礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鶴見俊輔、佐藤忠男を語る(1958)

2015-11-30 04:08:44 | コラムと名言

◎鶴見俊輔、佐藤忠男を語る(1958)
 
 畏友・尾崎光弘さんが、そのブログ「尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅」で、映画評論家の佐藤忠男さんについて論じている。テーマは、「映画評論家・佐藤忠男の予科練体験」。尾崎さんならではの鋭い指摘があって、ハッとさせられている。
 高校生のころ、カッパブックスで佐藤忠男さんの『裸の日本人』(一九五八)を読み、それ以来、佐藤忠男さんのファンである。先日、必要があって、この本を探したが、すでに処分してしまったのか、どうしても見つからず、しかたなく国会図書館で読んだ。
 その後、書棚を整理していたところ、偶然、この本が出てきた。一九五八年(昭和三三)一一月二五日発行の初版である。カバーのウラに、写真付きの著者紹介がある。執筆は、鶴見俊輔さん(一九二二~二〇一五)である。本日は、この「著者紹介」を、紹介してみよう。

 佐藤忠男は、昭和五年〔一九三〇〕、新潟市に生まれ、本年二十八歳、小学校卒業後、予科練にはいったが、まもなく敗戦。同年、郷里の町工場につとめた後、鉄道教習所へはいり、そこを卒業して国鉄の現場に配属されたかと思うと行政整理でクビになり、以後、電気工夫、映画のエキストラなどをやり、電電公社の工作工場につとめた。(だから、電話機の修理が彼の特技だ。)現在は、「映画評論」の編集者である。
 この略歴に見られるように、われわれの時代の評論家の中で、彼をきわだたせているのは、日本のもっとも若い世代の声を代表しているということ、兵隊、労働者、事務員、自由職業者としてのさまざまの職場の経験をとおして考えをつくってきたことである。だが、彼が注目さるべき理由は、若いとか、職場出身の評論家だとかいうことよりも、戦後の新しい世代としての体験、職場の体験を自分の力で考えぬいて、一つの体系をつくろうとしていることである。独自の体系的思考をもつ批評家として、われわれの時代の、もっとも期待できる人と言える。(東京工大助教授 鶴見俊輔

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青木茂雄氏評『独学の冒険』

2015-11-29 17:05:07 | コラムと名言

◎青木茂雄氏評『独学の冒険』

 本日は、ブログを更新しない予定でしたが、所用が終わり、時間がとれましたので更新します。
 以下は、拙著『独学の冒険』(二〇一五年一一月刊)に対して、昨日未明、青木茂雄氏からいただいた書評です。

『独学の冒険』を読んで  青木茂雄

 礫川全次著『独学の冒険』を面白く読んだ。柳田国男・家永三郎・千葉徳爾・佐藤忠男という、内容も手法も社会的位置もそれぞれに異なった人物を「独学」という枠でくくろうというのが、ユニークである。筋金入りの「在野研究者」の礫川氏にして初めて可能となった仕事である。
 とくに著者が私淑したという千葉徳爾の着眼点のユニークさについては、単に「人がやらないことをやる」という流儀以上に、自分自身のオリジナルな経験のユニークさによるものであろうか。礫川歴史民俗学の原点を見る思いである。
 また、「独学」というフィルターを通すと、研究の対象が無原則とも言えるほど多岐にわたる家永歴史学の神髄も見えてくるであろうか。
 吉本隆明を「在野の独学者」と見る視点もまた面白い。吉本の信奉者からすれば異論が出るところであろう。何しろ彼は「思想家中の思想家」であって、思想家は野にあっても決して「在野」ではないからだ。
 最後にわたしの考えだが、学問とはすべて独学によるものであり、およそ独学でなければ学問ではない。アカデミズムとは、そもそも「在野」のものなのだ。アカデミズムが「官学」と同視され、或いは同視したところが日本の学問の不幸ではないのか。それはこの国の《知》の在り方にも由来するものなのかもしれない。

*このブログの人気記事 2015・11・29(6・7位に珍しいものが入っています)

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川島なお美さんの死と難民問題

2015-11-28 03:43:04 | コラムと名言

◎川島なお美さんの死と難民問題
 
 本日は、柏木隆法さんの「隆法窟日乗」を紹介したい。日付は、9月25日、通しナンバー541.おそらく、入院中に執筆された日乗であろう。

 隆法窟日乗(9月25日)
 女優の川島なお美が亡くなった。拙は深いつき合いがあったわけではないが、CBCの控室で一度会い話を交わしたことがある。拙は別の番組に出るために一時間ほど予定より早く行ったら、『お笑い漫画道場』の収録が終わったばかりで、控室が重なってしまった。そのために拙とかち合わせた。送迎の車がまだ来ていなかったから、その間拙と話して時間を潰していた。何を話したか記憶にないがまだ大学生だった。一つだけ覚えているのは川島との対話の中で小柳徹の事故死についてであった。『ホームラン教室』の大のフアンで、同じ守山区出身の小柳に憧れて芸能界入りをしたという。そんなことだけ覚えている。その後会うこともなかったが『失楽園』の出演には驚いた。一見尻が軽そうだが身持ちは堅く、軽々しく口説けないオーラのような防波堤が高く自己保身が強かった。拙の感想はそれくらいしかないが拙よりも年下の、しかも花のかんばせが今はもう一握りの御骨になってしまったかと思うと無常を感じる。拙の母は35にして結核に罹り、余命半年を宣告された。それから半世紀以上生きた。拙が今の病気に罹った時、体中に水が溜まり、余命三ヶ月を宣告されたが、あれから12年、まだ生きてる。余命宣言と云うのはあんまりアテにはならない。生きていてこれから何かいいことがあるとはとても思えない。かといって自殺する気にはなれない。現在、ドイツには戦火を逃れた難民が50万人も押し寄せている。ドイツに逃れてもいいことがあるわけではない。そのことは彼等もよく知っているはずだ。行くも地獄、留まるも地獄とあらば先に進むしかない。難民には難民の生きるという至上命題がある。国家の都合なんていうことは考えておられない。拙の友人の蜂須賀という男の母が拙に昔語りで満蒙開拓団が終戦で日本に帰る際、丁度あのシリア難民と同じような逃避行であったという。とりあえず生きていく努力が国際問題になること自体、どこかおかしい。そういっている政治家が自分に身に降りかかった災難だったとすればどうするのか。国に軍隊がなければ滅びてしまうから抑止力の点から最低の国防は必要というが。その軍隊がシリアの国民を追い出している。従軍慰安婦の問題が日本と韓国の間の深い溝になっているが、軍隊というのは個別的な責任を問われないから強姦もやり放題、軍服を着用していればジュネーブ協定によって兵士の権利は認められるからほとんど戦争責任は問われない。その軍隊の被害者が難民ならPKOは世界中の戦争難民救済にこそ協議すべきで、ヤルタ式の分割などやるべきでない。現在の集団的自衛権にはどこにも難民の救済法は一言も触れていない。川島なお美の死から随分と脱線したが、要は生きたくても生きられなかった人々のことである。自分がもし満蒙開拓団で関東軍から見捨てられ独力で日本に帰ってきた人々の群衆の中にあったとしたらどうするのだろうか。シリアの難民で沈みそうな船に乗って生国を政治家は脱出しなければならなくなったとしたらと想定するならば考えなければならなくなるだろう。拙にその最善の答えがあるわけではない。よりベターな考えはやはり戦争は非暴力を原則に立ち返るべきである。武藤という自民党議員は戦争へ行くことを嫌がる若者はエゴイムズだといっていたが、誰も口に出さなかった本音が出ただけで、背景には徴兵令復活見え隠れしている点であった。最低限の国防整備は喫緊の問題として中国や北朝鮮を仮想敵国に向けて軍備の拡張を図っているが、五年分のオスプレイ購入費は9兆3000億という。この金額は山口組の上納金に匹敵する。これに比べればオリンピックのメイン会場なんか鼻くその金額だ。どちらにしても10円玉を数えて取材していた拙なんぞ生きた記録も残らないだろう。政治家は血税を借しげもなく無駄遺いしても良心は咎めない。それに比して拙らは何故こんな苦労までして研究をやるのか。不条理だ。541

*都合により、明29日は、ブログをお休みし、30日に再開します。

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原節子さん「足らぬは亭主ばかりなり」(1952)

2015-11-27 06:05:22 | コラムと名言

◎原節子さん「足らぬは亭主ばかりなり」(1952)         
 
 二〇一二年七月二一日の当ブログで、昭和二七年(一九五二)の「スターいろは歌留多」というものを紹介した。戸板康二『いろはかるた随筆』に載っていたものを、若干の注釈を付して紹介したのである。初出は、雑誌『映画と演芸』(朝日新聞社)の「昭和二七年の号」で、作者は矢野目源一だというが、これについては、そのとき以来、未確認のままである。
 その歌留多を紹介した時点で、春日野八千代さん(元宝塚劇団男役)と原節子さん(元女優)、京マチ子さん(女優)のお三方は、まちがいなくご健在だったが、その後、同年八月二九日に、春日野八千代さんが亡くなられた。
 そして、一昨日のニュースで、原節子さんも、本年(二〇一五)九月五日に亡くなれれていたことを知った。哀悼の意味を込めて、以下に、「スターいろは歌留多」を再掲させていただく。なお、本年二月一八日の当ブログ記事「原節子さんとドクター・ハック」も、併せて、ご覧いただければ幸いである。

 昭和二七年「スターいろは歌留多」
い 一を聞いて二十を当てる          柴田早苗〔女優〕
ろ 論より実力                諏訪 根自子〈スワ・ネジコ〉
は 花のバリでお昼寝             高峰秀子
に 二枚目世にはびこる            長谷川一夫
ほ 惚れて通えばかぶりつき          春日野八千代〈カスガノ・ヤチヨ〉
へ 紅白粉〈ベニオシロイ〉は女の色気     花柳章太郎
と としよりの冷酒              古今亭志ん生
ち 沈魚落雁閉月羞花             中村歌右衛門〔六代目〕
り 両脚上げれば立てない           谷 桃子〔バレリーナ〕
ぬ ぬうっと顔を出してスターなり       佐分利 信〈サブリ・シン〉
る るりもはげも照せば光る          柳家金語楼
を 男の中の男前               上原 謙
わ 若い時は二度ない             田中絹代
か 彼氏とは性格の違い            水谷八重子
よ よい子には親かかる            美空ひばり
た 足らぬは亭主ばかりなり          原節子
れ 例によって例の如し            藤原義江〔オペラ歌手、男性〕
そ そこのけそこのけお馬が通る        丹下キヨ子
つ 釣れますかなどと金馬は傍〈ソバ〉へ寄り  三遊亭金馬〔三代目〕
ね 猫に音盤〔レコード〕           神楽坂はん子
な なけなしの旅費失い            大谷冽子〈オオタニ・キヨコ〉
ら 来年のこといえば敬老会          藤蔭静枝〈フジカゲ・シズエ〉
む 夢声通ればマイクが引張る         徳川夢声
う 上も行く行く下も行く           久保幸江〈クボ・ユキエ〉
ゐ 芋の煮えたも御存じない          久我美子〈クガ・ヨシコ〉
の 能ある鷹は皺〈シワ〉をかくす       東山千栄子    
お 夫唱え婦随う               山田五十鈴
く 雲の上に出てみたスター          高峰三枝子
や 安物買いのスキャンダル          三国連太郎
ま まけぬが勝ち               阪東妻三郎
け 芸といえばイヤンバカ           柳家三亀松
ふ 古川に汗水たえず             古川ロッパ
こ こびとに鈍なし              市川猿之助〔二代目〕
え 得手に口を開ける             笠置シヅ子
て 亭主の好きなヘンな服装〈ナリ〉      山口淑子
あ アソコ隠して尻かくさず          吾妻京子
さ 三遍踊ってうどんにしよう         水の江滝子
き 君を思えば徒跣〈カチハダシ〉       岩井半四郎   
ゆ 行末は誰が肌ふれん紅の花〔芭蕉の句〕   越路吹雪      
め 目の上の藍シャドウ            淡谷のり子
み 身から出たチビ              榎本健一
し 四十新造五十島田             西崎 緑〔初代〕
ゑ 「英雄」フシを好む            広沢虎造
ひ 昼は録音夜高座              春風亭柳橋〔六代目〕
も 門前の小僧習わぬ絵も描く         池部 良〈イケベ・リョウ〉
せ 膳は急げ(美食趣味の評判)        まり千代
す 粋も甘いも味は梅干            杉村春子
京 京マチ子の猫通いけり羅生門        京マチ子

*このブログの人気記事 2015・11・27(時節柄、10位に原節子さんが入っています)

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柏木隆法さん、『斬り抜ける』『必殺仕掛人』を語る

2015-11-26 05:54:53 | コラムと名言

◎柏木隆法さん、『斬り抜ける』『必殺仕掛人』を語る
 
 本日も、柏木隆法さんの「隆法窟日乗」を紹介したい。昨日、通しナンバー535を紹介したが、本日、紹介するのは、通しナンバー536。日付は記載されていない。

 隆法窟日乗
『斬り抜ける』〔1974~1975〕は拙が接した作品の中でも記憶に残る作品であった。意欲的で拙もあらゆることで勉強になった。1960年代にはアメリカのテレビ映画『逃亡者』が自分の無実を晴らすために全国を流離う〈サスラウ〉。テビット・ジャンセンなどという俳優は聞いたこともない無名の俳優であったが、この作品一本で世界に知られるようになった。物語は一話完結の形式をとりながら全体の共通するサブストーリーを通す事、これがアメリカのテレビ映画の特色だった。ワンクール、三カ月をメドに番組を試作し、視聴率が高ければ続行、悪ければ即打切り。制作費は最低、スタッフも揃っていないから拙のようなアルバイト学生でも大道具の手伝いから俳優まて、あらゆる制作の裏面まで手伝わされた。これは個人プロダクションの製作映画の現場でも裏方の厳しい現象が見られた。三船プロの『新選組』の時なんか黒谷のロケ現場で拙は150人もの学生エキストラに衣装を着せていたが、中腰でせっせと袴をはかせていたところ、同じように衣装を着せていたスタッフとぶつかり、尻もちをついた。思わず「気を付けろ」と叱ったら、その相手は三船敏郎だった。三船の娘が離婚するとかしないとか最近メディアを賑わせていたが、まだ影も形もない昔の話である。三船の腰の低いのには驚いた。ちょっとばかり世の中に知られるようになったばかりの若い歌手や俳優がふんぞり返っている姿をよく見かけたが、そういう生意気な奴は直ぐに消えていった。スタッフやカラミに嫌われてはたちまちにしてツンボ桟敷に追いやられる。このころNHKでヒットするとそのまま民放が同じ俳優で別作品を作ることがよくあり『国盗り物語』の近藤正臣、火野正平がそうだった。同じように『文吾捕物帳』から杉良太郎、東野英治郎、露口茂が『水戸黄門』だった。そのころ一番モテていたのが睦五郎〈ムツ・ゴロウ〉でリチャード・キンブルの吹替えで他の番組のスタッフが顔を見に来ることもあった。『トラ・トラ・トラ』〔1970〕で黒澤明が降坂すると深作欣二〈フカサク・キンジ〉がそれに代わり、深作は山村聰の個性を視だして『必殺仕掛人』〔1972~1973〕の音羽屋半衛門の役をあてた。松竹の凄いところは原作を演出と脚本で越えてしまうところで、藤枝梅安〈フジエダ・バイアン〉の相棒を『鬼平犯科帳』〔1971~1972〕に一度だけ登場する「西村左内」を林与一にてて変えてしまった。そしてなかなか役が決まらなかったのが元締の音羽屋で全員がホームドラマの出演者ばかりだった。忘れられないが、視聴率は第一回目から高く、延長間違いなしといわれていたが、途中で『赤旗』に「金を貰って人を殺すのは道徳に反する」と叩かれたところで緒形拳は二度とテレビで藤枝梅安を演じなくなった。その後、梅安は田宮二郎、萬屋錦之介〈ヨロズヤ・キンノスケ〉、小林桂樹、岸谷五郎、渡辺謙などの名優が演じたが、どれもイメージに合わなかった。拙が『必殺』に関わったのは『仕掛人』だけだったが、それぞれゲストに津川雅彦、三国連太郎、今はもう名前すら忘れ去られたが、園井恵介、渚まゆみなども会った。林与一の殺陣は流石に群を抜いて上手かった。少人数のスタッフでよくあれだけの作品ができたと記憶に残って居る。あの作品は大映からきた楠本栄一と深作欣二の合作だと今も思っている。松下電器スポンサーの月曜日8時の時代劇の三分の一の制作費だった。視聴率は提供企業のふんだんな制作費によって決まっていく。松下電器の制作部門から独立したCALの制作はギャラの高い俳優を贅沢に使い、他のドラマを押し退けたところがあった。松竹で原田大二郎主演で『柳生十兵衛』を放映したら東映で山口崇〈ヤマグチ・タカシ〉主演により同名番組が制作され、松竹では8回目で放送打切りになった。真にテレビ業界というものは隙間産業だった。Panasonicが不況になり月8が維持できなくなるとCALが制作した『寒月霞斬り』『逃亡者おりん』など安上がりの時代劇を制作したが今は活動していない。536

*このブログの人気記事 2015・11・26(10位に珍しいものが入っています)

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