まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

輝ける皇妃、エリザベート展に行って来ました

2013-01-22 20:18:20 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
マリー・アントワネット展に続き横浜そごうで開催中のエリザベート
例によって終わっちゃう!ということで、仕事帰りにダッシュで行って来ました。

今回も30分ぐらいしか見られませんでしたが、閉店時間間近ということで空いていて
ゆったりじっくり見ることができました。

正しくはエリーザベト展じゃないのか? ということはさておき
今回はマリー・アントワネット展と違ってレプリカは無くて
ほぼ全品、シシィが使用した物が展示されていました。
てなわけで、今回は写真撮影OKのスペースはありませんでした。

お時間がたっていますのでね、少しぐらい色がくすんでいたりしましたが
そんなことは気にしない!
繊細な仕事が施された刺繍やレース、宝飾品は見ていて楽しかったですよ。

その中に美しいビーズ刺繍の黒いビロードの筒があったのね。
私はてっきりトーク帽だと思い「綺麗なお帽子」なんて思いながら見ていたら
なんと! コルセットですってさ  51cmですよ!!
ウエストが細いってのは本でも読んでいたし、このブログにも書きましたが
目の当りにするとあんなに細いのね… 胃はどこにいっちゃってんでしょうか?

内容はというと、シシィが嫁いでから公務をこなしている絵とか
愛した家族たちとの写真、お美しい写真のアルバム、日常で使用していたもの
気に入っていた別宅の部屋の調度品とか周辺の風景画、アクセサリー、ドレス、食器
亡くなったことを伝える記事、追悼カードにデスマスクなど盛りだくさんでした。
個人所蔵の物も多くて、この機会でしか見れないものもあったかもしれません。

私などは以前から「シシィはちょっぴり美化されすぎているんじゃないかしらね?」と
思っている女ではありますが、見てる分には楽しめる美しい展示会でありました。

マリー・アントワネットにシシィ、二大スターの展示会は終わりましたが
お姫様展示会シリーズをこれぐらいの規模でどんどんやっていただきたいものですね。
しかしながら横浜そごうの次回予告にはお姫様企画がなくて
「やっぱりか…」と、がっかりしながら帰って来たしだいです。

ひとことK-POPコーナー
『神話放送』が見たいばっかりに、スカパーに加入しようかと真剣に考えているところですが
Mnetが見られるようになったらテレビの前から離れられなくなってしまふ… と迷ってます。 旦那も大反対!
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オーストリア皇帝カール1世皇女 エリーザベト

2011-06-10 21:20:18 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
身分を失った一家の哀れ・・・
カール1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ハインリヒ・フォン・リヒテンシュタイン夫人


1922~1993

エリーザベトは、カール1世とツィタの三女です。

            
1922年にカールが亡くなった後、ツィタはスペイン王アルフォンソ13世から招待をうけ
一家でスペインに渡りました。
エリーザベトはエルパルドの王宮で生まれました。

一家はその後ビスケー湾のレケイティオに住居を与えられて6年間過ごしました。
しかし経済状態はあまりよいものではなかった…というか苦しいものだったようです。
一家の主な収入は個人的な財産やコレクション、葡萄園から捻出されていました。
他のハプスブルク家のメンバーは、自分たちにも収入をまわすようにやいのやいの言うし
定期的に泣きついてきて融通してやらなければなりませんでした。
家長の一家も楽じゃないですね。

1929年に移り住んだベルギーでは、一家は近所の人たちと親しく付き合い
皇子たちもベルギーの大学に通ったりして、やっと平和を手に入れたように思えましたが
1940年にナチスが侵攻して来て避難しなくてはいけなくなります。
ハプスブルク家なんか捕まえたら、ヒトラーはどんな目に遭わせるかわからないものね。

ポルトガルでヴィザを発行してもらった一家はアメリカに渡りました。
アメリカでもロングアイランド → ニューアーク → ニュージャージー → ニューヨークと
忙しく動き回ったハプスブルク家の皆さんは、カナダのケベックに落ち着きます。

一家はオーストリアからの一切の収入源を断たれて財政は一層厳しくなりました。
私はツィタのところで
“ 王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。” なんてことを
書いてましたが、それは大間違い!!
ツィタはタンポポでサラダを作ったり、ほうれん草の代用に使ってたっていうんだから…
申し訳ございません、とんだ先入観でした
ブルボン家出の皇后体験者が…大変な境遇と向き合ったものです。

第二次大戦中、エリーザベトの兄弟たちは戦後を見据えて奮闘していました。
長男オットーはルーズヴェルトに面会してハプスブルク家の重要性を訴え
次男ロベルトはロンドンで代議士になり、三男フェリクスと四男カールはアメリカ兵に、
五男ルドルフはオーストリアに密かに入国して反体制派を後押ししました。
一家が一丸となってお家再興に励む…これも母ツィタの頑張りがあったからかもしれません。

エリーザベトというよりは一家のエピソードが多くなっちゃったけど…

エリーザベトは1949年にリヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世の従兄弟にあたる
リヒテンシュタイン公子アルフレドの五男ハインリヒと結婚しました。
1993年に亡くなっています、つい最近ですね。
お子様は5人生まれていまして、長男の方以外は存命中のようです。

ハプスブルク家は遠い昔になりにけり…かと思うとそうでもないんですよね。

ところで、ツィタは一家で写真を撮る時、一番背が高いオットーから低いエリーザベトを
順番に並べるのがお好みだったそうです。
上の写真でエリーザベトは後列の右に立っています。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝カール1世皇女 アーデルハイド

2011-06-09 01:38:38 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
新時代へ足を踏み出した皇女
カール1世皇女 アーデルハイド・フォン・エスターライヒ


1914~1971

最後の皇帝カール1世と、皇后ツィタには8人のお子様がおりました。
皇女は3人で、アーデルハイドは長女です。
        
兄オットーに次いでアーデルハイドが生まれた後は立て続けに4人の王子が生まれまして
幼い頃は皇子たちと行動をともにしていたようですね。
第一次世界大戦中は、父や兄弟たちと軍の視察にも出かけています。

戦後カール1世はオーストリア=ハンガリーの二重帝国の国政から身を引かされ
続いてオーストリアもハンガリーも共和国になって
ハプスブルク帝国は解体しました。

元皇帝一家はスイスに追放になり、その後ポルトガルのマデイラ諸島に送られました。
でも(シェーンブルンにくらべたら)せまくて質素な追放生活も
家族がお互いに近しく感じられるんじゃないかなんて、庶民は思うわけですけどね…

父カールと兄オットーと、弟の誕生日プレゼントを買いに町までお出かけしたりして
普通の暮らしが送れるのよ…小さな幸福なんて思えなかったかしら?

