まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『ポケットにライ麦を』イギリス的手まり唄事件

2009-11-29 01:07:52 | アガサ・クリスティ
A POCKET FULL OF RYE 
1953年 アガサ・クリスティ

ミス・マープルお得意の『マザーグース』の唄にのせた殺人。
日本でいうところの『悪魔の手まり唄』みたいな感じでしょうか?

ロンドンの会社社長が殺された事件なのになぜミス・マープルが登場するかというと
殺されたフォーテスキューの家で小間使いをしていたのが
ミス・マープルが仕込んだグラッディスだったから。

グラッディスは不器量でのろまで男のことばっかり考えている女性でしたけど
ミス・マープルは彼女の純粋さと正直さは気に入っていて
この事件が気になっていたのです。

しかも、犯人と有力視されていた若い後妻のアディールも毒殺され
とうとうグラッディスまで庭で絞殺されてしまいます。
怒りに燃えたミス・マープルはフルスロットルで事件に挑みます。

ミス・マープルが目を付けたのは
フォーテスキューのポケットに入っていた謎のライ麦、
アディールが居間でお茶の時間に死んだこと、
それでマザー・グースの唄を思い出したのです。

そしてグラッディスの鼻が洗濯バサミではさまれていたのが決定的!
ミス・マープルは “ つぐみ “ についても何かあるはずだと思い当たります。

怪しい人は(主に家族です、おきまりの)たくさん出てくるので省くとして
捜査にあたったニール警部がミス・マープルのお説を聞いて
「はあ? 」と思っていたところからだんだん彼女に感服していく様子が
毎度のことながら愉快でしたね。

ヒントは作中にもふんだんに顔を出す “ つぐみ ” です。
実はフォーテスキューは昔 “ つぐみ鉱山 ” で悪事を働いたようなのですが
それが恨みをかったのか? はたまた利用されたのか?

読み進めば進むほど
誰もが怪しく思えてくるクリスティー・ワールドが繰り広げられる一冊です。

最後がホロリときますよ。
グラッディスこそ一番の被害者です。
心ない犯人のせいで短い一生を終えさせられたのですからね。

ミス・マープルの怒り大爆発!
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世妃 マリア

2009-11-29 01:00:38 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ウィーンはお嫌い?
マクシミリアン2世妃 マリア・フォン・シュパニエン


1528~1603/在位 1564~1576

マリアの父スペイン王カルロス1世も母王妃イサベラも信心深いばりばりのカトリック、
てなわけで、宗教的には厳格に教育されたようです。

1548年、従兄のマクシミリアンと結婚することになりました。
スペイン王妃のところでも再三書いていたハプスブルク家の血族結婚ですが
ふたりが第1号らしいです。

     

結婚後しばらくはカルロス1世の要望で摂政としてスペインに滞在したマクシミリアン夫婦は
1552年にウィーンへ移りました。

マリアはかなり敬虔なカトリック信者で、説教師たちをスペインから同行して
厳格なカトリックの普及に努めたらしいんだが
ハンガリーやベーメンでは新教が盛り上がりを見せていました。
実はマクシミリアンはちょっとプロテスタントに傾きつつあったんですね。

ふたりの間には16人のお子さんが生まれているのですが、衝突は絶えませんでした。
マリアは子供たちに多大な影響力を持っていて、特に長男ルードルフ(2世)などは
彼女の宗教観を受け継いでいました。

1576年にマクシミリアンが亡くなり、6年後にスペインに帰ったマリアは
「異端者のいない国で暮らせるなんて幸せなことよ!」とコメントしています。

1603年に亡くなるまで、大好きなスペインで暮らしたそうでございます。

その強い信仰心、もし権力を握っていたらイングランド女王メアリー1世
フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス的な弾圧も辞さなかったかもね!
権力を欲しがるタイプの方ではなくて、本当にようございました。




              
年の差親戚婚
マティアス妃 アンナ・フォン・ティロル


1685~1618/在位 1612~1618

マクシミリアン2世の後皇帝になったのは次男のルードルフ2世(長男は夭逝)でしたが
未婚だったので、その後は弟のマティアスに帝位が移りました。

ルードルフ2世は芸術におおいに貢献した皇帝として名高いのですが
政治的には上手く国をコントロールできなかったみたいです。

実はマティアスはルードルフ2世のことをふがいなく思っていて
自分が皇帝になれば!という野望があったのです。
プラハに隠遁してしまったルードルフのもとへおしかけて帝位を譲れとせまったり
実力行使に及んだり… 兄弟喧嘩と言っても奪い合うもののスケールが違いますからねぇ。

そんなマティアスの妃は、従妹のアンナ。
アンナの母はマントヴァ公女アンヌ・カタリーナ・ゴンザーガで
従姉妹のエレオノーラが後に皇帝フェルディナント2世妃になります。

       

