まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王エドワード4世王女 セシリー

2011-02-26 22:25:57 | イングランド王妃・王女
最後は愛を選ぶ!
エドワード4世王女 セシリー・オブ・ヨーク
ラルフ・スクロープ夫人/ウェルズ子爵ジョン夫人/トマス・カイム夫人


1469~1507

セシリーは、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの三女です。

エドワード4世はスコットランドとの同盟を考え、5歳のセシリーを
ジェイムズ3世の王子ジェイムズ(4世)と婚約させました。
しかし争いがおこったために婚約は破棄されました。

セシリーはその後、ジェイムズ3世の弟オールバニー公アレグザンダーと婚約します。
これは兄王ジェイムズに替わって王になろうとしたアレグザンダーと
エドワード4世が手を組んだためです。

この婚約は、エドワード4世が亡くなったことで立ち消えになりました。

         
いくつの時かわかりませんが、セシリーはリチャード3世の支持者スクロープ男爵の息子
ラルフ・スクロープと結婚しました(別のスクロープ男爵説あり)
弟を殺した(かもしれない)男の言いなりになるなんて、悔しいことだったでしょう。

しかし、この結婚はヘンリー7世が即位すると無効を言い渡されました。
ヘンリー7世はお妃候補の中にセシリーも入れていたんじゃないですかね?
リチャード3世の在位は3年なので、14歳~16歳ぐらいの出来事みたいです。

ヘンリー7世が姉エリザベスと結婚した翌年の1487年
忠実なランカスター派の貴族ウェルズ子爵ジョン・ウェルズと結婚しました。
彼はヘンリー7世の母后マーガレット・ボーフォートの異父弟で19歳年上でした。
ここでも新しい王に利用されてしまったわけですね…

        
でもセシリーは拗ねることなく、ロイヤルファミリーの一員として
盛んに宮廷行事に参加していたもようです。
王太子妃になるキャサリン・オブ・アラゴンの教育係も引き受けました。

しかし実生活では、結婚11年目で夫ジョンを亡くし、翌年長女エリザベスを11歳で、
さらに翌年次女アンを9歳で失うという、悲しい思いをしていました。
子供は他にいませんでした。

セシリーは3度目の結婚をすることにします。
相手はリンカーンシャーの地主トマス・カイム(ワイト島のジョン・ケーン説あり)で
恋愛結婚のようです。

結婚はヘンリー7世の許可無く行われました。
そのかわりセシリーは宮廷での役目を辞退することにします。
許してもらえると思いきや、ヘンリー7世は怒ってセシリーの領地を取り上げてしまいます。
自分の地位に不安があるヘンリー7世は、セシリーをまだ利用する気だったのかしら?
後に母后マーガレット・ボーフォートの取りなしで、少しだけ領地を返したもらえました。

結婚後セシリーはワイト島のイースト・スタンデンで静かに暮らしていたようですが
夫も二人の子供も、王族の称号や宮廷での役割は一切与えられず
金銭的な問題も抱えていたみたいです。
夫や子供たちに関する記録もほとんど残っていません。

3度目の結婚から数年後、セシリーは38歳で亡くなりました。
ワイト島のクォーアー・アベイに葬られたという説と
ヨーク公の領地キングスラングリーに葬られたという説があります。

クォーアー・アベイはヘンリー8世がカトリック教会の解体を行った時に破壊されて
セシリーに関する資料も失われてしまったみたいです。

今でもクーデターやテロ、暴動などで歴史的建造物が破壊されたりしますが
二度と同じものは造れないし、なにより計り知れない歴史的資料の宝庫ですから
壊す前によーく考えて行動してほしい…と思います。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード4世王女 メアリー

2011-02-25 00:26:35 | イングランド王妃・王女
影が薄~い王女
エドワード4世王女 メアリー・オブ・ヨーク


1467~1482

メアリーは、ランカスター家から王位を奪ったヨーク家最初の王エドワード4世と
エリザベス・ウッドヴィルの次女です。
姉にテューダー家最初の王ヘンリー7世妃エリザベス・オブ・ヨークが、
弟に悲劇の少年王エドワード5世がいます。

         

エドワード4世とエリザベスの間には10人のお子様がいて、7人が王女ですが
(夭逝した四女マーガレットを除いて)メアリーが一番影が薄いんじゃないかしら?

ウィンザー城生まれで、名付け親のひとりがカンタベリー大司教トマス・バウチャー、
ということは確からしいです。
ひとくち情報
大司教トマス・バウチャーは、グロスター公リチャード(後の3世)が王位を奪おうと
13歳のエドワード5世をロンドン塔に軟禁して、11歳の弟ヨーク公も…と考えた時
母エリザベスを説得してヨーク公を連れ出し、ロンドン塔に連れて行った人物でございます)

デンマーク王ハンスとの縁談があったようですが、婚約はしてないみたい。
1482年に亡くなり、ウィンザー城のセント・ジョージズ・チャペルに葬られました。

なんでもセント・ジョージズ・チャペルが1817年に発掘調査された時
メアリーと2歳で亡くなった弟のジョージの白亜の棺を開けてみると…

メアリーの棺は美しい金髪で埋め尽くされ、淡いブルーの瞳は開いていたんですって!
つまり、美しい15歳の少女のままの姿だったってこと?
400年近く経っているんですけどね。

でも空気に触れたことですぐに砂と化してしまったそうです。
髪の一部は切り取られ、作家のアグネス・ストリックランドの手に渡りました。
この方はイングランド王妃に関する著作が多いみたいです。 ぜひ読んでみたい…

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー4世王女 ブランシュ

2011-02-23 23:31:09 | イングランド王妃・王女
父親が王にならなけりゃ…
ヘンリー4世王女 ブランシュ・オブ・イングランド
プファルツ選帝候ルートヴィヒ3世妃


