まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イギリス王ジョージ3世王女 アメリア

2011-03-30 23:32:39 | イングランド王妃・王女
弱り果てた父王にとどめを刺した王女
ジョージ3世王女 アメリア・オブ・ユナイテッドキングダム


1783~1810

アメリアはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの六女です。
一番年が近い姉ソフィアとは6歳違い、長男ジョージ(4世)とは21歳離れていました。
父王ジョージ3世のお気に入りでエミリーと呼ばれていました。

アメリアは生まれた時から可愛いと賞讃され、間違いなく魅力的になると思われていました。
小さな時から自分の立場がわかっていて、大女優サラ・シドンズが
「可愛いベイビーにキスさせて」とせがむと、即座に小さな手を差し出した、
という逸話がございます。

               
                ほーら!可愛いでしょう!!

アメリアはたいてい姉のメアリーソフィアとすごしていました。
年少の3人は箱入りとはいえ年長の3人より少しだけ両親の手綱が緩んでいたようで
かなりのお転婆さんだったようです。

何度もジョージ3世一家のポートレートを描いていた画家ゾファニーは、
年少の3姉妹を書いた時かなり苦労をしたみたいで
その後彼女たちの絵を描くことはありませんでした。

アメリアが5歳の時ジョージ3世が初めて精神疾患からくる発作を起こしました。
兄達の素行は乱れていろいろな問題を起こし始めます。
王一家は、仲良く団らんを…というわけにもいかなくなっていきます。

そんな中でも人々の期待通りに美しく成長したアメリアですが
15歳の時に結核の兆しがでて、健康が衰え始めました。
でもアメリアだって年ごろの女性ですもの、20歳の時に恋をします。
相手は21歳年上のチャールズ・フィッツロイです。

         
チャールズは遡るとチャールズ2世とバーバラ・ヴィリアーズの庶子にたどりつきます。

母シャーロット王妃は使用人からこの件を聞かされましたが目をつぶり
ジョージ3世の耳に入らないように気を配りました。
アメリア自身は、チャールズとは結婚できないとあきらめていました。
(こっそり結婚していた、という説もあります)

25歳の時、はしかの後沈みがちになったアメリアは、
母シャーロット王妃とウィンザー城に籠っていることにも気が滅入ってしまいました。
そこでウェイマスの海岸に保養に出かけることにします。

ウェイマスで良くなったり悪くなったりを繰り返していましたが、1810年の10月には
とうとうベットから起き上がれなくなってしまいました。
アメリアは瀕死状態の中で、自分の髪の毛とクリスタルとダイヤモンドで
ジョージ3世のために指輪を作り、姉メアリーの到着を待って亡くなりました。

ジョージ3世は王子達の悪行のせいで度々狂気に陥っていましたが
アメリアの死はさらにダメージを与えることになって再起不能状態になりました。

ジョージ3世は評価も高く、品行方正で浮気をせず、よき家庭人でもあったのに、
また、シャーロット王妃も母性に溢れた優しい女性だったというのに、
なぜに子供たちがかなりの確立で上手く育たなかったのでしょうね?

裏を返せばジョージ3世の子供達は、壮大な夫婦喧嘩・人妻との同棲・歓楽街でのご乱交など
王家としては人には見せたくない部分を自ら暴露していたようなものですね。
ある意味開かれた王室に近づきつつあったと言えましょう。 言えるのか?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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『ブッデンブローク家の人びと』没落の典型を読んでみた

2011-03-28 00:45:47 | ドイツの作家
BUDDENBROOKS 
1901年 トーマス・マン

読み応え充分!!です。
以前イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』で「没落があまい!」と書きましたが
ブッテンブローク家はしっかり没落してしてくれてよかったっす。
こういう人がいて、こういう出来事が重なると家は滅びる…という
カタログみたいな物語です。
「そりゃぁそうなっちゃうよね~」という展開に心躍りましたよ。
ただブッテンブローク家は貴族ではなくて “ 貴族的な ” 都市の名士であるので
ちょっとスケールはダウンするんですけれどもね。

家を大きくして都市で一目置かれる存在になった最盛期から没落に至るまでの
家族四代を綴った物語です。
あらすじは盛りだくさんすぎて長くなるのでやめときますが、さらさらと流れを…

ヨハン・ブッテンブロークは、ブッテンブローク商会の代表で都市のコンズル(参事会員)、
広大な屋敷を持ち、妻アントアネットは名家ドュシャン家から嫁いできました。

息子はふたりいますが、前妻の子ゴットホルトは小売店を始めたため勘当されています。
ヨハンの後を継ぐのは次男ジャンで、彼の妻は名家クレーガー家出身のエリーザベトです。
トマス、クリスチアンという男の子と、アントーニエ、クララという女の子がいます。

家族三代が貴族のような暮らしを送っている中、まずアントアネットが亡くなり
次いでヨハンが亡くなります。

後を継いだジャンは堅実に商売を行い、コンズルになり、父と同じ道を歩みます。
ただ子供たちがね…
長男トマスは問題ありません。 真面目な若者で、しっかり家を継いでくれそうです。
しかし次男クリスチアンはお調子者で、学校の成績も芳しくありません。
長女アントーニエは王女様のように育てられたせいかわがまま放題で、貴族至上主義者です。
次女クララはからだの弱い静かな子で、成長するにつれ宗教生活に没頭していきます。

登場人物が山のようにいるのでブッテンブローク家の主要人物に絞って書いてますが
もうひとつ、忘れちゃならない家族がいます。
ハーゲンシュトレーム家… 先代ヨハンの頃には成り上がりもの扱いだった商人ですが
会社を大きくし、都市でも次第に注目を集める一家になりつつありました。

さてブッテンブローク家はというと、ジャンの時代はまだ安泰でした。
しかしアントーニエの結婚とクリスチアンの放蕩ぶりが少し不安を感じさせます。
ジャンは金詰まりを感じ始めた矢先に亡くなりました。

ジャンの後を継いだトマスは、アムステルダムの大富豪の娘ゲルダと結婚し
ヨハン(ハンノ)という息子を授かりました。
ゲルダは芸術好きで人嫌い、すぐ疲れるタイプの女性です。
ハンノは虚弱体質で、母親の音楽好きを受け継ぎ、極端に父を怖がります。

トマスも堅実に商売を行います、が、堅実すぎて縮小傾向になってしましました。
それでも一時期は資金も潤沢で、実家を上回る壮麗さの屋敷を買いました。
そこからブッテンブローク家の雲行きは怪しくなります。

