礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

読んでいただきたかったコラム10(2015年後半)

2015-12-31 05:38:51 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム10(2015年後半)

 本年も、今日で最後となりました。大晦日に関連する過去の記事を、下に掲げますので、よろしかったらクリックしてみてください。

除夜の鐘が鳴らなかった昭和18年の大晦日 2012・12・26

生方恵一アナウンサーと「ミソラ事件」 2014・12・25

 本年は、鶴見俊輔さん(七月二〇日)、原節子さん(九月五日)、水木しげるさん(一一月三〇日)といった方が亡くなりました。年内に、これらの方について、もう少し言及したかったのですが、機会を逃しましたので、これは来年の課題とします。
 恒例により、この半年間(二〇一五年七~一二月)に、このブログで発表したコラムのうち、読んでいただきたかったもの一〇を選び、以下に掲げます。

1 我々は国民に強制はしていない(ゲッべルス宣伝相) 8月10日

2 関東大震災と自警団の「不逞人」対応 11月10日

3 信夫郡松川村石合の女泣石(1923) 10月22日

4 ぼくは、においが よく わかります(ポチ) 12月7日

5 英語雑誌『青年』、「ドレフユー事件」を紹介(1899) 12月15日

6 井上馨を押し倒し、顔に墨を塗った婦人 12月5日

7 源頼義、集めてきた戦死者の片耳を埋める 12月20日

8 安藤英治による大塚久雄批判 10月2日

9 木戸幸一内大臣の共産主義容認発言(1945年3月) 9月27日

10 カバヤ児童文庫のもらい方 11月23日

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(2015・12・31現在)

1位 15年10月30日  ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
2位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
3位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相ゲッベルスとディートリヒ新聞長官
4位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判 
5位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
6位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
7位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
8位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
9位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
10位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした

11位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
12位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     
13位 15年11月1日 日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)
14位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード     
15位 15年8月9日 映画『ヒトラー』(2004)を観て印象に残ったこと
16位 15年12月5日 井上馨を押し倒し、顔に墨を塗った婦人
17位 13年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か   
18位 15年2月20日 原田実氏の『江戸しぐさの正体』を読んで
19位 13年2月27日 覚醒して苦しむ理性       
20位 15年11月2日 好ましからぬ執筆者、好ましからぬ出版社

21位 15年8月3日 ストゥカルト(Stuckart)、ナチスの「憲法原理」を語る
22位 15年8月13日 金子頼久氏評『維新正観』(蜷川新著、批評社)
23位 15年2月27日 エノケンは、義経・弁慶に追いつけたのか 
24位 15年7月2日 井上日召、検事正室に出頭す(1932・3・11)
25位 15年8月12日 明治憲法は立憲主義を謳っていた
26位 15年2月28日 備仲臣道氏評『曼荼羅国神不敬事件の真相』
27位 15年8月7日 記事の更新なし 
28位 15年3月4日  「仏教者の戦争責任」を問い続ける柏木隆法さん
29位 14年7月19日 古事記真福寺本の中巻は五十丁        
30位 15年8月2日 ケルロイター教授、政治指導と軍事指導の一致を説く

次 点 15年12月30日 『日本週報』創刊号と岩淵辰雄

*このブログの人気記事 2015・12・31(9位にやや珍しいものが入っています)

 

 

