まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ボヘミア王ヤン妃 エリシュカ

2018-04-30 18:59:00 | ボヘミア王妃
陰謀好きだったらしい
ヤン妃 エリシュカ・プシェミスロヴナ


1292〜1330/在位 1310〜1330

エリシュカは、ジンドリフ妃アンナ同様、ヴァーツラフ2世とグータの王女でした。
両親を早く亡くし、13歳の時には兄ヴァーツラフ3世も暗殺されて、残ったのは四姉妹だけ。

母を亡くしたエリシュカは、父方の伯母にあたるクンフタからすごく影響を受けていて
彼女とともにプラハ城近郊の女史修道院で過ごしました。
アンナ、義母エリシュカ・レシュカ、義理の姉ヴィオラも一緒でした。
       
で、アンナの時にも書いたんだけど、ヴァーツラフ3世が暗殺された時
未婚だったのはエリシュカだけで、ボヘミア王位を狙う各国から熱い視線が注がれました。

ジンドリフとアンナは、自分たちに有利になる縁談をいくつか持ちかけましたが
エリシュカは、1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世皇子ヨハン(ヤン)と結婚しました。
ヤンはボヘミアを制圧したばかりで、姉夫婦たちの痛いところをついたわけです。
18歳の若さで、姉夫婦のウラをかくとは…

王女は生まれましたが、王子が生まれずつらい思いもしたようですが
6年後、後の神聖ローマ皇帝カルロス(4世)も生まれて任務も果たしました。
慈善などに勤しみ大人しくすごしていれば、穏やかな人生が送れたと思うんだけど…

エリシュカは政治好きだったみたいなのね。
それで、ヤンとだんだん意見が食い違っていくようになります。
「わたくしのおかげで王になれたんじゃぁなくて?」なんて思ったのかしら?

1319年、ヤンを退位させてカルロスを即位させようという陰謀が噂されました。
ヤンは首謀者とされる人物を罰しましたが、エリシュカのことも疑っていたのか
子供たちの教育からエリシュカを遠ざけることにしました。

エリシュカはムニェルニーク城に移され、カルロスは投獄された後フランスへ送られました。
母子は二度と会うことはありませんでした。

ボヘミアの王女なのに政治からは遠ざけられ、味方も失ったエリシュカは
バイエルンに渡りました。
なぜバイエルンかしら? 長女マルケータがバイエルン公妃になりますけど、もっと後だし…
1323年に双子の女の子が生まれてるのよね! これは誰の子? ヤンの子?

ボヘミアを出たエリシュカを、ヤンは一切支援しませんでした。
エリシュカはヤンとボヘミア貴族たちへの恨みつらみを隠しませんでした。
もし、当時ネットがあったら、ブログとかTwitterで動画バンバンアップしたりして…
そして呆れられたりして…

1325年、エリシュカは結核にかかりボヘミアに戻りました。
5年間生き延び、1330年に亡くなりました。
離婚はしていなかったので、亡くなるまで王妃のタイトルは持っていました。

三男四女のお子様がいました。
次女ジェトカは、フランス王ジャン2世の妃になっています。

               
              Jarmily Haldovéさん作エリシュカ

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボヘミア王ジンドリフ妃 アンナ

2018-04-15 19:06:26 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作

思い通りにならない妹にイラつく
ジンドリフ妃 アンナ・プシェミスロヴナ


1290〜1313/在位 1307〜1310

ヴァーツラフ3世は若くして亡くなり、王妃ヴィオラとの間に嫡子はいませんでした。

そこでボヘミア王には、ヴァーツラフ2世王女アンナの夫ジンドリフが
選挙で選ばれました。
ジンドリフは、ケンテルン公でオーストリア名はハインリヒです。
1306年にアンナと結婚していました。

もちろん、父王や祖父同様ポーランドの王座もほしいところですよね?
しかし、ポーランドはピアスト家のヴワディスワフ1世が王座を奪い返しました。

そればかりか、ボヘミアの実質的な権力も、ヴァーツラフ2世王妃エリシュカ・レシュカ
再婚した、ハプスブルク家のルドルフにもっていかれてしまいます。
        
この、ハプスブルク家が囲い込んじゃってる感、すごいよね!!