アントーニエの二度目の結婚、アントーニエの娘エーリカの結婚、クララの結婚が
ことごとく失敗に終わりました。 持参金どころか遺産の一部も泡と消えます。
クリスチアンは病気を理由に働かず、借金は膨れ上がります。

母親のエリーザベトが亡くなると、資金繰りのために実家の屋敷を売る事にしますが
その屋敷を購入したのがハーゲンシュトレーム家でした。

ハーゲンシュトレーム家の当主はトマスと同じ年代の精力的なヘルマンで
息子たちもひとりは商売に精を出し、ひとりは検事として活躍していました。
ヘルマンの妹でアントーニエの宿敵ユールヘンは名家に嫁いで立派な奥様になっています。

物語はこのあたりから没落に向かってスピードアップします。
どうなるか書きたいけどやめときます… こうなるしかないでしょ、というラストです。
あれれれ…と言ってる間に一家は分解しちゃいます。

膨大なエピソードの中から、特に二代目、三代目の懊悩煩悶が心に残りました。
なにもかもを背負って生きる名家の当主の苦労たるや、並大抵ではありませんね。
特にこの一家は当主に依存しすぎてると思うのよ。

対照的に描かれているハーゲンシュトレーム家も、いつか同じ目に遭うのかもしれません。
上りつめたら落ちるだけだものね。

強固な階級制度が守ってくれた時代なら二代目や三代目が多少頓馬でも
浪費家や遊び人を抱え込んでも、名家は生き延びてこられたのかもしれません。
しかし(一応)制度が崩壊した今、やっぱり強靭な精神力と優れた手腕を持つ後継ぎが
とっても大切なのね…ってことでしょうか?
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イギリス王ジョージ3世王女 ソフィア

2011-03-27 17:10:16 | イングランド王妃・王女
禁断の愛に生きた(かもしれない)王女
ジョージ3世王女 ソフィア・オブ・ユナイテッドキングダム


1777~1848

ソフィアはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの五女です。

ソフィアも年長の4人の王女同様、母親の側を離れず箱入り状態で成長しました。
王女達は宮廷の外の人々と関わりを持つ事を許されずに育ちました。

幼い兄弟姉妹が仲睦まじく戯れる光景は見ていて微笑ましいでしょうが
あまりに閉鎖的だと、ちょっと問題有りですよねぇ…

家庭的で母性愛あふれる母親だったというシャーロット王妃ですが
まず、王子達は長じるにつれけっこう放蕩になっちゃってます。

長男ジョージ(4世)はエリザベス・カニンガムフィッツハーバート夫人など
数々の愛人がおりましたし、次男ヨーク公フレデリックは愛人を通じて贈収賄スキャンダル、
三男ウィリアム(4世)は女優ドロシア・ジョーダンとの20年の同棲、
四男ケント公エドワードはサン・ローラン夫人と27年の同棲、五男はおいといて…
六男サセックス公オーガスタスは親と議会の承認を得ずに二度の恋愛結婚、てな具合です。
七男のケンブリッジ公アドルファスについてはよくわかりませんが
44歳で初婚だからそれまでは独身貴族を謳歌していたんじゃないかしら…

ちなみに、王子達が一時期にバタバタと結婚したのは
ジョージ4世のたった一人の王女シャーロットが嫡子を遺さず亡くなったので
継承者をつくる必要性に駆られて…でございます。

王女たちも極度の人見知りになったり、婚期が遠のいちゃったりしてますよね。
     

そしてソフィアですが、彼女はさきほど王子のところで飛ばした五男の
カンバーランド公アーネスト(後のハノーヴァー王)との関係が取沙汰されました。
つまり近親相姦ということです。

1800年にソフィアが生んだトマス・ガースの父親は、英国議員ジョン・ガースと
されていますが、本当はアーネストだという噂もありました。
(元も子もないけどソフィアが生んだ子ではないという説もあります)

この噂は熱烈なトーリー(党)支持者だったアーネストを陥れようとするホイッグ(党)によって
バンバン世間に流されました。
アーネストは素行の悪さ、女性関係の問題で有名でしたので
すんなり信じた人も多かったかもしれません。 しかし証拠はありません。

晩年はケンジントン宮殿の姪ヴィクトリア(後の女王)の側で暮らし
1848年にケンジントンのヴィカレージ宮殿で亡くなりました。
彼女の死後、金銭の管理をしていたジョン・コンロイ卿がほとんどの金を
横領していたことが発覚しました。
事実上ソフィアには何ひとつ残っていなかったそうです。

ソフィアの希望でウィンザー城の墓所ではなく、ロンドンのケンサルグリーン共同墓地の
兄サセックス公オーガスタスの側に埋葬されました。
も、もしかして別の兄ともっ?… ということはないと思いますけど…

イギリス王家も次第に国民との関わりが増えていく過渡期にあったと思います。
あまりにも世間知らずに育てちゃった親の罪は大きいですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 メアリー

2011-03-26 20:18:06 | イングランド王妃・王女
長女のせいで初恋かなわず・・・
ジョージ3世王女 メアリー
グロスター公ウィリアム・フレデリック夫人


1776~1857

メアリーはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの四女です。
バッキンガム宮殿で生まれました。
子供の頃は概ね年長の王女3人と同じように教育されていたようです。

メアリーはジョージ3世の6人の王女たちの中で一番美しかったと言われています。

       
17歳で宮廷デビューしたメアリーは、20歳前後の時に恋に落ちました。
お相手はロンドンに亡命中だったオランダの公子フレデリクです。
メアリーの祖父とフレデリクの祖母は兄妹なのではとこ同士になります。

後のオランダ王ウィレム1世の弟ですし、結婚相手として申し分ないと思うんですけど
メアリーの恋はかないませんでした。
ジョージ3世は「娘は生まれた順に結婚させなきゃ!」と決めていたらしいのね…
この時、長女シャーロットをはじめ、次女オーガスタも三女エリザベスも未婚でした。

メアリーは「お姉様たち、早く結婚してくれないかしら 」などと思いながら
じりじり待っていたことでしょう。
しかしフレデリクは1799年、従軍中に感染症で亡くなりました。
メアリーは公式に喪に服すことを許されています。
ということは、やはり結婚は許可されていたのでしょうね?

メアリーは40歳の時、いとこにあたるグロスター公ウィリアムと結婚しました。
三女エリザベスより2年早く結婚していますけど…
この年になったら順番なんかどうでもよかったんでしょうか?

ウィリアムはメアリーと同じ年ですが初婚です。
彼は長女のシャーロットと結婚しようと思ってずっと独身でいたのですが
シャーロットがヴュルテンベルク公(王)フリードリヒ1世と結婚してっしまったので
メアリーと結婚することにしたそうです。
ひどいね…王女なら誰でも良かったってことですか?

実はウィリアムったらストックホルム滞在中にKoskull男爵の娘オーロラ・ウィルアミーアと
恋の噂があって、スウェーデン王妃ヘドウィグは「二人は結婚する」とまで言っていました。
しかし、ウィリアムは王妃に「あなたの娘だったら結婚しますけどね」と言ったそうです。
やっぱりターゲットは王女だったのか…
       
兄弟姉妹の中では王太子ジョージ(4世)と極めて仲がよくて、一緒になって
王太子妃キャロライン・オブ・ブルンスウィックをこき下ろしていました。
キャロラインがイタリアに旅立った時には “ これで二度と顔を見なくてすむ ” と言ったとか…
しかし、夫ウィリアムは王太子妃キャロラインの支持者でした。

この夫婦、実は仲が悪かったんですかね?
もともと愛のない結婚だったみたいだし…  お子様はいませんでした。

結婚から16年後、ウィリアムが亡くなると、メアリーはバグショットパークの邸宅から
リッチモンドパークのホワイトロッジに移り住みました。
姪のヴィクトリア(後の女王)のお気に入りの叔母だったそうです。

ジョージ3世の15人の子供達の中で最後まで生きていたのはメアリーです。
そして最も長生きでした。
81歳の時、ロンドンのグロスター・ハウスで亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 エリザベス

2011-03-23 01:48:31 | イングランド王妃・王女
親元を出るために結婚…ていうパターン
ジョージ3世王女 エリザベス・オブ・ユナイテッドキングダム
ヘッセン=ホンブルク伯フリードリヒ6世夫人


1770~1840

エリザベスはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの三女です。
バッキンガム宮殿で生まれました。

           
エリザベスも姉シャーロットオーガスタ同様、ものすごい箱入り状態で育ち
いつも家族と一緒でした。
年長の3人姉妹は出かける時、いつもお揃いのような色違いの服を着ていました。

シャーロット王妃は政治的なことには口をはさまず、家族に愛を注いだ人で
倹約家でもありました。
しかしいくら倹約したところで子供が15人、うち王女は6人、お金かかるったら…
だってドレスに合わせて靴でしょ、帽子・手袋・扇子・ポーチ…それを
年長の王女たち3人が一気に買ったら大変な出費ですよね。
てなわけで、王女たちのドレスはお出かけのときも普段着みたいなものでした。
家にいるときは着替えず、1日中ガウンで過ごすこともあったようです。

次女オーガスタはそんな生活が嫌いでなかったような気もしますが
エリザベスはいやだったみたい。

42歳の時、バークシャーの小修道院を自分の邸宅用に購入してます。
これは親元から離れようという試みですかね?

そして、私も何度も年号を確認したのですが、間違いなく44歳の時に
ヘッセン=ホンブルク方伯子フリードリヒ(6世)と出会って48歳で結婚しました。

エリザベスは宮廷の舞踏会でオーストリア将校の制服に身を包んだフリードリヒを見た時
そのエレガントさに心奪われ「あの方が独身だったら結婚したい」と言ったとか…
フリードリヒは当時45歳、そして独身! 奇跡のような出会いですね。
そんなに素敵な人がその年まで未婚だなんて!! なにか理由があったりして…
ていうことはなく、軍務に明け暮れていて結婚が遅くなったみたいです。

しかし、まわりからは反対されます。
ヘッセン=ホンブルク家はヘッセン=ダルムシュタット家の傍系で
フリードリヒの母方(ヘッセン=ダルムシュタット家)の方が家柄がいいみたい。
そんなに悪い家柄ではないけれど、やはり王女とは釣り合わない?

1818年、そんな反対は押し切ってふたりはバッキンガム宮殿のチャペルで結婚しました。

エリザベスは家から出ることができたし、フリードリヒの出世には大きく貢献するし、
というわけで、この結婚はお互い満足できるものでした。
年も年ですし、ラブラブ、というわけではなかったようですけど…

結婚から2年後、フリードリヒがヘッセン=ホンブルク方伯になりました。
221平方kmの領地の君主になったということだけど、どれくらいの大きさなんでしょ?
と思いまして調べてみましたら…中国の重慶江北区と同じみたい。
わかりやすいところでいくと、大阪市がありました。
うぅぅむ…君主と言っても市長さんクラスってことね、小さかないけど…微妙。

しかしホンブルク宮廷に落ち着いたエリザベスは、英国の堅苦しい作法にはおさらばし
自分好みのスタイルに囲まれて楽しく過ごしたようです。

いくら母シャーロット王妃が倹約家だったとはいえ、ホンブルクの宮廷は
英国宮廷とはくらべものにならないほどこじんまりしていたと思いますが
エリザベスにはホンブルクの暮らしがマッチしていたみたいですね。

フリードリヒは結婚から9年後に亡くなりました。
子供はいなかったので英国に帰っても良かったのでしょうが、エリザベスは帰らず
1840年にフランクフルトで亡くなりました。

身分違いの結婚… ロマティックなようで、やってみるとけっこう大変だと思うよ。
エリザベスの結婚は上手くいって良かったですね。
あ! これも倹約的に育てられたおかげでしょうか?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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『猫』文豪とお猫さま

2011-03-22 23:27:56 | 日本の作家

クラフト・エヴィング商會

日本文学会・芸術界における錚々たるメンバーが、自分ちの猫を自慢している一冊です。

ものすごい偏見ですが、猫を飼ってその様子を愛おしそうに眺めるその姿を思い浮かべると
破滅型も多かったような気がする過去の作家たちの中にあって
ここに登場する方々は “ 善き家庭人 ” だったのかしら、などと思えてきます。
本当のところはわかりませんけどね。

登場する作家・芸術家および猫たちは

『崩壊』の有馬頼義の家の、勘平とお軽、主役は腹切りをしたお軽です。
洋画家・猪熊弦一郎の家の、疎開先に連れて行ったみっちゃんとタヌ子。
『黒い雨』の井伏鱒二の家の、蛇と戦うたくましい母猫と子猫。
『鞍馬天狗』の大佛次郎の家の、“ 隅の隠居 ” と呼ばれたミミ。
翻訳家・尾高京子の家の、アメリカからやって来たキティとパティ。
評論家・坂西志保の家の、下水に落ちていたポツダム。
小説家・俳人の瀧井孝作の家にいつもやってくるチータと玉。
『細雪』の谷崎潤一郎の猫論3篇。
『二十四の瞳』の壺井榮の家の、虎模様のユキと多産系のトミ。
猫嫌いの随筆家・寺田寅彦が飼い始めた三毛とたま。
詩人・柳田國男の野良猫論と猫だらけの島に関する論文。

