まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

デンマーク王フレデリク9世妃 イングリッド

2010-04-12 00:37:59 | デンマーク王妃
新世紀の王妃
フレデリク9世妃 イングリッド・アフ・スヴェリエ


1910~2000/在位 1947~1972

イングリッドはスウェーデン王グスタフ6世の王女で
母マルグレート・コンノートは生後6ヶ月の時に亡くなりました。
3歳の時父がルイーズ・マウントバッテンと再婚しました。

実母は大英帝国女王ヴィクトリアの孫、継母は曾孫というわけで
イングリッドと英国王室には深い繋がりがありました。

        

1928年、イングリッドにまたいとこの英国王太子エドワード(後の8世)との
縁談が持ち上がりましたが、婚約には至りませんでした。
もしこの縁談が上手く運んでいたらシンプソン夫人との世紀の大恋愛は
なかったかもしれませんね。

1935年、やはりまたいとこにあたるフレデリクと結婚しました。
この結婚はおおいに注目を集め、メディアはうるさくつきまといました。
ダイアナ妃を思い出すなぁ…いつも人の輪ができていたもの。

イングリッドは責任感が強く真面目な一方で、スポーツ好きのアクティブな女性でした。
乗馬とテニスが得意で、運転免許も持っていたそうです。
当時としてはかなり珍しいんじゃない? しかも車で町まででかけたらしい。

また、ラジオにも度々出演して詩の朗読などをしたそうです。
なんて気さくな…

王太子妃だった時に、デンマークはナチスドイツの占領下に入りました。
父王クリスチャン10世、王妃アレクサンドリーネが国内に踏みとどまる中
イングリッドも自転車に乗ったり、ベビーカーを押して町中を闊歩しました。

スウェーデンの父グスタフ6世は、娘の行為をとても心配して
「少し控えめにね…」とアドバイスしましたがイングリッドは聞きませんでした。

国民はイングリッドを “ 静かなる革命のシンボル ” として絶賛したそうです。

1947年、フレデリク9世が即位して王妃になったイングリッドは
宮廷の古いしきたりを変えようと改革に乗り出します。
また、歴史を調べ上げて、グラステン城を古き良き時代の外観に改修しました。

第二次大戦後フレデリク9世は、憲法の改正を行っています。
これによって女性への王位継承が可能になりました。

それから工業の大幅な導入など国家をあげての大改革を行っています。
また、名高い福祉国家もこの頃に形成されています。
変革に用いるパワーというのは並大抵のものではありませんよね?
イングリッドのサポートはとても力になったのではないでしょうか。

1972年、フレデリク9世が亡くなった後も
娘マルグレーテ2世が不在の時には摂政を務めたりと国家に関わっていたイングリッドは
2000年に亡くなりました。

               
                 頼りになりそうなお顔立ち
                   務めを果たしてきた自信に満ちていますね


(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クリスチャン10世妃 アレクサンドリーネ

2010-04-11 01:45:19 | デンマーク王妃
デンマーク近代王室の幕開け
クリスチャン10世妃 アレクサンドリーネ・アウグステ
             アフ・メクレンブルク=シュヴェリーン


1879~1952/在位 1912~1947

アレクサンドリーネはメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世と
ロシア皇帝ニコライ1世皇女アナスタシアの公女でした。

         

1898年にクリスチャンと結婚しました。

1902年、ふたりはマルセリスボー城を贈られます。
城の庭園はアレクサンドリーネが生涯を通じて愛情を注いだもののひとつでした。

時代は不穏になりつつあり、デンマークもドイツ、スウェーデンとの関係や
王の権限の低下などで、王家は大事な時期にさしかかっていました。
アレクサンドリーネは政治的なことにはあまり関心がありませんでしたが
夫のサポートは怠らなかったようです。

第一次大戦は中立を守って乗り切ったクリスチャンでしたが
シュレスヴィヒとホルシュタインの併合で議会と対立して国内が混乱し
結果、即位後10年足らずで政治的な権限はほとんど無くなります。
現代の日本と同じく、象徴的な国王となりました。

アレクサンドリーネは夫のサポートのかたわら、音楽業界の保護に精を出しました。
また、刺繍も有名で、慈善目的のため屡々売られたこともありました。
Made by Queen なんて素敵じゃない! もったいなくて使えないわね

ゴルフとカメラが大好きなモダ~ンな一面もあります。

義母ルイーセを見習い慈善活動にも力を注いだアレクサンドリーネは
第一次大戦中に、貧しい家族のために女王立委員会を組織しました。
ルイーセの死後は基金を引き継ぎ、慈善団体を設立しました。

第二次大戦中は亡命せず、ナチ占領下の市街を歩き
ドイツ軍を恐れることなくやりあい、反ナチス派の擁護もしたということで
クリスチャン10世は一躍国民の拠り所になりました。

1946年にはふたりで国内をまわり、ものすっっごい歓迎をうけました。
国によって事情が違いますから、やむを得ず亡命した王がいても仕方ありませんけど
やっぱりそばに居てくれたら心強いですよね。

即位当時は人気が薄めだったクリスチャン10世は
国民に愛される王として、1947年亡くなりました。

アレクサンドリーネは、王の死後もQueenの称号を保持した
最初のデンマーク王未亡人でした。

              
                後年の王妃。シックです

お写真で見ると、楚々としてお部屋でお茶ばかり飲んでいそうな
The 王妃ってかんじに見えますけど、行動派でアグレッシブな方だったんですね。
まさに、近代王室の幕開けに相応しい王妃ではないかと思います。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク8世妃 ルイーセ

2010-04-10 10:40:42 | デンマーク王妃
性格、変わってしまいました
フレデリク8世妃 ルイーセ・ユーフェミア・アフ・スヴェリエ


1851~1926/在位 1906~1912

スウェーデン王カール15世は、ルイーセを他の少女のように押さえつけず
まるで男の子のように育てました。
ルイーセは自信に満ちあふれた、親しみやすい王女になりました。
母のオランダ王女ルイーセは淑女にしたかったみたいですけど
カール15世は「よしよし」って感じで男の子並みに手荒く接していました。

ルイーセは自ら “ ストックホルムのわんぱく小僧 ” と呼んでちょうだい!と言い
驚いた叔父が慌てて止めたというエピソードもあります。

カール15世には他に成長した子供がいなかったので
ルイーセにスウェーデンとノルウェー王位を継がせたかったのですね。
議論は繰り返されましたが、法改正の必要もあり
また、叔父に息子が生まれたことで難しくなりました。

         

1869年、ルイーセはフレデリク(後の8世)と結婚します。
カール15世は汎スカンジナビア構想を持っていて、デンマークとの連合を考えていました。
そこで緊張関係にあった両国間の親交を築くことが、この結婚の狙いでした。

ふたりの結婚は新しい北欧のシンボルと言われて、壮麗な式が挙げられたものの
実はスウェーデンでは飢饉がおこっていて、持参金には特産品があてられました。
何かしら? 持参金に匹敵する特産品て?

ところが、デンマーク国民には歓迎されたルイーセは王室では不人気でした。
ルイーセのチャームポイントであるフレンドリーで飾らない人柄は
グリュックスブルク家の家風にはそぐわなかったみたいで
夫の家族、特に女性陣と上手くいきませんでした。
女性陣とは、やはり姑さんのルイーセ・アフ・ヘッセン=カッセルかしら? 保守派だし…

フレデリクも自由な思想の持ち主だったといわれています。
ルイーセを庇ってもよさそうなものを、あまり助けてはくれませんでした。
やっぱり母親には頭が上がりませんかね…

デンマークとスウェーデンの関係にもあまり変化は見られず
なんのために嫁いできたんだか…

そんなわけで、デンマークで過ごすうちにルイーセの性格には変化が表れます。
内気で頑なな女性になって、信仰にものめりこんでいきました。
子供たちのことは非常に厳しく教育しました。
父カール15世が見たらなんというかしら?

               
                お顔立ちが険しくなられました?

ルイーセの唯一の喜びは実家への里帰りでした。
そこでは懐かしい家族や友人の前で自分らしく振る舞えたのかもしれませんね。
なのに…1905年のノルウェー独立によってデンマークとスウェーデンの緊張が高まり
里帰りもままならなくなってしまいます。

国民にも敬虔な王太子妃として知られるようになっっていたルイーセは
1906年に王妃になると、公式な行事はあまり気にかけなくなります。
芸術と文学を深く愛し、独自の慈善活動に精を出します。

王妃時代も、1912年に未亡人になってからも思慮深い生活を送り
1926年に亡くなりました。

人の性格って、そう簡単には変わらないと申しますけど
追いつめられると知らず知らずのうちに順応してしまうものなのかしら?
王室のあり方に変化が見え始めた時期だからこそ
ヴァイタリティーのある王妃が求められていたような気がするけどね。
でもまわりが夫の家族ばかりじゃねぇ…多勢に無勢ってことかしら

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クリスチャン9世妃 ルイーセ

2010-04-09 02:34:22 | デンマーク王妃
熾烈な王位継承レースを勝ち抜く!
クリスチャン9世妃 ルイーセ・アフ・ヘッセン=カッセル


1817~1898/在位 1863~1989

フレデリク7世の嫡子による王太子をあきらめたデンマーク宮廷では
熾烈な王位継承争いが始まったご様子…
王位を勝ち取ったクリスチャン9世の妃がヘッセン公ヴィルヘルムの娘ルイーセでした。
ルイーセがいなかったら、クリスチャンは継承戦争に勝てなかったとも言われています。

         

3歳からデンマークで暮らし、ほぼデンマーク人と言ってもいいルイーセは
デンマーク王子フレデリクの孫で、クリスチャン8世の姪でもあります。
小さな頃からデンマークの王位継承は人ごとではなく、とても興味がありました。

1842年にまたいとこのグリュックスブルク公子クリスチャンと結婚します。
クリスチャンにも王位継承権はありましたが、家系から言うとルイーセの方が上でした。

家柄に申し分無いルイーセは、もちろんフレデリク7世妃ルイーセが好きなはずはなく
よそよそしいお付き合いをするにとどめていました。

ルイーセより上位の継承権を持つ人物もいたようですが
ふたりはひとつひとう編み目をほぐし、王位を引き寄せました。
ルイーセは知性、判断力、精神力、どれをとってもクリスチャンに勝っていたようです。
クリスチャンはルイーセを信頼し、ふたりで複雑な継承問題を勝ち抜きました。

1851年にルイーセは自分の継承権を放棄します。
1852年、クリスチャンが後継者に指名されました。やったね!

ふたりは王と王妃になってからも、簡素で愛情豊かな家庭生活を送りました。
しかしルイーセは一般市民と一線を画すことは忘れず
国民との関係よりは王家を守ることにエネルギーを注ぎました。

子供たちの結婚では、デンマーク王家に格式を与えることを第一に考え
例えば長女アレクサンドラは大英帝国王エドワード7世妃に
次女ダグマーはロシア皇帝アレクサンドル3世皇妃に嫁いでいます。

ですので三女ティーラが1871年にある将校の子供を未婚で生んだ時
ルイーセはその事実を国民に知られないよう全力を傾けました。
ティーラはその後ハノーヴァー王子エルンストと結婚しています。

ルイーセは王妃ですから、もちろん慈善にも精をだしました。
しかしその方法が一風変わっていました。
彼女が設立したのは、いわゆる “ 召使い専門学校 ” です。
孤児の少女たちの手に職をというのは、ま、間違ってはいないかもしれないけど
身寄りが無いから召使い…保守的な方だったそうでございます。

絵画は大好きで、芸術家に融資をしたりするだけでなく
ご自分の展覧会も開きました。
他国の王室にも贈ったということですが、どこかの美術館にあるのかしら?
どんな絵を描いていたんでしょうね。

晩年は看護婦の世話になりながら暮らし、1898年に亡くなりました。
ルイーセの在位期間35年は、デンマーク王妃歴代1位を誇ります。

             
                 少しお歳を召された写真
              このドレスの贅沢に生地を使っていることと言ったら…さすが


(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク7世妃 ルイーセ

2010-04-07 23:41:03 | デンマーク王妃
荒くれ者のミューズ
フレデリク7世妃 ルイーセ・ラスムセン


1815~1874/在位せず

母親はユリアナ・ラスムセンといい、商家のメイドでした。
職人コッペンとの間にできたルイーセを未婚で生みました。

いきなり家系図がスッッッキリしてしまいましたね。
これが家柄の違いということか?

          

ルイーセはバレエスクールに通い、1830年に女優として契約し
1835年にバレリーナとして舞台に上がっています。

26歳の時印刷工カール・ベーリングの子供を生んでバレリーナを諦め
婦人服の店を始めました。

この頃にフレデリクと知り合っています。
ベーリングの紹介だっていうのですけど、なんで王太子と印刷工が知り合い?
遊び仲間でしょうか?

フレデリクはカロリーネと再婚したばかりなのにルイーセとつき合うようになります。
カロリーネは実家に帰り、1846年には離婚も成立しました。

1848年、フレデリクは王に即位するとルイーセと結婚しようと考えました。
しかし政府は許しません。
「後継ぎどうするんですか?」ってことです。
二度の結婚で嫡子はなく、ルイーセの子供を王にするわけにもいきません。

1849年、自由憲法が成立したことでフレデリクは俄に人気者になりました。
これで結婚が許可されることになり、ふたりは1850年に結婚しました。
ルイーセには事前にダナー伯位が与えられていたのですが、貴賤結婚扱いになりました。

この結婚は、あまりにも不釣り合いということで、貴族や上流社会では不人気でした。
たぶん最初の妃ヴィルヘルミーネの悪口も炸裂していたことでしょう。
ルイーセは社交界で恥をかかされ軽蔑されました。

例えば…
公式の晩餐会では、同席者が君主の妃にすべきこと(パンを差し出すとか)を
誰もしようとせず、王夫妻は待ちぼうけ。
フレデリクはブチキレて立ち上がり「誰もせんなら俺がやる!」と言ったそうな。
この王の振る舞いに、同席した貴族たちはグラスを掲げたということですが
これは賞賛してるの? バカにしてるの?

1854年、ふたりはシェラン島にJægerspris城を購入しました。
ここではプライペートな時間を満喫したそうです。

フレデリク7世は、子供の頃に母シャルロッテが離婚され
ほとんどの時間をひとりですごしていました。
そのため性格に弱いところがあり、その弱さを隠すために
乱暴に振る舞ったり嘘をついたという説もあります。

お高くとまった良家のお嬢様にその弱さをさらけ出さないよう
フレデリクは武装したのかもしれないですね。
ルイーセと一緒に居ると自分らしくできて心地よかったのかも…

1863年にフレデリクが亡くなると、ルイーセはシェラン島でひっそり暮らしました。

1873年には労働者階級の貧しい娘のために、フレデリク7世基金を設立しました。
その翌年に亡くなると、彼女の遺言によってJægerspris城は売られ
売上金が貧困に苦しむ女性使用人たちに寄付されました。

フレデリクはルイーセのこういうところも好きだったんじゃないかしら。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク7世妃 カロリーネ

2010-04-07 23:40:49 | デンマーク王妃
「実家に帰らしていただきます!」を実行した妃
フレデリク7世妃 カロリーネ・シャルロッテ・アフ・メクレンブルク


1821~1876/在位せず

フレデリクはヴィルヘルミーネとの離婚から4年後の1841年に
メクレンブルク大公の公女カロリーネ・シャルロッテと再婚しました。

母マリーはヘッセン=カッセル家出身です。
従姉妹のルイーセはグリュックスブルグ家のクリスチャン(後の9世)妃になります。

       

デンマークではマリアンネと呼ばれました(でもカロリーネでいく)
カロリーネは、小心でナイーヴな女性でした。

ものすごく合わなさそうでしょ? フレデリクとカロリーネ。
暴れん坊とナイーヴよ、水と油、ドリフとPTA、っていうぐらい合わなそう。

フレデリクにとっていてもいなくても…みたいな存在だったカロリーネは
1844年に里帰りした際、「もうデンマークには戻らない!」と駄々をこね
居続けること2年、晴れてフレデリクと離婚しました。

その後は再婚せず、故郷で静かに暮らしました。
フレデリクについてはほとんど語りませんでしたが
デンマークから客人が来たりして、フレデリクの話題になると
「とても変わった人だったから…」と言っていたということです。
こういう台詞、大竹しのぶっぽく言うといいんじゃないかしら?