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『日本週報』創刊号と岩淵辰雄

2015-12-30 05:27:57 | コラムと名言

◎『日本週報』創刊号と岩淵辰雄

 今月はじめごろ、神田の古書展で、『日本週報』の創刊号を入手した。一九四五年(昭和二〇)一二月九日発行、発行所は日本週報社、定価は五〇銭(送料五銭)。表紙含め、三二ページ。ちなみに、古書価は二〇〇円だった。
 戦前・戦中に、内閣印刷局から『週報』という情報誌(週刊)が発行されていたが、『日本週報』は、その戦後版と言ってよいだろう。ただし、ケジメをつけるためか、題号も発行所も変え、「創刊号」と銘打って再出発した。この『日本週報』が、『週報』の後継誌であることは、ウラ表紙=奥付ページに、「御購読は最寄りの書店並びに政府刊行物販売所(元の官報週報普及部)へお申し込み下さい。」とあることで明らかである。
 家に帰ってから気づいたが、この雑誌は、紙が重ねられているだけで、綴じられていない。その代わり、表紙右ハシに、綴じ穴を示す○印が二か所ついている。
 この創刊号では、岩淵辰雄が活躍している。巻頭言を書き、「敗るゝ日まで」という文章を寄せ、さらに「秘史を語る」と題した座談会にも出席している。岩淵辰雄はジャーナリストで、大戦末期に、憲兵隊のいう「ヨハンセングループ」の一員として、和平工作に関与したことで知られる。
 本日は、同号から、岩淵辰雄の巻頭言「悲劇の主人公」を紹介してみよう。

週間自由討議
  悲 劇 の 主 人 公
 シエキスピアのハムレットを見ても、悲劇の主人公といふものは、人間としては、寧ろ、善良な素質をもつてゐる。智識的でもあれば聡明でもある。が大切な事に意志といふものを有つてゐない。政治的にいふと見識と決断をもつてゐない。
 一九一七年の革命に際して、露帝ニコラス二世は、自分は何も悪るいことをしたことがないといつたといふことであるが、個人としてのニコラス二世は性質、善良であつたらしいし、君主としても、歴代の他のツァーの如く、決して悪虐な行為を恣〈ホシイママ〉にしなかつた。しかし、こゝにわれわれ平民の間に於ける道徳と、君主のそれとの間に差がある。われわれ平民の間では、悪るいことをしないといふことが即ち一つの道徳であるが、君主の場合に於いては、個人としては悪るいことをしなくても、その政治が処〈トコロ〉を得てゐなければ、それは最大の罪悪を犯したことになるのである。ニコラス二世も何も悪るいことをしなかつたかも知れない。然し、ツァーの政治は革命の原因と素地を作つてゐたのである。
 政治は、決して君主独り〈ヒトリ〉によつて成されるものではない。それはどんな英邁〈エイマイ〉な君主であつても独りでは出来ない。臣僚の補佐と助力を必要とする。その場合、臣僚が賢能の士であるか、庸劣、或は奸侫〈カンネイ〉の徒であるかによつて、その君主は名君ともなり、暴君ともなり、闇君ともなる。個人として、その君主がどんなに智識的で聡明であつても、彼の臣僚が賢能の士でなければ、矢張り、その君主は凡庸の主であり、闇君であるといふ結論になる。臣僚の賢愚、能不能を識別する才能も、また、君主の徳のなかに含まれる要素の一つであらう。
 アメリカの新聞記者は、日本が大権によつて戦争を終結に導いたのなら、何故、その同じ大権によつて、戦争を避けることが出来なかつたかといつてゐるが、それは彼等が世界の歴史に於ける君主の悲劇を知らないからである。日本の現在はその悲劇の一つである。(岩 淵 辰 雄)

*このブログの人気記事 2015・12・30(9・10位に珍しいものが入っています)

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真実は犠牲を要求する(Truth demands the sacrifice.)

2015-12-29 06:01:57 | コラムと名言

◎真実は犠牲を要求する(Truth demands the sacrifice.)

 今月一五、一六日に、英語研究雑誌『青年』の第二巻第一一号(一八九九年一二月)に載っていた、「ドレフュス事件」という英文(THE DREYFUS CASE)を紹介した。その時は、前半部分しか紹介しなかったが、やはり、後半も紹介しておいたほうがよいと思ったので、本日は、その後半部分を紹介する。
 この英文は、「Ⅰ.」から「Ⅳ.」までの四節からなる。「Ⅰ.」と「Ⅱ.」は、すでに紹介済み。本日は、「Ⅲ.」および「Ⅳ.」について、それぞれ、原文、その拙訳(文字通り)、「註」の一部の順に、紹介してみる。英語の原文に、若干、史実とことなる部分があるようだが、注記や訂正はしていない。

 近 体 英 文 抄 (2)
 THE DREYFUS CASE.
(The Youth's Companion.)
  Ⅲ.
 It was in May of 1896 that the same spy who had found the bordereau brought to Colonel Picquart fragments of a telegraph-card―the petit bleu―which had also been filched from the German embassy's wast-basket. The card was addressed to Major Esterhazy, and its message was so provacative of suspicion that Co]onel Picquart decided to look up that officer's record.
 The result convinced him that Esterhazy was responsible for the bordereau and that Dreyfus, therefore, was innocent.
 Picquart's idea was, that the military authorities themselves should revise the trial and clear Dreyfus ; but he was promptly remided of the "impossibility" of "throwing discredit" upon General Mercier and the general staff of 1894, Genera]s de Boisdeffre and Gonse and their subordinates. When he persisted, he was sent on n dangerous mission in Tunis. He escaped with his wife ; but during his absence letters were forged to involve him in tresonable conspiracies, and on valious charges, af'ter he returned, he was imprisoned for nearly a year and finally retired from the army.
 Previous to Picquart's dismissal, Esterhazy had been court-martialed for the authorship of the bordereau. He was acquitted ; but two days after the farcical trial―it is fair to call it so, because Esterhazy has since confessed that he wrote the document―the novelist Zola reopened the whole case by publishing his historic letter, " J'eccuse." Scheurer-Kestner, the Vice-President of the Senate, had already expressed a conviction of Dreyfus's innocence. Zola was driven into exile, and two ministers fell, before the possibility of correction entered the offiicial mind; but, finally, in September last, the government submitted the case to the Court of Cassation, and that court decided that the Dreyftis trial was open to revision.

 ドレフュー事件
(The Youth's Companion誌より)
 その三
 一八九六年五月のことであった。あの「明細書」(ボルデロー)を見つけ出したのと同じスパイが、ピカール大佐(Colonel Picquart)のもとに、「封緘電報」(プティ・ブルー)の断片をもたらした。この電報は、やはり、ドイツ大使館のくずかご(wast-basket)から盗み出されたものであった。この書状は、エステラジー少佐(Major Esterhazy)に宛てられたもので、その文面にきわめて疑わしいものがあったので、ピカール大佐は、その将校の記録を調べてみることにした。
 その結果、ピカール大佐は、「明細書」(ボルデロー)に関与しえたのはエステラジーであること、したがってドレフューは無実である(Dreyfus, therefore, was innocent)ことを確信した。
 ピカールは、陸軍当局者が、みずから再審を実行し、ドレフューの罪を晴らすべきであると考えた。しかし、彼はすぐに気づいた。マルシエ将軍(General Mercier)や一八九四年の参謀本部、あるいはボアデッフル、ゴンス両将軍(Genera]s de Boisdeffre and Gonse)やその属僚(their subordinates)に疑惑を投げかけることは、「不可能」であることに。これを主張したピカールは、危険な任務を帯びて、チュニス〔チュニジアの都市〕における危険な任務に派遣された。ピカールは、妻とともに去った。しかし、彼の不在中、彼を叛逆の共同謀議(tresonable conspiracies)に巻き込み、種々の罪を着せるために、書類が偽造された(letters were forged)本国に戻るや、彼は一年近く投獄され、最後には軍隊を退役させられた。
 ピカールの退役に先だって、「明細書」(ボルデロー)の書き手とされたエステラジーが軍法会議に付せらた。彼は無罪とされた。しかし、この茶番めいた審判(この表現は適正である。なぜなら、エステラジーは、のちに、この文書を書いたのは自分だと自白したから)の二日後〔一九九八年一月一三日〕、小説家のゾラが、「私は弾劾する」(J'eccuse)という歴史的文書を公表することによって、事件の全貌を再び明らかにした。シュレール・ケストネル上院副議長(Scheurer-Kestner, the Vice-President of the Senate)は、すでに、ドレフューは無実であるという信念を表明していた。ゾラが亡命(exile)に追い込まれた。政府が再審の可能性を認める前に、ふたりの大臣が更迭された。しかし、最終的に政府は、〔一九九八年〕九月末、事件を破棄院(the Court of Cassation)に送ることとし、破棄院は、〔一九九九年六月四日〕、ドレフュー事件の再審を命ずる決定をおこなった。

〔「Ⅲ.」のあとの註の一部〕was so provacative of suspicion極めて疑しきものなりし/revise the trial and clear Dreyfus 再審して其無罪を明にする/but he was promptly remided of the "impossibility" of "throwing discredit" upon General Mercier and the general staff of 1894然れども将軍マーシアー并に千八百九十四年の参謀本部の上に不名誉を帰するが如きことは(一国の体面に関することなれば)到底成し得べからざることなりと注意せられた/letters were forged to involve him in tresonable conspiracies書状を偽造して彼を反逆の徒の共謀者となせり/farcical trial茶番狂言めきたる審判/driven=forced/fell仆れたり(更迭せり)/before the possibility of correction entered the offiicial mind 裁判を是正することを得べしと政府の納得する迄に/decided that the Dreyftis trial was open to revisionドレフユー事件を再審すべきものなることを議決せり

  Ⅳ.
 Tho story of Dreyfus's second court martial, at Rennes, beginning August 7th, is fresh in every reader's memory. Maitre―Master―Labori, who had been the counsel for Zola, was most conspicuous on behalf of the prisoner; but Maitre Demange, Dleyfus's counsel at his first trial, made the final plea. These attorneys seem to have been powerless against the secret dossier―the bundle of war department papers concerning the case―and other influences. By a vote of five to two, the court martial found Dreyfus guilty of treason and, thanks to "extenuating circumstances," condemned him to ten years' imprisonment.
 To save the reputation of the general staff, ―who, it is charged, knew that Esterhazy was a traitor, but shielded him because he could convict them of wrong-doing, ―Dreyfus was originally made a scapegoat.
 Not all the sins of his fellows were expiated by this means. The generals,with Mercier at their head, are shamed and ciscredited man; Du Paty de Clan has been "compulsorily retired;" Esterhazy is an exile; Colonel Henry, who was induced to forge papers to be used against Dreyfus, "for the good of the army," committed suicide.
 Granting that Dreyfus himself is not wholly a fascinating character, the honors of the case scem thus far to rest with those who have assited him―the public men, the lawyers and journalists who have carried on and sustained his cause; Zola, who f'orsook his art to champion it at a desperate momemt; Picquart, who hazarded his caleer when he felt that truth demanded the sacrifice; and Madame Dreyfus, the brave and devoted woman who has never consented to believe that a good busband and a kind father could be a dishonest citizen.

 その四
 レンヌで一九九九年八月七日から始まった、ドレフューに対する二回目の軍法会議のことは、すべての読者の記憶に新しいことだろう。ラボリ弁護士は、ゾラ裁判の弁護人も務めており、この罪人(the prisoner)の味方としては、最も傑出していた先生だった。しかし、最終弁論(final plea)おこなったのは、最初の審判でもドレフューの弁護人を務めたドマンジュ弁護士(Maitre Demange)であった。これらの弁護士(attorneys)は、かの秘密の書類(この事件に関する陸軍省の書類の束)、あるいはその他の影響力を前にしては、力が及ばないという印象があった。評決の結果、軍法会議は、五対二で、ドレフューの叛逆を認め、有罪とした〔九月九日〕。ただし、「情状を酌量し」、一〇箇年の禁錮とされた。
 幕僚の体面(the reputation of the general staff)を保つために、あろうことか、彼らは、エステラジーが叛逆者であることを知っていながら、これを擁護した。これは、エステラジーこそが、彼らの犯罪(wrong-doing)を証明できたからであった。ドレフューは、もとよりイケニエ(a scapegoat)であった。
 ドレフューの同僚たち(his fellows)の罪は、すべて償われたわけではないが、次のような方法(means)で償われた。メルシエが陸軍大臣だったときの将官たちは、不名誉を与えられ、信用を失った。デュ・パチイ・ドゥ・クラン(Du Paty de Clan)は、強制的に退役させられた。エステラジーは、亡命者(an exile)となっている。「軍隊のためを思って」、ドレフューが不利になるような書類を偽造したアンリ大佐(Colonel Henry)は、自殺の道を選んだ。
 たしかにドレフューは、激賞に値するような性格の人ではない。この事件の名声は、これまでドレフューを支えてきた人々にかかっている。―政治家たち(the public men)、法律家たち(the lawyers)、報道関係者たち(journalists)である。彼らは、ドレフューのために、運動を前進させ、保持した。ゾラは、危急存亡のときに、みずからの芸術を捨てて、事件のために闘った。ピカートは、真実が犠牲を要求したと感じたとき(when he felt that truth demanded the sacrifice)、みずからの出世(his career)を危険にさらした。そして、勇敢にして献身的な女性であるドレフュー夫人(Madame Dreyfus)である。彼女は、よき夫であり、やさしい父であるドレフューが、不誠実な市民であると思うようなことは、断じて認めなかった。

〔「Ⅳ.」のあとの註の一部〕thanks to "extenuating circumstances"所謂情状を斟酌する為め/convict them of wrong-doing失行を以て罪する(themはgeneral staffを指す)/scapegoat犠牲(原義は人民の罪悪を負はされて野外に放逐さるゝ羊)(古代猶太教の風習)/who has never consented to believe that a good busband and a kind father could be a dishonest citizen夫として情あり父として愛あるものゝ一市民として不正なる行為あるべしと信ずることを肯ぜざる

 この英文THE DREYFUS CASEは、一九九九年の九月九日、ドレフュースがレンヌの軍法会議で、再度、有罪になったところまで報告している。同月一九日、大統領によって特赦令が出されているが、そのことには触れていないので、筆者がこの文章を書いたのは、一九九九年の九月九日の判決を知ったあと、しかし、一八日の特赦令をまだ知っていない時期ということになるだろう。

*このブログの人気記事 2015・12・29

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小さな卵を孵化さして殺した陰険なる仕方よ

2015-12-28 03:25:25 | コラムと名言

◎小さな卵を孵化さして殺した陰険なる仕方よ

 昨日の続きである。野田宇太郎の論文「蘆花と幸徳事件」(一九五七)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、【以下、次回】としたあとの六段落分を略し、そのあとに、次のように続く。

 ふたたび愛子夫人の日記によって、同年〔一九一一〕一月二十二日の項をみると「一高生二名、演説をこひに来る。丁度悶々の命乞ひの為めにもと、謀叛論と題して約したまふ。」とある。この時は二月一日に予定された一高の講演会で、頼みに来た学生は、河上丈太郎、鈴木憲三の両氏だったが、それは十二名だけに減刑が発された二日後で、あとの十二名は果して助かるかどうかも判らぬ、蘆花としてはまことに「悶々の日」であった。もし蘆花のあとの十二名に関する助命の希ひが少しでもはたされたならば、その「謀叛論」と題する講演も大分内容も違ったものになってゐたらうが、はじめから元老山県有朋を中心に筋書きまで作られてゐたといふ十二名だけの減刑であった。それを政府の善意だと受けとり、むしろその処置に同情するほどのやさしい蘆花であった。政府は国民の与論がうるさくならぬ前にと、急いで死刑を執行したのだから、蘆花の怒りは涙のうちに燃え上った。死刑後の一月二十六日の夫人愛子の日記には「よあけ方鳴咽〈オエツ〉の声にめさむ。吾夫夢におそわれ給ふるや、と声をかけまつれば、考へて居たら可愛さうで可愛さうで仕方がなくなった! ただため息をつくのみ。彼等一二名の入獄中の様子も、死刑最後の様子も秘して共に告げしめず、ただ〔堺〕枯川氏の受取りし手紙と差入所の弁当が然々だの、二三日には面会は都合ありてゆるさぬだの、昼のは差返せりだの、といふやうに死刑もそっと行はれ、吾夫の所謂政府の謀殺暗殺!! とは事実なり。大石氏(〔野田〕註・誠之助)の「『うそから出たまこと』実に其真をいひあらはすといふべし。小さな卵を孵化〈フカ〉さして殺したといったやうな、おお陰険なる政府の仕方よ。彼等も日本国民、其国民を愛する兄弟の一人ならずや。」などとあって、政府に対してしだいに盛り上る蘆花のにくしみの心が夫人の筆をとほして読みとれる。
「謀叛論」の講演内容については、全集にも甚だ不完全ながら草稿が収められてゐるからここではふれないが、蘆花は堂々と幸徳事件に対する政府の行為を論難しつくし、青年学徒に多大の感銘を与へて、成功裡にこの講演を終った。もしその時官憲が会場に一人でもひそんでゐたら、もちろん蘆花は検挙されたらうし、文学者としてのその後の在り方にも違ったものがあったと思はれる。
 また少しペンをもとに戻す。十二名の死刑がもし二十四日に行はれなかったとすれば、あの〔池辺〕三山に依頼した「天皇陛下に願ひ奉る」の原稿ははたして朝日に掲載されてゐただらうか、といふ疑問である。〔資料四〕の三山の書簡を読むと、自分が保管してゐるとは書いてあるが、もし二十四日の執行がなかったら発表するつもりだったとは書かれてゐない。三山は蘆花の純情には共鳴しても恐らくそんなことをしても実際には無駄だと知ってゐた筈である。
 しかし、それが朝日に万一掲載されてゐたら、死刑阻止には無駄だったとしても、一般への与論の喚起には大いに役立ったであらう。そして当時朝日新聞社員となってこの幸徳事件にすくなからぬ関心を示してゐた若い石川啄木は、蘆花の文章に表現された思想に対してどのやうな態度をとったであらうか。蘆花にくらべると啄木の思想は多分に社会主義的であったから、その反応は興味ある問題である。啄木のやうに幸徳事件に対して心を動かした人々は当時多かった。与謝野寛〈ヨサノ・ヒロシ〉の「誠之助の死」や佐藤春夫の「愚者の死」などの詩も、事件に対する行動的な文学の一例である。しかし、幸徳事件に抽象的な文学作品の上だけでなしに、実際に行動し得たのは、やはり蘆花一人であった。もし「謀叛論」をきっかけに蘆花が官憲と正面衝突をしていたら、ドレフュース事件に於けるゾラ以上の、無残な人道のためのたたかひとなったに違ひない。【以下略】

 野田宇太郎の論文は、このあと、資料を入手した経緯に触れ、さらに、〔資料一〕~〔資料四〕の紹介に移るが、これらの紹介は機会を改めたい。〔資料二〕(天皇陛下に願ひ奉る)は、一昨日のブログで紹介したが、句読点も読みも示さなかったので、以下に、句読点・送り仮名・読みを補うなど、読みやすくしたものを掲げる。これについては、岩波文庫『謀叛論 他六編・日記』(一九七六)に収録されている「天皇陛下に願ひ奉る」を参考にした。

天皇陛下に願ひ奉る 
     徳冨健次郎
畏れながら申上げ奉り候
今度〈コノタビ〉、幸徳伝次郎等〈ラ〉二十四名の者共〈モノドモ〉、不届千万〈フトドキセンバン〉なる事仕出し〈シダシ〉、御思召〈オンオボシメシ〉の程も恐入り奉り候。然るを、天恩如海、十二名の者共に死減〈シゲン〉一等の恩命を垂れさせられ、誠に勿体なき儀に存じ奉り候。御恩に狃れ〈ナレ〉甘へ申す様に候得共〈ソウラエドモ〉、此上の御願ひには、何卒〈ナニトゾ〉元凶と目せらるゝ幸徳等十二名の者共をも、御垂憐あらせられ、他の十二名同様に、御恩典の御沙汰為し下されたく、伏して希〈コイネガ〉ひ上げ奉り候。彼等も亦、陛下の赤子〈セキシ〉、元来火を放ち人を殺すたゞの賊徒には之なく、平素世の為、人の為にと心がけ居り候者共にて、此度〈コノタビ〉の不心得〈フココロエ〉も、一〈イツ〉は有司共が忠義立〈チュウギダテ〉のあまり、彼等を窘め〈イジメ〉過ぎ候より、彼等もヤケに相成〈アイナリ〉候意味も之あり。大御親〈オオミオヤ〉の御仁慈の程も知らせず、親殺しの企〈クワダテ〉したる鬼子〈オニゴ〉として打殺し候は、如何にも残念に存じ奉り候。何卒、彼等に今一度、静〈シズカ〉に反省改悟の機会を御与へ遊ばされたく、切に祈り奉り候。かく願ひ奉り候者は、私一人に限り申さず候。あまりの恐れ多きに申上げ兼ねおり候者に御座候。成る事ならば、御前〈ミマエ〉近く参上し、心腹の事共〈コトドモ〉、言上致したく候得共、野渡〈ヤト〉人なく、宮禁〈キュウキン〉咫尺千里〈シセキセンリ〉の如く、徒〈イタズラ〉に足ずり致し候のみ。時機已に〈スデニ〉迫り候間〈アイダ〉、不躾〈ブシツケ〉ながら、かくは遠方より申上げ候。願はくは大空の広き御心〈ミココロ〉もて、天つ日〈アマツヒ〉の照らして隈〈クマ〉なき如く、幸徳等十二名をも御宥免〈ゴユウメン〉あらんことを謹んで願ひ奉り候。叩頭百拝。

*このブログの人気記事 2015・12・28(5・7・10位に珍しいものが入っています)

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オオイ、もう殺しちまったよ(徳冨蘆花)

2015-12-27 03:03:22 | コラムと名言

◎オオイ、もう殺しちまったよ(徳冨蘆花)

 昨日の続きである。野田宇太郎の論文「蘆花と幸徳事件」(一九五七)を紹介している。本日は、その二回目。昨日、【以下、次回】としたあと、改行して、次のように続く。

 これらの日記からも蘆花がはたして幸徳秋水一派の事件に対してどんな考へを持ってゐたかが察せられるが、尚二十四名の死刑が決定したあとの数日をその日記〔愛子夫人の日記〕によってみると、一月二十日「けふは終日かの二四人の事件につきかたりくらす。食卓の下にうづくまりおかめかきもちをやけば、吾夫も坐して卓の下にてとり給ふ。心は牢にのみゆきて。」翌二十一日「聖恩如海、一二名減刑の詔勅下る。吾夫はまだ政府を悧巧として多分残りも今数日を経て下るべし。一度に悉くゆるすは寛〈カン〉に過ぐるやう見ゆればと。されど、幸徳及菅野〔菅野スガ〈カンノ・スガ〉〕のふたりは、若しくは大石〔誠之助〕の三名だけはどふもたすかりさうにもなし。ともかく兄君へ手紙認め〈シタタメ〉、残り一二一名の為尽力したまはん事を乞ひ給ふ。高井戸の東京便にたのむ。」……とある。
 蘆花が十二名の減刑を我事のやうに無邪気によろこび、あと十二名も全部ではないがいくらかは助かるかも知れぬと楽観するやうな溶けた気持になってゐる有様も判るが、ここで注意したいのは、蘆花が桂〔太郎〕首相の側近にあった兄〔徳冨〕蘇峰〈ソホウ〉に、のこる十二名の助命のことを依頼してゐたことである。しかし蘇峰ははたして桂に伝達したのかどうか、蘆花は桂の返事に接してゐない。蘆花がいよいよ最後の手段として天皇直接に死刑中止を申し上げようと決心したのは、兄蘇峰さへも頼むに足らずと見てとると共に、事は急を要することを切実に感じはじめたときであった。
 次に〔資料一〕を裏書きする愛子夫人の一月二十五日の日記をみると「吾夫の御眠り安からず。早朝床臥に居たまふ。折からいろいろ考へ給ひ、どふしても天皇陛下に言上〈ゴンジョウ〉し奉る外はあらじ。わがいひ出でし侍従武官中村寛氏の嫁御〈ヨメゴ〉に当るわが愛する玉枝さんを説き、此言上をとりつがしめんか、と幾度か思ひしも、彼女の不幸の本となりもせば、とそれもいじらし〔かわいそうだ〕。ともかくも草し見ん、とまだうすぐらきに、書院の障子あけはなち、旭日のあたたかき光をのぞみて、氷の筆をいそいそ走らし給ふ。走らしつつも其すべを考へ給ふ。桂さんよりは書生の言を退けて一言の返事もなし。ともかく『朝日』の池辺〔三山〕氏、これも志士の後閑氏にたのみて、新聞に、陛下に言上し奉るの一文をのせてもらはん、と漸くかき終えて、一一時比〈ゴロ〉池辺氏への手紙と共に冬〔女中の名〕を高井戸に使し〔ツカワシ〕、書留にて郵送せしむ。まづはなし得るだけはしたれども、どれ一つかなへさうもなし。やきもき思へどせんすべもなし。午後三時比新聞来。オヽイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ。と叫び給ふに、驚き怪しみ書斎にかけ入れば、已に既に昨二四日の午前八時より死刑執行!!! 何たるいそぎやうぞ。きのふの新聞に本月末か来月上旬とありしにあらずや。桂さんもおそくも二三日の晩までには手紙を見て居らるゝ筈。何故、よく熟考してみられない。『朝日』報ずる臨終の模様など、吾夫折々声をのみつつ読み給へば、きくわが胸もさけんばかり。無念の涙とどめあえず。吾夫もう泣くな泣くなととゞめ給へど、其御自身も泣き給へり。一度訪ねてよろこばせてやりたかりし。午前八時より午後三時迄、何と無惨の政府かな。体うちふるへて静かに死につく犠牲の心持ち、身にしみじみとこたへて、いかにもかなしくやるせなし。大逆徒とあざけられし彼等ゆゑ、引取人ありやなしや。とにかく出かけ見ん。もしなくばここに引取らん。松陰と遠からぬ此地に彼等を葬るも能からん〈ヨカラン〉と、身したくしたまんとしたまひしが、紙上に加藤十郎氏(〔野田〕註・時次郎か)、〔堺〕枯川氏の引取の記事ありたれば、ひかえてやめたまう。」……とありて、この二十五日の日記で〔資料一〕〔資料二〕及び〔資料三〕の蘆花の動向も大体が判る。
〔資料二〕の原稿は現在その草稿二通が蘆花公園に保管されてゐるが、やはりこの最後の清書と草稿では部分的に書きかへた点がみとめられる。もちろん〔資料二〕が唯一の正しい原稿である。【以下、次回】

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