まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ハンガリー王アルベルト妃 エルジェーベト

2010-09-30 23:10:46 | ハンガリー王妃
女王として生まれた王妃
アルベルト妃 エルジェーベト・ルクセンブルギ


1409~1442/在位 (ハンガリー王妃)1438~1439 (ボヘミア王妃)1438~1439

ジグモンド王の忘れ形見エルジェーベトの生年には諸説あるらしいのですが
1409年説をベースに考えると、2歳でオーストリア公子アルブレヒトと婚約して
11歳の時に結婚しました。

マリア女王の時にすったもんだがあったハンガリー、
ジグモンドは後継者に娘エルジェーベトではなく、娘婿アルブレヒトを指名していました。

        

アルブレヒトはジグモンド亡き後、アルベルト王として即位しました。
翌年ボヘミア王にも即位しています。

オーストリア公でもあり、神聖ローマ皇帝の座も狙っていたアルベルトは留守がちです。
エルジェーベトは正当な王位継承者として摂政に就き、夫の留守を守っていました。

1439年、アルベルトが赤痢で亡くなりました。
この時王に推されたのはポーランド王ヴワディスワフ3世です。
そう! 先王ジグモンド妃ボルバーラが再婚を約束した相手です。

エルジェーベトはその時子供を身ごもっていました。
なぜか「もう、ぜったいに男の子!」と確信したエルジェーベトは
有力貴族に大臣や大司教などのポストを与えて味方を募り、党派を立ち上げました。

まるで女王のように国を治め始めたエルジェーベトでしたが
オスマン帝国の脅しを受けた議会は彼女を女王に選びませんでした。
議会はヴワディスワフ3世と再婚して王に即位させるべきだという結論に至ります。

表向きは受け入れたエルジェーベト、しかし、彼女は王冠を持ち出し
ジェールで0歳の息子に戴冠しちゃいましたとさ 死にものぐるいね。
でもヴワディスワフ3世(ウラースロー1世)は王に即位したんだけど…

ブダペストを攻撃したものの敗れたエルジェーベト軍…こうなりゃやけっぱちです。
1442年にエルジェーベトはウラースロー1世と婚約しました。
息子のことを思えばこその決心だったと思います。

ところが婚約からしばらくして、エルジェーベトは急死します。

ウラースロー1世は男性が好きだったらしく、エルジェーベト毒殺説も流れました。
殺すほど嫌なら婚約しなきゃよかったものを…(あくまで噂ですけど)

1444年、ウラースロー1世は未婚で戦死します。
その後は愛する我が子、ラースロー5世が即位しました。
勇姿が見たかったでしょうね

ラースロー5世はフランス王シャルル7世とマリー・ダンジューの王女マドレーヌと
婚約していましたが、17歳の時白血病で結婚しないまま亡くなりました。

この後王位は、いきなりのフニャディ家に移ります。 つづく…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『青い麦』少年、愛と愛情の違いを知る夏

2010-09-27 21:48:48 | フランスの作家
LE BLE EN HERBE 
1923年 ガブリエル・コレット

私は少年少女が恋愛にうつつを抜かすのも、
男子たちが1日の90%、いやらしいことを考えて過ごすのも当たり前だと思いますよ。

思えば十代の恋愛には、日々の生活や社会的な苦労がないだけに
美しくて切なくて、浸りやすいものですよね。
そればっかり考えてりゃいいんだもの。

『青い麦』の主人公フィリップとヴァンカは、まさにそんな恋愛真っ最中。

ふたりの両親は海辺に共同の別荘を持っています。
フィリップとヴァンカは幼い頃から毎年夏の休暇の2~3ヶ月をともに過ごしてきました。
今やフィリップは16歳、ヴァンカは15歳。
今年の夏、ふたりの想いは今までの夏とは違っていました。

このふたり、海老をとったり水遊びをしたりしてはしゃいでたと思ったら
いきなり将来のこととか話し出しちゃうんですよね。

それでフィリップは、まだ上の学校に行って
バカロレアっていうんですか? 大学入学資格をとったり、就職しないと
結婚できないと考えてイライラしてきちゃうわけなんです。

一方ヴァンカは、すでにお互いがお互いのものなのだから…と落ち着いた様子。
しかしその想いはフィリップよりいっそう強いもののようです。

ある日、フィリップの前にひとりの女性が現れます。
30代の優雅で妖艶なマダム・ダルレー…
彼女は最初からフィリップを「ムッシュウ」と呼び、ヴァンカを無視し
あきらかに魅力を見せつけているようでした。

あとはご想像通りですよ
フィリップは尻込みしながらも、マダムの大人の魅力にやられちゃいます。
そして大人の関係に身を投じちゃいます。

その関係に気付いたヴァンカだって黙っちゃいません。
フィリップに自分の愛をわからせようと身を投げ出します。

幸福そうなヴァンカとは裏腹にフィリップの想いは… てな内容です。

コレットが書きたかったのは、恋愛感情に年齢は関係ないということらしいのですが
誰の誰に対する想いが愛なのか…ちょっと悩みました。

フィリップの、ヴァンカに対する愛が幼くて、マダムに対する愛が大人の愛、
というふうに考えるのはどうかと思うし…

15、6歳で将来を決めようとする若いふたりは滅茶苦茶真剣です。
でもなんたって十代の夏で海辺だし、一時の盛り上がりのように思えます。

フィリップのマダムに対する想いは、どちらかというと憧れの域を出ていないと思うのよ。
手ほどきして下さった女性への畏怖と憧憬…みたいなものかしら?
だって、美しくてテクニシャンの女性ですよ! しかも自分からアタックして下さる。
少年たちなら愛とか恋とか関係なくいっちゃうでしょう?

