礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

七尾線、北陸鉄道能登線、バスを乗り継いで富来まで

2019-01-31 01:18:25 | コラムと名言

◎七尾線、北陸鉄道能登線、バスを乗り継いで富来まで 

 昨日の続きである。映画『ゼロの焦点』(松竹大船、一九六一)では、金沢市に滞在中の鵜原禎子が、能登半島の西海岸まで出かけるという場面がある。警察から、身元不明の死体が発見されたことを知らされ、夫・憲一かどうかの確認に向かったのである。
 金沢駅から七尾線に乗って羽咋〈ハクイ〉駅まで、そこから北陸鉄道能登線に乗り換えて、終点の三明〈サンミョウ〉駅まで。三明駅を降りると、駅前に、バスが停車している。小走りして、バスに乗り込む鵜原禎子。バス(「北陸鉄道能登自動車線」と呼ぶのだろうか)には、女性の車掌がいて、禎子が乗車すると同時に、「発車オーライ」と叫ぶ。鉄道・バスのファンにとっては、なかなか貴重な映像と言えるだろう。
 このバスで、富来〈トギ〉まで。行きの死体が安置されているのは、羽咋警察署「富来交番」である。富来交番の、当時の正式名は不明。映画には、一瞬、「羽咋警察署富来警部補―」という看板が映るが、残念ながら、下のほうの文字は読めない。あるいは、「羽咋警察署富来警部補派出所」か。
 結果を言えば、死体は、鵜原憲一とは別人のものであった。それにしても、身元不明の死体発見の報を知らされてから、それが別人のものであったことがわかるまでの展開は、巧みというほかはない。また、富来交番で、禎子を案内する巡査が、実にいい味を出している。どこかで見たことがある俳優だが、名前が思い出せない。
 ところで、禎子が「富来交番」までやってくる場面だが、松本清張の原作では、若干、異なっていたいたように思う。新潮文庫版『ゼロの焦点』(一九七一初版、一九八七改版)を取り出し、その点を確認してみる。【この話、さらに続く】

*このブログの人気記事 2019・1・31(なぜか反ユダヤが1位、9位も珍しい)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鵜原禎子が見送る列車は金沢行きの急行「北陸」

2019-01-30 00:36:45 | コラムと名言

◎鵜原禎子が見送る列車は金沢行きの急行「北陸」

 二〇一五年七月九日のブログで、「映画『ゼロの焦点』(1961)を見る」というコラムを書いた。その冒頭部分のみを、以下に、引用してみる。

◎映画『ゼロの焦点』(1961)を見る
 昨日、ビデオで、野村芳太郎監督の映画『ゼロの焦点』(松竹大船、一九六一)を鑑賞した。この映画は、一九七〇年前後に、どこかの名画座でおこなわれたリバイバル上映で見た記憶がある。また、それ以前に、原作(松本清張の小説)のほうも読んでいたと思う。しかし、ストーリーなどは、ほとんど忘れてしまっており、まったく新たな気分で観賞することができた。
 映画は、結婚後一週間しか経っていない妻・鵜原禎子(久賀美子)のナレーションで始まる。すなわち、この映画は、鵜原禎子の視点で描かれている。
 夫の鵜原憲一(南原宏治)は、広告会社の優秀な社員で、金沢出張所長から東京の営業部に異動したばかり。金沢で引き継ぎがあるというので、新しい金沢出張所長である本多良雄(穂積隆信)とともに、上駅駅から夜行列車に乗って金沢に向かう。それを見送る妻の禎子。
 映画の冒頭は、鵜原憲一、禎子、本多良雄の三人が、上野の駅前でタクシーから降りてくるシーンである。タクシーの車種はよくわからないが、ドアが観音開きだったので、たぶん、トヨペット・クラウンRSであろう。このトヨペット・クラウンRSのタクシーは、あとのシーンでも登場する。
 鵜原憲一が、駅の窓口で、金沢までの乗車券と急行券、各二枚、入場券一枚を買う。もちろん「手売り」である。合計で五九三〇円。たぶん、当時の入場券は一〇円だったと思う。改札口では、駅員が鋏を入れる。もちろん、自動改札などというものは、まだない。
 列車は、21時15分発。これは、ホームの表示板で確認できる。また、「直江津・富山経由、金沢行き」というアナウンスが聞こえてくる。【以下、略】

