礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)

2024-07-03 02:50:40 | コラムと名言

◎その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)

 本日も、井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)からの紹介。
 本日は、山田風太郎(やまだ・ふうたろう)の「戦中派不戦日記(抄)」を紹介する。これは、『戦中派不戦日記』のうち、「十五日(水)」、および「十六日(木)」とあるところである。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
  
  戦中派不戦日記(抄)  山田風太郎
  
 十五日(水) 炎天
 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス。

 十六日(木) 晴・夜大雨一過
 ○朝九時全員児島寮に参集。これより吾々のとるべき態度について議論す。
 滅ぶを知りつつなお戦いし彰義隊こそ日本人の真髄なり。断じて戦わんと叫ぶ者あり。
 聖断下る。天皇陛下の命に叛く能わず。忍苦また忍苦。学問して学問して、もういちどやって、今度こそ勝たん。むしろこれより永遠の戦いに入るなりと叫ぶ者あり。
 軽挙妄動せざらんことを約す。
 ○中華民国留学生数人あり。その態度嘲笑的なりと悲憤し、酒に酔いて日本刀まで持ち出せる男あり。Kのごとき、真剣にこれを考えて余に手伝えという。断る。せめて屍骸の始末を手伝えという。断る。悲憤の向けどころが狂っているなり。
 ○東久邇宮稔彦王〈ヒガシクニノミヤ・ナルヒコオウ〉殿下に大命下る。このあと始末には皇族のほかに人なからん。
 ○八月十五日のこと。
 その日も、きのうや一昨日や、またその前と同じように暑い、晴れた日であった。
 朝、起きるとともに安西が、きょう正午に政府から重大発表があると早朝のニュースがあったと教えてくれた。その刹那、「降伏?」という考えが僕の胸をひらめき過ぎた。しかしすぐに烈しく打ち消した。日本はこの通り静かだ。空さえあんなに美しくかがやいているではないか。
 だから丸山国民学校の教場で、広田教授の皮虜科の講義をきいている間に、
「休戦?
 降伏?
 宣戦布告?」
 と、三つの単語を並べた紙片がそっと回って来たときには躊躇なく「宣戦布告」の上に円印をつけた。きょうの重大発表は天皇自らなされるということをきいていたからである。
 これは大変なことだ。開闢〈カイビャク〉以来のことだ。そう思うと同時に、これはいよいよソ連に対する宣戦の大詔であると確信した。いまや米英との激闘惨烈を極める上に、新しく強大ソ連をも敵に迎えるのである。まさに表現を絶する国難であり、これより国民の耐ゆべき苦痛は今までに百倍するであろう。このときに当って陛下自ら国民に一層の努力を命じられるのは決して意外の珍事ではない。
【中略】
 十二時が近づいて来た。四人は暑いのを我慢して、制服の上衣をつけた。加藤などはゲートルさえ巻きはじめた。
 呉〔中華民国留学生〕は椅子に座って僕達をモジモジと見ていたが、急に風のように外へ出ていった。僕達のやることを見ていて、素知らぬ顔でランニングシャツのままでいるわけにはゆかないし、さればとて改めて空ぞらしい芝居をする気にはなれなかったものと思われる。僕は彼に同情を感じた。
 加藤の腕時計は十二時をちょっと回った。ラジオはまだ何も言わない。が、遠い家のそれはもう何かしゃべっている。……おじさんがあわててダィヤルをひねった。――たちまち一つの声が聞えた。四人はばねのごとく立ち上り直立不動の姿勢をとった。
「……その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。……」 真っ先に聞えたのはこの声である。
 その一瞬、僕は全身の毛穴がそそけ立った気がした。万事は休した!
 額〈ヒタイ〉が白み、唇から血がひいて、顔がチァノーゼ症状を呈したのが自分でも分った。
 ラジオから声は流れつづける。
「……然るに交戦已に〈スデニ〉四歳〈シサイ〉を閲し〈ケミシ〉朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘わらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また吾に利あらず。……」
 何という悲痛な声であろう。自分は生まれてからこれほど血と涙にむせぶような人間の声音というものを聞いたことがない。
「加うるに敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜〈ムコ〉を殺傷し、惨害の及ぶところ真に〈シンニ〉測るべからざるに至る。而もなお交戦を継続せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず延て〈ヒイテ〉人類の文明をも破却すべし。かくの如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し〈ホシ〉、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。……」
 のどがつまり、涙が眼に盛りあがって来た。腸がちぎれる思いであった。
「朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず、帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れ〈タオレ〉たるもの、及びその遺族に想〈オモイ〉を致せば五内〈ゴナイ〉ために裂く。……」
 魂はまさに寸断される。一生忘れ得ぬ声である。
「惟う〈オモウ〉に今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。爾臣民の衷情も朕よくこれを知る。然れども朕は時運の趨く〈オモムク〉ところ堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。……朕はここに国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚〈シンイ〉し、常に爾臣民と共に在り。……」
 十二月八日よりももっと熱烈な一瞬を自分は感じた。【以下、次回】

