まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スコットランド王ジェイムズ2世王女 マーガレット

2016-01-12 18:42:50 | スコットランド王妃・王女
        肖像画が無いので、すごい美人と言われた曾孫アグネス・ダグラスを

愛人の座を選んだ王女
ジェイムズ2世王女 マーガレット・スチュワート


1455~没年不明

いろいろあってブログをアップしない間に年が明けてしまった…
おめでとうごさいます。 今年もよろしくお願いします。

では新年第一号、スコットランド王女マーがレットにまいります。
マーガレットはジェイムズ2世とメアリー・オブ・グェルダーの末っ子です。
生年は1453~1460年とかなり曖昧です。
1460年に父王ジェイムズ2世を、1463年に母メアリーを亡くしています。

イングランド王太子エドワード、初代クラランス公ジョージ・プランタジネット
エドワード4世の義弟リヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルなどと婚約したり
縁談があったりしたのですが、いずれも破談になりました。

縁談があった方々の関係はこんな感じ。
       
ヨーク家もランカスター家もスコットランドを抱え込んでおきたかったみたいですね。
遡ればヨークもランカスターもプランタジネット家なんだけど…

さて、マーガレットですが、破談が先かこちらが先かは不明ですが
3代目クリントン領主ウィリアム・クリントンの愛人でした。

1478年に娘マーガレットが生まれてる説があるのですが、そうすると
アンソニー・ウッドヴィルと婚約した頃には、お付き合いが始まっていたことになるかも…

ウィリアム・クリントンは、意図的にマーガレットに近づき、まんまと落としたそうです。
これは政治的野心とかからではなくて、自分の奥さんが、マーガレットの兄ジェームズ3世と
不倫してるらしいと気がついたかららしいです。

浮気された夫の復讐として、どうして王妃のマーガレット・オブ・デンマークじゃなくて
妹にいきましたかね?

なんでもジェイムズ3世は妹マーガレットをものすごく可愛がっていて
近親相姦のウワサもあったほど…
         

王女マーガレットは、そんなウィリアムの気持ちを知っていたのか知らなかったのか
いずれにしても、その誘惑に負けてしまいまして、ウィリアムと愛し合うようになりました。
マーガレットは家名を汚すふしだらな娘と囁かれるようになってしまいました。

しかし、妹が可愛いジェイムズ3世は、マーガレットが生んだマーガレット(ややこしい…)を
宮廷で育てることを許していました。

それなのに、ウィリアム・クリントンは、ジェイムズ3世に反乱を起こした
王弟オールバニー公アレグザンダーに加担して反乱に加わり
自分の領地をオールバニー公軍の駐屯地に貸し出したりしています。
妻を獲られた夫の恨みはおそろしいっすね!

反乱は失敗に終わり、オールバニー公が破れ処刑された後
ウィリアムは広大な領地とタイトルを剥奪され、イングランドに追放になります。

ここからはウォルター・スコットの記録によりますが
ウィリアムがイングランドに追放になってすぐ、本妻が亡くなったそうです。
一方、マーガレットはウィリアムがいなくなって半狂乱になっていました。

ジェイムズ3世は、妹の悪評を払拭しようと、ウィリアムの罪を解くと妹と結婚させました。
自分に反旗を翻した人物だけど、妹のことを考えたらしかたない…と思ったんですかね?

スコットの記述によると、その後はクリントン家の領地で過ごしたことになってるので
帰国も許されたようですね。
しかし、没年もわかりませんのでね… 王家とは没交渉だったのでしょうか?

近代の歴史家の中には、マーガレットのことを冷淡に評している人もいるようです。
「その美しさにかかわらず下劣な人格」とか「美しかったが評判は最低以下」とかね。

不倫、近親相姦と話題性充分な王女ですよね。
本当にスキャンダラスな女性だったのか、ただ恋に一途なだけの女性だったのか
キャラクターがわからないのが残念ですね。

で、突然ですが、スコットランド王女編は最終回です。
なぜか…

ジェイムズ3世と王妃マーガレット・オブ・デンマークには、王子ばかり三人が誕生。
ジェイムズ4世と王妃マーガレット・テューダーには王子が四人おりますが
王女は二人とも流産しました。
ジェイムズ5世の王女は、ご存知メアリー・スチュワートです。
ジェイムズ6世からはイングランド王女編をごらん下さい。

(参考文献 森護氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとこと予告コーナー
あいかわらず、次の準備をなーんにもしてない…
スコットランド編最終回を先延ばしにしている間に準備しようと思っていたんですけどね…
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ2世王女 メアリー

2015-12-02 21:58:44 | スコットランド王妃・王女
          肖像画が無いので、お母さまのメアリー・オブ・グェルダーを…

舅の欲と兄の欲の犠牲になった王女
ジェイムズ2世王女 メアリー・スチュワート
アラン伯トマス・ボイド夫人/ジェイムズ・ハミルトン卿夫人


1453~1488

ジェイムズ1世の後を継いだジェイムズ2世と王妃メアリー・オブ・グェルダーには
五男二女のお子様がいました(長男は生後すぐ亡くなっています)。

メアリーは長女で、8歳で即位したジェイムズ3世の、2歳年下の妹です。
1467年、14歳ぐらいでトマス・ボイドと結婚しました。

トマス・ボイドの父ロバート卿は、母メアリーとセント・アンドリューズ司教の
ジェイムズ・ケネディという後見人を亡くした14歳の王ジェイムズ3世を抱え込み
自らが王のように振る舞っていた人物です。
王族との繋がりを持っていずれは王家に…なんて考えて息子と王妹を結婚させたのかしら。
          
メアリーの持参金はアラン島で、トマスはアラン伯に叙位されました。
結婚後すぐに男の子が生まれ、翌年には女の子が生まれています。
政略結婚ですが、仲が良さそうでよかったですね。