 その後、再度、『ゼロの焦点』を鑑賞してみた(ただし、最初の部分のみ)。その上で、若干の補足をおこなってみたい。
 鵜原憲一らが、切符を買った窓口を、たしか、「出札口」〈シュッサツグチ〉と言った。すでに今日、死語になろうとしている言葉である。
 金沢までの乗車券と急行券、各二枚、入場券一枚で、合計五九三〇円というのは、たぶん、この映画が撮影された時点(一九六〇~一九六一)での料金であろう。入場券が一〇円とすると、乗車券・急行券の合計額は、ひとり当たり、二九六〇円ということになる。
 鵜原憲一らが乗った列車は、二一時一五分発、金沢行きの急行「北陸」である。直江津、福井を経由する。等級は、一等および二等。当時の時刻表があれば、金沢駅着の時刻などが確認できるだろう。
 列車が出発したあと、鵜原禎子がひとり、ホームに立って見送る。ここで、「ゼロの焦点」のタイトル、以下、クレジットとなる。出だしから、なかなか、よく出来ている映画だ思う。
 小説の舞台とされている時代は、一九五七年(昭和三二)、またはその翌年であると言われている。ただし、映画は、時代をそこまで遡らせようとはしてはいない。もし、遡らせようとしているのであれば、映画のなかに、一九五九年(昭和三四)発売の「グロリア」(プリンス自動車)が登場するはずはないからである。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2019・1・30(2・3位に珍しいものが入っています)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田鉄道多古線を走った代用燃料車のゆくえ

2019-01-29 00:01:24 | コラムと名言

◎成田鉄道多古線を走った代用燃料車のゆくえ

 これも、だいぶ昔の話だが、装丁家の臼井新太郎さんに頼まれ、『図書設計』という雑誌の第八二号(二〇一二年八月)に、「戦中の自動車雑誌『汎自動車』から」という文章を寄せたことがある。
 古い時刻表に「多古線」が載っているのを見て、この文章のことを思い出した。いま、『図書設計』誌が、すぐには出てこないが、入稿時のファイルは、すぐに見つかった。
 次のような文章である。

 戦中の自動車雑誌『汎自動車』から    礫川全次(在野史家)

『汎自動車』(自動車資料社)という雑誌がある。戦中の1940年に、『自動車界』、『自動車と機械』、『自動車文化』、『自動車雑誌』、『乗合と貨物』の五誌が統合されてできた雑誌で、1944年に終刊している。月2回、5日と20日に発行され、5日に発行される『汎自動車・技術資料』と、20日に発行される『汎自動車・経営資料』とがあった。
 図版で紹介したのは、1944年2月5日発行の『汎自動車・技術資料』の表紙である。そこに見える自動車は、トヨタ大型B乗用自動車。戦争末期に試作された高級乗用車で、直列6気筒、排気量3389ccのエンジンを登載し、定員は7名。内装には、帝国美術院会員の和田三造画伯も関わったとされる。
 同誌同号の巻頭に「自動車の整備問題を繞つて」という文章がある。執筆は自動車資料社の山口安之助。その一部を引用してみよう。

 今日、整備員は、不良部品の配給に驚くと共に、それさえ入手困難と云ふ二重の悲鳴を挙げてゐる現状である。だが幸ひ、部品配給の円滑化と重点処置に就ては運輸省が目下折角立案中であると云ふから、専横なる配給、無責任なる不良部品の製造業者等はこの際徹底的に粛清されるものと思はれるが、不良部品製造業者などは時局下理屈なしに完全に抹殺すべきであると大声したい。