1876年に故郷ノイシュトレーリッツで亡くなりました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク7世妃 ヴィルヘルミーネ

2010-04-07 09:59:28 | デンマーク王妃
王家を繋ぐ結婚は大失敗
フレデリク7世妃 ヴィルヘルミーネ・マリー・アフ・ダンマーク


1808~1891/在位せず

デンマーク王室の暴れん坊、フレデリク(後の7世)の妃に選ばれたのは
フレデリク6世とマリー・ソフィー・ヘッセン=カッセルの王女ヴィルヘルミーネでした。
ここらへんから家系図にヘッセン=カッセル家が目立つようになりますよ。

フレデリク6世が王子を遺さなかったため、ヴィルヘルミーネは引く手数多で
スウェーデンのオスカル(後の1世)との結婚も有力視されました。
結局、一族のフレデリクと1828年に結婚します。

       

フレデリク5世直系同士の結婚は、オルデンブルグ家を盤石にするはずでした。
しかしすぐに幸せな結婚ではないことが露呈しました。

なんたって暴れん坊! と言われるだけあって、フレデリクは大酒飲みで不信仰、
女性関係もあり堕落した生活を送っていました。
普段は温厚なタイプだったそうですが、癇癪持ちで突飛な振る舞いをする人でした。
気分がコロコロ変わる上に嘘つきだったそうです。

ふたりは結婚から6年後に別居し、1837年に離婚しました。

ヴィルヘルミーネは離婚の翌年、グリュックスブルク公カールと再婚します。
カールの弟が、後のクリスチャン9世になります。

ヴィルヘルミーネには子供はいません。
どちらかの結婚で王子のひとりでも生まれていたら
デンマークの王位継承はかなり違ったものになったでしょう。

シュレスヴィヒがデンマークからの独立を目指した第一次シュレスヴィヒ戦争の際
ヴィルヘルミーネの夫カールは敵方につきました。
これはデンマーク王室とヴィルヘルミーネを断絶させましたが
終戦後の1852年には和解しました。

ヴィルヘルミーネは、フレデリク6世の愛娘ということで人気がありました。
また、フレデリク7世の(3人目の)妃ルイーセの悪口を言わせれば気が利いていたらしく
上流社会ではもてはやされたみたいです。

別れた夫のことなんか黙っていればいいのにね。
王女出身のヴィルヘルミーネにしたら
王妃の座を下々の娘に奪われたことが悔しくてならなかったのかしら?

とはいえ、飲み会に悪口上手がいると結構楽しいのよね

長生きしまして、83歳でグリュックスブルクで亡くなりました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クリスチャン8世妃 カロリーネ

2010-04-02 23:33:36 | デンマーク王妃
前妃とはうって変わった模範的王妃
クリスチャン8世妃 カロリーネ・アマーリエ・アフ
        シュレスヴィヒ=ホルステン=アウグステンブルク


1796~1881/在位 1839~1848

カロリーネの母はクリスチャン7世王女ルイーセで
前妃シャルロッテ同様、クリスチャン8世とはいとこ同士になります。

         

1814年にノルウェー王を退位したばかりのクリスチャンと婚約し
1815年に結婚しました。

クリスチャン8世はノルウェー王時代に自由憲法の制定に加わった人でもありますが
ノルウェーがスウェーデンとの連合国家になったためデンマークに帰国、
デンマークの絶対君主制も揺らぎ始めて…どうでもよくなったのかしらね?
鉱物学や地質学に身をやつすようになります。

クリスチャン8世が、王としてより名高い学者として名を上げていく一方
カロリーネは音楽家としてピアノ曲の作曲に励みました。
ヨーロッパ旅行にも夫婦で度々出かけました。
アカデミックな王夫妻…現代の王室に通じるものがありますね。

1839年、フレデリク6世が嫡子を遺さず亡くなったことでクリスチャンが即位しました。

カロリーネは公的な催しや慈善事業に精力的で、特に孤児たちの支援に力を注ぎました。
デンマーク聖職者教会の保護者としても活動していていました。

デンマークがホルシュタインと争っていた間は敵意に晒されたこともありましたが
生涯を通じて国民からは概ね人気がありました。

1848年、クリスチャン8世が亡くなり未亡人になります。
継子のフレデリク7世よりも長生きし、1881年に亡くなりました。

象徴型王室の王妃にはもってこいの女性じゃないでしょうか?

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クリスチャン8世妃 シャルロッテ

2010-04-02 23:31:12 | デンマーク王妃
王妃には向かなかったご様子
クリスチャン8世妃 シャルロッテ・フレデリカ
              アフ・メクレンブルク=シュヴェリーン


1784~1840/在位せず

シャルロッテの叔母ソフィーはクリスチャン8世の母にあたり
ふたりはいとこ同志になります。

クリスチャン8世は前王フレデリク6世のいとこで
まだ王になるかどうだかわからない1806年にシャルロッテと結婚しました。

       