マティアスは皇帝になったものの、やはり国政は上手くいかず
たった7年で亡くなってしまいました。
アンナはその3ヶ月前に亡くなっています。

親戚だ、という以外にエピソードがない皇后でございました。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家  講談社


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神聖ローマ皇帝フェルディナント1世妃 アンナ

2009-11-27 02:55:52 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ハプスブルク家にふたつの王冠をもたらした妃
フェルディナント1世妃 アンナ・フォン・ベーメン・ウント・ウンガルン


1503~1547/在位せず

1516年、ヤゲウォ家のハンガリーとベーメン王ウラースロー2世が亡くなります。
すると、10歳で王になったラヨシュ2世と妹のアンナは
皇帝マクシミリアン1世の保護下におかれました。

これはマクシミリアンの結婚戦略によるものです。
まず孫のマリアは1歳の時にラヨシュと婚約し、1515年に結婚していました。
アンナはどの孫と結婚させるか迷っていましたがフェルディナントに決まり婚約しました。

マクシミリアンはすでに息子フィリップ美公とスペイン女王ファナとの結婚で
スペインを手に入れていました。
次のターゲットは、ベーメン&ハンガリーってわけでしょうか?

         

1521年、フェルディナントは兄カール(5世)に代わって
オーストリアを治めることになりました。

実はカールはフランドル育ち、フェルディナントはマドリッド育ちです。
だから本当は逆を治めた方がもめなかったんじゃないかと思うんだけどね。
性格も兄カールは寡黙で信仰心が強く質素だったというけれど
フェルディナントはご陽気ですぐにみんなの人気者、太陽が似合いそうじゃない?

それはさておき、統治を機にフェルディナントとアンナは結婚しました。
もちろん政略結婚だったわけですが、とても愛し合っていたそうです。

1526年、マクシミリアンの思惑どおり(と言ってはなんですが)
ラヨシュ2世が嫡子を遺さないままオスマントルコとの戦いで戦死してしまいました。

フェルディナントはアンナの権利を盾に、ハンガリーとベーメンを手に入れます。
しかしハンガリーには少々手こずりました。
ハンガリー貴族たちは外国の統治者を認めようとせず
対立王にサポヤイ・ヤノーシュをたてます。
その後はサポヤイの妻イザベラが女王を名乗り、次いで息子のヤノーシュ・ジグムンドが
王になり、というわけで完全に手に入れたのは1571年でした。

これより歴代の神聖ローマ皇帝は、ベーメン王とハンガリー王を兼ねることになります。

1531年に兄カール5世から継承者としてローマ王の座を譲られていたフェルディナントは
アンナの死から9年後の1556年に神聖ローマ皇帝になりました。

ご陽気だったフェルディナントはアンナの死後は大人しい人になってしまったそうです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家 講談社


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神聖ローマ皇帝カール5世妃 イザベラ

2009-11-26 01:28:28 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
大帝国を持つ夫の質素な妻
カール5世妃 イザベラ・フォン・ポルトゥガル


1503~1539/在位 (スペイン王妃)1526~1539
          (神聖ローマ皇后)1530~1539

すでにスペイン王妃イサベルでご紹介しているのですがちょっと補足を…

家系図も1カ所だけ補足しました。
      

なにしろ信心深くて、ウィーンに移る時にはスペインから説教師を同伴させて
厳格な信仰を深めました。
その上、とっても質素な人で、暖房も入れずに冷たいご飯を食べたそうです。

神聖ローマ帝国と大国スペインを治めているというのに
台所事情が苦しかったのでしょうか?

イザベラは難産の末流産して亡くなったのですが
あまりの苦しさに顔が変わり果てていたということです。
お別れのキスをしようとした皇太子が気絶してしまうほどだったらしいですよ。
皇太子フェリペ(2世)は母親が大好きだったといいますから悲しかったでしょうね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 高橋秀爾氏『歴史の中の女たち』)

歴史のなかの女たち 岩波書店


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名画にのこる女性の歴史を解説してくれます
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃 ビアンカ

2009-11-25 02:43:13 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
宝石のドレスを纏った花嫁
マクシミリアン1世妃 ビアンカ・マリア・スフォルツァ


1472~1510/在位 1508~1510

愛妻マリア・フォン・ブルグントの死から26年、マクシミリアンが再婚します。

なぜいきなりイタリアから?
この当時はフランスがイタリアへ進出し始め、ナポリなどの支配権を主張していました。
“ 神聖ローマ皇帝 ” としては黙っていられませんね! あまり関係はないけど。

スフォルツァ家はミラノですよね?
フランスはミラノの権利も主張していたので、その前に手を打っとこうと
ビアンカを選んだのかもしれません。
     

ビアンカはまだ2歳にも満たないうちに従兄弟のサヴォイ公フィリベルト1世と結婚、
相手も9歳ですから結婚したと言えるのかはどうかは分かりませんが
8年後にフィリベルトが亡くなって、わずか10歳で未亡人になりました。