 山田風太郎(本名・山田誠也)は、当時、東京医学専門学校の学生。1945年6月に同校が飯田市に疎開したため、同地で敗戦を迎えた。
8月15日の日記は、「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」の一行のみ。
 翌16日になって山田は、「八月十五日のこと。」として、敗戦の日を振り返った。その際、新聞に掲載された「終戦の詔書」ほかを参照したもようである。
 なお、8月15日の新聞は、この日に限って、同日午後に配達されたが、すでにそこには、「終戦の詔書」が掲載されていたという。

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ラジオが正午重大発表があるという(高見順日記)

2024-07-02 01:25:09 | コラムと名言

◎ラジオが正午重大発表があるという(高見順日記)

 本日も、井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)からの紹介。
 本日は、高見順(たかみ・じゅん)の「高見順日記(抄)」を紹介する。これは、『高見順日記』のうち、「八月十五日」とあるところである。

  高見順日記(抄)    高 見 順

 八月十五日
 警報。
 情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。
かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
「何事だろう」
 明日、戦争終結について発表があるといったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を 賜わるのだろうか。
 それとも、――或はその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに……。 「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」
 と妻がいった。私もその気持だった。
 ドタン場になってお言葉を賜わる位なら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。
 佐藤正彰氏が来た。リアカーに本を積んで来た。鎌倉文庫へ出す本である。
 上って貰って話をした。点呼のあとで佐藤君は頭髮が延びかけだ。――敵が上陸してきたら、坊主刈は危い、そんな笑い話があったのが思い出される。点呼の話になって、
「海軍燃料廠から来た者はみんな殴られた。見ていて実にいやだった」
 と佐藤君がいう。海軍と陸軍の感情的対立だ。
「誰が一体殴るのかね」
「点呼に来ている下士官だ」
 私はその場にいなかったのだが、想像しただけで、胸に憤りがこみあげた。なんという野蛮! 
「外国でも、軍隊というのは、こう理不尽に殴るものなのかね」
「いや、殴るのは外国では禁止されているはずだ」
 日本では理不尽な暴行が兵隊を結局強くさせるといわれている。
「あれを見てからいよいよ、兵隊に入るのがいやになった」
 と佐藤君はいった。私は従軍で、軍隊の内部を知っているから、いやというよりむしろこわい。兵隊に取られるのがこわかった。
 十二時近くなった。ラジオの前に行った。中村さんが来た。大野家へ新田を呼びにやると向うで聞くという。
 十二時、時報。
 君ヶ代奏楽。
 詔書の御朗読。
 やはり戦争終結であった。
 君ヶ代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。
 ――遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
 夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。
 烈日〈レツジツ〉の下に敗戦を知らされた。
 蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
「さよなら」
 佐藤君は帰って行った。明日、奥さんの疎開先へ行くという。当分帰ってこないという。
「おい」
 新田が来た。
「よし。俺も出よう」
 仕度をした。
 駅は、いつもと少しも変らない。どこかのおかみさんが中学生に向って、
「お昼に何か大変な放送があるって話だったが、何だったの」
 と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて、小声で何かいった。
「え? え?」
 とおかみさんは大きな声で聞き返している。
 電車の中も平日と変らなかった。平日よりいくらか空いている。【以下、割愛】

 1945年(昭和20)8月15日は、いわゆる「八・一五事件」(宮城事件ともいう)のために、NHKラジオの放送開始が遅れた。放送は、午前7時21分に始まったとされるが、高見順は、この異変には気づかなかったようだ。
 正午の時報のあと、君が代奏楽、昭和天皇の詔書朗読、君が代奏楽、内閣告諭、経過の発表と続いたとあるが、ほぼ史実の通りである。

*このブログの人気記事 2024・7・2(8・9位に極めて珍しいものが入っています)

