まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ポーランド王ジグムンド1世妃 バルバラ

2015-05-26 22:02:59 | ポーランド王妃
王の愛しく儚い思い出になった王妃
ジグムンド1世妃 バルバラ・ザポリャ


1495~1515/在位 1512~1515

アレグザンデルにはまたまた嫡子がいなかったため
弟のジグムンド1世がポーランドとリトアニアを継承しました。

ジグムンド1世は2回結婚していまして、二人目の妃がけっこう強烈です。
まずは一人目の妃バルバラです。

バルバラはハンガリーの領主シュテファン・サポヤイの娘ですが
このサポヤイ家はものすごく裕福なことで有名でした。
なんと! ハンガリーとスロヴァキアに70以上の城を持っていたらしい!!
都内にマンション20部屋… なんかとはわけがちがうっす!

イギリスの雑誌とか見ると、けっこう城が(城にしちゃ)安く売られているんだけど
城は手に入れるより維持するのが大変だと思うのよね。
修理でしょ、使用人でしょ、庭の手入れ、光熱費… だから手放す人が多いと思うの。
それを70以上って、あんた…

母親はポーランドのピャスト家につながる
チェシン公プレジェミシュラフ2世の公女ヤドヴィカです。

バルバラは、ハンガリー対立王ヤーノシュの妹にあたります。
        
バルバラが4歳の時、父シュテファンが亡くなり、バルバラは母ヤドヴィカの従兄の
チェシン公カジミェシュ2世の世話になるために家族のもとを離れます。
それからはスロヴァキアのトレンチーン城、ハンガリー王妃アンヌの宮廷などで
幼い頃を送っていたようです。

1506年、アレグザンデルの後を継いだジグムンド1世は、ハンガリーとボヘミアの
王座を手にしそうなハプスブルク家に対抗するための同盟者を探していました。
サポヤイ家はハンガリーのアンチ・ハプスブルクの中で最も強力な一家でした。

ジグムンドは1511年に使者を送り、ウラースロー2世とバルバラ本人の同意を得ました。
翌年、バルバラは17歳で45歳のジグムンドと結婚しました。

ジグムンド、初婚?
この人はカジミェシュ4世の五男で、まさか王座がめぐってくるとは思われず
いい縁談がなかったのかしらね?

バルバラは、持参金として100,000red zloty持ってきたのですが
これはものすごく大金だったらしい。
3年後にジグムンドの妹エルジェピタが結婚する時に持ってった持参金は20.000zloty…
ケタ違い… しかもredが無いけどね…

この結婚はサポヤイ家の裕福さを見せつけただけではなく、どれだけ重要な相手かを
王家に見せつけることになりました。

ジグムンドとバルバラには28歳の年の差がありましたが
結婚生活は愛に充ちた幸せなものだったそうです。
ジグムンドは、芸術家肌で教養があり、穏やかな人だったそうで
バルバラは尊敬できる相手として慕っていたんじゃないかしらね?

王妃を残して遠征に行く王も多い中二人で出かけて、一緒にいることが多かったようです。
二度目にジグムンドが不在だった時は手紙をやりとりしていたらしいんだけど
ジグムンドが書いたものが20通に対して、バルバラの手紙は2通しか無いんだって。
あくまでも残っているものなのでね… 女性の方が手紙をとっておくだろうし…

ジグムンドはバルバラにも力を持たせようと、政治的なサポートをしたようです。
たぶん、自分が亡くなった後で宮廷で力を維持できるようにだと思うのですが
バルバラは政治に興味がなく、議会への影響力はあまりありませんでした。

二人の間には、1513年に長女ヤドヴィカが、1515年に次女アンナが生まれました。
けれども、アンナ出産後バルバラは体調を崩し、半年あまりして亡くなりました。

ヴァヴェル大聖堂に葬られましたが、ジグムンド1世は、1517年に大聖堂の中に
ジグムンドチャペルを建立する命令を出し、バルバラと5歳で亡くなった次女アンナの遺体は
そちらに移されました。

バルバラとの結婚は、結局ハプスブルク家の躍進を止めることはできませんでした。
ジグムンド自身も、後にアンチから賛成派に変わります。

結果はどうであれ、結婚生活が幸せで何よりでした。

だけど、ジグムンド1世さぁ…
同じ人が前王妃へレナにあんなひどいことする? なんか納得できないなぁ。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこともの申す!コーナー
先日、マンションのエレベーターの中に、犬のう◯ちがっっ! あやうく踏むところだったじゃないのっ!!
お散歩の時に持ってる可愛らしいバッグは、か・ざ・り・で・す・か? 善良な飼い主さんにまで迷惑がかかりますよ
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ポーランド王アレグザンデル妃 ヘレナ

2015-05-22 21:29:09 | ポーランド王妃
逃亡をこころみた王妃
アレグザンデル妃 ヘレナ・モスキエヴスカ


1476~1513/在位 (リトアニア大公妃)1495~1506 (ポーランド王妃)1501~1506

ヴワディスワフ3世の後を継いだヤン1世は未婚だったのか王妃の名が発見できず
いずれにしても嫡子がいなかったので、弟のアレグザンデルが継承しました。

そんなアレグザンデルの妃になったのは、モスクワ大公イヴァン3世公女です。
ヘレナの母親ソフィーヤ・パラエオロジナ
ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティン11世の姪にあたるという由緒正しさです。
     
幼い頃のヘレナについてわかっているのは、モスクワ育ちだということと
教養があるとても美しい子だったということぐらい。

8歳の時に一度、ポーランド王カジミェシュ4世王子との縁談がもちあがりました。
相手はまだ未定でしたけど…
ポーランドはオスマントルコに対抗するための同盟国を探していて
ロシアに目をつけたわけですね。

1942年にカジミェシュ4世が亡くなると、ロシアはリトアニア大公国に侵攻を開始します。
ポーランドはヤン1世が、リトアニアはアレグザンデルが継承していました。
アレグザンデルは和平のためにヘレナと結婚することにします。

ヘレナはロシア正教の敬虔な信者で、カトリックへの改宗を拒んでいます。
イヴァン3世も、リトアニアのヴィリニュス城にロシア正教の教会を建てるように
条件を出していて、アレグザンデルはこの条件を呑んだようです。

アレグザンデルはカトリック信者ではないヘレナとの結婚のために
ローマ教皇アレクサンデル6世から特別な許可を得ました。
結婚式はカトリックとロシア正教のミックスで行われたようで
ヘレナはロシアの民族衣装を着て式に出ています。

でもアレグザンデルの母エルジェピタ・ラクシャンカは、この頑固な嫁が気に食わなかったか
わざと結婚式に遅れたりしています。
早くも垣間見える嫁姑の諍いの兆し… こわいわ~

戴冠式はカトリックの儀式にのっとって行われるため、ヘレナは戴冠していません。
義母エルジェピタはヘレナに改宗するように圧力をかけ続けますが、ヘレナはこれを拒否。
たぶん、嫁ぎ先より実家の方が力が上だという奢りもあったんでしょうね。

エルジェピタは、言うことを聞きやしない嫁だけでなく、一緒に説得しようとしない
息子アレグザンデルにも怒りをぶつけます。
アレグザンデルにしてみりゃ「めんどくさいなぁ~、もうっ」って気分だったしょうね。

一方でヘレナは、カトリック貴族や聖職者たちと争う気はありませんでした。
静かに好きな祈りをあげさせてあげればいいじゃないね。

幼い頃は父親の言いなりだったらしいヘレナに対してイヴァン3世は
政治的策略渦巻く手紙を送りつけてきましたが、ヘレナは手を貸すことはしませんでした。
アレグザンデルに対しては忠実で従順な妻だったみたいです。

もともと素直で従順な人だったようですね。
エルジェピタに対してだけ頑なだったのかしら?
しつこかったんじゃないの~? エルジェピタ。

ヘレナは2回妊娠しましたが両方とも流産してしまい、子供が生めなくなりました。
当時の王だったら、それを理由に離婚することもできたと思うんだけど
アレグザンデルはそうしませんでした。
政略結婚ではありましたが、夫婦の仲は良かったみたいです。
アレグザンデルもなんとなく寡黙で争い嫌いなタイプに見えるものね。
戦争弱かったみたいだし…

1506年、アレグザンデルが45歳の若さで病になり亡くなりました。
30歳のヘレナは、モスクワに帰ることを希望しましたが、ポーランド貴族たちは
恰好の人質であるヘレナを帰そうとはせず、ワルシャワに住まわせました。