シャルロッテはとても美しく、陽気でのんきで気まぐれな女性でした。
今で言う天然だったのかもしれません。

愉快なことが大好きなシャルロッテは
フランスの歌手エドゥアルト・ドゥ・ピュイと浮気をいたしまして
1810年に離婚されました。

クリスチャン8世は再婚もしましたが、嫡子はシャルロッテが生んだフレデリクだけでした。
しかし彼女は離婚後子供と会うことも許されませんでした。

離婚の翌年から、シャルロッテは新しい士官の恋人とユトランドで暮らしました。
でも長続きはしなかったみたい…

1830年にはローマへ渡ってカトリックに改宗しています。
それ以外の詳しいことはわかりません。
1840年に亡くなりヴァティカンに埋葬されました。

お転婆さんだったみたいですね。
肖像画も、ちょっといたずら好きではしゃぎやすい感じに見えません?
王妃じゃなきゃ町や村の人気者になりそうな女性ですのに。

とりあえずお世継ぎを生んだということが最大の功績だったみたいです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク6世妃 マリー・ソフィー

2010-04-01 22:34:56 | デンマーク王妃
憧れるわ! 家系図がご趣味の王妃
フレデリク6世妃 マリー・ソフィー・アフ・ヘッセン=カッセル


1767~1852/在位 (デンマーク王妃)1808~1839 (ノルウェー王妃)1808~1814

マリーの母方の祖母ルイーセも、父方の祖母メアリーも
イギリス王ジョージ2世の王女です。
フレデリク6世の母カロリーネ・マチルデも英国王室出身だし
英国色が強くなってきましたね…本当はハノーヴァー家(ドイツ)だけど。

マリーの父ヘッセン=カッセル方伯カールは次男で
王家から縁談がくるような家柄ではありませんでした。
じゃあどうしてマリーが王太子の妃に選ばれたんでしょうね?

       

父カールはデンマーク王フレデリク5世の王女ルイーセを妻にしていて
デンマーク宮廷で長官の地位を得ていました。
そのためマリーはデンマークで育ちました。

それでフレデリクとの間に愛が芽生えた … だと
とってもロマンティックですけど、実際はわかりません。
いとこ同士だし、良く知っていたとは思いますが
デンマーク政府はもっと高位の貴族の娘を望んでいたようです。

ただ、狂王クリスチャン7世と王を操っていたフレデリク5世妃ユリアーネから
政治を奪取したいというフレデリクの望みを、マリーは常に励ましていたようです。
やっぱり愛があったのかしら?

ユリアーネはフレデリクの花嫁を自分で選んで影響力を維持しようと
躍起になっていましたから、反抗心がむくむくと湧いたのかもしれません。

いずれにしても、ふたりは1790年に結婚しました。
この結婚は国民を感激させ、熱烈に迎え入れられました。

フレデリクは結婚の6年前、16歳の時に父王を説き伏せ協同統治者になっていて
政治的な力は十分備えていました。
農地改革を行い農奴制を廃止し行い、デンマークの農業近代化を図りました。
また、国民のために尽くした王として人気がありました。

しかし時代はナポレオン旋風が吹き荒れていたころです。
デンマーク同盟はナポレオン軍に敗れ、その余波で1814年、ノルウェーを失いました。

プライベートでは、フレデリクの姉妹たちが宮廷にいて
ファーストレディとして振る舞い、傍家出身のマリーを見劣りさせました。
また、王子の夭逝が続き、マリーには常に王子誕生のプレシャーがかかりました。
フレデリクさえ、妊娠中のマリーに愛妾フリーデリケを容認するよう迫ったりします。
お城の中にもバラ色の結婚生活なんて存在しないものなのね

フレデリクはマリーの政治能力には信頼を寄せていたようで
王の不在中、彼女は摂政になったこともあります。
その間マリーは上手く国事を治めていたと言われています。

また、王家の血統にも興味を持ち、研究の末血統に関する本も出版しました。
これって家系図ですよね?
素敵! まわりに資料がたくさんあるんですものね! 羨ましいご趣味です。
彼女の出版物によって、後年クリスチャン9世がデンマーク王になったと言っても
過言ではないそうです。

1839年に未亡人になると一切の公の場から退きました。

ところで、オランダ王ウィレム1世妃ヴィルヘルミナの時も思ったんだけど
ドイツの少女にはもっさもっさしたヘアスタイルが流行っていたの?
嫌いじゃありませんけど、一昔前のハードロッカーみたいですよね…

             
             良かった、ぐっとエレガンスになられて…

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クリスチャン7世妃 カロリーネ・マチルデ

2010-03-30 23:34:34 | デンマーク王妃
肖像画って大切ね・・・
クリスチャン7世妃 カロリーネ・マチルデ・アフ・ストルブリタニエン


1751~1775/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1766~1772

狂王の妃といえばフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールが有名ですが
クリスチャン7世妃カロリーネ・マチルデ(以下マチルデ)もしばしば耳にする王妃です。

マチルデは悲劇の王妃として語られる一方で
恋に溺れた軽薄な女性というレッテルを貼る説もあります。

マチルデの祖父は大英帝国王ジョージ2世で、父フレデリックは王太子でしたが
彼女が生まれる3ヶ月前に急死しました。
マチルデの母オーガスタ・オブ・サクス=コバーク=ゴータは
彼女を謀略うずまく宮廷から遠ざけて教育しました。
マチルデはアウトドア派で乗馬が大好きな、人なつこい無垢な少女に育ちました。

        

バラ色の頬をした愛らしい15歳のマチルデは、兄の大英帝国王ジョージ3世の意向で
即位したばかりの、17歳のクリスチャン7世と結婚することになりました。

クリスチャン7世は、見かけは魅力的でスマートな紳士でした。
しかし、すでにアル中で精神的に不安定で、放蕩に浸っていました。
彼の取り巻きも、おつむの弱い王を持ち上げて遊び回る輩ばかりでした。

