まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ハンガリー(対立)王サポヤイ・ヤーノシュ妃 イジャベラ

2010-10-16 23:07:26 | ハンガリー王妃
反ハプスブルク最後の砦
サポヤイ・ヤーノシュ妃 イジャベラ・ヤゲロー


1519~1559/在位 (1539~1540)

ラヨシュ2世が20歳の若さで戦死した時、王妃マリアとの間には嫡子がいませんでした。
そんなわけで、マクシミリアン1世の狙い通りハンガリーとボヘミアの王座には
ウラースロー2世王女アンナの夫フェルディナント1世が即位しました。

この後はマリア・テレジア時代を除き、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が
ハンガリー・ボヘミア王を兼ねることになります。

しかし、よそ者の王を嫌う風潮はどこにでもあるものです。
ボヘミアでは比較的スムーズだったものの、ハンガリーでは抵抗がありました。

その急先鋒がサポヤイ家のヤーノシュでした。
ヤーノシュはポーランド王ジグムント1世妃バルバラの兄です。

ヤーノシュは国内の貴族からは選出されたものの、王位がオスマン帝国頼みだったため
他のヨーロッパ諸国から王として認められませんでした。

サポヤイの妻になったイジャベラは、ジグムント1世と
2番目の妃ボナ・スフォルツァの王女で、ヤーノシュとは義理の伯父と姪?

        
イジャベラは母ボナからイタリア語やルネサンスを教え込まれ
教養豊かな娘に育ちました。

1539年、イジャベラはハンガリー対立王ヤーノシュと結婚します。
翌年には息子のヤーノシュ・ジグモンドが生まれましたが
夫ヤーノシュはその2週間後に亡くなってしまいました。

イジャベラは(一時期女王と名乗ったりもしたようですけど)
とにかく幼い息子の王位を守らなければならなくなりました。

しかし、1541年にはブダがオスマン帝国に奪われトランシルヴァニアへ向かいます。
10年ほど統治者としてトランシルヴァニアですごしていましたが
真の統治者はイジャベラが大嫌いな枢機卿ジェルジ・マルティヌッツィでした。

1551年、トランシルヴァニアがフェルディナント1世の手に落ちると
ニールヴァートル条約によってその地も離れることになります。
トランシルヴァニアはヤーノシュが貴族になって与えられた領地だったし
息子を返り咲かせるための最後の砦だったのに…さぞや悔しかったことでしょう

言い伝えでは国を後にしてメシェスの門で休息をとった時
そこにあった古い樫の木に “ SVC ” と刻んだことになっています。
英語にすると “ Will of fate ” …「これが運命か」とでも訳しましょうか?

彼女の無念さが届いたか、1556年にはハンガリーからの要請で息子を連れて帰国し
トランシルヴァニアを息子とともに治めました。

イジャベラは、ナントの勅令に先んずること40年、
1558年に宗教の自由を認める勅令を出した初めての君主です。

世が世なら、そして正式に王妃になっていたら
後世まで語り継がれる賢王妃になっていたかもしれません。
なんで対立王と結婚しちゃったかしら?
なよなよ育ってきた後継ぎ王より、自分で勝ち取ろうとするヤーノシュに
男の魅力を感じちゃいましたかね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ラヨシュ2世妃 マリア

2010-10-12 01:29:00 | ハンガリー王妃
そして王座はハプスブルク家へ・・・
ラヨシュ2世妃 マリア・ハブスブルグ


1505~1558/在位 1522~1526

W婚でスペインを手中におさめつつあったハプスブルク家は
ハンガリーとボヘミアも…と(たぶん)考え、幼い姉弟に注目します。

ハンガリー王妃アンヌは王子ラヨシュの出産の時に亡くなりました。
王ウラースロー2世も50歳です。
幼い姉弟が遺されればこっちのもんだ!と考えたに違いない…

そんなわけでマリアは1歳にもならないうちに王太子ラヨシュと婚約。
同時にマリアの兄フェルディナントと、ラヨシュの姉アンナも婚約しました。

        
1516年にウラースロー2世が亡くなると、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は
ふたりを保護するという理由でウィーンに呼び寄せて手元で育てます。
もうミエミエの作戦… ハンガリーは異議を唱えなかったんでしょうか?

マリアが17歳の時、ラヨシュ2世とブダで結婚式が挙げられました。
ふたりの結婚生活はとても幸福なものだったようです。
十代の青春まっただ中を一緒に育ってきたんだものね
たとえ政略結婚でも、全然知らない人との結婚よりずっと幸せですね。

しかし、ハンガリーはオスマン帝国の激しい侵攻をうけていました。
結婚から4年7ヶ月後、ラヨシュはハンガリー=ポーランド連合軍で帝国に対峙した
モチーハの戦いで敗戦し亡くなります。

短い結婚生活ではありましたが、深くラヨシュを愛していたマリアは
死ぬまで喪に服し、全ての再婚話を退けました。
ハプスブルク家は縁談に命を賭けてるようなところがあって
本人の気持ちなんか一切無視!な一家ですが、マリアの望みは聞いてあげたのね…

              
                 お若いころでしょうか?
                    雰囲気が素敵なので載せときます


未亡人になって4年後、父方の叔母マルグリートが亡くなり
ネーデルラント総督の座が空位になりました。
マリアの兄神聖ローマ皇帝カール5世は、マリアを後任に指名しました。

ネーデルラントでは脱ハプスブルクの気運が生まれ始めていました。
カール5世はマリアにマルグリートのような強い影響力を期待していました。
マルグリートは女性らしく、機転がきいて順応性とユーモアがありました。

しかしマリアは違いました。
叔母マルグリートが笑顔とジョークで仕事をこなすのとは逆に
マリアはシニカルで棘を含んだコメントが多かったみたいです。
宗教をめぐってはフェルディナンド1世との間にも確執がありました。

気難しかったのかしら? それともラヨシュの死が彼女を変えたのかしら?

