礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

かたわらの神社は池の信仰を具体化したもの

2024-04-27 01:59:37 | コラムと名言

◎かたわらの神社は池の信仰を具体化したもの

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第一節「池と信仰」を紹介している。本日は、その後半を紹介する。
 
 かゝる神霊池への思想は以後永く伝統し何か社会に事のあるときには異変を表はすものとされてゐた。明月記の筆者藤原定家〈フジワラノサダイエ〉はこの池を称して希代勝絶〈キタイショウゼツ〉の池なりとして崇敬し、信仰的態度をとること文中に屡々見るところである。しかしこの池の異変を解釈すれば、それは火口池として阿蘇の噴火と関連するのであらうが、平安朝以来時の人々には不可解とされる突如たる異変は遂に畏敬と信仰をなさしめたものである。俊頼歌集に、世にわびて波たちまちにあるなればあそのみ池にぬさたてまつる、の歌は都人〈ミヤコビト〉にもかゝる池への信仰が見られると云へよう。
 この阿蘇の神霊池はかやうな点で池としても灌漑を目的とするものではなかつたが、続後紀承和七年九月の項に、宜しく陂池〈ヒチ〉を修理し灌漑を乏しくする勿れの詔がある。やはり信仰され崇敬されながらもなほ灌漑の大切なことを説く点にその当時の農業振興に対する態度が推察せられる。
 この神霊池が一種の公的信仰を有したのに対して、土俗的或は民衆的信仰を以て尊崇された池として、吉野の奥の上北山村〈カミキタヤマムラ〉池原に池峯池と云ふ神秘の環境をもつ池がある。これは大台ケ原の麓〈フモト〉熊野への下り口にあり、その名が示す様に峯の頂上にそれこそ千古の碧水を湛へてゐる。うつさうとした森林に囲まれて静寂の限りを超えた存在である。池中には太い枯損木が重なり合つてお陥ち込みすべてそのまゝ手をつけられずにあるのは非常に凄い感じを受ける。池中のものには手をつけない昔からの伝統が守られてゐるからではあるがこの環境に至れば自ら〈オノズカラ〉さうさせることになるであらう。透徹した池水の中に杉檜などの巨幹がるいるいとして、横はつて〈ヨコタワッテ〉沈んであるのは大蛇を連想させる。その間を大きな鯉や緋鯉が悠々と群れ泳いでゐるのも一層の凄さを与へる。庭園の池で小さな魚の泳ぐのとは違つて環境と相応じて恐怖を感じないものはなからうと思ふ。かうしたところに原始人の感じた自然への信仰が思はず考へさせられることであつて、今のわれわれにも一種の霊の存在を感じ時にそれが慄然たる気持の迫ることを覚ゆる。そしてこゝには傍ら〈カタワラ〉に池峯神社が祭られ池への信仰の対象となつてゐる。故に阿蘇の神霊池にしろ、池峯池にしろ傍らに神社のあることは池の信仰を具体化したものと云へよう。
 かくの如く池そのものへの信仰に相応じて挙げなければならぬものは、前き〈さき〉に記した大和の磯城〈シキ〉郡川東村〈カワフガシムラ〉にある池坐朝霧黄幡比売〈イケニマスアサギリキハタヒメ〉神社である。いまは池中に鎮座するわけではないが池に坐す〈イマス〉その事が云ふまでもなく池への信仰を語るものであり、黄幡比売は、神として崇敬されて他に坐すが池こそ祭神のあるところである。この社の創建年代は明かでないが式内社であつて、平安朝の初め貞観元年〔859〕五月従五位上を授けられてゐる。恐らく此時代には盛に〈サカンニ〉他が築造され修理を施してゐるので、生産的立場からの信仰にもまた深いものがあつたと考へられるから、この神社の如きはむしろ生産方面よりの信仰が考へられるのではなからうか。
 河内の依網池〈ヨサミノイケ〉のある大依網神社、狭山池〈サヤマイケ〉の堤神社などは直接池に対する信仰ではなくむしろ池の鎮守であらうが、注意すべき事項として近畿地方の郷社が湖、沼、池、川などの灌漑に関係をもつ地域に多数散在する点を考へなければならぬと思ふ。近江では水田の最も発達しに湖東地方に郷社が集まつてゐる。これは水利と農民と郷社との結合が考へられるものであらう。郷社は原則的に農村を対象とする傾向をもち農村は水利に便な地理的環境を撰び或は池を築造して水利灌漑を整備し、郷社はさうした間にあつて鎮守たるの信仰を有した。前きに記した池坐朝霧黄幡比売神社の如きもかゝる意味からの信仰的存在が考へられると同時に、多くの郷社にも相似た信仰が推察されるのではないかと思ふ。恐らく灌漑の円滑を祈願するための信仰的対象に郷社が尊崇される場合もあつた様である。これは池そのものへの信仰ではないが一連の連り〈ツナガリ〉は考へてもよいのではなからうか。
 かやうに池に対する信仰は池を神聖視する原始信仰的な阿蘇の神霊池や吉野の池峯池と、池を生活の一部に取入れて尊崇する場合がかなり多い様に思ふ。しかしまた次項池と伝説に挙げたものゝ中には俗伝としての単なる物語りと、加賀の白山の御厨池〈ミクリガイケ〉や神泉苑〈シンセンエン〉などの様にその伝承する内容に仏教的信仰の対象となるものもある。これは龍の思想が池と結合して且つそれが仏教信仰を説くことにもあるが、平安朝における池に対する一つの信仰的現れと云へよう。

 最初のほうに「俊頼歌集」とあるのは、平安後期の歌人・源俊頼(みなもとのとしより)の歌集の意味。源俊頼の家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)を指すか。
 最後のほうにある「神泉苑」とは、京都にある庭園で、苑内に大池がある。平安時代に「禁苑」として造営された。

*このブログの人気記事 2024・4・27(9位になぜかジラード事件、8・10位になぜか帝銀事件)

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末永雅雄の『池の文化』(1947)を読む

2024-04-26 01:36:53 | コラムと名言

◎末永雅雄の『池の文化』(1947)を読む

 今月の初め、中央線沿線の某古書店で、末永雅雄著『池の文化』(創元社、1947)を入手した。「百花文庫」の21、本文206ページ、定価37円、古書価110円。
 考古学者・末永雅雄の名前は聞いたことがあったが、彼が「池」の研究家であることは、この本を読むまで知らなかった。また、末永雅雄が学者らしからぬ文章家であることも、この本を読むまで気づかなかった。
 紹介したいところは、いろいろあるが、本日および明日は、第二章「池の景観」の第一節「池と信仰」を、前後に二回に分けて紹介してみたい。

   第二章 池 の 景 観

       一 池 と 信 仰

 池にする信仰は、水に対する原始信仰を伝へるものと、池そのものは生産の源泉であると云ふ意味からの信仰と池の主の伝説や水への恐怖感から生れる俗信などがある。随つて内容的にも同じでなく地方的差違も多い。しかし地方的な差は地方の特色なり環境を示すことにもなる。或場合には池そのものゝ信仰と云ふより池を介して対象が求められ、それが地方での特色ある人物とか伝説中のあるものがとりあげられてゐる。例へば水に縁の深い龍王神の信仰は殆ど俗伝と結ばれる。池全体が信仰されるのは、原始生活において、天体、山嶽、巨石等が信仰されたと同様に雄大な巨石や山嶽に対する、池沼〈チショウ〉の引き込まれる様な静けさを湛へた凄い恐怖的な環境をもつ碧潭〈ヘキタン〉において信仰を深めるのであらうと思ふ。
 続紀〔続日本紀〕、後紀〔日本後紀〕などの記載によるとしばしば池水〈チスイ〉異変のことがあつて注意せられてゐる。これは平安朝の怪異思想の一端を表はすものとも思はれるが、皇極天皇二年〔643〕七月から九月へかけて河内〈カワチ〉の茨田池〈マンダノイケ〉の水が大に臭くまた異形の虫が現はれた。あるときは藍汁〈アイシル〉の如くに変じた。その為虫が死し虫の為に大小の魚が腐爛して喫へない〈クエナイ〉。九月になつてこんどは白色に変じ漸く臭気が去り、十月に至つて池水が清く澄んでもとに還つた〈カエッタ〉。また或は天応元年〔781〕七月河内の尺度池水血色に変ずることを記してゐる。これらは単に池水変化の記録をなしたに止まるとも見られ、池への信仰とは必ずしも直接の関係がないのかも知れないけれども物の鳴動、水の異変に対しては意味を考へようとしてゐたのではなからうか。
 しかしこれとは違つて阿蘇山頂の神霊池〈シンレイノイケ〉や吉野の奥の池峯池〈イケミネイケ〉の如きは古くより神聖視されまた信仰されてゐた。神霊池はまたの名を神の他とも云ひその池に対する信仰的表はれは、日本後紀〈ニホンコウキ〉あたりより以後かなり多く、恐らく池と信仰を考へるに最も具体的な例であると思ふ。日本後紀延暦〈エンリャク〉十五年〔796〕詔〈ミコトノリ〉して曰く〈ノタマワク〉近頃太宰府の申言〈モウシゴト〉によると、肥後国阿蘇の山上にある沼はその名を神霊池と云ひ、永い年代を経て来てゐるが未だ涸れた〈カレタ〉ことがなかつた。しかしこのたび二十余丈も減水したので卜はせて〈ウラナワセテ〉みると旱疫があると云ふ、とあつて池水異変はある災厄を予報するの徴證として扱はれてゐる。
 また続後紀〔続日本後紀〕承和〈ジョウワ〉七年〔840〕九月に阿蘇の建磐龍命〈タケイワタツノミコト〉の神霊池は未だかつて水の増減を見なかつたが、いま四十丈の減水をしたので、十二月使〈ツカイ〉を伊勢太神宮〈イセダイジングウ〉に遣はしてこの事を述べ国異として懼れ〈オソレ〉られたことがあり、三代実録貞観〈ジョウガン〉六年〔864〕十二月、神霊池に声あり、震動し、池水空中に沸騰し東西に飛び、その東に落ちたものは幕を布いた様で広さ十余町水の色が漿の如く、草木に粘着して数日とれなかつた。これを卜ふに水疫の災があるだらうと現はれたとされて、甚だその池水異変が畏れられたのであつた。【以下、次回】

 最後のところに、「水の色が漿の如く」とあるが、この「漿」は、意味・読みともに不明。あるいは、「鉄漿」(かね)のことか。

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大月康弘さんの『ヨーロッパ史』を読んだ

2024-04-25 02:22:58 | コラムと名言

◎大月康弘さんの『ヨーロッパ史』を読んだ

 大月康弘さんの『ヨーロッパ史』(岩波新書、2024年1月)を読んだ。久しぶりに、快い知的刺激を受けた。
 タイトルの『ヨーロッパ史』は漠然としているというか、本書の面白さを反映していない。
 本書は、ビザンツ帝国史を専門とする著者が書いた、ユニークにして興味深いヨーロッパ論である。読む前と読んだ後とでは、ヨーロッパのイメージが大きく変わる。
 読んでいて、驚くこと、学ばされることが多かった。西暦(Anno Domini)が誕生したのはユスティニアヌス帝の時代で、それ以前には世界歴(Anno Mundi)が使われていたという。ちなみに、西暦元年は、世界歴5509年に当たるという。
 地動説で知られるコペルニクスが初めて世に問うた書物は、シモカテス著・コペルニクス訳の『道徳風、田舎風、恋愛風書簡集』だった。これは、ビザンツ文化人のひとりシモカテスが中世ギリシア語で書いた『倫理書簡集』を、コペルニクスがラテン語に翻訳した本だという。
 コペルニクスがボローニャ大学でローマ法を修めたことは「よく知られている」とあった。寡聞にして私は知らなかった。彼が天文学に関心を持ったのは、「暦」の研究がキッカケだったとあったが、そのことも、この本を読むまでは知らなかった。
 収穫の多い一冊だったが、一点だけ、気になった箇所があった。221ページにある、「かの地〔ドイツ〕の領邦国家体制と、日本の幕藩体制は、諸国分立の点で確かに似通っていた」という一行である。
 幕末における「王政復古」運動は、郡県思想に支えられており、封建制度の撤廃を目指していた(浅井清『明治維新と郡県思想』)。実際に明治維新は、版籍奉還(1869)、廃藩置県(1871)という過程をたどっている。むしろここでは、中央集権化に成功した明治維新政権と、中央集権国家・フランスとのアナロジーが必要だったのではないか(谷川稔『国民国家とナショナリズム』)。
 本書の巻末には、人名・地名・事項という三種類の索引がついている。これは、専門書でもなかなか見られない行きとどいた配慮と言える。
 この本は、「あとがき」から読むとよいと思う。著者が本書で意図したところがよくわかる。「あとがき」のみは、ですます体で書かれているが、見倣いたい工夫である。「あとがき」の最後に謝辞があるが、その対象は、編集担当者と恩師の両名に絞られていた。潔いと思った。

今日の名言 2024・4・25

◎真実と虚偽は、ことばの属性であって、ものごとの属性ではない

 イギリスの哲学者ホッブズの言葉。このあと、「そして、ことばがないところには、真実も虚偽もない」と続く。『ヨーロッパ史』の226ページに引用されていた。このホッブズの言葉は、『リヴァイアサン』の中にあるという。

*このブログの人気記事 2024・4・25(8位の川内康範は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

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象徴天皇も国家たる法人の機関である(成宮嘉造)

2024-04-24 00:46:33 | コラムと名言

◎象徴天皇も国家たる法人の機関である(成宮嘉造)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その十一回目(最後)。
 本日、紹介するのは、「7.ポッダム宣言受諾と国体護持」の章のうちの「第4 幣原内閣の国体護持と日本国憲法」の節(全文)、および「第5 日本国憲法における国体の変更」の節(全文)、そして「8.結」の章(全文)である。

第4 幣原内閣の国体護持と日本国憲法
 20年〔1945〕10月9日,新内閣の首相となった幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉は,マッカーサーの前記「政治的宗教的政治的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」の具体化を断行した.それで,天皇機関説は国禁から解放され,議会制民主主義に立つ政党が蘇生した.更に,マッカーサーは,同月11日に改めて憲法改正を指示した.
 同内閣は,同月27日国務大臣・松本烝治博士を主任とする憲法改正調査会を設けた.
 天皇は21年〔1946〕元旦に「人間宣言」を以て自己の神権性を否定し,1月には美濃部〔達吉〕博士は枢密顧問官に任ぜられ,2月1日内閣は改憲案(松本案)を総司令部に提出した.
 この案は,浜口〔雄幸〕内閣以来懲りた統帥権の独立を退け,国務大臣輔弼を国務全部として統帥権の独立を撤除しているが⑴,極めて保守的であったので,マッカーサーは驚怒してこの松本案を拒否し,総司令部で憲法草案を約1週間で作成し,これを2月13日,日本政府に交手した.これが多少の修正を経て日本国憲法となった.

 (1)宮沢俊義「全訂日本国憲法」〔日本評論社、1978〕8頁・43頁.

第5 日本国憲法における国体の変更
 第90回帝国議会で,国務大臣・金森徳次郎は,国体の意義を多岐にとらえ⑴,「3千年以来,天皇をもって憧れの中心とする」という意味の「国体は変っていない」と答弁.この国体は伝統的国家道徳的心理的意識で,決して法上の国体でない.彼が法制局長官の時,国体の本義と説いた国体とは明らかに変っている.国体の変更を早くから主張したのは宮沢俊義教授であった⑵.

 (1)金森徳次郎「憲法遺言」〔学陽書房、1959〕22~7頁.
 (2)時事通信社「日本国憲法」35頁,宮沢俊義・前掲・47頁.

 8.結
 現行憲法上,「天皇とは,主権の存する日本国民の総意に基づく(1条2文),日本国及び日本国民統合の象徴であり(同上),且つ内閣の助言又は承認により国事に関する行為のみを機能とする(3条,4条1項),世襲による独任制(2条,典範1~4条)の国家機関である」概念づけ得る.
 この象徴天皇は,国民主権主義(前文,1条)により明冶憲法の元首天皇と異なり統治即ち国政一般に関与する機能なく(4条1項),加えるに戦争放棄(9条)により統帥大権はなく,明治憲法の如く世襲の独任制であるが,単に内閣の助言又は承認を要する国事行為のみを機能とする(3条・4条・6条・7条・96条2項)国家機関である.このように,象徴天皇も,国家たる法人の機関であるから,天皇機関説はここにもなお依然として妥当しているのである. 〔完〕

「第5 日本国憲法における国体の変更」の中に、「彼が法制局長官の時」とある。金森徳次郎は、岡田啓介内閣の法制局長官を務めていたが、過去の著作『帝国憲法要綱』(巌松堂書店、1921)が「天皇機関説的である」と批判され、途中で辞任している(任期は、1934年7月10日~1936年1月11日)。

*このブログの人気記事 2024・4・24(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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大蔵栄一の上海事務所で大詔を聴いた(成宮嘉造)

2024-04-23 02:28:10 | コラムと名言

◎大蔵栄一の上海事務所で大詔を聴いた(成宮嘉造)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その十回目。
 本日、紹介するのは、「7.ポッダム宣言受諾と国体護持」の章の「第2 ポッダム宣言受諾決定」の節(全文)、および「第3 東久邇宮内閣の総辞職と松本改憲案」の節(全文)である。
 文中、「ポッダム宣言」とあるのは、原文のまま。理由はわからないが、本論文では、一貫してこの表記が用いられている。

 7.ポッダム宣言受諾と国体護持
第1 ポッダム宣言受諾直前の容相 【略】
 
第2 ポッダム宣言受諾決定
 かかる容相なので,宮廷グループ,持に近衛文麿は,敗戦よりも左翼革命による皇位の廃絶を危惧し,反共国体護持の目的で,20年〔1945〕2月14日,終戦を奏上し,終戦を急いだ.
 天皇は熟慮の末,8月9日午前,御前会議―出席者は首・外・陸・海の4相に陸海両統帥部長―を開いたが,破局的最終段階にあるにも拘らず渋滞したので,会議を一旦打切った.
 その夜11時50分頃,御前会議再召集,前会議出席者に平沼〔騏一郎〕枢密院議長を勅許で加へて開会した.結局,「天皇の国法上の地位の変更に関する要求は右(ポッダム)宣言に包含せざるものとす」=国体護持を留保る条件で,ポッダム宣言受諾(東郷〔茂徳〕外相の甲案)に決定.この議事に於て,阿南〔惟幾〕陸相は反対,次に米内〔光政〕海相は同意,つづく平沼枢相は同意,次に陸海両統帥部長は反対,計,同意3,反対3.それで,議長決裁を避け鈴木首相は「前例もなく,畏れ多いきわみであるが,この際,陛下の御思召〈オンオボシメシ〉を伺い,それに基いて会議の決定をみたい」と提案し,全員の賛成を経て聖断を仰いだ.時,既に翌日〔8月10日〕午前2時30分.天皇は,「皆は,私のことを心配してくれているが,私はどうなってもかまはない」,「国民全体を救い,国家を維持するにはポッダム宣言を忍ばねばならぬ」と,この聖旨に国体護持を条件とし,ポッダム宣言受諾と,僅か7人の支配階級代表を経て決定された.
 この条件でポッダム宣言受諾を連合国に申出た.8月13日に申出承認の回答があったが,国体護持は無視された.それで,翌14日に御前会議が開かれ,国体護持なき限り1億玉砕が叫ばれたが,宣言受諾の確認を決定・通知し,15日に天皇の「終戦の大詔」がラジオで放送された.
 私は,この大詔を2.26事件で禁錮4年を受刑した大蔵栄一元大尉と彼の上海事務所で聴いた.彼は,「絶対反対だ」と今村均・中支派遣総司令官の所へ走った.

第3 東久邇宮内閣の総辞職と松本改憲案
 最後の戦時内閣の継ぎに,平和建設を使命とする東久邇宮〔稔彦王〕内閣が8月17日に成立.マッカーサー元帥は,10月14日,国務大臣・近衛文麿に憲法改正を慫慂し,同日内閣に「政治的宗教的政治的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発令した.その結果,天皇も自由な議論の対象と化し,治安維持法・治安警察法等の撤廃,内務大臣以下警察官約5,000名の罷免,共産党の合法化,政治犯や思想犯の即時釈放等を断行せねばならぬこととなり,首相の使命観に全く反するので,翌5日に内閣総辞職に踏切った.その使命観は,恐らくポッダム宣言の国民主権の実現をできるだけ押え国体護持に奉任するにあったのであろう.当時の新聞は「辞職の最大の原因は,天皇・皇室制度にたいする自由討議,自由制限の撤廃の指示であった」と(20,10,9毎日).

 この間、記事の掲載の順番に、不手際がありました。この三日間の記事は、第九回(昨日)→第八回(一昨日)→第十回(本日)の順に読んでいただければ幸いです。

*このブログの人気記事 2024・4・23(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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