もしているのですが
ロンドン市の城門を閉められて入場できなかったりしたそうですよ。
凱旋行進をしようと思ったら閉め出される…ちょいと恥ずかしいっすね

1154年、息子ヘンリー2世がイングランド王に即位します。
21歳の若い王を差しおいて、実際はマティルダの方が目立っていました。

マティルダはイングランドの表舞台から引退するとルーアンで余生を送ることにしますが
ヘンリー2世(ノルマンディ公でもあります)が不在の際には
ノルマンディ公領の政治を統括し宮廷を守っていました。
やはり政治からは身を引けなかったようですね。

ヘンリー2世の他に息子が二人いましたが、次男ジョアフリーは兄王に反逆の末死亡、
お気に入りの三男ウィリアムは1164年に亡くなりました。
三男の死がかなりショックだったみたいです。

1167年ノートルダムで亡くなりベック修道院に葬られましたが
1847年にルーアン大聖堂に移されました。

碑文には「ここにヘンリー(1世)の娘であり、ヘンリー(ハインリヒ5世)の妻であり
ヘンリー(2世)の母であるマティルダが眠る」と記されているそうです。
確かに! 父、夫、息子の名前がおんなじね

わがままな王女様のお話しなどは童話や物語でよく目にしますけど
そうやって育てられてきたのだから仕方ない…という見方もできますよね。
好きにはなれないけど、自分がそうだったらもっとわがままだったかもしれない。
贅沢はしたいけど、親の決めた相手と結婚できるかよ! というジレンマもあります。

王女と庶民、果たして女性としてどちらが幸せなんでしょね?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』
      Wikipedia英語版)
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世妃 エウフラクシア

2010-12-19 16:57:45 | ドイツ系王妃
前妃とは一転、夫を陥れる妻
ハインリヒ4世妃 エウフラクシア(アーデルハイド)・フォン・キエヴ


1071~1109/在位 1089~1105

ハインリヒ4世は苦労を供にした妃ベルタが亡くなると2年後に
キエフ大公フセヴォロド1世王女エウフラクシアと再婚します。

実はハインリヒ、ベルタの生前からエウフラクシアにぞっこんでした。
うぅぅ
信頼し合う夫婦になったとはいえ、ハインリヒの女好きはそのままだったのね。

       

エウフラクシアは最初にノルドマルク辺境伯ハインリヒ・ロングと結婚しました。
しかし1087年に死別し、彼女はクヴェトリンブルク修道院に入ります。

クヴェトリンブルクは王侯貴族に縁が深い大修道院です。
たぶんハインリヒも誰かを訪ねていたんでしょうね、
そこで彼女に出会い、すぐに美しさに惹かれてしまいました。

再婚後エウフラクシアはアーデルハイドに改名しています。

ハインリヒ4世は片時もエウフラクシアと離れたくなかったのか
イタリア遠征にも連れて行ってヴェローナで待たせておきました。
けれども彼女はそこから逃げ出し、カノッサでトスカーナ伯マチルデに会います。

このマチルデっていうのはハインリヒの宿敵です。
はしょるけど、ハインリヒ4世は、マチルデとの不倫スキャンダルをネタに
グレゴリウス7世を廃位しようとして破門されてしまったのね。
“ カノッサの屈辱 ” の時には教皇と並んでハインリヒを辱めたという女性です。

そんな女に会いに行くなんて~ ! 何があったんでしょうね?

エウフラクシアはハインリヒとの結婚は自分の意思に反していて
自分は無理矢理ハインリヒのものにされてしまったと告発します。
黒魔術の儀式で裸体を捧げさせられた…とも言っています。

その上ハインリヒ4世と前妃ベルタの皇子コンラートと手を組んで
夫に反旗をひるがえしました。
この時ハインリヒ4世はふたりの母子相姦を責め立てています。

窮地に陥ったハインリヒ4世ですが、ヴェルフェン家のおかげで盛り返し
コンラートを追放しました。

影の参謀エウフラクシアはイタリアから脱出しハンガリーへ渡ります。
1099年に故郷キエフに帰りました。
離婚はしていないので皇后のままです。

1105年にハインリヒが亡くなると修道女になり、4年後に亡くなりました。

どちらの言い分が正しいんでしょう?
ハインリヒ4世には女好きという弱味があるからなぁ…
無理矢理嫁にしたという訴えも嘘じゃないかもしれませんね。

片やエウフラクシアが、21歳年上の夫より3歳年下の義理の息子を好きになるのは
自然なことかもしれないし…

黒魔術とか出てくるあたり、教皇がハインリヒを陥れるために脚色した可能性もありますね。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世妃 ベルタ

2010-12-16 22:14:54 | ドイツ系王妃
好色王を支えたベストパートナー
ハインリヒ4世妃 ベルタ・フォン・サヴォイエン


1051~1087/在位 1084~1087

幼くして王になり、貴族諸候たちにいいように使われちゃったハインリヒ4世の妃は
サヴォイ公オードの公女ベルタでした。

ベルタは4歳の時に5歳のハインリヒと婚約し、15歳で結婚しました。
ハインリヒは教皇が支配するイタリアにも皇帝の力を及ぼそうとしていて
度々ぶつかってましたので、イタリアの有力な家系を味方につけたかったのかもしれません。

         

ベルタは最初からハインリヒに夢中でしたが、ハインリヒは違いました。

ベルタは可愛らしい少女だったということですが、ハインリヒは新妻を嫌悪していて
頻繁に浮気を繰り返していました。
でもね、これはベルタが嫌いっていうことだけではないと思います。
根っからの女好きっていうのかしら?
ひとりの女性で満足することができなくて、常に複数の愛妾を抱えていたらしいよ。

しかも「あそこに美しい女性がいる」と聞けば、人妻だろうがなんだろうが
無理矢理宮廷に来させたらしいです
本当にいたんだね、そういう王様。

ハインリヒ4世は、ベルタをないがしろにするだけでは飽き足らず
結婚から2年で離婚の手続きに入りました。

でも議会はハインリヒを相手にせず、直訴した教皇からも却下され
離婚は成立しませんでした。

ところがこれがハインリヒにとってはすごくラッキーなことでした
王権の再建をめざすハインリヒを嫌って陥れようとする貴族たち、
教皇の権力を確立しようとハインリヒを追いつめる教皇グレゴリウス7世、
誰からも理解を得られないハインリヒの唯一の理解者がベルタだったからです。

ここからふたりの二人三脚が始まります。
ふたりはやっと信頼し合える夫婦になりました。

世に言う “ カノッサの屈辱 ” でハインリヒが危険を冒してカノッサに出向いた時も
ベルタは同行しています。
凍てつく寒さの中、教皇に会うために夫とふたりで城壁の前に4日間立ち続けました。

1084年、破門を解かれたハインリヒは晴れて神聖ローマ皇帝に即位しました。
しかしハインリヒを助け、供に歩んで来たベルタはその3年後にマインツで亡くなりました。

最初の2年はつらかったかもしれないが、その後解り合えてよかったよぉ
耐えた甲斐があったというものです。
女と見りゃあ見境のない男を愛し続けるってものすごく我慢強いですよね。

けれどもハインリヒ4世の治世が安泰だったら、浮気の虫もおさまらず
ふたりの仲もどうなっていたかはわかりませんね。

窮地になるほど愛は深まるという教えの実例といえましょう。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加