彼女は総督の仕事に喜びが見いだせなかったようです。
それでも1555年まで総督の座に就き、カール5世がネーデルラント支配を
息子のフェリペ2世に譲るのを機に退きました。
この時、カール5世もフェリペ2世も、総督の座にとどまるよう言いましたが
マリアは固辞しました。

マリアは、姉のフランス王フラアンソワ1世妃アリエノール
(引退した)カール(5世)とカスティーリャで暮らしたいと望んでいました。
それまでマリアは母であるカスティーリャ女王ファナを恐れて
故国へ戻ろうとはしませんでしたが、アリエノールに会いたい一心で1556年に帰郷します。

でもこの決心はすごく良かったと思うの。
なぜならアリエノールは1558年2月にマリアの腕に中で亡くなったから。
2年間だけでも、離ればなれになっていた姉とすごせて幸せだったでしょう。

同じ年の10月、マリアも亡くなりました。
彼女の最後の望みは、溶かして貧しい人に分け与えてしまったハートの金のメダルを
再び夫に着けてもらいたい、というものでした。

たった4年の結婚生活を送った夫をそこまで愛するあたりといい、思いつめる性格といい
母君ファナ・ラ・ローカに一番似ていたのは彼女じゃないかしら? なんて思えたりします。

(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ウラースロー2世妃 アンヌ

2010-10-09 23:59:16 | ハンガリー王妃
ハンガリー王家、最後の救世主
ウラースロー2世妃 アンヌ・カンダレ


1484~1506/在位 1502~1506

ボルバーラとベアトリクスの二人の王妃と離婚していて
その上嫡子のないウラースロー2世は焦ります。

ベアトリクスとの離婚の時に、離婚が成立していないと主張していた
最初の妃ボルバーラはすでに38歳、てなわけで復縁しませんでした。
離婚してないって言ってたくせに…

ウラースロー2世が求婚したのは、フォワ家のカンダル伯ガストンの娘アンヌでした。

アンヌはブロワの宮廷で大きくなり、フランス王の甥にあたるロングヴィル公とは
愛し合う仲だったそうです。
ロングヴィル公はアンヌと結婚するつもりだったのに
ウラースローのせいでふたりは別れることになりました。

ちなみにアンヌ16歳、ウラースロー44歳… 一般的に見ればすっっごく可哀想。

         
ふたりは1502年にフランス宮廷で結婚式を挙げてハンガリーへ向かいました。

途中ヴェネツィアでものすごい祝典が催されたそうなのですが
この代金の支払いをめぐってフランスとハンガリーが諍いとなる…という
情けないエピソードも

年の差にもかかわらず、ウラースローとアンヌは友人のようで
夫婦の仲は良かったらしい…
フランスから相談役や宮廷人を連れて行っていたアンヌは良き相談相手でもありました。

しかも王女アンナに続いて、1506年、待望の王子ラヨシュが生まれて
アンヌはハンガリーで人気者になります。
彼女もそんな生活をとても楽しんでいたのですが、どうしたことか
急に健康が衰え始め、1ヶ月もしないうちに亡くなってしまいました。

昔はベッドや医者の服、医療器具など、衛生面がずさんだったことから
出産による死亡が多かったと言うことですが、王家なんだから…少し気を遣おうか?

ハンガリーの将来を担う王子の成長を見届けたかったでしょうし
彼女が長生きして摂政でもしていれば、ハンガリーの行く末は違ったかもしれません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ウラースロー2世妃 ボルバーラ

2010-10-08 23:01:59 | ハンガリー王妃
           こちら、返り咲いた王妃ベアトリクス・アラゴーニア
 
王妃になったと思ったら・・・
ウラースロー2世妃 ボルバーラ・ブランデンブルギ


1464~1515/在位 (ボヘミア王妃)1471~1500 (ハンガリー王妃)1490~1500

マーチャーシュが嫡子無く、庶子も後継ぎにできないで亡くなったため
アルベルトを祖父に持つボヘミア王ブラジスラフがウラースロー2世として即位します。

ウラースロー2世の妃ボルバーラは、ブランデンブルク選帝侯アルブレヒト3世の候女です。

         
8歳の時に29歳年上のグウォグフ公ハインリヒ11世と結婚しましたが
4年も経たないうちに夫が亡くなり11歳で未亡人になってしまいました。

しかし、ブランデンブルク選帝侯の素早いアクション!
その年のうちに20歳のウラースローと再婚します。
(ハインリヒ11世は急死で毒殺の噂があるんですよ~

ウラースローはその年(1971年)イジー王未亡人からの要請でボヘミア王に即位、
1490年にはハンガリー王に即位しました。
この時、そういうお約束があったのかどうだか…(下に正解があります
マーチャーシュの未亡人ベアトリクス・アラゴーニアと再婚することになり
ボルバーラは離婚されてしまいました。

後にウラースローはベアトリクスと別れたのですけれども
ボルバーラのもとへは戻ってきませんでした…

他の国だといきなり離婚された王妃が抵抗するエピソードが残っていたりするんですが…
例えばルイ12世妃ジャンヌとか…
ボルバーラがどうしたのかはちょっとわかりません、残念ですね。



ハンガリーのために頑張ったのに・・・第2部
ウラースロ-2世妃 ベアトリクス・アラゴーニア


1457~1502/在位 (マーチャーシュ妃)1476~1490
          (ウラースロー2世妃)1491~1502

第1部のつづき…

で、ボルバーラと別れたウラースロー2世が再婚したのは
マーチャーシュ未亡人ベアトリクスでした。

        
マーチャーシュとともに中世ハンガリーに繁栄をもたらしたベアトリクスは
さすがに女王になろうとは思わなかったみたいですが
次に王になる男性と再婚して王妃の座を守りたいと望んでいました。

未亡人になってからも貴族たちに影響力を持っていたベアトリクスは
彼らの圧倒的な後押しで次王の王妃としてとどまることになりました。
しかも彼女、王の選挙の議長にもなってんのよね
ということは、最初からウラースロー狙いかしら?

つまりウラースローは、ハンガリー王になりたかったら
ベアトリクスと再婚しなきゃいけなかったわけです。
ということで、前妻ボルバーラと離婚したウラースローとベアトリクスは
1491年に再婚しました。

しかし再婚から数年後、ウラースロー2世は、
「自分はこの結婚を公式に承諾しておらず、無理矢理結婚させられた」と言い出します。
しかも、前妃ボルバーラとの離婚も教皇から許可されていないということで
結婚は無効だと訴えました。

ベアトリクスはこの裁判に大金を投じましたが、1500年に無効が言い渡されました。
四半世紀近くハンガリーの発展に尽くしてきたベアトリクスだったのに
ひとり寂しくナポリへ帰ることになります。

御輿に乗せた貴族はどうしたよ? すっかり寝返った?
結局よそ者の嫁なんてこんなものよね…
いいように使われて、いらなくなったら実家に帰されちゃって… 貴族も同じか…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王マーチャーシュ妃 カタリン

2010-10-05 23:11:19 | ハンガリー王妃
またまた、幼い王妃
マーチャーシュ1妃 カタリン・ポジェブラード


1449~1464/在位 1463~1464

フニャディ家…遡ればどこかで王族と繋がりがあるの “ かも ” しれませんが
見つけられませんでした。

マーチャーシュの父ヤノーシュは、当時ハンガリーに領土を拡大していた
オスマン帝国を敗るなどしてトランシルヴァニア公になり、摂政に就いていた人でした。

ラースロー5世が未婚で早世したため、国内はまたまた継承問題で大荒れです。
ヤノーシュが生きていれば王に選ばれたのでしょうが、1年前に亡くなっていたため
1458年に15歳の息子マーチャーシュが王に選出されました。

マーチャーシュはエルジェーベト・ツェリェと婚約していましたが彼女は亡くなります。
そこでボヘミア王イジーの王女、当時9歳のカタリンとの縁談が持ち上がります。
結婚の条件は、将来マーチャーシュをボヘミア王にするというものでした。

イジー王も王家との繋がりというより武勲によって王に選出された人で
王座は安泰ではありませんでした。

        
1463年、18歳のマーチャーシュと13歳のカタリンは結婚します。
上の画はお嫁に行く時のものでしょうか?
幼い娘を嫁に出す家族の不安と哀しさが表れていますよね。

カタリンは14歳で出産しましたが、母子ともに数日後に亡くなりました。

だから何度言ったらわかるのかいな! 14歳に子供を産ませるんじゃないってばよ!!
ハンガリー王国ったら、14歳で、出産で、亡くなる王妃が多い気がしません?



ハンガリーのために頑張ったのに・・・第1部
マーチャーシュ妃 ベアトリクス・アラゴーニア


1457~1502/在位 (マーチャーシュ妃)1476~1490
          (ウラースロー2世妃)1491~1502

カタリンを亡くしたマーチャーシュは12年後、やっと再婚しました。

相手はナポリ王フェルディナンド1世王女ベアトリクスです。
マーチャーシュ31歳、ベアトリクスは19歳でした。

       
ベアトリクスはイタリアン・ルネッサンスをハンガリー宮廷に持ち込みました。
マーチャーシュも興味を示し、ゴチック風だったブダ宮殿の改装に踏み切りました。
ベアトリクスは学術面のハンガリーの躍進にも大きな役目を果たしました。

政治面でも少なくない影響力を持っていたようです。
オーストリア侵攻の際には夫に同行してしていますし
ワラキアとの平和条約にも一役かってます。

マーチャーシュ王は、中世ハンガリーを頂点まで高めた王とされていますが
ベアトリクスが夫を大きく助けている気がしますよね。

しかし、でございます。
ベアトリクスとマーチャーシュの間にはお子様ができませんでした。
仲は良かったそうですけどね。

マーチャーシュはヴロツワフ庶民の娘ボルバーラとの間に男の子がおりました。
結婚前に生まれていた息子さんです。
で、息子だけならともかく母親も宮殿に呼び寄せちゃったのね… ベアトリクス大激怒

いくらできた嫁でもこれは納得いかないわ! というわけで
息子に領地を譲りたいというマーチャーシュとベアトリクスの諍いは
マーチャーシュが亡くなるまで続くことになります。

マーチャーシュが亡くなった後、ベアトリクスは次王ウラースロー2世と再婚します。
またまた問題が起こります… 第2部へつづく

(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王アルベルト妃 エルジェーベト

2010-09-30 23:10:46 | ハンガリー王妃
女王として生まれた王妃
アルベルト妃 エルジェーベト・ルクセンブルギ


1409~1442/在位 (ハンガリー王妃)1438~1439 (ボヘミア王妃)1438~1439

ジグモンド王の忘れ形見エルジェーベトの生年には諸説あるらしいのですが
1409年説をベースに考えると、2歳でオーストリア公子アルブレヒトと婚約して
11歳の時に結婚しました。

マリア女王の時にすったもんだがあったハンガリー、
ジグモンドは後継者に娘エルジェーベトではなく、娘婿アルブレヒトを指名していました。

        

アルブレヒトはジグモンド亡き後、アルベルト王として即位しました。
翌年ボヘミア王にも即位しています。

オーストリア公でもあり、神聖ローマ皇帝の座も狙っていたアルベルトは留守がちです。
エルジェーベトは正当な王位継承者として摂政に就き、夫の留守を守っていました。

1439年、アルベルトが赤痢で亡くなりました。
この時王に推されたのはポーランド王ヴワディスワフ3世です。
そう! 先王ジグモンド妃ボルバーラが再婚を約束した相手です。

エルジェーベトはその時子供を身ごもっていました。
なぜか「もう、ぜったいに男の子!」と確信したエルジェーベトは
有力貴族に大臣や大司教などのポストを与えて味方を募り、党派を立ち上げました。