1392~1409

エドワード3世を継いだリチャード2世は、アン・オブ・ボヘミアにも
イザベル・オブ・ヴァロアにも嫡子ができませんでした。

リチャード2世の死後、クーデター的に王位についたヘンリー4世と
最初の妃メアリー・ド・ブーンの王女がブランシュです。
ヘンリー4世とメアリーの間には7人のお子様が生まれていて王女は2人。
ブランシュはヘンリー5世の妹、デンマーク王エーリク7世妃フィリッパの姉にあたります。

       

ブランシュがノーサンプトンシャーのピーターバラ城で生まれた時
父のヘンリーはダービー伯で、特に王太子ってわけでもありませんでした。
エドワード3世の王子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子ですから
継承権はありましたが、マーチ伯エドマンドの方が継承順が高かったのでね。

けれども1399年、父ヘンリーが即位してメアリーも王女になりました。
ヘンリー4世は(無理矢理)王になったので、権力維持のために
強国との強い同盟関係を切望します。

そこでドイツ王ループレヒト(ヴィッテルスバハ家)に目を留めて
早速ブランシュとループレヒトの王子ルートヴィヒの縁談にとりかかりました。

でも、いくら急ぐからって、結婚した時ブランシュは10歳ですよ!
ルートヴィヒは14歳年上で、もう大人だからいいけどさぁ。
結婚生活は幸せだったということですが、14歳で最初の子(ループレヒト)を生み
17歳の時2人目の出産で亡くなっています。

何度も言うけど、やっぱり16歳までは結婚させちゃだめだって!!
旦那は幼いからって我慢してくれないもの…

父親がダービー伯のままだったら、近場の貴族と結婚して
末永く生きられたかもしれないのに… 不憫ですな。

ルートヴィヒ3世は8年後にマティルデ・フォン・サボイエンと再婚しました。
ブランシュが生んだループレヒトは19歳で亡くなりましたので
ルートヴィヒ3世の後を継いだのはマティルデが生んだルートヴィヒ(4世)です。

ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロアには
ただ一人の子供ヘンリー(6世)が生まれました。
ヘンリー6世とマーガレットオ・オブ・アンジューの王子エドワードは殺害されてしまい
ランカスター家は終焉を迎え、王位はヨーク家に移ります。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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『イラクサ』ダークカラーの回想録

2011-02-23 02:11:41 | カナダの作家
HATESHIP,FRIENDSHIP,COURTSHIP,LOVESHIP,MARRIAGE 
2001年 アリス・マンロー

前々から気になっていたんだけど読んだことがなかったアリス・マンローにトライ。
さすがに短篇の名手と名高いだけあって、とても面白く読ませていただきました。

「あれから何年も経ちました」的な男女の物語が多かったのですが
胸に秘めた一夜の出来事をじっとりねっとり描いてはいなくて
「そういえば…」と思い出のひとつとして取り出したみたいな
素っ気ない感じが好きでした。

特に好きだった物語を書き出してみます。

『ポスト・アンド・ビーム(Post and Beam)』
ローナの家には、以前夫の教え子だったライオネルがよく訪ねて来ます。
ふたりだけの会話ははずむし、ライオネルは毎週ローナに詩を送ってきます。
ある夏、故郷で親類たちと同居している従姉のポリーが来ることになりました。
金銭的・精神的苦労を訴えるポリーにローナは怒りを覚えます。

ある時、ローナとポリーの立場が入れ替わってしまったようになるのですが
それは夏の日の一瞬の出来事かもしれないという余韻を残しつつ物語は終わります。
苦労が絶えない人の切々とした訴えは、幸せな人の身にはうざったいものでしょうね?
でもそれだけで気が晴れるんだから聞いていただきたいのよ。

『クィーニー(Queenie)』
ある夏、隣の家のヴォギラ先生と駆け落ちした姉のクィーニーを訪ねることにします。
その少し前にクィーニーは父親に金の無心の手紙を送ってきていました。
クィーニーは神経質で嫉妬深いヴォギラの機嫌を損ねないように必死です。
しかし、密かにアンドリューという男からの手紙を待っていました。

うーん…駆け落ちするほど愛を掻き立てられる男性には思えないんだけどなぁ…
と思っていたら、物語はどんでん返し的な結末へ向かっていきます。
クィーニー、その後いったいどんな人生を歩んだんでしょ? という
好奇心がむくむく頭をもたげたラストでした。

『クマが山を越えてきた(The Bear Came Over the Mountain)』
フィオーナの病状が悪化してきたので、話し合って施設に入ることになりました。
医者から面会を止められていた1ヶ月が過ぎてグラントが会いに行くと
彼女はオーブリーという男性と親しげに座っていました。
グラントと陽気に接するフィオーナでしたが、彼が夫だと理解しているのかわかりません。

夫や妻・親・子供が、見知らぬ人のように自分を見つめた時、どうしたらいいだろう?
という戸惑いがとてもよく表れている物語です。
夫の前で、他の男のために泣いて、ふさぎこんで、食事を摂らなくなる妻の姿…
いつかは私たち夫婦にも訪れるかもしれない…という状況にリアルにぞっとしました。

解説を読むと、物語のいたるところに作者の過去がリンクしているようです。
長い月日を過ごし、たくさんの経験をし、人々と出会って別れ、世の中の多くを観察して
そして、自分と正直に向き合える作家だから描ける世界なのかもしれません。

『林檎の木の下で』も購入したので近々読む予定です。 楽しみ!

始めてマンローを知りました。ありがとう!新潮クレスト
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


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イングランド王エドワード3世王女 メアリー

2011-02-20 13:53:44 | イングランド王妃・王女
若くして亡くなった姉妹、姉の方
エドワード3世王女 メアリー・オブ・ウォルサム
ブルターニュ公ジャン5世妃


1344~1362

メアリーはエドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの四女です(三女は夭逝)

        
11歳ぐらいでブルターニュ公ジャン5世(ドゥリュー家)と婚約しました。
ジャンはメアリーより5歳ほど年上ですが、メアリーが幼い頃から一緒に育ちました。
ジャンは6歳でブルターニュ公に即位していました。
将来結婚させるつもりで一緒に育てられたんじゃないでしょうかね。

ふたりは1361年に結婚しましたが、メアリーは半年ほどで亡くなってしまいました。
わずか18歳です。 可哀想ですね。
妊娠のトラブルか病気かわからないのですが、自然死みたいです。

ジャン5世は、その後従姉妹のジャンヌ・ホランドと再婚、
その後ジャンヌ・ド・ナヴァールと再々婚しています。
ジャンヌはジャン5世が亡くなった後、イングランド王ヘンリー4世と再婚しました。


そして妹の方
エドワード3世王女 マーガレット・オブ・イングランド
ペンブローク伯ジョン夫人


1346~1361

マーガレットはメアリーの妹で五女です。

        

まずはオーストリア公アルブレヒト2世の公子アルブレヒト(3世)との縁談が
もちあがりましたが、政治的な理由でまとまりませんでした。

その後ブルターニュ公シャルル1世(ヴァロワ家)の公子ジャンと婚約しました。
ここで何かお気づきの点は?
姉メアリーの夫ジャン5世もブルターニュ公なんですが、家が違うんですよね。
この当時二つの家はブルターニュをめぐって争っていたのです。
最終的に勝ったのはドゥリュー家でした。

姉メアリーがその後ジャンと婚約したことで、マーガレットの婚約は破棄されます。

それでマーガレットが結婚したのはペンブローク伯ジョン・ヘイスティングスでした。
マーガレットとジョンは幼い頃から一緒に育てられていて、とても仲が良かったそうです。
中世時代の王女には珍しい恋愛結婚だったみたいですね。

ところが、そんな幸せな結婚をしたはずのマーガレットもすぐに亡くなります。
姉メアリーの後に結婚しているので、わずか数ヶ月の結婚生活ではないですかね?
これがまた、1361年の10月1日に生存していたのはわかっているのですが
その後のいつ亡くなったのかがわからないそうです。
なにか臭うわね…

とはいえ、ジョンが再婚したのは7年後だし、再婚相手にはそんなにメリットが無さそうだし…
なにより幼なじみで仲の良いふたりが結婚したのですから勘ぐるのはよしましょう。
あ、勘ぐっていたのはわたくしでしたね

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード3世王女 ジョアン

2011-02-18 00:06:52 | イングランド王妃・王女
結婚目前、恐怖の病に倒れる
エドワード3世王女 ジョアン・オブ・イングランド


1333頃~1348

ジョアンはエドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの次女でした。

        
ジョアンは5歳ぐらいの時、父エドワード3世に連れられてコブレンツを訪れました。
神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世に会って、帝国議会を見学したりしたわけですが
どうやらジョアンとルートヴィヒ4世の皇子を婚約させる目的があったようです。

ルートヴィヒ4世の妃はフィリッパ・オブ・エノーの姉マルガレーテ
いとこ同士の縁談ということになります。

この縁談は上手くいったようで、ジョアンはエドワード3世が帰国した後も
神聖ローマ帝国の宮廷に残って教育を受けていました。

ところが、フランス王フィリプ4世に対抗するための力を借りたかったエドワード3世を
ルートヴィヒ4世はバッサリ見捨てます。
そこでジョアンも神聖ローマ帝国からイングランドに帰ることになりました。

12歳ぐらいでカスティーリャ王アルフォンソ11世の王子ペドロと婚約したジョアンは
3年後の夏、イングランドを発ちました。
なんでも嫁入り衣装は大変豪華絢爛なものだったそうです。
もちろん、エドワード3世が娘を愛していたからこその嫁入り支度ですが
それよりもイングランドの財力を海外に誇示するのが目的だったようで
その代わりに見えないところはかなり切り詰めた、ということです。

中継地のボルドーに到着すると、出迎えた市長がジョアン一行に
ペストについて警告しました。 たぶん下船を止めたんだと思います。
ジョアンが船出した時、ペストはイングランドに上陸していませんでした。
ジョアンたちは「ペストって?」という感じで警告を聞き入れず
見晴らしの良いジロンドの城を目指して旅を続けました。

しかし、とうとう恐怖を感じる時がやってきます。
一行の中から病人が出て亡くなっていきます。
ジョアンはロレモンという村に避難しましたが、時すでに遅し…でした。
イングランドを発って約1ヶ月後の9月2日、ペストで亡くなりました。

エドワード3世は、ジョアンをイングランドで葬ろうとしたようですが
遺体がイングランドに戻った、あるいは葬儀が行われたという記録は無いそうです。
バイヨンヌ大聖堂に葬られたという説もあれば
ボルドーのプランタジネット家の城もろとも燃やされたと言う説もあります。

ペストに対する処置としてはどちらが正しいのでしょうね?
お城の炎の中に葬られたプリンセンスというのもドラマティックではありますが
証拠はありません。

この後ペストはイングランドにも蔓延します。
随行していた外交官がジョアンの死を伝えにいち早く帰国していますが
もしかしてそれが原因か… (ペストの拡大は貿易船が原因みたいです)

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード3世王女 イザベラ

2011-02-17 02:34:45 | イングランド王妃・王女
                 肖像画が無いのでドレスを…

王様が可愛がりすぎたプリンセス
エドワード3世王女 イザベラ・オブ・イングランド
ベドフォード伯インゲルラム夫人


1332~1379

イザベラは賢王エドワード3世と賢王妃の誉れ高いフィリッパ・オブ・エノー
13人の子供中で2番目の子でした。 長女です。
賢い両親から生まれた娘の人生…気になりますね。
     
いくら賢王でも初の女の子は可愛い!ってわけで
イザベラはまさに プリンセス というベビー時代を過ごしました。

なにしろ、イタリアンシルクの、刺繍・宝石・毛皮などをあしらったガウンを着て、
金箔のベビーベッドに寝かされ、毛皮のおふとんがかけられていたっていうんですよ!
離乳食がトリュフとかフォアグラ風味だったらどうする?