婚礼の数日後から、クリスチャンは「愛妻家ほど恥ずかしいことはない」と公言して
マチルデをまったく顧みず、それまでどおり遊びまくっていました。

マチルデのチャーミングさは男性たちの目を惹きました。
しかし厳格な雰囲気のデンマーク宮廷は、溌剌とした気取らない王妃に冷たいものでした。
英国からの従者はすべて国に帰されてしまって話し相手もほとんどいない彼女は
次第に孤立感を強めていきます。

実は(長くなるので)かなりエピソードを省いているのですけど
それでもマチルデの孤独と不幸さは伺いしれます。

クリスチャンがヨーロッパ旅行に出かけ、帰国した時に連れていたのが
ドイツ人医師ストルエンゼでした。
彼は、最初は王夫妻の仲を円満なものにしようとしていましたが
相談にのるうちにマチルデの心を捉え…てなわけで
宮廷内に寝室を与えられ、1770年には確実に王妃の愛人になっていたようです。

クリスチャンの病状はすでに悪化して、政治的判断はとれなくなっていました。
今まで宮廷で無視されていたマチルデは、急に王妃シンパになった人たちに囲まれます。
マチルデはもう有頂天! 次々と新しい友人を役職に取り立てました。

一方のストルエンゼは、財産等の私利私欲には興味がなかったそうですが
政治的な野心は大きな人でした。
彼は1771年に自ら宮内大臣に就任して国の全てを握りました。

マチルデが賢明に振る舞っていれば、ふたりの破滅はなかったと言われています。
ストルエンゼによって国内の政治は改善されました。
税金を下げ、街を整備し、権力の濫用を禁止したため一般市民の人気は高かったし
クリスチャンは何も理解できず、三人でいることが幸せそうでした。

しかし貴族たちは自分の特権が脅かされていくようで見過ごすわけにはいきません。
王妃との不貞を暴いてなんとかストルエンゼを失脚させようとします。
この時の中心人物がフレデリク5世妃だったユリアーネです。

幸せ一杯のマチルデは、ナチュラルなだけに自分が抑えられなかったのね
男さながらの格好で人前に現れたり、人前でストルエンゼといちゃついたり
なんと、王を置き去りにして夏の別荘に行っちゃう始末。
その後生まれた王女ルイーセは、王の子とは認められたものの
あまりにも顔が似ているので “ プチ・ストルエンゼ ” と呼ばれました。

ここらへんが、恋愛問題を上手く切り抜けた女性権力者との違いなのでしょうね。

ところで肖像画ってけっこう重要ね。
上と下を見比べると…

              
                 こちらの肖像画だと
                  なんか同情できなくなったりして…


1772年1月、クリスチャンボー城での舞踏会の後ストルエンゼが逮捕され
マチルデはクロンボー城に送られました。

マチルデを待っていたのは裁判で、彼女には弁護人も認められませんでした。
ストルエンゼを守りたい一心で否定しますが
城内に秘密の通路があったんじゃ申し開きもできませんね。

ストルエンゼは処刑され、マチルデは離婚されます。
兄ジョージ3世は「イギリスに帰られても困るんだよね」ということで
実家の領土ツェレに送られました。

クリスチャン7世は自分が何(ふたりの逮捕状)に署名したかわかっておらず
宮殿中 “ お友達 ” のマチルデとストルエンゼを探し歩いたそうです。

マチルデは、近所の集いに顔を出したり庭仕事をしたりして
ツェレで穏やかに暮らしていました。
貧しい子供たちへの慈善や孤児を引き取ったことでも知られています。

しかしデンマーク国内でクリスチャン7世廃位論が高まると
息子フレデリクの摂政になろうかしら…などと考えてデンマークに帰ることを考え
兄ジョージ3世から愛想をつかされます。

結局デンマークへも祖国であるイギリスにも帰ることなく、1775年に猩紅熱で急死しました。
彼女はウエストミンスター寺院への埋葬を希望していましたがジョージ3世が許さず
ツェレの聖マリア教会に埋葬されました。
奇しくもこの教会には、ジョージ1世妃ゾフィア・ドロテアも埋葬されています。

ううぅむ… 女性から見ると、やはり悲劇の人に思えますね。
いくら前向きに!と言われたところで限度ってものがあります。

ちなみにですが『物語北欧の歴史』の武田龍夫先生によれば
デンマークの方々はクリスチャン7世とカロリーネの話題は好まれない、ということで
避けた方がよろしかろう…とおしゃっています。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク5世妃 ユリアーネ・マリー

2010-03-29 00:27:47 | デンマーク王妃
息子だけが頼り・・・の王妃
フレデリク5世妃 ユリアーネ・マリー・アフ
          ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル


1729~1796/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1752~1766

ユリアーネはヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルベルトの娘です。

一刻も早くフレデリクを再婚させたかったモルトケが、この縁談を仕切りました。
フレデリクはしぶしぶ承知したそうです… なんかイヤな予感

        

前王妃ルイーセの死から7ヶ月後にフレデリク5世と結婚したわけなのですが…

ユリアーネ自身のせいではないんですけど、前王妃があまりにも人気者だったので
「再婚が早すぎる」と言われ、結果彼女は不人気な王妃に… 可哀想ですね。

ユリアーネは好かれようと頑張りました。
デンマーク語も覚え、へたくそながら一生懸命話しました。 でも不人気でした。

フレデリクには忠誠心を見せて一途に尽くしました。
でも同情ぐらいしか与えてもらえませんでした。

堅苦しく育ったユリアーネは、宮廷ではどうも浮いちゃったようです。
ルイーセが生んだ子供たちの教育もままならず厳しくしつけることができませんでした。

こうなったら彼女の望みはただひとつ、
王太子クリスチャン(継子)が即位したあかつきには、フレデリク(実子)を摂政に!
実は王にしたくてクリスチャン毒殺を謀った説もあるんですけど、真偽は分りません。

             
               息子の肖像画を掲げた肖像画
                  力の入れっぷりが滲み出ていますね


1766年にフレデリク5世が亡くなってクリスチャン7世が即位します。
クリスチャンも彼の取り巻きたちもユリアーネが嫌いで
彼女は王家の晩餐にもめったに呼ばれなくなりました。

しかし、いつまでも大人しくしてると思うなよぉ!と考えたのでしょうか?
この後彼女はアクションをおこします。
1768年、クリスチャン7世を操っていたと思われる愛妾アンナ追放に加担しました。
1770年、発狂した王に代わって王妃マチルデと愛人ストルエンゼが実権を握ると
反対派の中心になってふたりの不貞を暴き、政府を転覆させました。

晴れて返り咲いたクリスチャン7世の摂政となった息子フレデリクでしたが
実権はユリアーネが握っていました。
実はフレデリクも少し病んでいたりして、国を治められる人物ではなかったのです。
彼女はドイツのフリードリヒ大王から国の治め方のレクチャーを受けたそうです。

ユリアーネは極端な保守派で、貴族の特権を守ることに固執したので
貴族からは英雄扱いされ、改革派からは悪魔よばわりされました。
権力を握ったことで敵も増え、クリスチャン7世廃位の声も高まったほどです。
当時デンマークでおこった災難はすべて彼女のせいにされました。

クリスチャン7世はあんなに嫌っていたユリアーネに頼りきりで
王子フレデリク(後の6世)の教育も彼女に任せました。
けれどもフレデリクは、摂政のように振る舞い、妹と会わせてくれない彼女を嫌っていて
1748年に正式に王太子に任命されると、議会を招集し
摂政フレデリク(=ユリアーネ)の内閣に突然クビを宣言しました。

その後行われた舞踏会で、ユリアーネは何ごとも無かったのかのように
平然としていたということです。

余生は宮廷で静かに暮らし、1796年に亡くなりました。

女性が実権を握ると、なにかと弊害や落ち度が挙げられるけど
王様だって賢い人ばかりじゃないんだしねぇ…
ユリアーネは賢い政治家のひとりと言えるらしいですよ。

なにはさておき彼女の功績は、1775年にとある陶器工場の設立を助けたこと。
ロイヤル・コペンハーゲンは、彼女なしには生まれなかったかもしれません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク5世妃 ルイーセ

2010-03-28 01:51:45 | デンマーク王妃
夫の人気を築き上げた王妃
フレデリク5世妃 ルイーセ・アフ・ストルブリタニエン


1724~1751/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1746~1751

ルイーセは大英帝国王ジョージ2世と
賢夫人の誉れ高いキャロライン・オブ・アーンズバックの王女です。

21歳の時、完全に政治的理由からフレデリクと結婚しました。

         

でも、この結婚はとてもうまくいっていたそうです。
フレデリクはルイーセと一緒だととても心地よかったらしい…なのに
浮気はしておりましたし、庶子も5人いました。
ルイーセは見て見ぬふりをしてあげたそうです。 それが秘訣なのかぁ…

1746年に王妃になったルイーセは非常に人気がありました。
美しい! というわけではありませんでしたが、会話が上手で高貴さがあったそうです。
また、音楽やダンス、芝居が好きで、王太后ソフィー時代には堅苦しかった宮廷を
気楽な雰囲気へと変えていきました。

フレデリク5世は、劇場や文学などの文化活動に力を入れた王と言われていますが
ルイーセの影響が大きかったのではないでしょうか。

それから、ルイーセは王太后ソフィーと違ってデンマーク語を学びました。
宮廷では相変わらずドイツ語が主流でしたが
子供たちにもデンマーク語を学ばせるルイーセの姿勢は賞賛を浴びました。

フレデリクは政治的には凡庸で、アルコールに走るタイプの方だったようです。
政治は外相ベルンストッフやモルトケなどのお気に入りに任せていました。
それがかえって良かったのか、対外関係では大きな争いはおこりませんでした。

もしかしたら、母キャロラインがそうしたように
優秀な政治家と結託して、上手に国と王をコントロールしていたかもしれませんよね。

1751年に流産して、その合併症で27歳の若い命を落とします。

人気を支えていたルイーセを失ったフレデリク5世はどうなる? …つづく

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クリスチャン6世妃 ソフィー・マグダレーネ

2010-03-25 02:34:38 | デンマーク王妃
根っからドイツ人のデンマーク王妃
クリスチャン6世妃 ソフィー・マグダレーネ
              アフ・ブランデンブルク=クルムバハ


1700~1770/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1730~1746

ソフィーはブランデンブルク=クルムバハ家のクリスチャン・ハインリヒの娘で
家柄は良いような悪いような…
本家筋に当たるまたいとこのポーランド王妃クリスティアーネの侍女になり
そこでクリスチャンに出会って、プロポーズされて、1721年に結婚しました。
玉の輿とまでは言いませんけど、かなりハッピーな成り行きですね。

       
クリスチャンとソフィーは父王フレデリク4世の再婚に反対で
あまり関わりをもたないようにして暮らしていました。
クリスチャンが即位した後、アンナ・ソフィーを保護するという父との約束を翻したのは
ソフィーの考えが影響していたと考えられています。
アンナと同じ王冠を着けるのを拒んで、新しい王冠を作らせたほどですからね。

ふたりは仲の良い夫婦だったらしいのですが、人気はありませんでした。
クリスチャン6世は地味目な方だったようです。
ソフィーはというと、デンマーク語を覚えない、決まった人としか親しくしない、
横柄で傲慢、などなどキリがありません。

まさか王妃になれると思ってもいなかった女性が夢を叶えたからなのか
ソフィーは贅沢で華美なものが大好きでした。
宝石やドレスに大枚をはたき、壮麗な儀式に金をつぎ込みました。

それから、堅苦しい礼儀作法を持ち込み格式張った宮廷を作り上げました。
彼女はこうして王妃の威厳を示したかったようです。

宮廷ではそれまで以上にドイツ語やドイツの文化が幅をきかせて
ドイツからついて来た側近たちが重用されました。
ちなみにですけど、未亡人になったソフィーの妹ソフィー・カロリーネ
デンマークに住みついて、クリスチャンの愛妾疑惑もあったりします。

王妃たるもの公的な行いもしませんとね、というわけで
ソフィーが1732年に設立したのは、l'Union Parfaiteという
幸せな結婚生活を送っている女性に与えられる勲章です。
続いて1737年には未婚の貴族女性のためにヴァロー修道院を造りました。

貧しい人はどうでも良かったみたいですわね

自分のためにはヒルショホルム城を建て増ししましたよ。
夏のコテージを“ 北欧のヴェルサイユ ” といわれる美しい城にいたしました。

1746年にクリスチャン6世が亡くなり、フレデリク5世が即位しました。
我が子とはいえまったく性格の違うフレデリクとソフィーは気が合わず
彼女はヒルショホルム城で暮らすようになります。

息子との距離が広がる一方なので、孫のクリスチャンがやってくると
父親への反抗心をあおっていた、という説もあります。

晩年はほとんどベッドから起き上がれない状態ですごしていたソフィーは
1770年に亡くなりました。
鬱病とも言われていますが定かではありません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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デンマーク王フレデリク4世妃 アンナ・ソフィー

2010-03-22 09:39:58 | デンマーク王妃
祝福されなかった結婚
フレデリク4世妃 アンナ・ソフィー・レヴェントロウ


1693~1743/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1721~1730

アンナの父レヴェントロウ伯コンラッドはフレデリク4世の内閣で
幾度か大臣を務めたことがある人物でした。

アンナが初めてフレデリク4世に会ったのは1711年の舞踏会で
18歳のアンナはすぐに王の気を惹きました。
最初は「愛妾に…」と申し込まれたのですが、母親が断固拒否、というわけで
1712年にスカネルボー城で結婚式を挙げました。

       

この時王妃ルイーセは存命中です。
中世初期ならまだしも、キリスト教も行き渡ったこの時代に王が重婚?
この時教会の重鎮たちは、聖書のヘブライ家長の重婚をもとにして反対しなかったそうです。
何ごとも解釈次第と言うことでね…

1721年にルイーセが亡くなると、ふたりは即正式な結婚式を挙げました。
フレデリクはこの式でアンナとは貴賤結婚でないことを示したかったのです。
だからって、家臣や海外の貴族は納得するわけないんですけど
アンナは戴冠もされて、晴れて正式な王妃になります。

アンナは3人の子供を生んでいますが、不幸なことにいずれも1歳まで育ちませんでした。
人々は “ 不当な結婚に罰がくだった ” と噂したそうです。

アンナ自身が政治に力を及ぼしていたかどうかは定かではないのですが
彼女の親戚たちは影響力を発揮して、高官の地位をどんどん手に入れていき
“ レヴェントロウ・ギャング ” と呼ばれていました。
とりわけ妹のクリスティーネは “ マダム大臣 ” なんて言われるほどで
夫のウルリヒ・ホルシュタインとブイブイ言わせていたみたいです。
(夫のホルシュタイン家はどこから繋がってきているのか探せませんでした)

アンナはというと、未亡人や貧しい人への寄付を施して
“ 貧民階級の保護者 ” と言われましたが、人気のほどは不明です。

母ルイーセと非常に仲が良かった王太子クリスチャンは彼女をひどく嫌ったし
シャルロッテ王女を除くルイーセの子供たちも抗議のために宮殿を出て行きました。

こんな仕打ちは予想していたことかもしれないけど… 今後が心配ですね。
王も若くはないし、子供がいなきゃ老後が…
フレデリクも心配になったのか、自分の死後アンナの身分が保証されるように
子供たちから署名を得ようと骨を折りました。

でもやっぱりねぇ… 1730年にフレデリクが亡くなって、クリスチャン6世が即位すると
アンナはコペンハーゲンから追放されました。
とりあえずユトランドの実家に帰りましたが、その生活は軟禁同然で
クリスチャン6世の許可なく家を出ることはできず、厳しい監視下におかれていました。

アンナはフレデリクが亡くなった時は37歳でした。
その後の13年間の人生を、家に籠ったまま、どんな思いで過ごしたのでしょうね?
宮廷時代の美しい日々を穏やかに思い返していたのか
「くっそ~、クリスチャンめ」と恨みつらみを並べていたのか…
ちょっと気になります。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedai英語版)
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