まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スペイン王アルフォンソ13世王女 ベアトリズ

2017-02-21 22:14:41 | スペイン王妃・王女
初恋がかなわなかった長女
アルフォンソ13世王女 ベアトリズ・デ・ボルボン
チヴィテッラ・チェージ領主アレッサンドロ・トルロニア夫人


1909〜2002

スペイン王女編、最終回ですよぉ…
今まで読んでいただきありがとうございました。

アルフォンソ13世と王妃ビクトリア・エウヘニアには、五男二女のお子様がいました。
ベアトリズは三人目の長女です。
       
ベアトリズと妹のマリア・クリスティナは、他の王侯子女と一緒に
普通の学校に行きたいと熱望していましたが、許してもらえず
ロイヤル・パレス内で英国風の教育とマナーを受けていました。

英語とフランス語を学び、父とはスペイン語、母とは英語で会話しました。
歴史や宗教とともにピアノ、ダンスを習い、スポーツも大切ね!ってことで
水泳・テニス・ゴルフ・乗馬も習いました。
すごい… おけいこばっかりで疲れちゃいそう…

また度々姉妹で英国を訪れ、母方の祖母ベアトリスが暮らすケンジントン・パレスに
滞在して、動物愛護や赤十字の活動に参加しました。

18歳の時に社交界にデビューしたベアトリズは、20歳の時恋に落ちました。
相手はスペイン首相リヴェラの息子ミゲルです。
若い二人は幸せ一杯で、一緒に乗馬を楽しむ姿を見られたりしていました。
ビミョウね… これは身分違いの恋なの?

どうやら身分違いらしい… リヴェラ首相は二人の恋愛に気づくと「問題外!」と
息子を海外に行かせちゃったらしい。
中世だったら、これを機に王家にくい込んじゃおう! と考える親もいたでしょうが
冷静な人だったのか、スペイン王座はおいしくなかったか…

アルフォンソ13世は、伝統にしたがいカトリックの王子たちから婿選びを開始します。
イサベル2世王女エウレアリアの孫にあたるオルレアン家の三兄弟が有力で
長男アルヴァロが候補と思われました。
しかし、この縁談は、スペインの難局の中で中断されました。

1931年、王一家は国外へ逃亡します。
王妃ヴィクトリアと子供たちは、なんと、列車でパリに向かいました。
でも、さすが王一家ね、パリではサヴォイ・ホテルに落ち着いたそうですよ。

もともと不仲だったアルフォンソ13世とヴィクトリアの別居は確実なものとなり
ヴィクトリアと姉妹二人はまずロンドン、その後ローザンヌへ向かいます。
そこで母親と過ごしていましたが、1933年に父アルフォンソ13世に同行して
ローマに向かいました。

1934年、ベアトリズはチヴィテッラ・チェージ領主アレッサンドロを紹介されました。
当時のスペインの状況では、王子たちとの結婚は難しいと考えたアルフォンソ13世は
二人の結婚を承諾しました。

1935年に行われた二人の結婚式には52人の王侯貴族が参列し
千人にのぼるスペイン人がかけつけ、当時アルフォンソ13世と最悪の関係だった
母ヴィクトリアと兄アルフォンソもやって来て、一大イベントになりました。

アルフォンソ13世が1941年に亡くなり、第二次世界大戦が始まると
イタリアで暮らしていた一家はローザンヌへ疎開し、母ヴィクトリアと仲直りしました。
戦後はイタリアに戻って余生を過ごしました。
90歳の時に、雑誌のインタビューで逃亡時代などについて語っています。

お子さんは四人です。
孫のアレッサンドロはフィアットで働いてたらしいですよ。

2002年に93歳で亡くなりました。
前王ファン・カルロス1世はアルフォンソ13世の四男ファンの孫で
ベアトリズは父方の伯母にあたります。
異国で、故郷の王政復古をどのように思いながら見ていたのでしょうね?

              
                可愛らしい王女時代の写真




              
恋をかなえた次女
マリア・クリスティナ・デ・ボルボン
マローネ伯エンリコ・ウージェニオ・マローネ=チンザノ夫人


1991〜1996

生い立ちは姉ベアトリズとほぼ同じです。
1940年、マリアは王位継承権を放棄して、ローマで貴賤結婚をします。
もう、王位継承権なんてあったってねぇ…
貴賤結婚って言ったって、王座がなきゃ自分たちだってただの人なわけだし…
でも一応、旦那様は初代マローネ伯に叙位されました。

1996年に、クリスマスを王一族で祝うためスペインに帰国した際
心臓発作で亡くなりました。 85歳でした。

王家に生まれ、革命があって父王が廃位され、逃亡したり各国を転々としたりと
激動の一生でしたが、故郷で、幼年時代を送った宮殿で、家族に囲まれ
幸せな気持ちで逝かれたと思いたいですね。

(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)

ヨーロッパ各王国の終焉を描いた一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



ひとことK-POPコーナー
本日 SHINee FIVE 到着! とてもステキなMV Get The Treasure のメイキング見て驚いちゃったよ!! 
後ろのみなさん、CGかと思っていたらマネキンチャレンジ状態だったのね〜
ちょーアクティブなSHINeeが見事に引き立っていました!! みなさま、おつかれさまでした




   ヒフミド トライアルセット【小林製薬】
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スペイン王アルフォンソ12世王女 マリア・デ・ラ・メルセデス

2017-02-06 09:21:58 | スペイン王妃・王女
父の最愛の人の名を持つ薄幸の王女
アルフォンソ12世王女 マリア・デ・ラ・メルセデス・デ・ボルボン
両シチリア王子カルロ妃


1880〜1904

ワンポイント王アマデオとマリア・ビクトリアには三人お子様がいましたが、皆王子でした。
このうちの一人がスペイン王座を継いでいたら、歴史は違っていたかもしれませんね。

アルフォンソ12世が、初恋のマリア・メルセデスを亡くした後再婚した
マリア・クリスティネが待望の妊娠をしました。
出産が近づくと、パリからイサベル2世も立ち会うためにやってきました。

生まれてきたのは王女でした。 立ち会っていた王家一同がっかり… 議会もがっかり…
王子じゃないなんて… ということで、皆大きな失望を隠しませんでした。
なんなんだよぉ! 大変な思いをして産んだお母さんに失礼じゃないか!!

マリア・クリスティネはその場を穏便におさめましょう… と、王女にメルセデスという
夫の最愛の人の名をつけることを提案します。
名付けることは了承されましたが、本来なら王位継承者であるメルセデスは
帝王学を授けられず、ただの王女として教育を受けます。
母マリア・クリスティネの教育方針はたいへん厳しかったようです。
   
政治家のアントニオ・カスティロという人は、もともとマリア・クリスティネが嫌いで
その娘が女王として戴冠するなんて! 考えただけでムカつく!!ってことで
宮廷でもメルセデスのことを無視し続けました。

そうしたことが原因になっているのかどうかわかりませんが、メルセデスは恥ずかしがりで
生真面目で、人好きのしない少女に育っちゃったみたいです。

1899年、両シチリア王家の王子カルロとの婚約が発表されました。
成り行きはわからないんだけど、夫カルロはハンサムだったそうで
もしかして、どこかで会って恋に落ちましたかね?

婚約が発表されると、自由派から反対の声があがりました。
カルロにはなんの問題もなかったんだけど、お父様に問題があったようです。
カルロのお父様アルフォンソは第三次カルリスタ戦争で指揮官をしており
クエンカの強奪にも加担していたと言われていました。

また、両シチリア=ブルボン家は最も保守的なカトリックで
それも懸念材料のひとつとされました。
でも当時のスペインもかなり保守的なカトリックだと思えるんだけどね…
結局カルロは、両シチリア家の継承権を放棄してメルセデスと結婚しました。

このカルロという方は、メルセデス同様、恥ずかしがりで生真面目だったそうですよ。
静かな、というより、どーんよりした家庭になりそうな気が…

でもメルセデスは、最初からカルロに惹きつけられていて
「彼と結婚できて幸せ…」と書き記しています。

結婚後は母マリア・クリスティネの希望で、実家の近くで暮らします。
仲睦まじく幸せで、すぐに二人の子供が生まれました。

結婚から3年目、メルセデスは3人目の出産をします。
子供は死産だと思われましたが、生き延びました(しかも81歳の長生き)
しかし、メルセデスの様態は悪化し、亡くなります。

疎まれてる… と感じ続けて過ごした少女時代から、やっと幸せになって
人の目をきにせずのびのび生きられるっていうのに、24歳の若さでねぇ…
幸せな王女や王妃が、出産で亡くなるのがけっこう多いんですよね。
医学の進歩云々以前に、寝具や器具が不潔だったと言われてます。
ちょっと気をつけてれば多くの不幸がおこらずにすんだと思うと残念ですね。


             
おまけみたいですみません・・・
アルフォンソ12世王女 マリア・テレサ・デ・ボルボン
バイエルン公子フェルディナント妃


1882〜1912

メルセデスの妹マリア・テレサの生い立ちは、メルセデスとほぼ同様です。
24歳の時に従兄弟のフェルディナントと結婚しました。
フェルディナントの母は、イサベル2世王女マリア・パズです。
家系図はそちらをご覧下さい。

4人目のお子様の誕生日の8日後に亡くなっていますので、たぶん出産が原因かと…
29歳でした。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
行って来ましたよ〜
 SHINee WORLD 2017 ~FIVE~ 神戸ワールド 記念ホール
ジョンヒョンは脚の調子がまだよくないとメールがきていましたが、全曲ダンスにも参加してくれて感激!
『君のせいで』のオニュ!! ス、ステキすぎました…  Keyのミュージカル仕込みのダンス、最高でした!
あのすごいセットでのミノのダンス、さすがでした  テミンのかっこよさは言うまでもないですが、MCが面白すぎます!
あぁぁ… 3月の代々木は全滅だったので、4月までなんとか乗り切らなければ…
 
ウワサのペンラ、でかい… メンバーの衣装を着てるセサミストリートのキャラたち、かわいいでしょ!


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スペイン女王イサベル2世王女 エウラリア

2017-01-29 19:07:22 | スペイン王妃・王女
王を怖れさせた暴露本?
イサベル2世王女 エウラリア・デ・ボルボン
ガリエラ公アントニオ妃


1864〜1958

エウラリアは、イサベル2世の三男六女の末っ子です。
末っ子らしくのびのび育ったみたいなエピソード満載です。
教育は姉たち同様、亡命先のパリで受けました。

スペインへ帰国して9年後、22歳の時に従弟のアントニオと結婚しました。
結婚式は兄のアルフォンソ12世の崩御で数ヶ月延期されました。
     
結婚から2年後、二人目のお子様が誕生すると、エウラリアは夫と別居します。
スペインとパリの屋敷は維持していましたが、イギリスが好きだったようで
しばしばイギリスに滞在していました。

1893年、シカゴ万博を訪れ、ホワイトハウスでクリーブランドとも会っています。
アメリカに行く前にプエルトリコやキューバを訪れています。
後には、カルロス3世の子孫でありながら、Daughters of the American Revolutionの
メンバーとして認められました。

エウラリアは、作家として活動していましたが、主な作品は王室の暴露本。
1912年にペンネームで書かれ英訳もされた『The Thread Life』は
甥のアルフォンソ13世が「私が読んで許可するまで出版を見合わせてほしい」と
電報を打ったにもかかわらず、これを拒否して出版します。

家族と親戚たちとは連絡を取り合い、親交はあったようなのですが
貴族のサロンはザワついていたようです。
「これ自分かも…」と思った人もいたでしょうし、一般市民に知られたくない風習や
過去におこった貴族のおバカ丸出しエピソードなんか本にされちゃあね…
実際は、王女である彼女の教育や自立、階級や信教について書いてあったみたいです。

また、世界の政治情勢についても語っていて、とりわけ、
フランスとドイツには和平なんてありえない! という確信を示していました。
なぜかしら? フランク王国の取り合いに始まり、普仏戦争があり、第一次大戦があって
ずーーっと戦ってる印象があったかしらね。
たしかに第二次大戦でも敵になっちゃいましたが…

また、しばしばイタリアのムッソリーニについても言及しています。
甥のアルフォンソ13世は、イタリアのヴィットリオ・エマヌエーレ3世に倣って
ファシスト政権を樹立させ、国内の混乱を乗り切ろうとしていました。

彼女の著書には、しばしば当時のファシスト体制からの引用があったということで
ファシズム反対派ではなかったということなんでしょうかね?
甥がスペインで創った独裁体制を指示していたということかしら?

1958年に、スペインのフランス国境に近いイルンで、心臓発作で亡くなりました。

今なら、評論家やコメンテーターとして重宝しそうな女性ですね。
でも、現代においても王族にはちょいと困ったタイプかも… 正直すぎてね。

ちなみに、エウラリアの次男ルイス・フェルナンドは、麻薬がらみで王位継承権を
剥奪されたことをはじめ、けっこうワイルドな人生を送ってます。
お兄ちゃんのアルフォンソは真面目そうなんですけどね。

              
                辛口コメントをしそうな感じ?

(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)

ヨーロッパ各王国の終焉を描いた一冊
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ひとことK-POPコーナー
いよいよ SHINee WORLD 2017 ~FIVE~ が始まりましたね! ジョンヒョンの足は大丈夫だったのでしょうか?
レポではほとんど椅子に座っていたということでしたが、一番悔しい思いをしているのはジョンよね…
それでも欠席せずに日本まで来てくれて、歌声を聴かせてくれてありがとう〜! でも無理しないでちゃんと治してね
これからのツアー、楽しみにしてます!!


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スペイン女王イサベル2世王女 マリア・デ・ラ・パズ

2017-01-19 21:43:14 | スペイン王妃・王女
相思相愛の夫を得た王女
イサベル2世王女 マリア・デ・ラ・パズ・デ・ボルボン
バイエルン王子ルートヴィヒ・フェルディナント妃


1862〜1946

前回よりさらに長いです… 最後まで読んでいただけるとよいのですが…

イサベル2世には三男六女のお子様がいましたが
長男、次女、三女、三男は幼くして亡くなっています。
四女マリア・ピラールは18歳で急死しました。

マリア・パズは五女です、が、父親はカディス公ではなく、イサベル2世の秘書をしていた
政治家で外交官のミゲール・デ・カスティラだと言われています。
カスティラは老後、マリアの屋敷の一部を与えられ、亡くなるまでの26年間を過ごしました。
やはり他人ではなさそうですね。

マリア・パズは、イサベル2世の娘たちの中で一番母親似で、地味な顔立ちでした。
強い個性は無く、気さくで親切、ロマンティックで芸術的。
スペインの歴史と詩を書くのが大好きで、絵も上手でした。
またオペラや舞台の鑑賞が好きで、自らハープの演奏もしていました。

18歳の時、従兄のバイエルン王子ルートヴィヒとの縁談がもちあがります。
        
ルートヴィヒの母親は、イサベル2世の従姉妹にあたるアマーリエで
息子とマリア・パズの結婚を望んでいました。
アマーリエは人柄を重視したそうですが、ルートヴィヒは、マリア・パズの
ポートレイトを見て決めたそうです。 どれかしら? これかしら?
               
さぁ! ここからはルートヴィヒのプロポーズ大作戦をお送りします。

マリア・パズの兄アルフォンソ12世は、ミュンヘンでしばらくルートヴィヒと
学友だった時期があり、お友だちってことで彼を招待します。
マリア・パズは、ルートヴィヒがやって来た日のことを日記には記していますが
あまり魅力は感じなかったようで、結婚はイヤだなぁ…と思ったようです。

マリア・パズはルートヴィヒのプロポーズを断ります。
しかし、ルートヴィヒはあきらめるもんか! 受け入れてくれるまで待ちますとも!!

2年後、マリア・パズはまだ未婚でした。
1833年、ルートヴィヒは再びスペインを訪れ、二人で庭園を散歩中プロポーズ。
マリア・パズも今回は結婚をOKしました。

一度はフッた相手ですが、マリア・パズにとって、この結婚は大正解だったと言えましょう。

二人は結婚後、ミュンヘン郊外のニンフェンブルクに落ち着きました。
ルートヴィヒはものすごい音楽家で、オーケストラでヴァイオリンも弾いていました。
ミュンヘン大で薬学を学んでいました。
軍隊ではハイランクでしたが、政治的策謀は嫌いで、宮廷生活は避けていました。
マリア・パズも芸術家気質だし、演奏もするし、すごく気が合いそうね。

夫婦はニンフェンブルク宮殿での静かな暮らしを愛していました。
スペインから芸術家を呼び寄せて、彼らのパトロンもしていました。
長女ピラールは画家になっているのですが、両親の趣味の良さと
多くの芸術家に囲まれた暮らしが影響していたかもしれませんね。

また、多くの時間をチャリティーに費やし、貧しい子供たちの保護施設を拡大
1913年にはミュンヘンに学校を設立しています。

実家との交流は続いていて、姉のイサベルや義姉マリア・クリステュネとの文通で
スペインの様子を聞いていました。
長男フェルディナントは、アルフォンソ12世王女マリア・テレサと結婚しました。
第一次世界大戦後、一家の富は一気に落ちぶれましたが
度々王族としてスペインに招かれ宮廷で過ごしました。
束の間、日々のやりくりの苦労が忘れられて幸せだったかもしれませんね。

しかし、追い打ちをかけるように、甥のアルフォンソ13世が廃位され
マリア・パズの権利によるスペインからの収入が途絶えます。
さらにさらに、ヒトラーの台頭で暮らしは切迫していきます。

バイエルン王家の主派と違って、ルートヴィヒが属するアルベルティン家は
ナチに対して反抗的ではなく、夫婦の息子と二人の孫もドイツ軍に従軍していました。
それでも、ナチは王家締めつけの手は緩めず、家宅捜査され、手紙類も開封されました。

1945年、やっと終戦か… と思ったら、アメリカ軍がやってきて
一家が暮らす邸宅も襲われました。
困窮中も守ってきた、母イサベル2世の形見の宝石も奪われてしましました。

終戦後は、反戦派の市民や連合国側から見れば、ヒトラーの登場を招いた貴族社会、
ナチに加担した王族ってことになって、たたかれる対象になっていたかもしれないです。

一年後、マリア・パズは階段から落ちて、数時間後に亡くなりました。
84歳でした。 夫ルートヴィヒはその3年後に亡くなりました。

“ パズ ” というのは “ 平和 ” という意味だそうです。
平和への願いが込められた名を持ち、家族との平和で静かな生活を望んでいた女性の晩年が
戦争によって、踏みにじられてしまったかと思うと哀しいですね。
             
(Wikipedia英語版)

ひとことゆるキャラコーナー
みなさまはとっくにご存知だったのでしょうけど、ニャンゴ・スター! かわいいね!!
しゃべらないで口もとに手をあてる仕草もCute〜 「おいおい」しゃべるかも…ということですが、このままでいてほしい


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スペイン女王イサベル2世王女 イサベル

2017-01-07 17:05:36 | スペイン王妃・王女
悲劇のハネムーンとその後
イサベル2世王女 イサベル・デ・ボルボン・イ・ボルボン
ジルジェンティ伯ガエターノ妃


1851〜1931

今回、ちょいと長いです。

イサベルはイサベル2世の長女です。
長男のフェルナンドは生まれてすぐ亡くなりました。

父親のカディス公は、子供たちに冷たく、よそよそしかったようです。
(ウワサどおりホモセクシャルで不能だったとしたら、自分の子じゃないんだもんね)
母親のイサベル2世も目まぐるしい統治と私生活に追われて
子供たちにかまわないことがよくありました。

イサベル2世は、長女イサベルに目をかけていたみたいで、多くの教育を施されました。
特に語学には力が入っていたみたいです。 どこにお嫁にいくかわからないものね。
イサベル自身は音楽と馬術が好きでした。

政治的理由から、両親の従弟にあたるガエターノとの結婚が持ち上がります。
ガエターノがスペインに到着すると、急ピッチで話が進められ数週間後に結婚しました。
イサベルは17歳、ガエターノは22歳でした。
       
ガエターノは、背が高く(お写真によるとハンサムで)心優しい人でした。
一方、イサベルは背が低く、従順でしたが保守的で頑固な性格でした。
似合いそう…っちゃあ似合いそうな二人ですね。

しかし、王家を守っていかなきゃいけない激動の時期に、なんで彼を選んだのかと思うんだが
ガエターノはからだが弱く、あまり知的ではなく、心も病んでいました。
家柄だけでよかったんですかね?
              
                お写真があるのでのせときます

結婚後、二人は、ローマやウィーン、フランスなどを巡る旅に出ます。
一応ハネムーンなんだけど、ガエターノの療養先を探すのがねらいでした。
なかなか見つからなかったんでしょうか? 旅は2年に及びます。

二人はスイスに落ち着くように思えましたが、ガエターノはそこで頭を射って自殺…
結婚生活は3年で終わりを告げました。

一生懸命尽した挙げ句に自ら命を絶たれてしまうなんて
女性にとっては大きな心の傷になりそうですね。
20歳の若い未亡人イサベルは喪に服すと、イサベル2世が亡命しているパリに戻り
弟や妹に勉強を教えたり、独りで暮らしている父親を訪ねたりして静かに暮らしました。

心に傷を負ったままイサベルのストーリーは終わってしまうのか… と思っていたら
1875年、イサベルの人生の第二幕が始まります。

弟のアルフォンソ12世が、スペイン共和国王として呼び戻されました。
未婚だったアルフォンソ12世は、ファーストレディとしてイサベルを選び
1ヶ月後にイサベルもスペインに戻ることになりました。
頼もしいお姉ちゃんに側にいてほしかったのかしら?

スペインでは、イサベルを再婚させようとして、バイエルン家か
ハプスブルク=ロートリンゲン家のどちらか… と縁談を進めていました。
イサベルが嫌がったのか二つの縁談は失敗し、イサベルは、妹の教育や
弟の妃メルセデスの世話にうちこみました。

メルセデスが亡くなった後、マリア・クリスティネをプッシュしたのもイサベルでした。
アルフォンソ12世の死後は、摂政になったマリア・クリスティネをサポートして
甥や姪から “ 第二のお母さま ” と慕われました。

イサベルは、アルフォンソ12世時代、甥のアルフォンソ13世時代で
宮廷でもっとも一目置かれる存在で、アルフォンソ13世失脚後は
共和国から国にとどまってほしいと懇願されましたが、これを拒否します。

イサベルは、宝石のほとんどを甥のアルフォンソ13世に譲り渡し亡命します。
そして、パリ到着後数日で亡くなりました。

意志が固い人だったみたいですね。
3年間だけ連れ添った夫を失った後は、まるで家族と国のためだけに生きてたみたい。
もしかしたら、もう再婚したくないほど辛い3年間だったのかもしれないけど
ロマンティックじゃないので、亡き夫への愛ゆえに… ということにしちゃいましょう。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことごあいさつコーナー
遅蒔きながら、あけましておめでとうございます
今年の年明けは、やっと当たった東急ジルベスターコンサートのダッタン人の踊りで華々しくむかえました!うふふ
良い年になるといいなぁ… 良い年にしたいなぁ…


   
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スペイン王フェルナンド7世王女 ルイサ・フェルナンダ

2016-12-31 00:38:41 | スペイン王妃・王女
王座の行方を背負わされた王女
フェルナンド7世王女 ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン
モンパンシェ公アントワーヌ・オルレアン妃


1832〜1897

フェルナンド7世は4回結婚してます。
一人目の妃マリア・アントニアとの間にはお子様がはいません。
二人目の妃マリア・イサベルは王女を二人産みましたが
長女は5ヶ月で亡くなり、次女は死産でした。
三人目の妃マリア・ヨーゼファにもお子様はできませんでした。
四人目の妃マリア・クリスティネとの間に生まれた三女がイサベル2世です。

ルイサ・フェルディナンダは四女でした。

ルイサの姉イサベルは、ずっと従兄のカディス公フランシスコと婚約していました。
フランシスコは、ホモセクシャルで、性的に不能と言われていて
フランス王ルイ・フィリプ1世は、イサベルには子供ができないはず! と考え
ゆくゆくはスペイン王座をわが家に… と画策します。

手っ取り早いのは結婚ですね!
1846年、14歳のルイサは、22歳のルイ・フィリプ1世王子アントワーヌと結婚します。
姉のイサベル&カディス公とW婚でした。

アントワーヌはスペイン継承権を手に入れ、一度フランスへ帰国しますが
その後セビリアに入り、王位継承に備えました。
狙いまくってる家系図をどうぞ!!
    
しかし! なんということでしょう!!
イサベル2世は予想に反して、どんどん嫡子を産むっていうじゃない!!
アントワーヌは待ちきれなかったのか、イサベル2世に対して次々謀略を企てます。
ルイサが加担していたかどうかは不明ですが、姉妹の仲はかなり張りつめていたようです。

1868年、退位させられた姉イサベル2世ともども、母がいるフランスに亡命します。
母親と再会した窮地の姉妹、少しは仲直りできたのかしらね?

1870年、ルイサは夫アントワーヌが亡くなるとセビリアに戻り余生を送りました。
ちなみに、姉イサベル2世はフランスで余生を過ごしています。

9人のお子様のうち、五女マリア・メルセデスはイサベル2世王子アルフォンソ12世と
三男ガリエラ公アントニオはイサベル2世王女エウレリアと結婚しました。
エウレリアについてはまた今度…

ルイサのパーソナリティがまったくわかりません。
ミエミエの政略結婚ですが、結婚後は幸せだったのでしょうか?
義父や夫とともに王座を狙っていたのか、板挟みで苦しんでいたのか知りたいところですね。

              
               少女時代でしょうか?かわいいですね

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことごあいさつコーナー
ゆるゆるなブログに、今年も1年お付き合いいただきありがとうございました
今年のアップはこれで最後になります
みなさま、良いお年を〜


   
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スペイン王カルロス4世王女 マリア・イサベル

2016-12-22 21:39:19 | スペイン王妃・王女
天然キャラで人気者
カルロス4世王女 マリア・イサベル・デ・ボルボン
両シチリア王フランチェスコ1世妃/バルツォ伯フランチェスコ夫人


1789〜1848/在位 1825〜1830

マリア・イサベルは、カルロス4世とマリア・ルイサ・デ・パルマの五女です、が
実はマニュエル・ゴドイの娘らしい… と言われています。

13歳の時に、12歳年上のパルマ公子フランチェスコと結婚しました。
フランチェスコは再婚で、最初の妃はマリア・クレメンティーナです。
彼女のお母さまは、カルロス3世王女マリア・ルイサでした。
     
さ! エピソードが多いのではしょっていきますよ!!

結婚から4年後にナポレオンのイタリア半島侵攻があって、王一家はパレルモでの
逃亡暮らしを余儀なくされますが、お姉様のマリア・ルイサと違って
政治に興味も野望もないマリア・イサベルは、フランチェスコと幸せに暮らしてました。
お子様も13人とこだくさんです。

マリア・イサベルは、カルロス4世の、地味目な顔立ち四姉妹の中では
比較的整った顔立ちだったそうですが、幼く見えるせいで
結婚当時パルマではあまり良い印象を持たれませんでした。
でも、性格が良くて従順で、姑のマリア・カロリーナとは正反対、ってことで
徐々に人気を得ていきます。

相次ぐ出産のせいで、マリア・イサベルは徐々に太っちゃったらしい…
ちょっとおマヌケで、お人好しで子供好き… 下町の近所のおばさんみたいですね。
劇場と舞踏会と祝典が大好き!という無邪気な人で、結果的に夫より人気者に。

1925年に、フランチェスコが両シチリア王になります。
マリア・イサベルは王妃になっても、子育てに大忙しで政治どころじゃなく
ただ王の隣にいるだけで、なんら政治的な役割は果たしませんでしたが
優しい物腰と寛容な性格で、相変わらず人々から好かれていました。

1830年、王女マリア・クリスティーナと、スペイン王フェルナンド7世の結婚で
里帰りをしましたが、パルマに戻ってからしばらくしてフランチェスコ1世が亡くなります。

さ、皆さーん! ここからがマリア・イサベルならではのエピソードですよ!!

マリア・イサベルは、息子のフェルディナンド2世が即位してからも
母后としてシチリア宮廷に残りましたが、人気者のままでした。
息子も母親に敬意を払い、大切にしてくれました。

しかし、未亡人になった時、マリア・イサベルは41歳。
若くてハンサムな高官に弱くて、フラフラ恋人を作っちゃったらしいのね。
既婚のオーストリア士官と激しい恋に落ち、2年後に士官の妻が死亡すると
結婚しようとしたりしますが、これは相手の強欲によって叶いませんでした。

でもやっぱり独りは寂しい… というわけで、マリア・イサベルはフェルディナンド2世に
「結婚させて!」と願い出ました。
母親の行いに頭を悩ませていたフェルディナンド2世は、この願い出を承諾し
結婚にふさわしそうな貴族のリストを作成して、母親に手渡しました。

マリア・イサベルは、リストからバルゴ伯フランチェスコを選び、1839年に再婚しました。
この旦那さん、若かったらしいよ。
いくら王家の仲間入りができるといっても、選ばれて嬉しかったんだろうか?
当時なら、家柄アップができて、家族も大喜び!でよかったのかもね。

けっこう顰蹙を買いそうな再婚だったのですが、マリア・イサベルは、親しみやすさと
貧しい人たちへの優しさから、1848年に亡くなるまで、人気者のままだったそうです。
キャラクターって大事ですよね!!

どの国も王制自体がユラユラしてて、国の存続も危ういと右往左往してる時期に
けっこう楽しく人生を送れた女性なんじゃないでしょうか?
政治的野心があったら、きっと気が休まらなかったのではないかと思いますが
無欲だったことが彼女の幸せな人生を招いたのかもしれません。

              
             お嫁入りのころでしょうか? かわいいですね

お子様のうち、王女ルチアは、マリア・イザベルの弟カディス公フランシスコと結婚
マリア・クリスティーナは(上記のように)兄のフェルナンド7世妃に
マリア・アントニアはトスカーナ大公レオポルト2世妃になっています。
娘さんたちはけっこう激動の人生を送ってますね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことアイドルコーナー
わたしはSMAPファンじゃないんだけど、このあいだのSMAP×SMAP見てたら泣けてきちゃった
タモリと楽しそうに会話してても、椎名林檎と歌ってても、本当にラストなのか… と思うと涙が出ちゃって…
私でさえそうなのだから、ファンの皆さんは本当に寂しく哀しいですよね?
31日に奇跡がおきないかと、微力ながら祈っております。


   
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スペイン王カルロス4世王女 マリア・ルイサ

2016-12-16 21:32:55 | スペイン王妃・王女
反ナポレオンの急先鋒
カルロス4世王女 マリア・ルイサ・デ・ボルボン
エルトリア王ルドヴィーコ1世妃


1782〜1824/在位 1801〜1803

マリア・ルイサは、カルロス4世とマリア・ルイサ・デ・パルマの四女です。

お姉さんのマリア・アマリアのところでは(結果的に)姉の結婚相手を奪ったところばかり
クローズアップしてしまいましたが、どんな女性だったんでしょうね?
かなりエピソードがあるので、はしょっていきますよ。

ルドヴィーコと出会った頃のマリア・ルイサは、濃い色の巻き毛で、茶色の瞳と
ギリシャ風の鼻を持つ、とりたてて美しくはない少女でした。
でも表情が豊かでイキイキしていたそうで、陰気な姉よりは、そりゃあね…

マリア・ルイサは、若い頃から「スペインを狙ってるね!」と
ナポレオンの動きに注目していました。

結婚から6年後の1801年、ナポレオンは、まずイタリアを征服。
ブルボン家からパルマを取り上げると、かわりにトスカーナにエルトリアを建国し
ルドヴィーコを王にします。
懐柔策ですよね? マリア・ルイサとしてはどんな気持ちだったでしょう?

ところが、ルドヴィーコはもともと胸が弱く、子供の頃に頭を打った後遺症もあって
年をおうごとに症状が重くなり、即位から2年後に30歳で亡くなりました。
     
王位を継いだ息子カルロ・ルドヴィーコの摂政に就いたマリア・ルイサは
自分の収入から政府をサポートしようとしますが、ナポレオンは
エルトリアに力を持たれちゃっても困るんだよね〜、と財政を縮小しました。

その上、1807年には、マリア・ルイサとカルロをエルトリアから退去させ
自分の領地に併合してしまいました。

マリア・ルイサは、ナポレをンに面会し、追放先をスペインにしてほしいと要求しました。
悔しかったでしょうねぇ… 自分の夫と息子をいいようにあっちやったりこっちやったりされて
その上お願いごとまでしなくちゃならないなんて…

しかし、スペインも安泰ではありませんでした。
マリア・ルイサがスペインに到着した時、スペインはアランフェスの暴動で混乱に陥っていて
父王カルロス4世は退位し、マリア・ルイサの弟フェルナンド7世が即位しました。

ナポレオンは、カルロス4世とフェルナンド7世を、「仲裁したげる!」と
フランスのバイヨンヌに招きます、が、結局、弟ジョセフ(ジョゼ)を
王としてスペインに送り込みました。

ナポレオンはその後、スペインに残っていた王一家をフランスに招き
マリア・ルイサは両親に再会しました。
またまた、悔しかったでしょうねぇ… 2回も国を奪われるとは…

マリア・ルイサは、スペイン王室で唯一、面と向かってナポレオンに歯向かった人物でした。
フランスからの逃亡も試みましたがバレてしまい、息子とも引き離されて
修道院に入れられてしまいました。

1814年、待ちに待ったナポレオンの失脚により、自由になったマリア・ルイサは
息子のために、パルマの領地奪還にかかりました。
けれども、ウィーン会議は認めず、代わりにトスカーナのルッカ公領を与えました。
これは、マリア・ルイサがもと(エルトリア)王妃だったことが大きく物を言ったみたい。
そうでなかったら、もっと小さい伯領になってたか、何も与えられなかったかも…

マリア・ルイサは、「なにがルッカだよぉ!」とふてくされていましたが
3年後の1817年にやっと(しぶしぶ)政府を立ち上げました。
でもルッカのことは無視し続け、ローマで暮らしていました。

それでも晩年は、夏はルッカ、冬はローマと行き来してたみたいです。
1823年にローマで体調を崩し、癌で亡くなりました。

夫のルドヴィーコ1世が亡くなった時、マリア・ルイサは21歳で、まだまだ再婚できたのに
息子の摂政として奮闘し、ナポレオンに対抗し、ウィーン会議にも働きかけ…と
政治に明け暮れた一生でしたね。
なかなか気骨がある女性だったとお見受けします。

このパワーでこられたら、(お姉さんの)マリア・アマリアは
とても太刀打ちできなかったでしょうね。

              
             たぶん未亡人になったばかりの頃と思われます
                     決然とした表情が印象的ですね


(参考文献 藤沢道郎氏『物語イタリアの歴史』 Wikipedia英語版)

イタリアの歴史を、有名な人物を登場させ読みやすく
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね




ひとことK-POPコーナー


見ていただけました? FNS歌謡祭! 短い出番だったけどステキだったなぁ… お衣装新調したのかしら?
“ SHINee 真ん中の人 ” で検索急上昇ですって‼️  ダンスがキレッキレのマンネ(末っ子)テミンも素敵ですが
笑顔と声がやさしすぎて癒されまくるリーダー・オニュ、ソフトからパワフルまでなんでも歌がうまいジョンヒョン、
熱く燃えてるペンサ神・ラップのミノ、一番日本語が上手なお肌のキレイな万能キー、5人みんなをよろしくぅ


    
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スペイン王カルロス4世王女 マリア・アマリア

2016-12-05 21:36:17 | スペイン王妃・王女
やぶれかぶれ婚の果てに…
カルロス4世王女 マリア・アマリア・デ・ボルボン
ラルロス3世王子アントニオ・パスキュアル妃


1779〜1798

これから書く、彼女のエピソードを暗示してるような肖像画なんですけど…
他に無いものかと探してはみたんだけど、見つからなかったのよぉ!
昔のポートレートといえばお見合い写真みたいなものじゃない?
もう少しなんとかならなかったのだろうか? 

気をとりなおしまして…

カルロス4世とマリア・ルイサ夫婦は(誰の子かってことはおいといて)
八男六女の子だくさんでしたが、7人は幼くして亡くなっています。
王女で成人したのは、長女・三女・四女・五女です。

長女カルロッタ・ホアキナは、ポルトガル王ジョアン5世妃になります。

三女マリア・アマリアの結婚相手は、母マリア・ルイサがアレンジして
従兄のルドヴィーコに決まりました。

1794年、マリア・アマリアが15歳の時に、21歳のルドヴィーコがスペインに到着し
結婚準備に入りました。
が、しかし! ルドヴィーコは、結婚相手を四女マリア・ルイサにチェンジ希望!!
        
マリア・アマリアは陰気で恥ずかしがりや、そして、取り立てて魅力がない少女でした。
一方マリア・ルイサは、13歳で、朗らかで、容姿も “ マリア・アマリアよりは ”
良かったということです。

カルロス4世とマリア・ルイサは、お婿さん候補の突然の心変わりを容認したものの
さー! 落ち込んだマリア・アマリアはどうするよ!? と、焦ります。
とにかく、妹が姉の元婚約者と先に結婚するという屈辱だけは避けなければ!と
相手選びに躍起になりました。

そこで選ばれたのが、カルロス4世の弟、つまり、マリア・アマリアにとっては叔父の
アントニオ・パスキュアルでした。
なにしろ時間が無かったので、ものすごく手近なところで選んじゃったって感じですね。

お父さんの弟ですからね… 歳はぐっと上の39歳。
あまり知的とは言えず、ガーデニングと農業と狩猟ばかりやって過ごしてました。
ま、兄(カルロス4世)も兄だし…

で、マリア・アマリア&アントニオと、マリア・ルイサ&ルドヴィーコは
なんと、同じ日に挙式し、その後もスペイン宮廷で生活してました。

どうなんだろう…? 仲良くやってたのかな? いがみ合ってたのかな?
妹やその夫を見るたび、屈辱感とか敗北感とか感じなかったのかな?
王子の妃だから、マリア・アマリアの方が宮廷では位が上なのかしら?
気になるわ〜

1798年秋、マリア・アマリアは初めての出産をします。
ものすごい難産で、子供の肩がつかえて、医師が取り出すこともできませんでした。
王子は死産で、マリア・アマリアも2日後に亡くなりました。
直訳すると “ 悶絶の末 ” ということです。つらかったでしょうね。

なんのための18年間だったのか… 結婚が決まる15歳までは幸せだったかも…
幼い頃のエピソードが無いので、そういうことにしておきましょう。

              
             もう1枚見つけたので… 少し微笑んでますね

さて、姉の夫を奪ってしまった妹マリア・ルイサは… つづく

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
相次ぐグループの解散には驚かなくなってきていたんだが、2NE1は驚いた!
最も成功した女性グループのひとつなのにね… それぞれの道で輝き続けてほしいですね


             
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スペイン王カルロス3世王女 マリア・ホセファ

2016-11-24 23:20:57 | スペイン王妃・王女
肩身が狭い実家で暮らし続けた王女
カルロス3世王女 マリア・ホセファ・デ・エスパーニャ


1744〜1801

フェリペ5世を一瞬継いだルイス1世と王妃ルイサ・イサベル・デ・オルレアンスには
嫡子がいませんでした。
さらに、弟フェルナンド6世とバルバラ・デ・ポルトゥガルも嫡子なしでした。

その弟カルロス3世とマリア・アメリア・デ・サホニアには、次々と王女が生まれましたが
三女までは5歳まで育ちませんでした。 マリア・ホセファは四女です。

妹のマリア・ルイサがトスカーナ大公レオポルドの妃として嫁ぐと
マリア・ホセファは、ナポリ・シチリア・スペイン三国の王女として
宮廷で最高位の女性になりました。
       
それで居心地が良くなってしまったのかしら? 結局未婚でズルズルと…

実はルイ15世王妃マリー・レクザンスカが1768年に亡くなった時
マリア・ホセファとの結婚話が持ち上がったのですが、58歳のルイ15世が
「若い彼女を怒らせることになるだろう」と拒否したそうです。
ルイ15世〜、なにをおっしゃいますやら!
翌年にはデュ・バリー夫人を愛妾にしちゃうくせに〜

1788年に父のカルロス3世が亡くなって、弟カルロス4世が即位すると
王妃マリア・ルイサが宮廷を支配するようになります。

44歳のマリア・ホセファと、37歳のマリア・ルイサは、仲が悪かったらしい。
たしかに、気が合わなそうな二人ですよね。

でも行き場が無かったのか、王女としてのプライドがそうさせたのか
マリア・ホセファは宮殿に居座り続けました。
カルメル派の修道女を援助するなどの活動はしていましたが
派手な義妹マリア・ルイサのせいで、あんまりパッとしたエピソードはありません。

弟のカルロス4世が、廃位・追放になる前の1801年に亡くなりました。
追放先にまで一緒に行くわけにもいかなかっただろうから、良かったかもしれませんね。

亡くなった後のことは自分でアレンジしていて、聖テレサ修道院に埋葬されましたが
1877年にエル・エスコリアル修道院の王廟に移されました。

               
                お若い頃でしょうか? 真面目そうですね

仲睦まじかったカルロス3世とマリア・アメリアには、六男七女のお子様が生まれていますが
王女の中で成人したのは、マリア・ホセファと、五女マリア・ルイサだけで
六女マリア・テレサと七女マリア・アナは1歳で亡くなっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
ファンミ行って来ましたぁ! さいたまスーパーアリーナへ!!

SHINee 5th Anniversary Party 楽しかったなぁ
でも 1 of 1 のコールはまだまだ練習しなければ!
最後にテミンが言った「明日もお仕事頑張ってください」で、今日1日頑張れた気がする…
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スペイン王フェリペ5世王女 マリア・アントニア

2016-11-15 20:27:12 | スペイン王妃・王女
見た目じゃないのよ夫婦ってものは
フェリペ5世王女 マリア・アントニア・デ・エスパーニャ
サルディーニャ王ヴィットリオ・アメデーオ3世妃


1729〜1785/在位 1773〜1785

マリア・アントニアは、フェリペ5世とイサベル・デ・ファルネシオの三女です。
最初にルイ15世王太子ルイと縁談が持ち上がったのはマリア・アントニアでした。

しかし、母イサベルが「幼い」と言って、結婚を先延ばしするよう主張したため
3歳年上のマリア・テレサが嫁ぐことになりました。

マリア・テレサが亡くなると、兄フェルナンド6世が「妹のマリア・アントニアは
どうかしら?」と持ちかけますが、ルイ15世が「(義理の妹との)近親相姦になるから」と
拒否します…へんなとこでカタいのよね、ルイ15世。

21歳の時に、マドリッドとトリノの協力関係を強めるために
サヴォイ公ヴィトリオ・アメデーオと結婚します。
この結婚でトリノの宮殿は改装され、オペラも作曲されるという盛り上がりぶり。
                
二人の肖像画を見るとそんなことはないと思えるのですが
夫婦は周囲から、あまりお似合いだと思われていなかったようです。
どちらかの肖像画がかなりレスポンス入っているのかしら? もしかして二人とも?

でも、お二人は終生仲睦まじかったらしいですよ。
夫婦を見た目で判断しちゃダメ!ってことね。

二人は政治的な思想も同じだったのか、近代思想家や政治家を侍らせていました。
また、敬虔なマリア・アントニアは宮廷にスペイン式作法を取り入れました。

で、肖像画+エピソードから、目立ちたいタイプかと思ったら
すごく恥ずかしがりやで、気だるそうなタイプの人だったそうです。
もしかしたら、政治家に囲まれて嬉しそうにしてたのも、夫の手前かもしれないですね。

王子のカルロ・エマヌエーレ4世はマリーア・クロティルデと結婚します。
姑と嫁はすごく仲が良かったそうです。 うらやましいことね…
マリーア・ジョゼッピーナが、後のルイ18世に
マリーア・テレサが、後のシャルル10世に嫁ぎました。

見事な政略結婚ぶりをどうぞ
     
マリア・アントニアは1785年に56歳で亡くなりました。

ヴィットリオ・アメデーオ3世は59歳で、再婚も考えられる年齢でしたが
男やもめのまま11年を過ごし亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことフェスコーナー
ジミー・ペイジが演奏しなかったってことで、逆にもりあがっちゃってる感がある
THE CLASSIC ROCK AWARDS 2016 + LIVEですが、豪華な顔ぶれでしたよね?
まぁ、ジミー・ペイジのソロ見たさに30万のチケットを買った方の気持ちはわからないでもないですけど…
主催者側の「出演者たちの年齢を考慮し…」ってところにビミョウにウケてしまった
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スペイン王フェリペ5世王女 マリア・テレサ

2016-11-11 16:04:21 | スペイン王妃・王女
ポンパドール夫人のキューピッドになっちゃった王女
フェリペ5世王女 マリア・テレサ・デ・ボルボン
フランス王太子ルイ妃


1726〜1746

ここからしばらく王妃が続きます。

フェリペ3世とマルガリータ・デ・アウストリアの長女アナはフランス王ルイ13世妃に、
次女は死産、三女マリア・アナは神聖ローマ皇帝フェルディナント3世皇后に、
四女は1歳で亡くなります。

フェリペ4世とイサベル・デ・ボルボーンには6人の王女がいましたが
長女から五女までは死産か幼くして夭逝、六女マリア・テレサがフランス王ルイ14世妃です。
二人目の妃マリアナ・デ・アウストリアとの間に生まれた七女マルガリータ・テレサ
神聖ローマ皇帝レオポルト1世皇后になります。八女は生まれて1週間で亡くなりました。

カルロス2世と二人の王妃マリア・ルイサ・デ・オルレアンス
マリアナ・デ・ネオブルゴには、お子様がいませんでした。

王家はブルボン家に移ります。
フェリペ5世と最初の妃マリア・ルイサ・デ・サヴォイアには、四人の王子がいました。
二人目の妃イサベル・デ・ファルネシオには三男三女で、長女マリアナ・ヴィクトリア
ポルトガル王ジョゼ1世妃になります。

ふぅぅ…長かったですね、いよいよマリア・テレサですよぉ

フランスが、ルイ15世と長女マリアナ・ヴィクトリアとの婚約を一方的に破棄したので
スペインはお怒り… だったのですが、やっぱりブルボン家どうしで結託しとかないとね!

というわけで、次女マリア・テレサが、ルイ15世の王太子ルイに嫁ぐことになりました。
同時に兄パルマ公フィリッポ1世とルイーザ・エリザベッタの縁談もまとまり
1444年、二組は同じ日に結婚しました。
         
ところが! スペインは、12歳のルイーザを連れ帰っておきながら
マリア・テレサは、母イサベルが「幼い」と主張しまして渡仏が延期されました。
ルイーザの方が1歳年下だと思うんだけど…

1年後、マリア・テレサはヴェルサイユに到着しました。
ルイ15世は、その3日後、新婚夫婦のために舞踏会を催します。
でーもー、それは口実で、本当はポンパドゥール夫人を招きたかったらしい…

マリア・テレサは、美しくて気品があり、敬虔で高い教育を授けられた、The王女でした。
また(母親のイサベルに似なかったのか)性格が良かったらしく
ルイ15世や王妃マリー・レクザンスカにもすぐに気に入られました。

夫ルイとはすぐに愛し合うようになり、できるだけ一緒にいたそうです。

だけどすごく恥ずかしがりやで、宮廷の中では孤立感を募らせていきました。
それから、信心深いだけに、義父とポンパドゥール夫人の関係が許せず
露骨に態度に表したそうです。
自分の結婚パーティーが縁結びなんて、気分悪いですよね。

マリア・テレサは、結婚から2年、ヴェルサイユに到着してから1年後の1466年
女の子を出産した時に亡くなります。
王太子ルイの悲しみはすごかったらしく、ルイ15世が自ら息子をベッドから
引き離さなければならなかったほどでした。
あと1年早くヴェルサイユに来ていたら、2年間一緒にいれたかもしれないのにね。

マリア・テレサの兄にあたるスペイン王フェルナンド6世は、すぐに
妹のマリア・アントニアとの縁談をもちかけますが、ルイ15世は断りました。
王太子ルイは、ポーランド王アウグスト2世の王女マリー・ジョゼフィーヌと再婚して
この方が、ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世のお母さまになります。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと大統領コーナー
よその国のことなのでね、なんだかんだと言えませんが、あの大国の選択が、まさかっ!! って感じでした
奥さんがサミットとかで他のファーストレディと仲良くできるのか気になる〜
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スペイン王フェリペ2世王女 カタリーナ・ミカエラ

2016-10-28 21:23:40 | スペイン王妃・王女
キレイなだけじゃない 自己主張王女
フェリペ2世王女 カタリーナ・ミカエラ・デ・アウストリア
サヴォイ公カルロ・エマヌエーレ妃


1567〜1597

フェリペ2世の四女カタリーナ・ミカエラの母親はイサベル・デ・ヴァロア
姉のイサベラ・クララ同様、フェリペ2世と継母アナ・デ・アウストリア
愛に包まれて成長しました。

肖像画からもおわかりいただけると思いますが、カタリーナは大変美しかったらしい。
また、知的で、自分のステイタスを知り尽くしていたそうです。
だからかもしれませんが、かなり尊大な女性だったようです。

カルロ・エマヌエーレは、イタリアにおける領土拡大を考えていて
ぜひスペインの力を借りたいと思ってました。

そこで、ぜったい下心があったと思うけど、フェリペ2世は協力を約束して
カルロ・エマヌエーレとカタリーナの結婚が決まりました。
         
姉のイサベラ・クララよりかなり早く、18歳の時に結婚したカタリーナは
トリノで新婚生活をスタートさせますが、なにしろ横柄だったし、式典とかドレスとかに
いちいちスペイン式を取り入れようとするので、すこぶる不人気でした。
イタリア貴族に言わせりゃあ「小娘のくせに…」ってことなんでしょうかね?

しかし、カタリーナはすぐに政治と外交のスキルの高さを見せ始め
次第に宮廷内で尊敬が集まるようになりました。

姉のイサベラ・クララといい、カタリーナといい、王子だったらねぇ…
というか、嫁に出さずに女王にしちゃえばよかったのにね!
そしたらスペイン=ハプスブルク家の将来は違ったかもしれない。
ブルボン家にもってかれなかったかもしれないよね。

カタリーナは、父王フェリペ2世とは結婚後も仲良く手紙のやりとりをしていましたが
サヴォイに関する干渉は退け、自主性を主張していました。
トリノにスペイン軍を駐屯させたいという申し入れも拒んでいます。
フェリペの下心、台無し…

カタリーナは、夫カルロにものすごい影響力がありました。
彼女が夫を政治家として成長させたとまで言われています。 度々摂政も務めています。
また、ギャラリーをたくさん増やしたりして、文化面でも功績があります。
お子様も9人生んで、領地の将来も安泰です。

態度はでかいけど、やることはやる!! 誰も逆らえないですね。
会社のトップとかだったらいいけど、 直属の上司だったらいやかも…

              
                 お美しいのでもう1枚

カタリーナは、1597年の一に女の子を流産しますが、どうやら回復しなかったらしく
6月に亡くなりました。 30歳という若さです。 
サヴォイは惜しい人を亡くしましたよね。
夫のカルロ・エマヌエーレ1世は翌年亡くなりました。

フェリペ2世と四人目の妃アナ・デ・アウストリアには、四男一女のお子様が生まれますが
四男フェリペ(3世)以外は幼くして亡くなっています。
王女マリアも3歳で亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことワイルドアニマルコーナー
今日ひさびさに近所でタヌキを見ましたよ! 以前はアライグマとかハクビシンとか見たんだけどね
マンションがけっこう建っちゃって… タヌキ以外は野生と言っていいのかどうだかわかりませんが
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スペイン王フェリペ2世王女 イサベラ・クララ

2016-10-20 21:03:45 | スペイン王妃・王女
プロモーションを仕掛けた王女
フェリペ2世王女 イサベラ・クララ・デ・アウストリア
オーストリア大公アルブレヒト7世妃


1566〜1633/在位 1598〜1621

先日予告したとおり、今回からはスペイン王女編です。
今回はちょいと長いですよ。

フェリペ2世は4回結婚しています。
一人目の王妃マリア・マヌエラは、悲劇の王子ドン・カルロスを産んで亡くなりました。
二人目のメアリー1世との間にはお子様がおらず、三人目のイサベル・デ・ヴァロア
王女ばかり5人産んでいますが、長女と次女(双子)は流産で、五女も流産でした。

イサベラ・クララは三女です。

ドン・カルロスがいるといえ、王子ひとりでは心許ないですよね?
だから絶対王子が欲しかったんじゃないかと思われるんだが
王妃イサベルを溺愛してたフェリペ2世は「息子の誕生より嬉しい」と大喜びしたそうです。

イサベラ誕生から2年後、母イサベルが亡くなります。
フェリペ2世はアナ・デ・アウストリアと再婚しますが、この人がほんとぉぉによくできた人で
幼いイサベラは父と継母の愛を受けて過ごすことができました。

フェリペ2世は冷たいイメージがありますが、娘たちのことは愛していたようで
おびただしい数の手紙を送っていたらしい…
手紙には“ お前たちの善き父より ” というサインが添えられていました。

イサベラは、フェリペ2世が自分の仕事を手伝うことを許した唯一の人物でした。
フェリペ2世の晩年は、病に陥る父王をかいがいしく世話していました。

こっからちょっとはしょっていきます。

イサベラは2歳の時から、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇子、つまり
義理の母の弟にあたるルドルフと婚約していました。
しかし、ルドルフはなんだかんだとはぐらかし、結局20年以上も待たせたあげく
誰とも結婚したくない! と宣言します。
で、フェリペ2世は、その弟のアルブレヒトと結婚するなら、という条件で
イサベラにネーデルラントを与えることにしました。
       
イサベラは33歳の時にアルブレヒトと結婚し、ネーデルラントを共治します。
細かいことは省くけど、アルブレヒトとイサベラは、まだまだハプスブルク本家が力を持つ
南部ネーデルラントを、再びスペイン王領に取り入れたいと考えていました。
ふつうは軍事力に訴えるところですよね?
しかし、イサベラはここで、バロック音楽とか芸術を活用したプロモーションに出ます。

具体的にどういうことをしたのかはわかんないんだけど、ポスターとかグッズかな?
あるいは、音楽に国境はない! 的にコンサートを開いて、南部でファンを獲得したとか?
いちいちK-POPベースでものごとを考えちゃってすみませんね…
二人はこのために、ルーベンスやブリューゲルなどのパトロンもしていたそうです。

また、ブリュッセルに、政治のみならず芸術の中心とも言える宮殿を建てました。
二人の統治時代は、スパニッシュ=ネーデルラントの黄金期と言われています。

1621年にアルブレヒトが亡くなると、スペインの名代として総督になり
ネーデルラントを治めましたが、2年後に亡くなりました。

ちなみに、二人に子供がいなかったので、ネーデルラントはスペイン王の領地になりました。

ちなみに、ちなみに、フェリペ2世は、アンリ3世がお子様を残さずに暗殺されると
サリカ法があるにもかかわらず、イサベラのフランス女王の座を主張していました。

理由は下の家系図をご覧くださいな。
      
愛する娘だからこそ王にしたかったのか、愛する娘でも利用できるものはする!
ということなのか、王様の考えることはよくわからんです。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
BEAST 契約終了かぁ… 時が経つのは早いものよのぉ… ジャネーの法則により、特にそう感じてますけど…
とりあえず、解散はしないでほしいですよね! いい歌いっぱいあるんだから、5人で歌い続けてほしいです
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スペイン王フェリペ2世王女 イサベラ・クララ

2016-10-08 21:45:31 | スペイン王妃・王女
実は予告ですの…

さあ! 今回からスペイン王女編です…といきたいところなのですが
なにせ上の肖像画のイサベル1世の王女たちから、各国の王妃目白押しなんです。

一応、そのおさらいをしてから… と思ったのですが
フェリペ2世王女イサベラ・クララもけっこうエピソードフルな女性なんで
すごーく長くなっちゃうなぁ… と思い、今回は予告編にしてみました。
すみません。

ではまず、フェルナンド2世とイサベル1世の王女たちから…
長女イサベラはポルトガル王マヌエル1世妃
次女はカスティーリャ女王ファナ・ラ・ローカです。
三女マリアは、姉の後妻となってマヌエル1世妃になります。
マリアと双子の四女は死産でした。
五女カタリナは、悪名高いヘンリー8世の、ひとり目の妃になりました。

続いて、フェリペ1世とファナ・ラ・ローカの王女たち
長女レオノールはフランス王フランソワ1世妃
次女イサベラは、デンマーク王クリスチャン2世妃
三女マリアは、ハンガリー王ラヨシュ2世妃
四女カタリナは、ポルトガル王ジョアン3世妃

続きまして、カルロス1世の王女たち
長女マリアは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇后
次女ファナは、王妃ではないですが、ポルトガルの王太子妃になりました。
三女マルガリータは、王ではないですが、フィレンツェの支配者だった
メディチ家のアレッサンドロの妃になります。

すごいっすね!!
カスティーリャとアラゴンがひとつになり、さらにグラナダを加え
ハプスブルク家と結びついたスペインの強大さを感じさせますね。

さぁ、いよいよフェリペ2世の王女たちの登場です!… って、今から準備します。

               
              なんかカワイイので、もう一枚イサベル1世を…

ひとことK-POPコーナー



7日に来ると思っていたんだけど、まだ来ないよぉ… 『 1 of 1 』 台風とかで船出てない?  ま、まさかの予約忘れ?
とりあえず全曲聞けてますが… 今のところ Don't Let Me Go をすりきれるほどリピってます  早くこないかなぁ
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