22歳の時にマクシミリアンと再婚します。
結婚式の時、ビアンカはルビーや真珠からなる80ピースものジュエリーアートで
飾られたボディスを着ていました。
それに持参金も、40万ダカット? なんだかとってもすごい金額だったらしい。

マクシミリアンはビアンカとの結婚を理由にミラノ君主を宣言しましたが
これにシャルル8世の姉で摂政だったアンヌ・ド・ボージューが激怒し軍事介入して来ました。
この後、ヴァロア家とハプスブルク家はイタリアを巡って戦いを続けることになります。
人の国でなにやってるんだか…

すでにフリードリヒ3世と共治王になっていたマクシミリアンは
1508年にローマ皇帝になります。
ビアンカはその2年後に38歳で亡くなりチロルのシトー派修道院に埋葬されました。

宝石と持参金以外にエピソードがないというのも… なんだか悲しいですね。

ところで、ビアンカの義理の姉(父の愛妾の娘)がカテリーナ・スフォルツァです。
“ 泣く子も黙る ” 彼女のエピソードはまたの機会に…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃 マリア

2009-11-24 00:09:01 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
貧しき皇子に嫁いだブルゴーニュ公女
マクシミリアン1世妃 マリア・フォン・ブルグント


1457~1482/在位せず

フリードリヒ3世は、なんとか息子マクシミリアンを大国に縁付かせて
ハプスブルク家を大きくしてもらおうと考えていました。
そこでブルゴーニュ公家のひとり娘で相続人、マリアに白羽の矢をたてます。
まあ、申し込むのは勝手だから…

ブルゴーニュ公でしかもヴァロア家と言えばたいへんな名家なわけです。
マリアにもたくさんの縁談が舞い込んでいました。
それなのに、なぜに貧乏なハプスブルク家の息子なんかと?
    
ブルゴーニュ公シャルル突進公は、とても神聖ローマ皇帝になりたかったのです。
フリードリヒ3世に再三ローマ王を譲れと言っていたシャルル公でしたが
なんだかうまいことはぐらかされているうちに戴冠までされてしまい…

そんなシャルル公にフリードリヒ3世から娘マリアに縁談の申し入れがありました。
もしかして… シャルル公は自分が皇帝になれるかもしれない、と思い
とりあえずお相手のマクシミリアンと会うことにしたそうです。

するとどうでしょう!! 弱気で陰気な父親からは想像もつかない
元気はつらつで男らしい少年(14歳)が現れたではありませんか。

概ね結婚に同意したシャルル公でしたが条件の交渉が難航して4年の月日が流れます。
そして1477年、ふたりの結婚を指示する遺言を遺して亡くなりました。
急がないとブルゴーニュを狙うフランスが攻めて来ます。

マクシミリアンは急遽ブリュッセルへ向かい、やっと結婚することができました。
マリアはふたつ年上の姉さん女房でした。

ふたりは出会った時から惹かれ合って、とにかく仲が良かったということですが
最初はお互いの言葉が分からなかったんですって。
愛に言葉なんかいらない…ということですかね。

マクシミリアンはフランス軍も撃退してブルゴーニュ公の地位を確立し
王子も生まれて幸せ一杯の日々を送っていたのですが…

結婚から5年後、マリアは妊娠中にもかかわらずマクシミリアンの鷹狩りについて行き
落馬したところへ馬が倒れてきて、という不幸に見舞われます。
家族や国民の祈りも虚しく、3週間後に息を引き取りました。
15000人が参列し、ノートルダム寺院に埋葬されました。

なぜ誰か止めてあげなかっんでしょうね? よりによって乗馬とは…
幸せ一杯の王妃は早く亡くなる傾向がある気がしますが、気のせいでしょうか?

マクシミリアンはマリアの死から8年後、ブルターニュ公女アンヌと婚約し
結婚したとも言われていますが、フランス王シャルル8世に奪取されてしまいました。
シャルル8世は、マクシミリアンとマリアの娘マルグレートと婚約していたのに…
中世の結婚はなかなか波乱が多いものですね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
          『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家史話 東洋書林


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神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世妃 エレオノーレ

2009-11-23 21:54:24 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
理想と現実のギャップに唖然・・・
フリードリヒ3世妃 エレオノーレ・ヘレーナ・フォン・ポルトゥガル


1434~1467/在位 1452~1467

今年が日本オーストリア交流年だってことを今頃知ったわたし てなわけで
ハプスブルク帝国にいってみようと思います。
ハプスブルク家もかなり枝葉が分かれていますので、神聖ローマ皇帝からね。

ざっくりいうと、中世のドイツおよびその周辺では各領邦君主が領土を治めていましたが
神聖ローマ帝国というのを形成していました。

皇帝は選帝侯といわれる実力者たちが選挙というか会議で選んでいました。
あまりにも野心満々の人が皇帝になると牛耳られてしまう…という危惧がお互いにあって
たまにどうでもいい感じの人が選ばれることがありました。

