まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ14世妃 フランソワーズ

2009-03-31 00:22:11 | フランス王妃・王女
享楽王を変えた無冠の王妃
ルイ14世妃 マントノン侯爵 フランソワーズ・ドービニエ


1635~1719/在位せず

もとは愛妾で結婚も極秘に挙げられ、王妃という称号は得られませんでした。
けれども宮廷では妻として振る舞い、時の宰相は王妃として彼女に接していました。

フランソワーズの父コンスタンは貴族ですがユグノーで宰相リシュリューに反旗を掲げたため
一家は1629年からニオールに軟禁されていました。
フランソワーズもその地で生まれています。

    

母ジャンヌは大変信心深く、フランソワーズの敬虔さにも影響していると思いますが
これが…かなりこみいってまして、信心一つとっても大変な時代だったようです。

ユグノーというのは宗教改革派でプロテスタントです。
父方の祖父アグリッパは詩人、プロテスタントの総長で、アンリ4世の親友でした。
しかし母ジャンヌならびに彼女の親族は熱心なカトリックでした。
ジャンヌは後妻ですが、なぜふたりが結婚したかは謎です。

フランソワーズはまず母親によってカトリックの洗礼を受けさせられています。
1639年に軟禁が解かれマルティニークに移り住むとプロテスタントで教育されました。
1647年、フランスへ帰国して父親が亡くなと最愛の伯母で
熱烈なプロテスタント信者ヴィレット夫人に預けられ新教の学校に行かされます。
しかし名づけ親である熱烈なカソリック信者ロシュフーコーに知られると
カトリックの学校に変えられます。(伯母と名づけ親ってどちらが強いんですか?)

いったいどうしろっていうんじゃい って感じですよね。
どちらを信じたらいいのか子供なら戸惑ってしまいそうです。
フランソワーズも転校は嫌だったようですが、新しい学校で出会った
シスター・セレストを敬愛するようになり、
「言葉では言えないほど愛している、彼女のためなら犠牲になってもいい」
などと言いだします。 子供の信心なんてそんなもの。
いずれにしてもフランソワーズは信心深い女性になりました。

年頃になり社交界に紹介されたフランソワーズはポール・スカロンに出会います。
ふたりは意気投合したようでしたが、彼は25歳年上で酷いリューマチ持ちでした。
誰もがまさか!と思いましたが、フランソワーズは16歳の時に最初の結婚をして
スカロン夫人になりました。
なんでもスカロンは持参金なしでいいと求婚したそうです。
また、作家であるスカロンのサロンには王侯貴族なども集っていたので
華やかな社交界に少し憧れを抱いたのかもしれません。

            
               若い頃のマントノン夫人です

その後9年間、フランソワーズはスカロンの妻、看護婦、サロンの女主人として尽くし
スカロンを看取りました。

スカロンの死後もパトロンであったルイ13世妃アンヌはフランソワーズに
年金を与え続けますが、彼女が亡くなると息子ルイ14世は年金を停止します。

一時は侍女となってリスボンに向かおうとしたフランソワーズの窮状を救ったのは
ルイ14世の新しい愛妾モンテスパン候夫人でした。
王を説き伏せてフランソワーズの年金を復活させた彼女は
その後自分の子供の養育係にフランソワーズをとりたてました。
(王の好みじゃないと思ったんだって!ところがそうはいかないの)

フランソワーズは献身的に子供たちを世話しました。
その優しさと働きぶりに感動したルイ14世は(下心もあって)
1678年に彼女にマントノン侯爵の称号と城を与えました。
さすがのルイ14世も年をとったのか、落ち着いた恋愛がしたかったのかもしれません。
フランソワーズに愛妾になるようせまりましたが、彼女は宗教を盾に拒み続けます。

けれど王はあきらめません。戦術を変えます。
時間があれば彼女を訪ねて政治や経済について議論を交わすようになりました。
この間のモンテスパン夫人の嫉妬はすごかったそうです。

フランソワーズがとうとう熱意に負けて愛妾になったのは1680年です。
モンテスパン夫人は宮廷を去り、ないがしろにされてきた王妃マリー・テレーズ
今までにないほど手厚く扱われ、フランソワーズに看取られて亡くなりました。

王はすっかり敬虔で質素な人柄になり、ヴェルサイユは様変わりします。
結婚は1685年頃と言われています。

結婚後も王に信頼され政治を助け、良家の貧しい少女たちのために
サン・シール女学校を創設しました。

1715年に王が亡くなると女学校に隠退し4年後に亡くなりましたが
王と同じ墓所には葬られませんでした。

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版
      SONY世界遺産スペシャル)

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春到来…準備万端

2009-03-29 17:28:57 | 鉢植え
もう春ですね! ということで百均の春蒔きの種を買ってまいりました。
目安は20℃前後ですから、来週あたりいけるんじゃないかしら?
ワクワク しております。
(いけない、その前に胃カメラだったっす

そういえば秋蒔きの時に大量に植えた種はどうなったのでしょう?
途中経過です。


         
           クリサンセマム(スノーポール)は花が咲き始めました
                   株分けが遅かったせいか小ぶりですねぇ



         
             スィートピーは収拾がつかなくなっています(>_<;)
                 今さら株分けできないし…このままいっちゃいます



             
                  赤いチューリップ
                      4本中3本が元気に育ってます

            

            
               ちどり草。そろそろ株分けしなければ…

         
         なかなか芽がでなかったピンクチューリップ。サカタの種だったのに…

         
                  わすれな草です

タイム、カモミールはなんとか元気です。
カンパニュラとペチュニアは全滅しました。
ピンクフラワーガーデンは株分けしたらヘロヘロになり、たぶん枯れると思います。
難しいものですね…
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『子をつれて 他八篇』The 作家 in Old-fashioned

2009-03-28 00:18:36 | 日本の作家

葛西 善蔵

この方は “ 私小説 ” を書く作家として有名だそうで、最初の2篇は創作っぽいけど
後半7篇は完全に自分のことをモデルにしていて、連作のようになっています。
なにしろ、貧乏作家の典型ともいえる生活ぶりに、哀愁よりも情けなさを覚えるわ。

葛西善蔵という作家が日本文壇においてどのくらいのポジションにある方かは存じませんが
周囲の人を不憫な目に遭わせておきながら、作家として文筆活動を続けることに
意義があったのか? と私は甚だ疑問に感じています。
もちろん文筆は自由にやってくだされ、なのですが、仕事量と生活環境のギャップが
どうなのよ? と思わずにはいられないのですよね。

以下、何篇かの中から引用してご紹介します。

『子をつれて/1919年』
家賃を滞納して立ち退くことになった期限の日ですが、金策に郷里へ帰った妻からは
連絡も為替電報も届きません。
最後まで金を貸してくれていた友人も逃げるように避暑に出かけました。
家財を売り払いふたりの子をつれて家を出ましたが、行くあてがありません。

『蠢く者/1926年』
大震災を機に鎌倉の寺を追い出され、身ひとつで引っ越した下宿へ
おせい(鎌倉の時の女中)がやってきて居ついてしまいました。
酔って殴っても帰らず、ある晩子供を死産してこっそり埋めたと打ち明けました。
田舎の妻からは、受験を控えた子供たちに玉子を買ってあげたいという手紙がきます。

『湖畔手記/1926年』
おせいのもとを逃げ出して日光湯本の旅館に落ち着きました。
しかしそこでも筆は進まず、女中のあい子相手に夜中まで晩酌を繰り返す毎日です。
血を吐いて臥せっていた K が死んだという報せが届きます。

『血を吐く/1926年』
旅館で最後の客になってしまいましたが、原稿料が入らないので引き払えません。
酒浸りで過ごしていると、とうとう身重のおせいがやって来ました。
やはり飲み続けていたら大量の血を吐きました。

彼の妻と3人の子供は妻の実家で養ってもらっています。
彼の父が孫たちにと残してくれた杉林や林檎畑は売ってしまいました。
息子の入学準備のための金も、娘のランドセルも送れませんでした。
おせいの両親の家には何ヶ月分もの食費を借りたままです。
それで鎌倉に(下宿だけど)住んだり、旅館に長期滞在したりしてる場合かな?

情緒はあるし、良い文章だとは思いますが、内容は怠け者日記ですよ。
「金がない」「からだだるい」「書けない」の繰り返しなんですもの。
最高傑作が『湖畔手記』だということですが、だったらあまりにも多くのものを
犠牲にしている割には…と思われてなりません。
私は主婦なのでね、生活もちゃんとしてちょうだいよ!と言いたくなっちゃうわ。

太宰治もエッセイで貧乏を嘆いていた気がしますが、もう少し明るかったと思うし
先頃読んだ『移動祝祭日』でヘミングウェイは貧乏時代を楽しかったかのように
描いていたのですが、この本は暗すぎる

物語だったら良かったんだけどな…実話だと思うと、田舎におきざりの奥様や
学用品や玉子が買ってもらえない子供たちのうなだれた姿が浮かんできてしまって
素直に「良い作品だ」とは言えないですね。
本の読み方としては間違っているのでしょうけれど…
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フランス王ルイ14世妃 マリー・テレーズ

2009-03-28 00:18:19 | フランス王妃・王女
ヴェルサイユの初代女主人
ルイ14世妃 マリー・テレーズ・ドートリッシュ


1638~1683/在位 1660~1683

スペインがフランスに破れ、政略結婚でルイ14世に嫁ぐことになったマリー・テレーズは
ルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュの姪にあたります。
母はアンリ4世の娘イザベルですが、6歳の時に亡くなりました。

         

王妃イサベルを深く愛していた父王フェリペ4世でしたが、危機感を覚えたのか
1649年、死亡した息子バルタザールの婚約者だったマリアナと再婚します。
これがマリー・テレーズの不幸の始まり…マリアナは15歳でマリー・テレーズは11歳、
母娘というよりライバルにしか思えなかったんでしょうね?

マリアナはマリー・テレーズの身分や、フェリペ4世から与えられる愛情に嫉妬して
仲良くしようとはしませんでした。(同じハプスブルク家なんですけどね)

1659年にルイ14世の婚約がととのった時、マリー・テレーズより年長だった兄弟は
生き残っておらず、弟がひとりいましたがあまり強い子には見えませんでした。
フランスはマリー・テレーズのスペイン女王即位とスペイン併合の野望が
ムクムクと湧いてきたはずです。
渋るスペインに対して、ルイ14世と他の女性との婚約を偽装して婚約を急がせました。

1660年、涙にかきくれながらスペインを後にしたマリー・テレーズは
2日後フランスでルイ14世と式をあげました…けれど、さすがは好色漢ルイ14世!
式が終わるや否や寝室に行くと言いだしてマリー・テレーズを戸惑わせます。
マリー・テレーズも22歳ですからそんなに幼くはないのですが、必死に拒んで
結局逆らえず、何を着ればいいのかなどとパニクった挙げ句やっと寝室に向かいました。

その後1年ほどはふたりはとても仲睦まじく、ルイ14世は毎晩王妃の寝室に泊まり
朝はそこから儀式に向かうほどで、マリー・テレーズは9ヶ月ほどで身籠りました。
ルイ14世は「王妃と自分を隔てるものは何もない」的なことをのたまったそうですが
ご存知のように次々と愛妾をつくりはじめます。

きらびやかなフランス流に馴染めなかったマリー・テレーズは、スペイン訛も抜けず
ボーとしてて洗練されてない人ということでバカにされたらしいのね。
マリー・テレーズもだんだん自信をなくすでしょうし
ルイ14世もなんだか退屈だと思いはじめたところへきて
これぞフランス!っていう貴婦人がゴロゴロいるんだもの。
よりどりみどりですよ、そりゃあもう…

有名どころはルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールモンテスパン夫人ですね。
人の良いマリー・テレーズは、控えめなルイーズのことは気に入ったらしいのですが
出しゃばりなモンテスパン夫人のことは嫌いだったということです。

マリー・テレーズの心のよりどころは、里が同じ義母で叔母のアンヌ・ドートリッシュで
おしゃべりをしたり、手仕事をしたりと彼女べったりで過ごすようになりました。
スペイン語で故郷の話しをするほうが、宮廷でウィットに富んだ会話を交わしたり
スキャンダルを噂し合うより楽しかったのでしょう
ほとんど宮廷には顔を見せませんでした。

1665年、もともとは狩猟場だったヴェルサイユに華麗な宮殿が完成します。
ルイ14世は「ヴェルサイユ宮殿を母后アンヌと王妃マリー・テレーズに捧げる」と
たからかに宣言しましたが、実際の女主人は愛妾たちでした。
しかも1666年には義母アンヌも亡くなって、さらに寂しい日々を送るようになります。

             
              フランス式になったマリー・テレーズ
                    どことなく寂しそうですね


1683年、ヴェルサイユ宮殿に新しくできたスペイン式噴水を楽しんでいた
マリー・テレーズは元気そうに見えましたが、数日後脇の下に腫瘍が見つかり
みるみるうちに悪化して1ヶ月後に亡くなりました。
死の床でもらした言葉は「王妃になってから1日でも幸せな日があったかしら?」

結局、結婚から1年後には弟が生まれてスペイン女王にはなれなかったマリー・テレーズ。
スペインでの評判は上々だったというのですが、フランス王家へ嫁いだことが
彼女の人生だけではなく性格まで変えてしまったのでしょうか?
スペイン王女からフランス王妃になったというのに、ひっそりとした哀しい人生でした。

彼女の死に際してルイ14世が涙を流した…というのがせめてもの慰めでしょうか?