最後に可愛い黒猫が登場する詩がついています。

名前については、たまとかシロとか三毛とか、安易なようですが
実はよ~く考えてつけられているんですよ

皆さん餌と出産については言いたいことがあるようで、よく登場したエピソードでした。
村上春樹さんが自分の猫の出産(膝に寄っかかり腹を上に向けて産む)は
変わっているとエッセイで書いていましたが、どうやら家猫は多いパターンみたいですね。
産み方はどうであれ、新しい生命がこの世に出てくる瞬間を目にしたら
とても印象深いものでしょうね。

餌については “ なんでも食う ” から “ いいものしか食べない ” までありましたが
やはり有名な方々なので “ いいもの ” の割合が多かったような気がします。

好きだったのは猫嫌いの寺田寅彦さんの話し。
妻と娘たちにせがまれて飼い始めてみたら、愛らしくなってきて
(本人曰く)人間に対して懐く事のできない純粋で温かい愛情を感ずるようになったこと。

猫を飼う事を反対されている皆さん、無理くり飼ってみるしかありませんね。

人も貧しい時に疎開先に猫を連れて行く気持や、せがまれて夜の散歩に付き合う気持は
痛いほどわかります。

中には自慢たらたらな部分も垣間見え、ちょっと鼻白むところもありました。
銀座の三愛や魚河岸でお魚を買って帰らないと怒ったり、舶来品が好きとか…
谷崎潤一郎さんに至っては、日本の猫が嫌いだから飼っている6匹が外国の猫、ってあたり。
当時としてはたいそう贅沢なことだったのでは?

ともあれ、誰が書いても猫のことだと心がほのぼのしますね。
“ 猫好きに悪人なし ” という格言を作ってしまおうかと思う一冊でした。
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イギリス王ジョージ3世王女 オーガスタ

2011-03-19 21:52:05 | イングランド王妃・王女
家族大好き! の箱入り娘
ジョージ3世王女 オーガスタ・ソフィア・オブ・ユナイテッドキングダム


1768~1840

オーガスタはジョージ3世とシャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの次女です。

       
生まれた時から「可愛い、可愛い」と賞讃され続けていたオーガスタは
お年頃になると姉シャーロットとともにキュー宮殿で教育を受けるようになりましたが
教育係のミス・プランタはオーカスタが大のお気に入りで
“ 容姿端麗姫(直訳 ) ” と呼んでいました。

これだけ美しいと言われて持ち上げられていたら傲慢になりそうだけど
オーガスタは痛々しいほどにシャイで、人前でうまく話すことができませんでした。
それでなくてもジョージ3世とシャーロット王妃は娘たちを箱入りで育てていたわけで
人付き合いも家族や使用人など限られていってしまいますよね。

そんなこともあってか、オーガスタは人間関係を築くのは上手くなかったようです。
お行儀よく静かにしていたかと思ったら急に癇癪をおこして使用人をぶったりするし
気分がコロコロ変わりました。

14歳で公式セレモニーにデビューした時は人々の多さに怖れをなし
15歳で姉シャーロットと妹エリザベスとロイヤル・アカデミーの展覧会に出かけた時には
前の年に亡くなった2人の弟オクタヴィウスとアルフレッドの肖像画を目にして
人目も憚らず泣いて取り乱したといいます。 激情型の人だったのかしらね?

オーガスタは十代に入ると人並みに劇場や宮廷などに顔を出すようになりますが
家族といる時が一番幸福だったらしく、弟たちや妹エリザベスとの時間を愛していました。
また、ハノーヴァーで軍の訓練を受けていた兄ウィリアム(4世)のことも大好きで
何通も手紙を書いては送り、返事をもらうと浮かれていました。
母シャーロット王妃は、彼女が他のことをないがしろにしていると心配して
ウィリアムに返事を出さないようお願いしたほどでした。

適齢期に入ると、美しいと言う評判のオーガスタは引く手数多だったはずです。
王女だけど長女じゃないから少し敷居も低いしね。

スウェーデン王子フレドリク・アドルフは、スウェーデン宮廷の承認も得ないで
個人的に求婚してきました。

しかしジョージ3世はオーガスタへのすべての求婚を断ります。
どんなにまわりがやいやい言っても断固拒みました。
なぜかっていうと… ジョージ3世は、娘は順番に結婚しなきゃ! というお考えだったのね。
姉のシャーロットはまだ未婚でしたので、オーガスタの番はまだ、ってことになります。

また、デンマーク王家とはこれまで姻戚を数多く結んできたのですが
ジョージ3世の妹キャロラインのこともあって、縁談に関する話しは打ち切りになりました。

そんなことをしている間にオーガスタも未婚のまま中年期にさしかかりまして
“ ノミのサーカス ” のパトロンなんかをしながら晩年を過ごし、72歳で亡くなりました。
ノミのサーカスって…トムとジェリーで見たあれですかね? 虫眼鏡で見る…

姉シャーロットが結婚した時オーガスタは29歳ぐらいだから
その気になれば相手はいたと思うんですけどね…

家族が大好きだし、いつまでも家にいたら迷惑かける… という庶民と違って
生まれ育った英国王室にどっぷり浸かっていた方が知らない宮廷に嫁ぐより
気が楽だったかもしれませんね。

お美しいのでスキャンダルチックなエピソードはないものかと探してみましたが
見当たりませんでした。
本当に引っ込み思案なお姫様だったのかもしれません。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ3世王女 シャーロット

2011-03-16 23:39:59 | イングランド王妃・王女
長女の晩婚、妹たちの結婚にひびく
ジョージ3世王女 シャーロット・オブ・グレートブリテン
ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世妃


1766~1828/在位 1806~1816

ジョージ3世は愛妾がいなかったという希有な王様で
王妃シャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの間には15人!の
お子さんが生まれました。
女の子は6人でシャーロットは3人の王子が続いた後に生まれた長女です。
初めての女の子でそりゃあすごい可愛がりようだったみたいです。

     
将来大陸の王族との結婚が当然視されたシャーロットの教育は最重要事項とされて
綿密なスケジュール、優秀な教師陣のもと行われました。

王の長女として、奉られ可愛がられたシャーロットなんですけど
彼女には一生ついてまわるコンプレックスがありました。
それは2歳年下の次女オーガスタ… とても美しい女性でした。

シャーロットは “ 感受性は豊かだが可愛いとは言い難い ” と言われていましたが
片やオーガスタは生まれた時から美しさで賞讃を受けていました。
シャーロットは妹たちから見れば、いつも長女風を吹かして少し横柄だったようですけど
美しい妹たちに見せる精一杯の虚勢だったのかもしれません。

容姿が問題だったのかどうかはさておき、シャーロットは(当時としては)晩婚で
31歳の時にヴュルテンベルク公フリードリヒ3世(後の王・1世)と
結婚することになりました。
フリードリヒは再婚で、最初の妻はシャーロットの従姉にあたるアウグステでした。

結婚から3年後、ナポレオン率いるフランス軍がヴュルテンベルクを占領します。
ウィーンに逃れたフリードリヒはフランスに兵士を送る代わりに
ヴュルテンベルクを王国にするという密約を結んで初代王になりました。
神聖ローマ帝国からも離脱してナポレオン傘下に入り
義父ジョージ3世とは敵同士になります。

この時シャーロットがどういう態度を示していたのかはよくわかりません。
しかしジョージ3世は婿のみならず娘のシャーロットにも激怒したようです。

ナポレオン失脚前の1813年、フリードリヒは寝返りまして
義兄ジョージ(4世)軍に参加しました。
おかげでウィーン会議にも参加できて、王座も追認してもらえました。
世渡り上手というか、節操のない人ですね…

フリードリヒ1世はウィーン会議から2年後の1816年に亡くなり
未亡人になったシャーロットはシュトゥットガルトのルートウィヒスブルク宮殿で
余生を送りました。
子供がいないのでイングランドに帰ってもよかったんじゃないかと思うんだけどね。
亡くなる1年前に水腫の手術で一度英国に帰っていますが、またドイツに戻っています。

シャーロットが晩婚だったこと & 父ジョージ3世の頑固さのせいで
後に控える5人の王女たちがとばっちりをうけています。
そのとばっちりとは… つづく

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)


地震について

昨夜やっと仙台にいる友人と連絡がとれてほっとしました。
ご家族・友人・知人とまだ連絡がとれていない方々が
一刻も早くご連絡がとれますようお祈り申し上げます。

我が身を顧みず原発の修復作業をされている方々、くれぐれもお気をつけ下さい。
余震が続く他国で活動して下さっている海外の支援部隊の方々
本当にありがとうございます。

そしてなにより被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。
私などができることはわずかですが、無事に生活を送れている国民の一人として
少しでもお力になれればと思います。
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イギリス王ジョージ2世王女 メアリー

2011-03-16 02:24:22 | イングランド王妃・王女
夫いらずのやり手ママ
ジョージ2世王女 メアリー・オブ・グレートブリテン
ヘッセン=カッセル伯フリードリヒ2世夫人


1723~1772

メアリーはジョージ2世とキャロライン・オブ・アーンズバックの五女(四女は死産)で
ロンドン生まれです。

結婚するまでのエピソードがないんですけどね…
1740年にヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ(2世)と結婚しました。

           
しかしこの結婚は不幸なものでした。
フリードリヒはもともとこの結婚に乗り気でなくて、愛人にかまけていたようです。
愛人大好き!のジョージ2世ではありましたが、見かねて娘に離婚をすすめています。
ジョージ2世は愛人も好きだが妻にも愛情をもって接していましたからね。

メアリーは子供のために、と離婚はしませんでしたが
1747年から別々に暮らすようになり、1755年には公式に別居しました。
フリードリヒがプロテスタントからカトリックに改宗してるんですけど
それも原因のひとつでしょうか?

翌年メアリーはデンマークへ渡り、亡くなった妹デンマーク王フレデリク5世妃ルイーズ
子供たちを世話することにしました。
フレデリク5世はユリアーネ・マリーと再婚していましたが、彼女は宮廷で浮いていたそうで
子供の教育も上手くいっていなかったみたい…

メアリーは子供たちも一緒に連れて行っています。
デンマーク王室の子供たちと一緒の教育が受けさせられるますからね。
うまくいけば王族との縁談も…と考えたかどうかはわかりませんけれども
子供のうちの2人がデンマーク王女と結婚しています。

ヘッセン=カッセル家は当時の西欧きってのお金持ちだったので
デンマーク王室にとってもよい縁談だったかもしれません。
さてはそのつもりでメアリーを呼び寄せたとか…

1760年、夫フリードリヒが伯爵になってメアリーも伯爵夫人になりました。
ただし別居は続いていました。

その後ドイツに帰ったようで、1772年にハーナウで亡くなりました。
ヘッセンに帰ったということは復縁したんですかね?
ちょいと詳しいことがわかりません。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イギリス王ジョージ2世王女 キャロライン 

2011-03-11 00:07:35 | イングランド王妃・王女
一途な愛で身を滅ぼす
ジョージ2世王女 キャロライン・オブ・グレートブリテン


1713~1757

キャロラインは、ジョージ2世とキャロライン・オブ・アーンズバックの三女です。
祖父ジョージ1世の即位に伴い、1歳の時に英国に渡って来ました。

           
とっても正直者だったようで、子供たちの間で問題が起こった時
母のキャロライン(アーンズバック)はキャロラインをよんだそうです。
なんでも真実を話してくれちゃうから。
兄弟姉妹に「だってキャロラインはすぐチクるんだもん 」なんて
仲間外れにされていなければよいが…

キャロラインは性格がよくて優しくて、教養もある女性だったようですが
愛した人が悪かった…

廷臣の中にジョン・ハーヴェイ男爵という男性がおりました。
彼は既婚者でしたが火遊びの噂も絶えませんでした。
その上バイセクシャルで、たぶんキャロラインの兄フレデリックとも関係があったみたい。

どうしてそんな人を愛してしまったんでしょう?
女性にも男性にももてたということは、ものすごく素敵な人だったのでしょうか?
それとも、危険な男性に魅せられてしまったのかしら…

1743年にハーヴェイ男爵が亡くなると、キャロラインは悲しみのあまり
「死にたい」などと考えてセントジェームス宮殿に引きこもってしまい
未婚のまま14年後に44歳で亡くなってしまいました。

宰相ウォルポールの四男で、筆まめで有名なオーフォード伯ホレイスによれば
キャロラインは何年もずっと危うい状態にあったといいます。精神的にということ?
彼は王女キャロラインについては、その寛大さと公平さを大絶賛しています。
悲しみを糧に慈善などに打ち込んだりしたら、彼女の慈善心と献身ぶりを表す
違ったエピソードが残っていたかもしれませんね。

ちなみにオーフォード伯ホレイスは、キャロラインが愛してやまなかった
ハーヴェイ男爵の子供では…? と噂された人物です。
宰相ウォルポールは王妃キャロライン(アーンズバック)とタッグを組んで
政治的には多少アッパラパーなジョージ2世の治世を乗り切った人物ですが
妻がちょっぴりスキャンダラスな人だったみたい…

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 小林章夫氏『イギリス名宰相物語』
      Wikipedia英語版)
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『春の水』魔性の女には勝てないかぁ…

2011-03-10 23:05:23 | ロシアの作家
ВЕШНИЕ ВОДЫ 
1871年 ツルゲーネフ

けっこう筋の読めるお話しで、途中からは完全に読み通りに進んじゃうという
本来ならつまらない物語が、どうしたわけだか面白かったのは
やはりツルゲーネフのお力によるものなのでしょうか?

作者の恋の思い出から生まれたと言われるこの作品、本当に事実だったら
作家にとっては糧となる恋愛経験に恵まれたとしか言いようがありません。

でも、主人公男性の恋心のことばかりに終始している内容でして
もっと他のエピソードや脇役のキャラクターなどの肉付けがあれば
さらに面白いものになったかもしれませんね。

ま、これはこれでいいのかもしれない…ツルゲーネフの青春の記録として。

あらすじと言ってもね…
ひとりの老紳士の、夜更けの回想から物語が始まります。

一人旅を終えた若き領主サーニンは、ロシアへの帰路フランクフルトに立ち寄ります。
その夜のうちに馬車で発つはずだったのに、一人の少年の命を救ったことで
一家から歓待を受け、馬車に乗り遅れ、しばらく滞在することになりました。

サーニンが救ったのはエミリオという少年で、未亡人である母ロゼーリ夫人と
美しすぎる姉ヂェンマ、友人であり下僕のパンタレオーネ老人と暮らしていました。

そりゃヂェンマに恋をしますわね?
しかし彼女には羽振りのいい商店主のクリューベルという婚約者がいます。
容姿端麗、慇懃無礼、傲慢不遜なクリューベル、行く末は見えましたでしょ?

なるべくして(思ったより簡単に)ヂェンマと恋人同士になったサーニンは
ロシアの領地を売ってフランクフルトで暮らす決心をします。
そこでバッタリ出くわしたのが寄宿学校時代の知人ポローゾフでした。

ポローゾフは風采があがらないずんぐりむっくりの男ですが妻は大富豪という噂です。
サーニンはその妻に領地を売ろうとして、彼とヴィスバーデンへ向かいます。

ほんの3~4日の旅のつもりでヂェンマと慌ただしい別れを交わしたサーニンですが
目の前に現れたポローゾフの妻マーリヤ・ニコラーエヴナがそうはさせません。

はっきり言っちゃうけど、マーリヤは妖婦です。
サーニンの前でありとあらゆるしなをつくり、瞳を覗き込み、ボディタッチをして
しきりと二人きりになりたがります。
ヂェンマを想うサーニンだって心が揺らいじゃうってもんです。
頭では「みえみえの女だ」とわかっていても、気持が言うことをききません。
マーリヤのあの手この手はすごいですよ! お手本になりますのでぜひ一読を。

欲しい男性を手に入れようとした時の、所謂ラブハンター女の気迫はすごい!
あからさまに物欲しそうだけど、ものすごいガッツが感じられます。
好かれるための努力にも怠りがなく、少しは見習わねばね…と反省したりします。

韓流ファンとしてはヂェンマに勝利してほしいところではありますが
自分の美しさにかまけていただけのヂェンマではなく
己の力を出し切ったマーリアに軍配が上がったとしても、仕方がないかもしれない…

愛し合うサーニンとヂェンマはどうなってしまうんでしょうね。

それはさておき、ラストのパートが気になります。
回想から醒めたサーニンのその後の行動なんですが、今さらどうする気?と
半ば呆れ、半ばハラハラしたまま終わってしまいました。
モデルであったツルゲーネフはどうだったんでしょう?
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イギリス王ジョージ2世王女 アメリア

2011-03-09 23:16:35 | イングランド王妃・王女
賢夫人の娘、けっこうわがままに育つ
ジョージ2世王女 アメリア・オブ・グレートブリテン


1711~1786

ステュアート家の血をひくプロテスタントということでアン女王の後を継いだ
ハノーヴァー家のジョージ1世は、王妃ゾフィア・ドロテアをずっと幽閉していたもんで
嫡出子はジョージ2世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世妃になった
ゾフィア・ドロテアしかいませんでした。

ジョージ2世の王妃キャロライン・オブ・アーンズバックは賢夫人の誉れ高い方ですが
育児はいかがだったんでしょうね?

長男フレデリックは一生反抗期みたいな人で、王も王妃も手を焼きましたが
(幸い?)即位前に亡くなっています。
フレデリックの王子が後のジョージ3世です。

長女アンはオラニエ公ウィレム4世夫人に、
六女ルイーズはデンマーク王フレデリク5世妃になっています。
この二人は母キャロラインのような政治的才覚が少なからずあったようですが
さて、次女アメリアは?
       
生まれはハノーファーですが、祖父ジョージ1世の即位に伴い
1701年にイングランドのセントジェームス宮殿に移りました。
幼い頃は病気がちだったようで、たぶんあまやかされたんじゃないかしら…
こころなしか肖像画も気が強うそうな顔をしてません?
大人になってからはたいそう健康になりまして、乗馬と狩猟に熱中しました。

叔母にあたるプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世妃ゾフィア・ドロテアは
王太子フリードリヒ(2世)の相手にアメリアがいいんじゃないかしら…と考えましたが
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、王太子をブラウンシュヴァイク=ベーヴァン家の
エリーザベトと無理矢理結婚させました。
母親が推す相手と結婚していたらフリードリヒ2世も妻を大事にしただろうに…

ともあれアメリアはこの後結婚することなく、父王ジョージ2世が亡くなるまで
親元で暮らしていました。
ただし、29歳の時にお子様を生んでます。
アメリアの息子と言われているのは、ヘンデルのディレクションも手がけたという音楽家の
サミュエル・アーノルドで、父親は下院議員のトマス・アーノルドだということです。

アメリアは40歳の時、リッチモンド・パークの管理人になりました。
管理人と言ったって入口で見張ったり見回りをしたりするわけじゃないですよ、もちろん。

リッチモンド・パークというのは宮殿に属する公園でしたが、一般人の通行は可能でした。
しかしアメリアはすぐに庶民を閉め出して、王族とお友達、そして許可を与えた人々にしか
解放しませんでした。
反対は多かったものの、アメリアが在任中の7年間はこの措置が続きました。

アメリアは後年、自分の領地で浴場の拡張を行っています。
愚かなことよのぉ…と言われたこの事業ですが、現在では “ アメリア王女の浴場 ” として
国家遺産になってるそうでございます。

思えば人の手による世界遺産とか観光名所って、けっこう愚かしい浪費の賜物なのよね。

アメリアはジョージ2世の8人のお子様の中で一番長生きしまして
1786年にロンドンのキャベンディッシュ・スクエアで亡くなりました。
まさに独身貴族、ストレスが少なかったのかしらね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イングランド王ジェイムズ2世王女 ルイーザ・マリア

2011-03-07 01:11:47 | イングランド王妃・王女
ジャコバイト貴族のアイドル
ジェイムズ2世王女 ルイーザ・マリア・テレサ・ステュアート


1692~1712

生真面目なチャールズ1世の長男チャールズ2世には、庶子はた~くさんいたのだけれども
王妃キャサリン・オブ・ブラガンザとの間に肝心の嫡子がいなくて
弟のジェイムズ2世が後継者になりました。

ジェイムズとひとり目の妃アン・ハイドの王女メアリーアンは女王になりましたが
残念ながら彼女たちの子供は王位を継ぐまでに成長しませんでした。

アン・ハイドが亡くなった後、ジェイムズ2世はメアリー・オブ・モデナと再婚しました。

ルイーザはふたりの間に生まれた四番目の女の子です。(三人は死産かすぐ死亡)

         

ルイーザ・マリアはジェイムズ2世が廃位され、追放された後の1692年に
サン=ジェルマン=アン=レーで生まれました。

ルイーザの兄ジェイムズ・フランシスが1688年に生まれた時には
お腹にクッションを入れているだの、女の子を男の子に取り替えただのと
疑いをかけられた母メアリーでしたが、ルイーザは問題視されなかったみたいですね。

(カトリックの)ジェイムズ2世はたいそう嬉しかったらしく
娘のメアリー2世ばかりか、他のプロテスタントの人たちにも
洗礼式の立会人になってもらおうと招待の手紙を送りまくったらしいです。
早く宗教の垣根を取り払っておけば追放されることもなかったのにね…

ルイーザは兄ジェイムズとフランスで育てられました。
家庭教師はカトリックの神父で、ラテン語や歴史、信仰について教わりました。

とても愛想が良い子だったようで、ジェイムズとともに逃亡したジャコバイト貴族たちの
アイドルみたいなものでした。

1701年、父ジェイムズ2世が重病に罹り、母メアリーと療養に旅立ちました。
でもジェイムズとメアリーの誕生日がある6月には帰ってきて一家でお祝いします。
ジェイムズ2世はその後発作をおこし、2ヶ月後に亡くなりました。

ジェイムズ2世が亡くなると、フランス王ルイ14世は即座に王子ジェイムズを
イングランド王として宣誓しました。
もちろん政治的思惑はあったと思うけど、ルイ14世ったら確実に
未亡人になったメアリー・オブ・モデナを狙ってたと思うね! 美人だし。
恩を売る作戦だと思うんだがどうでしょう?

ルイーザは13歳の時、ルイ14世のゲストとしてマルリー宮殿の舞踏会に招かれています。
兄ジェイムズが一緒なのはいいとして、ちゃっかり母メアリーも並んでました。
3人はルイ14世に続いて入場しています。 すごい待遇…やっぱり狙ってたんじゃないかと

フランス宮廷の人気者になったルイーザは、ルイ14世の孫ベリー公シャルルや
スウェーデン王カール12世と「お似合いね」と言われていたのですが
いくら兄が王を名乗っていてもイングランドには歴然と他の王が君臨していたわけで
王族の妃になるにはけっこう曖昧なポジションでした。
カール12世はプロテスタントだったこともネックになっていました。

ジェイムズ2世も僭称王ジェイムズも、ルイ14世の助けを借りてイングランドを攻めましたが
ことごとく失敗に終わってまして、もう王家に返り咲くのは厳しい状況でした。

ルイーザは追放されているジャコバイト貴族が「自分たち家族のために犠牲になっている」と
心を痛めていて、彼らの娘たちの教育費を立て替えました。

1712年、ルイーザは兄ジェイムズとともに天然痘に罹りました。
ジェイムズは回復しましたがルイーザは帰らぬ人となってしまいました。

ルイーザはフランス宮廷のみならず、追い出したイングランドでも人気者でした。
彼女の死にはたくさんの人々が哀悼の意を表しています。

               
                可愛いのでもう1枚のせちゃうね

可愛いし、性格もいいし、優しいし、本当に非のうちどころがないお嬢さんで
父王が廃位されなければ引く手数多だったでしょう。
というより、カトリックとプロテスタントが仲良くやっていれば
違う人生を生きた王女たちはいっぱいいたはずです。
同じような宗教なのに、なんで戦争するほどもめてたのかしらね?(無知ゆえのひとり言)

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王チャールズ1世王女 エリザベス

2011-03-06 00:21:26 | イングランド王妃・王女
母に代わって苦境に立ち向かった王女
チャールズ1世王女 エリザベス・オブ・イングランド


1635~1650

生真面目すぎて身を滅ぼしたような気がしないでもないチャールズ1世と
王妃ヘンリエッタ・マリアには7人のお子様がいました。
チャールズ2世とジェイムズ2世を含む王子3人と王女4人です。(長男と四女は死産)

長女メアリーはオラニエ公ウィレム2世妃に、
五女ヘンリエッタ・アンはオルレアン公フィリプ妃になりました。
ふたりともそんなに幸福そうな人生には思えないんですけど、次女エリザベスに較べたら…

      
エリザベスは1歳の時、祖母にあたるマリー・ド・メディシスの目論みで
オラニエ公子ウィレム(後の2世)と婚約するはずでした。
けれどもチャールズ1世は財政的な理由から長女のメアリーを嫁がせることにします。
これは(メアリーの方が高位ということで)けっこう身分不相応な結婚でした。
この時エリザベスが選ばれていれば…と思わずにはいられません。

1642年、エリザベスが6歳の時内乱が勃発します。
エリザベスは弟のグロースター公ヘンリーとともにペンブローク伯の保護下におかれました。
最初は王党軍優位に進んでいた戦いでしたが、1646年、父チャールズ1世は
ニューアークで捕らえられ3年後に処刑されます。
この間議会軍は和平交渉をしたらしいのですが、チャールズ1世は譲歩しなかったそうです。

長~くなるので、この間のエリザベスの行動をまとめると…
議会軍はチャールズ1世の年少の子供たちをセントジェイムズ宮殿に軟禁状態におきました。

ハンプトンコートに監禁中のチャールズ1世はちょくちょく子供に会えたようですが
和平交渉が決裂するとワイト島のカリスブルック城に移されました。

1648年、ヨーク公ジェイムズ(後の2世)はイングランドを脱走します。
これはエリザベスの忠告らしく、ジェイムズに女装させて宮殿から逃がしたそうです。
わずか10歳で…すごい政治的判断。

エリザベス自身も姉のメアリーに会いにオランダへ行きたいと議会に申し入れましたが
これは受理されませんでした。
議会派は何を考えていたんでしょうね?
どうせ王制を無くす気なら子供たち、特に女の子は解放してあげればいいじゃないの。
反撃を恐れてのことだと思いますが、クロムウェル、肝っ玉が小さいぜ!

1649年の1月30日にチャールズ1世の処刑が行われることに決まった時
エリザベスは抗議の手紙を書き、同情も多く集まったみたいですが
結局処刑は執行されました。

エリザベスとグロースター公は処刑の前日チャールズ1世に面会しています。
この時、議会軍は手紙やメモなどを残すことを許さず、チャールズ1世はエリザベスに
「今から言うことを全て覚えておいてくれ」と言ったそうです。
エリザベスはその後チャールズ1世の言葉を書き留めていますが
議会派に奪われることを恐れて隠していたのか、見つかったのは彼女の死後でした。

チャールズ1世の処刑後、保護者になっていたライル卿は責任逃れをしたかったらしく
エリザベスたちをオランダに行かせては…と申し出ましたが、議会は認めませんでした。

結局その後はレスター伯ロバート・シドニーの保護下に置かれましたが
この時はレスター伯夫人がかなり親切に面倒をみたようです。
エリザベスはお礼に彼女に宝石を与えましたが、後にこれで議会と夫人がもめました。

1650年、兄チャールズ2世がスコットランドの国王に即位すると
議会派はエリザベスを人質としてワイト島に送ることにします。

小さな頃からからだが弱かったと言われるエリザベスは、その時も体調を崩していて
ワイト島への移動を拒みましたが聞き入れられませんでした。

カリスブルック城に移ってすぐ、風邪から肺炎になり14歳で亡くなりました。

議会派はエリザベスの死から3日後に彼女のオランダ行きを許可しています。
たぶん世間にたたかれないようにとった措置だと思いますが、バッカじゃないの

母親はフランスに行っちゃてるし、長女はオランダだし
弟妹たちを守らねば!と必死に頑張ったのでしょうね。

ある人は、知性と威厳と優美さを持った少女と褒め讃えていますが
本来なら子供らしく溌剌と過ごす時期を、政治や大人の思惑にもみくちゃにされて
無惨な14年間を送った哀れな少女に思えます。

エリザベスが抱いているのは3歳で亡くなった三女アンだと思われます。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipeida英語版)
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イングランド王ジェイムズ1世王女 エリザベス

2011-03-06 00:13:20 | イングランド王妃・王女
故国でも嫁ぎ先でも人気者
ジェイムズ1世王女 エリザベス・オブ・スコットランド
ボヘミア王フリードリヒ5世妃


1596~1662/在位 1619~1620

エドワード4世の王女たちから100年ぐらい飛びますよ、なぜかというと…

ヨーク家のエドワード4世の子エドワード5世は少年のうちに悲劇的な最後をむかえました。
続くリチャード3世はたったひとりの王子エドワードを11歳で失いました。
リチャード3世を敗ったテューダー家のヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨーク
長女マーガレットはスコットランド王ジェイムズ4世妃に、
三女メアリーはフランス王ルイ12世妃になりました(次女、四女は幼くして夭逝)

ヘンリー8世の王子エドワード6世は未婚で亡くなり、王女メアリー1世には子供が生まれず
エリザベス1世は未婚で嫡子無し、というわけで
王位がジェイムズ1世(スコットランドでは6世)にまわります。

ジェイムズ1世とアン・オブ・デンマークには7人のお子様が生まれました。
チャールズ1世を含む王子が3人、王女が4人です。
でも王女のうち3人は2歳までに夭逝して、生き延びたのは長女エリザベスだけでした。
          
6歳の時、父ジェイムズがイングランド王になり、イングランドにやってきました。
子供時代はハリントン男爵に引き取られウォーリックシャーのクーム・アベイで
幸福な日々を送っていました。

1605年、ガンパワー・プロット(簡単にいうとカトリック強硬派が議事堂を爆破して
ジェイムズ1世を殺害しようとしたテロ)の時、カトリック派は9歳のエリザベスを誘拐して
カトリック君主国の王にするつもりでいました。
しかし爆破前に首謀者ガイ・フォークスが逮捕されて計画は失敗しました。

さて、エリザベスはたったひとりの王女なので良い縁談をまとめなければなりませんが
当時のヨーロッパは旧教国、新教国に二分していて、争いが頻発していました。
相手選びもなかなか大変そうですね。

スウェーデン王グスタフ2世アドルフなどの名もあがりましたが
最終的にエリザベスは、神聖ローマ帝国内のプロテスタント王国のリーダー格だった
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世と婚約し、翌年結婚しました。
言わずもがなの政略結婚ですが、ふたりは愛し合っていたそうです。

1619年、フリードリヒはボヘミア王になりましたが
カトリックの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世(ハプスブルク家)に戦いを挑んで敗れて
1年ちょっとで廃位させられオランダに亡命しました。

この時エリザベスの女官をしていたのがオラニエ公妃になったアマリエです。

この時、父王ジェイムズ1世はまったく助けの手を差しのべてくれなかったらしく
1632年、夫フリードリヒは亡命先で失意のまま亡くなりました。

エリザベスはオランダに留まり、息子のカールの選帝侯復位に尽力したと思われます。
カールは1648年にヴェストファーレン条約により選帝侯に返り咲きました。

甥チャールズ2世の王制復古をうけてイングランドに帰った翌年の1662年
ロンドンのレスター・ハウスで亡くなりました。

イングランドでもプファルツ選帝侯領でもボヘミアでも人気者だったそうですよ。
プファルツではQueen of Herats(慈愛の王妃)と呼ばれていたそうです。

イングランドはこの後しばらく新教 VS 旧教で王位継承がごたごたします。
他の国もそうですが、イングランドは言い出しっぺ的なところがありますんでね…

後のジョージ1世(ハノーファー家)はエリザベスの孫にあたります。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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