しかしこのお出かけがカールの命取りになってしまいます。
その日3人は帰り道で霧に包まれてしまい、父カールは急性肺炎になって亡くなります。

その後はスペインに渡り、1929年にベルギーへ…本当に流浪の一家ですね。

母ツィタの飽くなき交渉の末、ハプスブルク家はオーストリアへの入国を許可されました。
王権復活は聞き入れられませんでしたけどね。
1933年、アーデルハイドは、帝国解体後初めてオーストリアに入国を許された
ハプスブルク家のメンバーとして故郷に足を踏み入れました。
華々しい帰国ではなく、ブタペストから汽車に乗って帰国…世が世なら皇女なのに
わびしいものですね。

その後はベルギーのルーヴェン大学に通い、1938年に博士号を得ました。
第二次大戦中はナチスを逃れて一家でアメリカへ避難していました。
戦後はドイツに戻れたようですね、バイエルンのポッキングで亡くなっています。
生涯独身でした。

へたに身分が高かったりするのも、当時は生きにくい時代だったかもしれないですね。


ハーレムで仕事を? マジで?
カール1世皇女 シャルロッテ・フォン・エスターライヒ
メクレンブルク公ゲオルグ夫人


1921~1989

シャルロッテは、カール1世とツィタの次女です。
一家がスイスへ亡命中にプランジャンで生まれました。
       
   
第二次大戦中、一家はアメリカに避難しました。
シャルロッテは1934年からマンハッタンのイーストハーレム近くで福祉の仕事を始めました。

どうやら一家はアメリカに渡ってからかなり困窮したみたいなんですよね。
皇女だからといって安穏と日々を送れるわけではなかったのでしょう。
何もしないで一家で過ごすというのも息が詰まりそうですしね。

しかしさすがに本名では…ってわけでシャルロッテ・バーと名乗っていました。

ヨーロッパに戻ってからメクレンブルク公ゲオルクと結婚しました。
この人は大戦中ナチスの強制収容所に入っていたこともあります。
式は一般的なものだったそうです。
1956年、もはや戦後…貴族とはいっても栄華は過去のものとなってしまったようです。

ゲオルクは再婚でシャルロッテの22歳上です。
恋愛結婚だろうか? 貴族同士が結託するために結婚したんじゃないでしょうね?
二人にお子様はいません。

1963年にゲオルクが亡くなりましたが再婚はしていません。
1989年、母ツィタの死から4ヶ月後ミュンヘンで亡くなりました。
激動の一生です。 おつかれさまでしたと言ってあげたいですね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヴァレリア

2011-06-08 01:34:48 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
母の溺愛にうんざりしたかも・・・
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヴァレリア・フォン・エスターライヒ
皇帝軍騎兵将軍フランツ・サルヴァトール夫人


1868~1924

マリア・ヴァレリアは、フランツ・ヨーゼフ1世とシシィの三女です。
三人目の子供、皇太子ルドルフ誕生から10年後に生まれた子です。

シシィは体型維持のため妊娠したがらず、シシィが最も好きだったハンガリーに
フランツ・ヨーゼフが譲歩することを条件に生んだ子でした。
マリア・ヴァレリアは、1867年のフランツ・ヨーゼフ&シシィの
ハンガリーでの戴冠式から、かっきり9ヶ月後にブダで生まれています。
そのため “ ハンガリーの子 ” というニックネームがつきました。
シシィのお気に入り、アンドラーシ・ジュラ宰相の娘だという噂もありましたが
顔がフランツ・ヨーゼフに似てたってことで、噂は聞こえなくなりました。

さすがに皇太后ゾフィーも(寄る年波?)取り上げることはなく
シシィが自分で育てることができた唯一の子供でした。

      
ゾフィーは妹(シシィの母)ルドヴィカに宛てて
“ もう夢中で愛を注ぎ込んでいるわよ ” と手紙を書いています。
そりゃそうだろうよ、ゾフィーのおかげで今まで自分で育てられなかったんだもの。

しかし、親の溺愛が子供にとって嬉しいことばかりだとは限りませんね

シシィの、ギーゼラとルドルフに対する接し方とマリア・ヴァレリアの扱いが
あまりにも違うので、マリア・ヴァレリアは宮廷で “ 一人っ子 ” と呼ばれていました。
マリア・ヴァレリアだって微妙な気持だったでしょうが、姉と兄もいい気はしませんよね。
寂しい思いが倍増して、マリア・ヴァレリアに意地悪の一つや二つしたかもしれません。
シシィの愛情表現が猛烈すぎて圧倒されて、ひどく大人しい娘に育ったとも言われています。

それにシシィからハンガリー語を話すよう強要されて苦痛を感じていました。
父フランツ・ヨーゼフとドイツ語で話している時が楽しいひと時だったようです。

マリア・ヴァレリアは1886年に舞踏会で会ったフランツと愛を育み
1890年に結婚しました。
マリア・ヴァレリアのお相手には、ザクセン王太子フリードリヒ・アウグスト(3世)か
ポルトガル王太子カルルシュ(1世)などが考えられていましたが
自分も恋愛結婚を果たしたフランツ・ヨーゼフが娘の望みを叶えてあげたのかしら?
「相手が煙突掃除人でも、愛する人と結婚させてあげる」と宣言していた
シシィの後押しが大きかったのかもしれません。

身分が低いと思われるフランツとの結婚は、兄ルドルフを怒らせました。
2年かけてなんとか和解にこぎつけて、やっと実らせた恋でした。
そのかわり、マリア・ヴァレリアはオーストリアの継承権を放棄してています。

マリア・ヴァレリアも姉ギーゼラ同様赤十字への貢献など慈善活動に打ち込み
第一次大戦中は城内を野戦病院として解放しました。
また、とても信心深い女性で “ バート=ヴァルトゼーの天使 ” と呼ばれていました。

1889年の兄ルドルフの自殺、1898年のシシィの殺害はマリア・ヴァレリアに
大きなショックを与えましたが、その後はフランツ・ヨーゼフの大きな支えとなって
慰めを与えました。
シシィを失って愛妾カタリーナ・シュラットとしっくりいかなくなった皇帝に
再婚を勧めたりしてますしね。

マリア・ヴァレリアと夫フランツの仲は悪くはなかったようですが
年が経つうちにフランツが浮気を繰り返すようになり、だんだん冷めていきました。
フランツのお相手には、後にヒトラーのスパイとして知られるようになる。
ホーエンローエ公子夫人シュテファニー・リヒターもいて、子供も生まれていました。

第一次世界大戦の敗戦をうけてハプスブルク家帝国の権利を放棄する書類に正式に署名した
マリア・ヴァレリアは、その後も邸宅で暮らすことを許されてすごしていましたが
6年後の1924年にリンパ腫で亡くなりました。

姉ギーゼラは、“ マリアは死を待ち望んでいて、まるで回復したくないみたい。
正気のうちに会いに行かなくちゃ ” と書いています。
早く天に召されたいほどつらいことでもあったんでしょうか?

マリア・ヴァレリアはバルゼー=Sindelburgの教会に葬られましたが
数千人の人々が棺に従ったといううことです。
母の葬儀とは大違い…

お子様は10人生まれています。
特筆することは特にないんですけど…
長女エリーザベトはヴァルトブルク=ツァイル=トラウヒブルク伯ゲオルクと結婚しましたが
38歳で亡くなってしまいまして、その後三女ゲルトルードが後妻として嫁いでます。

夫フランツはマリア・ヴァレリアが亡くなった翌年メラニー・フォン・ライゼンフェルスと
再婚しましたが、こちらは貴賤結婚とされました。

姉ギーゼラもマリア・ヴァレリアも人々に慕われる良い娘に育ちましたね。
ギーゼラは祖母、マリア・ヴァレリアは母親に違った教育を受けているわけですから
持って生まれたものなのでしょうか? 父フランツ・ヨーゼフの性格によるものか…?

子供たちの嫁ぎ先などを見てみましても、ハプスブルク家は、というより貴族社会が
本格的に斜陽を迎える時がきたようです。

(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇女 ギーゼラ

2011-06-06 22:39:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
母の愛を知らずに育った “ 善き天使 ”
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 ギーゼラ・フォン・エスターライヒ
ドイツ・オーストリア=ハンガリー軍元帥レオポルト夫人


1856~1932

弱腰のフランツ1世の後に即位した、さらに弱々しいフェルディナント1世と
皇后マリア・アンナにはお子様がいませんでした。

フェルディナント1世を継いだのが “ ハプスブルク家最後の輝き ” フランツ・ヨーゼフ1世、
そして皇后はあの、 “ シシィ ” エリーザベトです。

二人には4人のお子様が生まれました。
皇女は3人で、長女ゾフィーは一家でハンガリーへの旅行中、3歳で亡くなりました。

ギーゼラはフランツ・ヨーゼフ1世とシシィの次女になります。
      
シシィがゾフィーを生んだ時、フランツ・ヨーゼフ1世の母后ゾフィーは
さっさと子供を取り上げて自分で育てることにしました。
同じように次女のギーゼラも長男のルドルフもゾフィーに育てられました。
皇太子ルドルフはマイヤーリンク事件で有名ですね。

フランツ・ヨーゼフ1世は子煩悩だったようで、子供たちが使っていたものを
保管しておいたり、クリスマスに詩を贈ったりしていたようです。
エリーザベトはウィーンを嫌って始終留守にしていましたので
どちらかといえば父親の愛情を多く感じていたかもしれません。

1873年に、バイエルン王 “ 美女大好き” ルートヴィヒ1世の孫にあたる
レオポルトと結婚しました。
ハプスブルク家の年長の娘なのに、王様クラスと結婚していないのよ、どう思う?

フランツ・ヨーゼフ1世がレオポルトの両親に宛てた手紙によると
カトリックの王子が少ない中で、レオポルトだけが信頼に足る…ということでした。

ですので、バイエルンサイドでは大喜び! ギーゼラは大歓迎を受けます。
二人が暮らしていたレオポルト宮殿の向いの道路にはギーゼラの名前がつけられました。

ギーゼラは慈善活動に熱心で、いくつもの慈善団体に名を連ねていたということですけど
こういうエピソードは多いので割愛しますね。
第一次世界大戦中夫レオポルトが元帥として東部前線に出兵すると
宮殿を病院にして軍人を受け入れました。

1918年に革命が始まると王家は都市から避難しましたが、ギーゼラは留まって
初めて20歳以上の女性が投票したワイマール国民議会に一役かいました。

また、チロル=ザルツブルク間を結ぶ鉄道や支援者にも名を連ねています。

お母様と違って、市民生活にアクティブに関わってらっしゃったんですね。
ここらへんは政治好きな祖母ゾフィーによる教育によるものでしょうか?

おかげでワイマールでは “ ウィーンからやって来た天使 ” と呼ばれました。

旦那様との仲も良かったようで、1923年には金婚式を迎えました。
その7年後にレオポルトが亡くなり、さらに2年後にギーゼラが亡くなりました。
夫婦並んでミュンヘンの聖ミヒャエル教会に葬られています。

お子様は四人生まれ(家系図省きましたが)次女アウグステと長男ゲオルクか
ハプスブルク家の皇子・皇女と結婚しています。

弟の皇太子ルドルフについては、幼い頃に母の愛を知らずに育ったことや
祖母&父と母の教育方針の違いなどが、後年自殺事件をおこす要因のひとつとも
言われていますが、ギーゼラにはあまり影響がなかったんでしょうか?

やはり、女性の方が逆境に強かったり順応性があったりするのかしら?
そういえば、各王国の王侯貴族の娘は平気で海外に嫁がされちゃっていたんだものね。
それだけじゃなくて敵の国だったりしたわけですから、強くないとやっていけないかも…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ1世皇女 マリア・クレメンティーナ

2011-06-04 15:24:30 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ここから二人、家系図だけお楽しみ下さい
フランツ1世皇女 マリア・クレメンティーナ・フォン・エスターライヒ
サレルノ公レオポルド妃


1798~1881

弱腰で神聖ローマ皇帝の座を捨て、オーストリア皇帝で妥協しちゃったフランツ1世は
なぜか結婚には積極的で4回結婚しています。

一人目の妃エリーザベト・フォン・ビュルテンブルクには
長女ルドヴィカ・エリーザベトが生まれましたが1歳で亡くなりました。
三人目の妃マリア・ルドヴィカ、四人目の妃カロリーネ・アウグステ
ともにお若かったんですがお子様はできませんで
フランツ1世の長女を除く、12人のお子様は全て二人目の妃マリア・テレジアのお子様です。

12人のうち皇女は8人、次女マリア・ルイーゼはフランス皇帝ナポレオン1世に、
五女マリア・レオポルディーナは、ブラジル皇帝ペドロ1世に嫁ぎました。

マリア・クレメンティーナは、フランツ1世の六女です。
三女マリア・カロリーネ、四女カロリーネ・ルドヴィカは幼いうちに亡くなりました。
      
姉のマリア・ルイーゼやマリア・レオポルディーナのインパクトが強すぎるのか
それ以外の皇女のエピソードが見当たりません。

1816年に母の弟サレルノ公レオポルドと結婚しました。
お子様は4人ですが、3人が幼くして亡くなりました。
唯一成人したマリーア・カロリーナは父方の従兄弟オマール公アンリに嫁ぎました。

夫レオポルドは1851年に亡くなっています。
マリア・クレメンティーナは長生きで83歳で亡くなりました。
フランスに移っていたみたいでシャンティイ城で亡くなりました。
娘のマリーア・カロリーナについていったんでしょうかね?
しかし娘は母親に先立ち、1869年に亡くなっています。



              
同じく、家系図だけを・・・
フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ
ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世妃


1801~1832/在位せず

マリア・カロリーナはフランツ1世の七女です。
八女マリア・アンナは精神的な病があり、未婚のまま54歳で亡くなりました。
九女マリア・テレジアは生後3日で亡くなりました。
     
マリア・カロリーナは1819年にドレスデンで、また従兄弟にあたるのかしら?
ザクセン王太子フリードリヒ・アウグスト(後の2世)と結婚しました。
31歳で亡くなりました。

フリードリヒ・アウグストはその後マリア・アンナ・フォン・バイエルンと再婚しました。
マリア・アンナの双子の姉妹ゾフィーはマリア・カロリーナの弟フランツ・カールに嫁ぎ
その皇子が後にフランツ・ヨーゼフ1世としてオーストリア皇帝に即位します。
フランツ・ヨーゼフ1世の妃は、有名な“シシィ” エリーザベトでございます。

マリア・クレメンティーナとマリア・カロリーネは、江村洋先生の本でも
“ごく平凡な人生をおくったと言ってよいであろう” って一行で終わってしまってます。
華やかな姉妹がいるとなかなか陽の目があたりませんね。
何百年後になっても性格があーだこーだ言われるよりはいいかしら?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト2世皇女 マリア・クレメンティーナ

2011-06-02 21:56:53 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
弱まるハプスブルク家血族結婚の効力
レオポルト2世皇女 マリア・クレメンティーナ・フォン・エスターライヒ
両シチリア王フランチェスコ1世妃


1777~1801/在位せず

マリア・クレメンティーナは、レオポルト2世とマリア・ルドヴィカの三女です。

次女マリア・アンナはプラハのテレジアン修道院に入って39歳で亡くなっています。
        
1790年に従兄弟のカラブリア公フランチェスコ(後の1世)との婚約が決まり
代理人と挙式もしましたが、実際に結婚したのは1797年でした。
フランチェスコの母はレオポルト2世の妹マリア・カロリーナです。

マリア・クレメンティーナとフランチェスコの結婚を含む、兄のフランツ2世
(オーストリア皇帝では1世)とフランチェスコの姉マリア・テレジアの結婚、
兄トスカーナ大公フェルディナンド3世とフランチェスコの姉マリア・ルイーザの結婚をもって
オーストリア帝国のハプスブルク家とナポリ王家間の婚姻は終焉を迎えます。

どちらもナポレオンによって君主としての精彩を欠いているような状態ですからね…
ヨーロッパ各国は、旧態依然とした王制・婚姻による外交がまかりとおらない時代を
迎えようとしていたのかもしれません。

マリア・クレメンティーナの父レオポルト2世は、即位後わずか2年で亡くなりましたが
名君の誉れ高い人でした。
長生きしていたらハプスブルク家の行く末も少し違っていたかもしれないですね。
なにせフランツ2世は気が弱いから…

マリア・クレメンティーナは、二人目の子供を生んだ直後から健康を崩し
翌年亡くなりました。
肺疾患か肺炎だということです。
二人目の子供、フェルディナンド王子も2ヶ月前に亡くなっていて
その側に葬られました。

フランチェスコはその後、スペイン王カルロス4世とマリア・ルイサの王女で
従姉妹にあたるマリーア・イザベッラと再婚しました。
本当にカルロス4世の子かどうかはおいといて…と

マリア・クレメンティーナの王女カロリーナはフランス王ルイ10世王子
ベリー公シャルル・フェルディナン妃になりました。
孫にあたるアンリは、再び王政復古が成ればアンリ5世として即位できましたが
ご存知のように王政復古はなかったのでシャンボール伯として人生を終えました。

当時ヨーロッパ諸国の王や大公、君主は、フランス革命の自国への余波に続き
ナポレオンによる侵略・廃位・亡命の脅威にさらされていました。
あと100年早く生まれていたら、もう少し安泰に暮らせたかしら?
う~ん 結局は土地を獲ったり獲られたりの争いがあったので一緒かも…
戦争はいやですね、 権力が欲しい上の方の人だけでやってほしい…
最高権力者とか軍の最高司令官同士の一騎打ちなんかいいんじゃない?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト2世皇女 マリア・テレジア

2011-06-02 02:30:50 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
モーツァルトを怒らせちゃったことがある
レオポルト2世皇女 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
ザクセン王アントン妃


1767~1827/在位 1827

フランツ1世の後を継いだヨーゼフ2世と最愛の妃マリア・イザベラ・フォン・パルマには
二人の皇女が生まれましたが、長女マリア・テレジアは7歳の時突然亡くなり
次女マリア・クリスティーナは出産の時に亡くなりました。
マリア・イザベラも数日後に亡くなりました。

二人目の妃マリア・ヨーゼファはヨーゼフからまったく相手にされず
お子様はできませんでした。

ヨーゼフ2世の後即位したレオポルト2世と皇后マリア・ルドヴィカは子だくさんで
男の子12人、女の子3人の、15人のお子様が生まれました。
王侯貴族の家系図をいろいろ書いておりますと
たぶん、女の子の方が政治的には役に立ったんじゃないかなぁ、なんて思ったりして…

マリア・テレジアは、レオポルト2世とマリア・ルドヴィカの長女で
レオポルト2世がトスカーナ大公時代にフィレンツェで生まれました。

       
1787年にザクセン選帝侯子アントンと結婚しました。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』は、結婚式典の一環で新郎新婦が訪れる
プラハで演じられることが決まって台本が献上されていました。

しかし、伯父ヨーゼフ2世は『フィガロの結婚』に差し替えるよう命令しました。
『フィガロの結婚』は新婦になる女性には相応しくないと多くの人が思ったそうです。
なぜかしらね? 陰険なヨーゼフ2世の嫌がらせかしら?
結局アントンとマリア・テレジアは早々に席を立ったそうですよ。
モーツァルトはこの件でブーリブリ 文句を書き連ねた手紙を友人に送ってます。

アントンとの間に子供が4人生まれていますが、皆幼くして亡くなりました。

1827年、義兄フリードリヒ・アウグスト1世が嫡子無しで亡くなったので
アントンはザクセン王に即位しました。
でもザクセンはナポレオン戦争の時にナポレオン側に加担して敗戦したために
すでに領土の大半を失っていました。

マリア・テレジアは夫の即位から数ヶ月後にライプツィヒで亡くなっています。

マリア・テレジアの実家ハプスブルク家は反ナポレオン連合の筆頭国ですから
敵国になるのは避けたかったでしょうね。

夫を尻に敷くタイプの、女帝マリア・テレジアの皇女たち、たとえば
マリア・アマーリアマリア・カロリーナみたいな女性だったら
もしかしてザクセンを説得するか牛耳ることができたかもしれません。
おとなしい人だったのかしらね?

(参考文献 Wikioedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ

2011-05-30 00:48:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
嫁ぎ先で張り切りすぎた皇女
フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ
ナポリ=シチリア王フェルディナンド4世妃


1752~1814/在位 (ナポリ王妃)1768~1806 (シチリア王妃)1768~1812

マリア・カロリーナは、フランツ1世とマリア・テレジアの十女です。
妹のマリー・アントワネットと一番仲が良くて
どちらかが病気になるともう一方が寝込む…というほどでした。
しかし、二人揃ってお行儀が悪かったみたい…

         
1767年、ナポリ王フェルディナンド4世と婚約していた姉のマリア・ヨーゼファ
天然痘で急死しました。
フェルディナンドの父スペイン王カルロス3世は、同盟維持のため代わりを要求してきます。
マリア・アマーリアはフェルディナンドより年上だったので
マリア・カロリーナが選ばれました。

マリア・カロリーナはナポリへ嫁ぐのを泣いて嫌がりました。
しかしマリア・テレジアが聞くかいな!  1768年、お嫁に出されてしまいます。

初めてフェルディナンドに会ったマリア・カロリーナは「醜い…」と思ったとか。
手紙にも “ 絶対彼を愛せないと思う ” と書いています。
一方フェルディナンドもマリア・カロリーナのことは気に入らなかったようです。
でもさすがに皇帝の娘と王の息子だけあって、世継ぎづくりは怠りませんでした。

嫌々嫁がされてきたものの姉のマリア・アマーリアとは違い
マリア・カロリーナは母マリア・テレジアの指示を聞いていたみたいです。
まずは、夫フェルディナンドの興味を狩猟に向けさせ、国政を掌握しようとしました。
王子が生まれてからはさらに権力を強くしようとしました。

この後、マリア・カロリーナの座を脅かす政治家ベルナルド・タヌッチの起用をめぐって
義父カルロス3世と一悶着をおこしたりするんですが省きますね。
姉マリア・アマーリアと同じようなことしますね…
カルロス3世は「あの姉妹、やめときゃよかった 」と思ったことでしょう。

結局タヌッチがいなくなった宮廷は、マリア・カロリーナと寵臣アクトン男爵が
二人で仕切っていたようなものでした。
またスペイン貴族が退去させられ、新オーストリア派の貴族に一新されました。
兄ヨーゼフ2世のアドバイスでナポリ海軍の強化にも乗り出しました。

アメリカと同盟を結んでイギリスに宣戦布告したスペインのカルロス3世とは
アクトン男爵(イギリス人)の処遇をめぐって、またまた悶着をおこしましたが
これも釈明の手紙などで切り抜けました。

マリア・カロリーナとアクトン男爵は恋人同士だと噂されていて
夫のフェルディナンド4世の耳にも入っていました。
フェルディナンドは二人を不意打ちしてやろうと狙っていてスパイもつけました。
「殺してやる~!」と脅したりもしたそうです。

夫婦の和解が成って、カステッランマーレに移ったアクトン男爵でしたが
週3回はマリア・カロリーナと会うためにナポリを訪れていたらしい…ミエミエね。

マリア・カロリーナの政治的な動きについては長~くなるからはしょってきますが
まずは悪化していたローマ教皇との関係改善をすすめたこと、
子供たちの結婚については、夫を無視して母親ゆずりの政略結婚をすすめたこと、
フランス革命後、啓蒙君主主義を捨て反動(保守)の道を選んだこと…などなどです。

また、ナポリを12の地域に分割して長官たちに取り締まらせることにしました。
これは地域への分権ではなくて監視の強化のためで、秘密警察とスパイが増加しました。

スパイたちから自分の不人気ぶりを知ったマリア・カロリーナは革命などを恐れて
イギリスと軍事同盟を結ぼうと考えました。
ジョージ3世王妃シャーロット・オブ・メクレンブルクに面会を願い出て
断られたマリア・カロリーナは、身を落として大使夫人エマ・ハミルトンに会っています。
(この女性もけっこうスキャンダラスな人なんですけど、それはまた別の機会に…)

いいこともしてますよ。
ナポリの食糧危機の際には姉マリア・アンナとともに私財を投じて穀物を買い入れました。

細かいことははしょりますが、マリー・アントワネットの投獄後
マリア・カロリーナは怒り心頭でフランスとの関係を一切絶とうとし
フランス語を「野蛮人の言葉だ」と言って一切しゃべろうとしませんでした。

その後スペインによる領土譲渡があったり、対フランス戦への参戦などがありましたが
結局1806年に夫フェルディナンドは廃位されて、ナポリ王の座は
ナポレオンの兄ジョゼフ(ジョゼッぺ)にもっていかれてしまいました。

シチリア王座は1812年に廃位され、息子のフランチェスコが摂政に就きました。
これはフェルディナンドというより、マリア・カロリーナの力を削ぐためでした。

マリア・カロリーナはオーストリア追放の翌年、1814年に亡くなりました。

フェルディナンドはなんと! マリア・カロリーナの死から2ヶ月後に
ルチア・ミリアッチョという女性と再婚しています。
1816年、フェルディナンドは、シチリアとナポリを併合し両シチリア王に即位しましたが
ルチアとの結婚は貴賤結婚とされたため、ルチアには王妃の称号はありません。

とにかく政治への関心が高くて精力的な女性だったようですね。
こんな激動の時代ではなくて、100年ぐらい早く生まれていたら名君と言われていたかも…
マリー・アントワネットと足して2で割ればいい感じだったんじゃないでしょうか。

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wkipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・ヨーゼファ

2011-05-28 12:39:20 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お嫁入り直前の悲劇
フランツ1世皇女 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ


1751~1767

マリア・ヨーゼファは、フランツ1世とマリア・テレジアの九女です。
七女マリア・カロリーナは生まれてすぐに亡くなり
八女マリア・ヨハンナは12歳の時に天然痘で亡くなりました。

実はマリア・テレジアは予防接種の支持者で、子供たちの全員に
天然痘の予防接種を受けさせて効果を実証しようとしたのですが
マリア・ヨハンナには裏目にでちゃったみたいです。

         
いくら大ハプスブルク帝国の公女とはいえ九女ともなると、あまり日の目を見ない立場ですが
姉たちが亡くなったり嫁いだりして、さらにヨーゼフ(2世)妃マリア・イザベラが亡くなると
マリア・ヨーゼファは姪(ヨーゼフの王女)のマリア・テレジア、
姉のマリア・アマーリアに続くVIPになりました。

マリア・ヨーゼファは、本当に可愛らしい少女でした。
従順な性格で、陰気で神経質な兄ヨーゼフのお気に入りでした。

女帝は最初にマリア・アマーリアをナポリ=シチリア王フェルディナンド1世に
嫁がせようと考えましたが、フェルディナンドの父スペイン王カルロス3世が反対しました。
年上だったからですかね?

そこでフェルディナンドと同じ年のマリア・ヨーゼファが候補に挙がりました。
縁談話は進み、まさに婚礼のためにウィーンを発とうとした時
マリア・ヨーゼファに天然痘の兆候が現れます。

女帝は(ヨーゼフ妃)マリア・イザベラの棺に祈りを捧げた時に罹病したと主張しました。
たしかにマリア・ヨーゼファは、発病の二日前にマリア・イザベラの墓所を訪れていました。
しかし、天然痘の発疹が出るのはだいたい一週間後です。
さては、姉同様予防接種のせいなのか…

いずれにしてもマリア・ヨーゼファは回復せず亡くなってしまいました。

マリア・テレジアの一家には天然痘による死亡者が多いですよね。
治療や隔離が困難だったのでしょうか?

マリア・ヨーゼファの代わりとして、妹のマリア・カロリーナがナポリへ嫁ぎます。
これがナポリにとって良かったのか悪かったのかは…つづく

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・アマーリア

2011-05-27 12:01:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お母様のせいで恋がかなわず・・・
フランツ1世皇女 マリア・アマーリア・フォン・エスターライヒ
パルマ公フェルディナンド妃


1746~1804

マリア・アマーリアは、フランツ1世とマリア・テレジアの六女です。
美人ぞろいの皇女たちの中でもひときわ美しくて社交界の人気者でした。
宮廷で詩などを朗読すると、うっとりする声で人々を魅了したそうです。

女帝マリア・テレジアは良妻賢母と言われていますけれども
けっこう子供たちに対して分け隔てがあったみたいなんですよね。
溺愛されていたのは、将来帝国を継ぐことになるヨーゼフ(2世)と四女ミミです。

マリア・アマーリアは女帝から横柄でうるさい娘だと思われていて
始終姉たちと較べられていました。
        
マリア・アマーリアは22歳の時、ウィーン宮廷を頻繁に訪れていた
ハンサムで知的なツヴァイブリュッケン公カールと恋に落ちました。
カールは傍系とはいえヴィッテルスバハ=プファルツ家で、ツヴァイブリュッケンの君主、
うまくいけば将来バイエルンとプファルツの継承もできるかもしれませんでした。

しかし女帝と宰相カウニッツは二人の結婚に難色を示しました。
実はオーストリアは、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが亡くなったら
バイエルンを獲得しようと考えていました。
(マクシミリアン3世の母はヨーゼフ1世皇女マリア・アマーリア
 妃は同じくヨーゼフ1世皇女マリア・ヨーゼファの娘マリア・アンナです)
バイエルンの継承が可能なカールとの結婚は政治上好ましくないと考えたようです。

それに、イタリアでの力を強化するため、マリア・アマーリアを
ブルボン家のナポリ王かパルマ公に嫁がせたいと考えていました。

マリア・アマーリアはミミを引き合いに出して必死で反抗しましたが
パルマ公フェルディナンドの姉マリア・イザベラを妃に迎えていた兄ヨーゼフ(2世)が
強力に後押しして、結婚が決まってしまいました。

ツヴァイブリュッケン公は怒ってウィーンを後にし、二度と足を踏み入れなかったそうです。

1769年、マリア・アマーリアは泣く泣くフェルディナンドと結婚しパルマに渡りました。
長~くなりそうなので結婚後についてははしょっていきますね。

当時パルマは、イタリアを手中に収めたいと狙っていたフランスとスペインから
財政援助を受けていました。
ハプスブルク家もくい込もうとして、女帝はローゼンベルク伯という顧問を
マリア・アマーリアに同行させて、ウィーンから逐一指示を送りました。

パルマ公フェルディナンドは政治に興味がなく遊興に耽っていて
マリア・アマーリアはすぐに政治の実権を握ることができたのですが
女帝の指示はほぼ無視! ローゼンベルク伯は追っ払われてしまいました。
怒った女帝はマリア・アマーリアの手紙を開封せず送り返したりしたそうです。
母と娘の溝はかなり深かったみたいで生涯和解できませんでした。

ところで、母娘の溝を作った元凶ともいえるミミなんですけど
おせっかいなことにパルマを訪問しています。
ミミが女帝にチクったところによれば、マリア・アマーリアはめっきり太った上老けて
華やかさも失ったということでしたが、ミミは兄弟姉妹の悪口を言うのが好きですからね。

マリア・アマーリアは風変わりだけど気は好くて勇敢な女性と言われていました。
嫌々嫁いだわりに、夫との仲もそんなに悪くなかったみたいです。

女帝やミミとは不仲のマリア・アマーリアでしたがマリー・アントワネット
ナポリ王妃になった妹マリア・カロリーナとは仲が良くて
手紙やドレス、贈り物のやりとりを続けていました。
マリー・アントワネットが監獄で書いた最後の手紙は密かに届けられました。
妹の処刑を知ったマリア・アマーリアはフランスを嫌悪するようになりました。

ナポレオンの侵攻が始まり、イタリアの各国も次々に侵略されていきます。
息子ルイージはトスカーナに建国されたフランスの傀儡国エトルリアの王に即位しました。

1802年にフェルディナンドが亡くなるとマリア・アマーリアは摂政に任命されましたが
数日でフランス共和政から職が解かれ追放されました。
息子は傀儡王になっているのに、なぜでしょうね?
厄介者と見られたのでしょうか? 反フランス!を見せすぎましたかね?

マリア・アマーリアはプラハ城で暮らし、2年後に亡くなりました。

無理矢理な政略結婚だったのに、結局うまくいかなかったとは…誰に怒りをぶつけますかね?
マリア・テレジアの娘たちは、結局ミミ以外は不幸だったような気がします。
筆まめでお小言を書き送ったというだけで賢母というのもどうだろう…と
ふと考えたりして…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・エリーザベト

2011-05-24 23:00:14 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
災い転じて・・・かもしれない
フランツ1世皇女 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ


1743~1808

マリア・エリーザベトは、フランツ1世とマリア・テレジアの五女です。
(亡くなった長女と同じ名前なのですが、当時先に亡くなった子と同じ名を
 後に生まれた子供につけることはよくありました。
 ただ、親族の誰の名を継いでいるかで区別していたようです)
皇帝の娘たちの中で一番美しいと評判でした。
宮廷ではリースルと呼ばれていました。

             
王妃マリー・レクザンスカを1768年に亡くしたフランス王ルイ15世は
リースルと再婚したいと考えていました。
ルイ15世、その時58歳、お元気なことですな。

しかし、リースルのフランス王妃への夢は突然に断たれます。
天然痘に罹ってしまったんですね。
幸い命は助かったものの、顔には痘痕が残ってしまいました。

でも、もしルイ15世と結婚していても、すぐにデュ・バリー夫人が登場しますからね。
しなくて良かったかもしれない…

リースルは、病に罹る前は姉マリア・クリスティーナ(ミミ)
激しい争いを巻き起こしていました。
どちらが美しいか、どちらが人々の注目を集めるか…そりゃあ熾烈だったそうです。
悪口の言い合いもハンパじゃなかったらしい…

しかし、天然痘に罹った後は結婚そのものをあきらめたようです。

1780年にマリア・テレジアが亡くなると
兄のヨーゼフ2世からインスブルックの修道院長に任命されて
ナポレオンに同調したバイエルン王国にチロル地方が奪われる1806年まで
修道院長を務めました。

ウィーンへ戻った後リンツへ移り、1808年に亡くなりました。

同じ年にクラーゲンフルトに赴いた姉マリア・アンナとは
しばしば仲良くやりとりしていたそうですが、弟レオポルト(2世)によれば
それは共通の敵ミミに相対する時だけで、それ以外の時にはけっこう悪口三昧だった様子…

美しいまま年をとり、フランスへ嫁いでいたらどうだったでしょうね?
気も強そうだし、デュ・バリー夫人の好敵手になり得たかもしれない…

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・クリスティーナ

2011-05-24 22:59:59 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お母様のお気に入りは姉妹たちに嫌われる…てパターン
フランツ1世皇女 マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ
テッシェン公アルブレヒト妃


1742~1798

マリア・クリスティーナは、フランツ1世とマリア・テレジアの四女です。
三女マリア・カロリーナは1歳で亡くなりました。

マリア・クリスティーナは母マリア・テレジアと同じ誕生日ってこともあってか
とにかく女帝のお気に入りで、ミミと呼ばれていました。

           
ミミは美しいだけでなくて芸術的才能も持ち合せていたということですが
そんなことはおいといて…とにかく女帝の依怙贔屓ぶりは大変なものでした。
また、ミミも母親を上手く操る術を身につけていました。

ミミは、従兄弟にあたるサヴォイア家のベルナドット・マリアの妃に予定されていましたが
彼女には意中の人がおりました。
相手はザクセン選帝侯子アルブレヒトです。
女帝の従姉妹マリア・ヨーゼファの息子で、家柄は悪くはないんだけど
なにせ六男で継承の見込はなく、普通なら聖職につくか軍隊に入るってところです。

もちろんフランツ1世は大反対してました。

1765年にフランツ1世が亡くなると、ミミはおセンチになっている女帝を説得し
愛する人と結婚してもいいという許しを得ました。
女帝の皇女の中で恋愛結婚を許されたのはミミだけです。

さらに女帝はミミに莫大な持参金を与え
結婚後はアルブレヒトをハンガリー総督に任命しています。

他の兄弟姉妹がミミにすごい嫉妬を感じるのもしょうがないですよね。

特にミミの妹マリア・アマーリアは恋愛中の相手がいたのに
無理矢理パルマ公に嫁がされて激怒し、ミミどころか女帝とも不仲になります。

兄のヨーゼフ(2世)も長男を差し置いて母の愛を独り占めしているミミが気に入らず
弟のレオポルト(2世)も口やかましくなんにでも首をつっこむミミが嫌いでした。

ミミは兄弟姉妹についてすぐに女帝に告げ口し、しかも巧みなもんだから
女帝と子供たちの間に度々トラブルをおこしていました。
兄ヨーゼフの妃マリア・イザベラには弱々しく取り入って親友になり
皇太子妃を支配下に置こうなんて考えます…なんか、すごく狡猾な人ね。

マリー・アントワネットは姉たちに手紙を書く時
フランス製のドレスや肖像画なども送っていますが、ミミには送りませんでした。
ミミがフランスを訪問した時もヴェルサイユで一般客のように接しました。
プチ・トリアノンでプライヴェートに会いたいという申し出も断っています。
久しぶりに会う姉妹だっただろうに…そんなに嫌われ者?

そのかわりミミには、女帝から山のような贈り物が届いていたというから
「別にあんたたちの贈り物なんかいらないよーだ」と思っていたかもしれません。

マリー・アントワネットが処刑された時ミミは
「再婚相手を探す必要がなくなって良かったじゃない」と言ってのけたそうですよ。
実の妹よ、ヒドくない?

1780年にネーデルラント総督に任命されたアルブレヒトとミミは12年間その座にいました。
ラーケン宮殿を建てて、莫大な美術品をコレクションしました。
これもすべてお母様の愛のお力よね。

夫婦の仲はとても良かったそうで、幸福な結婚生活だったということですが
子供は女の子が一人生まれただけで、しかも生まれた翌日に亡くなりました。

兄弟姉妹との仲は悪くても、強力なバックがついていたから気にならなかったでしょうね?
他の兄弟姉妹と違って好きな時に女帝に会うことができて、シェーンブルン宮殿にいる時は
女帝よりいい部屋を使っていたっていうんだから…
概ね幸せな人生だったんじゃないかとお察しします。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 
      テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・アンナ

2011-05-24 22:59:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
華やかな一家の陰で生きた皇女
フランツ1世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ


1738~1789

フランツ1世とマリア・テレジアに16人のお子さんが生まれたのは有名なお話し。
皇女は11人で、有名なのはなんと言っても十一女のフランス王ルイ16世妃
マリア・アントニア(マリー・アントワネット)ですよね。
さて、他の皇女の皆さんはどんな人生を送られたんでしょうか?

長女のマリア・エリーザベトは3歳で亡くなっています。
マリア・アンナは次女で、宮廷ではマリアンネと呼ばれていました。

          
マリアンネはとても知的な女性でした。
でも、詳しいことは不明なんですけど(脊椎カリエス説あり)
身体的にちょっと悪いところがありました。
最初の縁談が破談になってからはお妃候補にあげられることがありませんでした。

皇子誕生を待ち望む中生まれてきた二人目の皇女で、すぐに皇子ヨーゼフ(2世)が生まれ
病弱だったマリア・アンナは、最初から女帝の目をひきませんでした。

加えてマリア・クリスティーナという女帝のお気に入りと
マリア・エリーザベトという各王室で評判になるほどの美しい娘が生まれて
もはやウィーン宮廷にマリアンネの居場所はないようなものでした。

マリアンネの唯一の理解者と思えた父フランツ1世が亡くなると
女帝はプラハに設立した貴族の娘たちのための帝国立修道院の院長に
マリアンネを指名しました。
この地位はマリアンネに80,000フローリンの年収をもたらすことになりました。

しかし荷が重かったか、マリアンネは健康を理由にプラハを訪れることなく
珍しく女帝と大喧嘩をしてまでクラーゲンフルトのエリーザベト修道院の行きを希望します。
エリーザベト修道院は貧しい人々のための修道院で、格も収入も落ちます。
しかし、修道院長クーエンベルク伯夫人はマリアンヌの数少ない親交の相手でした。

女帝はマリアンネが死にかけた時に一度だけ、娘を愛していると言う声明文を出しただけで
マリアンネに必要以上の愛情をかけてはいなかったようでした。
しかし女帝が肺炎になり死を迎えようとしていた時、ずっと看病したのはマリアンネです。

女帝が亡くなると、マリアンネは弟のヨーゼフ2世から修道院行き急き立てられ
クラーゲンフルトへ向かいました。
この時、女帝は遺言でマリアンネへの報酬を一切減らさないように明記しています。
これがなければヨーゼフは年俸を減らしていたはずです。

家具、リネン、ワインなどをヨーゼフからさんざん削られた上で出発したマリアンネは
自ら州知事に質素な出迎えを要請しています。

マリアンネのクラーゲンフルト行きは町に誇りと活気をもたらします。
病院や修道院も改装されました。
また、名を秘して貧しい人や病人に寄付していたそうです。

修道院に入った後も、家族との関係を絶ったわけではなく
特にマリア・エリーザベトとはしばしば仲良くしていたようです。

マリー・アントワネットはヴェルサイユへ向かう途中でこの修道院に立寄り一泊しています。
姉妹で名残惜しい夜を過ごしたことでしょうね。

1789年のナポリの食糧危機では、妹のナポリ王妃マリア・カロリーナとともに
自前で代金を払って穀物を送り出しました。

マリアンネを忌み嫌っていたヨーゼフ2世も、病院の改装などにあたっては
(しぶしぶですが)資金を出しています。

マリアンネは死の直前までクラーゲンフルトがあるケンテルンの人々に謝意を表し
51歳で亡くなりました。
埋葬は質素なものでしたが、かつてないほど人々が嘆いたそうです。

小さな頃から疎まれたり蔑まれたりしているとひねくれてしまうことも多々ありますが
マリアンネの場合は人の痛みがわかる指導者としての性格形成に役立ったようですね。

クラーゲンフルトに移ってからは、奉仕や芸術・学問について語り合える友人ができ
新たに学び始めた考古学についてもアクティブに活動できたりして
宮廷ですごすより、きっと幸せでしたよね?

(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』)
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神聖ローマ皇帝カール6世皇女 マリア・アンナ

2011-05-18 23:05:54 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お姉様と一緒に恋を実らせたちゃっかり者
カール6世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
ロートリンゲン公子カール・アレグサンドル夫人


1718~1744

マリア・アンナは、カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの次女で
姉は、あの、マリア・テレジアです。
他に兄レオポルトと妹マリア・アマーリアがいましたが幼くして亡くなりました。

         

マリア・アンナには、7歳の時に最初の縁談が持ち込まれました。
相手は5歳の、パルマ公フィリッポ(後のスペイン王フェリペ5世)公子フィリッポでした。

兄のヨーゼフ1世が存命中、カール6世はスペイン王位を狙って戦っていました。
戦況は優勢で、もう少しでスペイン王、というところでヨーゼフ1世が急逝し
神聖ローマ皇帝に即位しました。
この上スペイン王にまでなられたら…とイギリス・オランダが大反対!
結局スペインはブルボン家のものになります。

そんなわけで、ハプスブルク家とブルボン家の関係修復にもってこいと思われたこの縁談は
すぐに署名されました。
条件の中にはハプスブルク家がスペインの権利を一切放棄することと
スペインのジブラルタル海峡進撃にオーストリアが派兵することも含まれていました。

しかし、パルマ公妃エリザベッタが戦争をやめようと考え
セビーリャ条約を結んじゃったもんだから、ハプスブルク家の援護は不必要になり
マリア・アンナとの結婚は棚上げになりました。

だいたい、縁談もエリザベッタが持ち込んで来たのよね。
かかあ天下で政治も仕切っていたというエリザベッタ…身勝手ね。
継子や嫁に対しても冷たかったみたいだし、嫁に行かなくてよかったよ

さて、ここから恋のお話しですが…
マリア・テレジアの夫フランツ(1世)は子供時代からウィーンで教育を受けていました。
弟のカール・アレクサンダーも一緒に来ていて
マリア・アンナと恋に落ちちゃいました。

誰もが驚いたマリア・テレジアとフランツの結婚を許したカール6世でしたが
マリア・アンナには政治的にもっと強力な婿がいいなぁ、と考え反対していました。

でも頑張ったみたいですね。
マリア・アンナは、1740年にカール6世が亡くなった時、22歳でしたが未婚です。
たぶんいくつか縁談はあったと思います。
だってハプスブルク家の後継者になるかもしれないんだもん。
その度に父上と大げんかをする姿が目に浮かぶわ。

母のエリーザベト・クリスティーネがやっと結婚を許して
1744年、晴れて結婚致しました。

結婚後すぐ、二人は伯母マリア・エリーザベトの後任として
ネーデルラント総督に任命されました。
政治的に穏健で人気がある総督だったようです。

結婚から2ヶ月後、カールはオーストリア継承戦争でプロイセンと戦うために出兵しました。
マリア・アンナは妊娠していたのでブリュッセルに留まったのですが
これが二人のお別れになってしまいました。
やっと結婚できたのに、なんて可哀想なことかしら…たった2ヶ月とは…

1744年12月、マリア・アンナは子供を産みましたが死産でした。
ものすごい難産で、彼女自身も回復しないまま亡くなってしまいました。

夫のカール・アレクサンダーはその後も、1780年に亡くなるまで
ネーデルラント総督の座についていましたが、再婚はしませんでした。
32歳だから再婚相手には困らないと思うんだけど…
もしかして、すっごいセンチメンタリスト?
現実の結婚生活でうんざりするより、美しい思い出と共に生きたる道を選んだか?

ロマンチック気分にすごく水を差しちゃうけど
ハプスブルク家の婿としてネーデルラント総督の座にとどまっていたかったのかも…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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