礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大津有一と所弘については「肩書」がない

2018-10-31 04:00:11 | コラムと名言

◎大津有一と所弘については「肩書」がない

 今月の六日に、〝「国民古典全書」全52巻のタイトル〟と題して、朝日新聞社による幻の企画「国民古典全書」全五十二巻のタイトルを紹介した。
 この全書の第十一巻は、『物語文学集』であった。六日のコラムでは、タイトルのみしか紹介できなかったが、『物語文学集』全体の編集担当、そこに収録される作品と各作品の担当者は次のように予定されていた。

第十一巻 物 語 文 学 集  東京文理科大学教授 山 岸 徳 平
 竹取物語(大阪高校教授 宮田和一郎)
 伊勢物語(大津有一)
 大和物語(日大講師 鈴木知太郎)
 落窪物語(所弘)
 堤中納言物語(高知高校教授 松村誠一)
 無名草子(一高教授 市古貞次)

 日本古典全書『堤中納言物語/落窪物語』(朝日新聞社、一九五一)は、堤中納言物語の校訂を松村誠一が担当し、落窪物語の校訂を所弘が担当している。これによって、同書が、「国民古典全書」の企画を引き継ぐものだったことがわかる。「日本古典全書」そのものが、そもそも、「国民古典全書」の企画を引き継ぐものだったのである。その意味においては、「国民古典全書」の企画は、必ずしも「幻」とは言えない。
 さて、『物語文学集』の校訂担当者を見ると、大津有一と所弘については、「肩書」がついていない。当時、あえて紹介すべき肩書がなかったということであろう。
 このうち、大津有一(一九〇二~一九八三)は、第七高等学校教授を経て、金沢大学教授になった。しかし、「国民古典全書」が企画された段階では、まだ第七高等学校教授に就任していなかったのだろう。もし、就任していたとすれば、「七高教授」という肩書がついていたはずである。
 なお、大津有一は、のちに伊勢物語研究の権威として知られるようになる。ただし、「日本古典全書」の『伊勢物語』は、なぜか、大津有一ではなく、南波浩(一九一〇~二〇〇〇)が校訂を担当している。
 所弘は、昨日、紹介したように、戦後の一九五一年(昭和二六)の段階で、東京都立武蔵丘高等学校に勤めていた。職名は、「教諭」だったと思う。「国民古典全書」が企画された段階で、所弘が、どこに勤務していたかは不明だが、東京都立武蔵丘高等学校の前身にあたる学校に勤務していたとすると、彼には「東京都立武蔵中学校教諭」という肩書があったはずである。しかし、もしそうだとしても、朝日新聞社は、この肩書を「紹介すべき肩書」とは見なさなかったのではあるまいか。

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暗い気持になるのを辛くも忍んで脱稿した(所弘)

2018-10-30 05:28:17 | コラムと名言

◎暗い気持になるのを辛くも忍んで脱稿した(所弘)

 先日、某古書店で、日本古典全書の一冊『堤中納言物語/落窪物語』(朝日新聞社、一九五一)を買い求めた。定価は三四〇円、古書価は一〇〇円。
 私の知るかぎり、朝日新聞社の日本古典全書には、装丁が二種類ある。両者ともハードカバーだが、初期のものは、白っぽい紙装で、表紙に梅の木のようなデザインが描かれている。後期のものは、赤っぽい布装で、表紙の中央に蝉のようなマークが捺されている。
 なお、前期のものには、その最後に、右書きで「蔵書印」と書かれたページがある。寡聞にして、その最終ページが蔵書印用のページになっている本というのは、この日本古典全書以外に(初期の日本古典全書以外に)、まだ見たことがない。
 今回、買い求めたのは、初期の装丁のもので、中に「古典の窓/日本古典全書/堤中納言物語/落窪物語 附録」という、二つ折り四ページの通信が挟まっていた。
 そこには、松村誠一「研究の盲点」、所弘「『いう』など」という、二つのエッセイが収録されている。松村誠一は、『堤中納言物語』の校訂者、所弘〈トコロ・ヒロシ〉は、『落窪物語』の校訂者である。このほかに、「石山寺多宝塔」という短文が収められているが、これには署名がなく、そのかわりに、文末に(倫)とあった。
 本日は、このうち、所弘の「『いう』など」を紹介してみたい。

  「い う」な ど    所 弘

 昭和二十三年〔一九四八〕の夏に書きあげた落窪物語がやつと世に出ることになつた。拙いものながら、恩師をはじめ友人や編集室の方々のお蔭によつてできたもので有難い気持で一杯である。原稿を書いた頃は、勤め先の宿直室にすみ、まるでなんの本ももたなかつた。資料は借り物ばかり、ともすれば暗い気持になるのを、辛くも忍んで脱稿したのだつた。これは凡例の終にも書いた通りで、印刷にかかつてから少し手を入れたので、凡例末尾の年は二十六年と改めてあるが、あの感慨は二十三年当時のものである。今は少しはよくなつた。落窪の木活字本〈モクカツジボン〉、横山由清〈ヨコヤマ・ヨシキヨ〉書入の秋成本などは傍においてあるから。それにしても焼失した完本の源氏物語営鑑抄、源氏女文章、別本小落窪、やはり写本の堀江物語など惜しい気がする。この堀江物語については、日本文学大辞典にも三巻の刊本しか書いてないが、架蔵本は確に一巻一冊の絵入刊本を写したものと認められるので、きつとそんな刊本もあるものと推測するのである。別に刊記などはなかつた。
 さて落窪の本文についてだが、面白の駒の記事のところで、馬づらの彼を大成本で、「ひうといななきて」云々と記すのを、古写本に従つて「いう」としておいた。万葉集で「馬声蜂音」を「いぶ」と訓むのは有名なこと。いななく、いばゆ、皆これと縁のある言葉と推定される。それで馬のなき声の書き方に、い―いう―ひう―ひん、といつた変遷を認めることができまいか。尤も秋成本は「ひゝ」と記すが。
 但し、これは表記法のことで、音韻の方では、この「う」が、巻一の「笠をほうほうとうてば」の「う」と共に実は撥音〔はねる音=「ん」〕を表したものだとされるなら、四つの変化とはならぬわけである。
 次に口絵のことであるが、都合で清水寺縁起になつたが、初は宮内庁の落窪物語絵巻が候補だつたので、この絵巻についてちよつと記したい。これは詞書〈コトバガキ〉なしの白描〈ハクビョウ〉のもので、四巻。伊知地鐡男氏の御示教によると、鎌倉期のものを江戸末期の有職家の松岡行義あたりが摸写したので、明治二十五年〔一八九二〕同家から献納されたものの由。これは四巻ではあるが、終まではなくて、第四巻は、実は第一巻と第二巻との間に入るべきもので、賀茂の祭見物の車争ひの辺で終るのである。即ち物語の第二巻末までである。すると物語全部だとこの倍位とも想像される。これから校合本によく見る詞書つきの小笠原近江侯蔵本絵巻八巻と、当推量〈アテズイリョウ〉で結びつけてみたい気もふと浮かんでくる。どこからかこの絵巻などが出てこないものかしら。
 この附録は仮名を編集室で改められるので、その手数のはぶける書き方をとつてみたが、どうも書きづらかつた。まことに不自由なことである。――昭和二十六年九月記(筆者は東京都立武蔵ケ丘高等学校教諭)

 文中に、「勤め先の宿直室にすみ」とある。「昭和二十三年」当時の筆者の「勤め先」はどこだったのだろうか。文章の末尾に、「東京都立武蔵ケ丘高等学校」とあるが、正しくは、「東京都立武蔵丘高等学校」である。また、昭和二三年(一九四八)前後の同校の校名は、「東京都立武蔵中学校」、もしくは「東京都立武蔵丘新制高等学校」(一九四八年四月から)だった。筆者が、昭和二三年当時も、同校に勤務していたとすると、当時の旧制中学もしくは新制高校には、「宿直」という制度があったということになる。

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それならば、なぜ判決を急ぎ、証拠を隠滅したのか

2018-10-29 00:36:44 | コラムと名言

◎それならば、なぜ判決を急ぎ、証拠を隠滅したのか

 昨日の続きである。今月二四日、東京高等裁判所において、「横浜事件」国家賠償請求控訴事件の判決が言い渡された。原告側の敗訴であった。
 その判決文を入手し、一読したところ、奇妙な「なお書き」があった。再度、引用すれば、次の通り。

 なお,第1審原告は,ポツダム宣言受諾後に担当の検察官,予審判事及び裁判官が治安維持法を適用したことを違法と主張する。しかしながら,ポツダム宣言受諾後も,昭和21年に日本国憲法の各種草案やこれに対する進駐軍(GHQ)の意見が明らかになるまでは,ポツダム宣言第10項(日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スルー切ノ障礙ヲ除去スヘシ。言論,宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ。)がどのように具体化されるかは,予想できなかったというべきである。そして,進駐軍の中核を構成するアメリカ合衆国においては,当時においても共産主義に対する抑圧的な政策がとられており,共産主義抑制策が多少は残ると考えることも,昭和20年9月の時期においては全く根拠を欠くとはいえなかった。昭和20年8月や9月は,日本国憲法施行前の時期であることはもちろん,日本国憲法草案の議論が始まる前の時期であって,占領政策が具体的にどのように展開されるのか,当時の日本人には全く予測がつかなかった時期である。言うまでもなく,治安維持法に関しては,昭和20年10月15日に全廃されたから,その後にこれを適用すれば違法なことは明らかである。しかしながら,当時は激動の時代であって,全廃の1か月前である昭和20年9月の時点においては,治安維持法が今後どのように改廃されるかが予想できなかったとしても,やむを得ないところである。……

 ここで東京高裁は、「昭和20年9月の時点における担当の検察官,予審判事及び裁判官による治安維持法の適用が,ポツダム宣言受諾後であるとの一事をもって違法になると断定するには無理がある。」ということを言いたかったのである。それを主張するために、アメリカ合衆国を中核となった進駐軍が、「共産主義抑制策」を採る可能性も考えられたと述べている。
 しかし、そのように言ってしまった場合、東京高裁は、控訴人側から、ただちに、次のような反論が出ることを、予想しなかったのか。
「それならば、何も判決を急ぐ必要はなかったし、裁判のあと、書類を焼却して証拠を隠滅する必要もなかったではないか。」
 少し、問題を整理しておこう。二〇一七年一二月四日付の「控訴人第4準備書面」において、森川文人弁護士ほか控訴人ら代理人は、次のように述べている(一二~一三ページ)。

 横浜事件の裁判記録は裁判所自らが関与して焼却されたことはすでに明らかといってよい(民事訴訟記録保存規定により、判決原本については永久保存が求められ、刑を言い渡した裁判記録についても一定の保存期間が定められていたにもかかわらず、裁判所は記録を焼却している)。
 敗戦直後あるいは敗戦必至を見越した敗戦間際の書類の焼却指示については、秘密裏ながら閣議決定を行っていたことに加え、司法省が司法行政権を掌握して行政優位の体制となっていた当時の裁判所機構などからすれば、裁判所も閣議決定に基づいて資料の焼却に走ったことは明らかである。
 しかしながら、裁判所が判決原本及び訴訟記録を焼却したという行為は、「上からの指示があったのだから仕方がない」などという弁解を一切容れることを許さない、言語道断の行為であり、裁判所の本分を自ら放擲した甚大な違法行為である。裁判所が治安維持法に基づき、横浜事件の各被告人に有罪判決を下しておきながら、その関係記録を焼き捨てたということは、裁判所自らが「この事件(横浜事件)の訴訟記録を残しておいてはまずい」と判断していたということである。ポツダム宣言の受諾によって、大日本帝國の統治機構と治安維持法をはじめとする治安立法が根底から覆ることを、当時の横浜地裁の裁判官たちは当然ながら分かっていたからこそ、横浜事件における治安維持法違反被告事件の裁判記録を残しておくことは後日問題を招くと考え、焼却するしかないと判断したということだ。
 この行為こそ、裁判官の認識の内容を示すもっとも重大な事実である。

 この準備書面における控訴人側の認識には極めて説得力がある。東京高裁は、この控訴人側の認識に対し、「担当の検察官,予審判事及び裁判官」が、ポツダム宣言受諾後も、「共産主義抑制策が多少は残ると考えることも,昭和20年9月の時期においては全く根拠を欠くとはいえなかった。」旨の認識を対置したのである。また、「当時の日本人には」、「ポツダム宣言第10項」が「どのように具体化されるか」、「全く予測がつかなかった」とも述べている。
「ポツダム宣言第10項」が、どのように具体化されるのか。――たしかに一般の日本人には、これは全く予想がつかなかったであろう。しかし、「担当の検察官,予審判事及び裁判官」には、「ポツダム宣言の受諾によって、大日本帝國の統治機構と治安維持法をはじめとする治安立法が根底から覆る」ということが、容易に予想できたはずである。だからこそ彼等は、判決を急ぎ、関係記録を焼き捨てたのである。
 今回の東京高裁判決は、当時の「担当の検察官,予審判事及び裁判官」が、「共産主義抑制策が多少は残る」と考えていた可能性があるなどという、何の説得力もない「なお書き」を加えたことによって、かえって、控訴人側の認識の正しさを印象づけることになってしまった。
 昨日は、この判決の「なお書き」を「奇妙な」と形容し、「わざわざ言わなくてもよかったもの」、「裁判所としては、言わないほうがよかったもの」と評した。さらに言えば、この「なお書き」は、被控訴人(国)にとっても、「言わないでほしかったもの」ではなかったのか。

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「横浜事件」国家賠償請求控訴事件の判決文を読んだ

2018-10-28 04:24:55 | コラムと名言

◎「横浜事件」国家賠償請求控訴事件の判決文を読んだ

 今月二四日、東京高等裁判所において、「横浜事件」国家賠償請求控訴事件の判決が言い渡された。原告側の敗訴であった。
 この判決について、翌二五日の東京新聞朝刊は、次のように報じた。

横浜事件/二審も遺族側敗訴/国賠法施行前の責任否定

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」で、特高警察による拷問を受けたとして、中央公論編集者だった故木村亨さんら元被告二人=再審で免訴確定=の遺族が国家賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は二十四日、遺族側の控訴を棄却した。一九四七年の国家賠償法施行より前の公務員の違法行為に、国は賠償責任を負わないとして請求を棄却した一審判決を支持した。
 判決によると、二人は四三年、共産党の再建を図ったとの疑いで神奈川県の特高警察に身柄を拘束され、激しい拷問を受けた。四五年に治安維持法違反で有罪となり、その後、裁判記録は焼却された。二〇〇五年に再審開始が確定し、治安維持法の廃止を理由に有罪、無罪の判断をせずに審理を打ち切る免訴判決が確定した。
 一六年六月の一審判決は、違法な拷問による自白に基づき有罪となり、裁判記録は「判決言い渡し後に裁判所職員が関与して廃棄されたと推認できる」と判断。しかし、当時は国が賠償を負うべき法令上の根拠はなかったと結論付けた。
 高裁の野山宏裁判長は、現在の最高裁に当たる大審院が国家賠償法施行前の四一年と四三年に出した判決を国が責任を負わない根拠とした。【以下、略】

 上記記事で、「元被告二人=再審で免訴確定=の遺族」とあるのは、木村まきさん、および平館道子さんのおふたり(=控訴人)のことである。
 判決の当日、虎ノ門のビルで、「横浜事件」国賠を支える会が開いた報告集会に参加した。山本志都弁護士の話によると、判決文のなかに、ポツダム宣言受諾後における法曹界の状況に触れた「なお書き」があるとのことであった。
 翌二五日、「横浜事件」国賠を支える会の事務局の方から、二四日の判決のコピーを送っていただいた。
 一読してみたところ、東京高等裁判所の野山宏裁判長らは、判決文の中で、実に奇妙なことを言っている。判決当日に、山本弁護士が言及していた「なお書き」の部分である。
 この「奇妙な」というのは、言い換えれば、「わざわざ言わなくてもよかったような」ということであり、もっとハッキリ言えば、「裁判所としては、言わないほうがよかったのではないかと思われるような」ということである。
 当該の「なお書き」は、判決文の八ページから九ページにかけてのところにあり、これは、東京高裁が東京地裁の原判決を補正した部分の一部にあたる。判決文七ページの途中から、引用してみよう。

第3 当裁判所の判断
 1 当裁判所も、第1審原告らの請求はいずれも理由がないと判断する。その理由は,下記2のとおり原判決を補正し,下記3,4のとおり付け加えるほかは,原判決「事実及び理由」中の第4記載のとおりであるから,これを引用する。
 2 原判決の補正
  33頁15行目から34頁23行目までを,次のとおり改める。
「オ エまでに認定した警察官による拷問及び自白の強要,留置の継続,公訴提起,予審及び公判の裁判,本件確定判決に係る訴訟記録の廃棄の各行為は,国家陪償法施行後に行われたとすれば,公権力の行使に当たる公務員が職務を行うについての違法行為に当たるか,少なくともその可能性の高い行為である。しかしなから,前記各行為は,国家賠償法施行日(昭和22年10月27日)よりも前の行為であるから,国家賠償法附則6項の規定(この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。)が適用される。同法附則6項の規定によれば,同法に規定する行為に基づく損害に対する法律関係については,同法施行直前の法律制度をそのまま凍結した状態で適用することになる。同法施行直前の法律制度は,前記各行為のような統治権に基づく権力的行動に関しては,国は賠償責任を負わないというものであった。そうすると,前記各行為により国が賠償貴任を負うことはないから,この点に関する第1審原告らの請求は理由がない。
 なお,第1審原告は,ポツダム宣言受諾後に担当の検察官,予審判事及び裁判官が治安維持法を適用したことを違法と主張する。しかしながら,ポツダム宣言受諾後も,昭和21年に日本国憲法の各種草案やこれに対する進駐軍(GHQ)の意見が明らかになるまでは,ポツダム宣言第10項(日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スルー切ノ障礙ヲ除去スヘシ。言論,宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ。)がどのように具体化されるかは,予想できなかったというべきである。そして,進駐軍の中核を構成するアメリカ合衆国においては,当時においても共産主義に対する抑圧的な政策がとられており,共産主義抑制策が多少は残ると考えることも,昭和20年9月の時期においては全く根拠を欠くとはいえなかった。昭和20年8月や9月は,日本国憲法施行前の時期であることはもちろん,日本国憲法草案の議論が始まる前の時期であって,占領政策が具体的にどのように展開されるのか,当時の日本人には全く予測がつかなかった時期である。言うまでもなく,治安維持法に関しては,昭和20年10月15日に全廃されたから,その後にこれを適用すれば違法なことは明らかである。しかしながら,当時は激動の時代であって,全廃の1か月前である昭和20年9月の時点においては,治安維持法が今後どのように改廃されるかが予想できなかったとしても,やむを得ないところである。昭和20年9月の時点における担当の検察官,予審判事及び裁判官による治安維持法の適用が,ポツダム宣言受諾後であるとの一事をもって違法になると断定するには無理がある。なお,ポツダム宣言受諾の前後を問わず,警察官による拷問及び自白の強要,留置の継続が違法であることは,もちろんである。」

 どう考えても奇妙である。そう思った理由については次回。

*このブログの人気記事 2018・10・28

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沖縄語の耻は内地で云ふ婦人の耻かし所である

2018-10-27 01:04:02 | コラムと名言

◎沖縄語の耻は内地で云ふ婦人の耻かし所である

 中山太郎の論文「袖モギさん」(『郷土趣味』第四巻第二号、一九二三年二月)を紹介している。本日は、その七回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 柳田國男先生のお話で分けてもらつた沖縄県国頭郡誌を見ると『耻■坂【ハゲオソヒビラ】』と云ふ地名があり、此の地名起原の伝説が載せてある(註十二)。沖縄語の耻は内地で云ふ婦人の耻かし所であるから、此の坂で行倒れとなつて死んだ婦人の局所を掩ふてやると云ふ意味である。大昔の人々は此の行倒れ人の死に対しては非常なる恐怖の念を抱いてゐた。これは独り行倒ればかりでなく、総ての変死に対してさうであつたが就中、行路死者に関しては一層その度が深長であつた。従つて斯かる行路死者のあつた場所を通行する際には、必ずその人は柴をとつて手向けるか又たは木の枝を折つて供へたものである(註十三)。然しそれは後世に形式が略されたものであつて、古くは耻■坂のやうに衣服を掛けてやつたのが元の姿である。推古紀二十一年冬十一月に聖徳太子が大和の片岡に遊びにお出でになり、道の傍らに飢えたる者が臥てゐたので、太子自ら御衣を脱して飢者を覆ひ『しな照る片岡山に』云々と(註十四)。有名なお歌を作られたとあるが、これも又た行路死者に衣を掛けてやると云ふ思想の現はれと見ることが出来る。此の立場から袖モギさんを考へると、此の俗信が大昔の聖徳太子のそれと源流を同じくしてゐることが明白に知り得られる。昔の人々は行路病者があると、その者が瀕死の状態にあつても、息の通つてゐる間は世話などしようともせず、いづれかと云へば寧ろ死ねがしに取扱つて置きながら―勿論これには種々なる事情が存在してゐるが―一度絶息するとその死霊を恐れ、その死霊の疎び荒ぶるのを防くために、これを和め祀る風があつた。そして死骸は多く橋の辺に埋めて橋の流失を守らせるとか――即ち橋姫の起原である―又は往来の烈しい辻に埋めて亡霊の発散せぬやうに絶えず踏ましめるとか―即ち辻祭の起原である――更に坂に埋めて行路の安全を護らせたものである。従つてコホロギ僑が名の示す通り橋に由縁を有し、袖モギさんが同じく橋のあるところ又たは橋に在るのは此の為であると信じたい。それであるから袖モギさんの守護してゐる場所で、躓いて倒れると云ふことは、即ちその守護の怒りに触れたか、又たは凶事のやがて来ることを予め知らされたものと考へ、これを免かれる禁厭【マヂツク】として、その守護となりし死者に対して曽つて行つたやうな所業―即ち片袖を解いて手向けたものであらう。勿論、片袖は衣服全体を代表してゐることは言ふまでもなく、その形式が簡略化されたことも又た言ふまでもない。
 以上が折口氏の高見の大体である。私は太だ物臭い且つ失礼の極みではあるが、これを以て私の結論とする。猶ほ此の場合に袖の禁厭的の説明を加へれば安全であると思ふたが、然し総要を尽してゐると信ずるので擱筆する。終りに望み折口氏に改めて敬意を表する。 (完)

註十二、琉球には此の種の伝説が他にも存してゐる、曽て理学博士草野俊助氏からも斯か る伝説の屋久島にあることを聴いたことがある然し記憶が明確でないのでこゝには保留して置く。
註十三、柴や木の枝を折つて手向ける土俗に就いては、昔私が「柴神信仰」と題して國學院雑誌に管見を載せたことがある、参照してもらへば幸甚である。
註十四、聖徳太子の御歌は「しな照る片岡山に、飯に飢て、臥せる、その旅人あはれ、親なしに、汝なりけめや、さす竹の、君はなき、飯に飢て、臥せる、その旅人あはれ」と云ふので、歌意は自ら明白である。

 文中、■の字が表示できなかった。「敞」の下に「手」がつく字である。
 以上で、「袖モギさん」の紹介を終わる。原文では、註は、論文末尾に一括して置かれている。また、紹介に際し、原文に一定の校訂を施したが、いちいち断らなかった。今回、紹介した原文をもととして、これに、校訂注、ルビ、補注などを加えたものを、いずれ、このブログに載せたいと考えている。

*このブログの人気記事 2018・10・27

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