結婚から2年後、トマスはジェイムズ3世のお妃になるマーガレット・オブ・デンマーク
エスコートするために、デンマークへ行くことを命じられます。
実はジェイムズ3世は、ボイド一族の打倒を計画していました。
トマスのデンマーク行きは、トマスと強力な一族を引き離す作戦だったようです。

メアリーは兄王の意志を察知すると、リース港に向かい、夫に警告を与えました。
しかも警告を与えるだけでなく、一緒に出航しちゃったみたいです。

出航後トマスは捕らえられ、称号も勲章も領地も全て没収されてしまいます。
そして、トマスの弟は反逆罪で処刑されました。

けれども、ジェイムズ3世はこの時18歳なのよね、しかも繊細で気弱な王様だったそうで
自分で下した決断というよりは、反ボイド派な貴族たちにのせられてしまったみたいです。

それでも夫の無実を訴える妹メアリーをディーン城に閉じ込めて
トマスとの結婚が無効になるまで出してあげませんでした。

何もかも奪われたトマスのその後の消息ははっきりしていません。
1471年から1473年の間に、アントワープで亡くなったとされています。

結局メアリーとトマスの結婚は、1473年に無効となりました。
その翌年、メアリーはジェイムズ・ハミルトン卿の後妻になります。
ジェイムズ・ハミルトンはメアリーよりも40歳ぐらい年上でした。
         
トマス・ボイドの時にはアクティブなエピソードがあったメアリーですが
再婚後はどんなふうに暮らしていたのかまったくわからないっす。
35歳で亡くなりました。

二人には二男一女のお子様が生まれています。
16世紀、メアリー女王の時代に、孫のジェイムズ・ハミルトンが
政治の舞台で活躍したようです。
また、娘方の玄孫ヘンリー・スチュワートが、メアリー女王の夫になります。
この二人の息子が後にイングランドのスチュワート家へと繋がっていきます。

本人のエピソードは少なくとも、王家にとってはかなり重要な人物と言えそうですね。
せめて肖像画ぐらいあってほしい…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことドラマコーナー
『下町ロケット』 何が気になるって、要潤の次に気になってしかたがない小泉孝太郎が悪役じゃないのぉ
でも、社運がかかってる&高視聴率ドラマ出演、頑張ってね~! さらにバカリズムが今後どう動くのかも気になります
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ1世王女 エリナー

2015-11-18 22:46:13 | スコットランド王妃・王女
ペンを走らせた王女
ジェイムズ1世王女 エリナー・スチュワート
オーストリア大公ジギスムント1世妃


1433~1480

ジェイムズ1世とジョアン・ボーフォートの四女エリナーは、姉のイザベラ同様に
文学好きで詩集が出版されたという父王の血を受け継いでいました。

フランス訪問後、16歳で、チロルを治めていたオーストリア大公ジギスムントと結婚します。

ジギスムントはフランス語があまり得意でなく、忌み嫌っていましたが
中世騎士物語や実話が好きで、自分でも執筆していました。
夫婦で文章を愛するなんて素敵ですわね。
ただ、この方は政治的にはあまり優秀ではなかったようです。

エリナーは『ガリシアの王子の歴史(直訳)』の、フランス語からドイツ語への翻訳に
携わったそうで、この本は広く親しまれたらしいです。

1480年に出産で亡くなったというのですが、47歳の時なのよね…
なにかの間違いじゃないだろうか?
男の子を生んだみたいなのですが、一緒ぐらいに亡くなったみたいで
ジギスムントには後継ぎはありませんでした。
オーストリアのシュタムスに葬られました。

ジェイムズ1世の五女メアリー(1434~1465)は、さらーっと流すと
10歳(?)で、グラーンプレイ伯子ウルフレドと結婚します。
これは、スコットランドと現在のベネルクス三国あたりの結びつきの強さを示すためでした。
1465年に亡くなりました。
            


理不尽な離婚を乗り越えた王女
ジェイムズ1世王女アナベラ
ジェノヴァ伯ルイージ・ディ・サヴォイ夫人
2代目ハントリー伯ジョージ・ゴードン夫人


1436~1509

いよいよ六女、末っ子のアナベラの名は、祖母アナベラからいただいてます。

1447年、11歳ぐらいでジェノヴァ伯ルイージと結婚しました。
なのですが、1458年にフランスのシャルル7世からの要請でこの結婚は無効になります。
なぜにいきなり?
この後ルイージは従姉妹にあたるキプロスの女王シャルロットと再婚して
自分もキプロス王になるのよね…
しかも離婚は、シャルロットの夫ジョアン・デ・コインブラの急死のすぐ後なのよね…
いろいろ渦巻いてますね。

スコットランドに戻ったアナベラは、2代目ハントリー伯ジョージ・ゴードンと再婚します。
          

ところがところが、1471年、アナベラはまたまた離婚するハメに…
理由は、ジョージ・ゴードンの最初の妻エリザベス・ダンバーとアナベラが
3親等か4親等で、同族との結婚にあたるからってことらしいんだが…
そんなの離婚理由になる? 前妻と今の妻が親戚で何がいけないんだろう?
宗教的な理由なのでしょうか? 
だけど子供が(一説によると)6人も生まれた後ですよ。 何をいまさらって感じじゃない?
         
その後ジョージ・ゴードンは自分の娘を三人目の妻の弟と結婚させてます。
こっちの方がびっくりするでしょ。

離婚から38年後に73歳で亡くなってますが、離婚後のエピソードはありません。
一人で寂しく老後を送ったのか、「せいせいしたわ!」と、おひとりさまを楽しんだのか
気になるところ… でも、きっと人生を楽しんでいたと考えましょう。

(参考文献 森護氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー


今年のBIGBANGはものすごーく楽しかったよぉ!やはり新曲があると嬉しさUPです
あ~! テソンのドラマー姿!もしっそっそ…  ところでスンリって前からあんなに関西弁だったっけ?
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ1世王女 ジョアン

2015-11-11 23:12:03 | スコットランド王妃・王女
身振り手振りで会話した王女
ジェイムズ1世王女 ジョアン・スチュワート
初代モートン伯ジェイムズ・ダグラス夫人


1428~1486

ジェイムズ1世とジョアン・ボーフォートの三女ジョアンは、生まれつき耳が聞こえず
“ 沈黙の貴婦人 ” として知られていました。


ジョアンは、17歳までスコットランドで教育を受けていましたが
当時は聾唖者に対するちゃんとした教育がありませんでしたので
手話というより、身振り手振りという受け取られ方をしていたと思いますし
いつも接している一部の人にしか解らなかったかもしれません。
また、公の場でそのように会話することは、無礼なことだと見なされていたようです。

ひとくちメモ
手話は、1760年にフランスの神父が聾唖学校を設立して教育を行っていた際に
そこで読み書きを学んでいた人々がサインを出し合って作り上げたものだそうです


12歳ぐらいでアンガス伯ジェイムズ・ダグラスと婚約しましたが
アンガス伯は、ジョアンが姉マーガレットに会いにフランスに行っている間に
亡くなってしまいます。

マーガレットが亡くなった後、王太子ルイ(11世)との結婚話もあったようですが
意思表示が十分できないということで実らなかったようです。
でも、実らなくってよかったと思うわ。

ジョアンは12年ほどスコットランドには戻らず、フランス宮廷か
姉のイザベラがいるブルターニュで過ごしていました。
後にハプスブルク家に嫁ぐ四女エリナーも一緒だったので、心強かったでしょうね。

フランスでの婚活はうまくいかなかったみたいで、29歳の時
スコットランドに呼び戻されダルケイス男爵ジェイムズ・ダグラスと結婚します。
けっこう晩婚ですね。
ジェイムズ・ダグラスはジョアンの2歳年上で初婚です。
この結婚でモートン伯爵に叙されています。

ジョアンとジェイムズ・ダグラスは、ジョアンの弟ジェイムズ2世から説得されて
結婚しましたが、仲睦まじさで知られています。
亡くなったのも同じ1493年で、ジョアンが4ヶ月夫に先立って亡くなっています。
肖像画の変わりに載せているのは二人の棺です。
仲良く並んでいますね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと野球コーナー
ぼーっとしてたら世界野球プレミア12が開幕していたという…
小久保ジャパン、頑張ってください。 西武のおかわり君が活躍しますように…
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ1世王女 イザベラ

2015-11-05 22:00:24 | スコットランド王妃・王女
実家に寄りつかなかった王妃
ジェイムズ1世王女 イザベラ・オブ・スコットランド
ブルターニュ公フランソワ1世夫人


1426~1494

ロバート1世王女マージョリーの後は、名前と嫁ぎ先はわかるのですが
特にエピソードがないので箇条書きでだだっと紹介します。
嫁ぎ先はほとんどが国内の有力貴族なので省略します。

ロバート1世と二人目の妃エリザベス・ドゥ・バラには二男二女のお子がいました。
長女はマーガレット、次女マティルダ、二人は1515年~1518年の間に生まれています。
エリザベスがイングランドから解放された後ということになりますね。

デイヴィッド2世とジョアン・オブ・イングランド、それからマーガレット・ドゥラモンドには
嫡子がありませんでした。

ロバート2世とエリザベス・ミュアには、マーガレット、マージョリー、ジョアンナ、イザベラ
キャサリン、エリザベスという王女がいました。
二人目の妃ユーフィミア・ドゥ・ロスには、エリザベスとエギディアの二人。

ロバート3世とアナベラ・ドゥラモンドには、マーガレット、メアリー、エリザベス
エギディアの4人。

なお、列記した王女たちの何人かがダグラス姓の貴族と結婚しています。
ダグラス家の家系図は、もしかするとスコットランド王家より面白いかもしれません。
でも女性陣のエピソードが少ないのよね。 機会があったらいつか…

やっとジェイムズ1世です。

ジェイムズ1世とジョアン・ボーフォートには、二男六女のお子がいました。
長女マーガレットは、フランス王ルイ11世妃になります。

さぁ、次女イザベラですよぉ。
       
イザベラはマーガレットより美しかったと言われています。

ブルターニュ公ジャン6世は、イザベラを息子の嫁にしましょう…と考え
外交官たちにイザベラのポートレイトを送らせました。
彼らは帰国すると、確かにイザベラは噂どおり美しくて優雅だが
ちょっと “ おバカさん ” かもしれない…と報告したそうです。

ブルターニュ公は「よっしゃ!」って感じで、すぐイザベラを連れて来いと命じました。
「イザベラ以外に考えられない、賢い女よりよっぽどいい」って言ったそうです。

フランソワとイザベラの祝宴は8日間も続いたそうですよ!
よっぽど嬉しかったらしいですね。

おバカさんよばわりされたイザベラですが、詩の才能はあって
これは父親ゆずりだそうです。
姉のマーガレットの死に際して書いたイザベラの詩は、今でも残っているそうです。

1450年、夫フランソワの死をうけて、イザベラの弟のスコットランド王ジェイムズ2世は
しつこくイザベラにスコットランドへ戻って来るよう説得します。
イザベラはまだ24歳、政治的に利用しようと思ってたに違いないですよね。

でもイザベラは、帰国を断固拒否します。
ブルターニュの方がスコットランドより楽しく、人気もあったみたいです。

また、ジェイムズ2世が約束の持参金を払ってくれないとグチをこぼしていたそうで
その仕返しもあったかもしれませんね。

1494年に68歳で亡くなりますが、イザベラは40年ぐらい「私は病気なの!」と
おおげさに言い張っていました。
小説とかでよく、病気を盾にワガママを通そうとする女性が登場するんですけど
そんな感じですかね?

なんだか姉とは正反対ですね。
イザベラがフランス王妃になれば良かったのかもしれないね。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
わたくし、メンバーの名前をやっと覚えたばかりで、タイトル曲しか知らず、もちろんコールも知らないのですが
明日東京ドームにEXO観に行って来ます。 でもSMTOWNで楽しかったから、きっと楽しいと思ふの…
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ロバート1世王女 マージョリー

2015-11-04 22:04:39 | スコットランド王妃・王女
            肖像画が無いので中世のスコットランド貴婦人を再び…

王女にさえならなければ… 可哀想すぎる人生
ロバート1世王女 マージョリー・ブルース
ウォルター・スチュワート夫人


1296~1316

女王マーガレットが戴冠どころか上陸もしないで亡くなったため
スコットランド国内は混乱に陥ります。
ここからの王位継承にはイングランドがいろいろ横槍をいれてきます。

まずエドワード1世の傀儡王ジョン・ベイリャルが即位します。
ジョンと妃イザベル・ドゥ・ワーレンの間には二男二女がいます。
アグネス or モード or アンという名の長女はフィッツアラン卿ブライアン夫人になり
次女マーガレットは未婚でした。
一瞬名ばかりのスコットランド王になったエドワード・ベイリャルは
たぶん結婚していたと思うんだけどお子様の名が見あたらず…

次にブルース家のロバート1世が即位して、空位時代に幕を引きます。

測位に先だつこと10年前、ラブラブだった妃のイザベル・マー
マージョリーを生むと、すぐ亡くなりました。
        
マージョリーが6歳の時に、父ロバートがエリザベス・ドゥ・バラと再婚し
10歳の時に王になります。 マージョリーは王女になります。

しかし、戴冠からわずか3ヶ月後にメスヴァンの戦いでイングランドに敗れてしまいます。
ロバート1世は、王女マージョリーと妃エリザベス、彼の二人の姉妹を北へ逃がしますが
四人は結局捕まってしまいイングランドへ引き渡されました。

ジョン王は人質イザベラを手荒には扱っていなかったようですが
エドワード1世はまったく違う扱いをします。
人質の女性たちは、それぞれ別の場所に入れられました。

どうやらエドワード1世は妃のエリザベスの実家を見方につけたかったようで
エリザベスはヨークシャーの荘園に送られました。
可哀想なのはロバートの姉妹と、援護者のバカン伯夫人で、各々夫が処刑されたり
送られた城で檻に入れられ人目に晒されたりしました。

マージョリーは、本当はロンドン塔に入れられることになっていたのですが
エドワード1世の意向で、ノーフォークのワットン修道院に入れられました。

エドワード1世妃マーガレットは王をとりなすのが上手だったそうだけど
この件はなんとかしてあげられなかったのかしらね?

メスヴァンから1年ぐらい後に、ロバート1世はイングランドに大勝してるんですけど
人質解放はできなかったみたいです。
エドワード1世を継いだエドワード2世も5人を解放せず
マージョリーは修道院に入ったままで7年が過ぎてしまいました。

1314年、バノックバーンの戦いで捕らえられたイングランド貴族たちと交換する形で
やっとマージョリーは解放されます、が、戦いで功績をあげた
6代目ハイ・スチュワードのウォルター・スチュワートにご褒美として嫁がされます。
やっと自由になったのに~! ご褒美とは!!
ただ歳は近いみたいなので、戦いで名を上げた英雄と恋に落ちたと考えたいですね。

結婚から2年後、マージョリーは妊娠中だったのですが、乗馬をしていて落馬しました。
マージョリーは産気づいて近くのペイズリー修道院に運ばれ、苦痛の中出産しますが
数時間後に亡くなりました。 母親同様19歳で亡くなっています。

前々から思っていたんだが、妊娠中って乗馬OKなの?
乗馬してて流産したり死産だったりする王侯貴婦人がわりといるんすけど
けっこうお腹に響きそうだし、落ちたら大変じゃない?

マージョリーが生んだ息子は生き延び、嫡子がいないデイヴィッド2世を継いで
ロバート2世になり、スチュワート王家がスタートします。
せめて子供だけでも助かってよかったですね。

19年の短すぎる人生の中で、幸せだったのは何年ぐらいだったんだろうね?
もともと王家じゃなかったのに、わざわざ王様になったりするから…
娘も嫁も姉妹もいい迷惑… じゃない?

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
観月ありさの結婚式にはなんの興味もなかったわけだが、BIGBANGがかけつけたって!? なぜか? 
全員? スンリだけ? キャサリン3世からの縁ですか? お祝いに歌とか歌っちゃった? いきなり興味しんしん
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王アレグザンダー3世王女 マーガレット

2015-10-28 15:49:40 | スコットランド王妃・王女
         肖像画が無いのでお嬢様のマーガレット・メイド・オブ・ノルウェイを…

悲劇の女王の母
アレグザンダー3世王女マーガレット・オブ・スコットランド
ノルウェー王エーリック2世妃


1261~1283/在位 1281~1283

ウィリアム1世の後を継いだアレグザンダー2世には、庶子では一人、娘さんがいたようですが
王妃ジョアン・オブ・イングランドとマリー・ド・クーシーとの間には
王太子アレグザンダー(3世)以外に子供はいませんでした。

アレグザンダー3世は、スコットランドに一時的に復興をもたらした賢王です。
王妃マーガレット・オブ・イングランドには、王女マーガレットと
王太子アレグザンダーの一男一女が生まれています。
         
マーガレットは20歳の時に、13歳のノルウェー王エーリック2世に嫁ぎました。
これはアレグザンダー3世が、長年に渡るノルウェーとの抗争を終わらせて結んだ
平和条約の一環で、完全に政略結婚でした。

条件には、ノルウェー領だったヘブリディーズ諸島とマン島の、スコットランドへの譲渡
ノルウェーによる、シェトランド諸島及びオークニー諸島の支配の容認などがありましたが
エーリック2世とマーガレットの子供のスコットランド王位継承も含まれていました。

マーガレットは2年後に初めての出産で王女マーガレットを生みましたが
その後しばらくして亡くなりました。

その翌年に王太子アレグザンダーが嫡子の無いまま亡くなり
アレグザンダー3世も二人目の妃ヨランド・オブ・ドウリュウとの間に嫡子無しで
亡くなったため、マーガレットの娘マーガレットが、スコットランド女王として
即位することになりました。

マーガレットも22歳という若さで亡くなってしまいましたが
その娘マーガレットはさらに儚い人生でした。

本当に王様の娘として生まれることが幸せだったのでしょうか?
この母娘のエピソードだけ見ても、お姫様がハッピーな立場ではないような気がしてきます。
魔法をかけられるだけの白雪姫とか眠り姫が幸せ者に思えるよ…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
昨日は楽しかったですよぉ。 ファンミならではしっとり系Boys Meet Uなんかも聞けちゃって幸せ!
でもって、今日はこれからさいたまスーパーアリーナに行ってまいります。 うふふ 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ウィリアム1世王女 マーガレット

2015-10-26 22:41:25 | スコットランド王妃・王女
            肖像画がないので、中世のスコットランド貴婦人の図を…

完全に戦利品として嫁がされた三姉妹
ウィリアム1世王女 マーガレット・オブ・スコットランド
ケント伯ヒューバート・ドゥ・バラ夫人


1193~1259

マルカム3世王女メアリーから、時代が飛びますよ。

マルカム3世の次に即位したドナルド3世は、母親はだれかわかりませんが
ベソックという王女がいたもようです。
次のダンカン2世とエセルリーダには王子しかいなかったもよう。
エドガーは未婚、アレグザンダー1世は嫡子無しです。
続くデイヴィッド1世には、セシリアとホディエルナ(?)という王女がいましたが未婚。
そしてマルカム4世は未婚。

ふぅぅ、やっとウィリアム1世までやってまいりました。

ウィリアム1世とアーマンガード・オブ・ボーモントには一男三女のお子様がいます。

長女マーガレットは、28歳でケント伯ヒューバート・ドゥ・バラと結婚します。
28歳、当時としては晩婚ですし、相手はすでに4回結婚していました。

      

ウィリアム1世は、まずイングランドのヘンリ-2世と、続いてジョン王と戦っていました。
しかし結局敗れまして、王妃と次女は人質にとられてしまいました。
そして、人質解放の際、ウィリアム1世の3人の王女は、すべてイングランド貴族と
結婚するように!という条件も入っていました。
相手もイングランドから指定されました。
きっと交渉中は結婚できなかったのだと思います。

ケント伯は、当時イングランド宮廷でかなりの権力者だったようですが
マーガレットがどれくらいエラそうに振る舞えたかどうかは不明。
1259年に亡くなりました。



人質だったけど、ジョン王はやさしかったらしい…
ウィリアム1世王女 イザベラ・オブ・スコットランド
ノーフォーク伯ロジャー・ル・バイゴッド夫人


1195~没年不詳

父王ウィリアム1世は、1209年に、王妃アーマンガードと次女イザベラを人質として
イングランドに来させるようにと命じられました。

二人はイングランドに到着すると、自分の領土の権利を主張していた
エリナー・オブ・ブリタニーと共にコルフェ城に投獄されました。

でもジョン王は3人の淑女を酷い目には合わせていなかったみたい…
ローブとか時計とか、スリッパなんかを送っていたらしいです。
また、護衛付きでしたが遠乗りなんかも許されていたそうです。
ジョン王はけっこう評判が悪かったりするのですが、これはかなりポイント高いですね。

釈放されると、イザベラは条件によって14歳年下のノーフォーク伯ロジャー・バイゴッドと
結婚しました。 この結婚は不幸なものだったみたいです。
ロジャーは、王侯貴族お得意の「血族関係だから」を理由にイザベラを拒んだりした様子。
14歳年下かぁ… 二人には子供はいませんでした。

ロジャーは一応結婚を継続していたみたいですが、それは形式的なものだったみたい。
イザベラは1263年にはグローチェスターで暮らしていたんではないかと思われています。
グローチェスターはノーフォークからは離れているのよね。
没年はわかりません。

なお、三女マージョリー(1200~1244)は、同じ条件によって
ペンブローク伯ギルバート・マーシャに、後妻として嫁いでいます。

弟のアレグザンダー2世は、ジョン王の王女ジョアンと結婚しています。

戦争に負けるって、下々の人たちも大変ですが、王侯貴族にとっても辛いことよね。
特に敵方に嫁がされちゃう女性陣にしてみたら、本当にいい迷惑。
やらなきゃいいのにね…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
明日人生で2回目のファンミに行ってまいります
そんなわけで、『Sing Your Song』を猛勉強中
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王マルカム3世王女 メアリー

2015-10-23 22:08:40 | スコットランド王妃・王女
          肖像画が無いので母のマーガレット・オブ・ウェセックス像

まわりマティルダばっかり…
マルカム3世王女 メアリー・オブ・スコットランド
ブーローニュ伯ユースタス3世妃


1082~1116

家系図シリーズは初心にもどって英国方面でいこう! と思います。 というのは少し嘘…
ポーランド王妃編が終了し、どこにしましょう? と迷っていましたが
なんの準備もしていなかったので、一番人数が少ないところを選んでしまいました。

こちらも王妃同様女性陣がなかなか登場しませんので
マルカム3世の王女からからスタートしようと思います。

ちなみに、その前に顔を出す王女は、ケニス3世王女ベレデ(マクベス妃グロッホの母)と
マルカム2世王女ベソックとドナウダです。
ベソックの結婚がダンケルド(アサル)家に王座をもたらします。
          

マルカム3世には六男二女のお子様がいましたが、王子のうち4人が王になってます。
すごく熾烈な王位継承争いがあったと予想されますね。
王女は二人とも、二人目の妃聖マーガレットとの間に生まれています。

長女マティルダ(スコットランド名エディス)は、イングランド王ヘンリー1世妃になります。
次女メアリーが今回の主役。

        