 火を吐くような告発である。当時の自動車業界の危機的状況、いや、戦時体制そのものの危機的状況を髣髴とさせる文章である。こうした中で、なぜか政府中枢は、トヨタ、ニッサン、ヂーゼル自工(いすず)の各社に対し、「高級自動車」の試作を命じていたのである。ちなみに、ヂーゼル自工は、トヨタよりも一足早く試作に成功している。その通称は、「大型いすゞ乗用車」。1943年12月5日発行の『汎自動車・技術資料』の表紙には、同試作車の写真がある。
 さて、『汎自動車』は、1944年の4月をもって終刊する。戦局の悪化が、こうした雑誌の存続を許さなくなっていたのであろう。
 同年4月5日発行の『汎自動車・技術資料』終刊号には、「自動車整備工の挺進策」と題する座談会記録の後半部分が掲載されている。
 この座談会は、同年2月に開かれたものだというが、各出席者がずいぶんと思い切った発言をしている。東急電鉄自動車部の築山清は、「部品はコイルが悪くて困るね。何しろ5個買つて満足に使へるのが1個か2個ですからね」と言う。その2個にしても、一次線の巻き方が悪く、すぐ熱を持ってショートしてしまったらしい。
 東京都交通局自動車両課の大内巳之助もこう言う。

 大体物が少いといふのは前の方から話され尽きたと思ひますが、根本になると商人の根性から直さなければならないと思ふのです。コンデンサー10個に一つしか使へない。而も商人のその時の態度が恐れ入つてしまふ。これぢやア具合が悪いからと云ふと、それぢやア他所様からといつて売つてくれない。

 いずれも、2月5日号の巻頭言における山口安之助の「告発」を裏づける発言である。というより、山口は、こういった座談会を企画することで、当時の深刻な事態を、広く世間に訴えたかったのではあるまいか。
 いずれにしても、決戦下の産業界の内部でこの種の「荒廃」が生じていたことは、あまり知られていない。その意味で、この座談会記録は資料的価値が高いと考える。
 30年以上前に私は、『汎自動車・技術資料』十数冊を入手し、今でも愛蔵している。この雑誌には、上に紹介した記事以外にも、きわめて興味深い写真・記事・資料などが満載されている。以下に、そのごく一部を紹介しておこう。
 1942年5月5日発行の『汎自動車・技術資料』には、戦時下の朝鮮・清津市で使われていた「百人乗りバス」についての記事がある。おそらく、かなりのバス愛好家でも、このバスの存在は知らないのではないか。記事によれば、このバスは1940年に完成し、その翌年以降、計3輌が運行されたという。「トヨタ2600年」を改造し、もともと2軸4輪であったものを、4軸12輪(前方2軸4輪、後方2軸8輪)としている。朝鮮金属工業株式会社による製作だという。車幅は2.2メートル、全長は11メートル。
 骨組みの写真を見ると、エンジンは前置きで、そのエンジンの上に運転台を設けて、キャブオーバー型としていることなどがわかる。
 また、1943年6月5日発行の『汎自動車・技術資料』には、成田鉄道、成田・八日市場間(多古線)で運行された日燃式M-100型、および日燃式C-100型が、写真によって紹介されている。前者は木炭、後者は石炭を燃料とする(Mはモクタンの略で、Cはcoalの略か)。ともに、ガソリンカーを改造してガス発生炉を取り付けた、いわゆる「代用燃料車」である。なお、多古線は、1944年1月に休止され、戦後の1946年に廃止された。M-100型、C-100型の活躍は、長くは続かなかったものと推測される。

 ――以上が、その文章である。
 雑誌記事では、「トヨタ大型B乗用自動車」、「朝鮮・清津市の百人乗りバス」、「成田鉄道多古線)の日燃式M-100型車両、および日燃式C-100型車両」などの写真も紹介したが、ここでは割愛させていただく。
 文章の最後のところで、一九四三年(昭和一八)六月前後に、成田鉄道の多古線(成田・八日市場間)で、「代用燃料車」が使用されことを紹介しておいた。ところが、成田鉄道多古線は、一九四四年(昭和一九)一月に休止され、かわりに、省営自動車(バス)の運行が始まったという(ウィキペディア「多古線」の項)。
 いま、東亜交通公社発行の『時刻表』昭和十九年十二月号(通巻二三五号)の一三九ページを見ると、「八日市場・成田間(多古線)」という欄がある。左上にバスのマークがあり、「19.10.11改正」という注記がある。それにしても、「日燃式M-100型」、「日燃式C-100型」といった車両は、どこへ行ってしまったのだろうか。

*このブログの人気記事 2019・1・29(なぜか穂積八束が浮上)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

検事正宛の伝言を交番の巡査に依頼「今土浦を発つ」

2019-01-28 00:06:54 | コラムと名言

◎検事正宛の伝言を交番の巡査に依頼「今土浦を発つ」

 だいぶ前のことになるが、二〇一四年二月四日に、「5・15事件の黒幕・大川周明を上野駅で逮捕できず」というコラムを書き、その翌日、「大川周明を土浦から自動車で護送(1932・6・16)」というコラムを書いた。本日は、これに若干の補足をおこないたい。
 この両日のコラムでは、五・一五事件の黒幕と目された大川周明が、上野駅発・青森行きの急行列車の車内で、警視庁刑事部捜査第二係の職員によって逮捕された経緯を紹介した。まず、二〇一四年二月四日のコラムを、そのまま、引用する。

◎5・15事件の黒幕・大川周明を上野駅で逮捕できず
 法務庁研修所発行の「研修叢書」第一号『捜査十談義』という本を入手した。文庫本の仕様で、本文六四ページ。奥付がないので、発行年は不明だが、「編者のことば」(署名・茂見義勝)の末尾には、「昭和二十二年暮」とある。おそらく、一九四八年の初めに発行されたものであろう。
 本日は、その中から、元警視庁刑事部捜査第二係長の清水万次の、「ボスの行動」という文章を紹介してみよう。

 六、ボスの行動   副検事 清水万次
【前略】それから一つ、捜査上大変苦心した話を申上げます。これは右翼関係のもので、只今精神病院に入つて居ります、Oの逮捕の顛末、であります。
 彼は錦旗革命から、血盟団事件への、黒幕でありまして、右翼思想運動の指導者であつたのであります。そして、五・一五事件に於きましても、矢張り指導的立場にあつたので、彼の検挙と言うことになつたのであります。当時の東京の検事正は、M氏でありました。Mさんは世間でも知つて居る通り、度胸の良い思い切つてやる性格の方であります。それは丁度日曜でありましたが、私の部屋の全員は、他の事件の調べで急がしく、役所に出て居たのであります。ところが、突然検事正から、今晩Oを逮捕せよ、実は本人は、検事局からの呼出に応じないで、却つて青森県の某所で、Z会の発会式があるので、それに出席すると言つて居る。然しこれは或は高飛びをするためかも知れない、この機会に彼を検挙しないといけない。今夜、上野駅から出発するのを逮捕せよ。令状をそちらにやつておくから、と言うのでありました。それが、すでに晩の七時頃の事であります。彼は十一時の急行列車で、立つ筈である、と云うのです。それで、私は早速部下五名をつれて、上野駅にとんで行きました。そこで待つうちに、駅のホームには、錚々たる腕利きの、暴力団か右翼団の者と見える男が、二十名以上も、見送りに集つて参りました。この状態を見て、私は、自分が今こゝで、彼を逮捕しようとすれば、必ずその連中との間に乱闘が起つて、自分は、殺されてしまうに相違なく、それでは彼を逮捕するという目的を達することは出来ない、と考えました。
 私達は、まだ其の時晩飯も食べては居らず、駅にかけつけると直ぐ入場券を買つて、取りあえずホームに入つたという丈で、そんな状態では、到底、其場で彼を逮捕するという事は、不可能であります。こちらの態勢が整つて居りません。そこで私は考えて、思い切つて入場券のまゝ、青森行の急行列車に、乗り込む事にしたのであります。私達はその汽車が動き出してから、仕事を始めよう、と言うことに決心したのでありました。そして、せいぜい日暮里では、其の仕事の片が付いて、下車出来るつもりでありましたところが、発車間際になつて其の急行列車は、土浦までは停らない、そして土浦に着くのは夜の十二時過だと言う事が、我々に判つたのであります。どうしようかと迷いました。然し逮捕する任務を捨てる事は出来ません。Oを追つて、行くところまで行くだけであります。Oが盛んな万歳に送られて、ホームから列車に乗り込みました。我々も別の入口から静かにその列車に乗つたのであります。【以下、次回】