余談です
当時のスペインの貴婦人はみなさん肖像画のようなヘアスタイルをしているのですが
どういう仕組みなの?

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』『王たちのセックス』
      Wikipedia英語版)

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『赤いワインに涙が・・・』サルトルも読まなきゃか?

2009-03-27 02:11:34 | フランスの作家
QUELQUES LARMES DANS LE VIN ROUGE 
1981年 フランソワーズ・サガン

表題『赤いワインに涙が・・・』の他に12篇が収められていますが
イタリア、イギリス、ドイツ、アメリカ…コスモポリタン的に
様々な国が舞台になっております。
時代も現代(1981年)のみならず第二次世界大戦当時のものや18世紀のものまで
ヴァリエーションに富んでいて、長編同様、様々な背景の物語に挑戦しています。

サガンがサルトル好きというのは有名で、なんらかの影響は受けていると思うんですが
ではなぜ、私はサルトルが苦手でサガンが好きなのか?
これは考えてみねばなりませんね。(サルトル1冊しか読んでないし… )

好きだった4篇をご紹介します。

『猫とカジノ(Le Chat et Le Casino)』
いなくなった猫を探していたアンジェラは夫ジョゼッペの浮気現場を見てしまいます。
相手は美貌の隣人、近所で噂の未亡人です。
家賃500フランを持っていたアンジェラはその足でカジノへ向かい
600万フランを手に入れます。 さあ、アンジェラはどうする?

いきなり秘密の大金が手に入ったらどうしよう~? 自由にできるんですもの。
私ならアンジェラのような行動はぜったいにとらないのですけれど…
カジノへは行けませんが都くじでも買ってみようと思います。

『「早くも一年」(《 Un An Deja 》)』
皆の目の前で別れを告げられてから1年、同じ場所で開かれるパーティーで
ジュスティーヌは離婚した夫シリルと新しい妻に会うことになります。
念入りに着飾っていったジュスティーヌですが、やはりその女には降参です。
そっと玄関に向かったその時…

ざまあみろ!シリルって感じですかね? 
それでジュスティーヌがどうなるってわけではないのですが、心のふんぎりはつきそうです。
ただこの後どうなるのかは分かりませんけどね…

『コースの中途で(A Mi-Parcours)』
さんざん遊んできたシリルも寄る年波には勝てず、ゴルフの途中で気分が悪くなります。
けれども若く美しいジョイスとそのボーイフレンドに笑われるのが嫌で
近所の家の窓にわざとボールを打ち込み、その家まで取りに行きます。
出て来たのは陽気なメイドでした。

これはなんとなくサガンらしからぬ気もするんですけど…
なぜなら私はほのぼのさせられたから。 何事にも潮時ってありますね。

『赤いワインに涙が・・・(Quelquels Larmes Dans Le Vin Rouge)』
冷たい石のベンチで30分以上も愛人を待っている人妻は1時間経ったら帰ろうと決心しますが
そうできないことは分かっていました。
その時、空いているベンチを探していた浮浪者リュカが隣に腰掛け
泣いている彼女に驚いて、なけなしのワインを差し出しました。

ブラボー! そんな男はやめちゃいな! と他人は言えるんですけどね。
激しい恋が終わりを告げるきっかけは、けっこうそこらへんに転がっているのかも。

人生の転機を迎える、というほど大袈裟なものじゃないけど
生き方が変わりそうという人の物語が多かったような気がする1冊でした。
サガンが小説を書き始めてから27年たった45歳ぐらいの作品ですが
わりと丸くなっちゃたなぁ…わたくしの年代にはこれぐらいが心地いいですけどね。

赤いワインに涙が… 新潮社


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中古本でも買って損は無しですよ!…と思いますよ。
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『プチ・ショーズ』主人公より脇役

2009-03-27 02:07:56 | フランスの作家
LE PETIT CHOSE 
1865年 アルフォンス・ドーデ

この物語にジャックとピエロットというふたりの人物が登場しなかったら
クソミソにけなしていることでしょう!

零落したエーセット家の三男 “ チビ公 ” ことダニエルの
幼少期から青年期を描いた物語です。
語り手はチビ公自身で、不幸な日々を自虐的にコミカルに綴っています。

でもダニエルのことはどうでもいいわけ!
ダニエルは小さな頃、次兄ジャックより良くできたので学校に行かせてもらい
一家の離散後は公立学校の生徒監督になったけど上手くいかず
パリで自活していたジャックを頼って来て、ジャックに「詩人になれよ」と言われて
戯曲を書くけど本が売れなくて、娼婦にそそのかされて役者になって…
小心者で見栄坊で、どうも一貫性がない、そんな青年です。

ジャックは次男なんですが(長男は出家したけど早世)学校に通うダニエルのために
糊とボール紙で教科書を繕ったり、便利な紙挟みを作ったりと弟のことばかり。
ダニエルがパリに出てくるとダニエルに詩を書かせるため身を粉にして働き
その上片思いをしていたピエロットの娘カミイユまで奪われてしまうの。

場末の役者になっていたダニエルを助け出した後は
自費出版した本代やダニエルの借金を返すために働きづめで
とうとう命を落としちゃうんですよっ

ピエロットはダニエルの母の乳母の子で、パリで陶器商となって成功していました。
昔母に世話になったことを忘れずジャックとダニエルのめんどうを見てくれます。
ダニエルが娼婦イルマにうつつを抜かしてカミイユを泣かせた後も見捨てず
ジャックを失って途方に暮れるダニエルを親身になって世話してくれます。

最後は一応ハッピーエンドなのかしらね? ジャックが可哀想すぎる…

親バカにもほどがある! と怒りたくなるほど家族思いのジャックと
義理がたい男ピエロット、ふたりの美しい優しさが描かれていなければ
この本はダニエルの戯言を垂れ流してるだけになってしまうのよ

デビュー作で自伝的小説というから、ドーデ本人にも怒りの鉾先が向くとこでしたが
それは前半だけだったようで、後半はかなり創作だそうです。
兄も立派な著述家になりドーデ以上に長生きしたそうで、あぁ良かった

ドーデが25歳の時に書かれたこの物語をきっと兄も読んでると思うんですが
名前は違えど自分が死んでしまうって、どんな気分なんでしょうね?
物語どおりの心優しい兄なら、きっと笑って「良くやったね」と言うんでしょうね。
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フランス王ルイ13世妃 アンヌ

2009-03-26 00:26:27 | フランス王妃・王女
名宰相に睨まれた王妃
ルイ13世妃 アンヌ・ドートリシュ


1601~1666/在位 1615~1643

当時ヨーロッパはカトリック国と新教の国が入り乱れ争いが頻発していましたが
そんな中でカトリック国同士のフランスとスペインの同盟を強化するため
ルイ13世とスペイン王フェリペ3世王女アンヌの縁談がまとまったのは
アンヌが10歳の時でした。

アンヌが14歳になった時に結婚、
同時にアンヌの弟フェリペ(後の4世)とルイ13世の妹エリザベートも結婚しました。
しかしフランスには反ハプスブルク家派が多く
摂政マリー・ド・メディシスが押し切る形で無理やりまとめた結婚は
アンヌに寂しい結婚生活をもたらすことになります。

        

夫であるルイ13世はアンヌと同じ年でしたが、ちょっと奥手だったのか
式が終わると自分の部屋に閉じこもってしまって
その後もアンヌの寝室を訪れませんでした。
14歳だからねぇ、無理にそんなことさせたって…と思うんですけど。

宮廷では義母のマリー・ド・メディシスがファーストレディのアンヌを差し置いて
女王然と君臨していました。
ルイ13世にもマリーにもないがしろにされているような状態の中
アンヌ自身もフランス式を拒み(流行についていけなかったという説もあります)
ドレスもマナーも万事スペイン流で通します。溝は深まる一方です。

それでもアンヌの美しさは皆から賞賛されていましたし
4年もするとフランス流の洗練されたドレスやマナーを取り入れて
美しさに磨きがかかりました。

そんなわけで結婚から4年後、ルイ13世は家臣に強く言われてアンヌの寝室に向かいます。
彼は泣きながら引きずられていったそうですよ。
なんとか義務をはたしたものの、その後もなかなか足を向けなかったということです。
美しい王妃だったというのに、何が気に入らなかったんでしょうね?
でも女好き揃いのフランス王の中にあって、ルイ13世のような王がいるというのも
面白いですね…子供のルイ14世は誰の血をひいたのかな?

アンヌが相次いで流産し、ふたりの間のすきま風がさらに強まった頃
ルイ13世がリシュリューを重用し始め、夫婦仲は悪化の一途をたどっていきます。

ハプスブルク家に対して憎しみに近い反感を抱いていたリシュリューとアンヌの間には
もちろん緊張が高まりますが、万事リシュリュー頼みのルイ13世も
一緒になって妻を毛嫌いしはじめ、もはやアンヌに近づこうとしません。

その上アンヌは手痛いミスを犯します。
1635年、フランスはスペインに宣戦布告をしましたが
アンヌは弟であるスペイン王フェリペ4世と秘密裏に文通を続けました。
姉弟の文通なんですけどね、書いちゃいけないことを書いちゃったんじゃないの?
2年後にリシュリューに見つかり、以後アンヌの手紙は検閲を受けることになりました。

こんな四面楚歌状態の中、なんとっ アンヌが身ごもります。
結婚から23年です。
でも王は王妃に近寄らなかったんじゃ…? 人々は色めきたちます。

実はある夜、旅の途中でルイ13世がアンヌがいるサン・モーの城に立ち寄った時
嵐がやってきて旅を続けられなくなったんですって!
そこには王妃の部屋にしか良いベッドがなくて
王はしぶしぶ王妃と一夜をすごしたということなんですが…
そんなバカなねぇ  お城にいいベッドがひとつしかないなんてさ。
当時の人たちもたぶん同じように思ったはずなんですけど、さらに2年後に王子が生まれます。

その後アンヌは王子たちを連れてルーヴルに引き蘢っていましたが
1643年にルイ13世が亡くなると、幼いルイ14世の摂政になりました。
ルイ13世は生前、なんとかアンヌが摂政に就かないように試みたそうですが失敗しました。
しかも前年にリシュリューも亡くなっていて、もう怖いものなしです。

アンヌが賢明だったのは、愛人といわれる枢機卿マザランに政治を任せたことですかね?
同じような境遇だった義母マリー・ド・メディシスが表舞台にしゃしゃり出て
無茶苦茶な余生を送ったことが教訓になっていたのかもしれません。

アンヌは1656年に摂政の座を退きますが、実際はマザランが亡くなる1661年まで
ルイ14世に影響力を持っていました。
1666年に亡くなりましたが、乳癌でかなり壮絶な最期だったようです。

(参考文献 エレノア・ハーマン『女王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

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フランス王アンリ4世妃 マリー

2009-03-21 10:55:10 | フランス王妃・王女
マルゴの気持ちがよく分かる
アンリ4世妃 マリー・ド・メディシス


1575~1642/在位 1600~1610

マリーはメディチ家の出身ですが、彼女の母ジョヴァンナは
シャルル9世妃エリザベートの父マクシミリアン2世の妹で
カトリーヌ・ド・メディシスよりエリザベートの方が近親かと思われます。
けれどもさすがメディチ家、マリーには60万クラウンという莫大な持参金がついていました。

        

アンリ4世には、長年妻のように暮らしていてアンリの子供も3人生んだ
愛妾ガブリエル・デストレがいて、マルゴと離婚したら彼女と結婚するつもりでした。
けれどもガブリエルはアンリ4世がマルゴと離婚した年に急死してしまいました。

ただアンリ4世は生涯に50人 の愛妾を持っていたと言われる王ですので
その時もちゃんと後がまのカトリーヌ・ド・バルザックという愛妾が控えていました。
王はガブリエルが死んだらカトリーヌと結婚すると約束していたようです。

なんとかカトリーヌをなだめることに成功したのか
1600年にアンリ4世とマリーは結婚します。
ふたりの間には6人の子供が生まれていますが、仲の方は新婚当初から悪かったみたいです。
なぜって…アンリ4世は結婚後も愛妾を遠ざけることはせず
それまでのように堂々とおつき合いをしていたからです。 それは怒るわよね?
(上の肖像画かどうかはわかりませんが、マリーはかなり細めに描かれていたらしく
 アンリ4世は初めてマリーを見た時「騙された!」と叫んだそうですよ)

喧嘩が絶えず、夫への不信感が募る一方のマリーは、前妻マルゴに共感を覚えます。
相談相手が欲しかったのかもしれません。
マリーはアンリ4世を強く促してマルゴのフランスへの帰国をとりつけました。

1610年、アンリ4世が暗殺されると、マリーは幼王ルイ13世の摂政になります。
彼女はまずアンリ4世の愛妾たちを宮廷から追い出しました(そりゃそうね!)。
政治の方はめちゃくちゃで、メイドのレオノーラの夫である
イタリア人コンチーニの影響を強く受け始めて
せっかく名君と言われたアンリ4世が丸く収めてきた宗教間の争いを再燃させます。
彼女のいかげんな政治は、貴族たちのみならず子供たちの反発を招きます。

              
               こちら、貫禄充分になったマリー
                   ルーヴル展で日本にきてましたね


ルイ13世が親政を始めると、マリーの生涯の宿敵、枢機卿リシュリューが登場します。
コンチーニは処刑され、彼女の政策はことごとく覆されて
ブロワ城に軟禁されてしまいました。
その後、マリーはブロワの城を脱走し、王弟オルレアン公を旗印に反乱を企てたり
せっかく和解したのにリシュリュー追放キャンペーンなどを展開したりして
1630年にはとうとうフランスから逃げ出すハメに陥ります。

その後はブリュッセルやアムステルダムを転々とする生活を送り、1642年に
旅先のケルンで息を引きとりました。

もともと政治に興味がある女性だったみたいですけど
アンリ4世の存命中はなかなか口がだせなかったんでしょうね。
好き勝手ができるようになったら、弾けちゃったという感じかしら?

賢明な側近がついていたら良かったかもしれないけど
肖像画を見ているとおとなしく言うことを聞きそうなタイプにも思えなかったりして…
(ルーヴル展のHPによると、ルイ13世と和解している間に描かれたそうです)

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 
      エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

フランス史10講 岩波書店


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『ナナ』それでも饗宴は続く

2009-03-20 02:26:42 | フランスの作家
NANA 
1880年 エミール・ゾラ

ルーゴン・マッカール叢書の9番目にあたる物語で、 『居酒屋』を読まれた方は
ご存知でしょうが、ジェルベーズとクーポーの娘がナナです。
両親は酒に溺れ、救いようのない堕落と貧困のうちに死にますが
小さな頃からおませで生意気なナナは、10代になると怪しい酒場に出入りし始め
早々に親に見切りをつけてパリの街に消えました。

財産もなく手に職もなく、そこそこに美しければ…
当時のパリはそんな女性たちにとって、自分の人生を切り開くことができる街でした。
貴婦人も羨むような贅沢三昧の生活をする高級娼婦 “ クルティザンヌ ” になるか
一生を街の女で終わるかは、美しさだけでなく、男性を面白がらせる才覚や
娼婦としてのこころざしが重要だったようです。

もともと怠け者のナナは、そんなに大それた身分を望んでいたとは思えません。
ケチな旦那衆よりは金払いのいい旦那がいて、好きなものがたらふく食べられて…
それぐらいの気持ちだったと思うんですが、人間て少しずつ贅沢になるものなのよね。

ヴァリエテ座の新人女優として脚光を浴び、自分が高く売れることに気付いたナナは
銀行家や貴族などを獲得してクルティザンヌの仲間入りをします。

ここからははしょるけど、ナナは役者フォンタンにのぼせあがり
いきなり豪奢な生活を捨てて、小さなアパルトマンで所帯を持ちます。
これがうまくいけばよかったのですが、結局生活のために街でからだを売るようになり
フォンタンには捨てられて舞台に復帰します。

ナナは再びクルティザンヌになるのですが、以前とは意気込みが違います。
贅沢と放蕩の限りを尽くして、男たちから搾り取り破滅させ
用がなくなったら有無をいわさず捨て去ります。
でも、そんな日々は終わりを告げることになりました。

ナナに群がる男性は、いくつかにパターン分けすることができます。

女遊びのなんたるかをわきまえず、独占したくて貢ぎ続ける男。
手に入りそうな女を求めて歩き、次から次へと金を出す、という男。
金銭抜きで可愛がられて真剣に愛してしまう男。
女で身を滅ぼすことが粋だと考えて、最後の1フランまで使い果たす男。

端から見ればバカバカしいことなんだけどねぇ…
女の方はね、20代そこそこ、早ければ十代半ばでその道に飛び込んでしまって
哀しい身の上の憂さを晴らすために乱痴気騒ぎをおこしたくなると思うのよ。
でも男の方はねぇ… たしなむ程度ならいいと思うんだけどさぁ…

山田勝氏の『ドゥミ・モンデーヌ』によると、ブランシュ・ダンティニーという
クルティザンヌがモデルになっているということですが
たぶん当時の名だたる女たちを総動員して作り上げられたのがナナだと思います。

ゾラはブランシュ本人には会っていないそうですし
執筆にあたって多数のドゥミモンドへの取材を綿密に行っていますのでね。
当時のクルティザンヌのまわりには有名な作家も集まっていましたから
ゾラだって何人か馴染みの女性がいたんじゃないかしらね?

『居酒屋』のインパクトには及びませんが、女の生き様を見ろ!って感じで
充分に読み応えがあったと思います。
(最後が唐突なんですよね…急に終わらせたくなっちゃったのかしら?)

ナナ 新潮社


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1冊になっておりました
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フランス王アンリ4世妃 マルグリート

2009-03-18 00:46:57 | フランス王妃・王女
ニックネームはマルゴ
アンリ4世妃 マルグリート・ド・ヴァロア


1553~1615/在位 1589~1599

アレクサンドル・デュマ・ペールの小説もあり、映画もあって有名なマルゴですが
いったいどんな王妃だったのでしょう?

アンリ2世の娘に生まれ、3人の兄も王になるという輝かしいバックボーンを持つマルゴは
愛する人と結ばれなかったり夫に愛されなかったりして、悲劇の王妃といわれる一方
生まれついての淫蕩ぶりで悪評名高い王妃にもなっています。

マルゴは11歳で既に3人の情人がいたといわれていますが、それでは飽きたらなかったのか
10代前半から露出が多いスケスケのドレスで男の気を惹いていたそうですよ
いったい賢母カトリーヌ・ド・メディシスは何してたんでしょうね?

              
              10歳前後のマルゴです。このころすでに…

マルゴは “ パリ王 ” と呼ばれ人気絶大だったギーズ公アンリを愛するようになり
ふたりは結婚の約束をしたのですが、これはギーズ公家がさらなる力を持ち、
カトリックとプロテスタントの争いが激化することを怖れた
母后カトリーヌの大反対にあい成就しませんでした。

マルゴにはスペイン王フェリペ2世の王子カルロスや、ポルトガル王セバスチャンとの
縁談が持ち上がりますが、いずれも上手くいきませんでした。
そこでナヴァール女王ファナ3世王子アンリ・ド・ブルボンとの結婚が検討されます。
ファナ(フランス名ジャンヌ・ダルブレ)はプロテスタントで
フランス国内のプロテスタントを擁護していました。
カトリーヌは旧教と新教の融和を画策していてふたりの結婚を思いついたのです。

       

1572年、19歳のマルゴは17歳のアンリと挙式します。
ふたりは最初から最後まで1回も目を合わせなかったそうです。
すでに暗雲が立ちこめていますね。

しかし宗教間の融和を図ったはずの結婚式の直後、サン・バルテルミーの虐殺があり
プロテスタントのアンリは捕えられます。
アンリはカトリックに改宗してナヴァールに戻り、3年後にシャルル9世が亡くなると
マルゴを残してパリに向かいます。
その後ふたりはお互いおおっぴらに愛人をつくりスキャンダラスな生活を送りました。

1582年、マルゴはナヴァールに嫌気がさしフランスに帰りますが
兄アンリ3世は彼女のふしだらな評判を嫌い、すぐに宮廷から出ていくよう言い渡します。
渋々ナヴァールに戻ると、今度は夫アンリから「出ていけ」と言いたげな
冷たい仕打ちを受けました。

ヤケクソになったマルゴは愛人とクーデターを謀り、再びフランスに足を踏み入れましたが
激怒したアンリ3世に捕えられ幽閉されてしまいました。
夫アンリ4世の即位後幽閉は解かれましたが、即離婚を宣告されます。

マルゴはその後も派手な男関係をくりひろげて死の間際まで麗しい男性を侍らせていました。

しかし後年は、前夫アンリ4世と王妃マリーと和解するためフランス宮廷に戻り、
王一家の良き相談相手になりました。
また、宝石の全てを売り払い芸術院を設立したり、貧しい人々に慈善を施したそうです。

もともと淫乱だったというのは置いといて…本気で愛したとされるギーズ公と結婚していたら
彼女の人生も大きく変わったかもしれないし
フランス王家の行く末も違っていたかもしれないですね。
(ギーズ公の母方の祖父はルイ12世です。アンリ4世とはどちらが優位だったのでしょう?
 ややこしくって…
ふたりの間に生まれた子供が王になったら、パリ市民も大喜び! だったかもしれません。
そしたら革命もねぇ、もう少しお手やわらかなものになったかもしれないのに…

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 桐生操氏『世界悪女大全』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』 Wikipedia英語版)

世界悪女大全 文藝春秋


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『イギリス怪奇傑作集』寝る前もOK!

2009-03-17 01:06:57 | イギリス・アイルランドの作家


傑作ぞろいなのか? という疑問は別として、英国における “ 怪奇 ” が
少しだけ理解できたような気がします。

辞典で調べると “ 怪奇 ” とは、1. 説明できない不思議なこと 2. グロテスクな様子
となっておりますが、イギリスでは1. の不思議で、ある意味ファンタジックなことに
比重がかけられているのではないかしら?

『13日の金曜日』的阿鼻叫喚はなくて、ちょっと背筋が寒いかもね、という感じ。
この本に収められている8篇の中には1篇だけゴーストらしきものが登場しますが
その表れ方は控えめで、後から「もしかして… 」と驚く、というものです。
ジェントルですね。

『園芸上手/R・C・クック』
高齢の未亡人ボウエン夫人は、野菜や花のみならず
熱帯植物や薪になった木まで根づかせてしまうほどの園芸上手です。
ある日庭に捨てておいた兎肉の骨から兎が生えて跳んでいきました。

兎が生える様がちょっと気持ち悪いのよ…毛が生えてくるまではね。
このあとボウエン夫人が斧で指を切ってしまい、その指が庭に残ってしまうんです。
もしやボウエン夫人まで生えてしまうんじゃ…

『人殺し/ウィリアム・ワイマーク・ジェイコブズ』
友人マートルを殺してしまったケラーは、彼を庭に埋めました。
その後は庭づくりに余念がなく、立派な岩石庭園ができ上がったのですが
ある朝、庭がめちゃくちゃに掘りおこされていました。

人殺しがすべからくケラーのような目に合って自責の念にかられてくれたら、
と思うばかりです。
なんにも感じないで普通にしている人ばかりだったら、怖くってしょうがないね。

『ラズベリージャム/アンガス・ウィルソン』
11歳のジョニーは、村中の人から忌み嫌われているスゥインデール老姉妹を
心からの親友だと思ってただひとり庇っていました。
でも、ある午後のお茶会を境に姉妹とは二度と会うまいと決心します。

人々が親しくおつき合いをしていた時代にも孤独な老人は存在していたのですね。
もちろんこの老姉妹にはたくさんの問題があったのですが
問題が先か、孤独が先か? そこが悩ましいところです。

誇らし気に何百年前のゴーストが出ると言って聞かせてくれる気質や
妖精や精霊などが語り継がれているアイルランドの影響などがあることも
要因のひとつかもしれませんが、怪奇小説もどことなくノスタルジックで
美しく仕上がっている気がします。
ドバー!とかウギャー!という耳にうるさい擬音はまったく不要です。

この本には入っていませんが、デュ・モーリアやエリザベス・ボウエン、
エリザベス・テイラーなども、ぞっとはしますがどこか優雅ですよね。
眠る前に読んでも大丈夫な気がします。

余談です
福武文庫ってわりと「お!」って思うものがあったんですけどね。
ベネッセになってから文庫って出してます?
復刊してもらえないかしら…
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『絹の瞳』短編もお上手でした

2009-03-15 17:00:36 | フランスの作家
DES YEUX DE SOIE 
1975年 フランソワーズ・サガン

私は、サガンのことを “ アンニュイでアーバンな恋愛小説のオーソリティー ” と
勝手に位置づけているわけですが、この『絹の瞳』は、恋愛ものだけでなく
思ったよりバリエーションに富んだ短篇集でした。

『未知の女(L'inconnue)』
男運が良くない友人リンダをなぐさめようと自宅に連れて帰ったミラセントは
そこであきらかな夫の浮気の痕跡を目にして動揺します。
軽く流してくれるリンダを残してベッドルームに入っていくと…

お互い困ってしまうシチュエーションですね。
でもミラセントの最後のひとことが、こんな時でも失わない女の虚栄心を表していて
笑えてしまいました。 私ならどうするかな…?

『五つのうわの空(Les Cing Distraction)』
絶世の美貌と恐るべき冷酷さで名を馳せたクラーフェンベルク伯爵夫人のエピソード。
彼女はどんな窮地も “ うわの空 ” で切り抜けました。

こんな女になりたい! 絶世の美女は無理でも、うわの空なら…などと
簡単に考えてしまいますが、けっこう難しいことだと思います。
特に自分の死を目の前にした時に冷静になれるか? と問われたら
答えは「 No 」ですね。

『犬の一夜(Une Nuit de Chien)』
賭け事で無一文になって、家族にクリスマスプレゼントが買えなくなったクシムネシトル氏は
野犬収容所から一匹の犬を連れて帰ります。
家族の態度は冷たくなり、クシムネストルを残してミサに出かけてしまいました。
小汚い犬を連れてひとりミサに行ったクシムネストルに奇跡(?)が…

一世紀ほど前の物語っぽいオチだと思いました。
クリスマスにおける人々の慈善の気持ちを、ちょっぴり茶化しているんでしょうか?
でも犬も幸せになり家族も幸せになり、一応ハッピーエンドです。
これを機にギャンブルをやめることができればいいですね。

サガンって、登場人物がゆらゆらと悩みながら物語が進んでいく場面が多いので
短編は苦手なんじゃないかな? と思い込んでましたが、そんなことありませんでした。
どちらかというと彼女のユーモラスな部分がよく出ていると思います。
少しブラックではありますけど。

死に関する物語も多いのですが、「いかに美しく散るか」というのが
大きなテーマになっているようです。
いざとなるとそうはいかないだろうとは思うんですけれどね。

最近、死にたいと思っている人が無差別に他人を殺すという事件が多いですけれど
死の他に選ぶべき道がないというのなら、本当に本当にそれしかないというのなら
できるだけお独りでスマートに逝っていただければ…と願うばかりです。

絹の瞳 新潮社


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フランス王アンリ3世妃 ルイーズ

2009-03-14 01:41:38 | フランス王妃・王女
まさにシンデレラ…なのに
アンリ3世妃 ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン


1553~1601/在位 1575~1589

虚弱続きのカトリーヌの息子たちの三男アンリは、母后の力添えもあって
1573年にポーランド王に選出されてその座についていました。
その際先王ジグムント2世王女アンナと結婚するいう話しが持ち上がっていたのですが
なにしろアンナは28歳年上で…それが原因かどうかわかりませんが交渉は難航します。
実はアンリはフランスにいたころ、コンデ公妃マリー・ド・クレーヴを愛していて
彼女に未練があったのかもしれません。(でも人妻なんですけどね)

そんな中兄シャルル9世の死亡を聞いたアンリは夜の闇にまぎれてポーランドを脱出、
ポーランド王位は失効となりフランスに戻って即位します。

さて、お妃をどうしましょう? ということになりました。
アンリ3世は以前からマリー・ド・クレーヴを離婚させて妃にしようとしていましたが
ポーランドから戻ってくると、マリーは出産の時に亡くなってしまったと知ります。
兄のシャルル9世の未亡人エリザベートには断られてしまうし…

そこでアンリが思いついたのがロレーヌ公の姪にあたるルイーズです。
王に選ばれポーランドに向かう途中、ロレーヌ公の妃になっていた
妹のクロードを訪ねたアンリは、ちょうど滞在していたルイーズに会って
憎からず思っていました。
      

ルイーズは、父や継母に愛されず孤独な少女時代を送っていました。
彼女は静かで大人びたところがあって、生意気そうに見られたといわれています。
けれどその思慮深そうな瞳に人を惹きつける魅力がありました。
母后カトリーヌ・ド・メディシスは、彼女の家柄や性格が王妃に相応しくないと反対しますが
アンリはめずらしく母親に反抗してルイーズに求婚しました。

1575年、晴れてふたりは結婚しました。
結婚式って女性があれやこれやと考えて、男性はボーっとしているのが常ですが
アンリ3世は、自らイベントスケジュールを考えたり
ふたりの衣装のデザインをするほど張り切ります。
なんでもアンリはルイーズのヘアスタイルにもこだわりがあったようで
髪結いの時間までたっぷりとっていたため、結婚式はとても長びいてしまいました。
女心がよく分かる…というか女らしい王様ですね。

アンリ3世とルイーズの間に嫡子が生まれないと
ヴァロア家直系が途絶えることになるのですが、なかなか子供に恵まれませんでした。
ルイーズの痩せ過ぎが原因とも言われています。

嫡子が生まれないと王位がブルボン家のナヴァール王アンリに移ってしまうという焦りと
当時市民に絶大な人気があり “ パリ王 ” と呼ばれていたギーズ公アンリへの嫉妬から、
1588年、アンリ3世はとんでもない行動に出ます。

相変わらず旧教徒と新教徒の争いがおさまらないフランスでしたが
アンリ3世は話し合いを持つという名目で、旧教徒の有力者ギーズ公兄弟を招き
暗殺してしまったのです。

アンリ3世は有頂天になっていましたが、これは大変危険なことでした。
母后カトリーヌはこの報を聞いてショックを受け寝込んでしまい、
翌年亡くなりましたが、パリ市民の怒りをかったアンリ3世は
カトリーヌの葬儀をパリであげることさえできませんでした。
1589年、アンリ3世は狂信的な旧教徒との謁見中に暗殺されてしまいます。

ルイーズはその後鬱状態に陥ります。
彼女が引き蘢ったシュノンソー城の部屋は白と黒に塗られました。
常に寝間着姿で無言のまま過ごし、アンリ3世のことを思い出すだけの日々を送り
1601年に亡くなりました。

継母にいじめられていた少女が王妃へ…まさにシンデレラ状態なんですけど
Happy ever after...といかないのが現実なんですね。

 余談です
もしかして、マリー・ド・クレーヴって『クレーヴの奥方』のモデルですかね?
時代やストーリーにちょっと違いはありますけど…

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)
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『鰐』なんか笑えない・・・ (>_<、)

2009-03-14 01:22:02 | ロシアの作家

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

“ ユーモア小説集 ” と書いてあったので、お珍しい と思い購入しました。
うぅぅむ、確かに笑わせてくれようとしてるかもしれないのですけど…
愉快に笑えないのです、私。

以前チェーホフ・ユモレスカを買った時には、内容というよりは訳が!
「◯◯なんじゃ!」「◯◯だんべ」(思い出せないので適当です)的な言葉に
閉口したのですけれど、ドストエフスキーの方はちょっと哀しいんですよ。
これで笑えと言われましても… というのが正直な感想です。

4篇なので簡単(すぎるほど)に全部ご紹介します。

『九通の手紙からなる小説/1847年』
慇懃な内容から始まって、やり取りを重ねるうちに罵詈雑言を書き連ねるようになる
ピョートル・イワーヌイッチとイワン・ペトローヴィッチの手紙。
とうとう、お互いの妻のことにまで及んで…

メールでなくて良かったよ…手紙なら少なくとも中1日はかかるものね。
書いていくうちに、あれもこれもと追加したくなる気持ちはよく分かります。

『他人の妻とベッドの下の夫/1848年』
嫉妬深い夫が妻をつけまわるうちに浮気相手らしい青年に出会います。
後日現場にのり込もうとすると女は人違い、慌ててベッドの下に隠れたら
その青年が先に潜んでいました。

夫の態度に『永遠の夫』を連想させられてイライラします!
しゃべればしゃべるほど墓穴を掘るというのに、なぜ黙ってられないかな?

『いまわしい話/1862年』
同僚の家で人道的な行いについてひとくさり論じたイワン・イリイチは
帰りに部下の結婚式に気付き、身分を超えて顔を出してやることにします。
皆の感激する表情を思い浮かべてほくそ笑むイワン・イリイチでしたが…

イワン・イリイチの災難を笑うより、新郎のプセルドニーモフの今後を考えると
可哀想で涙が出てしまう、というのが私の感想でございます。

『鰐(1865年)』
友人夫妻とドイツからやってきた巨大な鰐の見せ物を見に行ったセミョーン。
ふとした隙に友人のイワンが鰐に飲み込まれてしまいます。
右往左往する人々を尻目に、イワンは「しばらく鰐の腹の中にいる」と言いだします。

セミョーンってお人好し…いやなことはいやだとはっきり言わなくてはね。
それにしても、あからさまな利己主義のぶつかり合い…ビックリしますよ。

『九通~』と『他人の妻~』は浮気に関するもの、『いまわしい話』と『鰐』は
官僚主義や似非人道主義をおちょくっているような内容です。
結局ユーモアってそういうものが題材になりやすい時代だったのかもしれませんね。

人が「面白い」と思うには、モデルになる人物がいるんじゃないでしょうか?
確固とした個人でなくて漠然としたタイプでもいいのですけれど。
情報があまり広くいき渡らなかった時代には、“ 寝とられ亭主 ” とか “ 成り上がり ”
“ 俗物 ” “ 腰巾着 ” など、分かりやすい笑われ者が必要だったのかもしれません。
それで「◯◯さんみたいじゃなくて?」って笑うのね。

とはいえ、ドストエフスキーにこういう一面があったと知って
なんだか嬉しくなりました。

鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集 講談社


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フランス王シャルル9世妃 エリザベート

2009-03-13 01:19:13 | フランス王妃・王女
敬虔すぎるのが玉にキズ
シャルル9世妃 エリザベート・ドートリッシュ


1544~1592/在位 1570~1574

フランソワ2世の死で弟シャルル9世が即位して再び摂政になった母后カトリーヌ
旧教と新教の融和を図ろうと、シャルル9世をイングランド女王エリザベス1世
結婚させようとしましたが、17歳も年上のエリザベスに相手にされませんでした。
エリザベス1世は、自分が旧教徒か新教徒か立場をはっきりしていませんでしたが
両方に寛容で、教徒間の争いはおさまっていました。

そこでカトリーヌは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世皇女エリザベートに注目します。
神聖ローマ帝国は旧教国でしたが、マクシミリアン2世は新教徒に寛大だったからです。

         

カトリーヌは後年のサン・バルテルミーの虐殺のせいで
日頃から新教徒に対して弾圧を与えていたような印象がありますが
イングランドのメアリ-1世などと違って
新教と旧教の争いの平和的な解決を模索していたと言われています。

縁談はまとまり、1570年、シャルル9世とエリザベートは結婚しました。
エリザベートは平穏で敬虔で心優しい純真無垢な淑女でした。
また、白い肌と美しいブロンド、非のうちどころのないプロポーションで
当時もっとも美しい女性と言われていました。
(そのわりに26歳と、当時にしては晩婚なのよね…なぜかしら?)

シャルル9世はエリザベートの肖像画を見て「頭痛をおこさせない顔だ」と
素っ気なく言い放ったそうですが、実は気に入ったとみえます。 素直じゃないんだから
シャルル9世には長年の愛人マリー・トゥーシェがいましたが
エリザベートにも愛をそそぎ、ふたりは信頼しあう良き夫婦となったそうです。

いいところだらけのようなエリザベートですが、ただひとつだけ責められる点があるとしたら
それはあまりにも純粋に神を信じていたことでしょうか。
エリザベートはカトリックでしたが、新教徒の家臣や政治家を嫌ってまったく顧みず
臣従の礼である手への口づけも拒否していました。
カトリーヌがなんとか旧教徒と新教徒の争いを治めようとしている中
嫁として浅はかな振る舞いではありますね。

ところで、平和主義者という説もあるカトリーヌは
なぜシャルル9世にサン・バルテルミーの虐殺の令をだすよう、執拗に説得したのでしょう?

息子シャルル9世が父親のように慕っていた新教徒コリニー提督を殺害することが
大きな目的でしたが、その理由には諸説あります。

擁護派は、大きな力を持ったコリニーがスペインに戦争を仕掛けようとしていて
カトリーヌは国際的な宗教戦争が勃発するのを阻止したかった、と言います。
一方、シャルル9世へのコリニーの影響力が大きくなりすぎて
自分の権力が衰えるのを阻止するために思いついたのだ、という人もいます。
いずれにしても、大虐殺をすることはなかったんじゃないのかしら?

このサン・バルテルミーの虐殺のことを聞いたイングランド女王エリザベス1世は喪に服し
ローマ教皇やスペイン王フェリペ2世は祝杯をあげたそうですが
シャルル9世は気に病んで酒浸りになり、2年後の1574年亡くなりました。

エリザベートには、シャルル9世の弟アンリ3世との再婚話ももちあがりましたが
彼女はこれを断り故郷に戻りました。
1592年、エリザベートはこの世を去りますが
その年は奇しくもヴァロア王家が終わりを告げた年でもありました。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

ヨーロッパ中世を変えた女たち 日本放送出版協会



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