そしてマダム・ダルレー… この人は本気なの?
恋愛のエキスパートなら、恋に夢中の初々しいカップルはそっとしておいてやらんかな?
初心な少年を落とそうと躍起になるあたり、クールじゃない気がするけどね。
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ハンガリー王ジグモンド1世妃 ボルバーラ

2010-09-26 00:35:44 | ハンガリー王妃
なにもかも男まさり
ジグモンド1世妃 ボルバーラ・ツィレイ


1390~1405/在位 (ハンガリー王妃)1405~1437 (神聖ローマ皇后)1411~1437
          (ボヘミア王妃)1419、1436~1437

共治王としてハンガリー王になったジグモンド1世でしたが
マリア女王亡き後もハンガリー王として君臨していました。

前妃の死から10年後、ジグモンド1世がこっそり再婚したのは
マリア女王の親戚筋にあたる、ツェリェ伯へルマン2世の娘ボルバーラです。

父方の祖母カトリーヌ・コトロマニッチが、ラヨシュ1世妃エルジェーベト
姉妹ではないか、と考えられています。
        

ふたりは1401年に婚約していますが、正式な結婚の許可が待ちきれなかったのか
1405年のクリスマスの日にこっそり結婚したらしいですよ。
ボルバーラは14歳、結婚が許される年になってすぐということですね。
ちなみにジグモンドは37歳でございます。

ボルバーラの父ツェリェ伯は
養女アンナをポーランド王ヴワディスワフ2世に嫁がせていています。
なにかと仲が悪いハンガリー王とポーランド王の、両方の義父ということですね。
上手く立ち回れば中・東欧のフィクサー的存在になれるってもんです。

さて、ふたりは1405年に結婚はしたものの、正式に認められたのは1408年です。
1409年に王女エルジェーベトが誕生しましたが、子供は彼女だけでした。

ボルバーラは、ボヘミア王座や神聖ローマ皇帝の座を手にするために奔走する夫が
ハンガリーを留守にする間、摂政を務めていました。

ボルバーラは知性と美しさで人を信服させたと言われています。
ただ、口うるさいお方で、侍女たちは息つく暇がなかったそうです。

一方、夫ジグモンド同様愛人がいたようで、ハーレムを持っていた、なんて説もあります。
それでかどうかはわかりませんが、ボルバーラは1419年から2年間
ナジヴァーラドに追放されてしまいました。

王子のいないジグモンドは、自分の後継者に娘婿アルブレヒトを指名しますが
ボルバーラはボヘミア王は自分の兄弟か甥にしようと画策していました。
この件をポーランドに納得させるため、自分は夫の死後ヴワディスワフ3世と
再婚するという密約まで結んでいました。

              
                 躍動的なボルバーラ王妃像 

ジグモンドはボルバーラの計略に気付き、1437年、彼女を投獄します。
今度ばかりは許されなかったようで、ジグモンドが亡くなると
全ての財産を没収されてハンガリーから追放されました。

ポーランドに渡ったボルバーラは収入源としてサンドミェシの領地を与えられると
ボヘミアに移り余生を送っておりましたが…おとなしくしてりゃあいいものを
政府を倒そうと企てたとして告発されたりします。

さすがに懲りたのか、政治には口を出さなくなったみたいですが
晩年は錬金術やオカルトに凝っていたそうでございます。
誰か呪い殺したい人でもいたんでしょうか? くわばらくわばら…

ペストで亡くなっております。

内助の功を発揮するより、先頭に立ちたい…というタイプの王妃って、けっこういますわね。
王である夫が愚鈍で気が弱かったりすると上手くいくと思うんだが…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー女王 マリア

2010-09-25 12:38:00 | ハンガリー王妃
名ばかりの女王
ジグモンド1世妃、ハンガリー女王 マリア


1371~1395/在位 1382~1385、1386~1395

ハンガリー、ポーランド、ボヘミアが激動の時代を迎えていたわけなのですが
ラヨシュ1世と王妃エルジェーベトの間には、3人の王女しか生まれませんでした。

姉カタリンが8歳で夭逝すると、マリアは7歳で王太子になり
10歳の時に女王に即位しました。

即位前に父王ラヨシュ1世の意向で、ルクセンブルク家のジグモンドと婚約します。

        

ハンガリー国内も反マリアの声は大きかったわけですが
もうひとつの王位継承権を持つポーランドではなお一層の反発がおきていました。
そこでポーランド王座は妹のヤドヴィカにお願いすることにいたしました。

さて、ハンガリーの統治ですが、マリア女王とは名ばかり(だって10歳だし… )
事実上母后エルジェーベトとブラチスラヴァ伯ミクローシュ1世が仕切っていました。
若い母親摂政と有力貴族の組み合わせ…波紋を呼びそうですね。

有力貴族たちはマリアの親戚筋にあたるナポリ王カルロ3世を王にしようと考えました。
カルロ3世も同意してハンガリーへ侵攻し、1385年、カーロイ2世として即位しましたが
翌年母后エルジェーベトにより暗殺されます。

マリア女王はこの年にジグモンドと結婚します。
女王の結婚も貴族たちには気に入らず反乱はおさまりません。
翌年マリアは母后ともども捕らえられ、まずはカーロイ2世の未亡人マルゲリータの
ご機嫌取りのためナポリに送られ、その後ノビグラードに投獄されます。

翌年、母后エルジェーベトが目の前で殺害されます。
マリアはかろうじて夫ジグモンドに救出されました。

ハンガリーに戻ったマリアですが、やはり彼女は飾り物にすぎず
共治王となったジグモンドがひとりでハンガリーを治めていたようです。

24歳の時、マリアは懐妊しましたがとても苦しい出産でそのまま亡くなりました。
子供も助かりませんでした。

マリア女王の儚い人生…
幼くして女王になる女性の悲劇の典型を見せていただいたような感じですね。



詳しくはナポリ王妃の時に・・・
ハンガリー王カーロイ2世妃 マルギット・ナーポリ


1347~1412/在位 (ナポリ王妃)1382~1386
          (ハンガリー王妃)1385~1386

マリア女王が即位すると、反対派貴族は親戚筋にあたるナポリ王カルロ3世を
擁立しようとします。

野心満々のカルロ3世は要請を受けてハンガリーへ侵攻し
カーロイ2世として即位しました。

         

しかしだまっちゃいなかったのはマリア女王の母后エルジェーベトで
カーロイ2世は彼女によって殺害されました。

未亡人となったマルギットは、カーロイ2世とはいとこ同士、マリア女王とも親戚です。

カーロイ2世との結婚は22歳と(当時では)晩婚で、カーロイが殺されたのは
結婚生活17年目でした。

マルギットはぜっっったいにエルジェーベトを許すことができませんでした。
マリア女王とエルジェーベトが捕らえられた時、処刑を強く主張したのは彼女です。

その後は息子ラディズラーズ1世の摂政になります。
詳しくはナポリ王の時に…ってことで

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ラヨシュ1世妃 エルジェーベト

2010-09-24 00:42:15 | ハンガリー王妃
実例、王子がいない母の悲劇
ラヨシュ1世妃 エルジェーベト・コトロマニッチ


1339~1387/在位 (ハンガリー王妃)1353~1382 (ポーランド王妃)1370~1382

16歳で即位したラヨシュ1世は母エルジェーベト・ピアストの尽力もあって
神聖ローマ皇帝カール4世の皇女マルギット・ルクセンブルギ(7歳)と結婚しましたが
彼女は14歳で亡くなりました。
ハンガリーでは14歳にならないと正式に結婚ができなかったようで
マルギットは故郷で過ごし、ハンガリーにやってきてすぐに亡くなったみたいです。

続いて母后が目をつけたのがボスニア王ステファン2世の王女エルジェーベトで
10歳の王女を「教育するから」とハンガリーに無理くり招待し
3年後にステファン2世も招待され、結婚が決まりました。

       

1353年、14歳でラヨシュに嫁いだエルジェーベト(コトロマニッチ)でしたが
彼女は完全に母后エルジェーベト(ピアスト)の支配下にありました。

エルジェーベト(コ)は自分の従者を持つことも許されなくて
母后エルジェーベト(ピ)の従者にとりまかれることになります。
つまり、なにもかも姑に筒抜けってことね… やだやだ

威圧的で尊大な姑に耐えること17年、やっと解放される日が…

ラヨシュはポーランド王ルドヴィク1世として即位すると
母后エルジェーベト(ピ)を摂政に任命しました。
お義母様はポーランドへ…すごく嬉しかったと思うわ。

それが良かったのか、17年間子宝に恵まれなかったエルジェーベト(コ)は
懐妊して王女カタリンが誕生しました(8歳で夭逝)
その後王女マリアとヘドヴィクが生まれます。
でも王女ばかり…これは後々厄介ごとを生みそうな気配ですね。

だのにエルジェーベト(ピ)ったら、ポーランドでも威張り散らして追い出され
さっさと戻ってきやがった

そんな姑も1380年に亡くなり(しかも城まで遺してくれて)ホッとしたのも束の間
エルジェーベト(コ)の本当の苦難はここから始まります。

ここからは細かく書くと長くなるのではしょるけど
ラヨシュ1世の後を継いだ10歳の王女マリアと、摂政エルジェーベト(コ)を
認める貴族は少なく、反乱と投獄と逃避行の日々が待っていました。
それにまわりは王位をねらう敵だらけ、暗殺を恐れて過ごす毎日でした。

逆に強い母となる時もありました。
反対派貴族が王にしたカーロイ2世を暗殺します。
これがカーロイ2世未亡人マルゲリータの恨みを買うことになるんですけどね…

マリア女王がルクセンブルク家のジグモンドと結婚した1385年以降
反乱は激しくなります。
1386年、ノビグラードに投獄されますが、この時エルジェーベト(コ)の処刑を
強く訴えたのがカーロイ2世未亡人マルゲリータでした。
1387年、エルジェーベト(コ)は女王マリアの目の前で絞殺されてしまいます。

              
             こちらも逃げ惑うエルジェーベトとマリア

この逮捕劇、実はマリアの夫ジグモンドが仕組んだという説もあります。
あるいは、果敢にもふたりを救おうとノビグラードに向かっていた説もあります。
いずれにしてもジグモンド19歳、たいした奴です。

幼い女王 & 母親摂政 というのは、とかく反乱を招きやすい、危うい王座ですね。
よっぽど強い伴侶か、勝れた政治力を持つ後ろ盾がいないと
崩壊の憂き目に遭うことになります。
特にエルジェーベト(コ)みたいに影の薄い王妃じゃ…

こうなると憎ったらしい姑でも、もう少し長生きして宮廷を牛耳って欲しかった…
という気になりますですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『アイルランド・ストーリーズ』神と戦いと人生

2010-09-20 10:18:20 | イギリス・アイルランドの作家
IRELAND STORIES 
ウィリアム・トレヴァー

大好きなウィリアム・トレヴァーの短篇集…素晴らしかった。
同じく栩木伸明氏訳で国書刊行会の『聖母の贈り物』、新潮クレストの『密会』より
少し頑迷で、わずかに暴力的でメッセージフルな気がしないでもないですが
やはり、しっとり哀愁が漂うトレヴァー・ワールドが広がる一冊でした。

この本に収められている物語は1981年から2007年と書かれた年代もまちまちですが
ほぼ全てにアイルランド紛争のエピソードが盛り込まれています。
物語のテーマになっているものもあれば、主題には直接関係ないものもあります。
いずれにしても、紛争が人々に大きな不安や遺恨を与えていたことが想像できます。

そんな中から、男女をモチーフにした物語を3篇、ご紹介します。

『第三者(The Third Party)/1990年』
ホテルで待ち合わせた男性ふたり、ひとりは妻をとられそうなボーランドで
もうひとりはボーランドの妻を奪おうとしているレアードマンでした。
ボーランドは妻アナベラには辟易していて、さっさとくれてやりたいのですが
なぜか、嬉しそうなレアードマンとの会見を打ち切りたくありません。

ボーランドという男性の言うことが本当なら
レアードマンはとんでもない女性を引き受けちゃうことになるわけ。
しかし恋をしている人には “ あばたもエクボ ” ですもんね。
ボーランドの心を占めていたのは決して未練じゃないと思うけど…夫婦の不思議です。

『パラダイスラウンジ(The Paradise Rounge)/1981年』
不倫を終わらせるために小旅行に出たベアトリスと男。
なんの取り柄もないホテルのラウンジで、ベアトリスは着飾った老女に目を留めます。
老女ミス・ドウニーは、35年間、毎週土曜日にバーに通って来ていました。
ミス・ドウニーも夫婦とは思えないふたりの、特にベアトリスに注目していました。

最後の最後に旅行に行こうという心理が私にはわからないのですが…
この物語はベアトリスとミス・ドウニーの愛を書いています。
気持ちは同じでも、時代が違うと愛の行方は違ってしまうものなのかしら?
どちらの結末が哀しいものかは読者によると思いますが
私にはミス・ドウニーの方が哀しく見えるかな。

『見込み薄(Against the Odds)/2000年』
60歳のミセス・キンケイドは、厄介ごとがあって身を隠すことにしました。
バスに乗ってたどり着いた町の食堂で、彼女はブレイクリーと相席になりました。
ブレイクリーは14年前、爆弾テロで妻とひとり娘を亡くしていました。
ミセス・キンケイドは、思いとどまることができず彼にちょっかいを出し始めます。

実直に生きてきたやもめの男性を落とすにはこうすりゃいいのか!とよくわかります。
ミセス・キンケイドほどの女性なら、タイプ別に攻略法がありそうです。
お年寄りが恋をすると、よく「騙されてる!」とか忠告するでしょ?
でも騙されていたとしても、中には幸せなケースもあるんじゃないかと思うのよ…

イギリスを恨む気持ちと憧れる気持ちの葛藤や、頑迷な宗教対立の中の共存など
考えさせられることがたくさんありそうです。

でも(無責任に言えば)アイルランドの紛争問題をより詳しく知りたきゃ
専門書を読めばいいわけで、この本では物語を純粋に楽しみたい。

紛争に関係がある人も無い人も、日々何かを感じて生きているのです。
国家とか主義なんて大層なものじゃないけど、自分なりに問題を抱えているのです。

ウィリアム・トレヴァーは、そういうところの描き方が神業です。
まだまだ長生きしてたくさんの作品を残していただきたいです。

短編の神業をどうぞ!
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

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ハンガリー王カーロイ1世妃 エルジェーベト

2010-09-19 20:56:55 | ハンガリー王妃
息子のためならなんでもやります!
カーロイ1世妃 エルジェーベト・ピアスト


1305~1380/在位 1320~1342

エルジェーベトはポーランド王ヴワディスワフ1世の王女ですが、幼い頃には
王の座にプシェミスル家のヴァツワフ3世(ハンガリー王ヴェンツェル)がいて
王座を主張するヴワディスワフ一家の暮らしは極めて危険なものでした。

        

カーロイ1世とは、父が王に即位した1320年に結婚しています。
エルジェーベトは15歳、カーロイは32歳でした。

エルジェーベトは宮廷が待ち望んでいた王子を次々と生みました。
全部で五男二女生まれています(ふたりの王女は最初の妃マリアの子説あり)
どうやら宮廷内では勢力が増したみたいで、威圧的な女性だったと言われています。

1342年、カーロイ1世が亡くなると、遺されたエルジェーベトは
ほぼ全ての力を子供たちに注ぎ込んだと思われる節があります。
中でも力を入れたのは王子たちの縁談!

特に16歳で王となったラヨシュ1世に、お似合いの妃を探そうと頑張りました。
まずは神聖ローマ皇帝カール4世皇女マルギット(7歳!)を嫁に迎えます。
しかしマルギットは7年後に亡くなりました。

エルジェーベトは息子の後妻選びに奔走しました。

ボスニア王ステファン2世に年ごろ(10歳)の王女がいると聞くと
「うちで教育してあげるから!」とご招待しました。
ステファン2世は嫌がっていたのですが、お招きはしつこかったみたいで
とうとう王女エルジェーベト・コトロマニッチをハンガリーへ送り出し
結局嫁にやることになってしまいました。
押しが強かったみたいですね 嫁には行きたくない家かも…

一方、王子アンドラーシュは親戚筋にあたるナポリ女王ジョヴァンナと結婚させました。
この結婚は失敗でした。

カラブリア公となったアンドレアス(アンドラーシュ)は、ジョヴァンナとともに
ナポリ王になりたいと主張しましたが拒否され、ナポリ王太子になりました。
けれどもナポリ王座を狙う人たちは他にもいるわけで、アンドレアスは身の危険を感じます。

そこで、頼りになるママにお手紙を書きました。
内容は「すぐ逃げ出したいから助けて~」というものでした。

ママ・エルジェーベトは「ボクちゃんが大変!」とすぐにナポリを訪れて
まずはローマ教皇に賄賂を渡してアンドレアスへの戴冠を約束させます。
そしてアンドレアスには毒殺から守ってくれる指輪を与えました。

しかし、教皇クレメンス6世が戴冠式をやりなおすと宣言すると
結局アンドレアスは反対派から暗殺されてしまいました。
おとなしくしていた方がよかったんじゃあないのか? 母の愛が裏目に出たようですね。

1370年、ラヨシュはポーランド王にも即位しました。
王妃エルジェーベト(コトロマニッチ)とポーランドを空ける間
母エルジェーベトに摂政を頼むことにします。
もともとポーランド王女だし、うまく国内の不満を抑えてくれるだろうという考えでした。

ところがこの目論みは大失敗でした。
ポーランド宮廷では威張り散らすエルジェーベトに対する議論が白熱しました。
とうとう護衛が殺されてしまい、ハンガリーに逃げ帰る始末です。

ハンガリーではやはり力を持っていたと思われるエルジェーベトは
嫁エルジェーベト(コトロマニッチ)を押さえ込んでいたらしいのですが
死後は彼女にブダ城を与えています。

耐え忍んでよかったね
しかしエルジェーベト(コトロマニッチ)の人生は
姑亡き後さらに過酷なものになります …つづく

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『ビッグ・アップル・ミステリー』力ずくの推理にお手上げ

2010-09-17 00:06:16 | アメリカの作家
THE BIG APPLE MYSTERIES 
J・ヤッフェ/S・パーマー/H・ペンティコースト/C・ロースン
F&R・ロックリッジ/E・クイーン/R・L・スティーヴンズ/R・スタウト
Q・パトリック/C・ウールリッチ/E・D・ホック/I・アシモフ

何度も書いているように、アガサ・クリスティ以外の推理小説は
ほとんど読んだことがないわたし…

ニューヨークを舞台にして、いろいろな推理作家が競演するということで
新しい発見があるのではないかと渋谷古本市で手に取ってみました。

そうですねぇ…
推理小説って、古今東西すごくたくさんあるじゃないですか?
これだけあると「どこかで見たトリック…」というものも多くないですか?

作家の皆さんは、最後の種明かしで読者が「あ!」と驚く推理を繰り広げるべく
日夜新たなトリックを生み出していらっしゃることでしょう。

でも、推理小説慣れしていない私には “ 考え過ぎちゃった? ” という印象。
だって、どこにそんなヒントがあったのか、はたまた
それが犯人を落とし得る動かぬ証拠と言えるのか…よくわからないんですもの

気になった物語をいくつかあげてみます。

『春爛漫のママ(Mam in the Spring)/ジェイムズ・ヤッフェ』
ミルナー警部をママとくっつけようと夕食に招きました。
話題はもっぱら五番街でおきた老婦人マーガレット殺人事件のこと。
彼女の甥夫婦は、殺人の1週間前に伯母と怪しい男のことを警察に相談していました。

なんつーか…ミス・マープルにしか思えんかったです。
突拍子もないことを言ったり、いきなり核心をついたり、知人の話しを持ち出したり…
違いは未亡人で息子がいてニューヨークに住んでるってことかしら?
ママのシリーズは人気らしいです。

『殺人のかたち(Pattern for Murder)/フランセス&リチャード・ロックリッジ』
中西部からやって来たファーンのために、同窓生3人とその夫たちで晩餐会を開きました。
彼女はお酒を飲まないのにとても興奮して、誰も覚えていない昔のことを話し続けます。
しかし食事の席に向かう途中、ファーンは階段から落ちて死んでしまいました。

この物語は推理小説というより、雰囲気がとても好きなお話でした。
殺人をおこさないで3組の夫婦とひとりの独身女性の心の伝わらなさみたいなものを
描き続けても良かったかも… 元も子もありませんけど。
推理は今ひとつよく分かりませんでした、そんなことで自供しちゃう?

『地下鉄の怪盗(The Phantom of the Subway)/コーネル・ウールリッチ』
車掌ディレニーが早朝の当番になった日の真夜中、ブロードウェイで50万ドルが奪われ
犯人が逃げているというニュースが飛び込んで来ます。
ディレニーは、犯人が持っていたとされるスーツケースをデッキで見つけました。

これは推理小説かどうかは別にして(だって推理がないんですもの)
ハラハラドキドキ感が味わえたお話しでした。
やはり開放的な地上の電車より、暗闇を走る地下鉄の方が絵になりますね。

推理小説ファンには錚々たる顔ぶれの作家陣だそうで、人気シリーズもあるらしい…
すみません、エラリー・クイーン以外は知りませんでした。
それから、お年を召した女性が探偵だと聞くとミス・マープルと比較しちゃう癖があります。

だから、本当の推理小説ファンの方が読んだらものすごく面白い一冊かもしれません。

でも、私はもう少しわかりやすい方が好きかしら…
それを文章で面白く読ませていただけると嬉しいですね。
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ハンガリー王カーロイ1世妃 マリア

2010-09-16 23:46:29 | ハンガリー王妃
ハンガリーとポーランドの新しい架け橋
カーロイ1世妃 マリア・ピアスト


1282頃~1315/在位 1306~1315

プシェミスル家、ヴィッテルスバハ家と王位が変わったハンガリーは
イシュトヴァーン5世を祖父に持つ、アンジュー家のカーロイ1世が継ぐことになりました。

ピアスト家のビトム公カジェミシュの公女マリアは
カーロイが即位した1306年に嫁いだと言われています。

ポーランド王権を手に入れたピアスト家と関係を持つことで
カーロイはポーランドにくい込んでいこうとしたようです。

          

カーロイ1世は、よそからやって来た王様にしては上手く国を治めましたし
ボヘミア王やポーランド王を招いてのドナウ・サミットを開いて地域の安定を図るなど
なかなかできる君主だったようです。

しかしマリアとの間に世継ぎは生まれませんでした。
(王女カトリンとエルジェーベトはマリアの子供説もあります)

マリアは30代半ばで亡くなり
セーケシュフェヘールヴァールの王家の墓所に葬られました。
上の肖像画はその時のもの…なんか苦しそうな顔していますが…



お世継ぎ期待論の犠牲者
カーロイ1世妃 ベアトリックス・ルクセンブルギ


1305~1319/在位 1318~1319

前妃マリアを亡くしたカーロイは、お世継ぎをつくらなきゃ!という訳で
30歳の時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の皇女ベアトリックスと再婚します。

        
ベアトリックス、この時14歳。
おおいにお世継ぎが期待されたってことなんだが、ちょっと待って下さる?

すぐに子供がほしいならなぜ20歳を過ぎた女性にしないんでしょうか、と
前々から不思議でした。
中世時代の出産て、何歳がベストだと思われていたんでしょうか?
14歳に子供を期待するのが普通だったってことですかね?