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大佛次郎「英霊に詫びる」1945・8・22

2024-07-01 01:07:52 | コラムと名言

◎大佛次郎「英霊に詫びる」1945・8・22

 先月、某古書店の均一台から、井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)という本を拾いあげた。この手の本は、これまで何種類も読んできたが、そうした諸書に比べて、セレクションが優れているという印象を受けた(惜しいことに、編集者の名前が記されていない)。 
 この本には、二十八人の作家による二十八の文章が収められているが、本日は、大佛次郎(おさらぎ・じろう)の「英霊に詫びる」という文章を紹介してみたい。

  英霊に詫びる      大 佛 次 郎

 御大詔を拝承した八月十五日の夜は、灯を消して床に就いてからも眠れなかった。闇に眼をあいていて夢のようなことを繰返し考えた。
 その闇には、私の身のまわりからも征いて護国の神となった数人の人たちの面影が拭い去りようもなく次から次へと泛んで〈ウカンデ〉来た。出版社の事務机から離れて行った友もいる。平穏な日に自分の行きつけた酒場で、よく麦酒を飲みかわし、愉快な話相手だった新聞記者の若い友人もあった。僕を見ると、目顔で笑って庖丁を取り註文はしないでいても私の好きな鯒【こち】に手際よく庖丁を入れてくれた横浜の「出井」の主人もいた。六大学リーグ戦の時だけ、スタンドで顔を合せ、仲善く喧嘩相手になって、シイズンが去るとともに別れて了う不思議な交際の人もいた。和歌に熱心な町のお医者さんもいた。その人たちとのお互いの心の交流が如何に貴重なものだったかという事実は、失って見てから切実に知ったことである。皆が静かな普通の町の人であった。その人々が前線に鉄と火の飛び交う境に立って後見せぬ兵士の、たくましい姿と成り了ったと云うことが、私【ひそ】かに焼かれるくらいの強引な変化であった。
 いつの日にかまた会う。人なつこげな笑顔が、今も目に見える。毒舌を闘わせながらも目もとは優しかった人々。この次会う時は真心からつかみたいと願っていた手の体温も、死者の冷やかさを覚えしめるのである。白い明け方の空に、一つずつ星が消え去って行くように、一人ずつ君たちは離れて行った。身のまわりに幾つかの空洞が出来、耐え難い寂寥の底からも、私どもは歯を喰いしばって勝つ為にと呻く〈ウメク〉のみであった。君たちは還らぬ。私の知っている君たちの他に、無限に地平に続く影の行進がある。その一人一人の父親がおり、妹や弟がいる。御大詔の発せられた日の午後、靖国神社の前で若い男女の学徒が一人ではなく人目も顧みず泣きむせび、立ちすくんでいるのを見たと友達が来て話してくれた時、言葉もなく私も涙を呑んだことであった。
 切ない日が来た。また、これが今日に明日を重ねて次から次と訪れて来ようとしている。生き残る私どもの胸を太く貫いている苦悩は、君たちを無駄に死なせたかという一事に尽きる。これは慰められぬことだ。断じて、ただの感傷ではない。はけ口のない強い怒りだ。縫いようもなく傷をひらいたまま、私どもは昨日の敵の上陸を待っている。冷静にせねばならぬ、我々自身が死者のように無感動にせねばならぬ。しかも、なお、その時、君らの影を感ぜずにはいられようか?
 古い外国の画報で、私は一枚の写真を見たことがある。世界大戦〔第一次世界大戦〕の休戦記念日に、戦死者の木の十字架が無限の畑のように立っている戦跡に立ち、休戦が成立した深夜の時間に、昔の戦友のラッパ手がラッパを吹奏して、死者に撃ち方止めを告げている写真であった。地下に横たわってからも敵に向って銃をつかんで睡らずにいる戦友に、莞爾として銃をおろさせ安らかな睡り〈ネムリ〉につかせる為であった。私は思う。その時の仏蘭西〈フランス〉は勝って停戦したのである。それに引代えて私たちは、君たちの御霊〈ミタマ〉を鎮める為に何を支度せねばならぬかと。
 畏【かしこ】くも御大詔は、その道を明かに示し給うた。私どもの前途の闇に、荒涼としたものながら、一条の白い路が走り、地平に曙の光さえ見える。傷ついた日本を焼土から立ち上らせ、新生の清清【すがすが】しいものとして復活させる。過去の垢をふるい落して、新しい日本を築き上げる。その暁こそ私どもは君たちの御霊に、鎮魂曲を捧げ得るのではないか? 君たちの潔よい死によって、皇国は残った。これを屈辱を越えて再建した時、君たちは始めて笑って目をつぶってくれるのではないか。三千年来日本の歴史は決してすらすらと平坦な道を進んで来たのではない、幾多の断層があって飛躍を必要とした。西洋流の計算や合理主義では解決出来ぬものを、私共の祖先は自分たちでさえ説明の出来ぬ方法で、苦しみながらも無雑作に乗越え、健実な後代を我々に遺してくれた。明治の門を開いた維新の世直しもそれであった。政治の技術は下手糞で、余計な犠牲を出しながらも、向う道は誤らずに日本の大を成したのが不思議なくらいである。恵まれた国といわざるを得ない。それにしても累代の国民の刻苦と労働の果実が国を支えて来たのだ。毀すのではなく作り生む努力が――
 歴史は未曽有の大断層に逢着し聖断が下された。目をつぶって、我々は昨日から飛躍する。君たちが遺して逝った神州不滅の愛国の信念を、日本の再建に連結する。昨日まではなかった希望は焦土にも生れつつある。日本人は未曽有の試煉にも耐え、屈辱と見えるものも雄々しく乗越える。敵がまだ昨日の心持でいる間に先へ出て明日を生きて見せるのだ。待っていて欲しい。目前のことは影として、明日を生きよう。明日の君たちの笑顔とともに生きよう。その限り、君たちは生きて我らと共に在る。この大道を行く限り、死も我々の間を引裂き得ない。私はそう思い、そう念じる。 (「朝日新聞」昭和二〇・八・二一)

*このブログの人気記事 2024・7・1(8位になぜか斎藤謙三)

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読んでいただきたかったコラム10(2024年前半)

2024-06-30 01:06:25 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム10(2024年前半)
 
 二〇二四年も、その前半を終えようとしている。
 恒例により、二〇二四年前半(一月~六月)に書いたコラムのうち、読んでいただきたかったコラムを、一〇本、挙げてみたい。おおむね、読んでいただきたい順番に並んでいる。

1) 民間人逮捕の件で極秘の申合せをおこなう  2月26日
  
2) 出征して行った学生諸君にすまない(河村又介) 3月18日

3) 北・西田を反乱首魁と認めるに足る証拠なし  3月7日

4) 「軍民離間」は昭和初期の国家主義運動を捉えるキーワード 6月25日

5) 天皇は国家の元首云々は即ち機関なり(昭和天皇) 4月17日

6) 伴淳、定時制生徒として戦争体験を語る  4月1日 
           
7) 天皇機関説事件と成宮嘉造   4月13日

8) 金浦飛行場の草原で兌換箱を見張る   3月4日

9) 松本市の将棋月報社と雑誌『将棋月報』   1月14日

10) 大野晋さんは思ったことを率直に言う人だった  1月4日
   
次 点 東京憲兵司令官が宇垣一成の車を止めた  2月16日

*このブログの人気記事 2024・6・30(美濃部達吉・阿南惟幾・細江逸記は、いずれも久しぶり)

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北一輝が真崎内閣を待望したのはなぜか

2024-06-29 02:05:02 | コラムと名言

◎北一輝が真崎内閣を待望したのはなぜか

 木下半治『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 文中の傍点は、下線で代用した。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 次いで北は、野中〔四郎〕にも電話で栗原〔安秀〕に対すると「同一の言葉」もって真崎推戴をすすめた。これに対して青年将校は「真崎を立てて一任すると云う事に漸く意見が纏ま」り、その日すなわち二十七日の午後、村中の口から電話で北にこう返事をさせている。――「先程軍事参議官は全部見えませんでしたが、西・真崎・阿部の三大将が見えましたので、吾々一同の一致した意見として、この際真崎大将の出馬を煩して真崎閣下に総べて一任したいと思います。どうぞ軍事参議官閣下も御意見の一致を以て真崎閣下に時局収拾を御一任せらるる様お願い致します。何うそ御決定の上は直ちに、陛下に奉上してその実現を期する様にお願い申します。と申した処、西〔義一〕大将・阿部〔信行〕大将は即時夫れ〈ソレ〉は結構な事だ、君等がそう話が判って自分等に一任して呉れるならば誠に結構な事である。早速帰って皆とも相談して返事を仕様と云う事でありました。そして少し不平の様な語気を以て、真崎閣下は兎に角、君等は兵を引く事が先だと言いました」(北、同上)。この時、真崎は渋い顔をしている。面と向かって真崎推戴をいわれたのでは、にやにやするわけにもいかなかったのであろう。
 真崎推戴に対する軍事参議官の返事は、北の期待にかかわらず、なかった。そして真崎内閣説はふっ飛んだのであったが、このように北が真崎内閣を待望したのはなぜか。――「私は……唯陸軍が上下一致して真崎を奏請する様な事になるであろう事を信じ、青年将校の身の上も夫〈ソレ〉に依って有利に庇護される事(傍点――引用者)を期待して居りました。従って色々の風評の如く、陸軍同志が相撃の様な不祥事も起らない事を信じて比較的心痛なく、午後迄只返事を待って居ました」「要するに、二十八日中は真崎内閣に軍事参議官も意見一致するものと信じ、海軍側の助言も亦有効に結果するものと信じ、随って一任すると云った以上は、出動部隊も兵を引いて、時局が危険状態より免ぬがるるものと許り確信致して時局を経過して居りました」(「聴取書」、第二回)。すなわち北は、真崎ならば青年将校の傀儡となり得るものと確信していたのである。――「……私が直接青年将校に電話をして、真崎に一任せよと云う事を勧告しましたのも、只時局の拡大を防止したいと云う意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で、真崎内閣ならば青年将校をムザムザと犠牲にする様な事もあるまい(傍点――引用者)と考えたからであります。此点は山口・亀川・西田等が真崎内閣説を考えたと云うのと、動機も目的も全然違って居ると存じます」(「聴取書」、第五回、最終回)。
 その西田は、――前述したように――真崎かつぎ出しについて、事件直前に大尉山口〔一太郎〕・亀川哲也等と打ち合わせたことについていう。――「……寄々〈ヨリヨリ〉話し合った結果、結局一日以上も惹起した車態を放任されてはいけない。若い人達の志を生かす様にせねばならぬ。又其為に苦い人達が皆尊敬して居り、且つ相当な判断力・実行力ありと思われる真崎大将・柳川中将の様な人達に依って、何とか収拾して頂ける様に骨を折ろうと云う様な事になったのであります。其結果、山口大尉が公私の関係(山口は本庄繁大将の婿〈ムコ〉である――引用者)を辿って〈タドッテ〉軍の上部に対して努力する。亀川哲也は、真崎大将と、山本英輔〔海軍大将〕とかの方面に努力する。私は小笠原閣下その他の方面に努力をする。と云う事に決めたのであります」と(西田、「聴取書」、第三回)。西田は、前述のように、真崎内閣説を北に報告したが、事件勃発後(二十七日)、青年将校が柳川説を持ち出したことに北が反対したので、栗原に電話し、栗原が「軍事参議官全部と会って希望(柳川内閣説その他――引用者)を出したが、どうも上の方の人人の話が良く分らない」といったのに対し、西田は「事態を速く収拾する為に真崎大将辺りに上下共に万事を一任する様に皆で相談されたら、何うか」といった。すると、栗原は「よく考えて見る」と返事した。次いで、西田は村中を呼び出して、「……前申した真崎大将辺り〈アタリ〉に一任して速く事態を収拾したら何うかと云う事を話しました」。すると、村中は「軍隊側の方の将校の意見は非常に強硬で、なかなか仲間で纏らない」といい、また「上の方との話は皆で相談します」と返事している。西田等の説得を受けた栗原等は、真崎内閣に一致し、翌二十八日、栗原が西田に電話で報告したところによれば、栗原は華族族会館に兵を率いていき、真崎内閣説を唱えたことを述べている。――「自分(栗原)が行ったら、華族の人達が二十人位居ったので、乱暴はしないと云う事を良く云って聞かし、自分達が今度の事件を起した趣旨を説明して聞かし、質問はないかと云ったら、或人が、内閣の首班は誰が良いのか、と聞いたので、吾々は大権の私議はしない、只この事態を真崎大将辺りに収拾して頂き度いと思って居る、と云う風に答えて置いた」。また、この時、栗原は、前述した三軍事参議官との会見の模様を述べて、次のようにいっている。――「軍事参議官の人達と会いました。夫れは全部ではなく、真崎大将・阿部大将・西大将だけが来てくれましたので、自分達としてはこの際事態の収拾を真崎大将に一任しますと申上げましたが、真崎大将は『俺は何共云えないが(傍点――引用者)、お前達は兎に角引揚げて呉れないか』と云う話であった」(西田、「聴取書」、第二回)。
 二・二六事件における北・西田・真崎の関係は右のとおりである。〈409~412ページ〉

「六 北・西田・真崎」の項は、ここまで。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・6・29(8位になぜか瀬島龍三、10位になぜか石川三四郎)

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