子供時代は兄エドワード、次女ジョアンとサントメールで過ごしていましたが
彼女お抱えの家庭教師、馬丁、コック、侍女、従僕、のみならず牧師までいたそうです。
開いた口が塞がらんね

そんなに可愛がられていたわけだけれども、わずか3歳の時
父エドワード3世はイザベラとカスティーリャ王太子ペドロの縁談を考えました、が
次女ジョアンが結婚相手に選ばれました。 なぜかしら? 普通は長女を選ぶだろうに…

イザベラは遊び好きでわがままで、とんでもない浪費家だったそうです。
だって贅沢に育てられたんですものね…

イザベラが19歳の時に、ベルナール・ダルブレと結婚することになりました。
しかし、5隻の艦隊とともに、まさにガスコーニュに向けて出発しようとした時
イザベラは急に気が変わって結婚を破棄しました。

庶民の結婚とは違いますからね、先方だってセレモニーの準備をしているはずだし
なにより政治的な問題が起こりかねません。
でもエドワード3世は娘の気まぐれを怒らなかったそうです、っていうより
4年後には領地と収入を増やしてあげたらしい…独りで生きていきなさいということか?

ところが33歳の時、7歳年下のインゲルラム・ド・クーシーと結婚することになりました。
しかも恋愛結婚らしい…
インゲルラムは、1360年にフランス王ジャン2世の身代わりでイングランドにやって来て
それ以来投獄されていました。
ロンドン塔でしょうか? 王宮でもあったので、そこで出会ったんですかね?

エドワード3世はお祝いに宝石や年金、領地などを大盤振る舞いし
インゲルラムは保釈金無しで釈放された上に、奪われていた領地も返されました。
しかも後にベドフォード伯に叙位されましたよ。

インゲルラムはフランス王軍に仕えていたので、遠征のため屡々家を空けていました。
イザベラは夫の留守中にちょくちょく里帰りしていたようです。

父に代わってリチャード2世が即位すると、インゲルラムはイングランドにおける
全ての権利(つまり領地とか爵位とか)を放棄しました。

その2年後、イザベラが亡くなりました。
夫インゲルラムや長女マリーと離れてイングランドにいたそうで、
かなり奇妙な状況だったようです。

その後インゲルラムはロレーヌ公の公女イザベルと再婚しましたが子供ができず
イザベラ(イングランド)の長女マリーが父の権利を継承しました。
ゆくゆくは継母イザベル(ロレーヌ)の領地の継承もしそうな勢いだったんですけど
突然亡くなって、領地はフランス王家のものになりました。
すご~く怪しいね…

もっと浪費家っぽい壮大な無駄遣いのエピソード(とんでもない城を建てたとか
ドレスだけで100部屋あったとか… )でもあったら面白かったんですが
見つけられませんでした。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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『橋の上の天使』“ 赤い本 ” が読んでみたい

2011-02-14 00:34:00 | アメリカの作家
THE STORIES OF JOHN CHEEVER 
1978年 ジョン・チーヴァー

解説によると、サリンジャー、アーウィン・ショウ、アップダイクと並んで
都会派の作家と言われていたそうです。

都会派と言われる方々の物語も、扱われているテーマは夫婦問題とか子供のこと、
近所の小さな事件などごく日常的なものなんだけど、何が違うんでしょうね?
文章の書き方なのか単語の選び方なのか、はたまたニューヨークという町の
効果的な使い方なのか? いずれにしても都会っぽい気はします。

で、あくまでも私が読んだことがある本だけで比較してみると
4人の中ではチーヴァーが一番好きかしら?
中でも気になった物語をいくつかご紹介します。

『さよなら、弟(Goodbye,My Brother)』
ある夏、亡き父が建てたローズ・ヘッドの別荘に、母・兄チャディ一家・妹ダイアナ
弟ローレンス一家、そして私の一家が休暇で集まることになりました。
ローレンスとは皆4年ぶりの再会です。
実は家族はローレンスが好きではなくて、彼の到着に緊張が生まれます。

どの家庭にも…とは言いませんが、なんだか馴染めないメンバーがいたりしますよね?
ローレンスはそんな困った親戚のエッセンスを凝縮した、典型的なタイプのようです。
この弟が去る場面では清々しさが強調されていますが、大きな疑問符も残して行ったみたい。

『離婚の季節(The Season of Divorce)』
結婚10年目のある日、妻エセルが子供を連れて公園に行くと
パーティーで会ったトレンチャー医師が来たと言いました。
それから彼は毎日のように公園に来るようになり、ある日は部屋一杯のバラが届き
夜には家の向いの通りにたたずむようになりました。

最初はそんな気が無かった妻が、次第に相手の男に惹かれていく様子にハラハラします。
この夫の何がいけない、というわけでは無いのですが、色々なことが重なっちゃったのね…
結婚も離婚もタイミングがあるんだなぁ、と改めて感じさせられたお話しでした。

『海辺の家(The Seaside House)』
毎年夏の休暇中、家族で海辺の家を借りていました。
一番印象に残っているのはグリーンウッド邸で、いたる所で空の酒ビンを見つけました。
隣の家の婦人によれば、娘の結婚に絡む不幸な出来事があったようです。
雨が降ってイライラが募り、一度ひとりでニューヨークに戻ることにしました。

見えない相手に家庭の平和を乱されるとは、ちょっと恐ろしい気がしますね。
でもこのご主人も少し神経質すぎるのではないかしら?
休暇中に降る雨…というのもポイントかもしれません。

チャリティー精神を扱ったものや、表題の物語のようにちょっとファンタジックな
素敵な物語もありますし、悲しい物語も収められています。
しかしそれらも、多くを書き込みすぎない、ローテンションな文章のおかげで
すっきりと読ませていただきました。

深刻さを強調しないクールな語り口が都会派たる所以なのでしょうかね?