メアリーは4歳の時、信心深い両親によって、姉のエディスと共に
母方の伯母が修道院長をしているロムジーの修道院に入れられました。
11細の時に、教育の仕上げをするためウィルトン修道院に移ります。

エディスとメアリーはものすごく敬虔な少女時代を送っていたため
二人とも修道女になるつもりでした。

しかし、まず姉のエディスがヘンリー1世と結婚します。
エディスは結婚生活が幸せだったのか、メアリーが14歳で修道院を出ると
「あなたも結婚しなさいよぉ」と言ったかどうかは知らないですけど
妹も結婚するよう望みました。

そこで、「よしよし、まかせとけ」と言ったかどうかは知りませんが
ヘンリー1世がブーローニュ伯ユースタスとの結婚をアレンジしました。

どんな夫婦だったのかはわかりませんが、結婚生活は20年におよびました。
だけど、子供は娘のマティルダだけでした。
娘のマティルダはブロワ家のエティエンヌと結婚します。
彼が後にイングランド王スティーブンとして即位するのですが
その際マティルダは、神聖ローマ皇后妃マティルダと熾烈な争いを繰り広げます。

皇后マティルダは、メアリーの姉エディス(ヘンリ-1世妃マティルダ)の娘なので
メアリーの姪にあたります。
二人のマティルダは従姉妹同士で争ったことになりますね。

勝手な想像ですが、エディスとメアリーは一緒に親元を離れて修道院で育ったから
姉妹仲は良かったんじゃないかと思うのよね。
なのに娘たちが権力の座をめぐって、国を巻き込む大喧嘩をするとは…

ただ、エディスとメアリーはその大喧嘩の前に亡くなってますので
娘たちの諍いを見ずにすんでよかったですね。
天国で「困った娘たちだわねぇ、メアリー」「そうね、お姉様」なんて
語り合っていたかもしれないです。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
なんだかKポ界に続々日本人がデビューしてますけど、言葉とか習慣とかの違いも乗り越えて、キツい練習にも耐えて
えらいよねぇ、遊びたい年ごろだろうに… デビューしたからには末永く頑張ってほしいですね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド女王 メアリー

2009-01-25 01:18:53 | スコットランド王妃・王女
天国と地獄をみた
スコットランド女王 メアリー・ステュワート


1542~1587/在位 (スコットランド女王)1542~1567
           (フランス王妃)1559~1560

あまりにも有名な女王メアリーは、イングランド女王エリザベス1世
比較されることが多いのですが、どちらサイドにたって書かれたのかで
かなり印象が違う女性です。(歴史って、えてしてそんなものですけどね)

メアリーは父王の死によって生後6日で女王に即位しますが
なにしろ赤ちゃんですからね、もちろん何もできるわけではありません。
しかし幼い女王には花婿候補がぞくぞく現れます。
ヨーロッパはカトリック、プロテスタント入り乱れて覇権争いのまっただ中で
スコットランドを手中におさめたい国は数多ありました。

中でもイングランドのヘンリー8世は、王太子エドワードとの結婚を
しつこくしつこくせまります。
スコットランドは国力も低下していてイングランドと闘う力はありません。
イングランド支配は逃れたいものの、面と向かって断る勇気もありません。
結局、王太后メアリー・オブ・ギーズの意向で、5歳の時にフランスに留学させられます。

ゆくゆくはフランス王太子フランソワとの結婚がみえみえなこの留学、
スコットランドはイングランドを警戒し、影武者を2、3人たてるほどの用心をします。
メアリーは無事フランスに到着しました。

フランスでのメアリーについては、“ フランス王妃篇 ”
やる気か?私は)でふれるとして
未亡人となってイングランドに帰国してからのメアリーを簡単にご紹介。

フランス宮廷において、屈指のラグジュアリー&ゴージャスな生活を送ってきたメアリーは
即座にスコットランドの宮廷に退屈しはじめ虚しさを募らせていきます。

スコットランドにとって、若き未亡人メアリーは最大の外交手段だったのですが
彼女はそんなことおかまいなしに、手近なところで婿を見つけ再婚してしまいました。

相手は彼女の従兄弟にあたるダーンリー卿ヘンリー・ステュワートで
イングランド仕込みの小粋な青年でした。
メアリーはすぐに心奪われ4ヶ月で結婚しますが、この結婚は半年で破綻します。

ちなみにメアリー同様、ダーンリー卿も
ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーの孫にあたり
二人の息子ジェイムズ6世がイングランド王位を継ぐ要因になります。

       

嫉妬深い夫に寵臣リッチオを殺され、軟禁されたメアリーは
脱走に手を貸してくれたボスウェル伯ジェイムズを愛するようになります。
翌年、ダーンリー卿が変死しますが、付近にボスウェル伯がいて疑われたこと
さらにはそのボスウェル伯とメアリーが結婚したことで
スコットランドはメアリーを廃位し、幼い息子(またですか?)を即位させます。

抵抗を試みたものの失敗し、ボスウェル伯も失ったメアリーは
エリザベス1世を頼ってイングランドに逃走します。
これはかなり厚顔無恥な行動です。

自らにイングランドの王位継承権があるメアリーは
かねがねエリザベス1世の王位継承の不当性を訴えていて
自分の紋章にイングランド王の紋まで入れていました。

エリザベス1世だって困ります。
一応親族ではあるし、人目もあるしで無下に扱う訳にもいきません。
そんなわけで(かなり自由な)軟禁状態におくわけですが
メアリーは助けてもらっていながらその後もイングランド王位を主張したり
反エリザベス派と会ったりして全く反省する様子がありませんでした。
軟禁から19年後、とうとうクーデターの首謀者として処刑されることになります。
(無実だという説もありますが)

なんていうのでしょう、生まれながらの女王ですから
人の上に君臨していない自分というのが理解できなかったのでしょうね?
一度味わったら忘れられない権力者の蜜の味・・・返り咲きたかったのでしょうか?
ただ、生まれながらの女王にしてはかなり思慮に欠ける女性であったような気がします。

この後、スコットランド王ジェイムズ6世は、母親があんなに欲しがっていた王位を継承して
イングランド王ジェイムズ1世となります。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』『英国王室史話』)
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ5世妃 メアリー

2009-01-25 01:16:08 | スコットランド王妃・王女
常に実家頼みだった王妃
ジェイムズ5世妃 メアリー・オブ・ギーズ


1515~1560/在位 1538~1542

先妻マデリーン・オブ・ヴァロアを亡くしたジェイムズ5世は、再びフランスを訪れます。

マデリーンが亡くなる1ヶ月前、メアリー・ド・ギーズは夫のロングヴィル公を亡くし
未亡人になっていました。

思いおこせば、マデリーンへの最初の求婚が断られた時
ジェイムズ5世はメアリーにうつつをぬかしたものでしたね。
今ふたたび未亡人になったメアリーに俄然熱い視線を注ぎます。

    

ところがジェイムズ5世の叔父にあたるイングランド王ヘンリー8世は
この動きに警戒心を抱きます。
フランスとスコットランドの同盟関係が強まることを怖れたヘンリー8世は
3人目の妻を亡くしたばかりでしたので、急いでメアリーに求婚します。
しかしヘンリー8世の、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン
2人目の妻アン・ブーリンへの仕打ちを知っていたメアリーは
まったく相手にしようとしませんでした。

フランソワ1世は、ジェイムズ1世の申し入れを容認し、メアリーの父に伝えますが
彼女は息子ルイを亡くしたばかりで、家族の側を離れたくないと悩みます。
結局、ジェイムズ5世の一生懸命な説得に負けてスコットランドに嫁ぎました。

二人の王子を生んだメアリーでしたが、王子は幼くして同時に夭逝します。
その翌年、長女メアリー(後の女王)を生みました。
その時ジェイムズ5世はイングランドに敗れた失意で病床にいましたが
報告を受けてただひと言「女か…」と言ったそうです。
病状は悪化し、メアリー誕生から6日後に亡くなりました。

幼い女王を抱えたメアリーは万事をフランスの実家に頼り
娘を幼いうちにフランスへ渡らせたりして、女王の人生に多大な影響を与えます。
45歳でエディンバラで他界し、なぜかフランスに埋葬されました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ5世妃 マデリーン

2009-01-25 01:14:59 | スコットランド王妃・王女
命を縮めた結婚
ジェイムズ5世妃 マデリーン・オブ・ヴァロア


1520~1537/在位 1537

ジェイムズ5世は、1歳5ヶ月で即位しましたが
王太后マーガレット・テューダーがほどなくイングランドに追放され
摂政オールバニー公を始めとする親仏派に囲まれて育ったせいか
自らもフランスびいきになっていきました。

なにしろ幼い王、戦乱に陥っていたヨーロッパで少しでも同盟国を増やしたい各国の王は
ジェイムズ5世に熱い視線を向けました。
後のイングランド女王メアリー・テューダー
後のフランス摂政カテリーナ・ディ・メディチなど
婚姻の申し入れは山のようにありました。

そんな中、お年ごろになったジェイムズ5世は、同盟関係の強化や莫大な持参金を考え
フランス王フランソワ1世の娘マデリーンに求婚します。

     

マデリーンは生まれたときからか弱く、フランソワ1世は彼女を
パリより暖かい地方で大事に大事に育てていました。
ですから、スコットランドの過酷な気候には娘が耐えられないと思い
健康を理由に申し出を断りました。

するとジェイムズ5世はとっととマリー・ド・ギーズに目を向けます。
ただ、当時マリー・ド・ギーズは既婚ですから、不倫か
あるいは、すでに夫の病状が危なかったのかもしれません。

けれどもジェイムズ5世は宮廷でマデリーンを見かけると
自分の行いが恥ずべきことに思えてきました。
なんか・・・ラブ・ストーリーっぽくなってきましたねっ
そして再びフランソワ1世に結婚を申し入れます。

フランソワ1世はあきらかに嬉しそうなマデリーンを見て断りきれず
しぶしぶ結婚を認めました。
あぁ、娘可愛さが裏目にでてしまうのですね。

1937年1月、フランスで式を挙げた二人は5月にスコットランドへ向かいますが
その2ヶ月後、マデリーンはエディンバラで17年の短い生涯を終えます。

私利私欲のためなら娘の幸せや人生なんか顧みない父親が多いこの時代、
身体を心配してくれた父王の反対をおしきってまで果たした結婚は
数ヶ月の儚いものでしたが、マデリーンは幸せだったかもしれないですね。
いやな相手と結婚させられるよりも、自分が望んだ相手と結ばれたのですものね。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ4世妃 マーガレット

2009-01-24 21:18:00 | スコットランド王妃・王女
後に大英帝国をもたらす結婚と再婚
ジェイムズ4世妃 マーガレット・テューダー


1489~1541/在位 1503~1513

15歳で即位したジェイムズ4世は、父王とは違って果断な性格でした。
国内の反乱は徐々におさまり、また、王権に属さない氏族などの鎮圧にも
力を注いでいましたが、イングランドとの関係は相変わらず不穏なままでした。
ヘンリー7世はなんとかフランスとスコットランドの結びつきを緩めようと
娘マーガレットとの婚姻を、ジェイムズ4世にしつこく申し入れます。

     

実はジェイムズ4世はマーガレット・ドゥラモンドと
事実上の結婚生活を送っていて、娘もいました。
マーガレットはデイヴィッド2世妃マーガレットの4代隔てた姪にあたります。
けれども、自分のためにスコットランド王が結婚を躊躇していると知ったマーガレットが
身を引くために、妹2人と服毒自殺してしまいました。
(自殺かそれとも・・・それは永遠の謎ですね)

ジェイムズ4世はマーガレット・テューダーとの結婚を承諾します。
ジェイムズ4世30歳、マーガレットは13歳でした。

マーガレット姉妹の死があったからなのか、ジェイムズ4世は贖罪のため
腰回り(もちろん衣服の下)に鎖を巻いていたといいますす。
13歳の少女がそれを見てどう思ったかを考えると・・・王女というのもつらいものですね。

しかし、事態はマーガレットの父ヘンリー7世の死後急変します。
ヘンリー7世の後を継いだヘンリー8世は、フランスとの争いを激化させていきます。
義弟ヘンリー8世が君臨するイングランドと、同盟国フランスの仲介役をかって出た
ジェイムズ4世でしたがうまくいかず、逆にフランス王ルイ12世の要請で
イングランドに兵をさしむけることになります。
そして1513年、名高い激戦フロドゥンにおいて戦死してしまいます。

ちなみにルイ12世はその翌年、イングランドと和解してヘンリー8世、そして
マーガレットの妹メアリー・テューダーと結婚しました。
いったいなんのためにジェイムズ4世は死ななければならなかったのでしょうね?

それはさておき・・・
幼い王を抱えた摂政マーガレットは、強力な後ろ盾を探しダグラス家にロック・オン!
親英派のアンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚します。
ジェイムズ4世の生前から関係があったとも言われていますけれども
ともかく王の死後1年で、しかもこっそり結婚したとあって
たちまち親仏派の反撥をまねきます。

マーガレットは摂政の座をおわれ、新たに摂政となったジェイムズ4世の従兄弟にあたる
親仏派オールバニー公ジョンによってイングランドに追放されてしまいました。
しかしこれには親英派も黙っておらず、国内は(簡単に言えば)混乱に陥ります。

国内を大わらわしたマーガレットとアンガス伯の結婚生活はまったくうまくいかず
アンガス伯がジェイムズ5世をとりこもうと軟禁したことで不仲が決定的になり離婚します。

その後、終始親英派だったメスヴァン卿ヘンリー・ステュワートと再々婚しますが
彼も殺害され、ひとり寂しい老後を過ごしてこの世を去りました。

ところで、後年イングランド王として即位するジェイムズ6世は
ジェイムズ4世とマーガレットの孫、スコットランド女王メアリーを母に持ち
マーガレットとアンガス伯の孫、ダーンリー卿ヘンリーを父に持っていたことから
ヘンリー7世に繋がり、王位継承者としてエリザベス1世に指名されます。

本当に中世の王位継承って複雑怪奇で、いったい誰がちゃんと把握してたのか
不思議でたまりません

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』
      エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ3世妃 マーガレット

2009-01-24 21:17:47 | スコットランド王妃・王女
イングランドに新しい領土をもたらした
ジェイムズ3世妃 マーガレット・オブ・デンマーク


1456~1486/在位 1469~1486

またまた父王の早世によって即位したジェイムズ3世は8歳でした。
王太后であるマリーも11歳の時に亡くし
hとり残された幼王は、またもや大人たちの野心の餌食になってしまいます。

17歳の時、13歳のマーガレット・オブ・デンマークを妃に迎えますが
この結婚はスコットランドにオークニ諸島とシェトランド諸島をもたらします。

      

マーガレットの父クリスティアン1世が君臨する
カルマル同盟下のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの大連合に
北からの脅威を防ごうと組まれた婚姻だったと思うのですが
なぜかクリスティアン1世は大変困窮していたご様子で
持参金が用意できなかったそうです。

ジェイムズ3世は結婚と同時に親政に乗り出し
父王を見習って傲慢な貴族を一掃しようと考えます。
しかし父王と違って気が優しかったジェイムズ3世の処断はあまくなってしまい
かえって不満の種を増やしていってしまいます。

厳しきゃ不満を言うし、あまけりゃあまいでブツブツ言って・・・
いったいどうしろというのかね? 貴族ってワガママね

反ジェイムズ3世の急先鋒は、なんと弟のオールバニー公アレグザンダーで
イングランド王エドワード4世の援助を受けたアレグザンダーのもとに不満貴族が終結して
戦闘が始まります。

この件に関してもジェイムズ3世の対応はあまく、味方であった貴族まで敵に回す始末
その中には王太子ジェイムズも加わっていました。
王太子にその気はなかったようですが、反乱軍は粉引き小屋に隠れていたジェイムズ3世を
引きずり出してその場で殺害してしまいました。

マーガレットは王の死に先立つこと2年前、1486年に亡くなっています。
夫の死に息子が一役かっていたことを知らずにすんで幸せだったかもしれないですね。

             
            肖像画がかなりリアルになってきましたね
                   こちらは今までのタイプです


(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

スコットランド王ジェイムズ2世妃 メアリー

2009-01-24 21:17:33 | スコットランド王妃・王女
大砲に夫を奪われた
ジェイムズ2世妃 メアリー・オブ・グェルダー


1434~1463/在位 1449~1460

父王の死によって6歳で即位したジェイムズ2世は、野心満々の大人たちに囲まれて
まったく存在感を示せないまま成長しますが
虎視眈々と親政を摂った時の構想を練っていました。

18歳でその時がやってくると、まずは自らの結婚問題に手をつけます。
当時であれば、野心家に自分の娘をおしつけられても不思議ではなかったのですが
よくぞ18歳まで独身でいられました。
(スコットランド王という地位はあまりオイシくなかったのでしょうか? )

ジェイムズ2世は対外的にプラスになるという一点に絞ってお妃選びをします。
こうして選ばれたのがブルゴーニュ公の姪にあたるメアリー・オブ・グェルダーでした。

      

しかし前王の妃はイングランドから、今回はフランスから、と
敵対する国から交互に妃を迎えるあたり、スコットランドはいったい
どうしたかったのでしょうね?
とりあえずはイングランドに寄りかけていた方針を
フランス寄りに修正したかったみたいです。

ジェイムズ2世は1455年、念願だったブラック・ダグラス家一掃を成し遂げますが
そのためにオランダから輸入したといわれる大砲モンス・メグの事故で30歳で他界します。

メアリーはその3年後29歳で亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加