まるで女王のように国を治め始めたエルジェーベトでしたが
オスマン帝国の脅しを受けた議会は彼女を女王に選びませんでした。
議会はヴワディスワフ3世と再婚して王に即位させるべきだという結論に至ります。

表向きは受け入れたエルジェーベト、しかし、彼女は王冠を持ち出し
ジェールで0歳の息子に戴冠しちゃいましたとさ 死にものぐるいね。
でもヴワディスワフ3世(ウラースロー1世)は王に即位したんだけど…

ブダペストを攻撃したものの敗れたエルジェーベト軍…こうなりゃやけっぱちです。
1442年にエルジェーベトはウラースロー1世と婚約しました。
息子のことを思えばこその決心だったと思います。

ところが婚約からしばらくして、エルジェーベトは急死します。

ウラースロー1世は男性が好きだったらしく、エルジェーベト毒殺説も流れました。
殺すほど嫌なら婚約しなきゃよかったものを…(あくまで噂ですけど)

1444年、ウラースロー1世は未婚で戦死します。
その後は愛する我が子、ラースロー5世が即位しました。
勇姿が見たかったでしょうね

ラースロー5世はフランス王シャルル7世とマリー・ダンジューの王女マドレーヌと
婚約していましたが、17歳の時白血病で結婚しないまま亡くなりました。

この後王位は、いきなりのフニャディ家に移ります。 つづく…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ジグモンド1世妃 ボルバーラ

2010-09-26 00:35:44 | ハンガリー王妃
なにもかも男まさり
ジグモンド1世妃 ボルバーラ・ツィレイ


1390~1405/在位 (ハンガリー王妃)1405~1437 (神聖ローマ皇后)1411~1437
          (ボヘミア王妃)1419、1436~1437

共治王としてハンガリー王になったジグモンド1世でしたが
マリア女王亡き後もハンガリー王として君臨していました。

前妃の死から10年後、ジグモンド1世がこっそり再婚したのは
マリア女王の親戚筋にあたる、ツェリェ伯へルマン2世の娘ボルバーラです。

父方の祖母カトリーヌ・コトロマニッチが、ラヨシュ1世妃エルジェーベト
姉妹ではないか、と考えられています。
        

ふたりは1401年に婚約していますが、正式な結婚の許可が待ちきれなかったのか
1405年のクリスマスの日にこっそり結婚したらしいですよ。
ボルバーラは14歳、結婚が許される年になってすぐということですね。
ちなみにジグモンドは37歳でございます。

ボルバーラの父ツェリェ伯は
養女アンナをポーランド王ヴワディスワフ2世に嫁がせていています。
なにかと仲が悪いハンガリー王とポーランド王の、両方の義父ということですね。
上手く立ち回れば中・東欧のフィクサー的存在になれるってもんです。

さて、ふたりは1405年に結婚はしたものの、正式に認められたのは1408年です。
1409年に王女エルジェーベトが誕生しましたが、子供は彼女だけでした。

ボルバーラは、ボヘミア王座や神聖ローマ皇帝の座を手にするために奔走する夫が
ハンガリーを留守にする間、摂政を務めていました。

ボルバーラは知性と美しさで人を信服させたと言われています。
ただ、口うるさいお方で、侍女たちは息つく暇がなかったそうです。

一方、夫ジグモンド同様愛人がいたようで、ハーレムを持っていた、なんて説もあります。
それでかどうかはわかりませんが、ボルバーラは1419年から2年間
ナジヴァーラドに追放されてしまいました。

王子のいないジグモンドは、自分の後継者に娘婿アルブレヒトを指名しますが
ボルバーラはボヘミア王は自分の兄弟か甥にしようと画策していました。
この件をポーランドに納得させるため、自分は夫の死後ヴワディスワフ3世と
再婚するという密約まで結んでいました。

              
                 躍動的なボルバーラ王妃像 

ジグモンドはボルバーラの計略に気付き、1437年、彼女を投獄します。
今度ばかりは許されなかったようで、ジグモンドが亡くなると
全ての財産を没収されてハンガリーから追放されました。

ポーランドに渡ったボルバーラは収入源としてサンドミェシの領地を与えられると
ボヘミアに移り余生を送っておりましたが…おとなしくしてりゃあいいものを
政府を倒そうと企てたとして告発されたりします。

さすがに懲りたのか、政治には口を出さなくなったみたいですが
晩年は錬金術やオカルトに凝っていたそうでございます。
誰か呪い殺したい人でもいたんでしょうか? くわばらくわばら…

ペストで亡くなっております。

内助の功を発揮するより、先頭に立ちたい…というタイプの王妃って、けっこういますわね。
王である夫が愚鈍で気が弱かったりすると上手くいくと思うんだが…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー女王 マリア

2010-09-25 12:38:00 | ハンガリー王妃
名ばかりの女王
ジグモンド1世妃、ハンガリー女王 マリア


1371~1395/在位 1382~1385、1386~1395

ハンガリー、ポーランド、ボヘミアが激動の時代を迎えていたわけなのですが
ラヨシュ1世と王妃エルジェーベトの間には、3人の王女しか生まれませんでした。

姉カタリンが8歳で夭逝すると、マリアは7歳で王太子になり
10歳の時に女王に即位しました。

即位前に父王ラヨシュ1世の意向で、ルクセンブルク家のジグモンドと婚約します。

        

ハンガリー国内も反マリアの声は大きかったわけですが
もうひとつの王位継承権を持つポーランドではなお一層の反発がおきていました。
そこでポーランド王座は妹のヤドヴィカにお願いすることにいたしました。

さて、ハンガリーの統治ですが、マリア女王とは名ばかり(だって10歳だし… )
事実上母后エルジェーベトとブラチスラヴァ伯ミクローシュ1世が仕切っていました。
若い母親摂政と有力貴族の組み合わせ…波紋を呼びそうですね。

有力貴族たちはマリアの親戚筋にあたるナポリ王カルロ3世を王にしようと考えました。
カルロ3世も同意してハンガリーへ侵攻し、1385年、カーロイ2世として即位しましたが
翌年母后エルジェーベトにより暗殺されます。

マリア女王はこの年にジグモンドと結婚します。
女王の結婚も貴族たちには気に入らず反乱はおさまりません。
翌年マリアは母后ともども捕らえられ、まずはカーロイ2世の未亡人マルゲリータの
ご機嫌取りのためナポリに送られ、その後ノビグラードに投獄されます。

翌年、母后エルジェーベトが目の前で殺害されます。
マリアはかろうじて夫ジグモンドに救出されました。

ハンガリーに戻ったマリアですが、やはり彼女は飾り物にすぎず
共治王となったジグモンドがひとりでハンガリーを治めていたようです。

24歳の時、マリアは懐妊しましたがとても苦しい出産でそのまま亡くなりました。
子供も助かりませんでした。

マリア女王の儚い人生…
幼くして女王になる女性の悲劇の典型を見せていただいたような感じですね。



詳しくはナポリ王妃の時に・・・
ハンガリー王カーロイ2世妃 マルギット・ナーポリ


1347~1412/在位 (ナポリ王妃)1382~1386
          (ハンガリー王妃)1385~1386

マリア女王が即位すると、反対派貴族は親戚筋にあたるナポリ王カルロ3世を
擁立しようとします。

野心満々のカルロ3世は要請を受けてハンガリーへ侵攻し
カーロイ2世として即位しました。

         

しかしだまっちゃいなかったのはマリア女王の母后エルジェーベトで
カーロイ2世は彼女によって殺害されました。

未亡人となったマルギットは、カーロイ2世とはいとこ同士、マリア女王とも親戚です。

カーロイ2世との結婚は22歳と(当時では)晩婚で、カーロイが殺されたのは
結婚生活17年目でした。

マルギットはぜっっったいにエルジェーベトを許すことができませんでした。
マリア女王とエルジェーベトが捕らえられた時、処刑を強く主張したのは彼女です。

その後は息子ラディズラーズ1世の摂政になります。
詳しくはナポリ王の時に…ってことで

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ラヨシュ1世妃 エルジェーベト

2010-09-24 00:42:15 | ハンガリー王妃
実例、王子がいない母の悲劇
ラヨシュ1世妃 エルジェーベト・コトロマニッチ


1339~1387/在位 (ハンガリー王妃)1353~1382 (ポーランド王妃)1370~1382

16歳で即位したラヨシュ1世は母エルジェーベト・ピアストの尽力もあって
神聖ローマ皇帝カール4世の皇女マルギット・ルクセンブルギ(7歳)と結婚しましたが
彼女は14歳で亡くなりました。
ハンガリーでは14歳にならないと正式に結婚ができなかったようで
マルギットは故郷で過ごし、ハンガリーにやってきてすぐに亡くなったみたいです。

続いて母后が目をつけたのがボスニア王ステファン2世の王女エルジェーベトで
10歳の王女を「教育するから」とハンガリーに無理くり招待し
3年後にステファン2世も招待され、結婚が決まりました。

       

1353年、14歳でラヨシュに嫁いだエルジェーベト(コトロマニッチ)でしたが
彼女は完全に母后エルジェーベト(ピアスト)の支配下にありました。

エルジェーベト(コ)は自分の従者を持つことも許されなくて
母后エルジェーベト(ピ)の従者にとりまかれることになります。
つまり、なにもかも姑に筒抜けってことね… やだやだ

威圧的で尊大な姑に耐えること17年、やっと解放される日が…

ラヨシュはポーランド王ルドヴィク1世として即位すると
母后エルジェーベト(ピ)を摂政に任命しました。
お義母様はポーランドへ…すごく嬉しかったと思うわ。

それが良かったのか、17年間子宝に恵まれなかったエルジェーベト(コ)は
懐妊して王女カタリンが誕生しました(8歳で夭逝)
その後王女マリアとヘドヴィクが生まれます。
でも王女ばかり…これは後々厄介ごとを生みそうな気配ですね。

だのにエルジェーベト(ピ)ったら、ポーランドでも威張り散らして追い出され
さっさと戻ってきやがった

そんな姑も1380年に亡くなり(しかも城まで遺してくれて)ホッとしたのも束の間
エルジェーベト(コ)の本当の苦難はここから始まります。

ここからは細かく書くと長くなるのではしょるけど
ラヨシュ1世の後を継いだ10歳の王女マリアと、摂政エルジェーベト(コ)を
認める貴族は少なく、反乱と投獄と逃避行の日々が待っていました。
それにまわりは王位をねらう敵だらけ、暗殺を恐れて過ごす毎日でした。

逆に強い母となる時もありました。
反対派貴族が王にしたカーロイ2世を暗殺します。
これがカーロイ2世未亡人マルゲリータの恨みを買うことになるんですけどね…

マリア女王がルクセンブルク家のジグモンドと結婚した1385年以降
反乱は激しくなります。
1386年、ノビグラードに投獄されますが、この時エルジェーベト(コ)の処刑を
強く訴えたのがカーロイ2世未亡人マルゲリータでした。
1387年、エルジェーベト(コ)は女王マリアの目の前で絞殺されてしまいます。

              
             こちらも逃げ惑うエルジェーベトとマリア

この逮捕劇、実はマリアの夫ジグモンドが仕組んだという説もあります。
あるいは、果敢にもふたりを救おうとノビグラードに向かっていた説もあります。
いずれにしてもジグモンド19歳、たいした奴です。

幼い女王 & 母親摂政 というのは、とかく反乱を招きやすい、危うい王座ですね。
よっぽど強い伴侶か、勝れた政治力を持つ後ろ盾がいないと
崩壊の憂き目に遭うことになります。
特にエルジェーベト(コ)みたいに影の薄い王妃じゃ…

こうなると憎ったらしい姑でも、もう少し長生きして宮廷を牛耳って欲しかった…
という気になりますですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王カーロイ1世妃 エルジェーベト

2010-09-19 20:56:55 | ハンガリー王妃
息子のためならなんでもやります!
カーロイ1世妃 エルジェーベト・ピアスト


1305~1380/在位 1320~1342

エルジェーベトはポーランド王ヴワディスワフ1世の王女ですが、幼い頃には
王の座にプシェミスル家のヴァツワフ3世(ハンガリー王ヴェンツェル)がいて
王座を主張するヴワディスワフ一家の暮らしは極めて危険なものでした。

        

カーロイ1世とは、父が王に即位した1320年に結婚しています。
エルジェーベトは15歳、カーロイは32歳でした。

エルジェーベトは宮廷が待ち望んでいた王子を次々と生みました。
全部で五男二女生まれています(ふたりの王女は最初の妃マリアの子説あり)
どうやら宮廷内では勢力が増したみたいで、威圧的な女性だったと言われています。

1342年、カーロイ1世が亡くなると、遺されたエルジェーベトは
ほぼ全ての力を子供たちに注ぎ込んだと思われる節があります。
中でも力を入れたのは王子たちの縁談!

特に16歳で王となったラヨシュ1世に、お似合いの妃を探そうと頑張りました。
まずは神聖ローマ皇帝カール4世皇女マルギット(7歳!)を嫁に迎えます。
しかしマルギットは7年後に亡くなりました。

エルジェーベトは息子の後妻選びに奔走しました。

ボスニア王ステファン2世に年ごろ(10歳)の王女がいると聞くと
「うちで教育してあげるから!」とご招待しました。
ステファン2世は嫌がっていたのですが、お招きはしつこかったみたいで
とうとう王女エルジェーベト・コトロマニッチをハンガリーへ送り出し
結局嫁にやることになってしまいました。
押しが強かったみたいですね 嫁には行きたくない家かも…

一方、王子アンドラーシュは親戚筋にあたるナポリ女王ジョヴァンナと結婚させました。
この結婚は失敗でした。

カラブリア公となったアンドレアス(アンドラーシュ)は、ジョヴァンナとともに
ナポリ王になりたいと主張しましたが拒否され、ナポリ王太子になりました。
けれどもナポリ王座を狙う人たちは他にもいるわけで、アンドレアスは身の危険を感じます。

そこで、頼りになるママにお手紙を書きました。
内容は「すぐ逃げ出したいから助けて~」というものでした。

ママ・エルジェーベトは「ボクちゃんが大変!」とすぐにナポリを訪れて
まずはローマ教皇に賄賂を渡してアンドレアスへの戴冠を約束させます。
そしてアンドレアスには毒殺から守ってくれる指輪を与えました。

しかし、教皇クレメンス6世が戴冠式をやりなおすと宣言すると
結局アンドレアスは反対派から暗殺されてしまいました。
おとなしくしていた方がよかったんじゃあないのか? 母の愛が裏目に出たようですね。

1370年、ラヨシュはポーランド王にも即位しました。
王妃エルジェーベト(コトロマニッチ)とポーランドを空ける間
母エルジェーベトに摂政を頼むことにします。
もともとポーランド王女だし、うまく国内の不満を抑えてくれるだろうという考えでした。

ところがこの目論みは大失敗でした。
ポーランド宮廷では威張り散らすエルジェーベトに対する議論が白熱しました。
とうとう護衛が殺されてしまい、ハンガリーに逃げ帰る始末です。

ハンガリーではやはり力を持っていたと思われるエルジェーベトは
嫁エルジェーベト(コトロマニッチ)を押さえ込んでいたらしいのですが
死後は彼女にブダ城を与えています。

耐え忍んでよかったね
しかしエルジェーベト(コトロマニッチ)の人生は
姑亡き後さらに過酷なものになります …つづく

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王カーロイ1世妃 マリア

2010-09-16 23:46:29 | ハンガリー王妃
ハンガリーとポーランドの新しい架け橋
カーロイ1世妃 マリア・ピアスト


1282頃~1315/在位 1306~1315

プシェミスル家、ヴィッテルスバハ家と王位が変わったハンガリーは
イシュトヴァーン5世を祖父に持つ、アンジュー家のカーロイ1世が継ぐことになりました。

ピアスト家のビトム公カジェミシュの公女マリアは
カーロイが即位した1306年に嫁いだと言われています。

ポーランド王権を手に入れたピアスト家と関係を持つことで
カーロイはポーランドにくい込んでいこうとしたようです。

          

カーロイ1世は、よそからやって来た王様にしては上手く国を治めましたし
ボヘミア王やポーランド王を招いてのドナウ・サミットを開いて地域の安定を図るなど
なかなかできる君主だったようです。

しかしマリアとの間に世継ぎは生まれませんでした。
(王女カトリンとエルジェーベトはマリアの子供説もあります)

マリアは30代半ばで亡くなり
セーケシュフェヘールヴァールの王家の墓所に葬られました。
上の肖像画はその時のもの…なんか苦しそうな顔していますが…



お世継ぎ期待論の犠牲者
カーロイ1世妃 ベアトリックス・ルクセンブルギ


1305~1319/在位 1318~1319

前妃マリアを亡くしたカーロイは、お世継ぎをつくらなきゃ!という訳で
30歳の時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の皇女ベアトリックスと再婚します。

        
ベアトリックス、この時14歳。
おおいにお世継ぎが期待されたってことなんだが、ちょっと待って下さる?

すぐに子供がほしいならなぜ20歳を過ぎた女性にしないんでしょうか、と
前々から不思議でした。
中世時代の出産て、何歳がベストだと思われていたんでしょうか?
14歳に子供を期待するのが普通だったってことですかね?

結局ベアトリックスは翌年出産の時に亡くなりました。
お子様も助からなかったそうです。

出産で命を落とす十代の妃をたくさん見てきただろうに…
少しは学習してほしかった。

(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ヴェンツェル妃 ヴィオラ・エルジェーベト

2010-09-14 01:58:16 | ハンガリー王妃
                  肖像画がないので
                  ヴィオラの墓所ヴィッシー・ブロッド修道院


美しさが不幸のもとか?
ヴェンツェル妃 ヴィオラ・エルジェーベト


1291~1317/在位 (ハンガリー王妃)1305 
          (ボヘミア・ポーランド王妃)1305~1306

ハンガリー、ポーランド、ボヘミアとが入り乱れて各国の王位を争っていたこの次期
ハンガリーでは後継ぎの途絶えたアールパード朝から王位を継承しようと
少しでも血筋を引いた人々が激しく争っていましたが
結局ベーラ4世王女アンナを曾祖母に持つプシェミスル家の
ヴェンツェル(チェコ名ヴァーツラフ)が王位につくことになりました。

ヴィオラはヴェンツェルが王位についた年に結婚しました。
彼女はヴェンツェルの家臣チェシン公ミェシュコ1世の公女で
結婚は身分違いと言われましたが
なんでも、口では言い表せないほど美しかったらしい…肖像画が無くて残念です。

        

ヴェンツェルは、ずっと婚約していたアンドラーシュ3世と王妃フェネンナの王女だった
エルジェーベトとの婚約を無効にしてヴィオラとの結婚に踏み切っています。
このためにハンガリーの王権を放棄したほどです。

しかし、ヴェンツェルはヴィオラの美しさだけに惹かれたわけでなく
チェシンが戦略的な位置にあったから彼女を選んだと言われています
…でもどーだかね

どーにもこーにもボヘミア貴族たちとうまくいっていなかったヴァーツラフは
結婚から10ヶ月後、オロモウツで暗殺されてしまいました。

身分違いと言われ結婚を認められていなかったヴィオラは、お金も行くあてもなく
ヴァーツラフの姉のアンナとエリシュカがいる修道院に身をよせましたが
その後ボヘミア女王になったエリシュカによって貢ぎ物的に
有力貴族ペーテル・ローゼンブルクと再婚させられました。
ボヘミア女王は力のあるペーテルに取り入りたかったらしいのね。

けれどもヴィオラは再婚から1年後に亡くなります。

美しさは最大の武器になるかもしれないし、最大限に利用している女性もいるでしょうが
他人に利用されてばかりじゃ持っていても嬉しくもなんともないわね。
この方、少しは自分のために美しさを使ってみようと試みなかったのかしら?
無気力な美女よりは、悪女でも自分を利用しきった美女の方が素敵に思えたりします。



良妻薄命
ベーラ5世妃 カトリン・ハブスブルグ


1256~1282/在位せず

ヴェンツェルがハンガリー王位を放棄した後は、ベーラ4世とマリア・ラスカリズの王女
エルジェーベトを母に持つヴィッテルスバハ家のベーラ5世(バイエルン公オットー3世)が
王位を継ぎました。
でもこれは正式に受け入れられなかったようで、対立王と見なす説もあります。

カトリンはベーラ5世が王になる前の1279年に結婚しています。

カトリンはドイツ王ルドルフ5世の王女です。
力を持ち始めていたハプスブルク家は、この結婚でオットーに
4万ポンドの持参金を齎しました。

         

しかしカトリンは3年後、出産後の合併症で亡くなります。
生まれたのは双子の王子でしたが、ふたりともすぐに亡くなりました。

ベーラ5世はカトリンの死から23年という長ーいやもめ生活の末
グウォグフ公ハインリヒ3世の公女アグネスと再婚していますが
彼女のことは詳細がわかりません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王アンドラーシュ3世妃 フェネンナ

2010-09-10 22:46:59 | ハンガリー王妃
               こちらはふたりめの妃アーグネス

継承者争い激化!!
アンドラーシュ3世妃 フェネンナ


1276~1295頃/在位 1290~1295

ラースロー4世と王妃イジャベラの間に嫡子が生まれなかったもので
またいとこ? のアンドラーシュが王位を継承することになりました。

アンドラーシュ3世の最初の妃フェネンナについてはあまり情報源が無く
その存在も19世紀になってわかってきたそうです。
うーん…たしかに存在感はないかしらね

アンドラーシュ3世は即位すると、すぐにポーランドとの同盟を締結しようと考えます。
そこでポーランド王家ピアスト家の一員イノヴロツワフ公ジェモミスウの娘フェネンナとの
縁談が決まりました。

       
フェネンナは14歳、アンドラーシュ3世は10歳ほど年上でした。

でも、ものすごく望まれて嫁いだ割に…と申しましょうか
フェネンナの親戚関係がありがたがられるだけで
宮廷で重要視されてはいなかったようです。

この同盟はとても有益なものだったようで
アンドラーシュはアンジュー家のシャルル・マルテルとの戦いを
ピアスト家はボヘミア王ヴァーツラフ2世&グウォグフ公ハインリヒ3世との戦いを
お互い助け合うことができました。
しかしフェネンナの死後は、アンドラーシュは敵方にまわっております。

フェネンナの亡くなった年ははっきりしていませんが
アンドラーシュ3世が1295年に再婚の打診をしていますので
その頃では…と言われています。 埋葬場所も不明です。

ひとり娘のエルジェーベトはボヘミア王太子ヴァーツラフ(3世)と婚約しましたが
破談になり、継母のアーグネスと修道女になりました。



アールパード朝最後の王妃
アンドラーシュ3世妃 アーグネス・ハブスブルグ


1281~1364/在位 1296~1301

ハプスブルク家登場です。
でもハプスブルク家がハンガリー王になるのはもう少し先の話しになります。

アーグネスはドイツ王アルブレヒト1世の王女で、兄にボヘミア王ルドルフ1世がいます。

          
アーグネスは15歳の時、前妃を亡くしていたアンドラーシュ3世の妃になりました。

こちらもお互いの戦いを助け合うなど、同盟は上手くいった様子ですが
王と王妃の間に嫡子は生まれず、アールパード王家は断絶しました。

1301年、アンドラーシュが亡くなりアーグネスは19歳で未亡人になりました。
再婚もできる年なのに、Königsfeldenの修道院に入り一生を終えました。

その際、9歳になる前妃フェネンナの王女エルジェーベトを連れて行って
一緒に修道女にしちゃったのね…
恐ろしい世間に置き去りにしないのは偉いし、19歳にしてはよくできた継母だが
果たしてエルジェーベト本人はそうしたかったんだろうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ラースロー4世妃 イジャベラ

2010-09-06 01:18:40 | ハンガリー王妃
             やはり肖像画が無いのでお母様のベアトリーチェ

異国趣味の王に見捨てられた王妃
ラースロー4世妃 イジャベラ・アンジュー


1261~1300/在位 1272~1290

イジャベラはナポリ王カルロ1世の王女で
父方の祖父母がフランス王ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーヨになります。
母ベアトリーチェはプロヴァンス伯レーモン・ベレンゲル4世の娘で
母方の伯母にフランス王ルイ9世妃マルグリート
イングランド王ヘンリー3世妃エリナーがいます。

        

レーモン・ベレンゲルの娘たちは皆美人だったということで
孫のイジャベラもお美しかったろうと思われるのですが、宝の持ち腐れだったかも…

イジャベラはわずか7歳!で6歳!!のラースローと結婚しました。
結婚といっても、これじゃあ形式的なものにすぎなかったと思いますが
ラースローは着々と、異教徒趣味と母方のクマン族の生活様式を身につけていきました。

大人になった頃にはクマン族のお衣装を纏い、妾たちを侍らせて
早い話しがハーレムっていうのかしら? をつくり上げイジャベラを遠ざけました。

モンゴルの脅威が去ってハンガリーを出て行こうとするクマン族を引き止めたり
自らテントを張って寝泊まりしたり…もうどこの王様じゃ? 状態。

イジャベラは1286年にはなぜか逮捕されて、3年間投獄されました。
これはどうやら愛妾と暮らすためだったらしいです。
ひどいですよね
せめて別居用の立派な城でも与えんかっ! 甲斐性が無いなら浮気しなさんな!!

こんな王様、世間もだまっちゃいないわけで、イジャベラと和解した翌年の1290年
ラースロー4世は貴族に暗殺されてしまいました。

イジャベラとの間に子供はできず、これがアールパード家の終焉に繋がります。

イジャベラはまだ29歳で、断然再婚できる年だったんですが
故郷ナポリに帰り、聖ピエトロ修道院でドミニカン派の修道女になり
10年後に亡くなりました。

7歳でお嫁に行ったから、イジャベラも異教徒風に育ってもおかしくなかったのに
三つ子の魂でしょうか? しっかりキリスト教徒として成長していたわけですね。

彼女の死後14年、ハンガリーの大修道院長が、イジャベラの私生児について言及しました。
息子は(クロアチアの)ケグレビッチ家の先祖にあたるらしいのですが
ハクをつけるためにあとからつけた話しっぽい気がしないでもない…

でも浮気してたとしても許してあげましょうよ。
すっかり見捨てられた若妻だったんだし…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ハンガリー王ベーラ4世妃 マリア

2010-09-03 23:24:45 | ハンガリー王妃
             こちらはイシュトヴァーン5世妃エルジェーベト

地味だけど幸せだったかもしれない・・・
ベーラ4世妃 マリア・ラスカリズ


1206~1270/在位 1235~1270

マリアの父ビザンツ帝国を追われた亡命国家、ニカイア帝国のテオドール1世です。

        

マリアはハンガリーとの同盟のために12歳でベーラと結婚しました。
ちなみにベーラも12歳…最初の王女は14歳で生まれてますよ!

完全な政略結婚でしたがお子様は8人生まれていますし、夫は名君だし
それなりに幸せな王妃だったんじゃないかしら?
エピソードがないのでわかりませんけど…

ベーラ4世は1270年に亡くなり、マリアもその2ヶ月後に亡くなりました。



異国情緒をもたらしすぎた王妃
イシュトヴァーン5世妃 エルジェーベト・クン


1239~1290頃/在位 1270~1272

ヨーロッパの宮廷では屡々オリエンタルな趣味が流行った時代もありましたが
エルジェーベトはやりすぎちゃったのね…それもそのはず、そういう生まれなんですもの。

エルジェーベトはトルコ人の血が流れるクマン族の族長クセンの娘です。

          
ベーラ4世時代、ヨーロッパの各地はモンゴル帝国の襲撃をうけていました。
国を追われたクセンたちはハンガリーに逃れてきましたが
ベーラ4世は彼らと戦うより手を結んでモンゴルに反撃しようと考えました。

クマン族はシャーマンの支配を受けていて、キリスト教からみれば異教徒です。
ベーラ4世は、彼らがキリスト教に改宗し、王に忠誠を誓うことと引き換えに
保護してあげよう、と提案しました。

エルジェーベトは同意の証しとして王子イシュトヴァーンと婚約しました。
たぶんふたりとも1歳ぐらいです。 気が早いったら…
しかし婚約期間中にモンゴルが攻めて来て、父のクセンは寝返らないように…と
貴族たちに暗殺されちゃいます。
ハンガリー王家も一時期オランダに避難しました。

1253年、12歳になったエルジェーベトは、同じ年のイシュトヴァーンと結婚します。

1272年、王になって2年しかたっていないのにイシュトヴァーン5世が戦死しました。
エルジェーベトは10歳の王ラースロー4世の摂政になりました。

イシュトヴァーン5世妃時代のエルジェーベトの記録はないそうです。
亡くなった年もはっきりしていませんが、1290年頃らしいです。
寂しいわね…あまり人前に姿を現さなかったのかしら?

で、エルジェーベトの失敗は子どもたちを異国情緒たっぷりに育てちゃったこと。
一応キリスト教に改宗していたものの、生まれながらの習慣はなかなか抜けませんよね。
特に長男ラースロー(4世)はとことん異国風にこだわったせいで
悲しい最期を迎えることになります…つづく

(参考文献 Wikipedia英語版)
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