実は、The Stories of John Cheever のアメリカ版は、短篇が61話集められているらしく
この本は抜粋だそうです。
『Red Book(赤い本)』と呼ばれるその本をものすごく読みたくなりました。
もちろん日本語でないと読破できないので、翻訳家のどなたか、ぜひともお願いします。
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イングランド王エドワード2世王女 エリナー

2011-02-13 18:10:18 | イングランド王妃・王女
母親ゆずり? 押しの強さが不幸を招く
エドワード2世王女 エリナー・オブ・ウッドストック
グェルダー公ライノルト2世妃


1318~1355

エリナーは、愚王の呼び声高いエドワード2世と
“ フランスの女豹 ” 呼ばわりされているイザベル・オブ・フランスの長女です。
エドワード3世の妹で、スコットランド王デイヴィッド2世妃ジョアンの姉にあたります。
何より不仲のエドワード2世夫妻に4人も子供がいたってことに驚いたね

          
6歳の時、従姉のエリナー・ド・クレア(ジョアン・オブ・アクレの娘)のお世話になるため
妹ジョアンとプレシーに送られました。
母イザベルが王太子エドワードを連れて(野望を胸に)フランスを訪問した後
オランダに滞在していた頃だと思われます。

エリナーは7歳の時、カスティーリャ王アルフォンソ11世と婚約しましたが
持参金が折り合わず破談になります。
この年父王エドワード2世は廃位され、翌年謎の死を遂げました。

15歳のエドワード3世が即位したことで好き勝手にふるまうようになったイザベルは
勝手にフランスと(屈辱的)講和を結びました。
イザベルは、エリナー&次男コーンウォール伯ジョンと
従兄弟にあたるフランス王フィリプ6世の王子&王女のW結婚を考えたようですが
上手くいきませんでした。

1330年、母イザベルが愛人マーチ伯ロジャーと捕らえられて、幽閉生活に入ります。
捕らえさせたエドワード3世は別として、子供たちはその後会うことができたんでしょうか?
いくら女豹といっても母は母ですから…

1332年、エリナーはグエルダー伯ライノルト2世と結婚しました。
彼は23歳以上も年上で再婚でした。
しかも自分の父親を6年以上も投獄していることで知られていました。

グエルダー伯はフランス王に対抗するため
エリナーの兄エドワード3世と手を組みたかったようです。
しかし、この結婚をアレンジしたのは母イザベルの従姉妹ジャンヌ・ド・ヴァロワです。
自分の甥がフランス王(ジャン2世)だったのに…よくわかりませんな。

ライノルトは4人も子供がいる暗い男やもめでございました。
でも寂しい子供時代を過ごしたエリナーは
愛がほしくてなんとか旦那様を満足させようと必死でした。

若い嫁のパワーにライノルトは疲れちゃいました… というわけで結婚から6年後
エリナーが癩病に罹ったと嘘をついて宮廷から遠ざけようとします。
その間に結婚を無効にしようと試みたわけですが
エリナーは宮廷に乗り込んで自分が病気でいことを証明しました。

1339年、ライノルトは公爵に叙位されます。
しかし4年後に落馬事故で亡くなりました。

後を継いだ息子ライノルト3世は9歳でしたので
エリナーが一緒に領地を守っていたわけですが、長じるにつれてぶつかるようになり
とうとう彼女自身の領地も取り上げられてしまいます。

未亡人になって12年、とは言っても36歳のエリナーはシトー派の修道院で
貧困のうちに亡くなりました。
兄エドワード3世に頼ればよいものを…自尊心が邪魔をしてできませんでした。

息子はもうひとりいたはずですけど、何をやっていたんでしょうか?
母親が困窮しているというのにっ

デーフェンテル修道院に葬られたエリナーの墓石には飾りが無く
ELEANORという文字が掘られているだけだそうです。

(参考文献 森護氏『英国王妃物語』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード1世王女 エリザベス

2011-02-11 18:16:21 | イングランド王妃・王女
なにかにおう気がする再婚なんだけど・・・
エドワード1世王女 エリザベス・オブ・ルドラン
ホラント伯ヨハン1世夫人/ヘレフォード伯ハンフリー夫人


1282~1316

エリザベスはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの十一女 です。
彼女の下には弟エドワード(2世)がいます。
年の近いふたりは兄弟姉妹の中で一番の仲良しだったようです。
          
3歳の時、ホラント伯フローリス5世の息子ヨハン(1世)と婚約しました。
年下のヨハンは1歳で、教育のためにイングランドに連れてこられ
以後ふたりは一緒に成長しました。

エリザベスが15歳になった時、イプスウィッチで結婚式が挙げられました。
式には、父エドワード1世、姉マーガレット、弟エドワードが参列していました。
そしてもうひとり、ハンフリー・ド・ブーン、覚えといてくださいね。

その後ホラントに向かって旅立つ手はずになっていたのですが…
エリザベスが行きたくないと言い出しました。
あらあら、わがままね…でも彼女の言い分は受け入れられて
可哀想なヨハンはひとりでホラントに帰っていきました。
ヨハンだって13歳、男の子だけど親元を離れて来ていたのにね。

とうとうエリザベスがホラントのヨハンのもとへ行く決心をすると
父王エドワード1世が同行して来てました。
エリザベスはエドワード1世と数ヶ月もヘントに滞在して
クリスマスを姉エリナーとメアリーと祝っています。 ヨハンはまた待ちぼうけ?

十何年も一緒にいて情が移ってると思ったら、実は嫌いになってたのかしら?
それとも単に家族といたいだけだったのかしら?