結局ベアトリックスは翌年出産の時に亡くなりました。
お子様も助からなかったそうです。

出産で命を落とす十代の妃をたくさん見てきただろうに…
少しは学習してほしかった。

(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ヴェンツェル妃 ヴィオラ・エルジェーベト

2010-09-14 01:58:16 | ハンガリー王妃
                  肖像画がないので
                  ヴィオラの墓所ヴィッシー・ブロッド修道院


美しさが不幸のもとか?
ヴェンツェル妃 ヴィオラ・エルジェーベト


1291~1317/在位 (ハンガリー王妃)1305 
          (ボヘミア・ポーランド王妃)1305~1306

ハンガリー、ポーランド、ボヘミアとが入り乱れて各国の王位を争っていたこの次期
ハンガリーでは後継ぎの途絶えたアールパード朝から王位を継承しようと
少しでも血筋を引いた人々が激しく争っていましたが
結局ベーラ4世王女アンナを曾祖母に持つプシェミスル家の
ヴェンツェル(チェコ名ヴァーツラフ)が王位につくことになりました。

ヴィオラはヴェンツェルが王位についた年に結婚しました。
彼女はヴェンツェルの家臣チェシン公ミェシュコ1世の公女で
結婚は身分違いと言われましたが
なんでも、口では言い表せないほど美しかったらしい…肖像画が無くて残念です。

        

ヴェンツェルは、ずっと婚約していたアンドラーシュ3世と王妃フェネンナの王女だった
エルジェーベトとの婚約を無効にしてヴィオラとの結婚に踏み切っています。
このためにハンガリーの王権を放棄したほどです。

しかし、ヴェンツェルはヴィオラの美しさだけに惹かれたわけでなく
チェシンが戦略的な位置にあったから彼女を選んだと言われています
…でもどーだかね

どーにもこーにもボヘミア貴族たちとうまくいっていなかったヴァーツラフは
結婚から10ヶ月後、オロモウツで暗殺されてしまいました。

身分違いと言われ結婚を認められていなかったヴィオラは、お金も行くあてもなく
ヴァーツラフの姉のアンナとエリシュカがいる修道院に身をよせましたが
その後ボヘミア女王になったエリシュカによって貢ぎ物的に
有力貴族ペーテル・ローゼンブルクと再婚させられました。
ボヘミア女王は力のあるペーテルに取り入りたかったらしいのね。

けれどもヴィオラは再婚から1年後に亡くなります。

美しさは最大の武器になるかもしれないし、最大限に利用している女性もいるでしょうが
他人に利用されてばかりじゃ持っていても嬉しくもなんともないわね。
この方、少しは自分のために美しさを使ってみようと試みなかったのかしら?
無気力な美女よりは、悪女でも自分を利用しきった美女の方が素敵に思えたりします。



良妻薄命
ベーラ5世妃 カトリン・ハブスブルグ


1256~1282/在位せず

ヴェンツェルがハンガリー王位を放棄した後は、ベーラ4世とマリア・ラスカリズの王女
エルジェーベトを母に持つヴィッテルスバハ家のベーラ5世(バイエルン公オットー3世)が
王位を継ぎました。
でもこれは正式に受け入れられなかったようで、対立王と見なす説もあります。

カトリンはベーラ5世が王になる前の1279年に結婚しています。

カトリンはドイツ王ルドルフ5世の王女です。
力を持ち始めていたハプスブルク家は、この結婚でオットーに
4万ポンドの持参金を齎しました。

         

しかしカトリンは3年後、出産後の合併症で亡くなります。
生まれたのは双子の王子でしたが、ふたりともすぐに亡くなりました。

ベーラ5世はカトリンの死から23年という長ーいやもめ生活の末
グウォグフ公ハインリヒ3世の公女アグネスと再婚していますが
彼女のことは詳細がわかりません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『バレンシア物語』じんわり哀しい一冊

2010-09-13 00:25:13 | その他の国の作家
CUENTOS VALENCIANOS 
1896年 ブラスコ・イバニェス

ドラマや映画、小説は色々な疑似体験をさせてくれますが
やはり “ 笑える ” より “ 泣ける ” という言葉に弱いですよね。

でも最近はどうも
若い恋人たち → どちらか不治の病 → 愛があるから大丈夫 → 思い出をありがとう
な傾向に偏っている気がするんですよねぇ…
わたくし、そういうお話は韓流で腹一杯です。

『葦と泥』に収められている『バレンシア物語』は、3篇の短篇から成っています。
美しい恋物語ではありませんし、余命何年…という伏線もありませんがグっときます。

『ディモーニ』
酒と放浪を愛する人気者の笛吹きディモーニは、突然不器量で飲んだくれのボラーチャと
激しい恋に落ちてしまいました。
ディモーニは男ぶりが上がっていきますが、逆にボラーチャはみすぼらしくなっていきます。

ふたりの恋は悲しい結末を迎えることになります。
だらだらと「あなたと生きれて幸せだった」みたいなことが書かれていないにも関わらず
胸にせまるラストです。

『婚礼の夜』
貧しい家の子でありながら学校へ通い聖職者になったビセンテが故郷の教会に赴任します。
ビセンテは村の誇りとなり、人々に讃えられて幸福でした。
そして、祝宴の席で、幼なじみのトネータと農民チーモの婚礼を引き受けます。

せっかく掴んだ栄光の座が、一瞬にしてくだらないものに思えた時、
これまでの努力と年月が全て無駄だったと気付いた時、ものすごい虚しさでしょうね。
若くしてそのことを悟ってしまった主人公の哀れさが身に凍みます…頑張ってほしい。

『馬糞拾い』
働ける年になったので、母に言われてバレンシアに馬糞拾いに行かされたネレットは
途方に暮れて、母が乳母をしていた少女マリエータを訪ねて行きます。
マリエータに歓迎されて嬉しくなったネレットは、毎日彼女を訪ねるようになりました。

でも、ある日を境に少女の態度がコロッと変わってしまうのね。
ふたりの間を阻むのは “ 身分の違い ” … たいした違いじゃないんだけどさ。
そしてやはり身分の高い子の方がそういうことに敏感なんですね。

実話ならまだしも、不治の病を持ってくれば泣ける話しになる、っていう考えは
いいかげんやめてほしい!

こんなにも素朴で身近なテーマで、じゅうぶん人を感動させることができます。

長篇『葦と泥』とはうってかわった簡潔な文章で
すごく読みやすくストレートに訴えかけられました。

『バレンシア物語』には他にも何篇かあるのでしょうか?
あったらぜひ、他の短篇も読んでみたいと思います。
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ハンガリー王アンドラーシュ3世妃 フェネンナ

2010-09-10 22:46:59 | ハンガリー王妃
               こちらはふたりめの妃アーグネス

継承者争い激化!!
アンドラーシュ3世妃 フェネンナ


1276~1295頃/在位 1290~1295

ラースロー4世と王妃イジャベラの間に嫡子が生まれなかったもので
またいとこ? のアンドラーシュが王位を継承することになりました。

アンドラーシュ3世の最初の妃フェネンナについてはあまり情報源が無く
その存在も19世紀になってわかってきたそうです。
うーん…たしかに存在感はないかしらね

アンドラーシュ3世は即位すると、すぐにポーランドとの同盟を締結しようと考えます。
そこでポーランド王家ピアスト家の一員イノヴロツワフ公ジェモミスウの娘フェネンナとの
縁談が決まりました。

       
フェネンナは14歳、アンドラーシュ3世は10歳ほど年上でした。

でも、ものすごく望まれて嫁いだ割に…と申しましょうか
フェネンナの親戚関係がありがたがられるだけで
宮廷で重要視されてはいなかったようです。

この同盟はとても有益なものだったようで
アンドラーシュはアンジュー家のシャルル・マルテルとの戦いを
ピアスト家はボヘミア王ヴァーツラフ2世&グウォグフ公ハインリヒ3世との戦いを
お互い助け合うことができました。
しかしフェネンナの死後は、アンドラーシュは敵方にまわっております。

フェネンナの亡くなった年ははっきりしていませんが
アンドラーシュ3世が1295年に再婚の打診をしていますので
その頃では…と言われています。 埋葬場所も不明です。

ひとり娘のエルジェーベトはボヘミア王太子ヴァーツラフ(3世)と婚約しましたが
破談になり、継母のアーグネスと修道女になりました。



アールパード朝最後の王妃
アンドラーシュ3世妃 アーグネス・ハブスブルグ


1281~1364/在位 1296~1301

ハプスブルク家登場です。
でもハプスブルク家がハンガリー王になるのはもう少し先の話しになります。

アーグネスはドイツ王アルブレヒト1世の王女で、兄にボヘミア王ルドルフ1世がいます。

          
アーグネスは15歳の時、前妃を亡くしていたアンドラーシュ3世の妃になりました。

こちらもお互いの戦いを助け合うなど、同盟は上手くいった様子ですが
王と王妃の間に嫡子は生まれず、アールパード王家は断絶しました。

1301年、アンドラーシュが亡くなりアーグネスは19歳で未亡人になりました。
再婚もできる年なのに、Königsfeldenの修道院に入り一生を終えました。

その際、9歳になる前妃フェネンナの王女エルジェーベトを連れて行って
一緒に修道女にしちゃったのね…
恐ろしい世間に置き去りにしないのは偉いし、19歳にしてはよくできた継母だが
果たしてエルジェーベト本人はそうしたかったんだろうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『世界短編名作選 イギリス編』らしくない…? 代表作

2010-09-07 00:09:00 | イギリス・アイルランドの作家


私は短篇選が大好きで、作家ごとにまとめられたものから、テーマ別、国別と
見かければ手に取ってしまいます。
この本は渋谷古本市で見つけて購入しました。

集英社版岩波文庫版 などに続くイギリスの短篇選ですが
本書は収載されている数が少ないだけに、ちょっぴり物足りなさが残ります。

作家陣はハーディ、モーム、ジョイス、G・グリーンなどの短篇選常連組をはじめ
シリトーやS・ヒルなどの新顔を含む13人です。

短篇選は選者の好みやテーマで、選ばれる物語が変化するところも面白いですよね。

この『世界名作選・イギリス編』は、ちょっと “ らしくない ” 作品が
選ばれているんじゃないかしら? (あくまでも私の感想です)
わかりやすい大御所のものからいくつか…

『追いつめられて(Hunted Down)/1859年 C・ディケンズ』
保険会社の支配人サンプソンは、スリンクトンが初めて事務所を訪ねて来た時から
嫌悪感を感じていましたし、その思いはずっと変わりませんでした。
しかし、スリンクトンは申し分ない紳士で、からだの弱い姪の面倒もみているのです。

これはかなりのサスペンスタッチ…良くできた短篇だと思います。
そういえばディケンズは集英社、岩波版では選ばれてなかったですね。
やはりディケンズと言えば長篇が魅力!なんでしょうか?

『母(The Mother)/1942年 S・モーム』
スペインの安アパートに越して来たラ・カチーラは、殺人を犯したことがあるらしく
住民たちとも没交渉でした。
しばらくすると彼女の愛しい息子クリットが訪ねてきます。
クリットはアパートの住人ロザリアに恋をしたようでした。

モームはかなり短篇集を持っていますが、この話しは初めて見ました。
短篇なら、やっぱり『雨』とか『手紙』などの植民地ものを期待しちゃうんだけど…
スペインが舞台だからか、モームにしては躍動的な物語でした。
女性陣の燃えるような瞳のぶつかりあいが目に浮かびます。

『歌って踊って(A Bit of Singing and Dasncing)/1973年 S・ヒル』
口うるさい母が死んだので、家を売り自由を満喫するつもりだったエズミですが
下宿屋と間違えてミスター・エイマス・カリという男性が訪ねてきました。
断りきれず下宿させてしまったエズミですが、彼は申し分のない下宿人でした。
聞けばミスター・カリには夏の間だけの副業があるそうです。

不謹慎な話しですが「もし◯◯がいなくなったら、こんなこともあんなこともしたい」と
考えることってありませんか?
でもいざとなると大きく生活を変えるのって勇気がいるんですよね。
今までの窮屈に思える生活の方が居心地がよかったりして…

大好きなC・マンスフィールドは『ひたむきな愛』という物語が選ばれていましたが
彼女だったらやっぱり少女や女性を主人公にした物語の方がファンには嬉しい…

しかし、私もまだまだ読んでいない物語が多いから、何が誰らしいのか掴めていないし
選者が意図的に他の短篇選とかぶらない物を選んだのかもしれないですね。

気になったのでネットでアメリカ版とロシア版を買ってみました。
早速読んでみます。
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ハンガリー王ラースロー4世妃 イジャベラ

2010-09-06 01:18:40 | ハンガリー王妃
             やはり肖像画が無いのでお母様のベアトリーチェ

異国趣味の王に見捨てられた王妃
ラースロー4世妃 イジャベラ・アンジュー


1261~1300/在位 1272~1290

イジャベラはナポリ王カルロ1世の王女で
父方の祖父母がフランス王ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーヨになります。
母ベアトリーチェはプロヴァンス伯レーモン・ベレンゲル4世の娘で
母方の伯母にフランス王ルイ9世妃マルグリート
イングランド王ヘンリー3世妃エリナーがいます。

        

レーモン・ベレンゲルの娘たちは皆美人だったということで
孫のイジャベラもお美しかったろうと思われるのですが、宝の持ち腐れだったかも…

イジャベラはわずか7歳!で6歳!!のラースローと結婚しました。
結婚といっても、これじゃあ形式的なものにすぎなかったと思いますが
ラースローは着々と、異教徒趣味と母方のクマン族の生活様式を身につけていきました。

大人になった頃にはクマン族のお衣装を纏い、妾たちを侍らせて
早い話しがハーレムっていうのかしら? をつくり上げイジャベラを遠ざけました。

モンゴルの脅威が去ってハンガリーを出て行こうとするクマン族を引き止めたり
自らテントを張って寝泊まりしたり…もうどこの王様じゃ? 状態。

イジャベラは1286年にはなぜか逮捕されて、3年間投獄されました。
これはどうやら愛妾と暮らすためだったらしいです。
ひどいですよね
せめて別居用の立派な城でも与えんかっ! 甲斐性が無いなら浮気しなさんな!!

こんな王様、世間もだまっちゃいないわけで、イジャベラと和解した翌年の1290年
ラースロー4世は貴族に暗殺されてしまいました。

イジャベラとの間に子供はできず、これがアールパード家の終焉に繋がります。

イジャベラはまだ29歳で、断然再婚できる年だったんですが
故郷ナポリに帰り、聖ピエトロ修道院でドミニカン派の修道女になり
10年後に亡くなりました。

7歳でお嫁に行ったから、イジャベラも異教徒風に育ってもおかしくなかったのに
三つ子の魂でしょうか? しっかりキリスト教徒として成長していたわけですね。

彼女の死後14年、ハンガリーの大修道院長が、イジャベラの私生児について言及しました。
息子は(クロアチアの)ケグレビッチ家の先祖にあたるらしいのですが
ハクをつけるためにあとからつけた話しっぽい気がしないでもない…

でも浮気してたとしても許してあげましょうよ。
すっかり見捨てられた若妻だったんだし…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ベーラ4世妃 マリア

2010-09-03 23:24:45 | ハンガリー王妃
             こちらはイシュトヴァーン5世妃エルジェーベト

地味だけど幸せだったかもしれない・・・
ベーラ4世妃 マリア・ラスカリズ


1206~1270/在位 1235~1270

マリアの父ビザンツ帝国を追われた亡命国家、ニカイア帝国のテオドール1世です。

        

マリアはハンガリーとの同盟のために12歳でベーラと結婚しました。
ちなみにベーラも12歳…最初の王女は14歳で生まれてますよ!

完全な政略結婚でしたがお子様は8人生まれていますし、夫は名君だし
それなりに幸せな王妃だったんじゃないかしら?
エピソードがないのでわかりませんけど…

ベーラ4世は1270年に亡くなり、マリアもその2ヶ月後に亡くなりました。



異国情緒をもたらしすぎた王妃
イシュトヴァーン5世妃 エルジェーベト・クン


1239~1290頃/在位 1270~1272

ヨーロッパの宮廷では屡々オリエンタルな趣味が流行った時代もありましたが
エルジェーベトはやりすぎちゃったのね…それもそのはず、そういう生まれなんですもの。

エルジェーベトはトルコ人の血が流れるクマン族の族長クセンの娘です。

          
ベーラ4世時代、ヨーロッパの各地はモンゴル帝国の襲撃をうけていました。
国を追われたクセンたちはハンガリーに逃れてきましたが
ベーラ4世は彼らと戦うより手を結んでモンゴルに反撃しようと考えました。

クマン族はシャーマンの支配を受けていて、キリスト教からみれば異教徒です。
ベーラ4世は、彼らがキリスト教に改宗し、王に忠誠を誓うことと引き換えに
保護してあげよう、と提案しました。

エルジェーベトは同意の証しとして王子イシュトヴァーンと婚約しました。
たぶんふたりとも1歳ぐらいです。 気が早いったら…
しかし婚約期間中にモンゴルが攻めて来て、父のクセンは寝返らないように…と
貴族たちに暗殺されちゃいます。
ハンガリー王家も一時期オランダに避難しました。

1253年、12歳になったエルジェーベトは、同じ年のイシュトヴァーンと結婚します。

1272年、王になって2年しかたっていないのにイシュトヴァーン5世が戦死しました。
エルジェーベトは10歳の王ラースロー4世の摂政になりました。

イシュトヴァーン5世妃時代のエルジェーベトの記録はないそうです。
亡くなった年もはっきりしていませんが、1290年頃らしいです。
寂しいわね…あまり人前に姿を現さなかったのかしら?

で、エルジェーベトの失敗は子どもたちを異国情緒たっぷりに育てちゃったこと。
一応キリスト教に改宗していたものの、生まれながらの習慣はなかなか抜けませんよね。
特に長男ラースロー(4世)はとことん異国風にこだわったせいで
悲しい最期を迎えることになります…つづく

(参考文献 Wikipedia英語版)
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