 具体的なことは、あまり書いてないが、Oが大川周明であることはすぐわかる。当時、大川は、右翼団体・神武会(文中では、「Z会」)の会長。時期は、五・一五事件からひと月たった、一九三二年(昭和七)六月一五日のことと思われる。大川は、神武会の八戸・弘前支部の発会式に出席すべく、この日の深夜、上野駅から急行列車に乗り込もうとしていた。
 警視庁刑事部捜査第二係の清水万次らは、東京のM検事正の命を受けて、五・一五事件の黒幕・大川周明を逮捕すべく、上野駅に待機したが、同駅での逮捕は困難と見て、大川と同じ列車に乗り込んだ。

 次に、二〇一四年二月五日のコラムを、これまた、そのまま、引用する。

◎大川周明を土浦から自動車で護送(1932・6・16)
 昨日の続きである。法務庁研修所発行の「研修叢書」第一号『捜査十談義』に収録されている、元警視庁刑事部捜査第二係長の清水万次の、「ボスの行動」という文章の最後の部分である。

 列車が進行を始めますと、Oは、すぐ寝台車にやつて参り、腰を下して寝る準備を始めました。私は其の時を見はからつて、用意した令状を彼に示しました。相当な人物の様に、聞いて居りましたが、其の瞬間の彼は、顔面蒼白になつて、やゝふるえきみでありました。「何故〈ナゼ〉、汽車に乗る前に、言わないか」、と言つただけで、我々は次ぎの言葉を待つて居りましたが、彼は何も言いませんでした。そんなとことで、彼と論争しても仕方がありませんので、適当に御機嫌をとりまして、とに角令状があるので、土浦で下車する事、を承諾させたのであります。ところが、御承知の通り、土浦は海軍の飛行基地でありまして、当時は、血盟団の海軍方面の本部となつて居りました。若し此の土浦で、ぐづぐづして居たら、どんなことが起きるかわかりません。そこで我我は、列車が土浦に到着する前に、乗組の車掌に連絡しまして、自動車二台の用意を頼み、下車すると同時に、その自動車に乗つて、東京に引き返す手配を致したのであります。列車は予定通り、十二時過に土浦に着きました。早速用意してあつた自動車に乗込みまして、駅前の交番の巡査に頼んで、東京の検事正宛に、「今土浦を発つ〈タツ〉」と言うこと丈を、電話で連絡して貰うことに致し、その自動車で、直ぐ東京へと引き返したのでありました。東京に着いた時には、夜が明けて居りました。
 私が、以上の話を申上げましたのは、兎角〈トカク〉逮捕を急ぐ、と言う事が、第一線に居ります者の、一般傾向であります。ところが、急ぐと失敗する事があります。私は卑怯と言われるかも知れませんが、然し急いでやる必要はない、急がば廻れ式、にやつてみようと言う気で、此のOの逮捕をしたのであるます。尚、私が土浦の交番に頼んで、致しました前述の報告が、大変検事正の気に入つたと云う事でありました。「今土浦を発つ、」と言うことだけで、逮捕に成功したことが十分判つた、と無事に帰つてからほめられたのであります。
 清水万次は、列車が進行を始めてすぐ、「用意した令状を彼に示しました」と述べているが、この時点で逮捕という形になるのか。その場合には、一九三二年六月一五日のうちの逮捕ということになるだろう。逮捕状の執行の時刻と場所が記録されている文書を見てみたいものである。なお、しばしば出てくる「検事正」(M検事正)の氏名は、まだ確認していない。

 ――以上が、両日のコラムの内容である。ここで、引用した「ボスの行動」という文章には、事件の日付が記されていないが、急行列車が上野駅を出たのは、一九三二年(昭和七)六月一五日の深夜、最初の停車駅である土浦駅についたのが、日付が変わった六月一六日の午前零時すぎだったと思われる。
 この当時の時刻表を見たいところだが、すぐには参照できない。参考までに、一九四四年(昭和一九)の時刻表(東亜交通公社発行『時刻表』昭和十九年十二月号、通巻二三五号)を見ると、上野駅を出る常盤線経由の青森行き急行列車は、次の一本のみである。

・常盤線203急行列車(上野駅始発、青森行き) 上野駅17:30発、土浦駅18:40着、同駅18:41発、平駅21:17着、同駅21:22発、仙台駅0:15着、同駅0:21発、盛岡駅3:55着、同駅4:01発、青森駅8:00着。

 この急行列車は、時刻表には載っているものの、「当分運転休止」という注記がある。すなわち、一九四四年(昭和一九)の時点では、午後に上野駅を出る青森行きの急行列車は、すでに一本も運行されていなかったのである(東北本線経由の青森行き急行列車も、運行されていない)。
 もっとも、次の普通列車は運行されていた。

・常盤線201列車(上野駅始発、青森行き) 上野駅22:30発、土浦駅0:07着、同駅0:10発、平駅3:45着、同駅3:50発、仙台駅8:13着、同駅8:25発、盛岡駅13:38着、同駅13:46発、青森駅19:40着。

 このほかに、東北本線経由青森行きの普通列車が、一日に二本あるが、紹介は割愛する。
 さて、大川周明が、乗り込んだ急行列車だが、上野駅から次の停車駅である土浦駅までの所要時間を七〇分と見る(常盤線203急行列車を参考にした)。仮に、上野駅23:00発とすると、土浦駅には、翌日の0:10着ということになろう。
 元警視庁刑事部捜査第二係長の清水万次は、「列車は予定通り、十二時過に土浦に着きました。」と書いている。かなり、正確な記録であることは間違いない。
 なお、常盤線だが、上野駅のあとは、日暮里・三河島・南千住・北千住・亀有・金町・松戸というふうに駅が続く。松戸駅まで来ると、すでに千葉県である。
 清水万次らは、警視庁の職員として、逮捕状を執行するわけであるから、その執行は、東京府内でなくてはならない。急行列車であるからして、グズグズしていると、千葉県に入ってしまう(上野・松戸間は、一六・七キロ)。清水万次らが、列車が進行を始めると間もなく、大川周明に逮捕令状を示したのは、それが理由だったと思われる。

*このブログの人気記事 2019・1・28

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病床で『丸山眞男とその時代』を読む

2019-01-27 00:18:15 | コラムと名言

◎病床で『丸山眞男とその時代』を読む

 この間、病床で、いろいろな本を読んだ。どうしても、寝たままで、手が届くところにある本が中心となる。
 最初に読んだのは、福田歓一著『丸山眞男とその時代』(岩波ブックレット、二〇〇〇)だった。A5判、本文六二ページ。
 手に取って気づいたことだが、病床で読むには、このくらいのページ数の本が、ちょうどよい。また、A5判の本というのは、開いて両手で持ち上げた時、両手の間の幅が、だいたい肩幅と同じぐらいになって、まことに具合がよろしい。
 このブックレットは、文章も平易で、内容も興味深かった。丸山眞男を師と仰いできた人物が書いているから当然とも言えるが、丸山眞男に対する敬意があふれており、その点でも、気持ちよく読めた。
 三四ページに、「八月革命」という言葉を最初に使ったのは、丸山眞男だったと書かれていた。東大内の憲法研究委員会における発言で、これに感銘を受けた宮沢俊義が、丸山の承諾を得て、論文のタイトルに使用した、ということが、伝聞の形で記されていた。ただし、ブックレットなので、典拠などは示されていない。この典拠については、当ブログ、昨年一一月一四日のコラム「八月革命説と丸山眞男」で、紹介済みである。
 それにしても、丸山眞男という人は、よくよく、八月一五日に縁がある。一九四五年のこの日に、母親を亡くし、みずからも、一九九六年のこの日に亡くなっている。そのうえに、「八月革命」というネーミングの発案者だったとは。

*このブログの人気記事 2019・1・27(8・9位に珍しいものが入っています)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする