帝国最後の皇后
カール1世妃 ツィタ・マリア・フォン・ブルボン=パルマ
1892~1989/在位 1916~1918
ツィタ・マリアの母マリア・アントニアはポルトガル王女で、カールの義理の祖母の妹です。
どうでしょう!! この、何かを企んでいる感じの家系図。
どの王家も生き残りに必死という時代でした。
カールとツィタは幼い頃から見知っていましたが、カールが21歳、ツィタが17歳の時に
親族一同の計らいで再会し1911年に結婚しました。
皇帝フランツ・ヨーゼフは甥の皇太子フランツ・フェルディナントの妃ゾフィー・ホテクが
どーにもこーにも気に食わなかったのね。
なぜかって言うと、ゾフィーはベーメンの下級貴族の娘だったからです。
それでカールとツィタの結婚には大喜び!
結婚式にも列席してツィタにティアラを贈ったり記念撮影に収まったりと上機嫌でした。
帝国最後の輝き。御成婚でのおふたり
もちろん、皇帝に冷たくされている皇太子妃ゾフィーがおもしろかろうはずはなく
また、名家ブルボンの血を誇るツィタも家柄の悪いゾフィーを見下すところがあって
ふたりが仲良くできるわけないわよねぇ…
1914年、第一次世界大戦の引金になるサラエボ事件がおこります。
皇太子フランツ・フェルディナントとゾフィーが暗殺され
カールが皇太子になりました。
しかし皇太子とは名ばかり… 皇帝は80歳を越えても元気ばりばりで仕事をして
カールには何も関与させてくれませんでした。
なんと!カールは第一次世界大戦の宣戦布告も知らされてなかったんだって。
戦争のさなか、とうとうフランツ・ヨーゼフが力尽き、カールは皇帝に即位します。
戦況はオーストリアにとって良くありませんでした。
ツィタは王家存続のために精力的に活動しますが
これが高慢ででしゃばりというイメージを与えてしまいます。
その上、イタリアが同盟を破棄して敵にまわったために憎まれるようになり
(注…ツィタはブルボン=パルマ家とはいってもイタリアに住んだことはないのよね)
兄ジクストゥスを通じて、カールにこっそりフランスと和平交渉をさせたことで
国民を激怒させてしまいます。
1918年、大戦は終結、オーストリアは負けました。
帝国のひとつハンガリーでは革命がおこってウィーンでも市民が声をあげはじめました。
カールは側近たちの説得を受け入れて退位を決意します。
根っからの王侯貴族ツィタは激しく反対しましたが、退位は避けられませんでした。
その後オーストリアに共和国政府が誕生し、スイスに亡命したカール一家でしたが
「ハンガリー王はまだ退位してないじゃん!」と言ってはハンガリーへ向かいます。
一度は温情で見逃してもらえたのですが、二度目には逮捕され
ポルトガルのマデイラ島に島流し… その後しばらくはおとなしく過ごしたようです。
1922年にカールが島で亡くなると、大陸に戻ることになったツィタは
スペインやベルギーでハプスブルク王家復活の活動を再開します。
第二次大戦中は、もとハプスブルク帝国だった国々の行く末を憂い
戦後はオーストリア復興のために援助を惜しみませんでした。
嫁の鏡よね。
実家ではなくて嫁ぎ先の家のために一生懸命になれるんですもの。
1962年からはスイスの聖ヨハネス修道院で暮らすようになりました。
1982年に一度だけ、娘の墓参りのためにウィーンを訪れています。
97歳で亡くなったツィタの命日は、なんとカール1世と同じ4月1日でした。
葬儀はシュテファン大聖堂でおこなわれ、カプツィーナ教会に埋葬されました。
ただし、心臓は彼女の望み通りカールの心臓とともにスイスのムリに葬られました。
すごく私好みのおばあちゃまなんだけど…
激動の人生だったわりにはおだやかなお顔をしていらっしゃる
王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。
(これはとんでもない偏見だったことが発覚! 皇女エリーザベトのページをご覧下さい)
でも称号と人々の尊敬を失うのは、王侯貴族にとって堪え難いことなんでしょうね。
ツィタがそんなにまでして取り戻したかったハプスブルク家の栄光は
甦ることはないのでしょうね…
ちなみに、カール1世&ツィタの息子オットーと孫カールはEUの議員ですってよ。
(98歳のオットー氏は引退したもよう)
欧州統合… 別の意味で帝国の復活とも言えるかも…(無責任コメント )
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』
Wikipedia英語版)
カール1世妃 ツィタ・マリア・フォン・ブルボン=パルマ
1892~1989/在位 1916~1918
ツィタ・マリアの母マリア・アントニアはポルトガル王女で、カールの義理の祖母の妹です。
どうでしょう!! この、何かを企んでいる感じの家系図。
どの王家も生き残りに必死という時代でした。
カールとツィタは幼い頃から見知っていましたが、カールが21歳、ツィタが17歳の時に
親族一同の計らいで再会し1911年に結婚しました。
皇帝フランツ・ヨーゼフは甥の皇太子フランツ・フェルディナントの妃ゾフィー・ホテクが
どーにもこーにも気に食わなかったのね。
なぜかって言うと、ゾフィーはベーメンの下級貴族の娘だったからです。
それでカールとツィタの結婚には大喜び!
結婚式にも列席してツィタにティアラを贈ったり記念撮影に収まったりと上機嫌でした。
帝国最後の輝き。御成婚でのおふたり
もちろん、皇帝に冷たくされている皇太子妃ゾフィーがおもしろかろうはずはなく
また、名家ブルボンの血を誇るツィタも家柄の悪いゾフィーを見下すところがあって
ふたりが仲良くできるわけないわよねぇ…
1914年、第一次世界大戦の引金になるサラエボ事件がおこります。
皇太子フランツ・フェルディナントとゾフィーが暗殺され
カールが皇太子になりました。
しかし皇太子とは名ばかり… 皇帝は80歳を越えても元気ばりばりで仕事をして
カールには何も関与させてくれませんでした。
なんと!カールは第一次世界大戦の宣戦布告も知らされてなかったんだって。
戦争のさなか、とうとうフランツ・ヨーゼフが力尽き、カールは皇帝に即位します。
戦況はオーストリアにとって良くありませんでした。
ツィタは王家存続のために精力的に活動しますが
これが高慢ででしゃばりというイメージを与えてしまいます。
その上、イタリアが同盟を破棄して敵にまわったために憎まれるようになり
(注…ツィタはブルボン=パルマ家とはいってもイタリアに住んだことはないのよね)
兄ジクストゥスを通じて、カールにこっそりフランスと和平交渉をさせたことで
国民を激怒させてしまいます。
1918年、大戦は終結、オーストリアは負けました。
帝国のひとつハンガリーでは革命がおこってウィーンでも市民が声をあげはじめました。
カールは側近たちの説得を受け入れて退位を決意します。
根っからの王侯貴族ツィタは激しく反対しましたが、退位は避けられませんでした。
その後オーストリアに共和国政府が誕生し、スイスに亡命したカール一家でしたが
「ハンガリー王はまだ退位してないじゃん!」と言ってはハンガリーへ向かいます。
一度は温情で見逃してもらえたのですが、二度目には逮捕され
ポルトガルのマデイラ島に島流し… その後しばらくはおとなしく過ごしたようです。
1922年にカールが島で亡くなると、大陸に戻ることになったツィタは
スペインやベルギーでハプスブルク王家復活の活動を再開します。
第二次大戦中は、もとハプスブルク帝国だった国々の行く末を憂い
戦後はオーストリア復興のために援助を惜しみませんでした。
嫁の鏡よね。
実家ではなくて嫁ぎ先の家のために一生懸命になれるんですもの。
1962年からはスイスの聖ヨハネス修道院で暮らすようになりました。
1982年に一度だけ、娘の墓参りのためにウィーンを訪れています。
97歳で亡くなったツィタの命日は、なんとカール1世と同じ4月1日でした。
葬儀はシュテファン大聖堂でおこなわれ、カプツィーナ教会に埋葬されました。
ただし、心臓は彼女の望み通りカールの心臓とともにスイスのムリに葬られました。
すごく私好みのおばあちゃまなんだけど…
激動の人生だったわりにはおだやかなお顔をしていらっしゃる
王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。
(これはとんでもない偏見だったことが発覚! 皇女エリーザベトのページをご覧下さい)
でも称号と人々の尊敬を失うのは、王侯貴族にとって堪え難いことなんでしょうね。
ツィタがそんなにまでして取り戻したかったハプスブルク家の栄光は
甦ることはないのでしょうね…
ちなみに、カール1世&ツィタの息子オットーと孫カールはEUの議員ですってよ。
(98歳のオットー氏は引退したもよう)
欧州統合… 別の意味で帝国の復活とも言えるかも…(無責任コメント )
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』
Wikipedia英語版)
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