1298年にやっと再会を果たしたエリザベスとヨハンでしたが
2年もたたない1299年11月、ヨハンが赤痢で亡くなってしまいました。
殺されたという噂もたちました。
でも、彼の兄弟は皆若くして亡くなっていますので、やはり病死かも…
ヨハンが嫡子無く亡くなったことで、ホラント伯領はエノー伯家に移っってます。
いろいろと蠢いていた可能性はありそうですけどね…

で、17歳で未亡人になったエリザベスはイングランドに帰りました。
そこで父の再婚相手で継母のマーガレット・オブ・フランスと初対面。
ふたりはすっかり意気投合して、親子というより親友のようになりました。
なんたって年がかわらないんですもの(マーガレットが3歳年上)

1302年、20歳の時ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンと再婚しました。
ん? ハンフリー・ド・ブーン?
そうです、結婚式に参列していたハンフリーです。
なんで彼が王家に混じって結婚式にいたのかよくわからんのだが、もしかしたら
その時に恋が芽生えちゃったとか ? それでホラントに行きたくなくなっちゃったとか?
だとしたら面白いんだけどね

おふたりは仲睦まじかったようで12人のお子様が生まれています(5人は10歳までに夭逝)
1315年、エリザベスは11人目のお子様を身ごもっていましたが、クリスマスの間
義理の妹イザベル・オブ・フランスの訪問を受けることになりました。

王妃の訪問は名誉なことだけれども、エリザベスにはものすごいストレスになります。
だってお茶だけ出せばいいってもんじゃないんだもの。
晩餐会はしなきゃいけないだろうし、もしかしたら舞踏会まで開いたかもしれない。
料理に招待客に部屋の用意…女主人はすごく大変ですよね。

エリザベスは原因不明の不調になりますが、子供は無事生まれました。
でもやはり健康を損ねてしまっていたようです。
翌年、12人目の出産の時にはエリザベスも生まれた子も数時間後に亡くなりました。
元気になるまで妊娠しなければ良かったのに…

エリザベスはイザベルと名付けられた最後の子供とともに
エセックスのウォルサム・アベイに葬られました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード1世王女 メアリー

2011-02-10 01:55:16 | イングランド王妃・王女
             十女ともなると肖像画が無いっていうじゃない…
                    そんなわけで当時のドレスをどうぞ


ものすごい特別待遇の修道院生活!!
エドワード1世王女 メアリー・オブ・ウッドストック


1279~1332

メアリーはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの十女!!です。
八女、九女は夭逝しました。

          

メアリーが7歳の時、祖母エリナー・オブ・プロヴァンスは、どれどれ引退しようかね…と
修道院に行くことを決心しました。
で、ひとりで行けばいいものを、なぜか孫娘もふたり連れて行こうと考えます。
選ばれたのはエドワード1世王女メアリーと
次女ベアトリスの末娘アリエノール・ド・ブルターニュでした。

やっぱり早く婚約さしときゃよかった!!

母エリナーは必死で反対しますが姑にはかなわず、ふたりはフォントヴロー修道院の分院
ウィルトシャーのエイムズベリー小修道院に入れられてしまいました。

不憫に思ったのか、メアリーは両親から毎年100ポンド(現在の50,000ポンド相当)の
手当と、ドレスも好きな物を買ってよく、ワインを飲んでもいいという許可を
特別に与えられました。 お部屋も特別居心地がいいところにしてもらったそうです。
4歳年上の従姉アリエノールの方はどうだったかわかりません。

エドワード1世は、わざわざ修道院に娘たちを訪ねています、それも5回も。

1291年に祖母が亡くなると、フォントヴロー修道院に移ることも考えられましたが
メアリーはエイムズベリーに留まりました。
アリエノールは行ったのかしら?
彼女は後にフォントヴロー修道院の修道院長になってます。

メアリーの手当は200ポンドに増額され、毎年20個の大樽!!のワインも
もらえるようになりました。
それに、修道女でありながら、好き勝手に旅行に行くようになります。
ローマ教皇の「修道女は修道院にとどまるべし」という勅書もなんのその、
巡礼という名の下に従者を大勢引きつれてカンタベリーへ出かけました。
カンタベリーならまだいいが、宮廷にもちょくちょく顔を出し
だんだん長居をするようになります。

従姉の公女アリエノールが王女の自分を差し置いて、本山ともいえるフォントヴローの
修道院長になったのは悔しかったみたいですが…自業自得とも言えますな。
とはいえ、晩年まで居心地よく好き勝手に暮らしていたようです。
1332年に亡くなって、そのままエイムズベリーに葬られたとみられています。

しかし、メアリーは死後も騒動に巻き込まれます。
サリー伯ジャン・ド・ワーレンはメアリーの姪ジャンヌ・ド・バーと結婚していましたが
メアリーとジャンヌが結婚前に女同士で愛し合っていた、と離婚を申し立てました。
この件は結局立証されず、ジャンヌも離婚もされなかったようです。

修道院をホテルのように考えていたのかしらね?
私は修道院に入った王侯貴族の子女たちのほとんどは
メアリーみたいな暮らしをしていたんじゃないかと睨んでいるのよね

それはそれでいいとして、まわりで厳しい修行をしていらっしゃる
他の修道士・修道女の方はどう思ったのでしょう?
「ちっ! これだから王族には来てほしくなのよねっ」と思ったのでしょうか?
それとも「これも試練」と穏やかにお世話したんでしょうか? 私ならひがむけど…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『猫物語』猫と暮らす幸せ

2011-02-10 01:33:30 | イギリス・アイルランドの作家
CAT STORIES 
1994年 ジェイムズ・ヘリオット

んもうっ 猫の話しだから☆4つ!
理解できない、という人にはまったくわからないであろう猫の素敵さと
せつないほどに親バカな飼い主の気持ちが、手に取るようにわかる一冊です。
読んでいる間中、顔緩みっぱなしです。

作者は獣医さんだった方で、実は有名らしいのですが知りませんでした。

猫を愛する作者の目から見た猫と飼い主の素晴らしい関係が描かれているエピソードが10篇。
獣医さんならではの、可愛い可愛いだけではない厳しい現実も見え隠れしています。

いつもは3つほど好きな物語を選んであらすじを紹介するのですが
今回は10篇全て、猫と飼い主さんのお名前を紹介します。
どんな物語かは想像して下さい

『アルフレッド=お菓子屋の猫』
優雅な接客でマダムたちの気持ちを離さないハットフィールド菓子店の店主と
カウンターで店内を見守る猫アルフレッド。

『オスカー=社交家の猫』
瀕死のふちから回復して獣医先生の家に引き取られた猫オスカー。

『ボリス=逃げ足が早い猫』
家猫、外猫あわせて何十匹もの猫の面倒をみるボンド夫人と
山猫の血をひいているような勇猛な外猫ボリス。

『エミリー=紳士の家に住みついた猫』
牧草地のイグルーで暮らす紳士然とした老人が、目の中に入れても痛くない
美しい牝猫エミリー。

『モーゼス=灯心草の中で見つかった猫』
農場の灯心草の中で死んだようになって見つかった子猫モーゼスと
子猫をオーブンで温めて生き返らせ飼い主になったバトラー夫妻。

『フリスク=死の淵から何度も甦った猫』
猫を失ったら孤独になってしまうフォーセット老人と
死んだようになっては翌日ケロッとしている猫フリスク。

『バスター=ボールを拾ってくる猫』
二匹の犬を飼う裕福で心配性なエインズワース夫人と
母猫が今際の際にくわえて連れてきた子猫のバスター。

『オリーとジニー=うちに来た二匹の子猫』
『オリーとジニー=住みつく』
『オリーとジニー=最大の勝利』
獣医先生の庭にやってきて餌を食べるようになった、決して家に入らない猫オリーとジニーと
二匹の愛を得ようと頑張る獣医先生と妻ヘレン。

嬉しい楽しいお話しばかりではありません。
死を扱った悲しいお話もあります。
ヘリオット自身がモデルでしょうが、獣医先生は行く先々で猫の去勢を勧めます。

多くの動物や猫を扱った獣医さんならではの「愛してあげてほしい」という思いと
「覚悟を持って飼ってほしい」という願いが込められているような気がしました。

死に際を見るのは本当につらいですよね。
実家でも猫を飼っていたのですが、亡くなったのは私が結婚した後で
両親が看取ったんです。 それはそれはすごい悲しみようでした。

うちの主人はそれが嫌で、絶対に飼っちゃダメ!! と反対しています。
でも一度折れてくれて、里親になる会場に行ったんだけど… 子猫がいなくて。
やはり子猫から育てたいんですよね…とか言っている私は猫を飼う資格無しでしょうか?
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イングランド王エドワード1世王女 マーガレット

2011-02-08 02:10:32 | イングランド王妃・王女
ある意味ひとりの男性に一生を捧げたと言えるかも…
エドワード1世王女 マーガレット・オブ・イングランド
ブラバント公ヨハン妃


1275~1333

マーガレットはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの七女です。
ウィンザー城で生まれました。

母エリナーを亡くした15歳の時、ブラバント公ヨハン2世と
ウェストミンスター寺院で結婚しました。

その9年後、父王エドワード1世は
フランス王フィリプ3世とマリー・ド・ブラバンの王女マーガレット・オブ・フランス
再婚することになりました。
義理の母が4歳(~7歳)年下ってことになります。

(どうでもいいけど、ブラバント公家って地味だけど、各王家に入り込んでる…
 と思っていたら、ベルギー王太子ってブラバント公なのね。)

           

マーガレットは3歳の時にヨハン2世と婚約していて(エドワード1世、気が早い
彼の妻になることを知りつつ成長しました。
子供時代を楽しく過ごし、気だての良い娘に育っていました。

ふたりの結婚の祝典はものすごく贅沢なものだったそうです。
まずは鎧兜をフル装備した騎士たちの行進があって
豪華なドレスを身に纏った女性たちのコーラスがロンドン中で行われ
あちらこちらで舞踏会が催されました。
しかし、いざブラバント公家に移ると、宮廷ではあまり幸せではなかったようです。

なぜならば、ヨハン2世がずっとおつき合いしてきた愛妾と庶子たちを
認めるように強制されて、彼らがいつも宮廷にいたからです。
マーガレットはずっと婚約者のことを考えて育ってきたのに…ひどいじゃないの。

庶子たちはマーガレットのひとり息子ヨハンと同じように振る舞っていました。
大人になっても嫡子と同じぐらいの権力を持っていたそうです。

ただ、腎臓を患っていたヨハン2世は、公領の継承だけは
ちゃんと嫡子ヨハンに渡るよう望んでいました。
もし愛妾が強欲だったら、継承戦争がおこってもおかしくないですもんね。
この望みは叶えられたようで、公領は息子ヨハン3世に無事継承されました。

1308年、マーガレットとヨハン2世は、ブーローニュで行われた弟のエドワード2世と
イザベル・オブ・フランスの挙式に参列し
そのままロンドンの戴冠式まで付き添いました。
夫婦ふたりの長い旅…いい思い出になりますわね。

終始フランスの勢力拡大を阻止しようとしていたヨハン2世は
1312年にテルビュレンで亡くなり、ブリュッセルの
サン・ミッシェル・エ・ギュデュル大聖堂に葬られました。

マーガレットはそれから22年長生きしたのですが、再婚したような話しも無く
というか、なんのエピソードもないです。

亡くなった後はヨハン2世と同じ場所に葬られました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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『観光』祖国の記憶を世界に刻む

2011-02-07 00:20:30 | その他の国の作家
SIGHTSEEING 
2005年 ラッタウット・ラープチャルーンサップ

物語の内容から言うとすごく気が重い一冊でした。
でも文章を追っていくのは楽しかったし、本当に読んで良かった一冊だと思っています。

作者はアメリカ生まれのタイ育ちの方だそうです。
生まれ育った場所への思いを、良いことも悪いこともひっくるめて
世界に向けて表現できるというのは素晴らしいことですね。

舞台は全てタイです。
私はタイに行ったことがないので、観光地として紹介されるイメージしか浮かびませんが
その町の隅々でこういうことがおこっているとは…と、暗澹たる気持ちで読んでいて
はたと「でもどの国でも同じことがおこっているのでは?」という気になりました。

もちろん観光地独特の出来事もあるし、日本では考えられない状況の物語もあります。
でも個々の人々にふりかかる不幸は、日本ではありえないというものではありません。

『徴兵の日(Draft Day )』
友人のウィチェと一緒に徴兵の抽選会場に向かいます。
ぼくは両親の贈り物のおかげで自分が徴兵されないことがわかっていました。
ウィチェのお母さんが二人分のお弁当を持って来てくれました。
ぼくは本当のことが言い出せずにいます。

日本では徴兵制が無いので、この不安や緊張感は到底わかりませんが
持てる者と持たざる者の区別をはっきりと晒してしまうシステムに驚きました。
徴兵に行かない人の罪悪感は、行く人の悲しみより早く消えてしまいそうですけど…

『観光(Sightseeing)』
北の大学へ行く準備に追われていたころ、母の様子がおかしくなっていき
ある日目が見えなくなっていることに気がつきました。
目が見えるうちにと、ふたりで20時間かけてルクマクへ観光に行くことにしました。

優しい言葉をかけるだけではどうにもならない落とし穴のような時間が
親子、夫婦、恋人の間に屡々存在しているような気がします。
お互いの不憫さを思いやりながらも、お互いの態度にいらついてしまうという状況は
特に両親が老いてくるとものすごくよくわかります。

『こんなところで死にたくない(Don't Let Me Die in This Place)』
ペリー老人はからだが不自由になったので、息子ジャックの世話になるために
アメリカからタイに来ました。
ジャックのタイ人の妻と2人の子供たちはカタコトの英語を話します。
子供は生意気ですが一緒にいると少しは楽しい気分になれます。

フラナリー・オコナーの『ゼラニウム』という短篇を思い出しました。
アメリカ版 “ ザ・頑固おやじ ” みたいな老人が、見知らぬ土地で最後を待つ気持ちを思うと
切ないものがありますね。
でもお世話する人も大変だと思う…少しは我慢しなくてはね。

最近、以前に較べて欧米で暮らすアジアの作家の本を読んでいる気がします。
作家がずっと故国にいたら同じテーマでも違った物語になるのか、変わらないのか、
それはよくわかりません。
でも読者としては、万国共通の悲喜こもごもに異国情緒が加わることで
物語の側面が増えて、いくつかの面白さを味わえるのが嬉しいような気がしています。
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韓流・・・映画はあまり観てないのです

2011-02-06 13:56:11 | もろもろ
現在第二次韓流ブームまっただ中の私ですが
ドラマで手一杯で、映画はほとんど観ていないんですよね…

でもTSUTAYAの4本1000円キャンペーン中、どうしても1本足りない時など
映画で補填したりして、最近ちらほらと観るようになりました。

『イルマーレ』は友人から勧められてDVDで観たんですけど、素敵な映画でした。
男女の接点がほとんど無く、ラブシーンも一切無いのに
せつなさ満点の恋愛映画として成立しているのがすごい! 風景も美しかったです。

                
『アンティーク』去年の年末にDVDで観ました。
面白かったですし、あんなケーキ屋さんがあったら行きたいですね、ケーキ嫌いだけど…
『コーヒープリンス1号店』的なビジュアルとサスペンスが融合してて楽しめました。

                
『悲しみよりもっと悲しい物語』これも去年DVDで…
ドラマで少しクォン・サンウ離れをおこしていた私を引き戻していただいた作品でした。
不治の病ものだけど、ちょっと違った切り口でしたね…たしかに最後の方泣けました。

                
『私の頭の中の消しゴム』珍しく3回ばかり観てますね、テレビで。
ソン・イェジンのアンニュイな暗さが光っていいですね~!
またテレビでやったら、絶対観てしまうと思ふ…

                
『ライターをつけろ』これは(私の)第一次韓流ブームの際、映画祭に行って観ました。
『ホテリアー』でキム・スンウ様にクラクラして行ったのですけど
コメディの才能もあったんですのね…と見直した一作。 笑えたわ

                
『シルミド』テレビで放送された時、珍しく旦那と一緒に観ました。
重いテーマだったけれど、飽きること無く全編しっかり観ました。
あの、キャンディだかチョコだかを買って帰って来たシーン…二人で号泣でした

                
『誰にでも秘密がある』チェ・ジウが可愛いってんでテレビで観ました。
確かに可愛かったし、張り切ってやってて微笑ましかったんだけど
夜中に観たんで最後の方で朦朧としちゃったんですよね。

                
『猟奇的な彼女』これは My 第一次ブームの前にたまたまテレビで観ました。
衝撃的でしたね~、韓国のイメージがガラっと変わりました。
この後『冬のソナタ』(再放送)を観るようになってからハマっていったんです。

                
『妻が結婚した』ソン・イェジン見たさにDVDを借りて観ましたけど…
こんなのありですか? すごい展開と男性陣の人の好さに驚くばかりの私でした。
映画と割り切って考えれば楽しいかも…

                
『ピアノを弾く大統領』キャンペーン補填用に借りたDVDなんですけどね…
ごめーん、本当に面白くなかったの チェ・ジウは可愛かったですよ。
どうせやるなら、もっとあり得ない!というストーリーにした方が良かったのでは? 

                
『大変な結婚』チョン・ジュノとキム・ジョンウンのゴールデンコンビ!
欲を言えばもう少しロマンチック方面のシーンがたくさん観たかったなぁ…
長い話しにしてドラマ化しても楽しめるんじゃないかと思いました。       
                
                
『四月の雪』年明けにテレビでやったのを録画したので観てみました。
大好きなソン・イェジンの暗さ炸裂でしたが、主役ふたりが無口で、他の出演者も無口、
あまりにも静かな映画で1時間以上見続けるのが辛かった…明け方に観たのでね

面白い映画があったら教えて下さいね。
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