love

神奈川県の西部にある「小さな町」で暮らす私777>日々の生活の様子、見たこと、感じたこと、思ったことを綴っていきます。

行けたらいいなぁ~~~

2007-09-28 | インポート
いつも主人が言う言葉・・・、
「harusanの兄妹は、仲が良くていいなぁ~。何かあると助け合って、集まって、笑って、うらやましい」

私はこうこたえます・・・、
「決してお金持ちではなかったけど、家族を守るために一生懸命働いてくれたお父さんと、家を守りながら、精一杯の愛情を注いで子育てをしてくれたお母さんのおかげで、不自由のない生活ができたからかしら」

今日もそんな話になって・・・、
「そういえば、お父さんとお母さんは、パラオ島に住んでいたときが一番いい暮らしをしていたみたいよ」

両親が、日本の占領地であった「パラオ島」に行ったのは昭和12~3年ごろだったようです。
首都コロールの「金鉱」で技師として働いていたようですが、かなり良い待遇であったみたいです。
島民三人が使用人として家にいて、母は「奥様」だったとか(苦笑)。
大きなデパートがあり、買い物も「金鉱のAです」と、名前だけ言えばOKだったと自慢してました(笑)。

昭和16年、「戦争が始るかもしれない」ということで、多くの日本人が帰国を始めたそうです。
最初の頃は、たくさんの荷物を持って乗れたようですが、私の両親は「最後の船」でしたから「身一つ」での帰国となったとか。

「真珠の帯止め五個」だけは、母が必死で「姉妹」のために持ち帰り、伯母達に喜ばれたそうです(苦笑)。

私が小学生の頃に見つけた不思議な物・・、
「大きなカメの甲羅」とか「黒い大きなアルバム」・・これには、たくさんの島民の写真とか、皆さんがガイコツを持って写っている写真とか、子どもの私には、ちょっと恐い写真がたくさん貼ってありました!
これらも持って帰ってきたんでしょうね。

両親が帰国する時、一番若かった使用人から「いっしょに連れて帰ってくれ」と泣いて頼まれたけど「許されないことだから」と、別れてきたのが気になっている・・・そんな話も何回か聞かされました。
彼の名前は「オリクリ」・・・今、元気でいれば70歳を越えているんでしょう。

「パラオ島へ、一度行ってみたいわ」と思っている私。
「若かった両親」が、楽しい生活を送った場所を、この目で確かめるのもいいかもしれませんね。

で・・ちょっと調べてみました。
日本からの直行便は定期的にはないのですが、旅行社のパック便で「チャーター機の直行便」があるようです。

主に「ダイビング」「釣り」とかの観光目的の人が多いようですが・・・。
コロール島は一日あれば、グル~ッ~~と回れそうですから、計画できるかもしれません!

今、なぜこんな気持になったのか、不思議で・・・ちょっと自分自身が気味悪いです(笑)。