アレグザンデルの後は、弟のジグムンド1世が継いでいました。
ヘレナとジグムンドの付合いは冷えきっていて儀礼的なものでした。
絶対に兄嫁としていたわっていたとは思えないわ。
ジグムンドがそうだったってことは、他の宮廷人もそうしてた可能性が大きいですよね。
かわいそうに… 帰してあげなよぉ

1511年、ヘレナは再びモスクワに帰ることを願い出ましたが
ジグムンドは許しませんでした。
当時はリトアニアとモスクワの間がまたまた緊張していたんですけど
モスクワ大公はヘレナの兄ヴァシーリィ3世でした。

ヘレナはこっそりモスクワに帰ろうと決心して計画を立てましたが
これが失敗に終わり、トラカイで捕まってしまいました。
おぉぉ~、どうなってしまうの?

ヘレナはアレグザンデルの死後もヴィリニュス城で暮らしていましたが
脱走失敗後はトラカイやビルシュトナスで足止めさせられました。
この待遇に、兄ヴァシーリィ3世が激怒したため収監はされませんでしたが
やはり帰してもらうことはできませんでした。
たぶん、監視とかついて幽閉生活を送らされていたんじゃないかしら?

1513年、ヘレナは急に亡くなります。
リトアニアの廷臣による毒殺だと言われています。
お金を盗もうとして殺されたという説もあります。
どちらにしても、ありえないわけじゃないし、せつない話しですが
ヘレナが殺されたのじゃなくて、ストレスから急死した聞かされても驚かないわ。

ヴィリニュスのセオトコス大聖堂に葬られました。
アレグザンデルはヴィリニュス大聖堂に葬られています。 二つは別ものみたい。
せっかく同じ土地なんだから、一緒に葬ってあげられなかったのでしょうか?

ヘレナみたいな王妃はたぶんたくさんいたはずです。
そういう王妃は、記録が無かったり、かなり短い記述で終わっている場合が多いので
少しでも晩年の不幸な様子が残っていてよかったです。
よかった… というのもなんですが、少しでも慰めてあげることができるものね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
テソンのヘアスタイルが… 歌っている時はステキなんだけど、しゃべってるとワカメちゃんみたいに思えてきて…
かわいいんですけどね… LOSERのMVは痛そうで痛そうで何度見ても涙が出ちゃうよ

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『ジャンプ 他十一篇』シンボル、フォーカス、プリズム

2015-05-18 21:27:33 | その他の国の作家
JUMP AND OTHER STORIES 
1991年 ナディン・ゴーディマ

私は先日、『バージェス家の出来事』で、人権とか難しいことを考える本は避けたいな… 的な
ことを書いてまして、本来の読書スタイルはそのとおりなんですが
今回は自らどっぷり身を投じてしまった…

ナディン・ゴーディマは、ノーベル賞をとっていたので名前だけは知っていましたが
読むのは初めてです。

南アフリカ出身の白人作家が描くアパルトヘイト末期のエピソード…
どちらかというと、差別問題の云々よりも、アパルトヘイト撤廃直前の南アフリカで暮らす
黒人、白人双方の戸惑いや本心を知りたいという理由から手にしてみました。

ものすごく考えるところが多かった一冊でしたが、正直言って何に対して考えればいいのか
まだまとめきれずにいます。
読んでいて楽しくもなく、好きなタイプのストーリーでもないのですが
とても入りやすい文章で、けっこう没頭することができましたね。

内容は、やっぱり大きく人種問題にウエイトが置かれているのですがケースは様々です。
説明するのはすごく難しいのですが、読み終えて一冊まるごとの印象をひと言で言うなら
登場人物の温度差でしょうか?