アンナとジンドリフは、ひとまずケンテルンに逃れてチャンスをうかがいます。
ルドルフはボヘミア王になるんですが、1年足らずで亡くなり
ジンドリフは再びボヘミア王になりました。

でも安泰じゃないですよね、なんとかせねば!
そこで二人が目をつけたのは、未婚の妹エリシュカです。
彼女の婚姻で味方を作ろう、というわけでいくつか縁談をもちかけました。

ところが、エリシュカったら言うことを聞きやしない!!
それどころか、名家ルクセンブルク家のヤン(ヨハン)と結婚しました。
ヤンは1310年にボヘミアを占拠し、ボヘミア王になりました。
ジンドリフとアンナはまたまたケンテルンに逃げ帰り、姉妹は訣別しました。
アンナはもともと美しいエリシュカに嫉妬していたみたです。

妹の仕打ちにうちひしがれたのか、アンナは23歳の若さで亡くなりました。
ジンドリフはその後、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のアデレードと再婚、
サヴォイ家のヴェトリーチェと再々婚しました。

ちなみに短命だったルドルフ1世ですが、エリシュカ・レシュカと結婚する前に
フランス王フィリプ3世王女ブランカと結婚していました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボヘミア王オタカル2世妃 クンフタ

2018-04-07 19:22:05 | ボヘミア王妃
再婚のミステリー
オタカル2世妃 クンフタ・ウヘルスカー


1245〜1285/在位 1261〜1278

1260年に、マルケータとの結婚を無効にしたオタカル2世は
翌年の1261年にとっとと再婚しました。
お相手は、マチョー公ロスチスラフの公女クンフタです。
マルケータより41歳若い花嫁でした。
        
クンフタのお母様は、ハンガリー王ベーラ4世王女アンナで、父方の祖父は
最後のキエフ大公ミハイル2世でした。

ミハイル2世の死後ハンガリーに移りました。
1261年、祖父ベーラ4世とオタカル2世が同盟を結び嫁ぐことになりました。

けれども、この同盟は10年後に破られて、クンフタの叔父イシュトヴァーン(5世)に
攻め込まれました。

オタカル2世は1278年にマルヒフェルトの戦いでドイツ王ルドルフ1世に敗れ亡くなります。
これは、前妃マルケータとの結婚で手に入れた公領をめぐる争いですかね?
その上、ボヘミア王の支配下にあったモラヴィア公領は、ルドルフ1世に制圧されました。

幼王ヴァーツラフ2世の摂政になったクンフタでしたが、コントロールできるのは
プラハ近郊ぐらい… 行く末が不安ですね。

でも大丈夫!
ヴァーツラフは、ルドルフ1世の王女グータとの結婚が決まりましたよ〜
迫りくるハプスブルク家の影…

クンフタは、ヴァーツラフの結婚で肩の荷が降りたのか
同年、ボヘミアの大物政治家ファルケンシュティン卿ザーヴィシュと再婚しました。
ところがですよ、クンフタは数週間後に急死してしまいます。

ザーヴィシュは3年後にハンガリー王イシュトヴァーン5世王女エルジェーベトと
再婚するんだけど… なにか勘ぐりたくなりますよね。

                
               Jarmily Haldovéさん作クンフタ

危なげに見えたヴァーツラフ2世の治世でしたが、ボヘミア王国を維持したばかりか
選挙でポーランド王になり、さらに祖母の系統からハンガリー王にもなりました。

ヴァーツラフ2世は、グータの死後、ポーランド王プシェミスゥ2世王女
エリシュカ・レシュカと再婚しました。

           
       Jarmily Haldovéさん作グータ  Jarmily Haldovéさん作エリシュカ

その後を継いだのは、ヴァーツラフ2世王子ヴァーツラフ3世で、王妃はヴィオラです。

                 
                Jarmily Haldovéさん作ヴィオラ

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする