◎かたわらの神社は池の信仰を具体化したもの
末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第一節「池と信仰」を紹介している。本日は、その後半を紹介する。
かゝる神霊池への思想は以後永く伝統し何か社会に事のあるときには異変を表はすものとされてゐた。明月記の筆者藤原定家〈フジワラノサダイエ〉はこの池を称して希代勝絶〈キタイショウゼツ〉の池なりとして崇敬し、信仰的態度をとること文中に屡々見るところである。しかしこの池の異変を解釈すれば、それは火口池として阿蘇の噴火と関連するのであらうが、平安朝以来時の人々には不可解とされる突如たる異変は遂に畏敬と信仰をなさしめたものである。俊頼歌集に、世にわびて波たちまちにあるなればあそのみ池にぬさたてまつる、の歌は都人〈ミヤコビト〉にもかゝる池への信仰が見られると云へよう。
この阿蘇の神霊池はかやうな点で池としても灌漑を目的とするものではなかつたが、続後紀承和七年九月の項に、宜しく陂池〈ヒチ〉を修理し灌漑を乏しくする勿れの詔がある。やはり信仰され崇敬されながらもなほ灌漑の大切なことを説く点にその当時の農業振興に対する態度が推察せられる。
この神霊池が一種の公的信仰を有したのに対して、土俗的或は民衆的信仰を以て尊崇された池として、吉野の奥の上北山村〈カミキタヤマムラ〉池原に池峯池と云ふ神秘の環境をもつ池がある。これは大台ケ原の麓〈フモト〉熊野への下り口にあり、その名が示す様に峯の頂上にそれこそ千古の碧水を湛へてゐる。うつさうとした森林に囲まれて静寂の限りを超えた存在である。池中には太い枯損木が重なり合つてお陥ち込みすべてそのまゝ手をつけられずにあるのは非常に凄い感じを受ける。池中のものには手をつけない昔からの伝統が守られてゐるからではあるがこの環境に至れば自ら〈オノズカラ〉さうさせることになるであらう。透徹した池水の中に杉檜などの巨幹がるいるいとして、横はつて〈ヨコタワッテ〉沈んであるのは大蛇を連想させる。その間を大きな鯉や緋鯉が悠々と群れ泳いでゐるのも一層の凄さを与へる。庭園の池で小さな魚の泳ぐのとは違つて環境と相応じて恐怖を感じないものはなからうと思ふ。かうしたところに原始人の感じた自然への信仰が思はず考へさせられることであつて、今のわれわれにも一種の霊の存在を感じ時にそれが慄然たる気持の迫ることを覚ゆる。そしてこゝには傍ら〈カタワラ〉に池峯神社が祭られ池への信仰の対象となつてゐる。故に阿蘇の神霊池にしろ、池峯池にしろ傍らに神社のあることは池の信仰を具体化したものと云へよう。
かくの如く池そのものへの信仰に相応じて挙げなければならぬものは、前き〈さき〉に記した大和の磯城〈シキ〉郡川東村〈カワフガシムラ〉にある池坐朝霧黄幡比売〈イケニマスアサギリキハタヒメ〉神社である。いまは池中に鎮座するわけではないが池に坐す〈イマス〉その事が云ふまでもなく池への信仰を語るものであり、黄幡比売は、神として崇敬されて他に坐すが池こそ祭神のあるところである。この社の創建年代は明かでないが式内社であつて、平安朝の初め貞観元年〔859〕五月従五位上を授けられてゐる。恐らく此時代には盛に〈サカンニ〉他が築造され修理を施してゐるので、生産的立場からの信仰にもまた深いものがあつたと考へられるから、この神社の如きはむしろ生産方面よりの信仰が考へられるのではなからうか。
河内の依網池〈ヨサミノイケ〉のある大依網神社、狭山池〈サヤマイケ〉の堤神社などは直接池に対する信仰ではなくむしろ池の鎮守であらうが、注意すべき事項として近畿地方の郷社が湖、沼、池、川などの灌漑に関係をもつ地域に多数散在する点を考へなければならぬと思ふ。近江では水田の最も発達しに湖東地方に郷社が集まつてゐる。これは水利と農民と郷社との結合が考へられるものであらう。郷社は原則的に農村を対象とする傾向をもち農村は水利に便な地理的環境を撰び或は池を築造して水利灌漑を整備し、郷社はさうした間にあつて鎮守たるの信仰を有した。前きに記した池坐朝霧黄幡比売神社の如きもかゝる意味からの信仰的存在が考へられると同時に、多くの郷社にも相似た信仰が推察されるのではないかと思ふ。恐らく灌漑の円滑を祈願するための信仰的対象に郷社が尊崇される場合もあつた様である。これは池そのものへの信仰ではないが一連の連り〈ツナガリ〉は考へてもよいのではなからうか。
かやうに池に対する信仰は池を神聖視する原始信仰的な阿蘇の神霊池や吉野の池峯池と、池を生活の一部に取入れて尊崇する場合がかなり多い様に思ふ。しかしまた次項池と伝説に挙げたものゝ中には俗伝としての単なる物語りと、加賀の白山の御厨池〈ミクリガイケ〉や神泉苑〈シンセンエン〉などの様にその伝承する内容に仏教的信仰の対象となるものもある。これは龍の思想が池と結合して且つそれが仏教信仰を説くことにもあるが、平安朝における池に対する一つの信仰的現れと云へよう。
最初のほうに「俊頼歌集」とあるのは、平安後期の歌人・源俊頼(みなもとのとしより)の歌集の意味。源俊頼の家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)を指すか。
最後のほうにある「神泉苑」とは、京都にある庭園で、苑内に大池がある。平安時代に「禁苑」として造営された。