本当は12話全部書きたいぐらいなんですが、特に印象的だったいくつかをご紹介します。

『究極のサファリ』
おかあちゃんが買物にいったきり戻って来ないので、おばあちゃんの家に行ったが
何も食べるものが無く、何人かの人たちと村を後にすることに決めた。
何日も何日も、誰にも見つからないようにクルーガーパークを越えて行く。
白人がキャンプで焼く肉の匂いを嗅ぎながら餓えたからだで歩き続ける。

幼い少女の目線で進められる物語です。
死と隣合せで歩く彼女は、バーベキューをしながら余暇を楽しいんでいる白人に対して
恨みや妬みはないみたいで、当たり前のことだと思っているようです。

『幸せの星の下に生まれ』
一家は息子の部屋が空いている間、ラッドという黒人の青年を下宿させた。
ラッドはおとなしく礼儀正しかった。
17歳の娘ヴェラは、彼とほとんど口を聞くことがなく、意識もしていなかったが
酔って帰ったある夜ラッドに介抱されてから彼に惹かれていく。

舞台はイギリスかな? ヨーロッパのどこかだと思われますが、テロの恐怖が
だんだん人ごとではなくなっている今日この頃、この話しには微妙な気にさせられます。
国を取り戻そうとする志と正当性と手法のギャップを
外国人はどういう立ち位置で見ていればよいのでしょうね?

『銃が暴発する寸前』
アフリカーナー(白人支配階級)ファン・デル・ファイヴェールは
自分の農場の使用人を撃って死なせてしまう。
狩りに行く途中の事故だったが、ファイヴェールはこの事故が世界中に報道され
彼らの運動の恰好のターゲットになると、きっとそうなると知っていた。

アパルトヘイトでも奴隷制でもそうだと思うけど、残酷な雇い主がいた一方
制度は制度として利用しながらも、人と人の付合いをしていた雇い主もいたと思うのね。
ただ、その制度下で起こったことはすべてが同一視されてしまう場合もありますよね。
一度糾弾が始まれば、どんなに違うと叫んでもその声はかきけされてしまうかもしれません。

『どんな夢を見ていたんだい?』
彼のために車を止めてくれる白人がいるわけもなく、黒人は金を要求するので
照りつける太陽の下をずっと歩き続けている。
しかし、青年と年配の女性の白人二人が乗った車が止まった。
青年の次から次への質問に、彼は白人が気に入りそうな返事を考えて返す。

“ 彼 ” はカラードといって、白人と黒人の両方の血を持っている人らしいのね。
だからどちらのこともけっこう冷静に、冷笑的に見ているような気がします。
助けてくれた人に対して、喜ぶような返事を(作り上げてでも)しようとする姿勢は
卑屈になっているわけではなくて、自然に身についたみたい。

ある問題を外部から眺める時、特に象徴的なものに焦点が当てられますね。
この問題にはこれ、この問題にはこれ、と刷り込まれているイメージに
ピッタリの対照が見つかった時、世間は容赦が無くなります。
事実とは多少違っても、イメージに合うように屈折してしまう危険もあります。

彼女が白人だからというわけではないと思いますが、悪制の象徴にされてしまった
南アの白人たちの戸惑いが読み取れるストーリーが印象的でした。

この『JUMP AND OTHER STORIES』は、アパルトヘイト完全撤廃の3年前に書かれていて
内外の撤廃運動が最高潮に盛り上がっていた時期だと思われます。

でも、渦中にいる人々の中にも、猛烈に反対運動をする人がいるかと思えば
なんの疑問も抱えずにいる人もいたり、当事者でありながら部外者みたいな人が
いたりするということが、なんとなく伺い知れますし
白人の中に広がる危機感の温度差も垣間見えました。
撤廃後も平坦な道のりではないんだろうな… という予感も抱かせます。

考えさせられることはたくさんありましたが(ここまで書いといていうのもなんですが)
あまり人種問題ということにとらわれすぎると難しく思えて、せっかくの良書を
私みたいに手にするのを避けて生きてしまうことになるかもしれませんね。
ストーリーだと思えば、面白いというと誤解を招くのかな?文章もテンポも良い一冊なので
興味がある方はぜひ読んでみて下さい。

フィクションとノン・フィクションの狭間を感じられる名著
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ひとことおやつコーナー
『マツコの知らない世界』でとりあげられ、すぐ売りきれちゃうというポテチが久々に入荷されたと聞き買ったさ!
塩は食べちゃったんだけどさ… 久々のポテチなので美味しかったけど… のりにはもっと期待しちゃうぞ


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ひとことK-POPコーナー
ソウル公演行った方、うらやますぃぃぃ! こんな時に、なぜなのぉ? スマホもパソコンも速度ダウン状態になって
YouTubeが見られなくなっている  Oddを聞いて妄想を膨らましております

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ポーランド王カジミェシュ4世妃 エルジェピタ

2015-05-11 23:03:09 | ポーランド王妃
さすがハプスブルク家! 子だくさん王妃
カジミェシュ4世妃 エルジェピタ・ラクシャンカ


1436~1505/在位 1454~1492

ヴワディスワフ2世を継いだヴワディスワフ3世はハンガリー王女エルジェーベト
婚約したものの、未婚で亡くなりました。

その後を継いだのはヴワディスワフ3世の弟カジミェシュ4世です。
王座に就くのを渋っていたんだけど、母后ゾフィア・ホルシャンスカに説得され
1447年に王になったので、王位は3年空いていました。
王、いなくてもよくないか? って話しになっちゃいますよね?

さて、そんな影響力大の母ゾフィアの力を弱めたとされる嫁エルジェピタ。

エルジェピタは、ヴワディスワフ3世と婚約していたエルジェーベトが
ハプスブルク家のドイツ王アルブレヒト2世との最初の結婚で生んだ王女です。
ドイツ王というのは次期神聖ローマ皇帝候補と考えていただければよいかと思います。

     

実はエルジェピタの生年ははっきりしていなくて、1436年から39年の間とされています。
エルジェピタと姉のアンネ、ヴワディスワフ3世とカジミェシュ、二組の縁談を
一気にまとめちゃおう!とポーランドの使節がジギスムントを訪ねたのが1436年で
エルジェピタに1435年生まれの兄ゲオルグがいることから1436年説が濃厚らしい。
生まれてすぐに縁談ですか… この縁談はまとまりませんでした。

いずれにしてもエルジェピタが生まれてしばらくすると、父アルブレヒトが戦死します。
ハンガリー王座はヴワディスワフ3世に持っていかれてしまいました。

1452年にカジミェシュとエルジェピタの縁談をまとめようと
使節を送ったのはまたまたポーランドでした。
この時は縁談がまとまって、二人は1454年に結婚しました。
エルジェピタは900人の従者を連れて来たらしい…

カジミェシュは、エルジェピタがあまり魅力的でないと聞かされていて
結婚を考え直そうとしていましたが、議会が許してくれませんでした。
この先が不安ですね… 王にほっとかれる王妃はけっこういますから…

けれどもこの結婚はとても幸せなものだったようです。
エルジェピタは毎年のように妊娠していて、13人のお子を生んでいます。
後年 “ 汝は結婚せよ ” と言われるようになる多産家系のハプスブルク家ですが
この頃からすでにそうだったんでしょうかね?
結婚を考え直さなくてよかったね、女性は見た目じゃないんだってば!

エルジェピタはカジミェシュに対して影響力を持っていたらしいのですが
政治的に目立とうとはしませんでした。
そのかわりといってはなんですが、王女たちの結婚にはかなりアクティブでした。
ここらへんもハプスブルク家っぽいね。

1457年、エルジェピタの弟ウラースローが後継ぎ無しに亡くなると
ハンガリーはマーチャーシュ1世が王座につきました。
ボヘミアは貴族ゲオルギーが王に選出されています。

エルジェピタは一家をあげてボヘミアとハンガリーの王位を要求します。
結果的には子供たちのうち11人が成人に達し、王子たちが各国の王位を継ぎます
王女たちも各国に嫁いでヤゲウォ家は躍進します。
そんなわけで、エルジェピタは “ 王たちの母 ” “ ヤゲウォ家の母 ” なんて呼ばれてました。

1492年にカジミェシュ4世が亡くなると、エルジェピタはドイツの芸術家を招いて
夫の墓所と棺を作りました。

その後は “ 国王の母 ” という威光を背負って政治的に目立つ… なんてことはなく
末の娘二人とクラクフで過ごしました。
1504年に病に倒れたのですが、なんの病気かはっきりしていないそうです。
翌年亡くなり、ヴァヴェル大聖堂の、夫と幼くして亡くなった二人の娘の隣に葬られました。

1496年に六女バルバラを結婚させていましたが
七女エルジェピタの縁談はまとめてなかったので、心残りだったでしょうね。
エルジェピタ(娘)はエルジェピタ(母)の死から10年後に、33歳で嫁いでいます。

縁談のこととかけっこうはしょりましたけど、お家のことは一生懸命やって
夫を支え、夫の治世をサポートし、政治には口出さないって、王妃の鏡よ!
もっと有名でもいい王妃ですよね。 そりゃあ、悪女より面白味はないかもしれないが…

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと園芸コーナー
だんなさんがFrancfrancで買って来て大切に育てているワイルドストロベリーの鉢をひっくり返して
ものすごく反省しました。 だって小さいんですもの…(言い訳です) 芽が出てよかったよぉ
ところで小さい白いツブツブはなんですの? 栄養剤ならよいが…
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『アウトサイド』エッセイを軽くみちゃいけなかったわ

2015-05-08 23:34:40 | フランスの作家
OUTSIDE 
1981年 マルグリット・デュラス

以前古本市で買ったんだと思うんだけど、すっかり忘れていた一冊。

私は、デュラスってたぶん2冊ぐらいしか読んだことないと思います。
『モデラート・カンタービレ』と『ラマン』かな?
どちらも感銘を受けた覚えはないのですが、独特の世界がある人だなぁ、と思っています。

で、どれどれ… とページを開いて、読み終えて、けっこう疲れました。

デュラスが新聞や雑誌のために書いたエッセイや、インタビュアーを務めた記事を
まとめたものですが、なんていうのでしょうね… 一筋縄ではいかない、という印象です。

前書きで、金欠でお金がほしかったから… と新聞や雑誌の仕事をうけた経緯を語ってますが
書いていた媒体はかなり幅広かったようです。
各々のポリシーによって書き分けていたのでしょうね… さすが。

27の章が六つのブロックにわかれています。
簡単に説明しますね。

第一ブロック『ある日、パリで』と第二ブロック『ストリート・ファイル』は
パリのおしゃれな風景やデュラスならではの視点で書かれる、パリらしい街角の出来事が
描かれていると思いきや…
8.二つの家庭を持つ男 と、9.カルメル会修道女が街に帰る日 を除いて
主に裁判所と司法への非難と思われます。

各章のネーミングからは想像がつかなかったんだが…
最初から、心して読まねばならんね! と身が引き締まりましたよ。

第三ブロック『ポートレート』は、16.マリア・カラス を除いてインタビュー記事。
ジャンヌ・モロー、メリナ・マルクーリ、バルドー、マーゴ・フォンテイン etc…
デュラスが厳選したって感じのそうそうたるメンバーに、単にインタビューするだけでなく
かなり主観の入り交じった人物像も書いています。どっちかっていうと褒め上げてますが…
このブロックはVOGUEに書いてたようで、他ブロックよりやわらかい印象です。

第四ブロック『サルトル、バタイユ…』は、サルトルとバタイユと画家フランシス・ベーコン
そして、ある編集者にインタビューした記事です。
ここは哲学のぶつかり合いっていうか、禅問答みたいで、さっぱり面白くなかったですけど…

第五ブロック『小さな人たち』は子供に関するインタビュー。
彼女が子供に批判的なのか好意的なのか、いま一つつかめませんでした。
子供だからってあまくみないところがフェアなのか?
小さくても一人前の人間として接するという教育方針によるものか…

第六ブロック『記憶』は、最もエッセイらしい部分でした。
24.ポロネギスープ考 を除き、デュラス自身の暗い過去が書かれていますが
37.強制収容所からもどった夫 は、ものすごく壮絶でした。
私は、このブロックで打ちのめされたような気がしています。

よく書いたな… とも思いましたが、同じ体験をした人へのエールかもしれないし
書くことで訣別したかったのかもしれませんね。
そんなに簡単に訣別できることではないと思いますが…

デュラスの、どちらかというと社会派な面が際立っている一冊ですね。
もう少し女性作家目線のエッセイ集があったら、ぜひ読んでみたい気がしています。

『ラマン』が自伝的な内容だと聞いたことがあるような気がするし
今回のエッセイからも、波瀾に充ちた人生だっただろうと想像できます。
私は作者の人生を深追いするタイプではないので、彼女のことをこれ以上知りたいとは
思いませんが、興味があったら伝記やWikipediaなどで調べられてはいかがでしょう?

『記憶』の章だけでも一読に値する、奥が深いエッセイ集でした
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



ひとことゲームコーナー
とうとうほしの島にゃんこにあきて “ 島のにゃんこがさびしがってるニャ ” のメールも無視している今日この頃…
今は ねこあつめ に夢中!! かわいいなぁ
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