Death (Art of Living)
by Todd May
Review: Death by Todd May | Books | The Guardian
ちょっと前に紀伊国屋でみつけた。裏表紙に自分でまとめたメモを参照に久しぶりに簡単に本の感想文。
なお、異なる著者による同名の本の書評については、Death by Geoffrey Scarre を参照。
やっぱ、死ぬことも生きることも不思議ですね。
著者はハイデガーの洞察として、次のことに着目します。
1)はそのまんまで、難しいところはない。で、2)はどういう意味かというと、例えば、柿なんか、柿として熟して完成して、木から落ちるなりして柿の死を迎える。人間の死はそうした意味での完成を意味しない。あるいは、小説なんぞ、多くの場合、全体の意味を与えるのが最終章にある。しかし、人の死はそれまでの生にそうした意味での意義を与えない。むしろ、中途半端で終わった小説のようなものである。
そして、3)でいうように、死は生にいつでもつきまとっている。この前イランで射殺された女子大生だって、まさか、死ぬとは思っていないが、しかし、それは突然やってくる。しかも、ある危機をかろうじて、生き延びても、しかし、死は、必然である。徒然草にもいうように、「死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり。 人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。」である。
4)を理解するには、著者が授業でつかう例がいい。学生に、自分の人生にとって重要なものをいくつでも書かせる。作文を集めて、それを読まずに、ビリッと破り捨てるーーーこれが死だ。 自分が遂行しつつある計画、自分が築いてきた関係、自分が楽しみにしている明日、自分が大切に思っていること、人生の意味をボカッと奪ってしまう。
なんとなく生きていればそれはそれでいいのかもしれないが、そうでない人もいる。で、やっぱ死は人間にとって大問題とみえて、世界の宗教でも一大事になる。で、著者に依れば、キリスト教や仏教は、1)を否定することによって安心を得ようとする。キリスト教では、死んだら審判を受けて天国とか地獄にいく。うまいことに、この構図だと、生の意味も決まってくる。キリスト教は一度死ぬだけだが、著者によれば、仏教やヒンズー教だと、なんどでも永遠に転生する。もっとも、仏教では転生する自我が幻影であると悟る、道も残されているが。
で、エピクロスなんかの死に対する見方は以前にも紹介した。快とは、苦痛の軽減である。(ちょっとおおざっぱすぎるかもしれないが)生は苦しい。死は経験できない。だから、おそれることもない。しかも、生まれてくる前に、私なしで、永遠の時が流れているのを恐れないのだから、死んでから私なしで、永遠のときが流れるのを恐れるのは理不尽である。著者によれば、こうした死(者)からの物言いは、妥当か、という疑義を呈している。で、著者が紹介しているエピクロス派の新しい議論は、順番こ、の議論。なんでも順番というものがある。じっちゃんが死に、とおちゃんが死ぬ。みんな死ななかったら、人口問題大変なことになる。だから、お前さんが死んで若い衆、あるいは他人が生き延びるのもそれが、順番というもので、ええじゃないかと。ある種、全体からの自分の生をみた言い回しである。で、これと似ている死のとらえ方が道教である。お前さんの人生は大海の滴、一つの波に過ぎない。海から波が生じて死んで海に還るーーそれだけの話じゃないか、と。これも、大道という全体との関係で生死をとらえようとしている。(なお、全体との関連で意味を見いだすことに関しては、Examined life参照)
といっても、自分の生は愛おしい。人は経験し、その経験に苦楽あり、また、人生を企図し、愛する人などと関係し、また、愛することに没頭する。こうした苦楽、企図、関係などの基底にある経験そのもの自体が奪われるのは、やはり悪である、というのが、著者が引用するネーゲルの議論である。青空を不図眺める。風、雲、日射しーーー企図とか、あることをするしたりうけたりすることにともなう苦楽以前に、それだけでも何も欠けることのない、原初的で、単純すぎる経験のみでも貴重である。それが、死と共に止む。死は生から意味を奪う。
もっとも、不死も実は生から意味を奪う、というのが著者の二つ目の眼目。
誰も死なないとすれば、どんなこともいずれやることになるし、いずれそれが起きることを見るだろう。会いたい人と今あう必要もなく、読みたい本も今週読む必要もない。先ほどの未完で、中途半端な小説は対照的に、絶対に終わらない小説をいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも・・・・読まされているようなものになる。切迫感というものがまるでない。ここのところは、自分だけ死なない場合とか、やったことを憶えていない場合とか、いろいろ想定して議論しているが、なんとなく感じはつかめるだろうーーー不死がこのようにして、人生の、あるいは、今する行為の価値を奪う、少なくとも軽減するということは、しかし、お互いの生の有限性、つまり死が、我々の関係や我々の行為に意義を帯びさせているということでもある。
Death(or its allusion) makes men precious and pathetic.(page 69)
On the one hand , it is death that lends urgency and beauty. Without death , little seems to the very meaningfulness it delivers.(page 71)
とすれば、
という二側面があり、このあやうい、二律背反を背負って生きているのが我々の生だということになる。
そして、その二律背反を背負って生きるということは、結局、人生、人の生、はもろく儚い、ということを自覚しながら生きる、ということになる、と著者は、マルクス・アウレリウスなんぞ解釈しながら説く。この禁欲主義者は、日本でも人生論のファンが多いんじゃないかな?
人生がもろく、明日がないかもしれない、ということは、例えば、自分のやっていることの価値に反省を促す。誰かに認められるとか、認められないとか、そんなことは束の間のこと。自分が死んだ先に自分を自分の失態や業績を憶えているひとなんどほぼ皆無である。そして、自分が残す遺産や痕跡を引き継ぐ者とて、死を、滅びを避けることは出来ない。仮に残る者のために、ということに意義を見いだしたとしても、著者の譬喩を使えば、沈む行く船の乗客に食料を渡すようなものだ。(page 38)あるいは、泥舟の乗客が他の泥舟の船員に希望を見ているようなものだ。
やれ、上司がこう言った、とか、有道がどうのそんなことどうでもええじゃないか? 具体的にこうしろ、というわけではないけど、自分の生が有限である、自分に死はいつも不確定だが必然的につきまとっているのだ、という観点は自分の人生や物事の見方をそれにそって整序させる。
たしかに、そうやってみると、どうでもいいと思える事も多い。明日がないかもしれないということはしかし、明日がない、ということでもはない。不確定(上記3)であるということは、明日があるかもしれない、ということでもある。友人との関係は多分続くだろうし、それは、大切なものだし、どうせみんな死んでしまうからといっても、当分この世は続くのだし、悪いやつを栄えさせておくわけにもいかない。投げやりになるわけでもなく、不確定な将来をも見据えながら、不確定な将来に惑わされることなく、現在を生きる、というわけだが・・・なんとなくちょっと陳腐な結論のような気もしないでもない。陳腐が悪いというわけでも全然ないが・・・
死を見据えた生き方として、例えば、生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき、無 難 禅 師や、臨済録の普化なぞの狂人に至っては、生に全く意味を求めないーーー死に対する態度としてそうした伝統、あるいは境地もある、ということである。
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by Todd May
Review: Death by Todd May | Books | The Guardian
ちょっと前に紀伊国屋でみつけた。裏表紙に自分でまとめたメモを参照に久しぶりに簡単に本の感想文。
なお、異なる著者による同名の本の書評については、Death by Geoffrey Scarre を参照。
やっぱ、死ぬことも生きることも不思議ですね。
著者はハイデガーの洞察として、次のことに着目します。
1)死とは私、および、その経験の終焉である。
2)死は停止であり、未完であり、何も達成しない。
3)死はいつ来るか不確定だが、しかし、必然である。
4)死は人生の意義を疑問に付す。
1)はそのまんまで、難しいところはない。で、2)はどういう意味かというと、例えば、柿なんか、柿として熟して完成して、木から落ちるなりして柿の死を迎える。人間の死はそうした意味での完成を意味しない。あるいは、小説なんぞ、多くの場合、全体の意味を与えるのが最終章にある。しかし、人の死はそれまでの生にそうした意味での意義を与えない。むしろ、中途半端で終わった小説のようなものである。
そして、3)でいうように、死は生にいつでもつきまとっている。この前イランで射殺された女子大生だって、まさか、死ぬとは思っていないが、しかし、それは突然やってくる。しかも、ある危機をかろうじて、生き延びても、しかし、死は、必然である。徒然草にもいうように、「死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり。 人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。」である。
4)を理解するには、著者が授業でつかう例がいい。学生に、自分の人生にとって重要なものをいくつでも書かせる。作文を集めて、それを読まずに、ビリッと破り捨てるーーーこれが死だ。 自分が遂行しつつある計画、自分が築いてきた関係、自分が楽しみにしている明日、自分が大切に思っていること、人生の意味をボカッと奪ってしまう。
なんとなく生きていればそれはそれでいいのかもしれないが、そうでない人もいる。で、やっぱ死は人間にとって大問題とみえて、世界の宗教でも一大事になる。で、著者に依れば、キリスト教や仏教は、1)を否定することによって安心を得ようとする。キリスト教では、死んだら審判を受けて天国とか地獄にいく。うまいことに、この構図だと、生の意味も決まってくる。キリスト教は一度死ぬだけだが、著者によれば、仏教やヒンズー教だと、なんどでも永遠に転生する。もっとも、仏教では転生する自我が幻影であると悟る、道も残されているが。
で、エピクロスなんかの死に対する見方は以前にも紹介した。快とは、苦痛の軽減である。(ちょっとおおざっぱすぎるかもしれないが)生は苦しい。死は経験できない。だから、おそれることもない。しかも、生まれてくる前に、私なしで、永遠の時が流れているのを恐れないのだから、死んでから私なしで、永遠のときが流れるのを恐れるのは理不尽である。著者によれば、こうした死(者)からの物言いは、妥当か、という疑義を呈している。で、著者が紹介しているエピクロス派の新しい議論は、順番こ、の議論。なんでも順番というものがある。じっちゃんが死に、とおちゃんが死ぬ。みんな死ななかったら、人口問題大変なことになる。だから、お前さんが死んで若い衆、あるいは他人が生き延びるのもそれが、順番というもので、ええじゃないかと。ある種、全体からの自分の生をみた言い回しである。で、これと似ている死のとらえ方が道教である。お前さんの人生は大海の滴、一つの波に過ぎない。海から波が生じて死んで海に還るーーそれだけの話じゃないか、と。これも、大道という全体との関係で生死をとらえようとしている。(なお、全体との関連で意味を見いだすことに関しては、Examined life参照)
といっても、自分の生は愛おしい。人は経験し、その経験に苦楽あり、また、人生を企図し、愛する人などと関係し、また、愛することに没頭する。こうした苦楽、企図、関係などの基底にある経験そのもの自体が奪われるのは、やはり悪である、というのが、著者が引用するネーゲルの議論である。青空を不図眺める。風、雲、日射しーーー企図とか、あることをするしたりうけたりすることにともなう苦楽以前に、それだけでも何も欠けることのない、原初的で、単純すぎる経験のみでも貴重である。それが、死と共に止む。死は生から意味を奪う。
もっとも、不死も実は生から意味を奪う、というのが著者の二つ目の眼目。
誰も死なないとすれば、どんなこともいずれやることになるし、いずれそれが起きることを見るだろう。会いたい人と今あう必要もなく、読みたい本も今週読む必要もない。先ほどの未完で、中途半端な小説は対照的に、絶対に終わらない小説をいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも・・・・読まされているようなものになる。切迫感というものがまるでない。ここのところは、自分だけ死なない場合とか、やったことを憶えていない場合とか、いろいろ想定して議論しているが、なんとなく感じはつかめるだろうーーー不死がこのようにして、人生の、あるいは、今する行為の価値を奪う、少なくとも軽減するということは、しかし、お互いの生の有限性、つまり死が、我々の関係や我々の行為に意義を帯びさせているということでもある。
Death(or its allusion) makes men precious and pathetic.(page 69)
On the one hand , it is death that lends urgency and beauty. Without death , little seems to the very meaningfulness it delivers.(page 71)
とすれば、
死は人生から意味を奪う。
死は人生に意味を与える。
という二側面があり、このあやうい、二律背反を背負って生きているのが我々の生だということになる。
そして、その二律背反を背負って生きるということは、結局、人生、人の生、はもろく儚い、ということを自覚しながら生きる、ということになる、と著者は、マルクス・アウレリウスなんぞ解釈しながら説く。この禁欲主義者は、日本でも人生論のファンが多いんじゃないかな?
人生がもろく、明日がないかもしれない、ということは、例えば、自分のやっていることの価値に反省を促す。誰かに認められるとか、認められないとか、そんなことは束の間のこと。自分が死んだ先に自分を自分の失態や業績を憶えているひとなんどほぼ皆無である。そして、自分が残す遺産や痕跡を引き継ぐ者とて、死を、滅びを避けることは出来ない。仮に残る者のために、ということに意義を見いだしたとしても、著者の譬喩を使えば、沈む行く船の乗客に食料を渡すようなものだ。(page 38)あるいは、泥舟の乗客が他の泥舟の船員に希望を見ているようなものだ。
やれ、上司がこう言った、とか、有道がどうのそんなことどうでもええじゃないか? 具体的にこうしろ、というわけではないけど、自分の生が有限である、自分に死はいつも不確定だが必然的につきまとっているのだ、という観点は自分の人生や物事の見方をそれにそって整序させる。
たしかに、そうやってみると、どうでもいいと思える事も多い。明日がないかもしれないということはしかし、明日がない、ということでもはない。不確定(上記3)であるということは、明日があるかもしれない、ということでもある。友人との関係は多分続くだろうし、それは、大切なものだし、どうせみんな死んでしまうからといっても、当分この世は続くのだし、悪いやつを栄えさせておくわけにもいかない。投げやりになるわけでもなく、不確定な将来をも見据えながら、不確定な将来に惑わされることなく、現在を生きる、というわけだが・・・なんとなくちょっと陳腐な結論のような気もしないでもない。陳腐が悪いというわけでも全然ないが・・・
死を見据えた生き方として、例えば、生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき、無 難 禅 師や、臨済録の普化なぞの狂人に至っては、生に全く意味を求めないーーー死に対する態度としてそうした伝統、あるいは境地もある、ということである。
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