そこで選ばれたのがハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ3世です。
なんたって領土は小さいしお金もないし、あまり能力もなさそうだし、
皇帝がフリードリヒならば好き勝手ができるでしょ、ということで選ばれたのです。
まさか今後ずっとハプスブルク家が皇帝になるとは…

フリードリヒの前に同じような理由からルードルフ1世、アルブレヒト1世も
ローマ王として選出されていますが、神聖ローマ皇帝になっていないのでまたの機会に…

まずは前段階のローマ王となったフリードリヒ3世は、選帝侯たちが見込んだ通り弱気で非力、
戦うぐらいなら妥協するか逃げ出す、という人だったので
幽閉されたり、追放されたり、逃亡したりの繰り返しでした。

ただ、彼がたったひとつ持っていた才能、それは長生き!
フリードリヒから王座を奪おうとしていた人たちはことごとく先に死んでしまったのね。
じっと耐えたかいがあったというものです。

1452年、37歳のフリードリヒは、ポルトガル王ドゥアルテ1世王女エレオノーレと
結婚するためにイタリアへ向かいました。
でもこれは表向きの理由で、本当はローマで戴冠してさっさと皇帝になってしまおう、と
思ったからなのではないかしら?

       

さてエレオノーレはものすごいお金持ちのポルトガル王女ですから
結婚の申し込みはたくさんあったのに、フリードリヒからの求婚に応じました。
ハプスブルク家のことはあまり知らないが神聖ローマ皇后なんてすごいじゃない!
というのがOKの理由だったみたい。
だって15歳ですもの。 夢見る年ごろですよね。

              
           こちら、シエナで初めてご対面した時のおふたりです

豪奢で裕福なリスボン王宮からウィーンにやってきたエレオノーレは愕然とします。
だって食事にワインも出ないし、すごく質素…というか貧乏なんですもの。
しかも皇帝は野良仕事までしますよ。 自家菜園ってやつですか?

エレオノーレはとても美しく、快活な少女だったらしいのですが
しばらくすると体調を崩し、33歳の時に5人目の子供を生んで亡くなりました。

あぁ、皇后になれるっていうから20も年上の陰気な男に嫁いできたのに…
しかも寒い! 温かいリスボンに帰りたいよぉ、と思ったことでしょうね。

神聖ローマ皇后という肩書きだけにつられてやってきたエレオノーレは
確かに愚かな少女ではありましたが、親や大臣がちゃんと調べてあげないと…
もしかして親も肩書きにやられたのでしょうか?

いずれにしても、エレオノーレが持って来た莫大な持参金は
ハプスブルク家の発展に、おおいに役に立ったようです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち 講談社


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私は昔の表紙の方が好きでしたけれどもね…講談社新書
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THE ハプスブルク展に行ってきました

2009-11-23 21:54:14 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
「行こうかな~?」と迷っていたTHE ハプスブルク展に行ってきました。
実は3年前に『マリア・テレジアとマリー・アントワネット展』を
横浜そごうに見に行ったことがあるんですよね。

でも今回は規模が大きいし肖像画が多そうだし…てなわけで、国立新美術館へ。

確かに絵画は多かったんですけど、今回はハプスブルク家が富にものを言わせた
スペイン、オランダ、イタリアなどの絵画がふんだんに揃えられていました。
7割がた宗教画や伝説をモチーフにした絵でございまして…

ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、ファン・アイク、ルーベンスなど
各国のそうそうたる画家の作品が見れたのですが
わたくしとしては肖像画で歴史を辿る…的に
枝葉・裾野のひろーいハプスブルク家の方々のお顔が拝みたかったですね。
特に王妃とか公女なんか。

ハプスブルク家の方の肖像画は10点足らずで
その中でもマリア・テレジアとマルガリータ、シシィの前は黒山の人だかり!!
女性陣3人しか出ていないんですもの。
何回か舞い戻ってみたものの、全身は一瞬しか見れませんでしたよ
肖像画だけなら横浜そごうの方が多かったんじゃないかしら?

次回は規模は小さくてもいいから、ぜひ肖像画メインでやっていただきたい!と…
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『おしどり探偵』モデルが分かりませんで・・・

2009-11-22 22:50:09 | アガサ・クリスティ
PARTNERS IN CRIME 
1929年 アガサ・クリスティ

容姿端麗で頭脳明晰で好奇心おう盛なトミー&タペンスの夫婦。
かなりお似合いのおふたりだとお見受けしますが
読書の趣味まで一緒とは心の底から羨ましい…
うちなんか読書どころか何もかもバラバラよ。

諜報機関から依頼されて引き継いだ国際探偵事務所を舞台にして
夫婦がいろいろな探偵コンビになりきって解き明かした事件の数々。
推理小説に疎い私はホームズ&ワトソンと、ポアロ&ヘイステュングズしか
分からなかったんですけれども…
クリスティは同業者の本もよく読んでいたんですね。

『お茶でも一杯(A Pot of Tea)』
ふたりの記念すべき初事件は、ロオレンスという青年から依頼された
帽子屋の女店員探しでした。
彼女が見つかったら、ロオレンスは結婚を申し込むつもりです。
タペンスは24時間以内の発見を約束して事件を引き受けます。

『婦人失踪事件(The Case of The Missing Lady)』
北極から帰って来たばかりのスタヴァンソンから、姿を消した婚約者捜しを依頼されます。
ホームズ&ワトソンになりきったふたりは、彼女の電報の発送元らしき町を訪ねて
怪しい医師の家に彼女がいると確信しました。

『鉄壁のアリバイ(The Unbreakable Alibi)
ジョウンズという男性がやって来て、ある女性と結婚したいといいました。
しかし、相手のミス・ローナとの賭けに勝たねばなりません。
ローナの条件は彼女のアリバイを証明しろというもの。
問題の日、彼女はロンドンで友人と夕食を食べていました。
一方もうひとりの彼女はトーキーのホテルに泊まっていたというのです。

以上、ユーモアがきいた3篇をあげてみます。
事件というよりはお遊びみたいなものです。
特に『鉄壁のアリバイ』なんて、本当の推理小説ファンが読んだら怒るかもね。

ふたりは事件の性質に合わせて、いろいろな探偵コンビに挑戦しましたよ。
ソーンダイク&ボルトン、オークウッド兄弟、マッカーティとデニィ
ブラウン神父、フレンチ警部などなど…

事件の内容より、モデルになった名探偵をいかに踏襲して謎を解くか?を
楽しんだ方がいいかもしれません。
恥ずかしながらわたくしには分かりませんでしたが…

若い夫婦が探偵社で大活躍!
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ポーランド王アウグスト2世愛妾 アンナ・コンスタンシア

2009-11-22 22:48:10 | 王の寵姫・愛妾
政府に退場させられた愛妾
コーゼル伯 アンナ・コンスタンシア・フォン・ブロックドルフ


1680~1765/愛妾 1704~1713

アンナは騎士ブロックドルフとハプスブルクの富豪の娘マルガレーテの娘で
当時の女性としては一般的でない、例えば数学や歴史などの教育を受けて育ち
狩猟などにも熱中しました。
だけどそんな男の子並みの育て方が良くなかったのかしら?
ものすごく激しい気性の持ち主で親もハラハラするほど…

      

そこで両親はしとやかな女性らしい教育を受けさせましょうと
アンナが14歳の時にクリスティアン・アルベルト公の屋敷へ送り
ゾフィー・アマーリエ公女の侍女になりました。

ゾフィーがブラウンスヴァイク=リューネブルク公子オーガスタスに嫁ぐ際
同行したアンナでしたが、なんとそこでアンナは妊娠してしまいました。
相手はオーガスタスの弟ルートヴィヒと言われています。
アンナは宮廷を追い出され、親元へ帰されました。
その時の子供がどうなったかは不明です…

19歳の時には侍女時代に出会ったホイム男爵アドルフ・マグナスと暮らし始め
4年間の愛人生活の末結婚しました。
しかし3年後に離婚しドレスデンへ向かいました。

ここからは想像でしかないんだけど…
たぶんアウグスト2世の女好きは世間に知れ渡っていたと思うのよね。
だって子供350人以上だもの!
お相手に選ばれればしばらくはいい思いができるわよね。
さらに上手くいけば愛妾、公妾になれて贅沢三昧ができるじゃないですか?
割り切っていらっしゃる女性は「ドレスデンを目指せ!」って思ったのではないかしら。

アンナは男爵夫人だと言い張って宮廷に入り、まんまとアウグスト2世の目にとまります。
当時アウグストにはテッシェン公ウルスラがいましたが
アンナは1705年に公妾の座を奪いました。
この間、前夫ホイム男爵はアンナが公妾にはふさわしくないと妨害しましたが無駄でした。

コーゼル伯となったアンナは、アウグストとの間に3人の子供を生みましたが
もすごーく嫉妬深かったらしく、妊娠中でも、王の行く先が戦場でも
ついて行くと言ってきかなかったそう。
それに、協議をしようとすると不機嫌になり部屋に居座ろうとします。
その上密偵まで送り込んで王を終始見張らせていました。

大臣たちはアンナが政治の邪魔になると考えだしました。
そこで送り込まれたのが、デーンホフ伯夫人マリア・マグダレーナでした。
彼女は内気だったため少し時間がかかりましたが愛妾の座につき
アンナは退けられました。

ピルニッツ城で贅沢な暮らしを保障されたアンナだったのに
王から与えられた結婚の誓約書を手にベルリンへ逃走しました。
結婚誓約書は危険きわまりないもので、アンナは一転お尋ね者になり
1716年にヘレで捕らえられます。

その後シュトルペン要塞に幽閉されたアンナは、アウグスト2世の死後も幽閉が解かれず
49年間の幽閉生活の末85歳で亡くなりました。

1745年と1756年、プロイセンの進軍で自由になる機会があったのですが
驚いた事にアンナは拒んでいます。
世俗の虚飾と喧噪にはうんざりしてしまったのかしらね?

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

王様たちの恋愛スキャンダル満載です
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ポーランド王アウグスト2世愛妾 ウルスラ・カタリーナ

2009-11-22 09:03:03 | 王の寵姫・愛妾
なんだかんだで最後まで王の側にいた愛妾
テッシェン公 ウルスラ・カタリーナ・フォン・アルテンボックム


1680~1743/愛妾 1700~1734?

ウルスラ・カタリーナは執事の娘でした。
15歳の時、ポーランドで最も影響力があると言われたルボミンスク家の
イェルジー・ドミニクと結婚しました。

         

ルボミンスク家はソビエスキ家のヤン3世の死後
知人の大司教に、ポーランド王に推挙されたりもしたのですが
選挙よって王に就いたのはヴェッティン家のアウグスト2世でした。

その後なぜか、教皇はイェルジーとウルスラの結婚を無効にします。
実はアウグスト2世はすでに美しいウルスラの事を知っていて
夫婦の結婚が破綻したと知るやいそいそと近づいてきます… ってことは新王の差し金か?

イェルジーは王位と同時に妻をも失う事になったわけですね。

1700年、ウルスラはアンナ・マクシミアリアーネ・フォン・ランベルクに変わって
公妾の座を手にします。

             
               こちらマリア・マクシミリアーネ
              後にもとポーランド王ヤン3世の王子の愛妾になってます


ドレスデンの宮廷はすぐさまウルスラの美しさに魅了されました。
1704年に子供を生むとテッシェン公に叙位されましたが
これは敬称のようなもので領地などを含むものではありませんでした。

しかしたった1年後、ウルスラの座はアンナ・コスタンシアに奪われます。
飽きっぽい人だね アウグスト2世って人は。

傷ついたウルスラはホイエルスヴェルダの別荘に引っ込み
一度はシュレージェンに移ったのでしたが
アンナ・コンスタンシアが退けられると再び宮殿に登場します。
すでに新しい愛妾のデーンホフ夫人がいましたのが大人しく内気な女性で
ウルスラは宮廷で幅を利かすことができたみたいです。

そうこうしているうちにヴュルテンブルク=ヴィンネンタル家の公子で
10歳年下のフリードリヒ・ルドヴィクが彼女に恋をします。
傍系とはいえヴュルテンブルク家は名家です。
1722年、ウルスラはフリードリヒと極秘に結婚しました。
フリードリヒの家に反対されるからか、アウグストにばれちゃならなかったのか?
極秘結婚の理由は分かりません。

              
             とても上の肖像画と同じ人だと思えませんが…
                     威厳たっぷりのウルスラです


1773年、アウグスト2世が亡くなるとウルスラは宮廷を追放されました。
不幸は続くもので、翌年夫のフリードリヒがグアスタッラの戦いで戦死します。
ヴュルテンブルク家の反論にもかかわらず、ウルスラはフリードリヒの妻であると
主張して死ぬまで夫の姓を名のり続けました。

相次いで後ろ盾を無くしたウルスラでしたが、アウグストから譲られていた
ホイエルスヴェルダを1737年まで治めました。
それにアウグスト2世を継いだアウグスト3世からも
年金を与えられていたので、老後は安泰だったんじゃないかしらね。

1743年、ドレスデンで亡くなりました。

愛妾には、捨てられても年金をもらっていたり宮廷に残ったりする人と
完全に見捨てられる人の2パターンがあるみたいですが
その差はどこからでるのでしょう?

王の懐具合なのかしら? それとも愛妾としての尽くしてくれたから?
あとから何かを暴露しそうな人にも払っとかなきゃね。
浮気も金がかかる… って国民から搾り取った税金じゃないのっ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『無実はさいなむ』“ 作られた家庭 ” の悲劇

2009-11-22 00:13:16 | アガサ・クリスティ
ORDEAL BY INNOCENCE 
1958年 アガサ・クリスティ

キャルガリは2年ぶりに帰国した地質学者で
出発前のある日、ひとりの男性を車に乗せたことを思い出して家族に告げに行きます。
なぜならその男性は殺人犯になっていて、キャルガリは彼のアリバイを証明できる
唯一の人物だったからです。

彼にしてみれば良かれと思ってやったことで
感謝されこそすれ疎まれるとは思っていなかったのに… という物語です。

殺人犯になったジャッコは獄中で死亡していました。
殺されたのはジャッコの母レイチェルで、殺人現場は彼女の自室でした。
外部の犯人の可能性は皆無で、夫リオ・アージル、兄弟姉妹たち
家政婦のカースティンが、疑いの目を向けられていました。

家族は皆、もともと悪人だったジャッコが犯人で一段落、という思いだったのです。

アージル家にはジャッコを含め5人の兄弟姉妹がいるのですが、実は皆養子です。
夫に一途なメアリ、自分を捨てた母を慕うマイケル、夢と恋に破れたへスター
とらえどころのないティナ… みな一癖あります。

レイチェルは慈善精神に富んだ女性で可哀想な子供たちを次々引き取っていたのですが
子供たちはやはり生まれ育った家が恋しく、強引な養母を恨んでいた子供もいます。
パワフルな妻に押されていたリオは、近々秘書のグゥエンダと結婚する予定です。
恋に破れたへスターだってドナルドという医者と婚約できました。

再び残った家族たちに疑いがかかるのは迷惑この上ないことですね。
案の定誰もが怪しいんだしねぇ…

この物語、シリーズの名探偵たちは登場しません。
3人の人物が事件の真相を解こうとします。

まずはキャルガリ、彼は自分のせいでジャッコを有罪にしてしまったという
後悔の念から事件の真相を探ろうとします。

それからフィル・デュラント、彼は養女メアリーの夫ですが、体が不自由で
悶々とした思いを真犯人を探ることで発散させようとかぎ回ります。

そしてヒュイッシ、彼は事件にあたった優秀な捜査官です。
面目をかけて真犯人を探し出そうと再捜査にあたります。

かように三方向から捜査をしているものだから、読んでいてちょっとややこしいのよね
果たして誰の捜査が的をえているんでしょうか?

そんなことをしているうちにフィルが殺されちゃうので
たぶんフィルが一番真実に近づいていたのでしょう。
そして、あることに気がついたティナまで刺されてしまうし…

結末は… ビックリしますよ!
それはちょっとどうですか? という無理矢理な展開…でも、無いとは言えないかなぁ?
ある意味ハッピーなエンディングかもしれないのですけれどもね。
これ以上は言えませんな

無名の探偵たちが事件を解決!
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


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ポーランド王アウグスト2世愛妾 マリア・アウローラ

2009-11-22 00:07:17 | 王の寵姫・愛妾
王のハレムを許した愛妾
“ファティマ” マリア・アウローラ・フォン・スピーゲル


生没年不詳/愛妾 1700~?

マリア・アウローラの本名はファティマといいます。
オスマン帝国の侵攻をうけている間、ヨーロッパにはトルコの支配下にある人々や奴隷が
送り込まれていました。

ファティマは3人の女性と一緒にスウェーデンのアースキン男爵に捧げられました。
彼女はそのことを否定していて、自分はイスラム教の聖職者の妻だったと反論しています。

アースキン男爵は女性たちを連れて、後に行方不明になるフィリップ・ケニヒスマルクと
スウェーデンに帰国し、ファティマをフィリップの姉マリア・アウローラに譲りました。
どうでもいいけど… モノ扱いですよね。 ひどい話しよ。

      

1686年にファティマはバプティストに改宗しますが、その時名付け親になったのが
カルル王子とマリア・アウローラで、ファティマはその名をもらいました。
まぎらわしいからファティマのままでいくけど…

ファティマはマリアに気に入られ、フランス語や礼儀作法など
貴婦人教育もさせてもらいました。

マリアがアウグスト2世の愛妾になり、度々訪れて来るようになります。
するとどうでしょう、ファティマにも興味津々よ。
1701年には可愛がってくれたマリアに変わって愛妾の座につきました。
女の下克上、なかなか厳しいですな…

アウグストはファティマを平民の召使いスピーゲルと結婚させました。
子供は何人か認知したり、浮気をしても戻って来たり、真剣ではあったみたいだけど
なんだかハーレムをつくり始めちゃったらしい…
ファティマは「しょうがないねぇ…」って感じで寛容だったそうです。

いつかは分からないのですが、ファティマにもお役御免になる日がやってきました。
しかし彼女はその後も宮廷の実力者で居続け、アウグストの死後は
遺言により年金をもらったそうです。

大奥の監督役みたいな立場で女性をまとめていたんですかね?
愛妾になるぐらいならまとめ役をやってみたいかなぁ…
からだの関係より信頼関係ですよ、年とってきたら。

(参考文献 Wikipedai英語版)
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ポーランド王アウグスト2世愛妾 マリア・アウローラ

2009-11-21 02:03:45 | 王の寵姫・愛妾
流浪の貴婦人
マリア・アウローラ・フォン・ケニヒスマルク


1662~1728/愛妾 1694~1700

どの国にも強者がいるものですが、ポーランドからはアウグスト2世です。
(とはいってもドイツのザクセン選帝侯で、選挙で王になりました)

アウグストは強王、強健王と言われます。
もちろん力持ちでもあり、周辺の国からの干渉と戦いながら王の座に2度も就き、という
男らしさから呼ばれていると思うんだが、女性関係でもかなりの強者で…

なんと子供が 365~382人! 正確な数さえ分かりゃしない。
愛人が何人いたか知れないが、350人以上の子供って…学校作れちゃうじゃんか

そんなわけで素性が分かっている愛妾を何人かご紹介しようと思います。

マリア・アウローラはスウェーデンの貴族ケニヒスマルク伯の娘です。
弟は大英帝国王ジョージ1世妃ゾフィア・ドロテアの愛人で
行方不明になってしまったフィリップ・クリストフです。

     

父親が1673年に亡くなると、どうやら領地を没収されてしまったみたいで
母親とともにスウェーデンやドイツの親族を渡り歩く生活を送ります。

スウェーデンでは、ウルリーカ王妃がパトロンの宮廷劇団に参加し
女性だけで演じられたラシーヌの劇に男役で登場したりしてます。
また常に詩人等が集う知的なサークルにも属していました。
1691年に母親が亡くなると、マリアと妹はハンブルクに滞在しますが
そこでもマリアの美しさと才気は知れ渡り人々を魅了しました。

1694年、マリアはハノーヴァーで奇妙な消え方をした弟を捜し出そうと
ドレスデンへ向かい、ザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト1世
(後のポーランド王アウグスト2世)に援助を請います。

たぶん自分の美しさを分かってやったことでしょうが
案の定すぐに愛妾になりました。 子供も生まれています。

しかし選帝侯はすぐにマリアに飽きてきます。
そこでマリアはクヴェトリンブルクの修道院長の地位を手に入れようと考えます。
以前『Sony 世界遺産』で見たんですけど、クヴェトリンブルク修道院は
神聖ローマ皇帝の支配下にあって絶大な富と権力を持っていたらしいよ。

とりあえず1698年に修道院長補佐になり、1700年には学寮長になりましたが
修道院長にはなれなかったんですね。

ベルリン、ドレスデン、ハンブルクなどを拠点に過ごしている間に
愛妾の座は侍女のマリア・アウローラに奪われてしまっていました。

ヴォルテールが “ ふたつの世紀に渡って最も名高い女性” と呼んだマリアは
62歳の時、クヴェトリンブルクで亡くなりました。

弟探しはどうなったのかしらね?

ちなみに、マリアのひいひいひい孫のオーロール・デュパンは作家になりました。
その作家とは? あのジョルジュ・サンドでございます。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『女ごころ』ハッピーエンドでいいのかいな?

2009-11-20 01:39:19 | イギリス・アイルランドの作家
UP AT THE VILLA 
1941年 サマセット・モーム

いつもはなるべくネタバレしないように気をつけて書いているつもりですけれども
この物語はバラしちゃうかもしれないわ。
だって、あまりといえばあまりにアッパラパーなエンディングなんだから…

ある女性の2、3日の心の変化を描いた物語なんですが
そりゃあ、こんな経験をすればわけが分からなくでしょうね、といった内容。

メアリィ・パントンは浪費家の夫を1年前に亡くした30歳の美しい未亡人。
友人の厚意でフローレンスの別荘に滞在しています。

淑女として平穏無事に過ごしてきたメアリィの前に3人の男性が現れて
彼女の人生を大きく変える3日間が始まります。

まずは父親の友人でずっと親切にしてくれたエドガー・スィフト。
大英帝国の植民地をしょってたつ人だし、総督夫人も悪くないな…なんて考えていたら
プロポーズされました。

返事の猶予をもらったメアリィがパーティーに出かけて顔を会わせたのが
女性関係で悪い噂の絶えない有閑青年ロウリィ・フリント。
メアリィは彼からもプロポーズされます。

その帰り道、オーストリアからの亡命者で、金もなく食うや食わずのヴァイオリン弾き
カール・リヒターに出会います。
メアリィはカールを連れて帰り、食事を与えて屋敷内を案内しているうちに
彼の熱意にほだされちゃって…

ここから先、ネタバレしないようにザックリ書きましょう。

メアリィは真剣になったカールの怒りをかって大事件に巻き込まれてしまうのね。
その時彼女が救いの手を求めたのはロウリィでした。
彼はなんだかとっても頼りになる奴だったのですよ。

メアリィはロウリィにも、エドガーにも、カールとの一件を打ち明けるわけですが
二人の反応はまるっきり違っていました。

最終的にメアリィは「この人とだったら」と思う相手を選んでハッピーエンドになるんだが
ふたりで冗談を言い合ってるぜ、おい。 人ひとり死んでるんですけどね…

文中『女ごころの歌』がでてきますが、あれですよね?
「いつも変わるおんなごころ~ 」ですよね。

女の気持ちはころころ変わると言いたいのでしょうが、そんなことないですよ。
でも、自分が分からなくなってしまって「あちゃー 」という夜は誰にでもあるもの。
ちょっと度を外しすぎてしまうということもありますね。
それにほんの一瞬で、他人が今までとは違う印象になることってあるじゃない?
果たしてその一瞬で決心した相手がベストなのかどうかは後になって分かるでしょう。

もしかして結末分かってしまいましたか?
結末が分かっていても楽しめるのがモームの良いところだから… と言い訳してみた

女ごころ
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